ミスチル現象から考える電子書籍の未来

2012051901 「CD不況」と叫ばれて久しいが、今月発売となったMr.Children(ミスチル)の10年ぶりのベストアルバム(MICROMACRO)は早くも累計200万枚を突破したらしく、売れ行きはなおも好調であるらしい。
 現代は、宇多田ヒカルのベストアルバムですらミリオンセラーは不可能と言われているような時代だが、ミスチルにはそういった常識が通用しなかったらしく、いくらレンタルやデジタルコピーが出回っていたとしても、費用対効果に優れた商品は売れるということが図らずも証明された格好となったようだ。

 書籍や音楽はデジタルデータ化されたことにより、紙媒体やパッケージが無くてもデータとして配付できるようになり、それまで限定されていた媒体以外でも様々な形で流通することになった。
 消費者の立場から言えば、1回だけ使用するだけのもの(雑誌や映像)であれば、デジタルデータが圧倒的に有利であることは否定の仕様がない。例えば、映画やドラマなどは余程のことがない限り、2回も3回も観ないので、パッケージとして購入するよりも、オンデマンド的な方法(レンタルも含む)で観た方が合理的でもある。

 しかしながら、音楽の場合はそうはいかない。人間は目で見て楽しむものはすぐに飽きる性質を持っているが、耳で聴くものや、舌で味わうものなど、視覚以外の感覚を使用するものは飽きずに何度も楽しむことができるという性質も併せ持っている。
 目で見て(視覚的に)楽しむものは飽きやすい。これは誰もが納得できることだろうと思う。

 「俺は同じ映画を何度も観る」とか「私は同じ本を何度も読む」という人もいるかもしれないが、それは、目で見た映像や文字ではなく、その映画や本の中から目に見えない価値を感じ取ったがゆえの行動だと思う。目から視覚的に入ってきた刹那的な情報ではなく、その情報の中に普遍的な価値が含まれていれば、飽きることがない。それだけのことである。

 何度も読む本や、何度も聴く音楽の場合、デジタルデータ時代であっても、紙やCDというオールド媒体にもまだまだ優位性が有る。
 読書家にとっても、本当に価値が有ると思った書籍は、如何に高価であろうとハードカバーの紙媒体として保存しておきたいものだろう。特に名著と言われるような本は何度も再刊されれば、常に新しい状態で保管することもできるし、逆に古い本であればあるほど価値が出る場合もある。

 以上のことを踏まえた上で、今後、電子書籍はどうなっていくかを考えてみよう。

 現在のところ、本を出版する場合、大抵はまず紙媒体で出版され、人気の出たタイトルは電子書籍化されるというケースが一般的だが、私が思うに、この順序は今後、逆転していくことになるだろうと思う。
 現在、巷では、「電子書籍ブームになると、紙媒体の本は無くなっていく」というようなことが真しやかに囁かれているが、これは少々近視眼的(ミクロ)な意見であることは否めない。より大きな視点(マクロ)で考えると、以下のようになっていくのではないかと思う。

 「電子書籍ブームになると、紙媒体の本の価値は上がっていく

 今後、電子書籍の量は増加していく。これは間違いない。しかし、そのせいで、紙媒体の書籍が陳腐化するというのは可笑しい。誰もが入手できる電子書籍よりも、入手が困難になる紙媒体の価値が下がっていくという理屈は、よくよく考えると筋が通らない。

 誰もが低コスト・低リスクで電子書籍を発行できるようになれば、高コスト・高リスクの紙媒体の書籍を発行することは難しくなる。つまり将来的には、本当に価値が有り売れる本しか、紙媒体の書籍としては発行できなくなるということである。現在のように装丁だけは立派だが中身は空っぽというようなトンデモ本の類いは紙媒体では出版されなくなっていく。
 ゆえに作家達は、紙媒体の書籍を発行することが目標となり、当然、モノとしての本の価値も値段も上がっていくことになる。この場合、現在とは違って、その本には確かな価値が有ることが証明されていることになるため、“値段が上がれば売れなくなる”という事態にはならない。

 むしろ、デジタル化によって陳腐化していくのは、電子書籍の方である。実際、著作権問題でデジタルデータの価値が問われていることからも分かる通り、複製可能な商品にはプレミアム的な価値が付けにくい。本の内容は読まないことには解らないし、本に対する価値判断は相対的なものなので、それこそ、目に見えない価値を測るような装置でも無い限り、値段の差別化を行うことは難しいと思う。
 結局のところ、本の価値を決めるのは、個々の読者だということでもある。

 現代は、電子書籍の登場によって、著作物だけでなく著作権自体も陳腐化することが大きな問題となっている。しかし、『価値の有るものは、いかなる時代であろうと売れる』。このことは冒頭で述べたミスチルが証明してくれたことでもあり、例外であるとはいえ、一種の希望を抱かせるものがある。

 近い将来、電子書籍を介して選りすぐられた紙媒体の書籍が、高い価値を持つようになり、新たな本の文化が誕生するかもしれない。電子書籍というものは、本の文化の最終到達点ではなく、実は通過点であり、本の価値を間接的に上げる媒体に過ぎなかったということが認識される日が来るのかもしれない。
 
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官僚的社会と就活地獄の隙間

2012051001 日本の自殺者が年間3万人を超えていることは周知の通りで、その状態が既に14年間も続いている。特に最近の傾向としては“就職難”を理由とした若者の自殺が急増しており、この4年間で実に2.5倍にも膨れあがっているらしい。

 文科省と厚労省の統計では、昨年の大学生の就職率は91%ということなので、ほぼ1割の大学生が就職浪人している計算になる。もっとも、新卒で無事に就職できたとしても、3人に1人が3年以内に退職するような時代なので、実質的には4割以上の若者が就職で悩みを抱えている時代だとも言える。

 私も転職経験があるので、就職するまでの空白期間(無職期間)が人間の精神にどういった影響を及ぼすかは少なからず理解しているつもりでいる。私の場合、自己都合で会社を辞めたので、すぐさま転職活動をしたわけではなかったが、それでも個人的には(仕事をしない期間は)「半年間」というのが限界だった。現在のように、何年間も就職先が見つからずに就職活動(以下、就活)を行っている人々には同情を禁じ得ないし、気の毒と言う他ない。

 人それぞれ仕事における認識は違うかもしれないが、人間、働き過ぎれば、休日が欲しくなるし、遊び過ぎれば、働きたくなる。「無いものねだり」とはよく言ったものだが、大抵の人間(生っ粋のワーカホリックや遊び人は除く)は、仕事ばかりではストレスが溜まるし、遊んでばかりでもストレスを感じるものだと思う。
 お釈迦様の言ではないが、人間の生活は何事もバランスのとれた「中道」が丁度よく、生活が両極端にブレるとストレスを感じるようにできているのかもしれない。

 就職活動をしていても、なかなか就職先が決定しない人は、「仕事をしたくても仕事が無い」というストレスだけでなく、「自分の将来が見えない」という漠然とした将来の不安感も手伝って、精神的に追い込まれてしまうのかもしれない。況して、日本の場合、卒業後の就職市場が閉ざされているような感じがする(実際、閉ざされているのだが)ので、余計に不安感を増大させてしまうのだろう。

 敷かれたレールから脱線することを極度に嫌う官僚的な社会的風潮と、そのレールからはみ出すことを考えもしてこなかった学生達との間に開いてしまった歪な空間、その歪な空間が日本の就活者達の未来に暗い影を落としている。自殺者の多くは就活中に、その歪に開いた漆黒の空間に「失望」という名の闇を垣間見たのではないかと思う。

 人間が自殺を考える時とは、基本的には自分の心を自分でコントロールできなくなった時でもある。失恋に始まり、失業、大病、身内の不幸、大借金など、感情をコントロールできなくなり、飯も食べれず、夜も眠れないという経験をしたことがある人なら、自殺者の苦しみはある程度は理解できると思う。一見、前向きなイメージのする「就活」というものも、さすがに数年間も続けば誰でも悩みの種になることは避けられない。就活というものが未来永劫続く責め苦だと思い悩んでいる人にとってはまさに「地獄」だろう。

 現代の日本は、本人の仕事能力の有無以前に、絶対的な仕事量が足りていないような経済状況なので、いくら就活を頑張っても報われるという保証はなく、運良く希望の会社に入社できたとしても、そこでの仕事が永続的に続くという保証もない。
 数十社も数百社も会社訪問するエネルギーが有るなら、いっそのこと、そういった就活生を100人単位で集めて、就活に使用するはずだった資金を出し合って起業でも考えた方が良いような気もする。もちろん、失敗する可能性も多々有るが、就活に失敗して仕事ができずに悶々と悩むよりも、実際に仕事をして失敗した方が得るものは大きいのではないかと思う。
 政府も経済成長を考えるつもりが無いなら、せめて、そういった人々を支援するような制度だけでも作った方がよいかもしれない。政治家が無能で、まともな経済政策によって雇用を増加させることができないのなら、民間の起業家を支援するシステムでも構築するしかないだろう。

 こういうことを書くと、「現実的ではない」という批判を頂戴することになるかもしれないが、もちろん、そんなことは承知の上で書いている。上述したような起業家支援システムのようなものができると、そういったシステムを逆手にとって支援金のみをふんだくろうとする輩が必ず出てくるので、確かに現実的ではない。
 しかしこの国では、「格差断固反対!」「規制緩和反対!」「原発即刻廃止!」と、経済成長を間接的に阻んでいる行為が善しとされる風潮が罷り通っているため、まともな経済成長政策を行える人が現れたとしても、日本経済を成長軌道に乗せることは至難の業とも言える。
 そう考えると、この国で自殺を食い止めるために必要なものとは、経済成長政策ではなく、まず、“無知であることの罪を認識すること”なのかもしれない。
 
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規制強化よりも重要な交通事故防止策

2012050401 今年は、JR宝塚線(福知山線)脱線事故から7年が経過したとのことで、テレビでも特集番組が放送されていたが、同じような悲惨な交通事故が短期間に内に相次いで発生した。京都祇園のてんかん暴走事故に始まり、同じく京都亀岡の居眠り暴走事故、そして、関越自動車道での高速ツアーバス事故と、新たな事故が発生する度に、その前の事故の報道が減少していく。事故の規模の大きさと、加害者が未成年でないことも影響しているのかもしれないが、現在、直近の高速バス事故がマスコミで槍玉にあげられている。
 
 京都での2つの事故についての記事は敢えて書かなかったが、高速バス事故については、少々、流言飛語の如く情報が飛び交っているようなので、少しだけ書かせてもらおうと思う。
 
 現在、よく聞くのが、「高速バス事故の原因は規制緩和のせい」というものだが、これは本当に正しい情報だと言えるだろうか? 今回はこの部分にスポットライトを当ててみたいと思う。
 
 今回の高速バス事故の直接的な原因は、京都亀岡の暴走事故と同様、“運転手の居眠り”だった。しかし、そのことが判明した時点で(高速バス事故に限り)その居眠りの間接的原因(または遠因)がどこにあるのか?という犯人探しになり、行き着いた答えが、過酷な労働=“規制緩和”だったという毎度お決まりのパターンである。

 予めお断りしておくと、私は規制緩和が正しいと言うつもりは無いし、世間で言われている市場原理(?)に任せれば全て上手くいくなどという考えも持っていない。
【証拠記事】『市場原理』とは何か?
 
 規制緩和によって価格競争が起こり、バス会社の安全性が低下したというのは、ある意味ではその通りかもしれないが、今回の事故だけでそう判断するのは、あまりにも早計であり短絡的な結論と言わざるを得ないと思う。今回のような居眠り事故が何度も続いたということなら、そう考えざるを得ないかもしれないが、運転手もロボットでない限り個人的な違いがある。個々人の生活リズムも違えば、肉体的な生理現象の度合いも人それぞれ違う。疲労を感じる程度というのも千差万別だし、朝型の人間もいれば、夜型の人間もおり、元々、夜間バスの運転手には向いていない人だっている。そういった様々な運転手がいるにも関わらず、運転手は全て同じという前提で犯人探しが行われているような気がする。
 
 それに規制をどれだけ厳しくしたとしても、それで交通事故が起こらないわけではない。先の京都亀岡の暴走事故を例に出すまでもなく、バスの運転手が無茶な私生活を過ごしていれば睡眠不足で居眠り運転事故を起こす場合も有り得る。
 規制云々だけでなく、実に様々な事情で事故というものは発生する。車の運転は人間が行っているのだから、如何なる方策を講じたところで、全くの無事故にすることは残念ながら不可能だ。極力、事故を避けようと思うのならば、より安全な交通手段を利用するしかないかもしれない。
 
 運転手が2人いたところをコスト削減で1人に減らされたようなケースであれば、確かにリスクは高まるかもしれないが、はたして、夜間バスを利用している人々はそういった安全性リスクが増大していることを認識しているのだろうか? 鉄道を利用する場合と、夜間バスを利用する場合、その料金には大きな開きがあるが、その開きとは一体、何の差だろうか? 運行設備の差だろうか? それともスピードやサービスや快適度の差だろうか? そこには様々な違いが存在するが、実は“安全性”という違いも入っていることに気が付いているだろうか?
 
 「規制緩和がいけなかった」と言うのは、極論すれば、「夜行バスは利用するな」と言っているようなものである。なるほど、バス会社を“安全性”という名目で規制で縛れば、運行料金は跳ね上がり、多くの人はバスではなく電車を利用することになるかもしれない。そうなれば、当然、バスを利用するよりも安全だ。しかし、それで消費者が満足するだろうか? 少しでも安価で旅行することを追い求め、夜行バスを利用し続けている消費者達が、リスク回避のために、高額な交通料金を支払っても構わないということになるだろうか?
 伝えられているところでは、今回の事故が起こった後も、夜行バスの利用客は全く減少していないらしい。結局、彼らは、安全性というものよりも低料金制というものに惹かれて行動していることになる。その感情は規制緩和によって生まれ、規制強化によって消えて無くなるものだと言えるだろうか?
 
 JR宝塚線の脱線事故にしても、規制が緩かったから事故に至ったわけではない。あの事故の場合、「時間厳守」という規則を絶対視するあまり、暴走を招いてしまったとも言える。
 そういう意味ではむしろ、規律厳守という違う意味での日本社会の規制(?)によって事故が起こったとも考えられる。
 もし、数分間、電車が遅れても問題視されない社会であれば、あのような悲惨な事故は起こらなかったと思う。安全性よりも規律制を重視した融通の利かない窮屈な社会が招いた悲劇だったと言えなくもない。
 違った例で言えば、過労死というものがある。これも、価格競争によって過剰な労働を要求されることよりも、その会社を辞めて他の会社に転職することが難しいという融通が利かない労働市場にこそ問題があると言える。
 
 今回、事故を起こしたバス運転手も、運転途中、3回の小休憩を取ってハンドル上にうつ伏せになって眠っていたと伝えられているが、この運転手が恥を承知で「居眠りしそうなので、ドライブインで1時間程、仮眠してもいいでしょうか?」と言うことができれば、今回の事故は起こらなかったと思う。しかし、そのようなことを言えば、「お客様に対してなんて失礼な奴だ!」「こんなバス会社は二度と利用するか!」ということになり、その運転手はクビになり、ヘタをすれば口コミでバス会社も潰れるかもしれない。
 
 あくまでも結果論に過ぎないかもしれないが、バス会社が無理をして安価な料金でサービスを提供していると思うのであれば、少し位はそういったマイナス点も笑って呑み込める位の度量が消費者にも必要かもしれない。元々、料金の違うものに同程度のサービスを要求する社会にも問題が有ると思う。サービスの高低は料金相応というのが、本当の市場原理である。そう考えると、この国では、市場原理がまともに機能しておらず、規律を重んじるという建前が、安全性よりも上位概念になってしまっているとも言える。
 
 規律を守ることは社会人としての常識(マナー)ではあるが、乗客の命を守ることよりも、その規律を守ることの方が大事だというところまでいくと大きな問題となる。
 ということで、規制を強化するよりも、社会の融通性を強化することを考えた方が良いかもしれない。つまりは、建前社会の規制緩和だ。
 
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シンプルに考えるべき日本の軍事問題

2012050201 先週に録画していた『朝まで生テレビ』【日本の安全保障とアジアの平和】を観てみた。今回は25周年記念スペシャルで沖縄のスタジオで行われたということもあり、現地の人々の生の声を少しだけ聞くことができた。もっとも、この番組に参加していた人々の意見が沖縄県民の総意かどうかは定かではなく、かなり思想的なバイアスがかかっているのではないかと思われる意見も見受けられた。

 沖縄県民にとっては、「なぜアメリカの基地が沖縄に集中していなければいけないのか?」という疑問があり、同じ日本でも“本土”と“沖縄”の扱いが違うということに不満を感じているようだった。沖縄だけが日本の犠牲になっているという被害者意識も有るように感じられた。
 確かに沖縄が本土以上にリスクを背負わされていることについては心情的には理解できる。いくら時代的背景と地理的事情によって沖縄に米軍基地が有ることは仕方がないとは言っても、実際に近隣に住んでいる人からすれば、「冗談じゃない」という気持ちは少なからず理解できる。私が当事者なら引っ越すと思うが、そうできない事情もあるのだろう。

 パネリストの小池百合子氏もチラッと述べておられたが、“米軍基地”と“原発”というものに対する国民的感情は実によく似ていると思う。誰しも、自宅の隣(と言うのは誇張表現だが)に原発があったり、基地があったりすれば、素直には受け入れられないとは思う。これはどんな立場にある人間でも共通する感情だろうと思う。
 しかしながら、敢えて苦言を述べさせてもらうと、それはあくまでも個人的な感情論であり、国や国民にとって、米軍基地が必要かどうかという議論とは分けて考える必要がある。

 個人的にはアメリカの基地は、ケビン・メア氏の言う通り、中国や北朝鮮という危険な軍事国家が存在している以上、防衛上、必要なものだろうと思う。自国で防衛手段を整える気があるというなら話は別だが、平和憲法が邪魔をしてそれができないのだから、現状では嫌でもアメリカに依存するしか方法がない。

 その「平和憲法が有るために戦争抑止力になった」という意見も聞かれたが、残念ながらこれは少し違うのではないかと思う。日本が戦後、戦争に巻き込まれずに済んだのは、アメリカとの安全保障条約という(他国からの)戦争を抑止する力が存在したからであり、曲がりなりにも、アメリカが世界の警察の役割を果たしてきた(つまり、アメリカという存在自体が最大の抑止力になった)からである。別に私は親米でもないし、アメリカ贔屓する気もないが、実際に現実を冷静に観ればその通りであるのだから、認めざるを得ない。

 では平和憲法に戦争抑止力は無いのか?ということだが、もちろん、有る。しかし、その抑止力とは、あくまでも自国が戦争を引き起こすことを抑止するためのものであって、他国からの戦争を抑止するものではない。ここを勘違いしてはいけない。
 他国からの視点で観れば、日本の平和憲法の有無など、全くと言ってもいいほど関係が無い。そもそも北朝鮮のような自国の法律も有って無いような無法国家が、日本の憲法に書かれてある「平和」などという言葉を意識する道理が無い。こんなことはよく考えれば誰でも解ることだと思う。日本の平和憲法が北朝鮮に対して機能しているなら、拉致問題なども起こらなかったはずである。
 
 要するに、憲法というものは自国の国家権力を縛るためのものであって、他国のそれを縛る権限も無ければ、効力も無いということである。同じ民主主義国家ならともかく、独裁国家を自国の民主憲法で縛れるなら、こんなに楽で平和な話はない。しかし、現実はそう甘くはない。

 世界中の先進国(民主国家に限る)が核兵器を保持しているのは、戦争を起こすためではなく、他国を侵略するためでもなく、戦争を抑止するための手段であることは常識中の常識である。自国の論理が通用しない国に対しては、憲法や法律という言葉としての論理ではなく、実際に抑止力を持った野蛮な方法で対抗するしか方法がない。その万国で通用する野蛮な“抑止力”が“核兵器”になっているわけだが、これは“凶器を持った狂人に対抗できるのは凶器でしかない”という当たり前の防衛論理が機能しているだけのことである。狂人に「平和」を説いたところで無意味だということを世界中の人々は常識として理解しているが、平和ボケした日本人にはそれが解らないというだけの話なのだ。

 こういった防衛上の問題は、あまり複雑に考えずに、子供のような素直な心で考えれば、簡単に答えが導き出される問題であると思われるのだが、いらぬ知識やバイアスがかかりまくった頭の固い人々には、その思い込みが邪魔をして論理的思考ができなくなっているのかもしれない。特に日本の学者や評論家などは、簡単なことを複雑にする能力だけには長けているので、職業上、物事をシンプルに考えることができなくなっているきらいがある。
 簡単なことを複雑にしてしまう人々の言うことを気にしていると、物事は一向に前に進まない。日本の軍事問題に関しては、シンプルに考えることをオススメしたいと思う。
 
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BOOK『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を読んで。

2012042801 現在、どこの書店に行ってもベストセラーとして陳列してある新書『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を遅ればせながら読んでみた。
 挑発的なタイトルからも分かる通り、本書も最近流行り(?)の現代医療批判本であるが、「自然死」のススメ的な内容の本である。著者は現在、老人ホームの医師をされている中村仁一氏。実際に老人ホームで数々の「自然死」を見届けてきた氏の言葉には説得力がある。中村氏は本書の前書きで以下のように述べている。
 
 「私などは、有名人ではないので失うものがない、おまけに先が短いので恐いものがありません」
 
 死を恐れない人物が他人からの批判や中傷を気にせずに本音を書けばこうなるという見本のような本であり、多少、毒々しい言葉遣いが見られるものの、ユーモアセンスのある文体は読み易かった。
 
 近年、「情報弱者」という言葉をよく耳にするようになったが、この言葉は実は医療の世界にも当て嵌まる…と言うより、医療の世界ほど情報弱者が多い(=情報格差が大きい)世界も珍しいかもしれない。
 医療に拘わらず、現代日本でまともな情報を仕入れるためには、本を読むか、インターネットで情報を取得するしか方法がない。インターネットが無くても本を読む習慣がある人はまだ救いがあるが、テレビや新聞だけの情報に頼っているような人は、無条件に「情報弱者」に分類される。この単純な事実を実感できない人のことを情報弱者と呼ぶわけだが、情報弱者が被る被害には、金銭的な被害だけでなく、命の危険に晒されてもそのことに気が付かないという恐ろしい被害がある。
 ここまで読んで「そんなバカな…」と思った人は、生粋の情報弱者だと思われるので、要注意だ。
 
 簡単なところで言えば、ネット販売の経験や知識が無い人は、ネットで買い物をする人よりも割高な値段での買い物を余儀無くされる。これは実際にその通りであることはネット販売経験者なら誰もが知っている。パソコンが利用できないと損をする、しかし、その程度のことなら、特に問題視する必要もない。せいぜい数百、数千円を損する程度なら笑って済ませられるし、そういった人が多い方が実は日本経済にとってもプラスになるという一面が有る。
 ところが、医療における情報弱者になってしまうと、無駄に命を危険に晒すことになり、場合によっては命を失ってしまうという損害を被ることになる可能性も有るので、笑っては済ませられない。
 
 私も数年前に父親をガンで亡くしているので、当時はガン関連の書籍を貪るように読んだ経験がある。その時に初めて気付いたのは、世間のガンに対する認識が必ずしも正しいものではなく、その治療法に至るまで疑問を抱かざるを得ないというものだった。
 不幸にもガンを告知された患者は、その医者からの言葉に絶望し、ガンという自らの病を詳しく知ることもなく、ただ、ガンという病を叩くという対症療法的な治療のみに専念することになる。余程、気丈で腹の据わった人でない限り、ガン告知後に、ガンを知るために自ら本を読もうなどとは思わない。ゆえに、こういった医療関係の本は病気になる前に読んでおいた方が、いざという時に冷静に判断できることになるし、実は病気の予防にも繋がるということを発見した。
 
 昔から「病は気から」という言葉もあるように、病気の多くはストレスによる免疫力の低下が原因であり、病の正体を知らないことによるストレスも病気の原因になることもあるかもしれない。過度な健康検診が逆にストレスになり、免疫力を下げているという本末転倒な事態もあることだろう。
 
 「大往生したけりゃ医療とかかわるな」というのは、「長生きしたけりゃ病院にいくな」という身も蓋もない言葉ではあるが、この言葉はある意味で正しいと思う。医者は神様ではないし、ある程度の病気は自己の免疫力を高めることによって治せるだろうし、生活習慣を改めることによって治せる病気もある。もちろん、治せない病気もあるが、自己責任の結果として生じた生活習慣病を他人である医者に治して貰おうと考えること自体に無理がある。
 
 病気というのは命に関わるものでもあるので、「大往生したけりゃ医療とかかわるな」と言われても、どう判断するかは、あくまでも自分自身である。たとえ、正しいアドバイスをしていたとしても、それを誰にも強制することはできない。そこが医療の難しいところでもあるが、先にも述べた通り、著者は「恐いものがない」人なので、本音を書き連ねている。意図的にユーモアを盛り込んだのかもしれないが、健康な(若い)内に読んでおいて損はないだろうと思う。
 実際、本書を読んで死の恐怖から解放された人も多いらしい。恐怖心から解放されることが病気を遠ざける効果があることは言うまでもないだろう。
 
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ミサイル打ち上げ失敗から生じる『第二次朝鮮戦争』の可能性

2012042001 北朝鮮がミサイル打ち上げに失敗したことは周知の通りで、世間では、しばしの安堵感が漂っているかのように見える。一時的に地政学的なリスクも遠のいたということで、世界の株式市場も好感を示し、ニューヨークダウも日経平均株価も少なからず上昇に転じた。

 しかしながら、北朝鮮が今回のミサイル打ち上げ失敗に懲りて、このまま大人しく黙って引き下がるとは思えず、どうもキナ臭い空気が漂っているように感じられる。
 北朝鮮側は国連からの非難に対しても「全面排撃」する構えを見せており、依然として予断を許さない状況が続いている。

 米国務省のトナー副報道官は「非常に強力な独自の制裁を検討している」と述べたそうだが、この“非常に強力な”という部分がどうも引っ掛かる。日本政府がこういう言葉を述べる時、それは大抵“お金”(経済的な制裁)を意味するが、アメリカの場合、必ずしも“お金”を意味しないという恐さがある。実際に米国防長官が「戦争の一歩手前にある」とも述べており、軍事的制裁となる可能性があることを仄めかしている。

 このままこの緊迫した状態が続くと仮定すれば、安保理による追加制裁後に発生すると思われる北朝鮮の核実験を機に、朝鮮戦争に発展する可能性も否定できない。
 「窮鼠猫を噛む」という諺の通り、追い詰められた無法国家の独裁者は、時に信じられない行動を起こすことがある。まるで、時代の見えない澱んだ空気に背中を押されるかのような暴挙に出ることがある。戦争というものは、大地震と同様、いついかなる時に起こるか分からないということは、これまでの歴史が暗に示している。

 かつて1950年に勃発した朝鮮戦争では、「朝鮮特需」という言葉が生まれた。日本経済の変遷に少しは興味のある人なら誰もが1度は聞いたことのある言葉である。
 1945年の敗戦からなかなか立ち直れなかった日本経済にとって、朝鮮戦争から派生した「朝鮮特需」は自国の経済を押し上げる大きな原動力となった。『戦争』というものが最大の経済政策であることは、よく知られた(認め難い)事実である。

 あくまでも仮定の話だが、『第二次朝鮮戦争』が起こると、高い確率で『第二次朝鮮特需』も発生することになる。他国間の戦争という予期せぬ不幸な出来事で自国経済が立ち直るというのは、素直に喜べないことではあるが、「この世の地獄」と呼ばれる独裁国家を“まともな民主国家に変える”という大義名分を掲げて、アメリカが戦争を視野に入れている可能性は否定できないと思う。中国との関係もあるので、そう簡単にはいかないとは思うが、アメリカ経済の懐事情も考慮すれば、その可能性は充分に考えられる。

 要は、北朝鮮が自滅的な行動に出れば出るほど、アメリカに戦争(北朝鮮への攻撃)の口実を与えることになるということである。
 これまでにも北朝鮮は、2006年、2009年とミサイルを発射した後に核実験を行ってきているので、今回も同じように核実験を行う可能性は極めて高い。しかしその選択は「三度目の正直」的な危険を孕んでいる可能性がある。
 北朝鮮が再三の警告を無視して三度、核実験を行うという暴挙に出れば、国際世論は誰も北朝鮮を擁護できなくなるので、北朝鮮のオウンゴール(自滅)というシナリオが出来上がったとしても何ら不思議ではない。
 北朝鮮に新たに生まれた20代の若き独裁者が、自らの間違った判断によって国を崩壊に導く確率は高いと言えそうだ。

 『3・11』を日本の『第三の敗戦』ととらえている識者もいるぐらいだから、「歴史は繰り返す」という言葉が本当であるなら、この数年の間に『第二次朝鮮戦争』が勃発する可能性もまんざら否定できない。このキナ臭い空気の正体は“戦争が迫っている”という予兆なのかもしれない。
 
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『ビジネスごっこ』から誕生した日本の給料システム

2012041401 先日、ソニーが全従業員の約6%にあたる「10000人の人員削減を行う」と発表したことで大きな話題となった。ソニーはリーマン・ショック時にも16000人の人員削減を行っているので、これで合計26000人の削減ということになる。
 前回の16000人削減で1000億円のコスト削減になったそうだが、今回の10000人では750億円のコスト削減になるらしい。
 6%ということは、100人の会社で考えれば6人という計算になるので、リストラとしてはそれほど大騒ぎする程のパーセンテージでもないような気もするが、「1万人」という具体的な数字が世間に与えた衝撃は大きかったらしい。新聞の見出しにデカデカと『1万人削減』などという白抜き文字が踊ると、必要以上に大事件だというイメージが刷り込まれ、余計に不安感を煽ることになってしまう。

 かつては「家電」と言えば日本製が主流だったが、今や、アジアの新興国に完全にお株を奪われてしまった感が強い。性能的な品質面では未だ日本製に分があるものの、価格的には全く太刀打ちできないような状況だろうと思う。
 最近は日本の家電メーカーも『MADE IN JAPAN』という看板を捨てて、形振り構わず人件費の安い他国で商品を生産している場合が多いが、本社がある自国の従業員の人件費(下請けの関連企業も含む)が高過ぎるためか、結局、世界を舞台にしたマーケットでは価格競争で負けてしまうことになる。
 先進国と新興国では、その人件費に圧倒的な差が有るため、同じ土俵の上で同じような商品を製造していたのでは、元々、勝ち目は無いに等しい。こういった事態(家電製造業の行き詰まり)を招くだろうことはもう20年以上も前から分かり切っていたことであるので、今更驚くような話でもないのだが。

 日本の労働者と新興国の労働者では、その人件費に10倍から30倍以上の開きが有ると言われている。どんなに器用で迅速に仕事ができる人であっても、流石に他人の10倍以上の仕事を行うのは無理がある。これは喩えて言うなら、100m走で90m以上のハンデを背負って競争しているようなものである。この差はもはや、能力や努力でなんとかなるようなレベルの問題ではない。こんな勝負をまともに行って勝てるのはスーパーマン位のものである。
 如何に日本国民が勤勉で有能であったとしても、モノ作りにおいては人件費の壁を超えることはできない。残念ながら、それがグローバル社会の厳しい現実であり、デフレ経済の中における日本の立ち位置である。
 ちなみに日本で言われている“お金が足りない”という意味での「デフレ」は、デプレッション(不況)のことであり、世界的なデフレ現象とはほとんど関係がない。

 前置きが少し長くなってしまったが、こういった事態を少しでも緩和する術が有るとすれば、それは、日本の労働体系を根本的に改めていくしかないのではないかと思う。
 具体的に言えば、正社員給というような建前給を止めて、日本の全企業が、市場の動向に沿った雇用・給与体系にするしかないのではないかと思う。
 昔の羽振りが良い頃の日本企業では、“仕事ができる人間”よりも“世渡りが上手な人間”の方が優秀な人間だということで重宝されたことがある。一部の公務員の世界では現在でもそうなのかもしれないが、今時の民間企業でそんな世渡りゲームのような真似事をすれば、即刻倒産ということになってしまいかねない。こういったデタラメなビジネスごっこが成り立った背景には、ロクに仕事をしなくても過剰な利益によって会社経営が成り立ったという裏事情がある。

 会社にいるだけで年々自動的に給料が上がっていくというような昇給システムも、このビジネスごっこの範疇に含まれている。しかし、毎月決まった給料が支給されるというシステムは、絶対的な仕事量も利益も保証されているという恵まれたビジネス環境でしか本来は成り立たないものである。
 実際、絶対的な仕事量の確保に躍起になっているのが現在の日本企業の姿であり、そんな状況下では、毎月の給料というものは、仕事量の変化によってアップダウンするのが本来の自然な姿だと言える。つまりは、仕事量によって変化する当たり前の給料体系でしか今後の経営は成り立っていかないということだ。

 ソニーも1万人もの人員をカットするよりも、ある程度、仕事量(利益)に見合った変動制の給料体系になっていれば、数千人の雇用は守られることになっただろうし、技術者の流出も避けられたはずだ。給料が下がって嫌なら、従業員自らの意思によって退職や転職を選択するというのが、まともな労働市場の姿である。
 時代や環境に沿った給料体系に移行することができないことによって、ハードランディング的にいらぬ失業者を生むことになり、全体としての労働市場にも景気にもマイナスの影響を与えることになる。
 
 ソニーの平井社長は「ソニーを変える。私は本気で全力で社員と一丸となって変えていく」と決意表明を声高らかに述べたそうだが、その抽象的な言葉には、どこか空虚さが漂っているように感じてしまう。今後、如何なる新商品を生み出したとしても、現在の雇用・給与体系をそのままの状態で放置すれば、再度、市場からの反作用を食らうことに成りかねないのではないかと危惧する。無論、これはソニーだけでなく、全ての日本企業に当て嵌まることでもある。
 
 「仕事量の変化によって給料が変わる」、これは至極当然の給料システムである。しかし、この当たり前のことができていないのが現在の日本企業の実態である。
 「毎月、給料が違ったら生活が安定しないではないか!」と怒る人がいるかもしれないが、毎月同額の給料が支給されるためには、トータルで総収入以上の利益を生み出していなければならない。グローバル化社会以前の日本では、その条件が幸運にも達成されていたがゆえに、そういったリスクヘッジ型を装った給料体系(経営者側から見れば、ピンハネ給料体系)が維持できていたに過ぎないのである。
 仕事量に比例して給料が変化するという当たり前の労働市場法則が機能していれば、現在の日本の雇用問題も少しはマシになるだろうと思う。現在の日本の労働市場の閉塞感の正体は、自然に逆らった人為的な計画経済に嵌り込んで、そこから抜け出せなくなってしまっていることにある。
 
 最後に、ソニーと言えば、以前、ホリエモンが買収する計画を立てていたことで騒がれた企業である。あの当時では、「なんと大それたことを…」と言う人が大部分だったと思うが、もし本当にホリエモンがソニーの経営を現在行っていたとすれば、どうなっていただろうか? これは私個人の推測だが、おそらく「世界のソニー」という言葉は現在でも通用していたのではないかと思う。
 彼はソニー買収によって iPhone的な商品を製造して流通させるという青写真を頭に描いていた。そして現在の大画面テレビ事業が不振に陥ることも既に見抜いていたフシがあり、「大画面テレビ事業は海外メーカーに売却する」というようなことも述べていたそうだ。
 ホリエモンを刑務所の中に閉じ込めた反作用は、日本経済にとっては無視できない悲劇を齎すのかもしれない。
 
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「地獄への道は消費税増税論議で舗装されている」

2012040101_2 民主党内での愚にもつかない消費税増税論議をよそに、北朝鮮のミサイル(?)打ち上げは着々と進行しており予断を許さない状況が続いている。
 北朝鮮のミサイル問題という喫緊の課題を後回しにして、未だに消費税増税論議に花を咲かせている危機錯誤な政治家達の姿を観ていると、なにをかいわんやの感がある。
 この現状を喩えて言うなら、タバコの不始末で自宅が出火した時に、その火を消そうとせずに夫婦喧嘩をしているようなものである。火事になった時には消防署(アメリカ)が消してくれるという他人任せの平和ボケ思考が招いた悲劇とも言えようか。

 野田総理は以前から「消費税の増税に政治生命を賭ける」というようなことを述べており、自らが日本の将来を背負ったヒーローにでもなったかのような気分でいるのかもしれないが、これはかつての小泉元総理の「郵政の民営化に政治生命を賭ける」と言うのとは全く方向性が逆である。
 富裕層に重くのしかかる税金は別として、庶民に等しくのしかかる税金に反対しない国民はいない。ゆえに、消費税を上げるという行動は、一見すると民意に反しているように見え、その波に逆らうことができるのが勇気ある政治家の姿だと思っている人がいるかもしれない。しかし、消費税を上げる目的が、過剰な福祉政策に繋がっているのであれば、結果的には民意に沿っているわけだ。しかして、その民意とは、善良な民意ではなく、悪徳な民意、つまり既得権益の維持に繋がる民意である。
 
 「郵政民営化」というものは(その実効性はともかくとして)一応、既得権益構造の破壊(=国益)という名目があったが、「不況下の増税」というものは、どう考えても国益に適っていないことは明らかであり有害無益でしかない。「既得権益構造の破壊に政治生命を賭ける」と「増税に政治生命を賭ける」とでは政治的な立脚点が全く違うということを知る必要がある。
 
 誰に吹き込まれたのかは知らないが、「不況下の増税」などという狂った政策を疑うことなく実行できるということは、何者かに洗脳され思考停止状態にあるとしか考えられない。
 「民主」という言葉の通り「国民が主役」だと考えるのであれば、現在の不況下で行われるべきは「減税」であり、民主党の党主が本来述べるべきは「消費税の減税に政治生命を賭ける」でなければ政党名と矛盾していることになり辻褄が合わない。
 
 巷では「消費税は自民党がもっと前に上げるべきだった」というような説も聞かれる。確かに経済成長期やバブル経済時に消費税を上げるべきだったという見解には一理あるかもしれない。しかし、その理由によって、現在の与党である民主党が消費税を上げなければならないという理屈にはならない。
 仮にバブル経済時に消費税を10%に上げていたとしても、現在、採るべき手段は減税でしかない。現在の消費税率が何%であろうと、『好況期に増税は有り得ても、不況期には減税しか有り得ない』という基本的な原理原則が変化するわけではないからだ。
 
 この不況下で減税を行うという、ある意味で狂気とも受け取れる行動を民意に反して断行してこそ、真の政治家だと言える。それができてこそ、「名宰相」として歴史に名を残すことができると思われるのだが、このままいくと野田総理は歴史に汚名を残すことになる可能性が極めて高いと思われる。
 消費税の増税はまだ決定したわけではないが、既に閣議決定まで進んでしまったわけだから、仮に消費税増税がギリギリのところで食い止められたとしても、もはや汚名を返上して美名に変えることは不可能に近い。おそらく後世の人々からは「平成の悪代官」の1人として認識されることになるだろう。残された可能性は、中途半端な悪人で終わるか、極悪人になるかの違いだけだろうと思う。
 
 「地獄への道は善意で舗装されている」という有名な言葉があるが、「消費税増税によってハッピーになる」などという言葉を信じていると、行き着く先は間違いなく地獄である。消費税増税論議に花を咲かせている最中に、北朝鮮からのミサイルが飛んで来て対処できないということにでもなれば、国民はまた別の意味での地獄を見ることになる。まさに「地獄への道は消費税増税論議で舗装されている」である。
 
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BOOK『「空腹」が人を健康にする』を読んで。

2012032501 先日、新聞を読んでいると、『「空腹」が人を健康にする』という本の宣伝広告が目に入った。タイトルの言葉に興味を抱いたので早速購入して読んでみた。

 著者の南雲吉則氏はナグモクリニックを経営されているお医者さんで、実年齢よりも20歳若く見える健康法を提唱しており、実際に自らも実年齢より20歳若く見えることで話題の人物であるらしい。 南雲氏は56歳でありながら、脳年齢38歳、骨年齢28歳、血管年齢26歳という驚異的なデータの持ち主としても知られている。

 この本に書かれてあることは、ズバリ「一日一食」のススメである。「三食昼寝付き」という言葉が流行ったこともある飽食国家日本にとっては、ある意味で「絶食のススメ」とも受け取れる内容だが、書かれてあることの8割方は納得のいく内容だった。(少々、唯脳論的な偏りが感じられたのはマイナス点だった)。
 
 近年、動物実験によって「延命遺伝子」なるものが発見されたそうで、食事量を4割減らすと、寿命は1.5倍に延びることが証明されたらしく、「食事量を減らすことで健康になる」という言葉には科学的な裏付けがある。
 そして、人間は空腹状態に置かれた時に、生命力が活性化するという遺伝子を持っており、その生命力遺伝子が活性化することによって、傷付いた細胞が修復されるらしい。つまり、健康や若さを保つ秘訣は、空腹状態を作ることにあるというわけだ。一見、乱暴な説にも聞こえるが、もし、そういった遺伝子(と言うより本能的な生命維持装置)が本当に人間の身体に備わっているのであれば、充分に有り得る仮説だと思う。
 
 この本でも指摘されていたが、確かにお腹が空いてもいない(=食欲もない)のに、毎度毎度決まった時間に3度の食事を取る必要性はあまり感じられない。特に休日などは朝遅くまで寝ている人も多いだろうから、そんな日に無理して朝食を食べることが健康に良いとは思えない。例えば、10時に朝食をとって、またすぐに12時に昼食を食べるのでは、どう考えても健康な生活習慣とは思えない。
 
 私も、朝起きてすぐに朝食をとると、会社に到着するまでの間に胃腸の調子が悪くなる(早い話、下痢する)ことがたまにあったので、数年前からは会社に到着してから、少しだけ朝食をとるようにしている。寝起きで慌てて食事するよりも、胃腸が落ち着いてから食事した方が健康に良いことは実体験としてもよく解る。食べたい時(食欲のある時)に食べるというのが、人間の本来の姿であり、食欲も無いのに決められた時間に食事をしてお腹を壊していたのでは本末転倒であり、栄養も身に付かず意味がないと思う。
 
 「毎日、決まった時間に食事をすることが健康の秘訣」という長らく信じ込まれてきた日本の常識は、よく考えると常識でもなんでもなく、満腹になるまで食べることのできる恵まれた国で生まれた食習慣に過ぎないということがストレートに指摘されており、「食べ過ぎこそ病気の始まり」という言葉にナルホドなと納得した。昔から「腹八分目」という戒めの言葉もあるように、食べ過ぎによって病気を引き起こしているケースは意外に多いのかもしれない。
 一般的には「一日一食」を実践するのは難しいとしても、「一日二食」なら、試してみる価値は有るかもしれない。ただ、「一日一食」とは言っても、貧しさのススメというわけではない。
  
 よく、「辛いものを食べると病気になる」とか「甘いものを食べると病気になる」というような言葉を耳にするが、実はこれは少し間違っている。正確には「辛いものを食べ過ぎると病気になる」または「甘いものを食べ過ぎると病気になる」が正しい。要するに、健康に良いか悪いかを決定づけるものとは、食物の“”ではなく“”なのである。
 激辛の食べ物を食べて、「辛い」と感じるのは舌であり、それは単なる味の強弱に過ぎない。人間の健康に影響を与えるのは、舌で感じた味ではなく、胃に入った量で決まる
 上記は私の意見だが、この本にもアルコールを例にあげて同じようなことが書かれていた。曰く「休肝日は必要ない」と。アルコールは水銀と同様、蓄積毒であるため、一生の間にどれだけの分量を摂取したかが問題となる。ゆえに、毎日、少量のアルコールを飲むだけなら特に問題はなく、1週間に1度だけアルコールを抜いたところでほとんど健康には影響しないというわけだ。
 
 南雲氏オリジナルの持論かどうかは定かではないが、この本の中で特に興味を惹いたのが、糖尿病についての考察だった。簡単に言うと「糖尿病とはいくら食べても太らない体をつくるための人類の適応反応」とのことらしいのだが、こういう考え方もあるのかと感心した。ここで内容を書いてしまうとネタバレになってしまうので詳細は本書に譲りたいと思う。食事と健康の関係について興味のある方には一読をオススメしたい。
 
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ルネサンス(再生)を放棄した『相続税100%』という愚策

2012031701 少し前に、「維新八策」の『資産課税』についての批判記事を書いたところ、その後、何日かすると偶然にも『資産課税』の取り止めニュースが流れた。『資産課税』の反対を訴えかけていたブロガーは数多くいたので、あくまでも偶然に過ぎないが、2度目の偶然(2匹目のドジョウ)を狙って、今回は維新八策の『相続税』について書いてみたいと思う。

 率直なところ、私はてっきり、『資産課税』を取り止めたのであれば、そのうち、『相続税の強化』の方も取り止めるのではないかと思っていた。しかしながら、その楽観的な推測とは裏腹に、先日(3月9日)、大阪維新の会が「不動産を含む遺産の全額徴収」を検討しているという報道があった。
 
 大阪府の松井知事は、『資産課税』を取り止めた理由を、「富裕層が(国外に)逃げる可能性がある」と述べていたが、『相続税を強化』することによっても同じような現象が起こる可能性が有ることには気付かれなかったのだろうか?
 
 富裕層の国外逃避を避けるために資産課税を取り止め、その代わりに相続税を強化すると言うのであれば、論理的にも筋が通っておらず、矛盾を抱えたチグハグな政策だと言わざるを得ないと思う。それに不動産にまで課税強化が為されるとなると、合法的に課税を免れる手段が極めて少なくなってしまうため、資産を失いたくないという富裕層は、より一層、国外へ逃げ出す可能性が高くなる。

 簡単に言うと、現在、生きている人間の資産(預貯金)に課税するのが『資産税』であり、死亡した人間の資産(遺産)に課税するのが『相続税』である。つまり、これらは本来、2つで1セットの『資産没収税』という側面を持っており、どちらか一方を否定し、どちらか一方を肯定するような代物ではないということである。
 
 資産課税の場合、消費活動を行うことによって課税を免れることができるが、相続税の場合、その課税を免れた資産にまで課税されることになる。この2つの税金がタッグを組むと、個人が財産を持つ(残す)ことを否定した完全な社会主義国家が出来上がることになる。幸い、資産課税は取り止めになったものの、相続税が100%になっただけでも日本経済に与える悪影響(ダメージ)は測り知れないものがある。

 維新の会が提唱する「一生涯使い切り型人生モデル」などというものは、裏を返せば、「資産を生きている間に使い切ってしまった人々の面倒をみる福祉社会」のことを意味する。それは国が国民の資産を完全管理するという共産主義国家の人生モデルとほとんど変わらないということである。

 個人が財産を持つ(残す)ことを否定するような思想が蔓延すると、個人が自己の能力を磨き、お金儲けに精を出すというインセンティブが消失してしまうことになる。努力した成果が全て国家に没収され、その富を平等に分け合うなどというのは、どこぞの崩壊しかかった共産主義国家の体制そのまんまである。

 14世紀のルネサンスの時代には、多くの芸術家が生まれ、多くの文化が花開いたが、その文化の誕生の背景には、多くの「パトロン」と言われる裕福な人々が存在した。個人の才能に対して投資するという人々がいたお蔭で多くの才能が花開いたということである。
 相続税を100%にするということは、そういったパトロンのような人々を世の中から無くすということでもある。当然、起業家が生まれる余地も大幅に狭められることになる。そんな社会で新しい文化が生まれるかどうかは、敢えて問うまでもないだろう。
 
 突き詰めて言うなら、現代の政府の役割とは、実はパトロンに成ることにある。才能ある個人、言い換えれば、富を生み出す能力に秀でた人間を経済的にも環境的にもサポートし、その個人が生み出した富の一部を投資家として間接的に社会に再分配するのが本来の政府の役割だとも言える。
 その政府が、個人をサポートするどころか、個人の才能を閉ざすような政策を実施し、個人のやる気を削ぐようなことを行っていたのでは、経済成長など夢のまた夢になってしまう。

 維新の会のメンバーも悪気があってやっているのではないと信じたいが、相続税100%などというのは、あまりにも無茶苦茶な政策であり支離滅裂もいいところである。個人が汗水たらして(又はリスクを背負って)働いて貯めた資産を最終的に1%も自由に扱うことができないなどという政策は、維新の会が標榜する“自立”とは真逆の政策だとも言える。

 「生きている間にお金を使わなければ損だ」というようなインセンティブを人為的にこしらえたところで、景気が良くなるのは、せいぜい数年間だけであり、そこから先は坂道を転げ落ちるように衰退の渦の中に巻き込まれて行くことになるだろう。なぜなら、そういった政策は人間の自由意志を無視した計画経済政策でしかないからだ。
 実に皮肉なことではあるが、計画経済などというものは、基本的には資本主義の精神が根付いた国でしか機能しない(仮に機能したとしても一過性のものでしかない)。
 国民の自由意志を奪う相続税100%政策などが実施されれば、その資本主義の精神自体も失われることになるため、必ず失敗することになる。

 維新の会は、国民の資産を人為的にどうこうするというような発想は捨てて、国民の自由意志に委ねる政策に切り替えた方が良いと思う。どうせなら、「相続税0%」に切り替えることをオススメしておきたい。

 近い内に『相続税の強化』が取り止めになることを期待して筆をおきたいと思う。

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