飲酒運転(酔っぱらい)を法律で縛ろうとする愚かさ

2014071801 ■飲酒運転はなぜ無くならないのか?

 今週、北海道小樽市で発生した飲酒運転によるひき逃げ事故によって女性4人が死傷するという痛ましい事故が発生した。これまでにも飲酒運転による交通死亡事故は幾度となく起こってきたが、事故が発生する度に飲酒運転の厳罰化が行われてきたことは周知の通りだ。しかし、その甲斐なく何度も何度もこのての事故は繰り返されてきた。

 今回の事故を巡っても、結果的には更なる厳罰化が為されるのかもしれないが、はっきり言うと、これ以上の厳罰化を行ってもあまり効果は望めないような気がする。
 現状でも、飲酒運転の罰金は50万円(酒気帯び運転)、100万円(酒酔い運転)単位なので、一般のドライバーは飲酒運転には充分に注意しており、実際に多くの飲酒運転の歯止めになっていることは間違いない。これが、罰金500万円、1000万円になったからといって、更なる飲酒運転の防止に繋がるのかというと、疑わしいと思う。

 では、なぜ法律を厳罰化しても飲酒運転は無くならないのか? その単純な答えを以下に述べよう。

■酔っぱらいに「飲んだら乗るな」は通じるか?

 よく、「飲んだら乗るな」というスローガンを耳にする。一見、もっともらしい言葉だが、この言葉を聞いて、あなたは何も疑問を感じないだろうか?

 「飲んだら乗るな」、確かにそれはその通りであり疑問を挟み込む余地が無い正論に聞こえる。しかし、その言葉が機能するには条件がいる。それは理性が機能している場合に限られるということである。
 素面(しらふ)の人間が、「罰金50万円」などと聞くと、「そんなリスクはとても冒せない」と考える。しかし、泥酔(酩酊)して理性が麻痺状態にある酔っぱらいには、「飲んだら乗るな」という言葉は通用しない。このことは、記憶を失うまでお酒を飲んだことがある人なら、よく解るのではないかと思う。
 
 法律とは理性が存在して初めて機能する代物なので、理性を失っている人間相手には機能しない。飲酒運転問題には、実はそういう盲点が存在しているのである。

 最近は「脱法ドラ○グ」による暴走事故というものも問題視されているが、実はこれも同じで、理性が麻痺状態にあるという意味では、酔っぱらい運転とほとんど大差がない。理性的に物事の善し悪しを判断できない状態に陥った人間には、法律は全く機能しないということは「脱法ドラグ」事件を見てもよく分かる。この場合も、「吸ったら乗るな」という言葉が通用しないことは言うまでもない。

 つまり、根本的な事故の発生原因は法律の脆弱化に有るわけではなく、個人のモラルによるところが大きいということである。いくら法律を厳罰化したところで、理性を失うまで飲んでしまうというような行為が無くならない限り、飲酒運転は無くならないし、飲酒運転を原因とした交通事故も無くならない。

■「飲んだら乗るな」ではなく「酔う(泥酔する)なら飲むな」

 世の中にはアルコールに強い人もいれば、弱い人もおり、その個人差には大きな違いがあるが、アルコールを飲むとすぐに酔っぱらってしまうような人は、自らの限界というものを知り、正気を失うまで飲まないように自ら注意する必要がある。その自己管理ができていないと、理性が麻痺して我を忘れ、自分自身が何をしているかも分からず記憶も残っていないというような泥酔(酩酊)状態に陥り、気が付いた時(正気に戻った時)にはトンデモない事件や事故を起こし、後悔しても後の祭りということになってしまう。

 最近でも静岡地検の検事正が酔っぱらって破廉恥なセクハラ行為を行い更迭されるという事件があったばかりだが、あれも基本は同じである。「法の番人」とも言える人物であろうとも、理性が麻痺してしまえば、法律が通じなくなってしまう。「法律は理性が無ければ機能しない」という格好のケース・スタディだとも言える。
 
 少し話は違うが、ベネッセの顧客情報漏れ事件にしても、根本的な問題は雇用制度や法律にあるわけではない。当初は「派遣社員だから事件が起こった」というようなデタラメな妄論が飛び交っていたが、実際は、賭け事を理由とした借金で首が回らなくなり犯行に及んだというのが真相だった。「派遣社員に顧客情報を扱わせるな」とか「派遣社員は給料が安いから犯行に及んだ」というような意見は、全くの的外れだったわけだ。

 正社員であっても借金苦を理由として犯行に及ぶことはあるだろうし、正社員だからといって職場に何の不満もないというようなことは有り得ない。この事件に「派遣社員」という言葉を結び付けること自体が極めて短絡的であり幼稚な議論というしかない。この事件の場合は、借金するまで賭け事にのめり込んでしまったという個人的な問題であることは疑いの余地がない。事件の本質は結局のところ、個人のモラルの問題なのだ。

 1人のモラルを欠いた人物の理性なき事件をとらえて、その他多くのモラル有る人間を十把一絡げで取り扱うのは愚かな行為である。それは全ての人間をモラル無き人物ととらえているに等しい。
 厳罰化を行って国民全体のモラル向上に役立つのであれば良いのだが、残念ながらそう簡単にはいかない。「飲んだら乗るな」「飲んだら罰金だ」ではなく、「泥酔するまで飲んではいけない」という当たり前のモラルある社会にすることの方が重要だと言える。

 それができないということであれば、「酔っぱらいには運転できない車」でも作ることを考えた方が良いもしれない。

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「フリービジネス」化するテレビ業界の行く末

2014071001■300万円以上の経済効果を生んだ野々村氏

 今月は例の兵庫県議の野々村竜太郎氏が各メディアを大いに賑わせ、硬派な報道番組から軟派なコメディ番組に至るまで、ありとあらゆるメディアで野々村フィーバーが吹き荒れたということになりそうだ。
 兵庫県議会には数千人もの人々から苦情の電話があり、同県のオンブズマン(市民団体)からも刑事事件として訴えられる可能性も出てきたとも伝えられているが、世間一般の人々を見ている限り、特に怒っているという様子でもなく、どちらかというと、お笑いニュースとして受け止めている人の方が多いかもしれない。

 300万円のギャラを支払って、これだけ世間を笑わせることのできるお笑い芸人はなかなかいないだろうけれど、議員ともなれば、300万円程度でこれだけ日本中を笑いの渦に巻き込むことができるわけだ。
 ネット界隈では、「野々村氏はスケープゴートにされた」という珍説も聞かれるが、もし仮にそれが本当のことであったとしても、ここまで騒ぎが大きくなることは予想だにしていなかったことだろう。予期せぬ野々村フィーバーは海外メディアにも波及し、「野々村Tシャツ」などの関連グッズまで販売されるに至り、皮肉にも彼が不正したとされる300万円(?)を遥かに超える経済効果を生んでしまったとも言える。

 上記はもちろん半分ジョークだが、今回の事件を観るにつけ思われることは、未だテレビというメディアは圧倒的な伝播力を有しており、その影響力は認めざるを得ないということに尽きるだろうか。
 もし、この事件が、映像も音声もない紙媒体のみで報道されていたとすれば、騒ぎはここまで大きくはならなかったはずで、ほとんど誰も歯牙にも掛けなかったに違いない。せいぜい、「世の中には悪い奴がいるな」という程度の騒ぎで収まっていただろうし、当の野々村氏も不正したお金を返却するだけで済んでいた(有耶無耶になっていた)かもしれない。要するに、騒ぎが大きくなるかどうかはマスコミの取り上げ方次第だとも言えるわけだ。
 一応お断りしておくと、私は野々村氏を擁護しているわけではないので、誤解のないように。

■遅れてきた最大の「フリービジネス」

 さて、俗な前置きはこの辺にして本題に入ろう。
 昨今は「フリービジネス」という言葉が流行り、無料で商品を提供することで副次的に利益を生む商売(ビジネスモデル)を創出するという活動が盛んに行われているが、この「フリービジネス」の大本のモデルは、実は無料の民間放送(テレビ)に既に存在していたとも言える。
 無料であるがゆえに、お金を気にすることなく、一日中でもテレビにかじり付いている人(主に老人や主婦)は大勢いる。また、無料であるがゆえに、映像や音声を他の媒体に持ち込むことにも気を遣うことなく、ネット上ではテレビで放送された映像や音声をコピー利用し、中には、その副次的に加工された情報が商行為に繋がっている場合もある。今回の野々村氏の号泣会見映像や音声も実に様々な形に加工されてYouTube(一例)などに出回っている。

 テレビを利用した新手の「フリービジネス」として思い付くのは、TBSで放送されていた人気ドラマ『MOZU』の続編が有料のテレビ番組(WOWOW)として放送されたことだろうか。私自身は『MOZU』を観ていなかったが、熱烈なファンともなれば、 WOWOWに加入して続編を観るという人もいたかもしれない。

 ドラマのシーズン1を無料で放送し、言葉は悪いが、その番組で釣れた視聴者を続編が放送される有料番組へと誘導する。もっとも、別にそれが悪いというわけではなく、立派な商行為だと言える。元々、無料で放送されている番組が途中から有料になったからといって、誰にも文句を言う資格はない。観たくもない番組を無理矢理に観せて視聴料を徴収するとかいうなら問題だが、「お金を支払いたくない人は観れません」というだけのことだから、何の問題もない。

 病院が「お金が無い人は診察できません」と言うのと、テレビ局が「お金を支払う気の無い人は番組を観れません」と言うのとでは訳が違う。テレビ番組を観れないからといって、健康を害することも死亡することもないので、文句を言っても始まらない。

■時代は「テレビドラマの有料化」へ動いていく

 TBSとWOWOWは以前からタッグを組んでいるので、今後もこういった手法はどんどん採られるだろうし、他のテレビ局も真似ていくかもしれない。
 例えば、『闇金ウシジマくん』という人気の深夜ドラマも、無料(MBS)から有料(BeeTV)になったことはよく知られている。1度、試験的に行っただけかもしれないが、人気ドラマは、今後、無料放送を皮切りにして、有料放送に変わっていくのが当たり前になっていくかもしれない。

 続編が予定されているテレビドラマ『半沢直樹』が、シーズン2から有料になれば、さすがに憤る人がいるかもしれないが、製作している側からすれば、無料で放送しなければならない道理も義理もないわけで、有料でも観てくれる人が多いのであれば、いつ何時有料になるか分からない。それが、テレビを利用した「フリービジネス」の今後の行き着く先かもしれない。
 なんせ、数十年もの間、無料で番組を放送し続けてきたわけだから、このフリービジネスと無関係な人はまずいない。意識するしないに拘らず、ほぼ全ての国民がこのフリービジネスに片足を突っ込んでいるとも言える。そんな状態だから、視聴者数がこれ以上増加しないという飽和状態(頭打ち)になれば、有料化を目指すのは至極当然の成り行きだとも言える。

 加えて、テレビ業界自体がスポンサー企業からの広告収入で成り立つという違う意味での無料のビジネスモデルが崩壊すれば、テレビ番組は自ずと有料になっていく運命にある。まさに遅れてきた「フリービジネス」の最たるものが「テレビドラマの有料化」というわけだ。

 しかし、視聴者にとっては、有料化にも希望は有る。視聴者から多大な人気を獲得した番組だけが有料化への道が開かれるのであれば、製作者は手抜きすることなく、面白い番組を創らなければならないというモチベーションにも繋がるので、日本のテレビドラマも海外ドラマのように面白くなっていくかもしれない。
 いずれにしても、今後のテレビ業界は、視聴者を無視しては成り立たなくなることだけは間違いなさそうだ。

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