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2007年2月

年金制度の抜本的方策とは?

 少子高齢化が大きな問題になっている日本では、この先、年金がまともにもらえなくなるのではないか?という不安感を持っている人がたくさんいる。そしてその年金問題の抜本的な方策を政治家に求めている向きは多いが、一向に抜本的な方策が出てくる気配がない。なぜか? 不可能に近いことだからだ。
 元々、現在の年金制度は、高度経済成長と人口増加を前提としているので、その前提が失われてしまえば即時、運用不可能となる制度だからだ。

 日本経済は、既に成熟期に入っていると考えるのが正解だろうし、経済が成熟期に入った国の人口は増えないというのは、お決まりのパターンと言える。
 夫婦2人が2人以上の子供を産まない限り人口が増えることはない。非婚者の増加も考慮すれば2人でも足りないだろう。現在、2人以上の子供を持つ人が減っているのは誰の目にも明らかだ。ではなぜ減っているのかといえば、その何割かは経済的な事情と言えるだろう。
 土地資産が騰がることが常識で、終身雇用も年功序列も当然、そして子供の数が3人以上が当たり前だった時代に生まれた制度を現代に当てはめるとどうなるか? 答えは考えるまでもないだろう。

 国民年金の場合、社会保険庁の解体、民営化という案も出されてはいるが、民営化したところで何の解決にもならない。役人の無駄遣いが減少しても、人件費の削減をしても、根本的な解決にはならないことはよく考えれば解ることだ。それに年金は積立制ではなく賦課制なのだから、無駄遣いした昔の余剰年金を現在にもってこれる訳でもない。役人の無駄遣いは制度上の欠陥であったというだけのことであり、無駄遣いしなかったからといって、現在の年金が潤おう制度にはなっていないのである。
 根本的な解決策は、人口の減少に歯止めをかけることしかないのだから、社会保険庁をどうこうしたところで、人口が増加するわけではない。

 人口を増加させるには、移民を受け入れるしかないという意見もあるが、これもあまり現実的とは思えない。現在でも鎖国に近い状態の日本が、簡単に移民を受け入れるとは思えないし、移民を受け入れることによって、人口問題よりも逆に移民問題の方ががクローズアップされる可能性も否定できない。もっとも、現状維持しか頭にない日本の官僚と、問題の先送りしか頭にない日本の政治家が全面的に移民を受け入れるなどということは(餓死寸前にでもならない限り)有り得ないと考えた方がいい。

 ではどうすればいいのか? 残念ながらどうすることもできない、万策尽きたというのがその解答かもしれない。要するに年金制度が破綻しているにも関わらず、年金制度を続けていこうとするところに問題があるのだ。年金制度に代わる方策を考えた方が良いということだ。
 そう考えると、厳しい方策を採るしかないかもしれない。年金という他人依存の制度から、なんらかの自己責任制度に変更せざるを得ないのかもしれない。
 今の日本にそんな方向転換ができる政治家がいるのかどうかは疑わしい限りだが、過去の価値秩序を良い意味で破壊することのできる政治家が現れない限り、年金問題は解決できないと考えた方がいいだろう。仮にそんな有能な政治家が現れたとしても、既得権益を手放そうとしない抵抗勢力(官僚)に邪魔されることが予想される。官僚が実権を握っているというお国の事情からも年金問題の解決は至難の業とも言える。

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格差問題の本質は階級社会

 ここ数年、新聞、テレビなどで「格差」という言葉をよく目にするようになった。
 政治の世界でも、格差というものが取り沙汰され、大きな問題になっている。
 この格差というものは何を表しているのかと言えば、まず国民の収入の格差が大きくなっているということらしい。
 日本は世界の中でも最も格差のない国とも言われてきたが、このところ、パートや派遣社員、フリーターなどの職種が増加していることで、“格差のない国”という常識が崩れかかっている。今までの常識から考えれば、確かにこれは問題かもしれないが、本当に憂慮しなければならない問題は別のところにあると思われる。

 給料の差というものは昔から存在する。会社の経営者と従業員では収入に数倍の差があるのはザラだし、能力のある優秀な人物なら高給な場合は多々ある。
 しかしその程度の差なら大した問題とは思えない。海外では企業の経営者と従業員では数百倍以上の収入格差があるわけだし、従業員の中でも日本以上に収入格差があることはよく知られていることだ。
 海外から観れば、現在でもまだ収入格差の少ない日本が、その海外よりも大きな問題を抱えていることがあるとすれば、それは収入の格差ではなく、収入の格差の固定、つまり、現状の格差を挽回できるチャンスが極めて少ないという機会の不平等問題だと言える。
 同じ仕事をしている人間が、その立場が違うという理由だけで収入格差が開いてしまうという不公平な社会(=固定された階級社会)にこそ問題があると思われる。

 例えば、非常に能力のある人にしかできない仕事をしている人が高給で、平凡な仕事をしている人が高給ではないというなら、格差が開いてもそれは仕方がない。しかし、同じ仕事をしているのに評価が絶対的に異なるというのは問題だ。
 具体的に言えば、正社員よりも優秀でよく働く派遣社員がいたとしても、その派遣社員が正社員よりも高給になることは有り得ないとする固定された階級格差が問題なのである。

 1時間に100の仕事をする人と、50の仕事しかできない人がいたとしよう。100の仕事をした人は50の仕事をした人よりも2倍の収入を得ていたとしても、それは格差とは言えない。それは能力の差としての評価であって、格差ではない。ところが、現在の日本では、いくら能力があっても、それを正当に評価されない人達がいる。評価されない人がいることも問題には違いないが、それ以上に“評価されない人はいつまでもそのまんま”という閉鎖された階級社会に問題があるのだ。(公務員とサラリーマンの関係も実はこれに近いと言えるかもしれない。)

 政府が「格差を是正しなければならない」と言うのなら、真っ先に行うべきことは、収入の格差を小さくすることではなくて、階級の格差を無くすことだ。それをまず考えなければ何の解決にもならない。
 例えば、IT長者と一般サラリーマンでは大きな収入格差があるかもしれない。しかし、そんなものを是正しても意味がない。その一般サラリーマンがIT長者になれる可能性が開けているのなら、それでいいのだ。問題は、能力のある者が学歴や職歴などの関係で、本来の立場に登れなくなってしまっている悪平等社会(縁故社会)にあるのだ。 

 平等というものには“機会の平等”と“結果の平等”というものがあるが、今の政府が行おうとしている格差是正は後者の“結果の平等”になってしまっている。これは大きな誤解で、本当に行わなければならないのは、前者の“機会の平等”だ。
 “機会の平等”と“結果の平等”が両方成立することは有り得ない。
 “機会の平等”を認めるということは、=結果の不平等を認めることになる。つまり格差を認めるということを意味する。それは、努力した人間がそれにふさわしい対価を得ることは当然とする考え方だ。
 逆に格差を認めない社会とは、機会の平等を認めない社会だと言うこともできる。それが現代の日本社会が陥っているジレンマ状態だ。“結果の平等”を認めようとしないだけでなく“機会の平等”も認めていないという支離滅裂な社会体制が問題なのだ。よって、格差が大きな問題なのではない、階級の固定、すなわち、機会の不平等こそが是正すべき大きな問題なのだ。

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「デフレ脱却」というお題目

 テレビや週刊誌、果ては一般庶民の間で今もなお毎日のように唱えられているお題目がある。それは「デフレ脱却」というお題目だ。
 ニュースキャスターや経済評論家は、なんの疑いもなく「デフレ脱却に向けて」とか「デフレ脱却はいつか?」とか宣っているが、これにはある疑問を抱かざるを得ない。その疑問とは「デフレ脱却すれば景気が良くなるのか?」という疑問だ。

 宗教の世界にもお題目というものがあると思うが、大事なのはお題目を唱えることではなく、お題目の中身(意味)を考えることだ。デフレ脱却もそれと同じように、言葉ではなく、中身を考える必要があると思われる。

 では「デフレ脱却」とは何を意味しているのか?

 デフレとは経済用語でデフレーションのことであり、インフレ(ーション)の逆の現象を意味する。

 デフレとは、“物の価値が下がり続ける”ことを意味し、
 インフレとは、“物の価値が上がり続ける”ことを意味する。

 上記のことを踏まえると、「デフレ脱却」というのは(ストレートに受け取れば)“物の価値が下げ止まれば良い”というような解釈になってしまう。
 しかし、これは本当か?

 確かに日本経済は、バブル期まで物(土地)の価値が上がり続けるというインフレ経済だった。そしてバブルが崩壊した後、土地の価値は下がり続けた。この現象をもって多くの人々は「デフレ」と称した。まるでバブルが崩壊したことがデフレになった直接の原因であるかのように。土地の値段が右肩上がりから右肩下がりに転じたことをもって「デフレ」だと認識してしまった。そして物の値段が再び上がり出せば、「デフレ脱却」だと声高に叫ぶようになった。

 バブルの崩壊は、異常に上がり過ぎた地価が膨張して破裂したという現象であって、その現象がデフレの始まりだと解釈するのは無理がある。なぜならデフレは日本だけで起こっている現象ではないからだ。今や世界的なデフレであることを否定する人間はいないだろう。ではなぜ、世界中でデフレが発生したのか?
 答えはベルリンの壁の崩壊であり、世界経済がグルーバル化したためだ。それまでの東側諸国や共産圏の国々の安価な労働力が鉄のカーテンから解放されて、津波のように西側諸国に押し寄せた。限りなく物価の低い国の商品が、物価の高い国に流れてくるとどうなるか? 答えは簡単だ。物価の高い国の商品は安くならざるを得ないということだ。
 それがデフレの正体であって、これを食い止めるのは日本国内の諸政策とはほとんど無関係だということが解る。そして「デフレ脱却」というお題目を唱えることも無意味だということにも気付かされる。つまり日本では、ベルリンの壁の崩壊とバブルの崩壊が同じ時期に起こったために、大きな誤解をしてしまったのだ。『デフレ=不況』という誤解を。

 世界的なデフレ脱却などは、世界的な戦争でも起こらない限り、当分の間、起こり得ない。その当分の間とは、世界の労働力(労働賃金)が平準化されるまでということになる。
 肝心なことは、「デフレ脱却」と唱えることではなくて、デフレの意味を考えることだ。意味なく「デフレ脱却」などと何万回唱えたところで景気は回復しない。意味を考えてどうすれば良いのかを考えてこそ、不況からの脱却の可能性が出てくるのだ。

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『役所の休日』に対する大いなる疑問

 一般的なサラリーマンの休日と言えば、通常は土曜日か日曜日と決まっている。
 一般人相手の商売(販売業など)は土曜も日曜も営業してはいるが、土曜、日曜に休日を取っている一般人が圧倒的に多いのは事実であり誰もが認めるところだ。

 百貨店やスーパー、レジャーランドが土日に営業しているのは実に単純な理由だ。その理由とは、“客が最も多い日だから”に尽きる。つまり、利用したいという需要が圧倒的に多いからに他ならない。そして需要が多いということは、イコール売り上げアップに繋がるからだ。一体、どこの世界に土日に休業している百貨店やスーパーがあるだろうか?
 ところが、誰にも文句を言われることなく、それを実現している所がある。それはどこかって? もちろん日本全国の役所である。

 先程、“一般人相手の商売”と書いたが、その最たる所はどこかと言うと、実は役所ではないのか?という疑問が浮かんでくる。土日に役所を利用したいという一般人は圧倒的に多いはずだ。会社の近所に役所があるならともかく、土日にしか休日を取れない一般サラリーマンは、場合によっては役所に行くためにわざわざ有給休暇を取得しなければならないかもしれない。
 役所の休日が一般人と同じ土曜・日曜になっているというのは、常識的に考えれば不思議なことだ。大体、公務員というものが国民への奉仕者であるべきなら、土日に営業するのは当然のことと思える。

 「土日も休まずに働けというのか!」という人がいるかもしれないので、予め断っておくと、なにも土日も休まずに働けと言っているわけではない。交代制のシフト勤務にすればいいと言っているだけなので誤解しないように。全員が全員、毎週土日に休む必要はないと言っているだけだ。
 「土日に休日が取れないなら公務員になった意味がない!」と言う人がいるかもしれないが、そんなのは公務員の本分を理解していないただの我が侭に過ぎない。
 公務員になったことで“特権”を得られるなどと思い込むのは勝手だが、公務員の給料は国が支払っているのではない。土日に役所を利用したいとする一般国民が支払っているということをもっと考える必要がある。公務員に特権があるというのなら、それは『(なかなか)クビにならない』『(ほとんど)倒産の心配がない』『(仕事の割りには)比較的に高給』だけで充分だろう。

 役所の存在理由は、納税者である国民の生活の利便性向上のためにこそある。国民の意見も生活も無視した自己中心的な役所であるなら、そのレーゾンデートル(存在理由)は失われてしまうということを考える必要がある。役所は公的な機関であって、私的な機関ではないのである。つまり、役所であるためには、個人的な意見(土日に休みたい)よりも公的な意見(土日に営業してほしい)を重視しなければならないということだ。
 日本では江戸時代からのお上意識が未だに根付いているのかもしれないが、本来、民主主義社会の主役は納税者である国民であるはずだ。民主主義社会における公務員とは、国民から支払われた税金によって雇用されている家政婦のような存在でもある。そういう認識を持つことができれば、土曜・日曜に営業しない役所というのは、自分達の本来の使命を放棄しているということが理解できるはずである。

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