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少子化は社会変革期のメッセージ

 『少子高齢化』という言葉が検索エンジンに引っ掛かり、当ブログを閲覧される人が多いようなので、改めて、少子高齢化について考えてみたい。
 少子高齢化に歯止めがかからないということは既に述べた。政府(=国家)の力が弱くなったことが少子高齢化の一因であり、国ではなく、個人が主役の時代が訪れつつあるのではないかという仮説も簡単に述べた。
 これについては、別のブログで反論(?)する人も出てきたが、気にせずにさらに少し話を進めてみたい。

 まず、少子高齢化は良いことなのか、それとも悪いことなのか? これについては様々な意見を述べている人が存在している。悪いという人が圧倒的多数を占めていることは言うまでもないことだが、中には良いことだと言っている人もいる。その場合の「良い」と言うのは、『少子高齢化』が良いというよりも、『人口が減少すること』は良いことだという限定的な意味なのかもしれないが。
 では逆に、多子低齢化は良いことだろうか、それとも悪いことだろうか? これに対する意見は聞いた記憶がないが、あまり良いとは言えないだろう。なぜなら、それは読んで字の如く寿命が極めて短い社会と言えるからだ。おそらく、子供を3人以上産み、産んでからの余生が短い、年齢でいうなら50歳程度で寿命を迎えてしまうような社会だろう。要するに、これは、これから人口が増加していくという発展途上国のような社会と言える。(この場合の子供が3人というのは、産まれた子供が病死や餓死をしないということが前提)

 少子高齢化が悪いことだとする理由は、高齢者の面倒をみる人が足りなくなること、そして高齢者の生活を保障するための経済的資金が足りなくなること、そういった福祉対策を考慮しなければならない反面、若年者の労働力が低下するということ、そのせいで、国の経済力自体も低下してしまうことなど、実に様々な問題がある。
 政府からは少子高齢化対策と言えるような抜本的な政策は何1つ聞こえてこない。聞こえてくるのは、取って付けたようなその場凌ぎの策ばかりで、どこまで本気に少子化について考えているのか疑わしいと言わざるを得ない。

 では、何か策があるのかということだが、その前に、何か対策を立てれば解決する問題なのか?ということを考えてみたい。例えば、給料所得を上げるという政策を講じたとして、果たして少子化が解決されるだろうか?
 既に結婚していて子供がいるという人であれば、もう1人子供を産むことは考えられるが、多くの結婚していない人達が結婚し、子供を設けようと思うところまでガラッと心境が変化するかというと、私にはそうなるとはとても思えない。一部の国民が少子化から抜け出したとしても、総ての国民が揃って少子化から抜け出すことになるとはとても思えない。現在の日本の少子化が、単に経済的な問題だけで起こっているものだとは思えないからだ。中にはそういう人もいるだろうが、現在の少子化の進行には、時代的にそうならざるを得ない何かがあるのではないかという気がしてならない。もし、少子化自体が必然的に発生している現象であるのだとすれば、人為的に如何なる対策を講じたところで、完全に解決できるはずがないと思われるからである。

 日本という国の経済が、人間の身体と同じように既に“成熟期”を迎えたのであれば、過去の“成長期”に戻ることは難しい…というより不可能に近い。それに、一国の経済が成熟期を迎えたにも関わらず、途上国並みに人口が増加し続けても、別の問題が発生してしまう可能性がある。(例えば、就職難など)
 日本がモノ作りを中心とした農業・工業国であり続けていた間は、仕事はあっても人手が足りないということで子供はどんどん増えていっても、さして問題は発生しなかった。しかし現代のような知的情報化社会にあっては、子供の数が増えれば増えるだけ、競争が激しくなり、普通に生活していくことが更に難しくなるかもしれない。時代的背景を考えずに子供が増え過ぎても、逆に生活苦が待っている可能性がある。
 あるいはこうも言えるかもしれない。今までの日本は時代的背景などはほとんど考えずに生きてこれた。それは物凄く希有なことであり、運が良かったのだと。もう少し具体的に言うと、市場原理を無視して生きてこれた社会だった。つまり、統制経済の色が濃かった時代だったとも言える。
 個人の人生が画一的なものとして統一化され、国民はそれを当然のこととして受け入れていた。そういった空気が社会を支配していたため、誰もそのことを疑わなかった。
 ところが、現代の日本社会は、市場原理が機能し始めたことによって、結婚を例にあげても、離婚する人、非婚の人、晩婚の人など様々なタイプの人達が存在することになったのではないだろうか? 管理された社会ではなく、ある意味、自由な選択が許される社会になったと言えないだろうか?

 国家は、自らが生き長らえるために国民を管理し束縛したい。しかし、社会自体が一足お先に自由な時代を迎えてしまった。国家は時代に乗り遅れた。いや、自由と国家とは相反するものであるのだから、元々、自由な時代と国家が交差することはない。本来、国家の幸福は国民の不幸であり、国家の不幸は国民にとっては幸福なものであるからだ。
 日本の高度経済成長期には、その常識が通用せずに、国家と国民の双方が幸福になれる(=WinWinな関係)という幸せな時代だった。この幸せな時期をとらえて、諸外国の人々は日本を「世界で初めて成功した社会主義国」だと皮肉った。しかし、それは奇跡的な偶然が齎した夢のような幻想期間でもあったのだということに多くの国民が気付き始めた。

 国家は、自らの命を延命させるために是が非でも子供を増やしたい。しかし、束縛よりも自由を求めつつある国民は素直に言うことを聞かない。
 途上国では国が子供を産むなと言っても、自然と子供は増える。逆に、成熟国では、国がいくら子供を産めと言っても、自然と子供は減少する。この違いは統制経済と自由経済の違いであると言えなくもない。そのことからも、少子化や多子化というものは、そもそも人為的に操作できるものではないとも言える。そしてこうも言える、少子化は国民から国家に対する目に見えない社会変革期のメッセージであると。

 そうであるなら、政府が考えるべきことは、少子化から脱することではなく、少子化時代を如何に生きていくかを追究することなのかもしれない。時計の針を過去に戻そうとするのではなく、時計の針に追い付くためにはどうすれば良いのかを考えることこそ重要なのではないだろうか。
 国家(政府)が人間を統制することはできても、時代を統制することはできないという当たり前の事実を受け入れること、それが現在の政府がまず行うべき対策であり、また、行わねばならない試練なのかもしれない。

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読ませて頂きました。次の記事も楽しみにしています。 [続きを読む]

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