BOOK『神さまとのおしゃべり』

2015073101■ユルい系自己啓発書の決定版『神さまとのおしゃべり』

 昨年、話題となったベストセラー書籍『神さまとのおしゃべり』(さとうみつろう著)を読んでみた。

 本書のスタイルは、昨年にブログでご紹介した『嫌われる勇気』と同じく、対話篇の体裁(おまけに導入部の数ページは漫画)を採っているので、500ページもある本ながら、サクサクと読むことができた。『嫌われる勇気』は哲人と青年の対話だったが、本書は、そのタイトルの通り、神さまと青年(著者)の対話だった。
 「神さまが出てくる」などと書くと、間髪入れずに《胡散臭い》と思われた人もいるかもしれない。しかし、本書に登場する神さまは人間的にデフォルメされており、冗談好きのユーモアのある神さまなので、特に胡散臭さは感じることなく読むことができる。言葉使いが少し汚いのはご愛嬌だが。

 一般読者に対する敷居を下げるために、高潔な神さま像を廃し、人間的に面白可笑しく神さまを描いているところは好感が持てる。著者自身を悩める青年に置き換え、さりげなくフィクション風に描いているところなどは、非常によく考えておられるなと感心した。
 しかし、敷居が低くなっていることが裏目に出て、逆に縁遠くなっている人もいるのではないかと思う。実際に私の場合も、随分前から、書店でよく見かける本だったので気にはなっていたものの、少しオフザケ系の表紙のせいか素通りしていた。今回たまたま、書店で立ち読みしたのがキッカケで購入する運びとなったが、まず表紙を見て本を選ぶような人の場合、敷居が低くなり過ぎて逆に手に取らないということもありそうだ。(別にイラストやイラストレーターが悪いというわけではないので誤解のないように)

 ジャンルとしては、ポジティブシンキング系の自己啓発書の部類に入るのだろうと思う。そういう意味では『嫌われる勇気』とは少し毛色が違うかもしれない。『嫌われる勇気』がお上品な玄人ウケする心理学本なら、本書は少しお下品な哲学本といったところだろうか。
 「ポジティブシンキング」などと書くと、またまた《胡散臭い》と思われた人もいるかもしれないが、本書に限って言うなら、それは杞憂だと思う。自己啓発関連の書籍は、常に一定の需要が見込めるジャンルなので、類似書籍が毎年何冊も発刊されているが、その中でも本書は飛び抜けてユルく、内容は専門的ながら、学生にも支持されそうな面白い本に仕上がっている。
 内容的には何年か前に話題になった『引き寄せの法則』をベースにした哲学書といった趣きだったが、ざっくばらんな会話を通して、潜在意識論を解り易く説明されており、改めて、ハッと気付かされることもあって、個人的にはお買得感のある書籍だった。バリバリの自己啓発書だと、少し身構えてしまうので、これぐらいに砕けた感じの方が良いのかもしれない。

■超訳『引き寄せの法則』の原理

 まあ、世の中には『引き寄せの法則』と言っても、ピンとくる人もいれば、頭から否定する人もいる(頭脳で理解するものではないのだが…)と思われるので、万人にオススメできるような本ではないかもしれないが、「引き寄せの法則って何?」という人もいるかもしれないので、少しだけその要諦に触れておこうと思う。(引き寄せの法則に理解のある人は読み飛ばしてください)
 
 「引き寄せの法則」とは、目に見えない宇宙(あるいは心)の法則のようなもので、アール・ナイチンゲールの言葉「人間は自分が考えているような人間になる」という、まさにその言葉通りの法則のことを意味している。

 こう書くと、必ず次のような疑問を抱く人が出てくる。

 「自分が考えているような人間になると言うなら、なぜ私はお金持ちになりたいと言っているのに、お金持ちになれないのか?

 しかし、「引き寄せの法則」的に考えると、この疑問は至極簡単に氷解する。

 屁理屈っぽく聞こえるかもしれないが、一言で簡単に説明すると、

 「お金持ちになりたい」と言っている人は、深層心理では「お金持ちではない」と思っているということなので、お金持ちになれない。

 「あ、なるほど…」と思えたあなたはなかなか鋭い。真偽の程はともかくとして、「引き寄せの法則」では、そういうことになる。「お金持ち」という言葉を「幸せ」「成功者」などの言葉に置き換えても同様のことが言える。

 表面意識で「お金が欲しい」と思っている人(建前)は、潜在意識では「お金が足りない」と思っている(本音)。ゆえにお金が足りない現実が自己実現されるという、実にシンプルな法則だ。

 お金持ちを否定する人は、自分のことを貧しいと思っているからこそできるのであり、お金持ちを否定し続けている限り、お金持ちの仲間入りはできない。そういう人が、お金持ちになってしまうと、お金持ちを否定できなくなってしまう(自己矛盾が生じる)ので、貧しいままの方が都合が良いことになってしまう(=深層心理的には、貧しいままでいることを願っていることになる)。
 貧しさの自己実現とは、げに恐ろしきかなと言える。

 「嫉妬は我が身を滅ぼす」とはよく言ったものだが、なぜ嫉妬することがいけないのかが「引き寄せの法則」を理解すると、よく解るようになる。このことを理解している人は、お金持ちや成功者を否定するような割りの合わないことはできなくなってしまう。

 「ホリエモンは拝金主義者だ」 = 「私は清く貧しい人間です」 → 貧しさを引き寄せる

 「安倍総理は戦争を礼賛している」 = 「私は戦争の恐怖ばかり考えています」 → 戦争を引き寄せる

 具体的に言うと(半分ジョークだが)、こんな具合になるだろうか。誤解があるといけないので念のため、お断りしておくと、この2つの場合、始めの前提自体が間違っている(ただの思い込み)ので余計に性質(タチ)が悪い。

 本書にはそういった基本的な「引き寄せの法則」のヒントが多角的に網羅されているので、もっと詳しく知りたい方は、一読されることをオススメします。信じる信じないは別として、少なくとも頭の体操にはなると思えるし、物事は前向きに考えた方が人生にとってプラスであることだけは疑いようのない事実なので、本書のような考え方を知ったとしても損をすることはない(と思う)。

 ちなみに、私は自己啓発セミナーなどには興味はありませんので、勧誘の類いはご遠慮ください。
 なお、当ブログ内で「引き寄せの法則」についての神学論争をする気はないので、ご容赦願います。こういう考え方もありますよという1つの意見としてご理解して頂ければ幸いです。

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ
にほんブログ村


| | コメント (0) | トラックバック (0)

いじめ問題として考える『安全保障関連法案』

2015071601■「安全保障関連法案」と「集団的自衛権」

 マスコミで大々的に騒がれ、衆目を集めていた「安全保障関連法案」が賛成多数で可決された。「安保法案」は「戦争法案」との異名(単なるこじつけだが)を持つ法案なだけに、結果がどうなるか少々危惧していたものの、どうやら、まともな判断が下されたようで安堵した。

 「戦争法案」と言うと聞こえは悪いが、「安全保障関連法案」というのは簡単に言えば、ただの「防衛法案」でしかない。自らの国を他国の侵略から守ろうという「防衛法案」の可決に、なぜこれほどまでに反対する国民がいるのか不思議でならない。国会でのあのような珍奇な自虐的光景は、おそらく日本でしか見られないものだろうと思う。

 「集団的自衛権」にしても「個別的自衛権」と同じく、自国を防衛するかどうかという権利であって、他国を侵略するというような権利でないことは言うまでもない。
 他国(この場合は、主に中国)からの侵略があった場合、自国だけで防衛するのか、それとも他国と協力して防衛するのかというだけの話であって、他国と協力して戦争を行うというような、きな臭い話ではないのだが、この国ではなぜか、「集団的自衛権」を「集団的侵略権」と誤解している人が少なからず存在しているようだ。(解っていながら反対している人も多そうだが…)

 そもそも、なぜこのような法案が出てきたのかというと、戦争を画策している国、言わば「個別的侵略権」を行使している国が実際に存在しているからだ。無論、それは日本ではない。
 「安全保障関連法案」も「集団的自衛権」も、主たる目的は、戦争を起こすことではなく、戦争を回避することである。つまり、単なる国の保険なのであって、能動的に戦争に加担するというような代物ではない。ここを誤解すると、カルト教の信者よろしく全てが曲がって(あるいは逆さまに)見えることになる。

■「安全保障いじめ関連法案」と「集団的いじめ自衛権」

 子供にでも解るように「いじめ」に喩えてみよう。「安全保障いじめ関連法案」「集団的いじめ自衛権」とでも考えれば、よく解るのではないかと思う。

 もし、あなたが真面目な中学生だとして、突然、あなたの前に、いじめっこ(達)が現れたら、どうしますか?

 この場合、あなたには以下のような選択肢がある。

 1、自分1人で、いじめっこに対抗する。

 2、他の生徒と協力して、いじめっこに対抗する。

 3、他の生徒が、いじめっこから助けてくれるのを待つ。

 4、「暴力反対」と叫ぶだけで、いじめっこに抵抗しない。

 上記の4つの中から、どれか1つを選ばなければならないということなら、普通なら「」を選ぶのではないだろうか?
 しかし、なぜかこの国では、端から、いじめっこは存在しないという前提に立ち、ハイリスクな「3」か「4」を選ぶことが正しいと思われているフシがある。普段はリスクを毛嫌いしている人に限って、ハイリスクで危険な選択をしているわけだから、何をか言わんやである。

 よほど喧嘩に自信の有る人なら「1」を選ぶかもしれないが、いじめっこは1人とは限らないので、常識的には「2」を選ぶのが無難なところだろう。いじめによる被害を避けるために、予め、他の真面目な生徒と協力関係を結んでおけば、自分がいじめに遭った場合、協力関係にある他の生徒が助けてくれるので安心だ。

 しかし、他の生徒がいじめられていた場合は、あなたが逆に助けに行かなければならない。こんなのは人道上、当たり前の話であって、都合よく自分がいじめられた場合は助けてもらうが、他人がいじめられていても見て見ぬふりでは、友好関係が成り立たない。
 そんな自分勝手で卑怯な契約を結ぶようなお人好しはいないことは、少し考えれば誰にでも解りそうなものだが、いじめ行為を見ても見ぬふりをするという日本の公教育環境にどっぷりと漬かってきた人々には、それが理不尽極まりない非常識なことだということが解らないのかもしれない。

■現実から遠く乖離した「理想論」と「妄論」

 20世紀の日本には自ら「学校の警察官」を名乗る屈強な留学生がいたため、いじめっこが出現する心配が無かった。しかし、21世紀の現代は、その屈強な留学生も体力が衰えてしまい、学校でのいじめ問題にも無関心に成りつつあり、オバマという内向きで民主的な保護者が出現したことで、自ら警察官を名乗ることもしなくなった。

 いじめっこのいない平和な時代の学校であるなら、「いじめ同盟」のような代物は必要なかったかもしれないが、現代にはメキメキと力を付けてきた暴力団の子供のようないじめっこが存在している。このいじめっこの傍若無人な振るまいには、他のクラスの生徒も大いに迷惑しており、周りの生徒達は水面下で「一致団結して守りを固めよう」と申し出ているのだが、独り、日本だけが反対している。

 その言い分は、

 「自分1人で、いじめっこ達に対抗するんだ

 あるいは、

 「暴力の反対を唱った学校規程が有るので、大丈夫だ

というもので、そのどちらも、いじめっこの行為を止めることも、いじめっこの思考を変える力も有しておらず、良く言えば「理想論」、悪く言えば「妄論」の域を出ていない。

 暴力団相手に、武器も持たずにたった1人で喧嘩を挑もうなどというのは、漫画の読み過ぎであり、暴力団相手には学校規程など、何の役にも立たないということも併せて知らねばならない。
 現実を無視した理想家や妄想家の言うことを聞いて、あなたがいじめっこに殺されたとしても、彼らは逃げ出すだけで、何の責任も取ってくれないのである。自分や家族の命・財産・平安を真に守りたいのであれば、言葉巧みな理想論や現実味のない妄論に騙されないように注意しよう。

【追記】

 コメント欄で、私が「安倍総理のたとえ話をパクった」かのような指摘がありますが、私は安倍総理の話は全く観ていません。図らずも、安倍総理が私と同じ認識を持たれていることが判り、安心しました。教えていただき、有り難うございます。

にほんブログ村 経済ブログ 日本経済へ
にほんブログ村


| | コメント (4) | トラックバック (0)

«「教育の自由」を認めれば、いじめ自殺は無くなる。