全体主義へと通じる「噴火脳」の危険性

2014093001■白昼に起こった「青天の霹靂」

 有名な木曽の御嶽山が、活火山と認定された1979年から実に35年ぶりに突然大噴火した(小噴火は除く)。快晴の中、行楽に訪れていた登山客にとっては、まさに青天の霹靂だったに違いないが、巨大な噴煙は多くの登山客を呑み込み、不幸にも数十人規模の犠牲者を出すに至ってしまった。
 テレビで噴火シーンを眺めていると、1991年に発生した雲仙普賢岳の火砕流を思い出したが、今回の噴火が、もし溶岩を伴った噴火や火砕流であったならば、もっと悲劇的な大惨事になっていたことは必至であり、考えるだけでも恐ろしい。実際、無事に下山された多くの登山客が「溶岩が流れてくると思い、死を覚悟した」と述べておられる。

 しかし、毎度、テレビを観ていて不思議に思うのは、なぜテレビリポーターはヘルメットを着用しているのか?ということだ。落石の危険のある場所でリポートしているならともかく、山の麓の町中でヘルメットを被って報道している姿に違和感を感じたのは私だけだろうか? そのリポーターの周りを見ても、町の人々は誰一人としてヘルメットなど被っていない。粉塵マスクを付けて報道するならともかく、ヘルメットを被る必要性は無いに等しい。
 テレビを観ている視聴者に「危険な場所」だということをアピールしたいのか、はたまた、事勿れ報道が常態化しただけなのかは不明だが、私の目には、なにやら必要以上に危険を煽っているような浮いた存在に映り、地元の人々に対しても返って失礼にあたるのではないか?とさえ思えた。この時期、こういうことを書くのは憚られるが、敢えて正直な感想を書かせていただいた。悪しからず。

 富士山や阿蘇山(阿蘇山は昨年、小噴火している)が大噴火するかもしれないと警鐘を鳴らしていた学者は何人かいたらしいが、御嶽山は盲点であったらしく、誰も予想だにしていなかったようだ。そういう意味でも、御嶽山の噴火は、東日本大震災と同様、まさに青天の霹靂だったと言える。

■火山への登山にヘルメットは必要か?

 ところで、今回の御嶽山の噴火を契機として、火山への登山のリスク論が騒がれだしている。地震の予知と同様、噴火の予知も現代の科学では不可能に近いため、「火山への登山はヘルメットの着用を義務付ける」というような話も出てきている。
 今回、噴火した御嶽山への登山は当分の間、禁止されるのは当然としても、富士山やその他の火山にまで影響が及ぶとなると、少々、行き過ぎの感は否めない。
 世界中、どこを見回しても、ヘルメットを被って登山を行っているような国は無い。有るとすれば、ロッククライミングぐらいのものだろう。世界遺産にも認定された富士山に登るのにヘルメットを着用しなければいけないなどということになると、海外からの観光客は誰も登らなくなってしまう。

 バイクを運転するのにヘルメットを被るのは今や常識となり、確率論的に考えても合理的な判断であり、誰もヘルメットの着用を否定しようなどとは思わないだろう。バイクを運転するという、その行為自体が常に危険を孕んでいるため、ヘルメットの着用を義務付けるのは至極当然のことである。
 しかし、登山というものは常に危険を孕んでいるような代物ではない。転けたり、滑ったりして怪我や骨折をすることはあったとしても、通常は登っている山が噴火するようなリスクまで想定して行うものではない。

 そもそも、大きな噴火が起こった場合、ヘルメットを被っている程度では、残念ながら、頭部めがけて飛んできた小石の衝撃を抑える程度が関の山である。今回の噴火でも軽トラック大の岩が飛んできたという体験談もあった。溶岩や熱風や爆風などの規格外の衝撃にヘルメットがどれだけ役に立つだろうか?

■全体主義に行き着くリスク排除論

 「火山はいつ噴火するか分からないので…」というリスク排除論にハマると、最終的には「ヘルメットを着用するべき」とか「火山には登るべきではない」というトンデモ論に行き着くことになる。

 登山の禁止の是非論を問えば、「賛成」と「反対」が分かれるかもしれないが、私は賛成でも反対でもなく、「場合による」と思う。
 その「場合」とは何を意味するのかと言うと、「強制」か「任意」かの違いだ。

 例えば、授業の一環で火山への「登山」を行っているような学校が有るのであれば、それは禁止にすればいい。しかし、個人がリスクを背負って自己責任で登るのであれば、それは認めるべきだ。
 世の中には危険なことだと承知しながらも、それを受け入れてリスクを取る人が大勢いる。俗な例で言えば、フグ料理というものも、危険を承知で敢えて口にする人々は大勢いる。毎年、フグ料理を食べて食中毒(場合によっては死亡)になる人は一定数存在するが、それでもフグ料理を食べる人はいるし禁止もされていない。
 フグ料理を給食で出すような学校があれば問題だが、個人が自己責任で食べる分には仕方がない。

 あるいは株式投資というものにもリスクが有り、毎年、株式投資で大損する人は大勢いる。しかしそれでも多くの投資家(私も含む)は株式投資を止めようとはしないし禁止もされていない。
 株式投資を強制的に行わせるような会社があれば問題かもしれないが、個人が自己責任で行う分には仕方がない。

 要するに、危険が有るものを強制的に行わせるのは問題だが、危険が有るという理由で全面的に禁止(を強制)するのも問題というわけだ。では、なぜそれが問題なのか? 無論、それが全体主義に他ならないからである。

■真に恐れるべきは「噴火脳」から生じる全体主義への道

 私は以前の記事で「放射脳」を「失恋脳」に喩えたことがある。今回の御岳山の噴火事故はシチュエーション的に、どこか原発事故と似通っているため、「放射脳」ならぬ「噴火脳」(感情が爆発するタイプという意味)な人々が大勢出てこないかと危惧している。
 「火山は危険」という当たり前の真実を御大層に唱え、「登山を禁止せよ」というようなことを吹聴するような人が出てこないことを願いたい。

 今回の噴火事故の影響で、今後数年間は、御嶽山はもとより富士山への登山客も減少することが予想されるが、だからと言って、今後、一生、富士山へは登らないという登山者がどれだけいるだろうか? 数十年に1度の噴火を危惧して「登山を卒業する」というような登山者はほとんどいないだろう。登山する当人が危険だと思えば登らなければいいわけで、登る・登らないを判断する自由があればそれで事足りる。どうしても禁止にしたいのであれば、物事の判断ができない小さな子供にだけ適用すればいいだけの話である。

 密林の天然ジャングルとも言われる富士の樹海が立ち入り禁止になるなら頷けるとしても、世界遺産として登録された富士山への入山を禁止するなどということは本来、あってはならないことだ。富士山へ登ることを強制的に義務づけるような国であってはならないが、同時に、富士山への登山を強制的に禁止するような国であっても困るのである。

 食事にせよ、投資にせよ、登山にせよ、物事の是非・判断は個人の自由意思を尊重するべきであり、国や他人がいらぬお節介を焼いて管理するべきものではない。
 「強制」という名の見えない鎖で国民の自由意思を縛ることは全体主義国家へ到る道である。恐れるべきは「予測不可能な火山の噴火」ではなく、今そこに誕生しつつある「噴火脳」なのである。

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朝日新聞社に訪れた「厄年」

2014091401■朝日新聞の謝罪行為はリスクヘッジ?

 このところのネット言論の話題の中心は、言うまでもなく「朝日新聞」であり、ネット用語で表現するなら、完全に「炎上状態」に陥ってしまったとも言えるだろうか。
 朝日新聞と言えば、ネット界隈では「報」とか「朝日(ちょうにち)新聞」とも揶揄されるほど中国寄りの反日新聞というイメージが定着した感があるが、慰安婦報道問題に追い打ちをかけるかのように吉田調書の誤報問題まで騒がれ出し、傍から眺めていると、まるで朝日新聞社にとっての厄年でも訪れたのではないか?という錯覚さえ覚える。

 これまで強大な権力を誇り我が物顔で言論界に君臨してきた朝日新聞社が公衆の面前でこれだけ大々的な謝罪を行うということはなかったことであり、時代の変化を感じざるを得ない。
 あるいは、大衆迎合ということで、時代の空気を敏感に感じ取った朝日新聞社がリスクヘッジの意味合いで、方針転換を計ったのかもしれないが、いずれにせよ、これ以上、嘘を付き通すことは得策ではないと判断したのだろうと思う。
 しかし、この事態に気をよくしたのか、普段は事勿れ主義で黙りを決め込んでいる評論家や学者達も、朝日新聞に対して批判的な意見を遠慮なく述べているように見える。これは言論の自由という意味でも実に良いことだと思う。

■朝日新聞を購読している人々の共通点

 私も子供の頃は親が一時的に朝日新聞を取っていたことがあるので、「天声人語」などは少し読んでいたことがあるが、現在でも一方向的で権力やスポンサーにベッタリの建前記事は読んでいても面白くないし興味も湧かないので、目を通す程度でほとんど新聞は読んでいない。

 昔から「朝日新聞」はインテリが読む新聞というイメージが強かったせいか、今でもクオリティペーパーとして隅から隅まで読んでいる人が大勢いるらしい。
 私は基本的にノンポリだったので、誰がどの新聞を読んでいるのかということには全く興味もなかったのだが、様々な人との出会いを通して気付いたことがある。それは、読んでいる新聞によって、その人物の思想信条が垣間見えるということだった。
 
 人生の途上で出会い、別れた友人・知人は何人もいるが、左翼系の人というのは必ずと言っていいほど朝日新聞派だった。私から「何新聞を読んでいるのか?」と聞いたわけではなくて、なぜか自分の方から、朝日新聞を読んでいることを自慢する人が多かった。不思議なことに若い頃にマルクスに被れたような人が多かったと記憶している。そういう経験もあってか、かなり前から「朝日新聞というものは、マルクス主義と非常に相性がよい新聞なんだろうな…」と勝手に推測していたのだが、その推測があながち間違いでなかったことは、そのうちハッキリと分かるようになった。

■朝日が先か、マルクスが先か?

 言わずと知れたことだが、中国や北朝鮮という国は、マルクス主義を信奉している国である。マルクス・レーニン主義という20世紀に全世界を覆い尽くしたカルト教はソ連の崩壊によって一度消滅したかに思われたが、中国の台頭によって急速に息を吹き返しつつあり、左翼の人々にとっては(絶対に口にはしないが)中国は“希望の星”と認識されているのだろうと思われる。
 中国がこのまま軍事拡張を続けていくと、日本にとっても脅威となり、もし日本が中国に呑み込まれるようなことになれば、イデオロギー的(実質は表面的に過ぎないが)にはマルクス主義の逆転勝利という図式になる。それゆえに左翼の人々は中国寄りの反日思想に傾倒しているわけだ。

 日本の場合も、ソ連が崩壊する前までは国民のほとんどが左翼思想に片足を突っ込んでいたとも言える。大部分のマスコミも大衆迎合という形で左寄りに傾かざるを得なかった。マスコミが先か、大衆が先かの判断は難しいが、戦後日本の思想界はGHQの影響も手伝ってか左翼思想1色だったとも言える。日本のマスコミが左翼に牛耳られてきた証拠として、テレビには保守系(日本的に言えば右翼系)の言論人は全くと言っていいほど登場しなかった。
 現在のようにインターネットも存在しないような時代にあっては、言論人はテレビや新聞に出てナンボという時代であったため、自らの主義主張を偽ってでも左寄りの言論に傾かざるを得なかったとも言える。

 しかし、現代に至って、ネット言論が勃興し始め、自らの主義主張を堂々と語れる時代に突入した。もしネット言論で生計が成り立つのであれば、本音を堂々と語る評論家や学者も大勢出てくることだろう。大衆迎合という名のポピュリズムの時代は遅かれ早かれ、いずれ消滅していくことになる。その時代の空気を敏感に感じ取った行動が、今回の朝日新聞社の謝罪行為であったと考えれば、非常に危険な賭けながら、まだ朝日新聞には存続する可能性が有ると言えるのかもしれない。

 朝日新聞が今年を境として自らの身に降り掛かった厄年を無事に乗り越えることができるのかどうか興味深く注視していきたいと思う。厄払いを実現するためには虚飾を排し、真実を報道する公正な言論機関に生まれ変わらなければならないが、これは至難の業だろうと思える。

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