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官僚がおかしくなった訳

 昨今、官僚バッシングが盛んになった。これほど官僚に対するイメージが悪化したことは国民にとって良いことなのか悪いことなのか、その判断は難しいと言えるかもしれない。
 某新聞の記事にも、守谷事務次官を例に出し、官僚バッシングの行き過ぎに警鐘を鳴らすようなことが書かれていた。官僚バッシングが過ぎると、官僚のイメージダウンにつながり、優秀な人材が国家公務員試験を受けなくなり、誰も官僚に成りたがらなくなるというものだった。
 確かに、その通りかもしれないが、はたして21世紀の現代にあって優秀な一握りの官僚達に国家の運営を任せることが重要なことなのかどうかという疑問は残る。実際に現在、最も優秀な学生達は官僚にはなっていないらしいので、その理由が単に官僚のイメージダウンからくるものだとは思えない。

 さて、ではそもそもなぜ、現代の官僚はこれほどまでにバッシングを受けるようになってしまったのだろうか? かつて、官僚と言えば日本で最も優秀な人達という意味で国民からは尊敬の念を持たれていたものらしいが、なぜこれほど忌み嫌われる存在に堕してしまったのか? その謎を解明しない限り、いくら官僚バッシングを行ってもあまり意味がないのではないだろうか?

 官僚バッシングで有名(?)な経済学博士の加藤 寛氏の本には次のようなことが述べられている。

 「官僚の質が落ちたのは、公務員年金法が改正されて、官僚を退職した後の年金額が大きく減額されてからです」と。

 要するに、彼ら官僚が天下り先作りに奔走するのは、官僚に対する老後の保障が低下した(=無くなった)からだというものだが、私もこの意見には同感だ。
 仕事における優劣はないとは言うものの、日本の屋台骨を支える重要な要職に就いている人間が、一般のサラリーマンと同じ待遇では、確かに文句の1つも言いたくなるかもしれない。苦労して勉学に励み、東大の法学部に入学し、国家公務員試験に晴れて合格して、日本国家の運営を任されたという立場の人間(と言っても、頭脳が良いこと=優秀な人間とは限らない)が、一般の人々と同じ待遇ではやってられないというのは人情というものだろう。企業の社長と社員が同じ待遇では「社長などやっていられるか!」というのと同じ理屈だ。

 「どのように大事な仕事を任された優秀な人間であったとしても、老後の保障は一般人と全く同じにしなければいけない」という意見もあるだろうが、ほんの少数の官僚達に対してそういう縛りを設けてしまったがために、官僚達はまさに一般人と同じように“日本の将来の心配”ではなく、“自らの老後の安定”だけを目的として天下り先の確保に走る結果となってしまった。これでは本末転倒ではないだろうか?

 加藤氏も言われているが、これは要するに社会主義思想が生んだ弊害と言える。
 万人が平等(結果の平等)でなければならないとする社会主義思想こそが、官僚がおかしくなった原因であり、この諸悪の根源である根っこを引き抜き、新しい種を蒔かない限り日本の将来はないというのは確かにその通りだろう。
 しかし、だからといって現代の官僚を擁護するつもりはない。なぜなら、その社会主義思想を日本に蔓延させたのは他ならぬ官僚達自身でもあるからだ。
 官僚達は自らが創り出した日本独自の社会主義システムによって、自らが堕落に追い込まれるという事態を招いてしまった。つまり、自業自得だ。

 もはや、日本型社会主義では日本株式会社の経営は成り立たなくなっていることは周知の事実であるので、官僚達は自分達のためにも、そして日本の将来のためにも大きく舵取りする必要があるのかもしれない。そして国民達も表面的な人間としての官僚バッシングではなく、その奥にあるシステムとしての官僚バッシング(=社会主義バッシング)に切り換えるべき時が来ているのかもしれない。

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