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2007年5月

5000万件という数字に隠されたメッセージ

 年金保険料の納付記録5000万件分が該当者不明ということで大きな問題となっている。
 5000件程度ならまだ理解できるが、5000万件というのは想像の域を遥かに超えている。この数字が真実なら、もはやミスというレベルの問題ではないだろう。
 普段、自分には関係ないと思っている人々も今回だけはさすがにこう思ったはずだ。「もしかして自分も入っているのではないだろうか…」と。
 納付者の多くがこれだけ当事者意識を持つに至っては、社会保険庁バッシングが今後、更に加速することは間違いないだろうと思われる。
 しかし、こんな問題がなぜ今更クローズアップされるのかは不思議なところだ。こんなこと(該当者不明の納付記録があること)はずっと以前から判明していたことだろう。なんせ5000万件というのだから、今迄全く問題にならずに判明していなかったということは有り得ないし、どう考えても納得できない。
 しかし、5000万件もの不明分を調査するだけでも、とんでもない費用(人件費)が必要になるだろう。一体、その費用は誰が支払うのか?

 テレビではこんなことを言っている人もいた。「年金手帳」を「年金通帳」にするべきだと。つまり、銀行の預金通帳のように、誰が、いつ、どれだけの年金保険料を納めたのかを逐一記録し、証拠として納付者本人が持つべきだと。
 確かにこれは一理ある。しかし、誤解を招く可能性もある。
 国民年金の場合は、毎月納める金額が決っているのだから、金額までを管理する必要はないと思う。納めたか納めていないかを厳重に管理すればいいのであって、金額まで管理する必要性はあまり感じられない。なぜかと言えば、年金は積立方式ではないからだ。支払った金額まで管理するというのであれば、年金の支給金額(支給期間)も制限されなければ辻褄が合わない。支払った金額にだけこだわって、支給金額(支給期間)は無制限というのでは、都合が良過ぎるというものだ。
 社会保険庁を擁護しても仕方がないが、納付記録は必要最小限での管理が望ましい。
 杜撰な管理であったことは間違いないだろうが、今更、いたれりつくせりの管理体制を敷いて莫大なシステム管理費と人件費が必要となるのであれば本末転倒と言える。

 年金制度というものは、基本的に積立方式ではなく賦課方式となっている。賦課方式というのは、若い世代が老いた世代の面倒をみるという世代間扶養のことを意味している。それゆえに年金制度は少子高齢化社会では致命的な欠陥制度(=ねずみ講)に変化してしまう。
 年金制度ができた当初は、これは確かに良心的な福祉制度であったと言えるが、現代にあっては、良心的な福祉制度とはとても言えない。維持していくことが不可能に近いと思われるからだ。
 社会保険庁問題がいろいろと取り沙汰されるのは、時代の趨勢として避けては通れないことだと思う。管理の杜撰さや怠慢さがクローズアップされがちだが、本当の問題は、もっと深い所にある。

 今回の事件は、いつまで経っても当事者意識を持たない国民に対しての隠されたメッセージかもしれない。もう社会保険庁は解体するしかないという国の意思表示として、こんな大きな問題を発表したのかもしれない。しかし解体したとしてどうするか? 民営化して解決できるのか? できないのならどうする? そんなことを試行錯誤している猶予はあるのか?
 現在の年金制度をこのままの状態で維持していくことは、極めて難しい。いつまでもそのことに気が付かずに“年金制度は永久に不滅だ”などと暢気な気分でいることこそ危険なことだ。
 ダンテもこう言っている、「地獄へ至る道は綺麗に舗装されている」と。

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「交通安全週間」は「安全運転週間」?

 法定制限速度というものがある。通常、国道などの一般道での法定制限速度は60kmとなっている。そして原付の法定制限速度はこの半分の30kmということになっている。
 スピード違反で捕まる時は、大抵、法定速度20kmオーバー位が目安と思われるが、よく考えるとこれほどアバウトな決まり事も珍しい。たとえ30km、40kmスピードオーバーしていようとも、警察に見つからない限り(又は警察が捕まえようと思わない限り)違法にはならない。逆に5kmオーバーしただけでも、警察にはその運転手を捕まえる権限が与えられており、有無を言わさず懲罰(罰金や減点)を言い渡すことができる。

 おそらく最もスピードを出すであろう高速道路の法定制限速度が時速100kmであるのならば、それ以上のスピードが出る車がなぜ販売されているのだろうか?という疑問を持った人は多いと思う。120km位ならともかく180kmも出る車があっても一般人にはあまり意味があるとは思えない。大部分の人は一生、そんなスピードで運転することはないだろう。法定制限速度が100kmであるならば、それ以上の速度が出る車を生産してはいけないということにすれば、スピード違反などは必然的に無くなってしまう。そうすれば交通事故も死亡事故も必然的に減少することになるだろう。もし困ることがあるとすれば、警察の仕事が減ってしまうということぐらいだ。

 これと同じようなものに駐車違反がある。駐車禁止標識のある駐車禁止区域に車を駐車すると違反になるのは仕方がないことだが、駐車違反には法律とは別に、もう1つの基準があってもよいと思う。それは、駐車違反という言葉の前に「迷惑」という言葉が付くか付かないかの違いだ。
 1つは、その車が駐車されていることによって、他の車の走行の邪魔になる場合、または住人や歩行者の迷惑になる場合。そしてもう1つが、全く邪魔にも迷惑にもならない場合だ。
 しかし警察はここでも、この2者を分ける必要はなく、どちらも違法という言葉1つで捕まえる権限が与えられている。誰にも迷惑をかけていないとしても、法律で駐車禁止と決められているという理由だけで、有無を言わさず、運転手は罰金を支払わなければならない。ただし、この場合もスピード違反と同様に、警察に見つからない限り(または警察が捕まえようと思わない限り)違法にはならない。
 つまり両者(スピード違反と駐車違反)ともに、違法になるのは、警察次第ということになる。身も蓋もない言い方をすれば、警察の行動次第で仕事の量(摘発件数)の調整ができてしまう。言い換えれば、警察がその気になれば、いくらでも罰金を徴収することができてしまう。逆にスピード違反や駐車違反がどれだけ頻繁に行われていようとも、警察が他の仕事で忙しいという理由があれば、いくら違法であろうとも、すべて見逃しということになってしまう。

 交通安全週間というものもあるが、ドライバーは交通安全週間以外は交通安全に努めなくてもよいというわけではないだろう。であるなら、「交通安全週間」という言葉は、「交通安全習慣」とするのが妥当なところだと思われる。しかしそうはなっていない。ここから、交通安全週間とは国民に対して設けているものではなく、警察に対して設けているものなのではないのか?という疑問が浮かんでくる。穿った見方をすれば、主役は国民ではなく警察になっているのではないかとも考えられる。
 「交通安全週間」と言えば『安全運転週間』を連想させ聞こえは良いが、実際のところを翻訳すれば『警察が本腰を入れて交通違反を取り締まる期間』となってしまう。これって、なにか可笑しくないだろうか?

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