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2008年3月

21世紀型演説のススメ

 毎朝の通勤時、駅前の線路沿いで某政党の党員がマイクを持って街頭演説を行っている姿をよく見かける。その演説はその人にとってライフワークになっているらしく毎週行われているので、既に見慣れた光景になっているのだが、春の新入シーズンを迎えようとしている新入学生や新入社員達が初めて目にし耳にするだろうことを思うと、少し心配になってしまう。

 演説を行っている当の本人は至って真面目で、少しでも世の中を良くしたいという理想に燃えていることは窺えるのだが、それが独りよがりの理想論であれば、大きな問題になってしまう。もちろん、街頭演説をするのは個人の自由であり、その言説を信じる信じないも個人の判断に委ねられているので、仮に騙されたとしても自己責任と言えなくもない。しかし、誤った情報を公然と垂れ流すことは危険であり、ある意味、公害ならぬ報害になってしまう。肉体的に有害にはならなくても、精神的に有害となってしまう可能性があるのであれば、それは必ずしも善いことを行ってるとは言えず、ヘタをすると、罪を犯していることになってしまう。その罪とは、無論、詐欺罪である。

 電車を待っている間、ホームの椅子に座って本を読んでいる時にもその演説は横から耳に入ってくるのだが、その内容はこの数年間、ほとんど変わっていないかに思える。
 一見(一聴)、彼らの論説は弱者保護を訴えかけているかに聞こえるのだが、よくよく聞いてみると、ただの感情論に陥ってしまっているように思える。感情的には理解できるのだが、論理的には理解しがたいとも言える。
 まず、未だに「小泉構造改革によって格差が生まれた」などと言っているのだから呆れてしまう。

 格差とは一体なんだろうか? そして、格差とはいつから存在しているのか? そもそも格差があることはいけないことなのか?など、突っ込みどころは満載なのだが、順を追って話を進めてみよう。

 まず、格差とは何か? この演説者が言っている格差とは当然、金銭的な収入格差のことを指しているのだろうが、現代の日本社会で収入に大きな差があることを問題視するのは良いとしても、その原因がどこにあるのかについての認識があまりにも表面的であり、ただ単に大企業と中小企業の比較だけに終わってしまっているように聞こえる。「政府が大企業には甘く、中小企業には厳しい政策を採っている」というようなことを言っているのだが、これは完全な曲解と言える。政策的に大企業の利益を中小企業に回せと言うだけでは、あまりにも短絡的発想であり、とても受け入れられるものではない。収入格差問題で大事なことは、大企業であろうと中小企業であろうと、同じ仕事を行っている人間は同じ収入にしなければいけない(=公平にしなければいけない)ということであって、収入だけを平等に近付けろと言うのでは筋が通らない。

 では、格差は小泉元首相が登場したことによって拡大したのかというと、そんなことはない。小泉氏が登場する以前から格差なるものは存在しており、時代的な背景を考えると、小泉氏が登場するしないに関わらず日本の格差は拡大していただろう。規制緩和によって格差が発生したというよりも、規制緩和によって格差が注目されるようになったというだけのことでしかない。
 世界経済がグローバル化し、日本のバブル経済が崩壊したことで、日本企業は必然的に経営の合理化を迫られ、実際に合理化を推し進めた。その結果、ビジネスにおける競争が発生し、収入を得る者と失う者の差が大きくなってしまった。それは社会的な現象であって、政治の齎した現象ではない。

 最後に、そもそも格差があることはいけないことなのかを述べてみたい。
 世の中には収入格差以外にもいろんな格差が存在している。これは言わずと知れたことだが、背の高い低い、頭の良い悪い、容姿の美しい醜い、足の速い遅い、果ては、歌の上手い下手など、数えあげればキリがない位の格差がある。しかし、人々はそれらを全て平等にしなければならないとは言わずに受け入れている。もちろん、誰でもコンプレックスを抱えながら不平不満を持って生きているのだろうが、誰もそれらの格差を解消しろとは言わない。ではなぜ、収入に関してのみ、異常に格差にこだわるのだろうか? それは政治的に実現可能なことだと思われているからだろうか? 収入を得ることも、先に述べた様々な個人の能力の違いの1つであるのならば、それは受け入れるべきことではないのだろうか?
 もし、能力の違いが無い(=同じ仕事を行っている)にも関わらず収入に差があるのであれば、それを是正しなければならないと言うのは正しい。しかし、能力の違いが有る(=同じ仕事ができない)のであれば、それによって生まれた格差は受け入れるしかない。なぜなら、そのことを否定するのであれば、それは人間社会自体の否定になってしまいかねないからだ。それは能力を得るための努力もせずに結果だけを求めるという極めて御都合主義的な考えだとも言える。個人が獲得した能力が偶然の賜物であるのか、それとも必然の賜物であるのか、その違いを認めようとせずに前者を選択してしまうということは、人間自体をロボットと同一視していることと同義になってしまう。つまり、人間の精神性を認めない唯物的思考だ。
 なるほど、確かにこの演説者の政党の御本尊は、唯物論者として有名ではある。

 時代が変われば、経済も変化し、時代が変われば、思想も変化する。
 21世紀になっても20世紀でしか通用しない思想を信じることは本人の自由ではあるが、これから21世紀の厳しい時代を生きていかなければならない新入生達の門出に20世紀の昔話を聞かせることは嘆かわしい。どうせなら、21世紀の予言でも聞かせてもらいたいものだ。

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「名ばかり管理職」という問題提起

 マクドナルドの店長による残業代未払いの訴訟事件に端を発し、「名ばかり管理職」なる言葉がクローズアップされている。
 名ばかり管理職制度というものは、ある従業員に対して「管理職」という称号を与えることで、原則としてその従業員には残業代は支払わなくてもよいというもので、雇用する側にとっては極めて都合のよい制度ではある。その制度の濫用(?)が事実上、野放しになっていることが問題になっているらしい。
 このての問題は、ずっと前からあるにはあった。私の周りにも以前、「管理職になると残業代が付かなくなるので平社員のままでいい」という人がいた。
 “管理職になること”と“残業代が付くこと”を天秤にかけると、一般的にはどちらを選択するだろうか? この場合、“管理職手当”と“残業手当”を天秤にかけてみて、どちらが得かということが判断の分かれ目となるはずだ。
 例えば、残業代の時給が2000円と考えてみると、一月平均50時間残業したとすれば、一月の残業代は10万円になる。管理職手当が10万円以上付くということであれば、管理職になることを選択する人がいるかもしれないが、管理職手当がそれ以下ということであれば、管理職を辞して残業代を取った方が合理的な判断とも言える。もし管理職手当がゼロということであれば、答えは明白だろう。

 ここで管理監督者の条件を見てみると、以下の4点を満たしているものが管理職と呼べるものらしい。

1、労務を管理する立場にある
2、経営者と同じような立場で判断できる
3、勤務時間や休暇などの規定にしばられない
4、一般社員と比べて賃金面で充分に優遇されている

 ここで注目すべきは3だ。管理職というものは良い意味(=早退してもOK)でも悪い意味(=長時間労働もOK)でも、時間に縛られないということが必要条件になっている。要するに、管理職というものは、時給で働いているわけではないということであり、仕事の責任さえ果たせば、何時に出社しようと何時に帰宅しようと自由だと規定されていることになる。
 ただ、現代では悪い意味での自由だけを背負わされてしまう(=不自由になる)ことになってしまいがちなので、「名ばかり管理職」となってしまうわけだ。当然のことながら、4という十分条件も満たしていない。3と4の条件のどちらか一方だけでも満たしていなければ、管理職になるメリットは乏しいと言わざるをえない。いわんや、両方を満たしていないのであれば、まさしく「名ばかり管理職」だと言える。

 さて、残業代を支払わない企業側を批判するだけでは能がないので、「残業」というものを少し考えてみよう。一口に残業と言っても、仕事にはいろんな業種が存在するので、なにをもって「残業した」と呼べるのかも考える必要がある。
 流れ作業を行っている人や、製造機械のスピードに依存する業務に携わっている人は、企業側が生産量を考慮した時給(時給月給制)で雇用されているわけだから、残業した分については残業代は当然、支給されなければならない。もし生産量的に残業代が支払えないということであれば、基本的な時給自体を下げてでも残業代を支払うようにするべきだろう。
 同じ製造業であっても、機械ではなく本人の能力に依存する仕事(プログラマーやデザイナーなど)の場合は、どこからどこまでが残業になるのかは正確には判断できない。これらの職種の場合は、時間ではなく物量で計るべきものなので、残業したと言っても、決まった物量をこなしていないのであれば、それはただの居残りであって残業とは言えない。逆に他人の2倍3倍の仕事をこなす人であれば、残業代を支給されたとしても割が合わない。そういう理由から、企業側は、仕事ができる人に対しては能力給よりも時給を適用したがることになる。残業代は支払われるとはいえ、これもある意味、「名ばかり残業」と言えるかもしれない。
 営業職や販売職なども、どこからどこまでが残業になるかは判断が難しい。営業職の場合、勤務時間中に空き時間があることもあり、一日中、動きっぱなしというわけではないだろうし、販売職にしても、1日中、接客しているわけでもなく、売上も一定しているわけでもない。

 ということで、「残業代を支払え!」と言っても、それを言う資格が有る人と無い人がいることを見落としてはいけない。如何に正論ぶった批判のように聞こえても、中には愚痴にしかなっていない人も存在することを忘れてはいけない。
 基本的に「残業代を支払え!」と言うためには2つの条件を満たしている必要がある。その条件の1つは、その企業が残業代を支払うほど経営に余裕があること。もう1つが、その従業員自身が残業代を貰うだけの仕事量をこなしていることだ。
 バブルが弾けるまでは、仕事をしていなくても会社に残るだけで残業代が無条件に支給されるという夢のような時代だったのかもしれないが、現代では仕事の実績をあげるという条件を満たさない限り、残業代は支給されなくなってきている。(これは常識的に考えればごく当たり前の姿だと言えるのだが) そして、仕事を行うという義務もろくに果たさずに「残業代を支払え!」と言うような(権利ばかり要求する)社員ばかりでは、将来的にはその残業代どころか給料ですらまともに支払うことができなくなってしまうという企業側の言い分も無視できない。
“企業=悪”“労働者=善”というような労働組合的(?)なステレオタイプ発想はもはや通用する時代ではない。なぜなら、企業も無い袖は振れないからだ。
 名ばかり管理職問題というものは、要するに、時間で残業代を支給するのではなく、能力に応じた残業代を支払う方向に企業がシフトしていかなければいけないという問題を提起しているのである。

(余談)
 世間では中間管理職がリストラの対象になったと言われてきた反面、なぜか、名ばかりの管理職だけは増加してしまったようだ。しかし、管理職というもの自体がほとんど必要ない現代にあっては、名があろうとなかろうと、名ばかり管理職でしかないのかもしれない。どちらにせよ、もはや管理職というもの自体が虚構であると思った方がよさそうだ。

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