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2007年11月

映画『善き人のためのソナタ』に観る芸術

映画の舞台は、ベルリンの壁崩壊前の東ドイツ。レジスタンスを取り締まる秘密警察(国家保安省)の1局員の心情の変化を『盗聴』という行為を通して描いた作品。

静寂の中で淡々とストーリーが進むのはヨーロッパ映画の特徴でもあるが、この映画の場合、それに加えて、社会主義国家独特の不自由で窮屈な世界観が伝わってくる。言いたいことも言えず、国家が盗聴を認めているというトンデモない社会、そんな社会が20年前まで何の疑問も持たれず存在していたというのは今更ながら驚きだ。(未だに現存している国はある)

日本に住む我々日本人は、ベルリンの壁崩壊当時、それが何を意味しているのか理解していた人は少ない。歴史的な大事件を単なる異国の出来事だという認識でしか観ていなかった。
その壁の崩壊は、物理的に東西が繋がること以上に大きな意味を持っていた。世界を二分していた『自由』と『束縛』という思想が1つに混じり合うという歴史的瞬間を我々はテレビを通して傍観者として眺めていた。しかしてその出来事は、20年近くを経過して世界中を1つの市場にするという結果(=グローバル化)を齎した。その結果を齎したものとは、何だったのか? それこそが、自由を求める心だった。
20世紀という壮大な文明実験を通して、人々は自由と対極にある束縛を体現した社会が如何に人間性を喪失させることに繋がるのかを発見した。いや、証明したと言った方が正解かもしれない。

善き人のためのソナタを聴いた主人公は、涙する。皮肉なことに盗聴というものを通して、今まで見ることのできなかった世界を見ることになる。人間の心の内を。どのような国家にも決して縛ることのできない人間的な感情を知ることになる。そしてその感情はいつしか抑えることのできない激情へと変化する。

最後に主人公は言う。
「これは私のための本だ」
この言葉は下記の言葉と重なる
「善き人のためのソナタ」

つまり、この言葉を発するに到った主人公は、「善き人」になったことを物語っている。どういう風に善き人になったのか? 芸術を解する(=善き人のソナタを聞いた人は悪人になれない)心通った人間に生まれ変わったことを暗に示している。
「本」と「ソナタ」は双方とも芸術を意味するが、実はもう1つ、この映画には隠されたメッセージがある。それは「映画」、つまり、「善き人のための映画」だということ。
そういう映画をドイツで創作できるようになり、また観ることができるようになったことは、世界が変わったことを表している。そう、「我々は今、自由な世界に生きているのだ」という強烈なメッセージをこの映画は発している。

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官僚がおかしくなった訳

 昨今、官僚バッシングが盛んになった。これほど官僚に対するイメージが悪化したことは国民にとって良いことなのか悪いことなのか、その判断は難しいと言えるかもしれない。
 某新聞の記事にも、守谷事務次官を例に出し、官僚バッシングの行き過ぎに警鐘を鳴らすようなことが書かれていた。官僚バッシングが過ぎると、官僚のイメージダウンにつながり、優秀な人材が国家公務員試験を受けなくなり、誰も官僚に成りたがらなくなるというものだった。
 確かに、その通りかもしれないが、はたして21世紀の現代にあって優秀な一握りの官僚達に国家の運営を任せることが重要なことなのかどうかという疑問は残る。実際に現在、最も優秀な学生達は官僚にはなっていないらしいので、その理由が単に官僚のイメージダウンからくるものだとは思えない。

 さて、ではそもそもなぜ、現代の官僚はこれほどまでにバッシングを受けるようになってしまったのだろうか? かつて、官僚と言えば日本で最も優秀な人達という意味で国民からは尊敬の念を持たれていたものらしいが、なぜこれほど忌み嫌われる存在に堕してしまったのか? その謎を解明しない限り、いくら官僚バッシングを行ってもあまり意味がないのではないだろうか?

 官僚バッシングで有名(?)な経済学博士の加藤 寛氏の本には次のようなことが述べられている。

 「官僚の質が落ちたのは、公務員年金法が改正されて、官僚を退職した後の年金額が大きく減額されてからです」と。

 要するに、彼ら官僚が天下り先作りに奔走するのは、官僚に対する老後の保障が低下した(=無くなった)からだというものだが、私もこの意見には同感だ。
 仕事における優劣はないとは言うものの、日本の屋台骨を支える重要な要職に就いている人間が、一般のサラリーマンと同じ待遇では、確かに文句の1つも言いたくなるかもしれない。苦労して勉学に励み、東大の法学部に入学し、国家公務員試験に晴れて合格して、日本国家の運営を任されたという立場の人間(と言っても、頭脳が良いこと=優秀な人間とは限らない)が、一般の人々と同じ待遇ではやってられないというのは人情というものだろう。企業の社長と社員が同じ待遇では「社長などやっていられるか!」というのと同じ理屈だ。

 「どのように大事な仕事を任された優秀な人間であったとしても、老後の保障は一般人と全く同じにしなければいけない」という意見もあるだろうが、ほんの少数の官僚達に対してそういう縛りを設けてしまったがために、官僚達はまさに一般人と同じように“日本の将来の心配”ではなく、“自らの老後の安定”だけを目的として天下り先の確保に走る結果となってしまった。これでは本末転倒ではないだろうか?

 加藤氏も言われているが、これは要するに社会主義思想が生んだ弊害と言える。
 万人が平等(結果の平等)でなければならないとする社会主義思想こそが、官僚がおかしくなった原因であり、この諸悪の根源である根っこを引き抜き、新しい種を蒔かない限り日本の将来はないというのは確かにその通りだろう。
 しかし、だからといって現代の官僚を擁護するつもりはない。なぜなら、その社会主義思想を日本に蔓延させたのは他ならぬ官僚達自身でもあるからだ。
 官僚達は自らが創り出した日本独自の社会主義システムによって、自らが堕落に追い込まれるという事態を招いてしまった。つまり、自業自得だ。

 もはや、日本型社会主義では日本株式会社の経営は成り立たなくなっていることは周知の事実であるので、官僚達は自分達のためにも、そして日本の将来のためにも大きく舵取りする必要があるのかもしれない。そして国民達も表面的な人間としての官僚バッシングではなく、その奥にあるシステムとしての官僚バッシング(=社会主義バッシング)に切り換えるべき時が来ているのかもしれない。

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食品加工会社のジレンマ(減価償却と廃棄焼却)

 ここ数年で、自動車を始め電化製品などの消費財が『受注生産』という形に徐々に変化してきていることは、一般消費者なら誰もが気が付いていると思う。
 受注生産方式が一般化される一昔前までは、大量生産方式が採用され、商品を注文前(需要が発生する前)に大量に生産し、メーカーは多くの在庫商品を抱えているというのが当たり前の状態だった。しかし、昨今のパソコンを見ればよく分かるように、商品の日進月歩が激しく、余分な在庫などを抱えていると減価償却できずに赤字になってしまうという時代になってしまった。

 パソコンのように半年に1回モデルチェンジを行っていれば、売れ残った商品の在庫がアッという間に山積みとなってしまう。しかもその時点で如何に高性能なパソコンであろうとも、数年経てば例外なく陳腐化してしまい、二足三文の価値しか持たなくなってしまう。そんな時代であれば、いかに時代に疎い経営者であっても、在庫などを抱えている場合ではないことに気が付くだろう。そして実際にそうなっている。

 基本的に、全ての電化製品等は受注生産に切り換えることは可能だろう。携帯電話しかり、音楽プレーヤーしかり、DVDレコーダーしかりだ。しかし、世の中には、いくら在庫するのを嫌がっても受注生産化できないものがある。それは商品としての価値が極めて短期間(有限)であるもの、つまり、食料品である。 無論、例外的な食料品は存在するが、ここでは一般論として述べる。

 食料品は基本的に長期間の在庫はできない。賞味期限内に売ることができなければ、かつての大量生産時代のように、商品を廃棄しなければならなくなる。食料品はパソコンと違って、中古品として販売することもできず、部品を分解して再生産するという芸当もできない。当然のことながら、売れ残った商品の数だけマイナスとなる。売れた商品の利益でマイナス分を補うことができればいいが、薄利多売の商品であれば、大きな赤字になる可能性がある。ここに、最近の賞味期限改竄事件の裏事情を垣間見ることができるかもしれない。

 世間(マスコミ)では、「賞味期限の徹底」を訴えてはいるが、“賞味期限の厳守”とは=“商品の廃棄焼却”を意味する。「賞味期限の切れた商品は速やかに廃棄してください。」というのは、消費者側から見れば当然のことであるのだが、生産者側から見れば、場合によっては死活問題に関わってくる。もっとも、賞味期限の改竄が発覚した時点で別の意味での死活問題を抱えてしまったことになるのだが。

 賞味期限を厳守することが企業の第一目的になってしまえば、問題となった食品加工会社が選択できる道は2つしかない。
 1つは、在庫を極力抱えないように、需要を上回る生産を避けること。(=大幅なリストラ)
 もう1つは、商品の賞味期限を延ばす方向に経営の舵取りをすること。(=新商品の開発)

 そのどちらを選択するにしても、企業として大幅な改革が必要になる。はっきり言ってしまうと、利益追及をひとまず置いておいて、法令遵守に努める方向に傾いてしまうことになる。しかし、これらの食品加工会社にそんな悠長なことを行っている余裕があるのかは疑問の域を出ない。そしてもう1つ見落としてはならないことは、どちらに転ぼうと“商品の値段が上がるかもしれない”ということだ。あるいは、商品自体が市場から消えることになる可能性もある。(=経営不可能=倒産)

 マスコミは「賞味期限の徹底」を訴える前にまず、これらの食品加工会社が賞味期限の改竄を行っていた動機を考える必要があるかもしれない。その理由が、単にお金儲け主義、悪く言えば、欲から出たものであるのか、それとも、そうしなければ、経営が成り立たなくなっていたがゆえに仕方なく行っていたのか。
 前者であるなら、「賞味期限の徹底」を訴えることは正しい選択だろう。しかし、後者であった場合は「賞味期限の徹底」を訴えても、ナンセンスかもしれない。後者である場合はむしろ、経営自体を根本的に変革する必要がある。つまり、「賞味期限の徹底」ではなく「企業改革の徹底」を行わないことには、解決できない問題とも言える。
 時代が進歩したにも関わらず、大量生産時代の方式を採らざるを得ない食品加工会社のジレンマ、そのジレンマを追究しないことにはこの問題の解決策を見い出すことはできないだろう。

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