ネット社会における「言葉」の意味を考える

 「言葉」というものは実に厄介で不思議な代物だ。言葉は人を活かすこともできれば、人を傷付けることもできる。言葉は人を生かす薬にもなれば、人を苦しめる毒にも変化する。優しい言葉は人の心に癒しを与え、厳しい言葉は人の心を破壊する凶器とも成り得る。

 この期間、内省的に考えているとそんなことを考える機会に恵まれました。今回の出来事(ブログの炎上)によって、私は自分も含めて、「言葉の危険性」というものを考えざるを得なくなってしまったとも言えるでしょうか。誤解を恐れずに言わせていただくと、誤解を招いてしまった記事にしても、変な煽りを行ってしまったことで禍いを呼び込み、大火傷を負ってしまったとも言えます。そういう意味では、自分が発した言葉自体にも問題があったのかもしれないなと思えるようになりました。

 ブロゴスさんに記事を掲載していただくようになってからは、自分の書いた記事が多くの人の目に触れる機会が多くなったので、それ以前よりも言葉は慎重に選ぶようにしていたつもりでしたが、いつの間にかその慎重さのタガが弛んでしまっていたのかもしれません。

 「言論の自由」という言葉がありますが、その言葉に付随する形で「自由には責任が伴う」という戒めの言葉もあります。その言葉の通り、私は自らの間違いはお詫びした上で、なぜそうなったのかということを、言葉は汚いながらも詳細に説明し、自分なりに説明責任を果たしたつもりでいます。
 確かに私のしたことは、当事者でない他人から見れば、常識外れで格好の悪いことであったのかもしれませんが、少なくとも個人的には、人間として恥ずかしいと思うことをした覚えはありません。正直に事実(間違ったことは書いたが嘘は付いていないこと)を赤裸々に書いただけです。
 これで、もし記事を削除し逃げるような卑怯な真似事をしていたら、それこそ一生後悔することになっていたでしょう。たとえ気が狂ったと思われようが、恥知らずだと言われようが、自分にだけは嘘は付きたくなかったというのが正直なところです。冷静になって振り返ってみると、まあ、頑固で損な性分です。

 痴漢の冤罪者が、疑いと言う名の狂気の闇の中で、自らの潔白を証明するがために必死にもがき苦しみながらも奮闘する姿は、その心の痛みが解らない他人から見れば、まさに「狂気」にも映るでしょう。しかし、罪を犯したつもりのない人間にとっては、己の潔白を証明するためには、そんな体裁のことまで構っている余裕などないということが、全くレベルは違うとはいえ、今回の出来事でよく理解できました。これは実際に体験してみないと解らないことだと思います。

 今回の騒動で、こんな言葉がよく聞かれました。

 「PV稼ぎだ」「炎上マーケティングだ」「釣り記事だ

 私も冗談は解るタイプの人間ですが、流石にこれは悪い冗談でした。
 今回の騒動で数万人の方が当ブログを訪れましたが、単純なPVによる課金は0です(現状、PVのみで課金されるシステムにはなっていません)。PVで稼いでいるのは、今回のような騒動を面白おかしく紹介しているようなサイトの方です。
 一部、商才の有るブロガーはPVでも稼いでおられますが、私の場合、別にお金儲けが目的でブログを書いているわけでもありません(アフィリエイト収入があったとしてもせいぜいお小遣い程度です)ので、PVが増えることは、読者が増えるという喜びや達成感には成り得ても、お金儲けとしての喜びには繋がっていません。それに今回のような場合、PVは少ない方が有り難いわけで、PVが増えて喜んでいるようなら本当の変人になってしまいます。

 しかし、考えてみると、単に趣味の範囲で書いているブログ記事に間違い(勘違い)があったというだけで、これだけの、集団いじめにも似たバッシングが起こったというのは驚きであり、物凄くリスクの高いことを行っているのだなということを痛感しました。
 「素直に謝っていればそうはならなかった」と言う人がいるかもしれませんが、謝ろうが謝るまいが、炎上していたことに変わりはないでしょう。もう1度、繰り返し言っておきますが、私は間違いを認めていないのではなく、間違いは認めつつも、それには理由があったと言っているのです。
 「言論の自由」と言えば聞こえは良いですが、ミスをした人間が悪いとはいえ、人の心を傷付ける言葉を書こうが、侮辱しようがお構い無し、書きたい放題、書き捨て放題の責任を伴わない自由が罷り通っている世の中に、今さら乍ら、ある種の危険性を感じずにはいられませんでした。

 そうは言っても、ブログが炎上した原因は、記事を書いている私に責任がありますので、仕事で言うところの「クレーム」は無視できません。反論として返ってきたコメントは、どんなに厳しい言葉が書かれていようとも目を通す責任があります。しかし、この作業は仕事のクレームが可愛く思えるほど激烈なストレスが伴うものでした。

 かつて、ブログの炎上が原因で自殺された人がいましたが、反論する術を持たない気の弱い女性であれば、自殺まで追い込まれても不思議ではないと思えるほど、バッシングの嵐というものは強烈なものでした。そんな中、本音で反論や弁解を書く自分メディア(=ブログ)があることは、ネット社会の救いだったとも言えるでしょうか。

 初めに言葉のことについて書きましたが、返ってくる大部分の批判や中傷は私にとっては(誰でもそうかもしれませんが)1つ1つが鋭利な凶器のようなものに感じられ、ちょうど尖った小さな弓矢が四方八方から飛んでくるようなイメージでした。読む度にその矢が心に突き刺さり、心が傷だらけになっていくのが感じられました。
 そんな戦場にも似た空気の中で前回の記事を書いていましたので、その言葉に影響されたのか、私自身の言葉も棘のあるものになってしまったかもしれません。恰も植物が外敵から身を守るために自らの体の中にカフェインという神経毒を作り出すかのように、ストレスに押しつぶされるのを防ぐために、私の中にも毒が生まれ、その毒が言葉に現れてしまったとも言えるかもしれません。もし、前回の記事を読んで、逆に心が傷付いた人がいたのであれば、この場を借りて謝罪しておきます。

 それでも、ご理解いただけた人がいたことは救いでした。見えていないコメント欄でも応援してくれる人がいて救われました。決して大袈裟な表現ではなく、失望の暗闇の中で一筋の光明を見た気がしました。どこのどなたかは存じませんが、深く感謝申し上げます。

 ともあれ、今回の一件では、私自身も相当、頭を打ち学ぶところがありました。しかしながら、空気の読めない人間だと思われるのも、これ以上騒ぎが大きくなるのも望むところではありませんので、ブログの更新は当分の間、自粛させていただきたいと思っています。

 1つのブログ記事から、このようなドラマを演じさせられることになるとは夢にも思っていませんでしたが、今回の事件が、ネット社会における言葉の意味を考える機会を僅かでも提供することができたのであれば幸いです。ブログメディアの健全な発展を願います。

 いつかまた、気兼ねなくブログが書ける日が来ればいいなと思っています。そういう日が来ることを信じて、日々、努力精進しようと考えています。
 それでは、またお会いできる日まで。失礼いたします。

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誤解を解く難解さ【あるブロガーが嵌まった罠】

■「寝耳に水」だった「ブログの炎上」

 私もブログを書き始めてから今年で早9年目に突入するが、ここにきて自分でも全く予期していなかった難題に直面してしまった。所謂、「ブログの炎上」というものだ。
 これは試金石として私に用意された出来事なのか、単なる偶然のイタズラなのかは分からないが、現在、ブログを書いている人や今後、ブログを書こうと思っている人に何かしらの参考(反面教師)にでもなればという気持ちと、個人的な誤解を解くために、1つの体験談記事を書いておこうと思う。

 前回の記事に、私が誤解を招くことを書いてしまったことで、数多くの批判(中傷の方が多いかも)を頂いた。この事態は私が誤解されるようなことを書いたことにも責任があるので、仕方がないかと思っていたが、誤解を解くために書いた【補足】も全く理解されないまま、このまま放置しておくのは、私だけでなく、当ブログを閲覧していただいている方にも失礼にあたるのではないかという理由から、もう1度、事細かに今回の記事を書いた経緯から具体的に説明することにした。

 私もブログを書く以前は某掲示板で少しだけ論戦紛いのようなことを行っていた時期があるので、罵詈雑言のような批判的なコメントにもある程度の耐性が付いたつもりだったが、さすがに一方的に批判されるだけでは精神衛生上よろしくない。
 私は他人からの文章には敏感な方で、相手の文章から底意が伝わってくるタイプなので、単に他人を貶めることだけが目的のようなコメントを読むと気分が悪くなる。これは文章を書いている人なら解っていただけると思うが、そうでない人であっても決して気分の良いものではないだろう。
 ブロゴスに記載された記事に対して批判を書いておきながら、御丁寧に当ブログにも同じような批判を書き残している人もいるようだ。

■誤解が発生した経緯と弁明

 前置きはこの辺にして本題に入ろう。

 まず、前回の記事はその日の朝、通勤途中の車の中で観たテレビ番組が事の始まりだった。毎度、ニュースを観て抱く違和感を同じように感じたので、帰宅後にブログ記事を書こうと思った。
 夕方、車で帰宅中、大体の内容を考え、夕食後、お風呂に入った後、コンピューターの前に向かい、記事を書き始めた。事件の違和感について書き進めてみると、思っていた以上に短い文章で書き終わってしまった。私はいつもキャプションを3つ程度付けれる文章量に収めるようにしているが、今回の記事の場合、キャプションは1個になるので少し短か過ぎるかなと思い、もう少し考えてみると、ふと宝くじのことが頭に浮かんだ。殺人事件についての記事だけでは流石に「不謹慎だ」と言われそうなので、宝くじなら重たいイメージも緩和されるのではないかという思いで書くことにした。

 ある特定の場所で殺人事件が起こったことと、ある特定の宝くじ売場で宝くじが当たることをオーバーラップさせることで、より納得してもらえるのではないかと考えた。
 ここでまず、大前提を書いておくと、私がここで考えた確率というのは、一般的な(批判者が念仏のように批判している)宝くじの当選確率とは違う。

 宝くじで考えるとガチガチの先入観が邪魔をして理解しにくいと思うので、例えを殺人事件に戻して説明させていただこうと思う。その際、紀の川市を例にすると、また違う意味での批判があるかもしれないので、秋葉原の通り魔事件を例にしようと思う。

 例えば、何年か前に秋葉原で殺人事件が発生した。この事件については以前にもブログ記事で述べたことがあるが、あの事件の際も、犯人が現行犯逮捕された後も、事件現場周辺は封鎖され、事件後も警備が行われ物々しい雰囲気が報道されていたことは記憶に新しい。

 あの事件の直後、街中でこう質問されたとしよう。

 「あなたは次回、通り魔事件が発生するのは秋葉原だと思いますか?」

 (一応、念のため注記しておくと、ここで述べている確率には一切の諸条件は考えないものとするので、細かい指摘は御遠慮ください。)

 これで「はい」と答える人がいるだろうか? おそらく皆無に近いだろう。

 しかし、確率的には、東京の秋葉原で起こる確率も、大阪の日本橋で起こる確率も同じだ。
 だから、「次回の殺人事件が起こる確率はどこでも一緒なんですよ」というのが批判者の理屈だ。

 これは確かに正しいし、私も否定していない。しかし、何度も言うように、私が言っている確率はそういうものではない。

 私は宝くじを起点にして確率論を考えたのではなく、殺人事件を起点にして確率論を考えた。
人口など様々な複雑な数値は全く無視し、全ての都市が全く同じ条件として考えれば、秋葉原:日本橋なら確率は同じ。東京:大阪でも同じ、名古屋:福岡でも同じ。こんなことは誰が考えても解ることであり、わざわざ御大層に「1度当選が出たとしても次回の当選が出る確率はどこも同じなんですよ」などと指摘してくれなくても解っている。

 私はそういう「1:1」の確率を述べたのではなく、「1:多数」の確率を述べた。そんな確率は一般的な宝くじの確率論とは懸け離れており、ナンセンスだと言われればそれまでだが、私の頭の中で考えた確率というのは以下のようなものだった。

 「今回の事件が起こった都市」と「今回の事件が起こった都市以外の全国全ての都市」の比較においての確率。(注意:また曲解する人がいると思うので、予めお断りしておくと、「全国全ての都市」というのは個々の都市のことではなく、全てを含めるという意味)
 これは確率論と言うよりも、確率など考えるまでもなく答えが決まっている確率論だ。大体、確率論の専門家でもない私がブロゴスに掲載されるかもしれない記事で、諸条件によっては永遠に答えが出ないような難解な確率論など書くわけがないし、誰も読んでくれないような難解な記事を書いても意味がない。

 「あなたは次回、通り魔事件が発生するのは秋葉原以外だと思いますか?」

 これなら、誰もが「はい」だろう。
 私が言っているのは、こういうシンプルで当たり前の確率のことであり、確率の専門家やマニアのような人が考えているような複雑なことではない。

 先の質問からも分かる通り、秋葉原で通り魔事件が起こった次にまた秋葉原で通り魔事件が起こるとは普通は考えない。誰もが他に無数にある都市のどこか(←ここが重要)で起こると考える。一般的な宝くじの確率論というのは、どことどことで比較すればどうなるというものだと思うが、私が考えていたのは、「絶対的多数の都市」と「ある1つの都市」という比較においての単純な確率論なので、一般的な宝くじの確率論を持ち込まれてもお門違いであり困ってしまう。

 ただ、私の方も今回はあまり時間がなく慌てて書いたので、碌に推敲をしなかったせいもあり、ここで大きな見落としをしてしまった。(推敲したからといって気付くという保証はないが)
 「全国の都市」と「1つの都市」では、絶対的な差があり、1つの都市で同じ事件が続けて起こる確率は限りなく0に近いと考えた。そういう認識から、「1等当選が出た宝くじ売り場は閑古鳥が鳴いて然るべき」とか「最も当たらない宝くじ売場」とか「1等当選宝くじが出た場所で、再び1等当選が出る確率は最も低い」とあっさりと書いてしまった。これが誤解を生んだ決定的な原因…と言うよりミスだった。だからそのこと(全体と個の誤認)については素直に【補足】でお詫びした。

 前日の話に戻そう。宝くじの話を書いた後、3つ目のキャプション記事を書こうかとも考えたが、それを書いていると日付が変わってしまうと思い、その時点で記事をアップした。

 次の日、午前中にブロゴスに記事を取り上げていただき、午後から少し確認してみると、「宝くじの確率が間違っている」というコメントが目に付いた。私は「殺人事件のことを記事にするのは不謹慎だ」というような反論があることは事前に予想していたが、まさか宝くじについての批判があるとは想定していなかったので面喰らった。その後、自分の書いた記事をもう1度読んでみると、「確かにこれは誤解されても仕方がないな…」と思い、帰宅後、補足記事を追記した。

 しかし、この補足記事は言葉足らずだったせいもあるのか読んで事情を理解してくれる人は皆無で、さらに火に油を注ぐ結果となり、全く意図していなかった展開となってしまった。私はこの時、誰に事情を説明しても理解してもらえないという意味で、痴漢の冤罪者か、はたまた魔女狩りにでも遭遇したかのような錯覚を覚え、ゾッとした。それが嘘偽りのない正直な感想だった。冤罪というものは“誤解”というものを介しても起こり得るものだということが実体験として理解できた。

 補足記事をアップした後のコメントを見ていても、判で押したような型通りの誹謗中傷コメントや、自分の専門知識や頭の良さ(?)をひけらかしたいだけではないか?と疑いたくなるような専門的な確率論のオンパレード、これには流石に閉口してしまった。

 しかしこのまま誤解されたまま黙っていると、私は本当にただの嘘つきだと思われたままになってしまう。これは考えると物凄いストレスだ。ここは、なんとしても明文化して納得してもらわないことには自分としても納得がいかない。そういう気持ちで本記事を書いた。

 これだけ具体的に書いても理解してもらえないようならお手上げだが、少なからず理解してくれる人がいることを祈りたい。

 最後に、今回の当ブログの炎上で気を遣っていただいたほんの少しの人々に御礼申し上げるとともに、一言だけ付け加えておきます。

 「皆様、いろいろとお騒がせしました。」

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