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2007年10月

『内部告発』というシンクロニシティ

 不二家〜石屋製菓〜赤福と、賞味期限を偽った食品加工会社の不祥事が続いている。
 それぞれ、ペコちゃんキャンディー、白い恋人、赤福餅と、日本の食文化が生んだとも言えるような有名な和洋菓子の改竄事件だけに大きな話題を呼んだ。
 しかし、これらの事件には興味深い2つの共通点がある。
 1つは、『被害者はいなかった』ということ。もちろん、賞味期限を偽った商品を買わされたとする金銭的被害と精神的被害は存在するが、その商品を食べたことによって齎された被害は無かった。
 そして、もう1つの共通点は、すべての偽装は内部告発によって発覚したというものだ。(食中毒が出たわけではないので、これは当然のことではあるのだが)

 最近の赤福を例にとると、賞味期限の改竄と言っても、大きく分けると2種類の改竄があった。1つは、単に賞味期限表示を偽ったというもので、もう1つが、冷凍することによって、商品自体の賞味期限を延ばしていたというものだ。
 前者の場合、賞味期限表示を実際よりも故意に引き延ばしていたわけだが、賞味期限を延ばしていても、商品が腐っていたわけではなかった。つまり、わざわざそんな姑息なことをせずとも、赤福餅はもう少し賞味期限を延ばしても問題はないということにすれば、事件にはならなかったとも言える。
 本来、3日間とされていた賞味期限を5日なり7日なりに変更しても商品が腐っていないのであれば、大勢には影響がなかったかもしれない。要するに、昔から3日間だと限定されていたものにこだわり過ぎたのが仇となってしまったと言えなくもない。
 後者の場合も、冷凍していることを隠さずに、冷凍の赤福餅ということにして少し安価で販売していれば、なんの問題もなかったかもしれない。なぜなら、皮肉にも消費者の誰一人として冷凍の赤福餅であることが分からなかったのだから。(つまり、食した味はほとんど変わらなかったことを意味する)
 この場合も、昔からの決まり事を守り過ぎたことが仇になったと言えるかもしれない。老舗である赤福が設立された江戸時代には当然、冷凍技術などというものは存在しなかったのだから、冷凍の赤福餅など販売しているはずがない。だからと言って、伝統を守るために冷凍技術の発達した現代にあって、冷凍処理した赤福餅を販売してはならないということにはならないはずだ。
 赤福の伝統を守るために行っていたことが、結果的に赤福の伝統を破壊することになってしまったというのであれば、本末転倒もいいところだ。

 こういった食品加工会社の不正事件が内部告発によってしか明らかにならないという背景には、その食品加工会社自体が極めてクローズドな社風であることを物語っている。数年、数十年間も不正がバレずに済んでいたということは、その会社内で働く会社員自身が、会社と一蓮托生だったからと言えなくもない。不当解雇もリストラもなかった昔ながらの終身雇用制度が根付いた会社では、会社員は全員、運命をともにする家族のようなものであったので、不正や改竄があっても誰も告発するようなことはしなかった。しかし幸か不幸か、そういう昔ながらのムラ社会が崩壊したがために、続々と内部告発者が出現してきたのかもしれない。まるで、心理学で言うところのシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)現象のように。そのシンクロニシティ現象が、クローズドな社会から開かれた社会に変化する過程において現れる浄化現象であるのなら、今後も同じような内部告発が続くかもしれない。
 しかし、実質的に被害者のいないこれらの食品加工会社よりも、むしろ、本当に被害者が出ている役所(薬害肝炎問題の厚生労働省など)の内部告発を期待したいところだ。閉鎖的過ぎる役所にこそシンクロニシティ(浄化現象)は必要かもしれない。

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株式等譲渡益課税10%維持のススメ

 上場企業が他の企業と違うところ(メリット)は、経営資金を銀行からではなく市場から直接調達できるところにある。中小企業を中心とした未上場企業であれば、銀行から資金を調達しなければならないが、上場企業の場合、銀行を介さずに直接、投資家から資金を調達することができる。これを直接金融と言う。

 企業が設備投資または先行投資を行なうためには、莫大な資金が必要になる時がある。その時に、資金を調達できなければ、せっかくのビジネスチャンスを失うことにもなりかねない。そういう意味では、株式投資というものは、実は国益に適ったものであるということができる。例えば、任天堂などの企業が新製品を開発するのに莫大な資金が必要になった場合、投資家が任天堂の株式を購入することによって、任天堂は投資する資金が調達することができるようになる。そして任天堂がその投資によって事業に成功すれば、今度は莫大な利益を生み出すことになり、投資家はその見返りとして大きなリターンを得ることになる。
 こういう善なる好循環をもたらすことは一国の経済にとって非常に重要なことだと言える。そして重要であるがゆえに、市場は透明でなければならない。投資家が安心して企業に投資できる環境を整えることこそが、国家を運営する役人達の本来の仕事であるとも言える。

 以上のことを踏まえた上で、証券税制改正案のことを考えてみよう。

 現在は、平成15年からの5年間の特例措置によって、株式等譲渡益課税は10%となっているが、これを5年後である平成20年に、もう一度20%に戻すべきかどうかという問題が取り沙汰されている。(詳細は以下の通り)

 平成15年〜平成19年 10%(所得税 7% 住民税3%)
 平成20年以降     20%(所得税15% 住民税5%)

 株式等譲渡益課税を10%から20%に引き上げることは正しいか?
 これは意見の分かれるところだろう。なんせ日本は諸外国と違って、株式投資を行っている人が極めて少ない(全国民の10%程度しかいない)。「株式投資は私には関係がありません」という人が大多数を占めているので、単純に20%に上げた方がいいと思っている人が多いかもしれない。
 しかし、私はこの意見には反対だ。無論、株式投資を行っているという金銭的な理由からではなく、日本経済の未来に対する危惧からである。

 先にも述べたが、現代は、銀行から資金を調達するような間接金融の時代ではない。
 銀行自体にそれほどの体力がない(=利子が付かない)のだから、仕方がない。
 バブル崩壊によって、銀行は巨大な不良債権を抱えてしまい、信用も失墜した。
 そんな信用のできない銀行に巨額の資金を預ける人間は、(実際はどうかはともかく)減少していかざるを得ない。もとより、ペイオフ解禁で特定の銀行に1000万円以上の預金をする人がいなくなっているのだから、それは当然の帰結だ。
となると、企業は銀行からではなく、直接、国民から資金を提供してもらう環境を整えることこそが、企業経営を行っていく上で最も重要なことになる。
企業が利益を上げて税金を納めてこそ、国の税収はアップし国民の生活水準は上がる。その目的達成のためには、国も企業に協力しなければならない。
 “企業から税金を搾取すればいい”というテイクオンリーな発想以前にまず、“企業が税金を納めることができる環境を整える”というギブアンドテイクな発想が重要だ。
 税率を20%に上げて、儲けている連中から税金を絞り取ればよいとするようなステレオタイプな発想では、21世紀は渡っていけない。
 このことは、「株式投資は私には関係がありません」と言っている人にも当てはまる。株式投資は1個人の財布の中身には関係がないと思っていても、一国の経済に大きく関係してくる。つまり、巡り巡って、その1個人の財布の中身に影響を及ぼすことになるのだ。
 こういう株式投資に批判的な人々は“投資”を単なる“投機”と勘違いしているとも言える。なるほど、確かに株式投資にはマネーゲーム的な側面はある。そして銀行の預貯金と違って、大きなリスクも介在する。しかし、それは物事の一面を見ているだけに過ぎない。

 企業は多くの資金が集まれば集まる程、その責任の範疇において、大きな設備投資が行えるようになる。実はここに経済を発展させる要因がある。一言で言えば、お金が動くということだ。現在の日本経済は、世界一のお金持ち国家であるにも関わらず、景況感が感じられないのは、お金が動いていないことに起因している。流動資産である現金が、不動産のように固まってしまっている。その多くは、利子も付かない銀行の金庫やタンスの中に半ば眠った形で保存されている。そのお金が動くこと、つまり投資に向かうことが重要なのだ。(喩えて言えば、それは滞っていた血液が心臓に向かって動き出すことを意味する)

 日本経済の先行きを考えると、株式等譲渡益課税は、現在の10%のままに維持することが望ましい。政府には、得をして損をするのではなく、損をして得を取るというマクロ的かつ長期的な視点、つまり投機ではなく投資の視点が必要だ。ゆめゆめ、嫉妬にかられたような対処をしないことを願う。

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映画『バブルへGO!!』とバブル崩壊の論理

 ホイチョイ・プロダクションズ製作の映画『バブルへGO!!』を観てみた。
 さすがに『気まぐれコンセプト』のホイチョイ・プロらしく、細部までこだわった演出がなされており、バブル時代を上手く表現している映画だったと言える。
 まず初めにお断りしておくと、この映画を批判するつもりは毛頭ない。映画としてはよく出来ている。しかし、少しバブルに対しての誤解を招く恐れがあると思われたので、補足だけを述べておきたい。詳しく言えば、“バブル”における認識ではなく、“バブル崩壊”における認識である。

 この物語のメインテーマは、バブル時代へタイムスリップして、当時の大蔵省が行った不動産融資規制(=総量規制)を中止することが目的になっている。
 “不動産融資規制を中止させれば、バブルの崩壊を防ぐことができた”という認識を国民が持つことは正しいか?というと、正しくもあり正しくもない。50%は正解だが50%は間違いだと言える。50%は真実なので、全く持たないよりはましだが、どうせなら、100%の正しい認識を持った方がよいと思うので、以下に述べる。

 正しくは、
 「不動産融資規制を中止させれば、バブル崩壊を防ぐことができた」
 のではなく、
 「不動産融資規制を中止させれば、バブル崩壊をソフトランディングすることができた」
 とするのが正確な認識である。

 もっとも、映画の後半では、阿部 寛扮する役人の台詞の中に「どのみち、現在の景気はいつまでも続かない」という部分があったので、製作者も上記のことは重々承知の上で敢えてエンターテインメントのストーリーを組み立てたのだろうと思う。

 そして失われた10年と言われる日本の不況は、バブルの崩壊が原因ではない。
 不動産融資規制を行わなければ、バブルが一気に弾けることはなかっただろうが、それでも徐々にバブルが萎んでいったことは間違いがない。その場合は数年かけてバブルが萎んでいくことになったと思われるので、バブルという言葉自体が生まれなかったかもしれない。(当然、この映画も生まれなかっただろう)
 不動産融資規制が実施されなければ、日本経済は徐々に不景気になっていったというだけの認識しか生まれなかったかもしれない。そういう意味では、不動産融資規制の実施は、日本経済に巨大な損失を生み出したことは否定できず、良い悪いに関係なく、役人の犯した罪は大きいと言える。

 また、総量規制が役人の自作自演だったということもよく言われることだが、この映画においてもフィクションの範疇でそれが描かれていた。その真偽の程はともかく、一般国民の預かり知らぬところで日本経済を動かす勢力があるのだとすれば、この先、どんな手を使って日本経済を浮上(?)させるのか興味が尽きない。ただ、経済を人為的に下降させることは割と楽にできるかもしれないが、経済を人為的に上昇させることは難しい。バブルという見せかけの好景気を演出することはできても、好景気を持続させることは難しい。そのことは1980年代のバブルで人々が学んだことなので、今度は見せかけは通用しないだろう。それに実質的な好景気の持続は、役人ではなく、国民が演出することが望ましい。この映画のラストに映った希望と活気に満ちた都市が現実の光景になってくれることを願いたい。

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