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2008年1月

“たらい回し事件”の本質とは何か?

 最近、妊婦や救急患者の“たらい回し事件”というものが頻発しており、中には救急車で10件以上の病院をたらい回しにされるという人もいるらしい。もちろん、これは笑い話ではない。実際にたらい回しにされた挙げ句、亡くなった人まで出ているのだから、事態はより深刻だ。患者や家族の身になって考えると、これはまさに恐怖以外の何ものでもないと思える。

 こういった事件が増えてきたことで、病院の医療体制自体を非難する声もあるが、何が問題なのかを少し考えてみよう。
 まず、救急患者をすぐに受け入れることができない理由とは何だろうか?
常識的に考えれば、次のような理由が考えられる。

 1、病室が満杯状態
 2、医者や看護師が不足していて対処できない
 3、医者が余分な仕事に時間を費やしている。または治療の必要のないような
   患者を多く抱え過ぎている

 その病院が人気のある美容院よろしく物凄く評判が良くて、そのせいでいつも満員だというのならともかく、救急車で10数件回った病院すべてが同時期に満員というのはあまりに不自然だ。では病院が嘘をついているのかというと、そうではないだろう。おそらく考えられるべき答えは、「需要が供給を大きく超えてしまっている」ということだろう。つまり、病院も医者も看護師も足りていないのではないか?ということだ。この場合、上記の1と2は現象面における理由となるが、3も全く無関係というわけではないだろう。

 高齢化社会にあっては、当然の如く、病人の数は増える。これには疑いの余地はない。ではなぜ、医者の数が比例して増えないのだろうか? その中でも特に産婦人科医が増えないのはなぜだろうか? 少子化であるがゆえに産婦人科医が減少しているからだろうか? しかし、少子化が理由で産婦人科医が減少しているのであれば、高齢化が理由となって内科医や外科医は増加して然るべきはずだ。しかし、そうはなっていない。つまり、市場原理の法則が機能していないということになる。需要の無い所も需要の有る所も同じように人手が足りていない(供給が追い付いていない)。これはなぜだろうか?

 産婦人科医というのは、時間的にも不規則な勤務となるそうだ。そして死産などの事故が発生してしまうと訴訟事件に発展してしまうというリスクも背負っている。そう考えると、産婦人科医が減少してしまう理由は少子化以外にもあるのかもしれないが、ここでは少し別の角度から問題を掘り下げてみよう。
 産婦人科医が“医療業界の中では比較的、労働条件が悪い”ということが成り立つのであれば、収入はどうなっているのだろうか? 成り手がいないのであれば、収入が高いと思われがちだが、実際はそうではないらしい。
 心理的な面だけでなく、経済的な面でも市場原理が機能していない。なぜか? 答えは到って簡単、それは様々な規制のためである。

 日本では、医者に成れる人数も、医療における収入も医療にかかる費用も厚生労働省の管理下に置かれている。病人が増えようが減ろうが、役人が勝手に医者の人数を規定してしまっているのだから、市場原理など機能するはずもなく、必然的に需要と供給のバランスが崩れてしまうことになる。
 このことについては、経済学者の蔵 研也氏も著書『国家は、いらない』で詳しく述べておられる。
 もう1つ、ついでに述べると、高齢化社会では医者の需要は増加するが、その先にある人口減少社会が訪れれば、医者の需要は減少することになる。その場合は当然、医者が余ってしまうことになるので、医者になる人数は減少して然るべきはずだが、そうはならない。役人の勝手な規制のために、またまた市場原理が機能せず、医者余りが社会問題となってしまう。医者余りはある意味で、医者が足りないことよりも大きな問題となるかもしれない。

 “たらい回し事件”が社会問題となり、成り手のいない産婦人科医を増やしたいのであれば、産婦人科医の収入が上がるようにするべき(=医療費を上げる)だろう。一生に数回の出産費が上がることに不平不満を言う人はそうそういないだろう。そもそも病院をたらい回しにされるぐらいなら、少々、医療費が高くても仕方がないと思うはずだ。しかし、そういった自由な判断(医療費の差別化)が、様々な規制のためにできなくなってしまっているところに問題の根源がある。
 これは医療だけでなく全てについて言えることだが、役人達のいらぬお節介のために、様々な弊害が発生しているということだ。
 “たらい回し事件”が発生する根本的な原因は、病院の体制にあるのではなく、日本の医療制度そのものにあると言える。そしてその制度の根っこに存在しているものこそ、社会主義という悪平等思想だ。つまり、“たらい回し事件”とは、純粋な医療問題ではなく、不純(?)な政治問題なのである。



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少子化は社会変革期のメッセージ

 『少子高齢化』という言葉が検索エンジンに引っ掛かり、当ブログを閲覧される人が多いようなので、改めて、少子高齢化について考えてみたい。
 少子高齢化に歯止めがかからないということは既に述べた。政府(=国家)の力が弱くなったことが少子高齢化の一因であり、国ではなく、個人が主役の時代が訪れつつあるのではないかという仮説も簡単に述べた。
 これについては、別のブログで反論(?)する人も出てきたが、気にせずにさらに少し話を進めてみたい。

 まず、少子高齢化は良いことなのか、それとも悪いことなのか? これについては様々な意見を述べている人が存在している。悪いという人が圧倒的多数を占めていることは言うまでもないことだが、中には良いことだと言っている人もいる。その場合の「良い」と言うのは、『少子高齢化』が良いというよりも、『人口が減少すること』は良いことだという限定的な意味なのかもしれないが。
 では逆に、多子低齢化は良いことだろうか、それとも悪いことだろうか? これに対する意見は聞いた記憶がないが、あまり良いとは言えないだろう。なぜなら、それは読んで字の如く寿命が極めて短い社会と言えるからだ。おそらく、子供を3人以上産み、産んでからの余生が短い、年齢でいうなら50歳程度で寿命を迎えてしまうような社会だろう。要するに、これは、これから人口が増加していくという発展途上国のような社会と言える。(この場合の子供が3人というのは、産まれた子供が病死や餓死をしないということが前提)

 少子高齢化が悪いことだとする理由は、高齢者の面倒をみる人が足りなくなること、そして高齢者の生活を保障するための経済的資金が足りなくなること、そういった福祉対策を考慮しなければならない反面、若年者の労働力が低下するということ、そのせいで、国の経済力自体も低下してしまうことなど、実に様々な問題がある。
 政府からは少子高齢化対策と言えるような抜本的な政策は何1つ聞こえてこない。聞こえてくるのは、取って付けたようなその場凌ぎの策ばかりで、どこまで本気に少子化について考えているのか疑わしいと言わざるを得ない。

 では、何か策があるのかということだが、その前に、何か対策を立てれば解決する問題なのか?ということを考えてみたい。例えば、給料所得を上げるという政策を講じたとして、果たして少子化が解決されるだろうか?
 既に結婚していて子供がいるという人であれば、もう1人子供を産むことは考えられるが、多くの結婚していない人達が結婚し、子供を設けようと思うところまでガラッと心境が変化するかというと、私にはそうなるとはとても思えない。一部の国民が少子化から抜け出したとしても、総ての国民が揃って少子化から抜け出すことになるとはとても思えない。現在の日本の少子化が、単に経済的な問題だけで起こっているものだとは思えないからだ。中にはそういう人もいるだろうが、現在の少子化の進行には、時代的にそうならざるを得ない何かがあるのではないかという気がしてならない。もし、少子化自体が必然的に発生している現象であるのだとすれば、人為的に如何なる対策を講じたところで、完全に解決できるはずがないと思われるからである。

 日本という国の経済が、人間の身体と同じように既に“成熟期”を迎えたのであれば、過去の“成長期”に戻ることは難しい…というより不可能に近い。それに、一国の経済が成熟期を迎えたにも関わらず、途上国並みに人口が増加し続けても、別の問題が発生してしまう可能性がある。(例えば、就職難など)
 日本がモノ作りを中心とした農業・工業国であり続けていた間は、仕事はあっても人手が足りないということで子供はどんどん増えていっても、さして問題は発生しなかった。しかし現代のような知的情報化社会にあっては、子供の数が増えれば増えるだけ、競争が激しくなり、普通に生活していくことが更に難しくなるかもしれない。時代的背景を考えずに子供が増え過ぎても、逆に生活苦が待っている可能性がある。
 あるいはこうも言えるかもしれない。今までの日本は時代的背景などはほとんど考えずに生きてこれた。それは物凄く希有なことであり、運が良かったのだと。もう少し具体的に言うと、市場原理を無視して生きてこれた社会だった。つまり、統制経済の色が濃かった時代だったとも言える。
 個人の人生が画一的なものとして統一化され、国民はそれを当然のこととして受け入れていた。そういった空気が社会を支配していたため、誰もそのことを疑わなかった。
 ところが、現代の日本社会は、市場原理が機能し始めたことによって、結婚を例にあげても、離婚する人、非婚の人、晩婚の人など様々なタイプの人達が存在することになったのではないだろうか? 管理された社会ではなく、ある意味、自由な選択が許される社会になったと言えないだろうか?

 国家は、自らが生き長らえるために国民を管理し束縛したい。しかし、社会自体が一足お先に自由な時代を迎えてしまった。国家は時代に乗り遅れた。いや、自由と国家とは相反するものであるのだから、元々、自由な時代と国家が交差することはない。本来、国家の幸福は国民の不幸であり、国家の不幸は国民にとっては幸福なものであるからだ。
 日本の高度経済成長期には、その常識が通用せずに、国家と国民の双方が幸福になれる(=WinWinな関係)という幸せな時代だった。この幸せな時期をとらえて、諸外国の人々は日本を「世界で初めて成功した社会主義国」だと皮肉った。しかし、それは奇跡的な偶然が齎した夢のような幻想期間でもあったのだということに多くの国民が気付き始めた。

 国家は、自らの命を延命させるために是が非でも子供を増やしたい。しかし、束縛よりも自由を求めつつある国民は素直に言うことを聞かない。
 途上国では国が子供を産むなと言っても、自然と子供は増える。逆に、成熟国では、国がいくら子供を産めと言っても、自然と子供は減少する。この違いは統制経済と自由経済の違いであると言えなくもない。そのことからも、少子化や多子化というものは、そもそも人為的に操作できるものではないとも言える。そしてこうも言える、少子化は国民から国家に対する目に見えない社会変革期のメッセージであると。

 そうであるなら、政府が考えるべきことは、少子化から脱することではなく、少子化時代を如何に生きていくかを追究することなのかもしれない。時計の針を過去に戻そうとするのではなく、時計の針に追い付くためにはどうすれば良いのかを考えることこそ重要なのではないだろうか。
 国家(政府)が人間を統制することはできても、時代を統制することはできないという当たり前の事実を受け入れること、それが現在の政府がまず行うべき対策であり、また、行わねばならない試練なのかもしれない。

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資本主義と本棚の関係

 本棚には様々なスタイルの物があるが、大抵の場合、数百冊が許容量の限界となっている。もしあなたが読書家であるなら、本棚が1つしかない場合、本棚に収納される本は常にあなたのお気に入りの本で埋められるはずだ。つまり優先順位というものが存在し、自らが判断した高価値本の上位数百冊が常にその本棚を占めることになる。その本棚の本は常に競争を強いられ、日々、優れたものに変化していき、劣った(面白くなかった)ものは、本棚から落伍していくことを余儀なくされる。本棚という限られたスペースにも優勝劣敗の法則が息づいているという喩えだが、これはまさに、資本主義のメカニズムそのものとも言える。

 先述の喩えは、本棚が徐々に進化していくということを意味している。落伍した本には申し訳ないが、本棚に居残るためには常に優秀であることが必要とされることを物語っている。
 この本を人間に置き換えてみると、1つだけ違うところがある。本は一度、落伍すれば二度と本棚に戻ることはできないが、人間には本棚に戻れる(=敗者復活が許される)チャンスがあるということだ。つまり、人間は生まれつき優秀でなくても、常に進化し続けることが可能であるということだ。それが本と人間の決定的な違いであり、人間社会に資本主義が根付くことができた理由でもある。

 ところが、本と人間は同じものだとする思想が、世界中を席巻したことがある。人間自体が恰も本のように進化しない固定された物であるとする思想が蔓延した。それが、よく知られた共産主義という思想であったということができる。全ての本は常に本棚に納まっていなければならないとする思想と言えば解りやすいかもしれない。世の平等主義者達は驚くかもしれないが、実はこの思想こそが差別思想なのである。なぜなら、人間が進歩できない存在と自ら規定してしまっているからだ。

 本棚には収納量に限界があるのだから、その本棚に無理矢理、本をギューギュー詰めに押し込んでしまうと、その本棚自体が壊れてしまう。
 本来、1列分しか入らない本棚に2列分を並べると、後ろの列に並んだ本は見えなくなってしまう。比喩的に言えば、才能があるにも関わらず、前に並んだ本のために、その才能が隠れてしまう。才能の有無に関係なく、全てを同じ扱いにしてしまうと、才能を持った者はやる気をなくしてしまう。そして才能を磨くという人間本来の善なる欲望自体が失われてしまう。ここに共産主義が崩壊した1つの原因がある。それは結局のところ、人間の進化(成長)自体を否定し、逆に人間の堕落を推し進めてしまうという、まさに悪魔的な思想であったと言えるかもしれない。

 「日本は共産主義国家ではなく、資本主義国家なのだから安心だ」と安堵する人がいるかもしれないが、実は現代の日本は純粋な資本主義国家ではない。どちらかと言えば共産主義国家に近いとも言える。「格差は悪だ!」「格差の是正を!」と絶叫している人間の多さがそれを物語っている。そして先程、「人間には本棚に戻れるチャンスがある」と書いたが、この「敗者復活が許される」という考えが世間一般に浸透していないという意味においても、日本は純粋な資本主義国家ではないと言うことができる。皮肉なことだが「格差は悪だ!」という考えが前面に出てくること自体が、日本が純粋な資本主義国家でないことを証明してしまっているのである。

 人間は生まれながらにおいては平等だが、その人間個人の努力によって差が生じることは仕方がない。100メートル走でスタートラインを皆同じにする(=平等)のは、ゴールする瞬間を同じにするためにあるのではない。ゴールする瞬間が違ってくるからこそ、スタートラインを同じにしているはずだ。つまり、平等を重んじるのであれば、ゴールする瞬間の違い(=格差)は許容しなければいけないはずだ。ところが、現代の日本(の小学校など)は、ゴールする瞬間も同じにしなければならないという思想が蔓延っている。こんな教育は人間教育というより、むしろロボット教育と呼んだ方がピッタリとくる。
 現代日本が危惧すべきは、格差の問題ではなく、この誤った思想であると言える。平等という言葉を極端に美化し、その実、悪平等社会を構築することに躍起になっているように見える。まるで人間を堕落させることを目的とした悪魔の如くに…。

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“飲んだら乗るな”と“寝ていないなら乗るな”

 飲酒運転における罰則は、飲酒運転事故が発生する度にどんどん上がり続け、今や、飲酒運転が100万円、酒気帯び運転ですら50万円という懲罰的(?)な罰金が科されることになっている。
 このため、以前のようにリスクを犯してまで飲酒運転をしようなどという人が激減し、“飲んだら乗るな”というスローガンは半ば強制的に達成された感がある。
 アルコールに酔った身体で車の運転をすることは、喩えて言えば、理性が麻痺した人間に凶器を手渡すようなものでもあるので、これは確かに良いことではある。

 ただ、酒気帯び運転という定義には、かなりいい加減な部分があることは否めない。元々、肉体的にアルコールに強い人と弱い人がいるのは、周知のことではあるが、その個人差には数十倍、あるいは数百倍の違いがある。
 例えば、会社の納会でビールをコップ1杯飲んだとしよう。
 車で通勤している人の場合、このビールを飲むという行為を戒めるべきであることは言うまでもないことだが、ビールを飲むという判断には、善いことか悪いことかという判断以外に、実はもう1つの判断が生じている。それは、ビールをコップ1杯飲んだ場合、自分の肉体にどれだけの影響(=どれだけ酔うか)があるかという判断だ。
 ビールをコップ1杯飲んだ位では全く問題ないという人(以下、A)と、コップ1杯でも酔ってしまうという人(以下、B)では、判断に違いが生じる。ここでの判断は、先の善か悪かという絶対的な判断ではなく、極めて相対的な判断であると言うことができる。つまり、判断する人間によって、その善悪が大きく違ってくるということだ。

 この2人が、このまま車で会社を出たとしよう。Aは全く正気で、普段と全く変わらない。ただ、《警察が取り締まっていないだろうか》という心配だけが心を支配している(つまり、普段よりも慎重な運転になっているとも言える)。
 一方、Bは、千鳥足のような状態でアクセルを踏んでおり、警察が取り締まっていることよりも、《無事に帰宅できるかどうか》ということに心が支配されている。この場合、AとBには、大きな違いが生じている。飲んだアルコールの量は同じでも、危険度においては天と地ほどの開きがある。
 しかし、運悪く警察の飲酒検問に引っ掛かってしまえば、結果は同じとなる。あるいは、事故を起こした場合にも、同じ罰が適用される。その事故の原因が“飲酒したこと”であるかないかは関係がない。“飲酒した”という事実だけが適用され、運転していた人間の肉体的、精神的な影響は無視される。

 しかし、まあこれは仕方がないかもしれない。酒気帯び運転に個人的な差があることは確かだが、だからと言って、いちいち警察がそんなことを調べるのは無理があるだろうし、交通事故を起こした後に、その人がアルコールに強いか弱いかなどを聞き込み調査するという話も聞いたことがない。
 かくして“飲んだら乗るな”は絶対的な法律として適用され、何人もこれに従うしかなくなる。実質的に酔っぱらっているかどうかよりも、飲酒したという行為自体が優先される。それが法治国家の良いところでもあり、また(若干)悪いところでもある。

 一応お断りしておくと、私は別にアルコールに強い人は、酒気帯び運転してもよいと言っているのではない。酔っぱらった状態での飲酒運転には相対的な違いがないとしても、酒気帯び運転には、大きな違いがあるということだけを述べている。酒気帯び運転で事故が発生したのだとしても、それは必ずしも飲酒したことが原因だとは言えない。しかし、結果的には飲酒したことが事故の原因になってしまうという、ある意味で理不尽な事実(タブー?)を述べている。もっと突っ込んで言うと、ここで述べたAとBの場合は、酒気帯び運転というものは無いということ。アルコールの量で考えると、Aの場合もBの場合も、酒気帯びという領域は存在しない。Aは酒気帯びとされるアルコール量では酔わないし、Bは酒気帯びとされるアルコール量だけで酔っぱらってしまう。つまり、Bの場合はこの時点で既に『飲酒運転』という判断が妥当。

 余談だが、酒気帯び運転よりも、危険なものがある。それは、睡眠不足による居眠り運転だ。しかし、これに対しては法律的には全く禁止されていない。私も経験があるが、徹夜明けの運転ほど危険なものはない。それは理性云々の問題ではなく、睡眠という肉体的本能との闘いであるので、より危険であると言える。
 “飲んだら乗るな”が常態化されるのであれば、“寝ていないなら乗るな”も適用されても不思議ではないと思えるが、さすがの警察も(今のところ)そこまでする予定はなさそうだ。居眠り運転事故が多発しないことを祈ろう。

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