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2007年7月

ブックオフは文化の破壊者か?

 街角の書店は近頃めっきり減ってしまい、郊外型の中型書店も減少傾向にある。
 ネットでの書籍販売や古本売買、古本のネットオークションなどが活況を呈しているので、これはまあ仕方のないことではある。いくら都心の大型書店が品数豊富とはいえ、揃わない(在庫が無い)本は必ずある。数年前に販売された書籍に至っては言うに及ばずだろう。かつて、そういった古本は、古本屋巡りをしてやっと見つかるという代物だったが、今は違う。ネットを隈無く探索すると大抵の本は見つかってしまう。
 古本の場合、保存状態にこだわる人は多いが、オークションでは写真付き、アマゾン等でも状態のランクが付記されているため、吟味すれば、保存状態の良い本も選択することができるようになっている。こうなると、確かに既存の書店の存在価値は低下せざるを得ない。既存書店の強みと言えば、立ち読みして中身を確認してから購入できること位しかないかもしれない。しかしこれは消費者にとっては有り難いことだが、書店にとっては有り難迷惑な話だろう。「立ち読みのためだけに書店を利用されたのではたまったものではない!」という怒りにも似た悲鳴が聞こえてきそうだ。

 ところで、少し前に、漫画家の小林よしのり氏が、古本屋のブックオフは文化の破壊だと言っていたことがある。これについて少し考えてみよう。
 ブックオフと言えば、言わずと知れた全国展開する大型の古本ショップだ。店内に並んでいる古本には2種類の値段体系があり、1つは市価の半額、もう1つは100円で統一されている。新刊や発行後間もない本、人気作家の書籍などは半額、あとはほとんどが100円になっている。 中にはこれに準じない本もある。人気があるのに100円というマーケット調査ができていない本はある。こういった本は目敏い消費者が購入し、オークションで転売(?)してマージンを取っている場合が多い。市場原理のスキマ(需要と供給のバランスギャップ)を埋めるという上手い商売でもあると言えるのかもしれない。これもネットがあればこそ生まれた商売と言える。絶対に転売できるという保証はないし、売れる本を見抜く眼力も必要なので、リスクのある商売という意味では、立派な商行為と言ってもいい。

 さて、本題に入ろう。ブックオフは文化の破壊者か?
 確かに著述家にとって、自分が苦労して上梓した書籍を100円という低価格で何度も転売(回し読み)されてはたまったものではないという意見は理解できる。
 この場合も、先の本屋と同じように、消費者にとっては有り難いが、作家にとっては有り難迷惑な話と言える。何が迷惑なのかと言うと、『著作権が無視されている』という一言に尽きるだろう。つまり、100円で売られていることが問題なのではなく、値段に関係なく著作権が全く入っていないということが最大の問題なのだ。
 小林氏の論理で考えると、たとえ半額で売られていたとしても、その中に著作権料が入っていないのなら、それも文化破壊になってしまう。あるいは図書館はどうか? 当然、著作権料は入っていない。そう考えていくと、著作権料がキチンと入っている新刊で販売されているショップ以外はすべて文化の破壊者となってしまう。ゆえに、ブックオフのみを文化の破壊者と言うのは少し偏った乱暴な意見でもあると言える。先ずは、「古本にも著作権を適用せよ」と言うのが筋ではないかと思う。
 要するに、今まで著作権が無視されてきたこと自体が問題なのであって、ブックオフのみが悪いというわけではない。もし古本にも著作権というものが既にあって、ブックオフが100円で売られている本に1割(10円)の著作権料を付けて110円で売っているのであれば、「著作権料10円というのは安過ぎる、それは文化の破壊だ」というならまだ話になるが、元々、著作権が無視されている業界に100円で販売するショップが現れたとしても、そのショップだけが悪いわけではない。

 かくいう私もよくブックオフは利用する。100円の書籍を買うことも多い。しかしそれが文化の破壊だとは思わない。なぜかと言うと、たとえその時、100円で購入したとしても、その本が本当に面白いと思えたのなら、その本を書いた著者の書籍はその後、新刊で購入する場合が多いからだ。その作家のファンになれば、古本が出る前に新刊で購入してしまう。
 つまり、100円で買える本というのは、呼び水の役割を果たすことにもなる可能性があるということだ。定価で販売していては買うことができずに気が付かなかったことが、100円という安価な値段のせいで、その本の縁に触れ、今後の消費に繋がる可能性がある。それは文化の破壊と言うよりも、文化の波及とも言える。必ずしも書籍を新刊(定価)で販売することだけが正しいとは言えないのである。

 小林氏は「物には適正価格というものがある」とも書いていたが、本の価値というものは、中身(内容)で決まるものだと思う。新刊で購入する価格が一緒であっても、その本の価値は読んだ人によっては違ってくる。10万円の価値があると思う人もいれば、1円の価値もないと思う人もいる。作家がどれだけ苦労して書いたかということは、消費者サイドから観た場合、あまり関係があるとは思えない。本の適正価格を判断するのはあくまでも個人個人であって、作家ではない。
 ブックオフが100円で販売できるということは、裏を返せば100円以下で買取ってもらってもいいと思っている人がいるということである。つまり、買取ってもらう方も100円以下の値打しかないと思っていることを意味している。買取ってもらう方が、「100円以下(実際は10円という場合もある)でなんてとても売れない」ということなら、元々、100円で販売する商売などは存在し得ない。それが成り立っているということは、販売者であるブックオフだけでなく、購買者である消費者にも原因があるということだ。双方が、100円以下の値打しかないと判断することによって初めて成り立つ商売であるということを見落としている。

 それともう1つ追加しておくと、統計的にも人気のある(つまり価値の高い)本は、古本屋にはあまり出回っていない。小林氏の書籍もおそらくこの部類に入るのだろうと思う。
 本当に価値ある本というものは、手許に置いておきたいと考えるのが、世の読書人の常だろう。古本が100円で売られていることが悔しいのであれば、100円で売られない本を書く努力をすればいい。作家がモチベーションを上げることにつながるのなら、古本屋は、文化を高める役割を果たす可能性もないとは言えないのではないだろうか。

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日本の年功序列制度の問題点

 今となっては、日本企業の年功序列制度や終身雇用制度は完全に崩壊したと言っても過言ではないが、かつて(バブルが崩壊する以前)は、当然のこととして受け入れられていた。一度、会社に入社すると、定年を迎えるまで、給料が段階的に右肩上がりに上昇するという常識が何の疑いも持たれることなく罷り通っていた。
 さて、ここで年功序列制度というものを少し考えてみよう。
 「年功序列」という言葉をそのままストレートに考えれば、“年々、年齢とともに一定の割合で給料が上がっていく”ということを意味しているのだろうが、より詳しく考えると次の2種類のケースが考えられる。

 A、勤続年数とともに仕事が上達するので、その分の給料が上がっていく。
 B、仕事の質にも量にも関係なく、年齢を重ねるだけで給料が上がっていく。

 上記のAであるなら、年功序列制度というものもある程度(ある一定年齢まで)は合理的な制度ということができる。こういう制度であるなら年功序列制度もそれほど悪くないかもしれない。
 しかし、Bの場合は、仕事の出来、不出来に関係なく、無条件に給料が上がっていくことになるので、極めて不合理(=不条理)な制度と言える。
 それでは、かつての日本企業はAとBのどちらが支配的だったのかというと、残念ながらBだろう。
 しかしBは、言葉通りの単なる年功序列制度とは言えない。“年齢が上がるたびに給料が上がる”だけでなく、“仕事の量は逆に減少したとしても問題なし”という見えない制度が暗黙の内に付加されていることになる。極言するなら、“仕事をしなくても給料が出る”制度だと言うこともできる。
 つまり、日本企業の年功序列制度というものは、年功序列に年功搾取という制度がくっついているという極めて御都合主義的な制度(=年功搾取制度)だったのである。無論、仕事をしない人には都合が良いという意味である。

 特に人口が増加していた時代は、同時に経済成長時代だったということも手伝い、定年を迎える人以上に数多くの新入社員が入ってくるような時代だったので、この年功序列制度はまさしく、ねずみ講の如く威力を発揮した。とにかく若い者に仕事を任せておいて、年功者はろくに仕事もせずに高給という現代(の中小企業)ではおよそ想像もつかないようなデタラメが通用した時代だった。それはまるで、年功者=全員公務員とも呼べるような平和な時代だったと言えるかもしれない。

 ところがバブルが崩壊して一転、坂道を転げ落ちるかのように、日本企業の年功序列制度が瓦解した。これは偶然がもたらした出来事というよりは、むしろ歴史の必然であったとも言える。
 しかし、よく「日本的経営」という言葉を持ち出して、かつての日本企業の年功序列制度を絶賛し、隙あらば、回復させようとする動きがある。彼らはこう言う。「日本独特の日本的経営を維持していくことは、グローバル化した現代にこそ必要だ」と。
 彼らの意見は、一見まともそうに聞こえるのだが、彼らの言う日本的経営とは戦中戦後からのごく短期間の出来事をとらえているだけに過ぎない。まあ確かに、“のんびりと仕事ができる生活”というのも悪いものではないだろうし、全員がのんびりと仕事してやっていけるなら大いに結構だ。しかし、それには条件がいる。その条件とは、『その状態を続けても世界経済の中を生きていける』という条件だ。それが可能だと言うのであれば、鎖国でもして日本的経営で暮らしていけばよいかもしれない。しかし現実的には、そんなことは不可能だ。日本的経営がいくら良いといっても、それを続けていくことは、現実をより悪化させることに繋がってしまう。ゆえに、続けるわけにはいかないのである。

 お断りしておくが、私は年功序列制度や日本的経営を否定しているのではない。働かずして給料が出る制度を否定しているだけだ。本来、実体経済下では、給料やボーナスというものは利益を出して初めて得ることができるものだと言っているに過ぎない。(マネー経済下ではこの限りではない)
 今後、個人が仕事をしていく上では合理化というものは無視できないと言っているだけであり、日本的な経営自体を否定しているわけではない。
 そもそも、日本的経営というものは何も年功序列制度だけにこだわる必要性はない。そして、過去の経営方法にもこだわる必要性もない。年功序列制度や終身雇用制度だけにとらわれない世界に誇れるような本当の日本的経営を今後、新しく創っていけばいいのである。具体的な案は今後、考えていくことにしょう。

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選挙合戦と受験戦争の類似性

 今月29日(2007/7/29)に予定されている参議院選挙では、与党の苦戦が予想されている。
 私は基本的にノンポリの立場(支持できる政党がないため)なので、結果はどうなろうと別に構わないが、社会保険庁の大失態事件諸々が与党に与える影響が大きいことは予想に難くないだろう。

 選挙前ということもあり、野党の与党批判がいつになく激しくなっているが、社会保険庁問題は単なる政争の具となってしまっている感は否めない。
 自民党の場合、「社会保険庁の年金問題は必ず解決する」というスローガンを立てているようだが、これがスローガンとは笑い話と言える。これは喩えて言うなら、牛肉偽装のミートホープ社が、「食の安全は必ず守る」と言っているのとほとんど変わらない。悪い結果がでてから努力するようなことは誰にでもできる。そんなスローガンなどは何の意味も持たないことに多くの国民は気が付いている。もっとも、年金問題を自民党のせいにだけするというのも可笑しな話ではあるが。
 民主党にしても、目的は自民党に勝つことだけで、肝心の政治政策については二の次のように見受けられる。他の野党は言うに及ばず、相も変わらず政敵の揚げ足取りだけに夢中になっているようにしか見えない。

 現在行われている選挙合戦は、まるで、受験戦争の如くだ。選挙に勝利することが、恰も大学受験に成功することであるかのような感じになってしまっている。
 日本の受験戦争は、大学に入学することで一応の終止符が打たれ、そこから先はほとんど進歩がないと言われている。大学に入ること自体が目的となっており、大学で学問を学ぶという本来の目的は二の次になってしまっていることを表わしているが、選挙合戦もこれと似たような感じになってしまっているように思われる。
 しかし、学生が受験戦争だけで燃え尽きるのは許されるとしても、政治家が学生と同じように選挙合戦だけで燃え尽きてもらっては困る。

 現代の国民にとって良い政治とは何だろうか? この問いに政治家達はなんと答えるのだろうか? おそらく抽象的な答え(例えば、美しい国、住みやすい国、格差のない国など)しか返ってこないだろう。
 なぜなら、現代の国民にとって良い政治とは、政治家の仕事を限りなく少なくすることだと言えるからだ。一般的には、「小さな政府」と呼ばれているが、現代の政治家はその存在自体が一種の自己矛盾を抱えている。政治を良くするためには、自分達の仕事を減らさなければならないという矛盾を抱えてしまっている。
 グローバル化した経済下では、政治家という職業は最大の斜陽産業でもある。国という単位がハッキリとしている時代には政治家の役割は重要だったのかもしれないが、国という単位が希薄になってしまっては、政治家の仕事は減少せざるを得ない。

 もちろん、政治家に仕事をするなと言っているのではない。現代の政治家の仕事は政治に力を入れることではなく、どうすれば自分達政治家の仕事を減少させることができるのかを考えることだと言っている。それが現代の政治家にとって、最大にして最高の仕事だとも言える。これを実行することは非常に難しい。しかし難しいからこそ、有能な政治家の仕事だとも言える。
 このパラドックスを理解して受け入れ、本当に行使できる政治家が何人いるのかは実に疑わしいところだが、あなたの周りにそういう政治家がいるのなら、投票するに値する人物だと言える。

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