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2007年9月

金属疲労したジャパンシステム

 最近よく耳にする言葉に「金属疲労」という言葉がある。
 少し前にも、遊園地で発生したジェットコースター事故の原因が金属疲労だったということで、ニュースになって騒がれたりしていた。
 これとは別に、制度的、またはシステム的な金属疲労というものも日本には数多く存在している。日本の政治制度、司法制度、官僚制度、教育制度、年金制度、医療制度、保険制度、などなど、数え上げるとキリがないほどに、現代の日本が抱える制度的な金属疲労は数多い。
 物理的な金属疲労というものは、主として経年劣化が原因であるが、制度的な金属疲労には経年劣化以外にもう1つの大きな原因が存在する。それは、“時代の変化”である。全く時代が変わってしまったにも関わらず、システム自体がほとんど変化していないがために発生する金属疲労問題が、日本の将来に暗い影を落としている。

 ちょうど、コンピューターシステムに置き換えて考えると解りやすいかもしれない。
 Windowsのシステムを例に考えてみよう。
 Windowsシステムは変化(=バージョンアップ)する度に、ハードとしてのパソコンもガラッとモデルチェンジする。裏を返せば、ハード的なパソコンの性能が向上すれば、おのずとシステム自体も強化改善されるようになっている。
 このWindowsシステムを“日本というシステム(=ジャパンシステム)”に置き換え、パソコンの進歩を“時代の進歩”に置き換えてみると、現代の日本がどんな状態にあるかがよく解る。
 それはまるで、最新のスペックを搭載したマシンに、初期のWindows3.1をインストールしているようなものかもしれない。(Windows3.1はGUI【グラフィカル・ユーザー・インターフェイス】も開発途上のシステムだったことに注目)
 この場合、どんな不都合が出てくるかは、容易に想像ができる。限りなく不安定なパソコンになることは想像に難くない。旧システムでは最新のマシン機能をフルに使いこなすことができないことは明白だ。一言で言えば、それは「ミスマッチ」以外のなにものでもない。
 ところが、ジャパンシステムは、一向にバージョンアップしようとしないかに見える。より具体的に言えば、メジャーバージョンアップ(WindowsXPがWindowsVistaに変わるようなもの)ではなしに、マイナーバージョンアップ(Windows3.0がWindows3.1に変わるようなもの)ばかり行っているかに見える。最新のマシンに対して、旧システムのマイナーバージョンアップなどを何回行ってもほとんど意味がないことは誰でも解ると思う。

 例えば、社会保険庁というシステムでは、現代のハードに対応できないということが判っても、もう1度、社会保険庁システムをマイナーバージョンアップしてインストールするかしないかというような議論だけが交わされている。
 社会保険庁システムもメジャーバージョンアップしないことには、最新のマシンに対応できないことは、よく考えれば解りそうなものだ。
 では社会保険庁を民営化することはメジャーバージョンアップと言えるだろうか? 社会保険庁の民営化は、メジャーバージョンアップには違いないが、最新のシステムとは言い難い。残念ながらWindows95で最新のマシンを動かすようなものなので根本的な解決には程遠い。(比較的オープンなシステムになるという意味でWindows95)

 とにかく、時代がいくら進歩・変化しても、システム自体がそんな状態なので、パソコンを操作しようにも不安定でぎこちない。システムが時代に追い付いて行けずに、固まって(フリーズして)ばかりに見える。

 さて、ハングアップしたパソコンを直す手段は?と聞かれるとあなたはどう答えるだろうか? 100人が100人ともこう答えるはずだ。「リセット(再起動)する」と。
 ところが、ジャパンシステムには制度上、リセットするという機能が付いていない。そのため、ハングアップしかけた不安定なパソコンを騙し騙し使用している。当然、動きは緩慢であり、いつ故障するか分からないという危険性を秘めている。

 現代の日本社会とは、実はそんな状態に近いのかもしれない。そのため識者達はこう叫んできた。「手遅れにならない内にリセットボタンを押せ!」と。
 しかし、もし仮にリセットボタンを押すことができたとしても、システムが更新されないままではあまり意味がない。現代の識者達が提言すべきことは、パソコンと同様、「HDのイニシャライズ」と「最新のシステムのインストール」である。
 HDのイニシャライズとは『時代に適合した新たな教育制度の構築』を意味し、最新のシステムのインストールとは『時代に適合した価値観の受け入れ』を意味する。厳しいようだが、ジャパンシステムの復活には、それが一番の近道かもしれない。

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床屋の経済学

 2002年に、タクシーの規制緩和を推し進める道路運送法「改正」法案が施行されたことを皮切りに、全国のタクシー台数が急増したことは記憶に新しい。
 今まで規制で守られたきた業界に自由競争の原理を持ち込むことによって、ただでさえ需要のないところに膨大な供給のみが発生した。そのために、既存のタクシー業界からは悲鳴があがった。
 タクシーの需要が最高潮に達していたバブル期にこの規制緩和を行えば、また違った結果が出ていたのかもしれないが、消費不況の真っただ中で、規制緩和を行えば、どのような結果が出るのかはほぼ見えていた。いずれ、需要と供給の均衡点に落ち着くことになると思われるが、数年経った現在も、タクシー業界は依然として厳しいままらしい。

 タクシー台数と同じように、最近、よく目に付くようになったのが、街中にある理髪店や美容院である。
 商店街などを歩いていると、妙に美容院が増えたことに気付かされる。ほとんど距離を置かずに、同じような美容院が軒を並べている。料金などを書いた看板を見てみると、以前のような高い料金設定ではなく、比較的安価になっているようだ。しかし、中を覗いてみると、それほどお客が入っているわけでもない。せいぜい1人か2人のお客しか入っていない。
 スタッフはどこも数人いるみたいなので、お客が2人と考えても、随時全スタッフが稼動しているわけではなさそうだ。はたして、そんな状況で、店の賃料や、管理費や諸経費、スタッフの給料を支払っていけるのだろうか?という素朴な疑問を感じながら、いつも店の前を通り過ぎる。

 かつて理容業には、『全国理容・美容生活衛生同業組合連合会』というものがあり、床屋カルテルと言われるような、暗黙の営業ルールが設定されていた。料金から営業日・営業時間までを規制し、利用者によっては余分なサービス(髭そり、シャンプー等)も無条件にセット化し、全国一律料金が決められていた。この規制を破った加盟店は、お上から指導(行政指導?)されるという、ほとんど営業妨害か消費者無視としか思えないような取り決めが敷かれていた。
 しかし、この協定も、数年前に大半が解除されたために、床屋業界にも一種の価格破壊の波が押し寄せる結果となった。組合の加盟店では3600円という基本整髪料金が、非加盟店では、半値以下というところも出現してきた。そのせいで、既存の理髪店のお客は激減しつつあるようだ。

 私が通っている理髪店も、未だに3600円だが、すぐ近所には2000円代、1000円代の理髪店も存在している。私の場合、2ヵ月に1回程度しか行かないので、散髪代までセコセコしたくないという思いと、待ち時間がない(空いているため)というメリットから、理髪店を変更するようなことはしていないが、単に料金の高低だけで考えると、現在の理髪店を選択する合理的な理由は無いかに思える。

 美容院や理髪店に要求されるものとは、他のサービス業と同様、技術(センス)と料金の2つだ。(3つ目の条件に“愛想良さ”もあるかもしれないが)

 1、技術力のある(=腕のある)床屋
 2、料金が安価な床屋

 基本的には、このどちらかを満たしていないと、競争で生き残っていくことは難しいかもしれない。当然、安かろう悪かろうでも生き残ってはいけないだろう。

 今まで、規制に守られてきた床屋でさえも、これからは、自由競争の波にさらされる、いや、既にさらされている。消費者に対する何かしらの付加価値を見い出していかないことには、お客を増加させることは極めて難しい状況とも言える。
 半押し売り的な、前世紀メンタリティーを持ったままでは、人口自然減の社会では、お客は減少していくしかない。そのことはどんな業界であっても同じだ。創意工夫と自助努力を維持し続けない限り、需要としてのお客は増加しないという厳しい時代認識が必要だろう。とはいえ、それは本来、商売人として当然持っていなければならない素質でもある。

 現在の理容業界は、料金を一律固定にするという計画経済と、料金を自由に設定できるという自由経済が同居しているような状態だ。
 このどちらが勝利することになるかは、考えるまでもないだろう。なぜならその勝敗を決するものとは、消費者でしかないからだ。消費者がどちらを選択するかは、既に結果として現れてきている。この現象は既存の床屋にとってはジレンマだろうと思う。料金は勝手に下げることができないので、下げるわけにもいかない。仮に下げることができたとしても際限ない安値競争に突入してしまう危険性もある。そして、そのどちらを選択したとしても、確実にお客が増加する(=売上げがアップする)という保証はない。まるでタクシー業界が陥った罠を眼前に見ているような感覚かもしれない。それでも、1つだけ確かなことは、理容業界を取り巻く環境は、以前とは全く違ったものに変化するということだ。
 21世紀の床屋が今後、どのように変化していくのかを、期待を込めて見守りたい。

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後日談【映画鑑賞料金の改善提案】

 ココログのアクセス解析というのは便利なもので、閲覧した人の数やリンクを貼ってくれている人の元サイトまで判ってしまうことがある。リンクを貼ってくれている人がいることは有り難いが、逆に、私の投稿文に対して、反論(?)をしている人のサイトも偶然発見することができた。オープンなブログであるがゆえに仕方がないこととはいえ、読んでみてあまり気持ちが良いものではないなというのが正直なところだった。

 当ブログにコメントとして正々堂々と反論を書いてくれるのであればそうでもないのかもしれないが、投稿者の気が付かない所で陰口をたたかれているような…と言うか、聞きたくもない陰口を聞いてしまったようで残念な気分になってしまう。日記を書いていて反論されるようなことはまず有り得ないだろうが、インターネットに公開した日記には反論は付き物と言ったところだろうか。

 私も書籍や映画についての書評はこのブログに書いてはいるが、個人に対して否定的なことはあまり書かないようにしている。お金を出して購入、または鑑賞したものであるなら、つまらないものはつまらない、面白くないものは面白くないと、正直に書く資格はあるのかもしれないが、否定的な書評は書いていてもあまり得るものがないので、なるべく避けている。いわんや、ブログという個人的な日記に対しての否定的な評論は私からは絶対にしないつもりでいる。それが文化の発展に寄与するというのなら、やぶさかではないが、他人の日記に対して批判的な評論を加えるなどは、あまりお勧めできるようなことではない。個人に反論する位なら、いっそのこと、反対意見を自分で考えて書いた方がスッキリすると思う。

 先達て、「映画の鑑賞料金はなぜ昔から全く変化せずに固定されているのだろう?」というふとした疑問から、映画の鑑賞料金について少し考えたものを掲載すると、某映画関係のブログで、そのことが紹介されていた。しかし、よく見ると、タイトルが「机上の空論」となっている。「ん??」というのが率直な感想だった。

 私は映画の専門家ではなく、それほど映画館などについても詳しいわけではない。ただ、映画を観るのが好きな1映画ファンに過ぎない。その私が個人的な考えを日記(雑記?)として公開してみた。こんな考えもあっていいのではないか?という軽い気持ちで投稿したのだが、映画通の人と私では視点が全く違っていたようだ。
 私は経済的な視点で仮説を述べているに過ぎないのだが、映画通の人からは実現可能なことしか認めることができないというニヒルな感情が伝わってきた。やってみなければ判らないという仮説論者と、やっても無駄だという現実論者といったところかもしれない。私は映画館総て(業界総て)のことを述べているのだが、どうも映画通の人は、個別の映画館という認識で反論されているように感じた。

例えば、
>価格破壊をした他業種が結局どうなったかを考えれば、料金に訴えるのはあまり賢くないだろう。

 なぜ、価格破壊した他業種のことが真っ先に出てくるのだろう? 映画館(個別ではなく日本中の映画館という意味)の興行収入がいつまで経っても頭打ちであるのであれば、価格を見直した方が良いということがそれほど可笑しなことだろうか? 映画館同士で競争して料金をスパイラル的に下げて価格破壊せよと言っているわけではない(そこまで考えを飛躍する必要性もないと思うので)。
 他の業界が日常的に行っているように、企業努力すればどうか?と言っているだけであって、「そんなことでは根本的な解決にならない」と決めつけるのであれば、それは競争原理を頭から否定した発想であり、商売人の発想ではないとも言える。(映画も商売であることに異論はないでしょう?)

 そもそも1800円という料金はどこから出てきたのか? それが下げることのできる目一杯の料金だとでも言うのだろうか? 企業努力によって、それが下げることのできる限界だというのなら仕方がないだろうが、とてもそうとは思えない。鑑賞人数が減少したので、限界だというのは言い訳にならない。そんな言い訳が通用するのであれば、昔は料金が高過ぎた(=ボッタクリ)ということになってしまう。
 ちなみにアメリカでの映画料金は日本円に換算すると1000円以下だとなにかの本に書かれていた。そのせいかアメリカでは映画をスクリーンで観る人が多いのだとも。

>映画館が高いから映画館に行かないのではない。そういう言い訳をするひとは、安くたって行かない。タダだって怪しい。

 1000円になっても観に行かない人は行かないというのはその通りだろうが、観に行く人が増えることに違いはないだろう。私自身もアメリカ並みの料金なら映画館で観たいと以前から思っていたので、敢えて1000円にこだわった。
 繰り返しになるが、それで商売が成り立つかどうかは別問題(あくまでも提案なので)。

>映画人口を増やさなきゃいけない、という声は、本当に映画のことを考えているのだろうか。

 映画人口を増やしたい・・・これは提供者の論理
 映画を安価で観たい・・・・これは消費者の論理

 どちらの側に立脚するかで、視点は大きく異なる。私は、あくまでも消費者の視点で、提供者はどうあるべきかを述べている。映画のことを考えて論じているのではなく、映画の内容をどうこうすればという製作者側の話をしているのでもない。そして映画を観るのは好きではあるが、映画の理想論を述べたわけでもないので、誤解のないように。

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BOOK『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』

 2004年に出版された光文社ペーパーバックス『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』を今更ながら購入し、読んでみた。
 タイトルから考えて、少し前までは、単なる成果主義の批判本かと思っていたのだが、実はそうではなかったようだ。タイトルに騙された(?)とはまさにこのことをいうのだろうが、良い意味で期待を裏切られてしまった。
 この本には、「成果主義」の崩壊というサブタイトルが付けられてはいるが、正確に言うなら、『中途半端な成果主義の崩壊』か『日本型成果主義の崩壊』と付けた方がピッタリとくる。より具体的に言えば、『年功序列制度の弊害による成果主義の崩壊』という長題が相応しいかもしれない。つまり、この本は成果主義について述べたものではなく、年功序列社会に対する強烈な批判本だったわけである。
 成果主義という手段を取り入れることによって、歪んだ年功序列制度が浮き彫りになってしまったという格好のケーススタディー(事例研究法)となっている。

 日本の最先端を歩いていた巨大企業の秘められた実態と業績低迷の謎。その真相を赤裸々に述べた本書は、単なる一企業の暴露本という趣きを超えて、実は日本社会の構図そのものを露呈する書物に仕上がっている。著者の実体験を踏まえた上での、あからさまな考察は実に興味深いものだった。

 最も面白く目を引いたのは、著者も在籍していたという人事部の存在だが、富士通という会社を日本に置き換えてみると、現代の日本社会の実情が垣間見えるような気がした。
 さて、富士通の人事部というものは、日本株式会社の中では、どこに該当するのか? 言うまでもなく、日本全体の人事を統括している組織だ。中でも「本社人事部」というのが酷かったらしいが、これも「霞ヶ関人事部」と置き替えると面白い。本の中には、「人事天国」、「人事独裁体制」、「ゲシュタポ人事部」、「生え抜きのエリート集団」など、どこかで聞いたような皮肉めいた言葉が並ぶ。

 著者はこのように言う。「現場を知らない人間の集団が、叩き込まれた制度や規則だけを基に、常に人を上から見下ろして物事を決定するため、現場とのギャップに気付かない。彼らの仕事の相手は、顧客でもなく市場でもなく、社内の従業員達なのである」と。これもまさに、日本社会の腐敗した構図そのものをズバリ言い表わしているような気がする。

 負けているのに負けを認めないというエリート集団独特のプライドから発生する無責任体制、それが富士通という巨大企業を蝕んでいった1つの原因であるのなら、現代の日本社会を蝕んでいるものの正体も朧げながらに見えてくる。

 つい先日のニュースでも、大きな不祥事を起こした社会保険庁の職員(一部)の職務評価がA評価だったということで騒がれていた。確かに社会保険庁にも優秀な職員もいるとは思うが、あれだけ大きな問題を起こした組織であるのなら、通常は連帯責任の適用が当然であり、職務評価は全員C(A〜Cの3段階評価として)とするのが妥当なところだろう。
 もし許される例外があるとすれば、今回の納付者不明問題を告発した職員か、不明問題解決の陣頭指揮に当たり、大きな成果を上げた職員ぐらいのものだろう。もっとも、そんな職員がもし存在していたなら、逆にC評価となってしまうかもしれないが…。(評価するのは国民ではなく、上司であるため)
社会保険庁職員の仕事相手も結局のところ、顧客でもなく市場でもなかったのかもしれない。国民という顧客からの信用が失墜したことも気が付かず、もはや自らが必要とされていないという市場の声にも耳を傾けようともしない。そしてほとんど反省の色も見えない。あるのは、かつての富士通と同様、年功序列という縦割り社会(=ムラ社会)の中での己の地位や評価のみ。

 一時、大企業の官僚化という問題が取り沙汰されたことがあるが、富士通が成果主義を取り入れることによって映し出されたものとは、実は、大企業の官僚化問題であったとも言える。これは富士通だけの問題ではないだけに、更に由々しき問題かもしれない。



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少子高齢化問題の解決策(?)

2007090401 政府は歯止めのかからない少子高齢化から脱却するために、現在までに様々な諸施策を講じてきたが、未だ全くと言っていいほど解決に向かわないことは周知の通りである。少子化に歯止めをかけるどころが、ますます悪くなっているというのが現状だ。無論、歯止めをかければ即解決というわけではなく、そこから更に増加させるというウルトラCを演じないことには、この危機(?)を乗り越えることはできないという状況になっている。
 具体的に言うなら、1組の夫婦から最低3人程度の子供が産まれない限り少子化から抜け出すことは不可能だが、晩婚や未婚も増加していることを考えれば、3人どころか4人でも少ないかもしれない。しかし実際に兄弟・姉妹が4人もいるような家庭は現在ではほとんど見かけなくなった。このことからも、4人という数字が現代の日本ではいかに現実味のない数字であるかは誰もが理解できると思う。

 高齢化は物理的に避けられないとしても、なぜ、少子化に歯止めをかけることができないのだろうか? 政府の諸々の施策自体が根本的に間違っているという意見もあるが、少子化が進んでいる原因とは何だろうか?
 少子化の原因とは何か? それは、なぜ日本人が子供を産まなくなったのか?という問いに対する答えと同様であるが、これはとても一口では言えない。様々な原因が混然一体となって現在の少子化現象が現れていると考えるべきであり、1つの解を求めたからといって、簡単に解決するような単純な問題とは思えない。はっきりと言ってしまえば、森羅万象を司っている神様にでも聞くしか本当の解答を得ることはできないかもしれない。
 もともと人間には、経済を全て把握することなどはできない。それゆえに、エコノミストなどという商売も成り立っている。経済予測がハズレたとしても、誰からも文句を言われない商売が成り立っているのは“人間には未来が分からない”ということに起因している。そのことは同時に、人間が如何に無知無能な存在であるかの証明でもある。

 さて、少子化の原因をその少ない人間知で考えてみよう。
 現代の政府が、国民に対して「子供を産みなさい」「子供を殖やしなさい」と言ってもまるで効き目がないが、これが戦前ならどうだろうか? 政府が「子供を産みなさい」「子供を殖やしなさい」と言えば、どうなる…いや、どうなっただろうか?
 言わずと知れたことで、国民は意識するしないに関わらず、その実現に向けて一致団結して協力した。所謂「産めよ、殖やせよ」政策は、この時代ではいとも容易く実現してしまった。これが実現したせいで、現代の高齢化社会が生まれたわけでもあるが、現代と一体何が違ったのだろうか?
 その頃の人々は現代人よりも裕福だったのか?というと、必ずしもそうでもなかった。決して経済的に恵まれていたわけではなかったにも関わらず、国民は多くの子供を産み、そして育てた。なぜか? 「昔の人は忍耐強かったから」というような理由だけでは説明がつかない。

 では、なぜ今の政府の言うことは素直に聞き入れられないのだろうか? 政府が頼りないから? それもあるかもしれない。しかし、もう少し踏み込んで言うなら、政府(=国家)の力が弱くなったというのが、1つの答えかもしれない。先進国の人々はあまり子供を作ろうとせず、発展途上国の人々は子供を多く産む傾向にあることはよく知られた事実である。国が成長して成熟し、衰退していく過程においては産まれる子供は数も減少していくことになる。それは、国民が、自国の未来にどのようなイメージを抱いているのかということと大きく関係しているとも言える。
 あるいは、“天皇=神様”という認識を持たなくなった国民が増加した結果だと言えるかもしれない。つまり、国ではなく、個人が主役の時代が訪れつつあることの証明として少子化現象というものが現れているとも考えられるわけである。国というものを中心に動いていた日本社会が、個人を中心に回り始めた。それは恰も天動説が地動説に突然変化したかのように、日本人の価値観が変わってしまったという証左ではないだろうか?

 ところで、個人が主役の時代を迎えることは、はたして不幸なことだろうか? 国から見れば不幸であることは確かだろうが、個人から見た場合はどうだろう? もし不幸であるなら、なぜ人々は自ら不幸になることを選択しているのだろうか? まさか、国民の多くが自らを不要な存在だと思い込んで、無意識的にアポトーシス(プログラム化された細胞死)を演じているという訳でもないだろう。

 海外から大量の移民を受け入れれば少子化問題は即解決と言えなくもないだろうが、世界全体から観た場合、日本の少子化現象というものも、あるいは必然的に起こった自然現象のようなものであり、人為的にどうこうできるようなレベルの問題ではないのかもしれない。
 少子化の行き着く先には希望が待っているのか、それとも失望のみが横たわっているのか、未だ誰にもハッキリとした答えは解らない。その答えも結局のところ、“神のみぞ知る”なのかもしれないが、今後も当ブログの1つの研究テーマとして追究していきたいと思っている。

 最後に、現在の少子化を解決する1つの方法は、政府が信用を取り戻すことが前提である…と述べたいところだが、それは多くの国民にとってはいらぬお節介なのかもしれない。国が国民の行動をコントロールするというのは“社会主義”を意味している。戦前・戦中の日本ではお節介な社会主義が上手く機能していたわけだが、今時、そんなお節介をして喜ぶのは国家社会主義者くらいのものだろうし、地動説を天動説に戻して喜ぶのは時の権力者くらいのものである。

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