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2007年6月

一風変わった国民の義務

 国民の義務というものにはいろいろとある。
 『納税の義務』『勤労の義務』『教育を受けさせる義務』が国民の三大義務と言われているが、一風変わったものに、『NHK受信料を支払う義務(注1)』というものがある。
 これは誰もが知っている。しかし、誰もがその義務を果たしているわけではない。
 では義務を果たしていない人は法律を犯していることになるのかと言えば、これは実に難しい(?)問題だ。

 NHK側は、受信料を支払わない人を対象に、裁判沙汰にするというような脅し文句も使用しているようだが、それでも払わない人は払わない。なぜ払わないのかというと、その理由は様々だ。よく聞く理由を以下に列挙すると、

1、単にお金を払いたくない
2、視聴していない
3、NHKの思想信条が合わない(例えば、反日寄りの報道など)
4、徴収制度が時代遅れ(従量制にするべき)
5、番組がつまらない
6、NHKは不祥事を起こしている
7、NHK職員の年収が1000万円以上もあるのはおかしい

 これらの理由で考えると、多く人は「納得できない」というのがその答えとなっている。つまり、真面目に支払うことよりも、支払わない方にも意義があると思っているようだ。
 確かにこの考えには一理ある。実際にNHKの番組を必要としていない人がいるのは確かだし、それらの人達は本当にNHKの番組を視聴していない。視聴もしていないのに、なぜ受信料を支払わなければいけないのか?という疑問は至極当然の疑問だと言える。

 これらの意見に対するNHK側の回答は、「テレビを置いているから」「法律で定められているから」の二点張りらしいが、どうも説得力に欠ける。これでは、「車が走行していない時でも、赤信号を無視してはいけない」「あなたはその赤信号を無視したので罰金を支払わなければならない」と言っているのと同じようなもので、全く融通が利かない回答とも言える。さすがの警察もここまで言うことはないだろうが、NHKの職員はある意味、警察以上に融通が利かないと思われているのかもしれない。

 現代では、NHKの番組だけに依存しているような人は、残念ながらほとんどいない。民放でもニュース番組は放送されているし、インターネットでも即時、流れている。
 一方、有料の衛生放送などもいろいろと存在しているが、あくまでも視聴したいという視聴者の任意契約が前提となっている。NHKと同じ月額固定料金とはいえ、観たくない人まで強制的に視聴料を徴収したりはしていない。
 これはむしろ当然のことであって、需要と供給のバランスを無視したNHKのような料金取り立ては、悪く言えば、番組の押し売りだと言われても仕方がない面がある。
 例えば、置き薬に喩えてみればよく解るかもしれない。ただ置いているだけで、使用料を支払わなければならない置き薬というものがあれば、誰もそんな置き薬屋と契約などしないだろう。置き薬は使ってナンボだ。しかしNHKは観てナンボではなく、置いてナンボとなってしまっている。テレビ本体がNHKのレンタルというのならまだ理解できそうなものだが…。

 法律は正しいと言っても、法律が時代を超えて必ず正しいというわけではない。法律も時代環境とともに変化していくものだ。戦時中の常識が現代でも必ず常識になっているわけではないのと同様に、NHKの受信料を支払うという常識も、もはや常識では無くなっているとも考えられる。

 全国民から一律に受信料を徴収しなければならないのであれば、いっそのこと、税金にしてしまえばいいのではないか?とも考えられるが、これはできないらしい。
 なぜかと言えば、“万人が等しく視聴する権利がある福祉番組”というのがNHKの立場だということ。しかしこの論法でいくと、貧しい人間は視聴料を支払わなくてもいいという論理になってしまう。福祉番組であるなら、視聴していても視聴料を支払えないなら支払わなくてもいいということになってしまう。ゆえに、視聴料の支払いは“強制”ではなく“任意”という結論になってしまわざるを得ない。
 NHKはこの矛盾を直すことを考えた方がいいかもしれない。しかし、この矛盾を直そうとした場合、避けては通れないのがNHKの民営化だ。
 結局のところ、時代がそれを望んでいるのかもしれない。現在のNHKが意識しなければいけないものは、未納受信料の回収ではなく、テレビ局としての市場原理だろう。つまり、受信料を支払うことを義務化することではなく、放送会社としての義務を考えることだろう。言わば“NHKの義務”だ。その義務とは? 無論、他社と競争するという義務である。

(注1)NHK受信料の支払いは法律的に義務化されているわけではありません。世間一般では義務だと思われているという意味を込めて、『義務』という言葉を使用しています。

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公務員天国の終わり

 社会保険庁では現在、宙に浮いた5000万件以上のデータ照合を行うために、派遣会社から人材を集めている。
 確かに社会保険庁職員だけでは、人数が足りないことは明白なので派遣会社に頼るのも無理はない…と言いたいところだが、これはハッキリ言えば掟破りの対処法と言える。
 社会保険庁の役員はテレビのインタビューでこう応えていた。

 「所定の人員だけでは手が一杯なので、派遣の臨時職員を募集して対処していきます」

 何も考えずに聞いていると、自信に満ちた意見に聞こえるのかもしれないが、よく考えるとこの意見は少し可笑しい。通常であれば「ちょっと待った!」という反論があって然るべきところだ。
 この役員の意見を正確に言い換えると次のようになる。

 「所定の人員だけでは手が一杯なので、国民の税金で派遣の臨時職員を雇い、対処していきます」

 派遣人員を雇うのは構わないが、その人件費は誰が支払うのか?という部分がすっぽりと抜け落ちており、一番重要なところを言及していない。つまり、ミスを犯した組織の自己責任論が全く入っていないのだ。
 地震などの災害で偶発的にデータが失われたというのなら、そこに国民の税金を投入して解決するのは止むを得ないだろうが、今回のミスは明らかな人為的ミスであり、必然的に発生したミスだ。今まで隠していたことも考慮すれば、ミスと言うよりも悪質な不正事件とも言える。
 どんなミスや不正を行っても、自分達の腹は痛まず、全て国民の税金でなんとかなるのなら、そこには何の責任も伴っていないことになる。そんな無責任な組織が今後も年金保険料の管理を行っていけるのかどうかは疑わしい限りだ。

 また、覚書なるものが存在しているらしく、その覚書にはこんなことが書いてあるらしい。

 『コンピュータ導入における1日のキータッチは平均5000文字以内』

 これはもう冗談にもならない。常識の範疇を超えている。
 5000文字以上と言うのならまだしも、5000文字以内にしなければならない理由とは何なのか? 通常、民間企業では仕事のノルマというものが存在するが、社会保険庁の場合、ノルマではなく逆ノルマになってしまっている。
 『仕事はこれ以上しなければならない』ではなく、『仕事をこれ以上してはいけない』という民間企業とは逆さまの論理が罷り通っていたことになる。
 民間企業のキーパンチャーが文字入力を行った場合、5000文字程度なら早い人なら数分、遅くてもせいぜい30分もあれば充分だろう。5000文字を入力して1日の仕事が終わるのなら、これほど楽な仕事はない。と言うよりも、こんなのは仕事とは言えない。民間企業で1日5000文字しか文字入力できないのなら、仕事にならない。当然、給料も支払えないので、即日クビだろう。それ以前に、面接で「1日5000文字しか入力できません」と言った時点で採用されることはないだろう。

 この他にも『1時間のうち、15分間は休憩を取らなければいけない』とか、『有給休暇は必ず取得しなければならない』とか、公務員の世界では民間企業では有り得ない時代遅れな暢気な制度が未だに延々と続けられているようだ。しかもこれに加えて普通の民間企業よりも高給というのだから、悪い冗談のようだ。真面目に働いているサラリーマンが浮かばれないのも無理はない。
 1日5000文字しか文字入力できないのなら、月給はせいぜい1〜2万円も出ればいいところだろう。しかし実際はこの数十倍の給料が支給されているのだから、「税金泥棒」というそしりは免れないだろう。

 公務員天国とはよく言ったものだが、今回の社会保険庁問題では、多くの人が、その意味をよく理解したかもしれない。公務員天国というものが誰の迷惑にもならずに機能しているのなら悪いとは言わないが、その天国が、サラリーマン地獄の上に成り立っているのなら、そんなエセ天国が永遠に続くことはないだろう。

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夢の保険会社、その名は『日本』

 コムスン事件で次のような問題が表面化している。

 「福祉施設は公営にすべきか民営にすべきか?」

 この2つの大きな違いは下記の通り。

  民営化=「利益追求」
  公営化=「利益無視」

 はたして、これはどちらが良いのだろうか?

 民営化すれば、利益というものを考えて経営しなければならなくなるので、運営上、問題が発生してくる可能性は否定できない。
 では、公営化すれば利益を考えなくてもいいので、なんの問題も起こらないのかというと、実際はそうではない。民営であれ公営であれ、どちらにせよ事業運営に維持費がかかることに違いはない。利益を無視できても、維持費まで無視するわけにはいかない。

 国が国民の面倒をみるべきだと言う公営化論者もいるが、国も無い袖は振れない。福祉に回す予算があって初めて福祉制度というものは成り立つものだが、予算が足りないなら、借金するか、税収を上げるしか方法がない。借金するといっても、日本の借金は既に1000兆円を超えている。これ以上、赤字財政を続けている余裕があるとはとても思えない。
 では税収を上げればいいのかといえば、ほとんどの国民は増税反対だ。税収を上げることを拒む反面、福祉を充実させよというのははっきりと言ってしまえば矛盾している。
 これは言い換えると、「国は借金してでも、国民の面倒をみろ」と言っているのと同じことになる。では誰から借金するのか? もちろん国民だ。それが何を意味しているのかは言うまでもないことだ。

 国が国民に最低限度の生活を保障すべきだとする意見は多い。しかし国がどこまで国民の生活を保障しなければならないのかということも併せて考える必要がある。
 例えば、生活保護などの福祉がそれに該当するが、その基準というものが極めて曖昧になっている。セーフティラインが必要だと言っても、そのセーフティラインをどこで線引きするのかという意見は人それぞれ違う。本当に生活できない人を対象に線引きするのか、それとも、生活はできるが法律で定めた条件を満たしている人に対して線引きするのかというような違いがある。

 そもそも「国は国民の面倒をみるものだ」という常識を一度、疑ってみる必要があるかもしれない。
 国が国民の面倒をみなければならない理由とは何だろうか?
 ある人はこう言うかもしれない、「国民として国に税金を納めているからだ」と。
 しかし、それが理由だと言うのなら、それは同時に、「税金を納めていない人は国に面倒をみてもらえない」ということも肯定していることになる。しかし実際はそうはなっていない。
 金額についてはどうだろうか?
 具体的に言えば、仮に100万円の税金を納めた人であっても、1億円の保障を受ける権利があるのなら、残りの9900万円はどこから出るのか? それも無条件に受け取る権利があると言うのならば、それは国の義務というより、国は保険会社ということになってしまう。しかもこの保険は、税金を納めていようが、納めていまいが関係なく、納めた金額の多寡にも関係がない。さらに病気や事故と違い、全国民対象の無制限給付保険となってしまう。そんな夢のような保険会社があるのなら、その保険会社の末路は決まったようなものだ。

 国は国民(の税金)に依存し、国民は国(の保障)に依存する。 問題の元凶はこの依存体質(悪く言えば、たかり体質)にある。この依存心を少しでも無くす方向に舵取りしないことには、日本という保険会社は早晩立ち行かなくなる危険性がある。

 結論として言えることは、福祉事業は今後もできる限り、民営で行うのが望ましい。コムスンがどうだから公営化するべきだというような単純な問題ではない。
 民営化すれば、様々な問題が発生するため、当然、リスクはついてまわることになる。しかし、この世の中にノーリスクなどというものは本来は有り得ない。社会保険庁の年金問題をみても分かるように国に任せることもノーリスクではない。どちらに任せてもリスクがあるのなら、責任を背負っている方に任せる方が安心というものだ。

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