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2007年12月

参議院選挙は『肉を切らせて骨を断つ作戦』?

 少し前に、今年(2007年)を象徴する文字は『偽』ということに決まったらしいが、なるほどと頷かせるものがある。今年は食品を中心とした偽装問題が大きくクローズアップされた年であったことを否定する人間は誰もいないだろう。
 幸いなことに食品偽装における被害者というものは出ていないが、その影に隠れてしまっている社会保険庁の年金問題と厚生労働省の薬害肝炎問題では、多くの国民が被害もしくは迷惑を被った。そういう意味では、『偽』の主役は民間の食品関連会社というよりも、役人達だったと言えるかもしれない。

 さて、その『偽』の主役であった社会保険庁の年金問題であるが、先日、面白い仮説を読んだ。国際問題アナリストの藤井厳喜氏の著書に次のようなことが書かれている。(以下は原文ではありません)

 安倍内閣は公務員改革に力を入れていたが、年金問題が発覚したために、非難の鉾先が自民党(安倍内閣)に向かい、公務員改革を断念せざるを得なくなった。その非難のために、自民党に向かうはずだった票が民主党に流れ、民主党が選挙に勝利するという結果を齎した。
 しかし、当の民主党こそが、社会保険庁と関係の深い官公労(日本官公庁労働組合協議会)の支持政党だった。
 つまり、先の選挙は、公務員制度を改革される前に、先に年金問題を民主党にリークし、自民党バッシングを煽るという『肉を切らせて骨を断つ作戦』だったというものだ。国民達は、年金問題の解決を願っていた(=公務員改革を望んでいた)にも関わらず、結果として社会保険庁寄りの民主党に投票してしまったという皮肉を述べている。

 上記はあくまでも仮説の域を出ないが、考えられないことではないだけに、妙に説得力があるように思われる。「事件の裏には事件があると疑え」とはよく言ったものだ。しかし、もしこれが真実であるなら、官僚達の狡賢さには呆れるほかない。

 さらに、藤井氏はこう言っている。「年金制度とは、徴収された掛け金を国民に支給するのではなく、最初から別の目的に使うために作られた制度だった」と。

 ここまで言ってしまうと身も蓋もないが、現状の年金制度をこのままの形で維持し続けると、近い将来、本当にそう思われても仕方がないという状況を迎えることになるかもしれない。
 僅か1年間で「5000万件の年金不明問題を解決する」という出来もしない不可能な公約を軽はずみに行った安倍総理にも責任があるが、それ以前に、年金制度というものを深く考えようとしない国民サイドにも責任がある。何も自分の頭で考えようとしない他人(この場合は役人)任せの依存体質こそが、年金問題で明らかになった本当の問題点とも言える。

 元々、政府としては、年金制度は破棄したいというのが本音だろうと思う。しかし今更、年金制度を御和算すると、今まで社会保険料を納付した人達に積立てた社会保険料(実際は積立ではないが)を返却しなければならない。しかしその原資がない。
ゆえに、ズルズルと赤字企業の自転車操業よろしく、年金制度を続けていかざるを得ない。
…となると、年金問題(広義の年金支給問題)を解決する手段はもはや無いと言っても過言ではないかもしれない。年金資金を運用するという手段は残されてはいるが、現在のゼロ金利のような状態では国内では運用すらままならない。お国柄、年金資金を海外で運用するようなリスクを冒すとはとても思えない。

 いずれにしても、今のままで適当に過ごしていれば年金生活が待っているという甘い考えは今後、捨てざるを得なくなるだろう。近い将来、元々、年金制度というもの自体が幻想だったと言われる日が来るのかもしれない。逆に、いつまでも年金生活はできると思い込んだままであれば、更に厳しい現実を迎えることになる可能性も否定できない。
 年金制度が破綻するしないに関わらず、年金生活ができるという常識を自ら損切りできる勇気を持つことは決して無駄にはならないはずだ。


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『資本主義の精神』と『勤勉の精神』

 『資本主義の精神』というものがある。
 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本(下記参照)もあるので多くの人に知られている。
 この資本主義の精神とはどういうものなのかというと、簡単に言えば、高度な倫理観(宗教観)を基に労働を行わなければ、本当の資本主義社会は生まれないというものだ。
 通常、日本の多くの人々は「資本主義」と聞くと“弱肉強食”“優勝劣敗の競争社会”“金儲け至上主義”などという負のイメージを思い浮かべる人が多い。そういうものも確かに資本主義社会の一面ではあるが、もっと多角的に捉えなければ資本主義の本質は理解できない。ミクロ的な批判ばかりしていてはマイナスな面しか見えてこないが、マクロ的な視点で見るとそこには社会を良い方向に向かわせる大きなヒントが隠されている。

 具体的に、ある2人の人物を例にして考えてみよう。
 ある会社に、高度な倫理観を持った人間(以下A)と倫理観の全くない人間(以下B)の2人が存在していたとしよう。
 Aは勤務時間中、不必要な休憩を一切せずに無私の心で働いており、Bは勤務時間中、少しでも休憩した方が得だと考えて働いていた。 当然、2人の仕事には差がついた。言うまでもなくAの方が断然能率的だった。Aは常に仕事を合理的に行うことを考えた。一方、Bはさぼることばかり考えた。Aはどんどん効率的に仕事をこなせるようになっていったが、Bは一向に進歩しなかった。
 さて、この2人の給料が同じで、昇給も同じだった場合を考えてみるとどうだろうか? Aのような人間ばかりの会社とBのような人間ばかりの会社があれば、そこにはどんな差が発生するだろうか?
 答えは、前者(前社)は発展する可能性があるが、後者(後社)は確実に衰退する。

 ではそこに競争原理を導入するとどうなるか?
 答えは、前者(前社)は努力次第で競争社会でも対応していける可能性があるが、後者(後社)はあっという間に淘汰される。

 競争がどんどん激しくなってくると、コストを少しでも抑えなければならないという合理的な精神が働くが、その精神が働かないなら、そこには資本主義社会は生まれない。一時的に生まれたとしても永続的には続かない。コスト意識(=合理化の追求をすること)が無ければ資本主義社会は続かない。なぜならコスト意識が無ければ、基本的に競争という概念が存在しなくなってしまうからだ。競争というものは合理化の追求があってこそなされるものであるからだ。
 そしてそういう姿勢の容認は、高度な倫理観があって初めて為される。それが資本主義の精神と言える。平たく言えば、さぼらず、向上を目指す精神的思考、もっと簡単に言えば、働くことは良いことだと思える精神と言えば解りやすいかもしれない。
ただ、高度な倫理観を持っていない者であっても、表面的に捉えると“コスト意識”さえ持っていれば一応は資本主義者とは言える。

 まるでアリとキリギリスの話のようだが、実はキリギリスでは資本主義者にはなれない。しかし日本の多くの人は、キリギリスこそが資本主義者の姿だと思っているフシがある。

 ソ連が崩壊したのは、この資本主義の精神が無かったからと言えるが、現代の日本はどうだろうか? モノづくり大国日本には、その下地に“勤勉の精神”というものが存在していた。現在でも「定年後も社会のために働きたい(または働いていないと罪悪感を感じる)」という老齢者が多いことがそれを物語っている。
 日本では20世紀にモノづくりのヒーロー達が数多く輩出した。そのヒーロー達は、労働哲学とでも言えそうな観念を日本の製造業社会に深く刷り込むことに成功した。そのお陰もあってか日本の製造業は世界一の技術水準と競争能力を兼ね備えることになり、日本経済を支えるまでに成長した。

 日本の資本主義の精神とは、必ずしも欧米のような宗教的な倫理観を下地にしたものではない。宗教が全く根付かない国で本来芽生えるはずのない高度な倫理観を奇跡的に発芽させることに成功した希有なる国家、それが経済的に観た日本の姿であると言える。資本主義の精神ならぬ勤勉の精神こそが、日本経済を発展させることができた大きな一因だった。(注意:日本の勤勉の精神は20世紀以前から存在していたので、高度経済成長期に勤勉の精神が生まれたという意味ではない)

 敢えて、「…だった」という過去形を使用したことには訳がある。如何に日本版『資本主義の精神』である『勤勉の精神』が重要だと言っても、勤勉の精神だけでは、これからの経済には対応できないと思われるからだ。
 日本版『資本主義の精神』は、モノづくり中心の実体経済下では大きく花開いたが、21世紀の情報化社会では、かつてほどの成功体験を齎す力を持っているとは必ずしも言えないからだ。なぜ言えないのか? この話を掘り下げていくとブログとは言えなくなってしまう(私自身の学習不足もある)ので、取り敢えず、またの機会に譲ることにしたい。

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政府の少子化対策=公務員極楽天国方案

 先週(11月28日)、政府による『子どもと家族を応援する日本重点戦略検討会議』なるものが行われ、最終報告書が基本合意されたとのニュースがあった。
 基本となる骨子は、現在の少子化対策の制度的課題と今後の対応策を提示することらしいのだが、そこで基本合意されたことは、『企業の年次有休休暇を全て取得することを目的として、その実現によって育児休業を増加させる』というものだったらしい。
 この報をテレビニュースで聞いた時は唖然とした。開いた口が塞がらないことはまさにこのことをいうのだろう。

 それにしても、『育児休業を増やすこと』=『少子化対策』という発想には驚かされる。これでは、小中学生の学級会議並みだと言っても決して言い過ぎではないと思える。
 育児休業を増やせば、育児しやすくなるのは確かだろうが、そうすることによって発生する問題があることを完全に見落としている。1つの目的を達成することによって、失うものがあることが全く見えていない。つまり、対策を講じた場合のシュミレーションがまるでできていないのである。

 中小企業に勤めている人なら誰でも常識として理解していることだが、現在では年次有休休暇を全て取得することは難しい。と言うより、有休休暇自体が有名無実化しており、病気にでもならない限り、有休休暇は取得できないのが一般的だ。なぜなら、代わりの人員がいないからだ。今時の企業は余剰人員などを抱えている余裕などは無いのだから、これは当然のことだと言える。いつでも代わりの人間がいるという会社があるとすれば、それはリストラも行わずに経営してこれた会社か、余程の高収益企業に限られる。
 善いか悪いかは別として、現代における有休休暇の定義とは、昔のように“余分に与えられた休日”ではなく“欠勤にならないための休日”に変化してしまっている。

 もし仮に全国の中小企業が年次有休休暇を全て取得するようなことになれば、一体どれだけの生産性が落ちることになるだろうか? それだけ生産性が落ちても企業として成り立つのであれば問題ないが、成り立たないのだとすれば、その企業は経営が悪化して倒産の憂き目に会うかもしれない。そうなれば当然、従業員も失業する。職を失って少子化対策になるだろうか? 職を失わなかったとしても、企業の生産性が落ちれば、給料も落とさざるを得ない。収入が下がって少子化対策になるだろうか?
 いくら休日が増えて時間的な余裕が生まれたとしても、精神的な余裕と経済的な余裕が同時に発生しない限り、少子化対策にはならない。会社が傾いては精神的な安定は得られないし、給料が上がらないでは経済的なゆとりも生まれない。その結果、どうなるかと言うと、少子化は更に進んでしまう可能性がある。
 結局、政府の行おうとしていることは、少子化対策ではなく、少子化促進政策になってしまいかねないということだ。政府が国民の税金を使用して、少子化計画を練っていたのでは話にもならない。

 なぜこんな信じられないような政策が臆面もなく出てくるのだろうかと考えると、政策を練っている人達が世間(=社会)を知らないのではないか?という疑問を抱かざるを得ない。有休休暇を全て取得するという発想が真直ぐに出てくること自体、まともな現代社会人の発想とは思えない。率直に言えば、公務員的な発想と言わざるを得ない。公務員であれば、有休休暇を全て取得することは可能かもしれないが、民間企業に勤務するサラリーマンには無理な相談だ。
 確かにサラリーマンであっても有休休暇を自由に取得できる権利はあるし、有休休暇を取得することは悪いことではない。しかし、有休休暇を取得することは国が勝手に義務付けることではない。あくまでも個人の責任の範疇で判断して取得するものだ。国が勝手に民間企業の休日まで決定してしまうのでは、国営企業と変わらなくなってしまう。国が民間企業の経営を統制するなどは時代錯誤も甚だしい。

 『企業の年次有休休暇は全て取得しなければならない』などという法律が出来てしまうと、企業は年次有休休暇日数を減らさざるを得なくなる。そうなると、本当に休暇を取得しなければならない時であっても有休休暇が足りなくなって(=欠勤扱い)しまい、更に収入は下がることになる可能性がある。元々、有名無実な有休休暇が、今度は無名無実なものになってしまいかねない。
 こんな法律が出来て結果的に喜ぶ(=少子化から脱する)のは、公務員だけだろう。政府主導の少子化対策とは結局のところ、“公務員天国”が“公務員極楽天国”になってしまうだけの愚策だと考えるのは私だけではあるまい。

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