「ブログ記事の噂も75日」

■「人の噂も75日」と「罪を憎んで人を憎まず」

 前回のブログ記事を書いてから、明日で75日が経過することになる。「人の噂も75日」という諺はブログの世界でも通用するらしく、騒ぎは完全に収まったようだ。
 この間に世間では実に様々なニュースがあり、ブログ記事を書きたいという衝動を覚えたことも何度かあったものの、自分自身でペナルティを課した手前、ブログには全く手を付けなかった。
 定期発行が原則のメルマガや有料ブログを書いていようものなら、こんな自由はきかなかっただろうから、ものは考えようだなと思った。

 ところで、自分自身が書いた当時の文章を読んでみて、1つ気付いたことがある。
 それは、昔からよく言われる「文章は人を表す」という言葉は少し言葉足らずだということだった。正確に言うならば、「文章は(その時の)人(の心境)を表す」が正解だと思う。文章というものは、書いた人の人物像そのものを表すのではなく、その時点の(その人物の)心象風景を表すということが我ながらよく解ったような気がする。

 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉も、ある意味で同じようなものかもしれない。必ずしも「罪は人を表す」わけではなく、「罪は(その時の)人(の心境から生まれた誤った行為)を表す」。それゆえに「人を憎まず」という言葉が続くのかもしれない。

■「非難」という目に見えない怪物

 いくつかの本に書かれてあったことだが、人が人生の途上で冷静さを失う場合というのは、主に次のような時であるらしい。

 「失恋」「失業」「大病」「家族の病気・死」「貧困」「非難」

 これを読まれている人も多かれ少なかれ経験がおありだと思う。

 私はこれまで最後の「非難」というものが、なぜこのカテゴリーの中に入っているのか不思議に思っていたのだが、この度の経験で、なるほどなと納得したのだった。知っている数人から非難されるのと、誰とも判らない数百、数千、場合によっては数万の人々から非難されるのとでは全く訳が違った。(注:直接的に非難している人が数万人もいたわけではない)

 数千、数万人からの非難というものは、目に見えない怪物のようなもので、どう足掻こうとも1人では対処のしようがない。数が増えれば増えるほど、時間的にも物量的にも対処は不可能に近づいていく。少し大袈裟に聞こえるかもしれないけれども、どこまで巨大化するか分からない(しかもネット上での成長スピードは物凄く速い)「非難」という名の怪物を前にした1個人などは、まるで巨大な風車の前のドン・キホーテのようなものだとも言える。
 非難する側からすればゲーム感覚でも、非難される側は実戦になってしまう。喩えて言うなら、ディスプレイ上でプレイしているシューティングゲームが本当にチクチクとした軽い痛みを伴う実戦に変化するようなものとも言える。認識としてはそれぐらいの差があると思う。

 しかしながら、「失恋」「失業」「大病」と同じように「非難」もまた人生の「試練」の1つであると考えれば、幾分か心も軽くなる。

 ブログを書くか書かないかを決めるのは、あくまでも自分自身であって、他の誰でもない。誰かから報酬を頂戴して書いているわけでもなく、押し売り的に文章を送信しているわけでもないのだから、公序良俗に反するようなことでも書かない限り、特に問題視する意味も問題視される理由もないと思う。
 書く・書かないという自由があるように、読む・読まないという自由もある。ブロガーが特定の人物に「読むな」とは言えないのと同様に、閲覧する側も特定のブロガーに「書くな」とは言えない。「書く自由」と「読む自由」は表裏一体であり、どちらかを認めて、どちらかを認めないというような都合のよい自由などあるわけがない。

■「文章は人を表す」と「文章スタイルは人を表す」

 ブログを再開するにあたり、「である調」を「ですます調」に変えようかとも考えたが、やはり今後も「である調」でいこうと思う。「である調」で文章を書くと「上から目線だ」などと言われることがあるので躊躇するブロガーも多いそうだが、個人的には「である調」の方が書きやすいので、これまでのスタイルを踏襲しようと思う。

 ついでに、「上から目線だ」という声に対して一言言わせていただくと、私は普段の会話で「である調」など一切使用しないし、したこともない。これは当たり前の話であって、別に「上から目線」にするために文章に「である調」を使用しているわけではなくて、単に書きやすいという理由で使用している。
 「ですます調」(下から目線?)で書くこともできるし、面白可笑しくギャグ風に書くこともできるのだが、私の場合、書くだけでなく、他人のブログを読む場合も「である調」の方が好みだし読みやすい。

 「である調」と「ですます調」というのは、演技の世界で言えば、「硬派」か「軟派」かの違いでしかなく、言葉のスタイルがその人物をストレートに表すわけでもない。先の「文章は人を表す」の例で言えば、「文章スタイルは人を表す」のではなく、「文章スタイルは(その文章を書く時の)人(の性格)を表す」程度のものだろうと思う。

 俳優が、役柄によって個性の違いを演じ分けるように、物書き(ブロガー)は、文章スタイルによって個性の違いを書き分ける。その演技としての個性(文章)のみをとらえて人を判断するのは間違いだと思う。
 「人を見る目がある」という言葉と同じように、本当に文章を見ることができる人というのは、どのようなスタイルの文章であろうとも、行間の隙間から、その文章を書いた人の本意が見える人のことをいうのだと思う。
 俳優がどのような役柄を演じたとしても、それはその俳優の本当の姿ではないのと同様に、ブロガーがどのような語り口で文章を書いたとしても、それがそのブロガーの本当の姿ではないということも併せてご理解いただきたいと思う。

 ということで近々、ブログを再開します。蛇足ながらブログ再開のお知らせまで。

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ネット社会における「言葉」の意味を考える

 「言葉」というものは実に厄介で不思議な代物だ。言葉は人を活かすこともできれば、人を傷付けることもできる。言葉は人を生かす薬にもなれば、人を苦しめる毒にも変化する。優しい言葉は人の心に癒しを与え、厳しい言葉は人の心を破壊する凶器とも成り得る。

 この期間、内省的に考えているとそんなことを考える機会に恵まれました。今回の出来事(ブログの炎上)によって、私は自分も含めて、「言葉の危険性」というものを考えざるを得なくなってしまったとも言えるでしょうか。誤解を恐れずに言わせていただくと、誤解を招いてしまった記事にしても、変な煽りを行ってしまったことで禍いを呼び込み、大火傷を負ってしまったとも言えます。そういう意味では、自分が発した言葉自体にも問題があったのかもしれないなと思えるようになりました。

 ブロゴスさんに記事を掲載していただくようになってからは、自分の書いた記事が多くの人の目に触れる機会が多くなったので、それ以前よりも言葉は慎重に選ぶようにしていたつもりでしたが、いつの間にかその慎重さのタガが弛んでしまっていたのかもしれません。

 「言論の自由」という言葉がありますが、その言葉に付随する形で「自由には責任が伴う」という戒めの言葉もあります。その言葉の通り、私は自らの間違いはお詫びした上で、なぜそうなったのかということを、言葉は汚いながらも詳細に説明し、自分なりに説明責任を果たしたつもりでいます。
 確かに私のしたことは、当事者でない他人から見れば、常識外れで格好の悪いことであったのかもしれませんが、少なくとも個人的には、人間として恥ずかしいと思うことをした覚えはありません。正直に事実(間違ったことは書いたが嘘は付いていないこと)を赤裸々に書いただけです。
 これで、もし記事を削除し逃げるような卑怯な真似事をしていたら、それこそ一生後悔することになっていたでしょう。たとえ気が狂ったと思われようが、恥知らずだと言われようが、自分にだけは嘘は付きたくなかったというのが正直なところです。冷静になって振り返ってみると、まあ、頑固で損な性分です。

 痴漢の冤罪者が、疑いと言う名の狂気の闇の中で、自らの潔白を証明するがために必死にもがき苦しみながらも奮闘する姿は、その心の痛みが解らない他人から見れば、まさに「狂気」にも映るでしょう。しかし、罪を犯したつもりのない人間にとっては、己の潔白を証明するためには、そんな体裁のことまで構っている余裕などないということが、全くレベルは違うとはいえ、今回の出来事でよく理解できました。これは実際に体験してみないと解らないことだと思います。

 今回の騒動で、こんな言葉がよく聞かれました。

 「PV稼ぎだ」「炎上マーケティングだ」「釣り記事だ

 私も冗談は解るタイプの人間ですが、流石にこれは悪い冗談でした。
 今回の騒動で数万人の方が当ブログを訪れましたが、単純なPVによる課金は0です(現状、PVのみで課金されるシステムにはなっていません)。PVで稼いでいるのは、今回のような騒動を面白おかしく紹介しているようなサイトの方です。
 一部、商才の有るブロガーはPVでも稼いでおられますが、私の場合、別にお金儲けが目的でブログを書いているわけでもありません(アフィリエイト収入があったとしてもせいぜいお小遣い程度です)ので、PVが増えることは、読者が増えるという喜びや達成感には成り得ても、お金儲けとしての喜びには繋がっていません。それに今回のような場合、PVは少ない方が有り難いわけで、PVが増えて喜んでいるようなら本当の変人になってしまいます。

 しかし、考えてみると、単に趣味の範囲で書いているブログ記事に間違い(勘違い)があったというだけで、これだけの、集団いじめにも似たバッシングが起こったというのは驚きであり、物凄くリスクの高いことを行っているのだなということを痛感しました。
 「素直に謝っていればそうはならなかった」と言う人がいるかもしれませんが、謝ろうが謝るまいが、炎上していたことに変わりはないでしょう。もう1度、繰り返し言っておきますが、私は間違いを認めていないのではなく、間違いは認めつつも、それには理由があったと言っているのです。
 「言論の自由」と言えば聞こえは良いですが、ミスをした人間が悪いとはいえ、人の心を傷付ける言葉を書こうが、侮辱しようがお構い無し、書きたい放題、書き捨て放題の責任を伴わない自由が罷り通っている世の中に、今さら乍ら、ある種の危険性を感じずにはいられませんでした。

 そうは言っても、ブログが炎上した原因は、記事を書いている私に責任がありますので、仕事で言うところの「クレーム」は無視できません。反論として返ってきたコメントは、どんなに厳しい言葉が書かれていようとも目を通す責任があります。しかし、この作業は仕事のクレームが可愛く思えるほど激烈なストレスが伴うものでした。

 かつて、ブログの炎上が原因で自殺された人がいましたが、反論する術を持たない気の弱い女性であれば、自殺まで追い込まれても不思議ではないと思えるほど、バッシングの嵐というものは強烈なものでした。そんな中、本音で反論や弁解を書く自分メディア(=ブログ)があることは、ネット社会の救いだったとも言えるでしょうか。

 初めに言葉のことについて書きましたが、返ってくる大部分の批判や中傷は私にとっては(誰でもそうかもしれませんが)1つ1つが鋭利な凶器のようなものに感じられ、ちょうど尖った小さな弓矢が四方八方から飛んでくるようなイメージでした。読む度にその矢が心に突き刺さり、心が傷だらけになっていくのが感じられました。
 そんな戦場にも似た空気の中で前回の記事を書いていましたので、その言葉に影響されたのか、私自身の言葉も棘のあるものになってしまったかもしれません。恰も植物が外敵から身を守るために自らの体の中にカフェインという神経毒を作り出すかのように、ストレスに押しつぶされるのを防ぐために、私の中にも毒が生まれ、その毒が言葉に現れてしまったとも言えるかもしれません。もし、前回の記事を読んで、逆に心が傷付いた人がいたのであれば、この場を借りて謝罪しておきます。

 それでも、ご理解いただけた人がいたことは救いでした。見えていないコメント欄でも応援してくれる人がいて救われました。決して大袈裟な表現ではなく、失望の暗闇の中で一筋の光明を見た気がしました。どこのどなたかは存じませんが、深く感謝申し上げます。

 ともあれ、今回の一件では、私自身も相当、頭を打ち学ぶところがありました。しかしながら、空気の読めない人間だと思われるのも、これ以上騒ぎが大きくなるのも望むところではありませんので、ブログの更新は当分の間、自粛させていただきたいと思っています。

 1つのブログ記事から、このようなドラマを演じさせられることになるとは夢にも思っていませんでしたが、今回の事件が、ネット社会における言葉の意味を考える機会を僅かでも提供することができたのであれば幸いです。ブログメディアの健全な発展を願います。

 いつかまた、気兼ねなくブログが書ける日が来ればいいなと思っています。そういう日が来ることを信じて、日々、努力精進しようと考えています。
 それでは、またお会いできる日まで。失礼いたします。

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