警察官の「破廉恥行為」は無くせるか?

■「警察官としてあるまじき行為」とは?

 今週は、俳優の高畑裕太氏が群馬県前橋市のビジネスホテルで強姦事件を起こし大きな騒ぎになったが、同日未明に、大阪府枚方市の路上でも、泥酔した警官が歩いていた20代の女性に背後から抱きつき、破廉恥な猥褻行為を行うという前代未聞の事件が発生した。(被害女性の夫が見ている前で堂々と破廉恥な猥褻行為を行ったことが前代未聞という意味)

 この事件について大阪府警は次のような謝罪コメントを発表している。

>「警察官としてあるまじき行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」

 一見すると、ごく普通の謝罪コメントに見えるが、この場合の「あるまじき行為」とは一体何を意味しているのだろうか?

 警察官が勤務時間外でお酒を飲むことも泥酔することも罪ではないので、この謝罪コメントが意味しているものは、おそらく「破廉恥行為」なのだろうと思われる。しかし、残念ながら「破廉恥行為」を禁じたところで、今後の再発防止策にはならない。
 もし本当に、この泥酔巡査の犯した破廉恥行為のみが「警官としてのあるまじき行為」だと認識されているのであれば、大阪府警は大きな誤解をしていることになる。

 誰が考えても解ることだと思うのだが、この事件の場合、「破廉恥行為」は結果であり、原因ではない。事件が発生した原因は「飲酒行為」にあるので、「泥酔するまで飲んではいけない」と戒めない限り、「警官の破廉恥行為」を無くすことはできないはずだ。

 「警察官としてあるまじき破廉恥行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」と言うのでは、ただの結果論である。今後の再発防止策について触れられていないのであれば、それは謝罪文ではなく反省文である。

■あるまじき行為とは「破廉恥行為」ではなく「飲酒による泥酔」

 以前、「飲んだら乗るな」という言葉の矛盾をブログ記事で指摘させていただいたが、今回の問題にも全く同じ理屈が適用できる。
【該当記事】飲酒運転(酔っぱらい)を法律で縛ろうとする愚かさ

 破廉恥行為を行った警官は、泥酔している時点で、既に理性を失っており、自らが警官であることはもとより、自らが良識ある大人であることさえ見失っているような状態だ。泥酔者というのは、ある意味、催眠術にかかった夢遊病者のようなものである。

 泥酔して「破廉恥行為」というものがどんな行為なのかすら認識できなくなってしまうことは、警察官であるないに拘らず、人間として恥ずべき状態だと言える。自らの肉体の許容限度を超えたアルコール摂取は、危険ドラッグと同じであり、「酒に飲まれること」は「法律を忘れること」とイコールの関係だ。だからこそ、法律違反を取り締まるべき警察官の「あるまじき行為」と成り得る。

 「警察官としてあるまじき行為」というのは、「泥酔するまで飲むこと」であるべきであり、この部分を禁じない限り、理性を失った警官の犯罪を未然に防止することはできない。無論、「破廉恥な猥褻行為」も「あるまじき行為」であることに違いはないが、それはあくまでも、副次的に起こった事件に過ぎない。

 警察の謝罪コメントも言葉足らずだと誤解を招くことになるので、もっと具体的なものにした方が良いと思う。
 今回の警察の謝罪コメントを少し具体的に言葉付けすると以下のような感じになるだろうか。

 「節度のない飲酒を行い泥酔してしまったことは警察官としてあるまじき行為。そのあるまじき行為によって破廉恥な猥褻行為に至ったことは警察官として恥ずべき失態であり、被害者および納税者である国民の皆様に深くお詫び申し上げるともに、今後の再発防止のために節度ある飲酒行為を守ることを戒め、厳正に対処いたします」

 如何なる責任ある立場にある人間であっても、泥酔者に法律を守らせることは不可能な無理ゲーなのだということを正しく理解した上で具体的な策を講じることが望まれる。

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マスコミのマスコミによるマスコミのためのテレビ報道

■オリンピック報道とSMAP報道の共通点

 4年に1度のオリンピックが始まると日本のテレビ局は挙ってオリンピック番組ばかり放送するようになる。まるで全ての国民がオリンピックを観たいと思っている…いや、観なければいけないと言わんばかりに。
 私のように元々テレビをほとんど観ない人間は、オリンピック時には逆にテレビを観る時間が少しだけ増えるだけなので、特に違和感は感じないのだが、年がら年中、民放テレビ番組に依存しているような人は、かなりの違和感を感じるのだろうと思う。

 しかし、4年後に自国で行われる東京オリンピックでフィーバー(過熱報道)するならまだ理解できるのだが、他国で行われているオリンピックに全テレビ局がこれほどまでに執着するのは確かに少々行き過ぎの感は否めない。いくらオリンピックに国威発揚効果があるとはいえ、日頃からスポーツにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

 ところで、今回のオリンピック放送では、意外なアクシデントが発生した。それは、SMAPの解散報道がオリンピックの真っ最中に入ったことだが、ここでも日本のテレビ局は、SMAP解散報道を緊急速報テロップで流し、報道番組のトップニュースがオリンピックからSMAPに入れ替わってしまった。まるで全ての国民がSMAPに興味がある…いや、興味を抱かなければいけないと言わんばかりに。

 多くの国民生活に直接的に影響のある喫緊の課題(尖閣問題や皇室問題)を過熱報道するならまだ理解できるのだが、一部のファンにしか影響のないことを全テレビ局がここまで執着するのも少々行き過ぎの感は否めない。SMAPやアイドルにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

■マスコミ全体主義の問題点

 先の東京都知事選でも、全テレビ局が、知名度の高い3候補者の活動だけを集中的に報道したことは記憶に新しい。まるで、国民はこの3候補者の中から東京都知事を選ぶだろう…いや、選ばなければいけないと言わんばかりに。
 現実的には、この3候補者のうちの誰かが都知事に選ばれるだろうことは誰もが事前に予想していたことだとはいえ、全てのテレビ局が挙ってお節介を焼くという姿勢も、不自然だと言わざるを得ないと思う。

 よく、「テレビ局は偏ったイデオロギー色を出さずに中立の姿勢で報道するべき」という意見を耳にするが、私は別に各テレビ局(NHKは除く)がイデオロギー色を出すのは構わないと思っている。問題は、イデオロギー色が無いが如く振る舞い、全てのテレビ局の報道が同じ方向に偏ってしまうことであり、国民に違った意見が有るということを報道しない姿勢こそが問題なのだと思う。その偏った姿勢こそが見えないイデオロギーになっているのだが、透明を装っているがために、多くの人が、そのイデオロギーに気が付かないことが問題なのである。

 あるテレビ局は保守政党(例:自民党)を応援し、あるテレビ局は革新政党(例:共産党)を応援しても構わない。それらの違った意見を国民が聞いた上で、どちらが正しいことを言っているのか、誰が信用できる人物なのかを判断する材料を国民に提供することがテレビ局の仕事だと思う。「様々な意見を公平に報道する」というのは、そういうことだろう。

 ネットで、あれだけ批判されていた鳥越氏が130万票以上も得票したことは、ネット社会とリアル社会に温度差があることの証明であり、如何にテレビや新聞の報道が偏向しているかを物語っていると言える。

 オリンピックの最中に、「オリンピックなんて興味がない」という人の意見や、SMAP解散ニュースで、「SMAPなんて興味がない」という人の意見も公平に報道する。事の善悪はともかく、そういう違った意見があることを国民が正しく知ることで、何が正しくて何が間違っているのかを判断することができるようになる。情報の違いを吟味し取捨選択していくことによって、社会はより良くなっていく。

 逆に「正しいことはこれだ」と言わんばかりに、テレビ局がお節介にも恣意的に情報をコントロールしていたのでは、社会はより良く成りようがない。

 この全体主義的な姿勢こそが、現在のテレビ局およびマスコミが抱える最大の問題点なのだろうと思う。そのお節介なシステムこそが、民主主義の発展を阻害するシステムに他ならない。


【追記】2016.08.15
(BLOGOS転載記事のコメントに対する反論になります)

>流れている情報を取捨選択することは当然で、足りないと思った情報に自分からアクセスすることがさらに大事だ。テレビを見て、新聞を読んで疑問に思えば、Webで情報を収集する。現代社会はそれを可能にしている。

 私自身、「テレビはほとんど観ない」と前置きした上で書いた通り、本記事は主にテレビや新聞からしか情報を入手していない人を対象として書いています。

>テレビにおんぶにだっこに肩車してもらって、どこまでも他律的に提供される情報で、民主主義を発展させてもらおうとか、時代遅れの化石の発想でしかない。

 これも「テレビや新聞からしか情報を入手していない人」に対しての批判にしかなっていません。民主主義というのは、国民の情報認識力を底上げすることによってしか精度を高めることはできないということであって、誰か(マスコミ?)に完全依存するという意味ではありません。

>それこそ「嫌なら見るな」でしょう。
これだけメディアが増えているのに、なぜ、テレビにこだわるのか。
テレビが絶対的なものといて崇め奉るのか。

 ネットで反論できる人にはピンと来ないかもしれませんが、現に、テレビしか観ない人は大勢存在しています。そういう人達に、「テレビを観るな」と言っても現実味がないでしょう。そういう人達が情報を得る手段は、これまでもこれからもテレビが中心にならざるを得ないわけです。ゆえに、そのテレビ報道自体が変わらない限り、何も変わらないということです。

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