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21世紀型演説のススメ

 毎朝の通勤時、駅前の線路沿いで某政党の党員がマイクを持って街頭演説を行っている姿をよく見かける。その演説はその人にとってライフワークになっているらしく毎週行われているので、既に見慣れた光景になっているのだが、春の新入シーズンを迎えようとしている新入学生や新入社員達が初めて目にし耳にするだろうことを思うと、少し心配になってしまう。

 演説を行っている当の本人は至って真面目で、少しでも世の中を良くしたいという理想に燃えていることは窺えるのだが、それが独りよがりの理想論であれば、大きな問題になってしまう。もちろん、街頭演説をするのは個人の自由であり、その言説を信じる信じないも個人の判断に委ねられているので、仮に騙されたとしても自己責任と言えなくもない。しかし、誤った情報を公然と垂れ流すことは危険であり、ある意味、公害ならぬ報害になってしまう。肉体的に有害にはならなくても、精神的に有害となってしまう可能性があるのであれば、それは必ずしも善いことを行ってるとは言えず、ヘタをすると、罪を犯していることになってしまう。その罪とは、無論、詐欺罪である。

 電車を待っている間、ホームの椅子に座って本を読んでいる時にもその演説は横から耳に入ってくるのだが、その内容はこの数年間、ほとんど変わっていないかに思える。
 一見(一聴)、彼らの論説は弱者保護を訴えかけているかに聞こえるのだが、よくよく聞いてみると、ただの感情論に陥ってしまっているように思える。感情的には理解できるのだが、論理的には理解しがたいとも言える。
 まず、未だに「小泉構造改革によって格差が生まれた」などと言っているのだから呆れてしまう。

 格差とは一体なんだろうか? そして、格差とはいつから存在しているのか? そもそも格差があることはいけないことなのか?など、突っ込みどころは満載なのだが、順を追って話を進めてみよう。

 まず、格差とは何か? この演説者が言っている格差とは当然、金銭的な収入格差のことを指しているのだろうが、現代の日本社会で収入に大きな差があることを問題視するのは良いとしても、その原因がどこにあるのかについての認識があまりにも表面的であり、ただ単に大企業と中小企業の比較だけに終わってしまっているように聞こえる。「政府が大企業には甘く、中小企業には厳しい政策を採っている」というようなことを言っているのだが、これは完全な曲解と言える。政策的に大企業の利益を中小企業に回せと言うだけでは、あまりにも短絡的発想であり、とても受け入れられるものではない。収入格差問題で大事なことは、大企業であろうと中小企業であろうと、同じ仕事を行っている人間は同じ収入にしなければいけない(=公平にしなければいけない)ということであって、収入だけを平等に近付けろと言うのでは筋が通らない。

 では、格差は小泉元首相が登場したことによって拡大したのかというと、そんなことはない。小泉氏が登場する以前から格差なるものは存在しており、時代的な背景を考えると、小泉氏が登場するしないに関わらず日本の格差は拡大していただろう。規制緩和によって格差が発生したというよりも、規制緩和によって格差が注目されるようになったというだけのことでしかない。
 世界経済がグローバル化し、日本のバブル経済が崩壊したことで、日本企業は必然的に経営の合理化を迫られ、実際に合理化を推し進めた。その結果、ビジネスにおける競争が発生し、収入を得る者と失う者の差が大きくなってしまった。それは社会的な現象であって、政治の齎した現象ではない。

 最後に、そもそも格差があることはいけないことなのかを述べてみたい。
 世の中には収入格差以外にもいろんな格差が存在している。これは言わずと知れたことだが、背の高い低い、頭の良い悪い、容姿の美しい醜い、足の速い遅い、果ては、歌の上手い下手など、数えあげればキリがない位の格差がある。しかし、人々はそれらを全て平等にしなければならないとは言わずに受け入れている。もちろん、誰でもコンプレックスを抱えながら不平不満を持って生きているのだろうが、誰もそれらの格差を解消しろとは言わない。ではなぜ、収入に関してのみ、異常に格差にこだわるのだろうか? それは政治的に実現可能なことだと思われているからだろうか? 収入を得ることも、先に述べた様々な個人の能力の違いの1つであるのならば、それは受け入れるべきことではないのだろうか?
 もし、能力の違いが無い(=同じ仕事を行っている)にも関わらず収入に差があるのであれば、それを是正しなければならないと言うのは正しい。しかし、能力の違いが有る(=同じ仕事ができない)のであれば、それによって生まれた格差は受け入れるしかない。なぜなら、そのことを否定するのであれば、それは人間社会自体の否定になってしまいかねないからだ。それは能力を得るための努力もせずに結果だけを求めるという極めて御都合主義的な考えだとも言える。個人が獲得した能力が偶然の賜物であるのか、それとも必然の賜物であるのか、その違いを認めようとせずに前者を選択してしまうということは、人間自体をロボットと同一視していることと同義になってしまう。つまり、人間の精神性を認めない唯物的思考だ。
 なるほど、確かにこの演説者の政党の御本尊は、唯物論者として有名ではある。

 時代が変われば、経済も変化し、時代が変われば、思想も変化する。
 21世紀になっても20世紀でしか通用しない思想を信じることは本人の自由ではあるが、これから21世紀の厳しい時代を生きていかなければならない新入生達の門出に20世紀の昔話を聞かせることは嘆かわしい。どうせなら、21世紀の予言でも聞かせてもらいたいものだ。

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