情報化社会における「ネット警察」の存在意義

2015051501■株式市場は「狐と狸の化かし合い」

 ブログを休止している間に、いつの間にか日経平均株価も一時2万円を超え、株式市場はかつてのITバブル期のような盛り上がりを見せつつあったが、案の定と言うべきか、お約束と言うべきか、一旦、調整が入ったらしい。
 昨年は、日経平均は9000円まで暴落するとか、逆に4万円まで爆騰するとかいう両極端な意見も聞かれたが、株価なんていうものは、予測しようと思って予測できる代物ではないので、そういった情報の真偽のほどは誰にも分からない。

 株式投資の世界は、狡賢い者通しが騙し騙されを繰り返しているという意味で「狐と狸の化かし合い」とも言われる。日夜、様々な相場情報が飛び交っているが、何が正しい情報で何が間違った情報なのかを他人の意見に振り回されることなく冷静に見極めれる者が優位に立てる世界でもある。
 しかしながら、他人よりも知識が有るからといって必ず勝てるような世界ではなく、基本的にはプロもアマも素人も関係がない。プロであっても大損することがあるし、素人であっても大儲けする人もいる。そういう意味では、知識よりも直感がものを言う世界だと言えるのかもしれない。

 それにしても、リーマンショック後の民主党時代に比べれば、株価予測も、ずいぶんとし易くなったものだなと思う。私自身も株式投資を始めた頃は少々無茶なことをしてしまったので、この10数年間の投資成績をトータルすれば未だにマイナス収支だが、上手くいけば逆転も可能かもしれないという希望が持てる相場にはなったと思う。この違いは小さいようで実に大きい。
 多少のリスクを受け入れる(管理する)ことができる人であれば、現在の株式市場は非常に面白い相場だと思う。「リスクは有ってはならない」という人々は、当然、「株式投資なんてもってのほか」だろうから、あまりオススメはしませんが。

■ネット社会は「真実」と「嘘」でまみれている

 以上のことは経済の先読みについても言えることで、プロを名乗るエコノミストよりも、八百屋の店主の方が生の経済に接している分だけ、経済に明るいと言われることがある。
 有名なエコノミストの言うことよりも、実際に現場で働いている企業人の言うことの方が正しいという場合も多々ある。(私のことではありません)
 どれだけ理論的には正しいことを言っているエコノミストでも、経済の先読みが当たるかどうかは分からない。その理由は、「経済も株価と同じように、理屈だけで動くものではないから。」この一言に尽きる。

 「情報化社会」と言われて久しいが、情報量が多くなったからといって、必ずしも万人が正しい判断ができる社会になったというわけではなくて、情報量が多くなったからこそ、「偽」の情報に騙される人も多くなったとも言える。「情報化社会」で最も大事なことは情報量ではなく、情報の真贋を見抜く情報識別能力(直感や洞察力)の方であり、そういった能力はこれまで以上に重要になってきたとも言える。

 非常に卑近な例で恐縮だが、前回のブログ記事のコメントに以下のようなリンクが付いていた。

http://anond.hatelabo.jp/20150329171654

 リンク先を覗いてみると、なにやら私の同僚と名乗る人物が暴露文を装って、私がブログの炎上がショックで会社を休みがちだったというようなことが書かれている。

 これを書いた人は、面白半分、嫌がらせ半分で書いているのだろうと思う。これが冗談というなら笑えるが、読む人によっては本気にする人がいるかもしれない。そういう意味では、少し冗談が過ぎるのではないかとも思える。最近、ネット上では「なりすまし」というものが問題になることがあるが、これも形を変えた「なりすまし」であり、立派な犯罪行為だ。

 芸能人でも、時々、ストーカーの嫌がらせが過ぎると、警察沙汰になるというケースがある。匿名でコメントしたとしても、投稿者のIPアドレスを調べれば、すぐに居場所が判ってしまうので逮捕されたというニュースもたまに見かける。

 当ブログにも名無しでコメントを残す人がいるが、コメントだけでなくIPアドレスも通知されることになっているので、あまりにも悪質な捏造コメントはその気になれば(=警察に相談すればという意味)、どこの誰かは調査することができる。
 IPアドレスがなければ、ブログのコメント欄なんて、便所の落書きと一緒になってしまうので、この部分が唯一のブログメディアの良心と言うべきか、犯罪行為を塞き止めるストッパーになっている。今回のコメントを残した人と、当のなりすまし犯が同一人物ということはないと思うが。

■情報化社会でも「人は信じたいと思うものを信じる」

 私の場合、匿名ブロガーなので、私がブログを書いていることを知っている人はいるが、ブログ名を知っている人は誰もいないし、家族ですら知らないのだから、会社の人間が知るはずがない。大体、会社の人に言うぐらいなら、匿名にする理由がなくなってしまう。
 私は20代の時に1度、転職を経験しているので、現在の会社では先輩や後輩はいても、同期生はいない。同じ部署には現在、後輩が1人しかいないので、こんな書き込みをすれば「自分が書きました」と言っているようなものなので、笑い話だ。
 会社の名誉のために付け加えておくと、私の会社には、こんな真似事をするような姑息な輩はいないし、私が休んでも代わりに仕事をしてくれる人もいないので、理由もなしに休めない。
 そもそも、ブログの炎上がショックで会社を休むとか、休めるような民間企業が本当にあるとでも思っているのだろうか? まあ事情を偽って休むことができる会社はあるだろうけれど、もしこの同僚という人が存在しているなら、そんなロジックはアッサリと崩れてしまうことになる(=事情を知っている人がいて休めるはずがない)。

 「人は信じたいと思うものを信じる」とはよく言ったものだが、こんな、なりすましのデッチ上げ捏造文を読んでも、信じてしまう人がいるのだから恐ろしい社会だ。
 現代人がいくら情報化社会にどっぷりと漬かっていても、情報の真贋を見抜けるかどうかは別問題だということがよく分かる。
 実際、ここまで書いてもまだ疑いを持っている人がいるかもしれない。映画『それでもボクはやってない』の台詞ではないが、「真実を知っているのは、私とこのなりすまし犯だけ」なのだから疑いを払拭できない人は少なからずいることだろう。

 では、こうしよう。
 もしこの同僚という人が実在するなら、会社で私に名乗り出てください。私は笑顔で1億円お支払いします。これで文句はないでしょう。もちろん、1億円も持っていないが、この記事で書いていることは100%真実なので、1億円だろうが1兆円だろうが何の問題もない。

■情報がオープン過ぎるがゆえの新たな危険性

 匿名掲示板には、芸能人などの噂も有ること無いこと、好き勝手なことを書いている人がいるが、単なる憶測での名誉毀損や嫌がらせ目的の誹謗中傷などをされている芸能人が気の毒に思うことがある。
 こういった人権侵害を取り締まるネットパトロール業ネット警察も存在するらしいが、どこまで対応してくれるのだろうか?

 人心を荒廃させ惑わせる毒のある情報、市場を破壊する著作権無視の違法コピーデータの氾濫、情報虚偽に情報詐欺、ネット社会は便利になっていく反面、水面下では取り締まるべきものは増加の一途を辿っている。そういった無法行為や犯罪行為を取り締まるべき法律や対応策が全く追い付いていないというのが現状だろうから、官・民を問わず、今後は大きな需要が見込める花形業種になるかもしれない。

 ネット社会に溢れる情報には「真実」と「嘘」がごちゃまぜになっており、「嘘」を「真実」と錯覚してしまう人々が多数出てくるというメカニズムは、カルト教が隆盛するメカニズムと軌を一にしている。

 かつての本(活字)が中心だった時代、本を読まない人は、幸か不幸か、カルトにハマるということもあまりなかった。しかし、本を読む人の一部は、たまたまカルト思想に触れて、人生を狂わせてしまう場合があった。インテリと呼ばれる人ほど、カルト教(極左テロ教団)にハマるという不可思議な現象が発生した理由も、まさにそこにあったのだろう。
 なまじ知的好奇心が旺盛であったがために、運悪く間違った思想に触れ、その真贋が判別できずに共感してしまい、悲劇的な結末を齎すという事件が実際に発生した。
 前世紀に現実に発生したこの悪しき社会現象こそが、情報化社会で最も重要なことが何であるかを暗黙の内に語っている。

 しかし現代のように、わざわざ本を買って読まなくても、様々な情報を誰もが入手できる時代は、かつてのような本(活字)が中心だった時代以上に危険性のある時代だとも言える。
 情報というものはリスクを抱えた諸刃の剣であって、情報がオープンに成り過ぎることによって、逆に騙される人も増加するという逆転現象が生じることになる。真実の情報に触れて蒙が啓かれる人がいる反面、偽の情報に触れて奈落へと転落する人もいる。

 かつての能動的に情報を得る時代の中にも思わぬ危険性が隠れていたが、現代のような受動的であっても情報が得られる時代には、その時代特有の更なる危険性が潜んでいる。
 情報量が多くなったからといって、「誰もが正しい判断ができるようになる」というのは迷信に過ぎない。「真実」は「真実」、「嘘」は「嘘」という判断が正確にできない情報化社会には、人心を狂わす危険性が内包(セット)されているのだということが、もっと重要視されてもよい時代だと思う。

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「ブログ記事の噂も75日」

■「人の噂も75日」と「罪を憎んで人を憎まず」

 前回のブログ記事を書いてから、明日で75日が経過することになる。「人の噂も75日」という諺はブログの世界でも通用するらしく、騒ぎは完全に収まったようだ。
 この間に世間では実に様々なニュースがあり、ブログ記事を書きたいという衝動を覚えたことも何度かあったものの、自分自身でペナルティを課した手前、ブログには全く手を付けなかった。
 定期発行が原則のメルマガや有料ブログを書いていようものなら、こんな自由はきかなかっただろうから、ものは考えようだなと思った。

 ところで、自分自身が書いた当時の文章を読んでみて、1つ気付いたことがある。
 それは、昔からよく言われる「文章は人を表す」という言葉は少し言葉足らずだということだった。正確に言うならば、「文章は(その時の)人(の心境)を表す」が正解だと思う。文章というものは、書いた人の人物像そのものを表すのではなく、その時点の(その人物の)心象風景を表すということが我ながらよく解ったような気がする。

 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉も、ある意味で同じようなものかもしれない。必ずしも「罪は人を表す」わけではなく、「罪は(その時の)人(の心境から生まれた誤った行為)を表す」。それゆえに「人を憎まず」という言葉が続くのかもしれない。

■「非難」という目に見えない怪物

 いくつかの本に書かれてあったことだが、人が人生の途上で冷静さを失う場合というのは、主に次のような時であるらしい。

 「失恋」「失業」「大病」「家族の病気・死」「貧困」「非難」

 これを読まれている人も多かれ少なかれ経験がおありだと思う。

 私はこれまで最後の「非難」というものが、なぜこのカテゴリーの中に入っているのか不思議に思っていたのだが、この度の経験で、なるほどなと納得したのだった。知っている数人から非難されるのと、誰とも判らない数百、数千、場合によっては数万の人々から非難されるのとでは全く訳が違った。(注:直接的に非難している人が数万人もいたわけではない)

 数千、数万人からの非難というものは、目に見えない怪物のようなもので、どう足掻こうとも1人では対処のしようがない。数が増えれば増えるほど、時間的にも物量的にも対処は不可能に近づいていく。少し大袈裟に聞こえるかもしれないけれども、どこまで巨大化するか分からない(しかもネット上での成長スピードは物凄く速い)「非難」という名の怪物を前にした1個人などは、まるで巨大な風車の前のドン・キホーテのようなものだとも言える。
 非難する側からすればゲーム感覚でも、非難される側は実戦になってしまう。喩えて言うなら、ディスプレイ上でプレイしているシューティングゲームが本当にチクチクとした軽い痛みを伴う実戦に変化するようなものとも言える。認識としてはそれぐらいの差があると思う。

 しかしながら、「失恋」「失業」「大病」と同じように「非難」もまた人生の「試練」の1つであると考えれば、幾分か心も軽くなる。

 ブログを書くか書かないかを決めるのは、あくまでも自分自身であって、他の誰でもない。誰かから報酬を頂戴して書いているわけでもなく、押し売り的に文章を送信しているわけでもないのだから、公序良俗に反するようなことでも書かない限り、特に問題視する意味も問題視される理由もないと思う。
 書く・書かないという自由があるように、読む・読まないという自由もある。ブロガーが特定の人物に「読むな」とは言えないのと同様に、閲覧する側も特定のブロガーに「書くな」とは言えない。「書く自由」と「読む自由」は表裏一体であり、どちらかを認めて、どちらかを認めないというような都合のよい自由などあるわけがない。

■「文章は人を表す」と「文章スタイルは人を表す」

 ブログを再開するにあたり、「である調」を「ですます調」に変えようかとも考えたが、やはり今後も「である調」でいこうと思う。「である調」で文章を書くと「上から目線だ」などと言われることがあるので躊躇するブロガーも多いそうだが、個人的には「である調」の方が書きやすいので、これまでのスタイルを踏襲しようと思う。

 ついでに、「上から目線だ」という声に対して一言言わせていただくと、私は普段の会話で「である調」など一切使用しないし、したこともない。これは当たり前の話であって、別に「上から目線」にするために文章に「である調」を使用しているわけではなくて、単に書きやすいという理由で使用している。
 「ですます調」(下から目線?)で書くこともできるし、面白可笑しくギャグ風に書くこともできるのだが、私の場合、書くだけでなく、他人のブログを読む場合も「である調」の方が好みだし読みやすい。

 「である調」と「ですます調」というのは、演技の世界で言えば、「硬派」か「軟派」かの違いでしかなく、言葉のスタイルがその人物をストレートに表すわけでもない。先の「文章は人を表す」の例で言えば、「文章スタイルは人を表す」のではなく、「文章スタイルは(その文章を書く時の)人(の性格)を表す」程度のものだろうと思う。

 俳優が、役柄によって個性の違いを演じ分けるように、物書き(ブロガー)は、文章スタイルによって個性の違いを書き分ける。その演技としての個性(文章)のみをとらえて人を判断するのは間違いだと思う。
 「人を見る目がある」という言葉と同じように、本当に文章を見ることができる人というのは、どのようなスタイルの文章であろうとも、行間の隙間から、その文章を書いた人の本意が見える人のことをいうのだと思う。
 俳優がどのような役柄を演じたとしても、それはその俳優の本当の姿ではないのと同様に、ブロガーがどのような語り口で文章を書いたとしても、それがそのブロガーの本当の姿ではないということも併せてご理解いただきたいと思う。

 ということで近々、ブログを再開します。蛇足ながらブログ再開のお知らせまで。

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«ネット社会における「言葉」の意味を考える