BOOK『大マスコミ 疑惑の報道』を読んで。

2012020401 NHKは2月2日、アナログ放送終了に端を発する解約者数が154000件に達し、その理由により30億円の減収になると発表した。
 
 NHKの受信料収入は年間6500億円と言われているので、30億円ということは、約0.46%(217世帯に1件)の世帯が解約した計算になる。
 デジタル放送移行を機に、テレビを観なくなった世帯が少しだけ増えたということなのだろうが、0.5%程度の減収であれば想定の範囲内であり、NHKの経営自体には大した影響もないのではないかと思う。平均年収1700万円とも言われるNHK従業員の年収を1690万円にすれば済むだけの話である。

 ところで最近、NHKのことが詳しく書かれた『大マスコミ 疑惑の報道』(三橋貴明著)という本を読み終えた。
 以前にも三橋氏の『マスゴミ崩壊』という本の感想をブログ記事として書いたことがあるが、本書はその続編に当たり、インタビュー形式でのマスコミの内情暴露本という趣きの本だった。

 ちなみに、三橋貴明氏の本を読んだのはこれが2冊目となる。三橋氏は経済関係の書籍も矢継ぎ早に出版されているが、それらは立ち読み程度でほとんど読んでいない。
 経済関係の本というのは、どうしても著者と意見が合わない部分が出てくるので、余程の興味を引かない限り、なかなか“購入”という行為にまでは結び付かない。しかし、マスコミ論となると話は別で、前作『マスゴミ崩壊』と同様、本書も非常に興味深く読むことができた。ここまでマスコミの実態に踏み込んだ本はかつて無かったのではないかと思うほどに赤裸々に内情が暴露されており、これぞジャーナリズムと言える内容の本だった。
 こういった本を読むと、テレビと新聞でしか情報を入手していない人々が如何に真実の情報から隔離遮断されているかがよく解る。

 デジタル放送でテレビを観る場合、「B-CASカード」と呼ばれるカードをテレビの背面(または側面)に挿入しなければならないことは周知の通りだが、この本にも、「B-CASカード」を利用することによって技術的にはスクランブルをかけることが可能であるらしいことが書かれていた。つまり、視聴者はNHK放送を受信するか否かという選択が既にできる環境が整っているということになるわけだが、NHK側が、なぜそんな危険な橋(?)を渡るような選択をする羽目になったのかということも、それとなく触れられていた。

 個人的には是非、NHKにはスクランブル化を導入してもらいたいと思う。私のようにテレビをあまり観ないタイプの人間は、せめて観た分だけ支払う従量制にでもしてもらわないと全く割が合わない。
 そもそも、「公共放送」と言うからには、本来は無料でなければおかしいわけで、有料にするなら民営化するべきだし、あくまでも公共放送にこだわるというのなら国営にするのが筋だと思う。
 しかし、(この本にも書かれていたが)「国営にすれば公共放送にはならない」。これは確かにその通りだ。しかし、そうであるならば、NHKは権力に阿(おもね)ることなく、国民目線で権力というものを監視する放送局に徹する必要がある。

 日本のマスコミというものは、国家権力の監視機関であるというマスコミ本来の姿から大きく乖離し、権力と阿るだけでは飽き足らず、自らが権力そのものになってしまっているということはよく知られている。
 中でもNHKは管轄省庁である総務省からも実質的には半分独立したような組織であるらしく、公共放送にあるまじき権力機関に成り上がって(下がって?)いるとも言える。
 NHKと検察がタッグを組めば、それに逆らえる政治家は誰もいない。その権力が良い方向(国家権力を監視する方向)に行使されれば良いのだが、悪い方向(国家権力を操る方向)に行使されると北朝鮮も真っ青な独裁国家になってしまう危険性が有る。

 以前に読んだ長谷川幸洋氏の『日本国の正体』という本のサブタイトルにこういう文言があった。
 
 「政治家・官僚・メディア−本当の権力者は誰か
 
 本書『大マスコミ 疑惑の報道』を読んで、その答えが朧げながらに見えた気がした。
 “政治家と癒着し、マスメディアの頂点に君臨する、日本最大の官僚組織”、それがNHKの正体だとすれば、この国の最大の権力者とは実はNHKのことなのかもしれない。
 
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朝生『橋下 徹の学べるニュース』を観て。

 録画していた『朝まで生テレビ』を観てみた。
 今回は橋下 徹大阪市長と反橋下派が「大阪都構想」について議論するということで楽しみにしていたのだが、実際に観てみると、「大阪都構想」の話は橋下氏が少し説明しただけで、実質は、単なる「橋下主義(ハシズム)の是非」というような感じの内容だった。
 『橋下主義(ハシズム)を許すな!』という本を共著している2名(香山リカ氏、 薬師院仁志氏)が出演していたことからも、大体の予想はしていたが、どこか大阪市長選前の録画番組を観ているような錯覚を覚えた。
 
 反橋下派は、既に大阪市民の投票によって大阪市長になっている橋下氏の改革に対して疑問を呈するのみで、その先にある肝心の「大阪都構想」の内容については全くと言っていいほど触れていなかった。
 そういった論客達に噛んで含めるような丁寧な説明を行っている橋下氏の姿を観ていると、まるで、『池上 彰の学べるニュース』を観ているようだった。ただ、『橋下 徹の学べるニュース』では、生徒が素直に人の話を聞こうとせず、極めて反抗的だったという違いがある。
 
 橋下氏がこの番組で述べていたことは至って正論で、その言葉は自信に満ちていたが、反橋下派の言葉は空虚この上なく、ただの感情論や揚げ足取りに終始していた。政治家に対する言葉狩りを得意とするマスコミとほとんど大差が無いように感じられたのは私だけではないだろう。
 
 例えば、帝塚山学院大学教授の薬師院仁志氏は、まるで自分が「大阪市民の代表」にでもなったかのような口ぶり(実際にそう言っていた)だった。しかし、大多数の大阪市民は既に橋下氏の改革に賛成を示しているわけだから、「大阪市民の代表」というのは間違いであり、実質的には「反橋下派の代表」でしかないことが理解できていないようだった。氏は「大阪市が破壊される」というようなことを何度も口にしていたが、大阪市の何が破壊されるのかについては言及しておらず、そのことを突っ込まれると、「議論のすり替えだ」と言う。本質的な議論を反らし、議論のすり替えを行っているのが自分自身であることが全く見えていないようだった。

 そもそも「大阪市が破壊される」ことがイケナイことなのだろうか? むしろ、多くの大阪市民は「現在の大阪市を破壊して欲しい」と願って、橋下氏を大阪市長に選んだのではなかったのだろうか? 
 「自民党をぶっ壊す!」と言って当選した小泉元総理と同じように、橋下氏が「大阪市をぶっ壊す!」と言ったとしても、おそらく橋下氏が大阪市長に選ばれていただろう。その言葉を字義通りに受け取るほど大阪市民も馬鹿ではない。その言葉には敢えて口にする必要のない前置詞が有ることは暗黙の了解事項であり、「腐った大阪市をぶっ壊す!」というのが本当の目的であることは皆、承知しているのである。
 「腐った部分だけを破壊する」のなら、何の問題もない。それを問題とするのは、既得権益を死守したい勢力だけだ。
 
 故・小室直樹氏の新刊(復刊)『政治無知が日本を滅ぼす』の巻頭に、こういう言葉がある。
 
 「政治の良し悪しは結果責任なり
 
 橋下氏の改革が結果的に全て正しくなるとは私も思わないし、彼自身も結果がどうなるかまでは解らない部分もあるだろうと思う。しかし、結果がどうなろうと、自分が正しいと思うことを彼は信念に持って有言実行しており、独裁者と言われつつも、他人の話に耳を傾ける余裕も持っているように見える。もし自らの改革に間違いがあれば、そのことを素直に受け入れるだけの器量も観て取れる。
 逆に反橋下派の人達は、他人の話に耳を傾ける余裕が乏しく、もし自らの意見が間違っていたとしても、そのことを素直に受け入れるだけの器量を持っているようには見えなかった。
 
 橋下 徹氏と反橋下派では「人間としての器が違う」、残念ながら、それがこの番組を観た一視聴者としての率直な感想だった。

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「貧しさを否定する人は貧しくはならない」は真実か?

2012012601 前回の記事は、ブログのカテゴリーに新たに「心理学」という項目を設けて成功法則的な話を(初めて)書いてみた。話題性を考慮して、「金持ち」という言葉を敢えて使用してみると、案の定と言うべきか、危惧した通りと言うべきか、いくつかの反論を頂いた。しかし、どちらかというと理解を示してくれる人の方が多かったようなので少し安心もした。

 中にはコメントだけでは言い足りないのか、ブログ記事を書いて反論を述べておられる人も何人かおられたようなので、今回は少しでも誤解を解いてもらうために補足的な記事を書かせてもらおうと思う。

 前回は、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」と書いた。では逆に、「貧乏人を否定する人は貧乏人にはなれない」というのは成り立つのか? おそらく、こういった反論や疑問を持たれた人が一番多かったのではないかと思う。(以下、「貧乏人」という言葉は「貧しさ」という言葉に変えさせてもらおうと思う。)

 「貧しさを否定する人は貧しくはならない

 一見、このロジックは成り立たないように見える。ゆえに、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」などというのはデタラメ(詭弁・言葉遊び)だというわけだが、果たして本当にそうだろうか?

 確かに普段から「俺は貧乏が嫌いだ」と思っているような人は大勢いる。「そんな人に貧しい人はいないのか?」と問われれば、答えは「否」であり、実際に貧しい人は大勢いる。あるいは、「俺は金持ちに成りたい」と思っている人であっても、実際にはそうでない人は大勢いる。しかし、こんなことは当たり前の話であり、むしろ、こんな屁理屈を言うこと自体が「言葉遊び」の範疇から脱していないのである。

 「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」というのも「貧しさを否定する人は貧しくはならない」というのも、そこには、始めに思いありきの「行動」というものが必要であることは言うまでもない。

 例えば、東大に合格したいと思っているだけで東大に合格できるような人は(余程の天才は別として)いない。始めに《東大に合格したい》という思いがあって、実際に猛勉強するという行動を伴わない限り、東大に合格するようなことはまず有り得ない。
 無論、行動したからといって必ずその思いが実現するわけではないが、何事もまず目標というものを思い描き、行動しない限り、目標が達成する可能性は無いということである。

 貧しさを否定している人が、いつまでも勉強も仕事もせずにいられるだろうか? 貧しさを否定して前向きに努力している人が、いつまでも貧乏な状態であることが有り得るだろうか?(注意:ここで言う「貧乏」とは、必ずしもお金の有無を意味しない)

 それと、「別に金持ちには成りたくない」という意見もあった。こういった意見も「金持ち」という言葉に少し囚われ過ぎているのではないかと思う。先にも述べた通り、「金持ち」という言葉は、話題性のために敢えて使用しただけで、この言葉は「成功者」でも「幸せな人」でも同じである。「金持ちには成りたくない」と言う人がいたとしても、「幸せな人には成りたくない」と言う人はいないだろう。

 「お金が有ることは幸せとイコールではない」と言うのもその通りで、私は金持ちに成ることだけが幸福なことだとは一言も言って(書いて)いない。「金持ち」という言葉(または概念)はあくまでも現実的な喩えであり、その言葉の中には、「お金」だけでなく「成功」「発展」「幸せ」「富み」、そういった良い意味で使用される言葉の全てが含まれる。

 なぜか日本では(まともな「お金」の教育が行われていないせいか)「金持ち」という言葉が大いに誤解されている。「金持ち」=「金の亡者」というようなイメージが独り歩きしているように感じる。

 本当の意味での「金持ち」というのは、お金に囚われている人のことを言うのではなく、「心の富んだ者」のことを言う。いくら大金を持っていたとしても、お金は有限な物であり、使用すればいずれは無くなってしまう。仮にそういったスッカラカンの状態に陥ったとしても困らない人のことを本当の「金持ち」と言うのではないかと思う。それはどんな経済状態に置かれても、富を生み出すことができる人のことであり、現在ただいま、大金を持っている人のことではない。そういった人はただの「小金持ち(成金)」であり、「富んだ人(リッチ)」とは似て非なる存在だと言える。

 「お金」というものは数ある富の内の1つでしかなく、その1つの富のみに執着している人間のことを「金の亡者」と呼び、お金のみに執着の無い人間のことを「金持ち」と呼ぶのである。
 
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「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」は本当か?

2012012101 「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない

 たまに、成功法則的な本や心理学的な本を読んでみると、上記のような言葉を見かけることがある。こんな言葉を聞くと、鼻で笑って一笑に付す人もいるのではないかと思うが、今回はこの言葉の意味を少し考察してみたいと思う。

 「金持ちにはなれない」などという挑発的な言葉を聞くと、条件反射的に「そんな馬鹿なことがあるか!」と否定する人が大勢いると思われるので、ここでは論理はそのままにして言葉だけを少し変えてみたいと思う。

 「犯罪者を否定する人は犯罪者にはなれない

 これなら、納得する人が大部分だろうと思う。この「犯罪者」という言葉を「殺人者」や「泥棒」「詐欺師」という言葉に置き換えても同様である。精神論的にストレートに述べると拒絶する人であっても、少し具体性を持たせて述べれば、その言葉の持つ意味を冷静に分析することができるようになる。

 ここで言えることは次のことである。

 「人間は普段から憎しみを抱いている対象には成り得ない

 常日頃から犯罪者を憎んでいるような人が意識的に犯罪を犯すなどということは、余程のことがない限り有り得ない。
 この理屈が理解できれば、難解な潜在意識論を述べるまでもなく、「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」という言葉には一理あることが解る。

 昔、『人間は自分が考えているような人間になる!!』という本を読んだことがあるが、この言葉を裏返すと、「人間は自分が考えていない人間にはならない」となり、もう少し掘り下げて言うと、「人間は自分が拒絶している人間には絶対にならない」ということになる。
 もし、この言葉が本当であれば、「金持ちを拒絶している人間は金持ちにはならない」ということになる。なぜなら、その人は、自分が金持ちになるということ自体も自ら否定してしまっていることになるからだ。

 本心ではお金が欲しいのに、「お金は嫌いだ」
 本心では家が欲しいのに、「家は嫌いだ」
 本心では車が欲しいのに、「車は嫌いだ」

 普段からこういった本音とは裏腹な台詞を吐いている人は、皮肉なことに本心とは裏腹にその言葉が実現してしまうような人生を歩むことになる場合がある。

 少し誤解される方がいるかもしれないので補足しておくと、“金持ち”ではなく、“金持ちの言動”などを否定する行為はまた別である。“金持ちの行為”を否定することと、“金持ちという概念”自体を否定することは全く違う。

 例えば、ある金持ちが悪質な脱税行為を行ったとかいうなら、その罪を否定するのは当然のことであるし一向に構わない。“金持ち”ではなく“罪”を否定する行為であるなら、何の問題もない。ただ、その罪を断罪する行為の裏に“嫉妬”という感情が入り込むと、また話は逆転してしまう場合がある。

 例えば、あるIT企業経営者が粉飾決算を行ったということで、その罪の真偽を確かめようともせずに、嫉妬の感情を出発点として(罪を憎んでいる振りをしながら)批判するという行為は「金持ちを否定する」ことになってしまうということである。

 日本には「罪を憎んで人を憎まず」という諺があるが、「罪を考えずに金持ちを憎む」ではいけないのである。
 数年前に実際にこの例と同じ事件が起こったが、当時、そういった人が大勢現れたことは記憶に新しい。そのせいもあって現在の日本経済は“貧乏”になってしまった。

 「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」という法則を理解している人であれば、感情的に金持ち(という概念)を否定するような愚かな行為(=心の貧しい行為)はしないと思う。

 マーガレット・サッチャーの「お金持ちを貧乏にしても、貧乏な人はお金持ちになりません。」という言葉と「金持ちを否定する人は金持ちにはなれない」という言葉はどこか似ている。この2つの言葉の根底にあるものが、人間の「嫉妬」という感情であることが理解できれば、日本経済の発展を阻害しているものが何であるかがよく解るかもしれない。
 
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日本型『詰め込み教育』の正体

2012011201 このところの学校教師によるセクハラ事件や、生徒による暴力、いじめ、窃盗事件など、学校にまつわる不祥事は枚挙に暇がなく、まるで現在の教育現場の歪みを暗に訴えかけているかのようでもある。
 この年末年始にちょうど1冊、教育関係の古本を読み終えたので、この機会にその本の感想とともに、日本の教育について少し述べてみたいと思う。

 本のタイトルは『子どもが学校に行かなくなったら赤飯をたきなさい!』というもので、10年も前の本ながら非常に示唆に富んだ興味深い内容だった。現在の教育環境にもそのまま当て嵌まる…と言うよりも、ある意味で時代を先取りした教育論が書かれていた。一見、挑発的なイメージのするタイトルだが、内容は至ってまともで、現代の日本の教育というものを真正面からとらえており、本音の教育論が語られている。
 著者の大越俊夫氏は『師友塾』という不登校児童の教育を行う私塾的な学校を経営されており、教育界では名の知れた有名な方であるらしい。

 大越氏によると、不登校児童には共通する3つの特徴があり、それは次のようなものであるらしい。

 1、他人の世話をやたらとしたがる。
 2、自然や動物に対して異常にやさしい。
 3、競争を極度にイヤがる。

 これまでの世間一般の常識では、「不登校」というと、どこか落ちこぼれ的な意味合いで使用される場合が多かったと思うが、この3点の特徴を見てもお分かりのように、この本では、「不登校」になる生徒こそ人間的(精神的)に優れている場合が多く、将来的にも見所があるということが述べられている。
 実際、カナダなどでは「不登校」という概念が無いらしく、自ら学校に行かない生徒こそ、決められた枠に収まりきらない個性を持った人物だということで評価されるらしい。
 アメリカでも、個性ある人物が尊重されることはよく知られているが、こういった国々では、日本のように就職浪人するようなことで人物の評価が落ちるというようなこともないのかもしれない。

 現代の敏感な子供達は、現在の日本の教育システムに乗っかっても未来が無いということを直観的に感じ取っているとも書かれていたが、私もその通りだと思う。

 現在の日本の教育課程は昔と変わらず、将来、大人になってから役に立たない知識を満遍なく教え込むというスタイルを採っている。こういった全体主義的な平等教育は、もはや時代遅れであり、変化の激しい現代社会とは明らかにマッチしていない。
 教育とは本来、“社会に出てから困らないための基礎学習”と“社会に出てから役に立つための専門学習”とに分けられる。しかし現在の日本の教育が後者を満たしているかどうかは甚だ疑問である。

 現代社会で、学生が就職するために必要な知識は、一般常識、国語、英語、社会、パソコン、そして、お金の計算ができること位かもしれない。高度な数学や複雑な物理学などは、そういった専門の職業に就く人には必要かもしれないが、大抵の一般人には全く無縁の代物(無用の長物)とも言える。
 例えば、学生時代に因数分解の公式などを覚えたところで、将来的にそんな知識が必要となることはまず有り得ないし、大人になれば綺麗さっぱり忘れているというのが常である。
 以前、「分数のできない大学生」というものが話題になったことがある。確かに分数ができないというのは格好悪いことかもしれないが、これとて、社会に出てから本当に役立つかどうかは別問題である。

 英語教育にしても、実際に英語で会話する能力を養うことこそが重要だと思うのだが、細かい文法やら単語の綴りなどを間違わないことに重点を置いた教育になっているように思える。現在の日本の英語教育では、引っ掛け問題を解く能力だけは養われる。しかし本来は、多少のスペルや文法を間違えたとしても、英語で意思疎通することのできる能力の方が重要であるはずだ。実際、社会に出てから引っ掛け問題を解く能力など何の役にも立たない。

 現在の日本の教育は、基本的には中国の『科挙』の制度がモデルになっていると言われている。これはどういうことかというと、目指すべきゴールが『仕事のできる人間に成ること』ではなく、『官僚に成ること』になってしまっているということである。つまり、官僚や公務員にならない一般人にとってはほとんど意味の無い教育課程でもあるわけだ。
 社会に出てからほとんど役に立たない膨大な知識を頭に詰め込み、学歴社会の頂点に立ち、晴れて官僚になれた人はまだ良い(?)としても、通常のサラリーマンや商売人になる人にとっては、ほとんど仕事に活かせない。勉強したことが全て無駄になるとまでは言わないが、あまりにも無駄が多過ぎることだけは間違いない。

 生きていく上でほとんど必要のない知識を覚えるために学校だけでなく塾にも通い、遊び盛りの子供の頃から寸暇を惜しんで真夜中まで勉強する。それが学歴信仰が根付いた現代の日本の詰め込み教育の実態でもあるが、はたしてこれがまともな社会の姿なのだろうか?
 将来の夢に向かって寸暇を惜しんで勉強するというなら結構な話だが、単なる学歴を競うためだけの学習にどれだけの意味があるというのだろうか?
 昔のように、お国の発展のために官僚になるというならともかく、自分の生活の安定のため(悪く言えば楽をするため)に官僚や公務員になるというのでは、なんのための教育か解らない。

 「学生の就職難」と言われて久しいが、義務教育課程の段階から就職するに相応しい能力を磨く教育を行っていれば、今とは違った就職環境になっていたかもしれない。
 大企業に就職すれば、ほとんど能力が無くてもなんとかなった時代ならともかく、現代のように明日も知れない生き馬の目を抜くような厳しいビジネス環境の中では、仕事に活かせる能力的な武器を携えて就職活動を行うというのが本来の姿だと言える。しかし、現在の教育ではそういった能力を身に付けるのは難しいと言わざるを得ない。

 本来、教育というものは、将来的に役に立ってこそ行う価値が有り、また行う意欲も涌いてくるものだ。逆に、将来的に全く役に立たないことが判れば、学ぶ意欲を失ってしまって当然である。
 現在の受験競争というものが、官僚を養成する目的のために行われているものだとすれば、そのシステムから抜け出したいと思う生徒が出てきたとしても何ら不思議ではないと思う。小さい子供の頃から明確な自分の将来像を持っている人であればあるほど、現在の教育システムに疑問を抱いてしまうものなのかもしれない。
 
 現在の日本の教育現場に必要なものは、官僚を養成するための詰め込み教育ではなく、起業人や企業人を養成する将来を見据えた生きた教育であるべきだ。
 
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ストップ・ザ・消費税増税《税金を下げれば、税収は上がる》 

2012010701 政府・民主党は1月6日、ついに消費税の増税素案を正式に決定した。
 野田総理いわく「素案で終わっては意味がない、どの政権でも避けて通れないテーマだ」とのことで、まるで、消費税を上げる以外に道はないかのような口ぶりである。これでは、「増税(柔道)一直線」「増税(空手)バカ一代」「増税(キック)の鬼」などと揶揄されても仕方がない。まさに現在の民主党は『ネバー・エンディング増税内閣』と化している。
 
 政治的に税収を上げる方法には以下の3つがある。
 
 1、経済成長政策
 2、増税政策
 3、減税政策
 
 民主党は、なぜかこの「2」だけに固執し、「1」にも「3」にも全く目を向けようとしないが、現在の日本に必要なのは、「1」と「3」の同時実行である。
 
 ここで、「減税してなぜ税収が上がるのか?」と疑問に思う人がいるかもしれないが、減税政策というのは、単に「税金を下げれば税収が上がる」という表面的な現象のことではなく、国民に「税金を支払ってもいい」と思わせる心理的な税制改革のことである。
 
 現在の日本の税収が足りていないのは、長引く不況の影響や過剰な社会保障費にもその原因を求められるが、それにも増して、“税金を納めないように努力している人間(や企業)があまりにも多過ぎる”ということも1つの大きな原因になっている。そういった隠れた努力をせずに済むような税制にすることができれば税収は高い確率で増加する。
 
 例えば、法人税収が減少しているのは、法人税を支払っていない赤字企業が多過ぎることも大きな原因だ。しかし、“赤字企業が多いこと”だけが問題なのではなく、“赤字に見せかけている企業が多いこと”の方がより重要な問題である。
 この不況で全国の7割もの企業が赤字ということになっているが、まさか本当に全国の7割もの企業が赤字であるはずがない。何割かの企業は節税行為によって無理矢理に赤字にしているだけの話である。
 企業の節税行為と、その是非については、以前の記事でも述べたことがあるので、詳しくはそちらの記事【『節税対策』という見えない景気刺激策】を参考にしていただきたいと思うが、結論としては、企業の節税行為は景気刺激策でもあるので、必ずしも否定すべきものではないということを書いた。
 現在の歪で高額な法人税課税環境の中では、企業は節税行為によって利益の再分配を行っているので、必ずしも法人税収が上がらないことを嘆く必要はない。しかし、公平でフラットな法人税課税環境であれば、節税行為(脱税行為)は大幅に減少するだろうから、法人税収は必ず上がる。(この場合の「公平」とは世界と比較してという意味)
 
 個人の所得税においても、「これ以上、働けば税率が上がって損をする」というような後ろ向きな感情を抱くことなく、働いた分に比例した公平でフラットな税制であれば、働き過ぎるということを気にすることなく(つまり、税金を気にすることなく)働くことができるようになるので、所得税収も上がる可能性が高い。
 
 「税金を下げれば、税収は上がる」というのは、一見、詐欺師の言葉のように聞こえるかもしれないが、実は本当のことであり、心あるエコノミストであれば皆そう言っている。

 税収が増えないのは、税率の高低が問題なのではなく、国民の納税意欲を削ぐ不公平な課税制度に問題があるのである。そんな状況下にあって、税率を上げるだけでは根本的な問題解決にはならず、思った以上に税収もアップしないだろうから、どこまでも際限なく税率を上げていかなければならなくなる。消費税を10%に上げて、現在の日本の経済問題が全てクリアされるなどとは誰も思っていないだろうし、当の野田総理自身も思っていないはずだ。
 最悪、もし、消費税を8%に上げても良い結果に結び付かないことが判明すれば、時の政党は消費税を10%にするのではなく、逆に3%以下(理想は0%)に戻すことをオススメしておきたいと思う。
 
 結局のところ、税金の上げ下げというのは政治的な心理ゲームなのである。要は、国民に税率の高低を意識させることなく、税金を納めても損をしないという気持ちを抱かせることができるかどうか、そういった資質が政治家に問われるわけだ。
 こう言うと、まるで政治家が詐欺師みたいだが、国民に夢や希望を抱かせることのできる真の政治家と、国民を失望させることしかできない偽物の政治家(=詐欺師)がいたとすれば、あなたはどちらを選択するだろうか? 現在の政府がそのどちらに属するかは、もはや述べるまでもないだろう。
 「税金を上げれば、税収は上がる」などと言うのは、思考停止した政治家の言葉であり、その言葉こそが、まさに詐欺師の言葉なのだ。
 
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転換期を迎えたフリービジネス《デジタル社会の著作権》

2012010401 昨年は、違法ダウンロードを行った者への罰則強化や、自炊代行業者への訴訟問題等、著作権問題というものがクローズアップされた1年でもあったが、おそらく今年も引き続き、こういった著作権問題が少なからず取り沙汰されることになるのだろうと思う。
 書籍や音声や動画などがデジタルデータ化されることによって、オリジナルの著作物が全く劣化せずにコピーができるようになったのは、つい最近のことであるように思われるが、この10年か20年の間に市場に出回った著作権を無視したコピー商品は膨大な数にのぼるだろう。
 
 一時、「フリービジネス」という言葉が流行り、商品を無料で市場に出回らせることによってその商品の認知度を高めることができれば、結果的には大きな収益に繋がるというようなことが喧伝されたことがある。しかし、違法コピーが罷り通っている現代社会にあって、紙媒体からデジタルメディアに移行するだけのビジネスモデルでは、あまり意味はなく、その先の新メディアに展開していくことができないものは、いつまで経っても収益が上がらないというケースも多かった。
 
 例えば、ある漫画家が人気作品の1つを無料でネットに公開すれば、その漫画家の知名度は飛躍的に向上する。もしその漫画が本当に面白く、多くの消費者に受け入れられるだけの品質を有していれば、別の(有料の)コミックが売れることに繋がるというのが、このフリービジネスのポイントだった。それは要するに、無料でできる先行投資であり、無料でできるコマーシャルだったわけだ。
 
 しかし、その新しく消費されるべきコミック自体がコピーで手に入るものであるなら、そのコマーシャル効果は意味を為さなくなる。無料で行うコマーシャル商品と、有料で販売する商品の明確な分別があれば、こういったマーケティング手法は確かに大きな成果を生む可能性が高いが、その垣根があやふやになってしまうと、全く成果を生み出さないばかりか、逆にマイナスになることも充分に有り得る。
 
 現在のように膨大な違法コピーデータが氾濫している状態の中で、フリービジネスが高い確率で成功するためには、その漫画家が漫画を書くだけでなく、別のメディアに進出するというような離れ業が必要になってしまう。例えば、その漫画がアニメ化されるとか、映画化されるとか、あるいは漫画家自身が芸能人のようなタレント活動を行うといった具合にだ。しかしそうなると、もはや「フリービジネスにおける成功」と言うのは、こじつけに近く、単に無料の宣伝効果から波及した「当たり前の成功例」と言った方がピッタリとくる。
 
 デジタルメディアの最大の利点はコピーフリー、つまり、コマーシャル費用が限りなく0に近いことにある。例えば、新聞の折り込みチラシのようなものをPDFデータで全国にメール配信すれば、印刷費用も発送費用も広告料金も一切不要という夢のような宣伝媒体と成り得る。しかし、どのような宣伝媒体であろうと、それを作成するのは人間であり、作成したものには著作権が生まれる。デジタル社会では、この著作権というものが無いに等しいという向きもあるが、著作権を完全に無くすことはできないだろうし、無くすべきではないと思う。デジタル社会であるからこそ、著作者の著作権というものを明確に定義する必要性も有るのではないかと思う。
 
 グーテンベルクが活版印刷技術を発明したことによって、それまで手書きで高価だった書物が複数の人に配ることが可能となった。それは、著作者、仲介業者、読者、その誰もが恩恵を受けることのできる革命的な出来事だった。
 しかし、IT革命に始まったデジタル革命は、同じ革命的な出来事であっても、少し違った。グーデンベルクの印刷革命は、書物の概念を「1 対 多数」に変えた。一方、デジタル革命は、書物というものを「1 対 無限」に変えた。(この場合の「」は著作者を意味する)
 
 「多数」と「無限」では何が違うのか? 「多数」の場合は、限度があるので、値段が付けられるが、「無限」の場合、値段を付けることができない(又は付ける必要が無くなる)ということである。オリジナルの原稿を書くのは人間であるが、データのコピーには全くと言ってもいいほど人件費はかからない。人件費がかからないがゆえに違法コピー業者が入り込む余地(スキマ)が生まれるわけだ。あるいは著作物が高過ぎる場合も、そのスキマを狙って違法業者が出現することになる。しかし、どちらの場合も著作権自体が無くなるわけではない。
 
 先月、電子書籍を否定しているスペインの有名な女性作家が、作品の違法ダウンロードに業を煮やして断筆宣言を行ったというニュースがあった。作者が苦労して書いた作品を無料で手に入れることが当たり前になっている世の中に対しての警鐘の意味も込めての行動だったのだろうと思われる。
 私は電子書籍はもっと普及させるべきだと思うし、自炊代行も別に構わないと思う。そのどちらも、結局のところ、著作権というものがあまりにもデタラメな扱いになっているがために、作家達の反発を招いているだけだろうと思う。
 デジタルデータ化されることによって、発行部数は飛躍的に伸びても、収入比率が比例して伸びないどころか、全く無視されているところに問題が有るというだけの話だろうと思う。
 
 実現の可否はともかくとして、デジタル社会における著作権というものを明確に定義することができていない現在の社会に対する疑問が行動となって現れることは今後も続いていくことになるだろうと思う。その行動を起こすことで明確な答えが用意されるとは限らないが、これまでに氾濫した膨大な違法コピーデータの全てをフリービジネスの過程における“先行投資”だと考えるならば、昨年の一連の出来事は、その投資資金回収の時期が近付いて来たということの証(シグナル)なのかもしれない。
 
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東電と国民の『責任転嫁ごっこ』という悲劇

2011122601 案の定、東京電力が「電気代を値上げする」と発表する事態を迎えることになってしまったが、当然のように民衆の反発を招いている。
 「原発事故を起こした張本人が電気代を値上げするのは筋が通らない」という理屈は理解できるし、「値上げする前に自社内の経費削減を行え」という批判もその通りだと思う。しかし、電気代が上がることになるだろうことは、ある理由(後述する)により初めから分かり切っていたことである。
 
 確かに事故を起こした当事者である企業が、自らのミスを国民に転嫁するという行為は筋が通らない。しかし、原発事故を執拗に批判してきた人達が電気代が値上がりすることを批判することもまた筋が通らない。なぜ筋が通らないのかを以下に述べよう。
 
 東京電力という企業は基本的には電気を供給することのできる半国営の独占企業である。その独占企業が事件や事故を起こしたことを批判するのは自由だが、皮肉なことにその企業が潰れて困るのは国民自身でもある。電気を供給できる独占企業が潰れてしまうと国民の生活自体が成り立たなくなるという現実がある。全国民に電気を供給できる競合企業や、全国民に電気を供給できる代替発電技術が有るというなら話は別だが、残念ながらそういった企業も有力な代替手段も現状では存在しない。
 
 「事故を起こした企業を批判して何が悪い!」と言われそうだが、もちろん、事故を起こした企業を批判するのは当然のことだ。しかし、東電は先にも述べた通り、独占企業なのだ。
 「独占企業なら何をしてもいいのか!」と言いたい気持ちも解らないではないが、これまで電力の独占供給体制の危険性を考えずに放ったらかしにしてきた国民にも全く非がないとは言えない。そういった国民の危機感の無さが、電力会社の危機管理にも影響を及ぼし、事故に繋がった可能性も否定できないのではないか?ということである。
 
 確かに原子力を扱うような民間企業が何社も有るのは危険と言えなくもないが、1社独占の社会主義的な体制では、事故が起こった場合、今回のようなこと(=国民に責任を転嫁されること)になるのは避けられないことでもある。仮に電気代が上がらなかったとしても代わりに(完全国営化とセットで)税金が上がるだけの話である。
 そういったリスク認識が無かったのは他の誰のせいでもない、自分自身の認識力が甘かったということである。東電の危機管理能力の甘さも問題だが、国民の危機管理能力にも大いに問題があったということである。

 この事件を通して我々国民が学ばなければならないことは、「競争原理の働かない社会主義体制の危険性」だと思われるのだが、どういうわけか多くの国民は目先の電気代の値上げだけに目が行き、感情的(左翼的)な批判に明け暮れているだけで、事の本質が全く見えていないように思える。東電1社の無責任体制を今頃になって批判しても本質的な問題の解決にはならないということが解っていないようだ。
 
 お断りしておくが、私は東京電力を擁護するつもりはさらさらない。しかし、電力供給における独占体制を放置してきたことの責任を東京電力に転嫁しても何も始まらない。いや、「何も始まらない」というのは少し違う。正確に言えば、「更に事態が悪化する」ということである。今更、東電と国民が責任の転嫁ごっこを行っても、何の解決にもならず、事態は悪化する一方だ。こんな単純なことがなぜ解らないのだろうか?

 電気代の値上がりもその悪化の一環であり、感情的になればなるほど、批判すれば批判するほど、事態はスパイラル的に悪化していくことになり、電気代も必要以上に上がることになる。まさにイタチごっこである。
 現状では、電気代は2割程度上がることになっているそうだが、ヒステリックに騒げば騒ぐほど、賠償費用はどんどん上積みされていき、風評被害も手伝って電気代も3割、4割と上がっていくことになる。その上がった費用は全て国民に転嫁され、そのことに対して文句を言ってもどうすることもできない。それが社会主義を基にした独占企業というものの恐さなのだ。そのリスクを全く考えてこなかったのは誰だったのかを自問自答してみることも必要ではないかと思う。

 日本には競争原理が機能していない企業や組織が数多存在している。「電力を安定供給するためには国営が望ましい」という意見もあるが、いざ問題が発生した時にどういう事態を迎えることになるかを今回の事故によって多くの国民は実際に体験したはずだ。その実体験を通して、事の重大さに気が付くことができないのであれば、それこそが悲劇である。

 では、「事の重大さ」とは何か? 電気代が値上がりすることか? もちろん違う。電気代が上がるのは事故が起こったことによる結果に過ぎない。批判するべきは、事故の結果ではなく、事故が起こった原因なのだ。その原因を改善しない限り、また同じような事故が起こった場合、同じような結果になるだけである。結果ではなく原因にこそ目を向けなければ何の解決にもならないということを知るべきだ。

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『水戸黄門』の終わりと『検察』の綻び

2011122101 「ナショナル劇場」(現在は「パナソニック ドラマシアター」)として42年間に渡って人気を博してきた時代劇ドラマ『水戸黄門』がついに完結を迎えた。
 私も子供の頃はよく観ていた記憶があるが最近はほとんど観ていなかったので、個人的にはそれほど思い入れはないのだが、年輩の方々(私の親の世代)にとっては非常に残念な出来事であるらしく、水戸黄門復活の署名運動まで行われているらしい。

 少し前には『必殺仕事人』が新しくドラマ化されたこともあったものの、大御所の『水戸黄門』が終了したことによって、時代劇ドラマは完全に民放テレビから姿を消したことになる。昔は『遠山の金さん』『銭形平次』『大岡越前』というような人気ドラマもあったが、もはや、このての時代劇を製作しようなどという民放テレビ局は出てこないかもしれない。今後、時代劇はNHKか映画でしか観ることができない時代になっていくのかもしれない。

 かつて、日本のテレビ番組の中に大きなウエイトを占め続けてきた数々の時代劇ドラマの低迷と相継ぐ放送の打ち切りという現象は、一体何を意味しているのだろうか? それはテレビ局やスポンサーの経済的な懐事情から派生したものだろうか? それとも、単に視聴率の低下が招いた悲劇だろうか?

 時代劇というものは基本的に「お上」が主役のドラマである。『水戸黄門』などはまさにその典型であり、「正義の印籠」を眼前に掲げると、民衆はまるで神様でも見たかのように驚き、無条件にその場に平伏す。
 誤解を恐れずに言えば、その隷属的とも言える光景は、見方によっては、まるで最近話題となったどこかの国のようなものであり、意図せずとも、こういったテレビ番組は「お上は神様のような善人」というイメージを国民の潜在意識に植え付ける役目も果たしてきたものと思われる。

 確かに勧善懲悪ドラマは観ていて楽しい。善人が悪人を懲らしめるというストーリーに人々は興奮し、日頃のストレスの解消にもなり、悪が浄化されていく姿にカタルシスを覚える。
 しかし、この世の中というものはそう単純ではない。フィクションドラマのように完全に善と悪が分かれているわけではなく、善人のふりをした悪人もいれば、悪人のように見える善人もいる。

 「現代の水戸黄門」と言われてきた検察という組織も、最近では、証拠の改竄やデッチあげといった犯罪者顔負けの隠蔽行為を行っていたことが判明し、その信用を大きく失墜させた。検察の捜査手法は、マスコミと公共の電波(テレビ)を利用して巨悪を断罪するという「劇場型捕物捜査」と揶揄されることがあるが、そういった捜査自体を疑問視する声も日増しに大きくなりつつあった。

 この同時期に発生した、検察という組織の綻びと、水戸黄門の終わりという現象は、偶然の出来事にしては出来過ぎの感がある。この偶発的に起こったかに見える2つの事件を社会学的に考察すると面白いかもしれない。

 『水戸黄門』のモデルである徳川光圀が、仮にどのような人徳のある人物であったにせよ、テレビドラマはあくまでもフィクション(虚構)である。
 人が人を裁くという行為には、危険が付き物であり、100%間違いが無いなどということは有り得ない。その判断に少しでも“感情”というものが入り込むと、大きな間違いを犯す危険性が生まれる。イメージだけで他人を判断することは、冤罪を生む危険性を多分に孕んでいるということを知らねばならない。
 遠山金四郎景元が、如何に男気のある人物であったとしても、大岡忠相が如何に高潔な人物であったにせよ、所詮はただの人間であり、間違いを犯さない完璧な人間だったなどということは有り得ない。それが有り得るのはフィクションドラマの中だけである。

 当然、検察という組織にもこの理屈はそのまま当て嵌まる。もし彼らが、100%間違いを犯さないということが有り得たとすれば、それはフィクションが含まれていたということである。

 検察の信用失墜問題は、国民にこれまでのフィクションが通用しなくなってきたということの現れであり、幸か不幸か、1検察官の証拠改竄事件によって実際にその綻びが現実として表面化してしまったとも言える。
 
 仕事における信頼関係というものは信用を失ってしまえば終わりだが、検察の捜査というものも信用を失ってしまえば終わりである。しかし国民の多くは、水戸黄門と同様、“検察は間違いを犯さないもの”と固く信じてきた。それゆえに、検察も間違いを犯せないというプレッシャーが有ったのかもしれないが、自らの間違いを隠すために無実の人間を冤罪にすることによって信用を保っていたのでは本末転倒であり、そんな見せ掛けのシステムが永遠に続くはずがない。

 現在の価値観が逆転していくかのように見えている姿は、実は価値観が本来の姿に戻っていく過程なのかもしれない。これまで大きく歪められてきた価値観が矯正されていく姿を我々は時代の生き証人として見届けている最中なのかもしれない。

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理想的な『メルマガ』の考察

 光陰矢の如しで、当ブログを開設して早くも5年の歳月が経過しようとしている。昨年の12月20日からブロゴス・ファイナンス(今年の6月からはブロゴスに移行)に参加し、ちょうど1年が経過したことにもなるので、この機会に備忘録的に少し感想(雑感)を書いておきたいと思う。

 この1年間でどれだけのブログ記事を書いたのかを実際に数えてみると、計70本で、その内、ブロゴスに掲載された記事は65本だった。正確に言うと、66本なのだが、どうやら先日のBLOGOSリニューアル時に1つの記事が消えてしまったらしい。消えていたのはリニューアル前に掲載された最新の記事(タクシー関係の記事)だったので、多分、移行作業時に何かトラブル(?)でもあったのだろうと思う。

 されはさておき、1年間で70本ということは、大体5〜6日に1本のペースで記事を書いていることになる。ブログというものが「日記」だと考えると、本来であれば、ほぼ毎日更新するべきものなのかもしれないが、本業や別の趣味をこなしながら空いた時間でブログを書くとなると、この辺が妥当なところなのかもしれない。

 ところで、ブログとよく似たものに「メルマガ」というものがある。メルマガは大体、1週間に1本の記事を書くことが標準となっている。ということは、1年間に50本の記事を書くことができる人であれば、一応は発行可能なペースということになる。

 「メルマガ」と言えば、ホリエモンが有名だが、ホリエモンの場合、1ヵ月840円(1年間で1万円)のメルマガを発行し、既に購読者が1万人を超えているそうなので、メルマガだけで年間1億円以上の売上があることになる。
 彼は例外としても、無料でブログが公開されている時代に、個人のメルマガに1年間1万円も支払おうなどとは普通は思わないだろうと思う。1年間1000円程度なら継続的なビジネスとして成り立つ可能性があるかもしれないが、1年間1万円は高過ぎるような気がする。例えば、10個のメルマガを読みたいという人がいたとしても、合計で年間10万円もかかることになれば、大抵は1つか2つに絞らなければならないということになり、金額が足枷となってメルマガの流行には繋がっていかないだろうと思う。

 それと、「1週間に1本」というような縛りを設けるよりも、「年間で50本以上」というような感じにした方が良いような気がする。冠婚葬祭や体調の悪い時などには記事が書けない(または書きたくない)ということもあるだろうから、書き手にとっても融通の利くシステムにしておいた方が無難だと思う。
 「年間で50本以上」というようなアバウトな設定にすれば、おそらく結果的には記事数は多くなるのではないかと思う。それを「1週間に1本」と決めてしまうと、本当に年間50本のみということになってしまい、購読者も損をすることになる。

 メルマガの発行は、お金を出してまで読みたいという人が少なくとも1000人以上、具体的に言えば、最低でも1日に1万人以上のUU(Unique User)が必要だろうと思う。無料で1万人であれば、(金額にもよると思うが)有料でも100人位は読んでくれる可能性がある。それでも年間1000円で考えると、100人で10万円だ。そこから、メルマガ発行会社に運用手数料等を半額程度支払うと仮定すると、手元に残るのは5万円位になる。記事50本で5万円なら、1つの記事の価値が1000円ということになるので、その辺りが現実味のある最低ラインかもしれない。

 メルマガの記事はブログ以上に長文になると思われるので、記事を書くのも結構な時間を要することになる。通常、1つのブログ記事を書く場合、最低1時間はかかるだろうから、メルマガ記事なら2〜3時間はかかってもおかしくない。そう考えると時給に換算すれば内職程度の報酬しか得られないということになる。趣味の範囲ならそれでも充分かもしれないが、副業や本業となると少し厳しいものがあるかもしれない。(週1で本業ということはまず有り得ないが…)
 
 …と、ここまでは一般的な常識を基に意見を述べさせていただいたが、私が理想と思っているメルマガの基本料金はズバリ300円以下である(無論、年間300円という意味)。消費者の立場に立って考えると、1つの記事の料金は10円以下が望ましいと思う。

 「安過ぎるのでは?」と思う人がいるかもしれないが、300円でも10000人の購読者がいれば300万円になる。50本の記事で300円なら、1本の記事が6円ということになるので、それ位なら支払っても構わないという人は案外いるのではないかと思うし、複数のメルマガを購読する人も出てくるだろうと思う。
 
 A. 10000円×300人=300万円
 B. 1000円×3000人=300万円
 C. 300円×10000人=300万円 

 上記の3つのケースでは、いずれも売上は同じになる。しかし、将来的に購読者数が大幅に増加する可能性があるのは、誰が考えてもである。
 
 ちなみに当ブログの場合、UUは未だ200程度なので、10000には程遠い。
 最近、BLOGOSの方でもアクセス解析ができるようになったので、そちらも確認してみると、記事が掲載された日のPV(Page View)は1000以上あることが判った。記事の内容や掲載のされ方によってかなり違うみたいだが、ランキングで上位に入ると数千、場合によっては万単位のアクセス数になるようだ。(前回の記事の場合、初日のPVが10000を超えていた)
 この辺の詳しいことは、興味を抱いている人がいるかもしれないので、またご報告したいと思う。

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