« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

BOOK『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』

 「官僚すべてを敵にした男」という異名を持つ高橋洋一氏の新書『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』を読んでみた。
 官僚を敵に回した人物というと、「官僚の天敵」という異名を持つ(?)大前研一氏が有名だが、この高橋洋一氏も大前氏と同様、理系出身らしく「中学生時代に大学生レベルの数学を理解できた」というくらい天才肌の人物らしい。あまり知られていないが、高橋氏は以前、現FRB議長バーナンキのもとで経済を学んでいたそうで、竹中平蔵氏とは知己の間柄なのだそうだ。
 
 高橋氏は「霞が関埋蔵金」の名付け親としても有名だが、この新書を読んでいると、タイトルの通り「お国の経済」(お国の内情)が良く理解できる。非常に頭の良い人のようで、難しい問題を論理的に面白おかしく語っている。これくらい頭の良い人だと、さすがの官僚達の詭弁も一切通用しないという感じで実に心地よい。そして日本という国が、いかに情報操作された国であるかということも嫌というほどに解ってしまう。
 日本は“議員内閣制”ではなく“官僚内閣制”であることはよく知られたことだが、そのことについても具体的な例をあげて述べられており、まるで官僚達による騙しのトリックの種明かしを聞いているようで興味深い。
 「マンデル・フレミング理論」や「国際金融システムのトリレンマ(固定相場制・独立した金融政策・自由な資本移動)」という日本では普段あまり聞かれない専門用語の説明(?)も解りやすく、ユーモアと皮肉を込めて述べられている。

 高橋氏は、日本は今後、地方分権の時代になると述べている。
 以前から道州制を勧めている識者は多く、先に登場した大前研一氏やPHP総合研究所の江口克彦氏などが有名だが、逆に地方分権や道州制を誤解している一般人や有名人も多いと述べられている。中央集権を愛する官僚達は、当然のことながら「地方分権」という言葉が大嫌いであるということも…。

 おそらく、閉塞した日本国家の行く末を決定づけるキーワードこそ「地方分権」であり「道州制」であるのかもしれない。高橋氏はこうも述べている。「国家を信じるな」と。間違った地方分権論や、偏見に満ちた道州制反対論を鵜呑みにすることなく「正しい知識を身に付けましょう」と。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (2)

携帯電話騒動に見る官製不況 

 政府の教育再生懇談会は、「小中学生が携帯電話を持たないようにする」ことを促しているそうだ。子供に対しての有害情報を遮断することを目的としており、必要無いと思われる場合は極力、携帯電話を持たせないようにと保護者などに協力を呼びかけている。
 この調子でいくと、そのうち本当に『15歳未満は携帯電話所持禁止』という法律が出来るかもしれないが、果たしてこれは正しい判断なのだろうか?
 
 まあ確かに、自ら携帯電話利用料金を稼ぐ手段を持たない小中学生が携帯電話を持つことには、反対意見の人は多いかもしれない。有害な携帯サイトに接することで、いろんな問題が発生する可能性もある。持てばリスクが発生するが、持たなければリスクは発生しない。「それなら安全な方を取るべきだ」というのが、事勿れ主義の日本政府の毎度の判断であるのだが、果たしてこれは正しい判断なのだろうか?

 多くの保護者達は、子供に携帯電話を持たせることに危うさを感じているそうで、実際に携帯電話を持たせないという親もいるらしい。しかし、子供は周囲の友人達が携帯電話を持っていれば、同じように携帯電話を欲しがることになる。好奇心旺盛な年頃では尚更だろう。好奇心旺盛だと言っても、子供達は別に初めから有害なサイトに興味があるわけではなく、ただ、携帯電話が欲しい、友人と電話がしたい、メールがしたいという純粋な動機があるだけだろう。
 
 誰でも解ることではあるが、問題は“小中学生が携帯電話を持つこと”にあるのではなく、“小中学生でも障害なく有害サイトに入れてしまうこと”にある。であるなら、対応策は“携帯電話を持たないようにすること”ではなく、“有害サイトに入れないようにすること”だけで事足りるはずだ。つまり、単純に“小中学生には有害サイトに入れない携帯電話を持たせるようにする”とすればいいのだ。
 メーカーに対しても、“小中学生に携帯電話を販売してはいけない”と言うのではなく、“有害サイトに入れない携帯電話を開発しなさい”とだけ言えばいいのである。(KIDS携帯、R15携帯、R18携帯などに分けるようにすればいい)
 それだけなら、経済に与える影響も軽微だろう。いや、むしろそうすることで、今まで携帯電話を持たせることに抵抗があった保護者達も子供に携帯電話を買い与えることになるかもしれないので、需要と消費が増加して景気が上向くかもしれない。

 ただでさえ少子化で、需要が自然減少していく時代にあって、小中学生が携帯電話を購入してはいけないというようなことになると、ますます需要が減少してしまう。言うなれば、これは少子化ならぬ無子化だ。携帯電話業界は、少子化問題が一気に無子化問題にまで発展してしまう。需要が伸びる伸びないではなく、いきなりゼロになってしまう。これでは経済を無視した失政と言わざるを得ない。
 はたして、この国のお役人達は、この国が消費不況の真っ只中にあることが解っているのだろうか? 国民のためだと言って、簡単に企業の供給と国民の消費を減退させてしまうことに何の罪深さも感じないのだろうか? 現在の日本の不況は官製不況とも言われているが、それが真実かどうかは今回のこの携帯電話騒動を見てもよく解る。なるほど、まさしく、日本は官製不況の真っ只中にあると言えそうだ。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

バスガイドさんから見た『改正道路交通法』

 改正道路交通法なるものが、6月1日から新たに施行されることになる。この施行により、高速道路走行中は車の後部座席同乗者のシートベルト着用も義務づけられることになる。(ちなみに違反した場合は、運転手が1点減点される)
 
 今までは前部座席(運転席と助手席)のみのシートベルト着用が義務づけられていたが、今後は後部座席に座った人間もシートベルトを着用しなければならなくなる。
 交通事故を起こした場合のことを考えると、後部座席に座っている人もシートベルトを着用するに越したことはないので、この法案を否定するつもりはないが、この新たな法案の施行によって、またしても有難迷惑を被っている人達がいる。それが、バスの案内役を職業にしているバスガイドさんだ。
 「後部座席の人にまでシートベルトの着用を義務づけるのであれば、立ったまま案内役を務めているバスガイドもシートベルトを着用できる体勢にしなければならない」という融通の利かない意見が出ているためだ。
 
 『運転中、全員のシートベルトの着用を義務づける』ということは、
=『運転中は、誰も立つことができない』ことを意味するので、バスガイドが立ったままでは法律上、矛盾が生じるという理屈らしい。

 しかし、バスガイドがシートベルトを着用して座ったまんまで、バスガイド役を務めることができるのかは大きな疑問だ。お客と同じ方向(つまり前方)を見て案内するバスガイドというのも考えもので、そんな人間味のない案内が常態化してしまえば、バスガイドに成りたいと志望する女性自体が激減、いや、誰もいなくなる可能性すら否定できない。これでは、女性の職業自立を妨げることにも繋がり、失業率も増加してしまう可能性がある。バスガイドがいなくなれば、バスの運転手がバスガイドと二役務めることにもなってしまいかねない。(これもある意味、危険な行為かもしれない)
 昔からバスガイドというのは女性が憧れる華やかな職業の1つでもあるが、安全と引き換えに、その華やかなイメージを破壊してしまってもいいのだろうか?
 
 もう少し掘り下げて考えると、例えば、飛行機に搭乗しているスチュワーデスはどうだろうか? 飛行機が飛行している最中、座席に座ってシートベルトをしているだろうか? 飛行機の場合、車のように停止することはないので、四六時中シートベルトをしなければならなくなる。
 もしシートベルトを着用して四六時中、座席に座ったままのスチュワーデスがいたとすれば、お客はどう思うだろうか? そんなスチュワーデスがいれば、当然、お客に対するサービスもできないので、スチュワーデス自体が不要になってしまう。いくら安全のためとは言え、飛行機にスチュワーデスが居なくなってしまえば本末転倒ではないだろうか?
 
 スチュワーデスもバスガイドもプロの仕事であり、当然、お客よりもリスクを背負っている。飛行機の事故であれ、バスでの事故であれ、お客以上の危険を承知の上でスチュワーデスは飛行機に乗り、バスガイドはバスに乗っているはずだ。
 交通事故が起こった後で、「お客様と同じようにシートベルトをしていれば良かった」と文句を言うようなタイプの人なら初めからバスガイドには成らないだろう。
 要するに、これは職業人としてのプロ意識の問題だ。お客と同じ条件に立つことばかり考えているようなら、それは職業人の態度とは言えない。バスガイドは初めからお客よりも危険であることは暗黙の了解事項であるはずだ。そこに横から「シートベルトの着用を!」などと注意されると、バスガイドは立つ瀬が無くなってしまう。プロ根性を捨ててまで、バスガイドを続けろというのも酷な話だ。
 
 大事なことは、バスガイドがシートベルトをすることによって、お客の安全性は増すのか?ということだ。お客の安全性が増すのであれば、バスガイドのシートベルト着用も一理あると思われるが、実際のところは、バスガイドがシートベルトを着用しようがしまいが、お客の安全性には全く影響がない。お客の安全性に影響があると思われるのはバスの運転手の方だ。バスガイドがシートベルトを着用しなかったとしても、お客を危険に晒すわけではなくて、バスガイド自身が危険なだけだ。
 現在も、バスガイドさん達は“シートベルトを着用していない”という危険を承知して業務に携わっているのだから、本人達が「シートベルトを着用したい」と言わない限り、わざわざ他人がシートベルトの着用を強要すべきではないのではないだろうか?
 
 法令遵守が重要だと言っても、何事にも例外はある。その例外さえ認められないというのであれば、これほど窮屈な社会もない。バスガイドの存在は既に日本だけでなく世界中の文化でもある。日本だけが窮屈な思考でその文化を破壊する方向に傾かないことを願いたい。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

NHKは公共団体 or 営利団体?

 NHK職員の相次ぐ不祥事問題などを経て、NHK受信料の不払いが深刻化していることから、『公平負担のための受信料体系の現状と課題に関する研究会』(総務省)は、「NHKはスクランブル方式※を採用するべきだ」という結論に達したようだ。(衛生放送のみ)

※スクランブル方式……料金を払わないと番組を見られなくする方式
 
 同研究会は受信料を公平に集めるにはスクランブル化が有効だと判断したそうだが、これには少し驚いた。言うまでもなく、お役人が一時的にでもNHKの敵に回った(?)ことに。
 まあ、それだけ受信料を支払っていない人が多いということかもしれないが、私もスクランブル方式を採用することには賛成だ。衛生放送だけでなく、全てのNHK放送をスクランブル化してもらっても一向に構わない。おそらく、NHK放送のスクランブル化は国民の総意ではないかと思う。

 これに対するNHK側は、以下のように反論している。
「スクランブルをかけ、受信料を支払わない方に放送番組を視聴できないようにするという方法は、一見合理的に見えますが、全国どこでも放送を分け隔てなく視聴できるようにするという公共放送の理念と矛盾する」

 この意見は一見、正論っぽく聞こえるが、よく考えるとこの意見自体が矛盾している。「公共放送の理念と矛盾する」と言っているが、矛盾しているのは、NHK側の言い分も同様だ。
 「全国どこでも放送を分け隔てなく視聴できるようにする」という理念は立派だが、肝心な部分が抜け落ちている。それは、「視聴料を支払った者」という言葉だ。
 「全国どこでも放送を分け隔てなく視聴できるようにする」という言葉だけでは、お金を払おうが払うまいが、誰にでも視聴できる権利が有るということになってしまう。視聴できる権利を唱うのはいいが、視聴できる条件が公共という名のもとに省かれてしまっている。これでは受信料を支払わない人間が増えるのは仕方がないと言える。
 “公共放送の理念”というのは一体、何を意味しているのだろうか? その理念自体が極めて曖昧であるがゆえに、NHK側の言い分は単なる詭弁ごっこになってしまっている。
 そもそも、公共の仕事に携わっているNHK職員が、公共人にあるまじき行為を行っていたことが受信料不払いの一因になっているのだから、「公共」という言葉を錦の御旗に掲げるのは可笑しい。

 NHK側は、以下のようにも述べている。
「市場原理によらず、視聴者の視点にたって、特定の利益や視聴率に左右されず、多様で良質な番組を放送することが公共放送の重要な役割です。(途中省略)様々な価値観を相互に尊重しあう寛容な社会の構築に役立っていくことは、民主主義社会の発展にとって大事なことだと考えています。」

 これも完全に矛盾している。「視聴者の視点」に立つのであれば、視聴者がどう思っているのかをマーケット調査して、スクランブル化した方が良いという意見が多数を占めるのであれば、その通りに判断するのが本当の民主主義社会だ。視聴者がこう思っているだろうと勝手に判断して、放送を押し付けてしまうのであれば、それは民主主義ではなく、社会主義の発想だ。
 
 NHK側は、結論として「NHKではスクランブル方式をとるべきではないと考えています。」と述べているが、スクランブル方式を採用するか採用しないかを決定するのは、本来であれば国民の判断に委ねるべきだろう。
 NHKが決定権を持っているのであれば、NHKは公共団体ではなく、企業ということになってしまう。公共団体であるからこそ、国民の判断に委ねるべきであり、それができないというのであれば、それはもはや公共の団体ではなく、私的な営利団体だということを自ら認めているようなものだ。
 
 真面目なNHK職員まで否定するつもりはないが、NHK職員には、『公共』という言葉の意味をもう少し考えてもらいたい。本来、国民に受け入れられない公共団体などは有り得ないということを。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

格差社会と学歴社会の矛盾

 格差社会の是正を叫ぶ人は実に多く、5月のメーデーに於いても「格差の是正」というものが大きなテーマとなっていたようだ。ワーキングプア問題を前面に出して格差の是正を叫べば、そのことについて真っ向から否定するような人はいない。
 しかし、メーデーに参加するような人は、基本的に労働組合に属する人間(=大企業の社員)であって、大抵はワーキングプアに属しているわけではない。

 公の場で、本気で格差の是正を叫ぶのであれば、次の2点のことをお聞きしたい。

 1、自分の年収が平均年収より多い場合、余分な収入は返還する覚悟があるのか?

 2、学歴によって発生する収入の格差を、すべて一律に変更しても文句はないのか?

 平均的な年収が仮に300万円だとすれば、年収500万円の人は200万円を返還して、年収300万円に満たない人(ワーキングプアも含む)に再分配しなければならない。収入格差の是正とは一言で言えばそういうことだが、これを受け入れる覚悟のある人間がメーデー参加者の中に一体どれだけいるというのだろうか?
 また、年収300万円以下の人物が「格差の是正を!」と叫んでいたとしても、その後、その人物の年収が400万円になった時に、100万円を返還する勇気があるのかもお聞きしたいものだ。
 おそらく、実質的に平均年収以上を稼いでいる人物が、自発的に余分な収入を返還するなどということはないはずだ。格差の是正を叫んでいる人間の中に、本心から格差の是正を求めている人間などはほとんどいないというのが実際のところだろう。

 現代の日本は未だに学歴社会が幅をきかせ、決して学力社会になっているとは言えない。世の親がなぜ子供の学歴にこだわるのかというと、学歴によって就職先がある程度決定しまう(=収入に差が生じる)と思われているからだ。つまり、収入格差を認めた上で、子供に学歴を競わせているわけだ。そんな人物が「格差の是正を!」などと訴えたところで、なんの説得力も感じられない。本来、格差社会を否定するのであれば、学歴社会も否定しないことには筋が通らない。その矛盾に気が付いている格差是正論者が一体どれだけいるというのだろうか?

 労働において生じる収入格差はむしろ当然のことであり、収入格差だけなら何の問題もない。収入の格差がそれほど問題だと言うのであれば、年功序列によって生じる収入格差はどうなるのか? それは都合よく「全く問題ない」とでも言うつもりだろうか?

 年収200万円の人が年収1000万円の人を羨ましく思うのであれば、自分で努力して年収を1000万円に近づけていけばいいのであって、無理矢理、他人のお金を横取りして収入を平均化するなどというのは発想自体が馬鹿げている。
 問題は、年収200万円の人がどれだけ努力しても年収1000万円にできない日本の社会構造(学歴社会も含む)にあるのであって、単に収入の多寡に問題があるのではない。ろくに仕事もせずに年収1000万円を稼ぐ人がいる反面、一生懸命仕事をしても年収200万円にしかならない人が同時に存在している社会、そんな社会であることに気付きもしないで表面的な格差ばかりを気にしているオメデタイところが問題なのだ。

 結局のところ、(的を得ていない)格差是正論の根底には嫉妬という感情が渦巻いており、単に自分より収入が多い人に対する嫉妬心を体系化したものが現在の格差是正論と言えるのかもしれない。格差是正論争というのは、姿を変えた嫉妬論争に過ぎず、現実が見えず、幻想のみを追いかけている人達の悲喜劇とも言えようか。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

タスポカード(taspo)というトンデモカード

 今年の3月から順次taspoの導入が始まり、ようやく全国的にtaspoが知れ渡ったところで、案の定、問題点が表面化してきたようだ。
 その問題とは、ズバリ「自動販売機でタバコが売れなくなる」というものである。
 
 既に全国の9割の自動販売機にはtaspoが導入されているそうだが、実際にタスポカードを持っているのは喫煙者の12%しかいないらしい(2008年5月現在)。これでは、自動販売機によるタバコの販売が激減するのは当然の結果と言える。と言っても、タバコを吸う人が減少したわけではないので、逆に対面販売であるコンビニなどでのタバコの販売(売上)は激増していることだろう。
 
 私は数年前から禁煙しているので、タスポカードが有ろうと無かろうと別に構わないが、私の周りでタスポカードを持っている人は未だ見たことがない。そしてタスポカードの存在を認めている喫煙者にも会ったことがない。
 一体、このtaspoとは何なのだろうか? taspoの導入目的は「未成年者の喫煙を防止するため」と唱われているが、よく考えると矛盾していると思われる可笑しなところが多々あるように思われる。
 
 まず第一に、自動販売機での購入がいけないのに、なぜコンビニなどの対面販売ではタスポカードの提示は必要ないのか?ということだ。この一事だけ取り上げても、トンデモない矛盾であることに気付かされる。タスポカードは本人の顔写真付きであることは周知の通りだが、自動販売機で購入する場合、わざわざ顔写真などを入れる必要性は全くない。顔写真を入れる目的は、顔写真と本人が同一人物であるかを確認するためにある。ということは、本来であれば、コンビニで購入する場合にこそ、タスポカードを提示するべきであり、顔の判断ができない自動販売機に顔写真など無用の長物であることは誰にでも判るはずだ。
 本来のあるべき姿は、以下の通り。
  ・タバコの自動販売機は深夜販売を停止する。
  ・深夜はコンビニにてタスポカードを提示する。
 この2点を原則とすれば、未成年者の喫煙はある程度は防止することができるが、実際にはこの2点とも満たしていない。
 現代の自動販売機にタバコを買いに来た人間の顔を自動認証する高度なシステムが搭載されているならともかく、代理の人間(未成年者)が買いに来ても全く反応しない自動販売機になぜ顔写真が必要なのかは大いなる謎と言える。まさか、数十年先の自動販売機での販売を見越しているという訳でもないだろう。

 タスポカードの目的が本当に「未成年者の喫煙を防止するため」であるのなら、その目的を実現するためには、カードの携帯と本人確認を徹底するしか方法はない。つまり、どこでタバコを購入しようがタスポカードが必須という制度にしない限り、目的が達成されることは有り得ない。コンビニはOKだが自販機はNGなどという中途半端な抜け道だらけの制度では全くの無駄であり無意味な制度と言うしかない。
 
 余計な心配かもしれないが、taspoの導入は「未成年者であってもタスポカードを借りれば自販機でタバコが買える」という本末転倒な制度になってはいないだろうか? 結果的に、タバコではなく、taspo付き自動販売機自体の販売増を狙った制度になってしまったのではないだろうか?
 いずれにしても現在のところ、タスポカードの導入は明らかな失敗と言えそうだ。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (0)

通信簿のインフレにみる封建社会

 本日の産経新聞に世相を反映したナイスなネーミング記事があった。そのタイトルは『公立中で通信簿の“インフレ”』
 記事の中身はというと、最近の公立中学校での成績評価が絶対的に高くなっているというもので、酷いところになると、なんと生徒の90%が5(5段階評価)という教科もあるらしい。反対に、評価が1だった生徒は誰もいないらしい。
 
 最近は少子化のせいもあり、1クラスの生徒数も少ないそうなので、ある意味、先生と生徒が緊密なマンツーマン的な関係になり、人情的にも評価1という成績は付けにくくなったということはあるかもしれない。しかし、だからといって、ほとんどの生徒を評価5にするというのはいただけない。これでは“成績評価”ではなくただの“態度評価”になってしまう。
 
 態度評価で成績が決定してしまうのであれば、極論すれば、授業自体を真面目に受けているだけで成績が5となってしまうことになる。授業で教えている学習内容を理解しようと覚えようと関係なく、ただ授業を聞いているだけで成績が5となってしまう可能性があることを意味している。こんな評価基準では最近の大学生も真っ青のレジャーランド中学校になってしまいかねない。大体、そんなデタラメな評価では、真面目に試験勉強している生徒が浮かばれないし、やる気を削いでしまうことになる。
 これはある意味、肝心の仕事ができなくても勤務態度が良いだけで評価されたという昔のサラリーマン社会と同じ構図とも言える。

 大人の社会が激しく変化している時代に、現代の公立中学校では時代と逆行した教育を行っているようだ。中学生に対して時代に逆行した封建社会的な価値観を教え込んでしまうことは、お世辞にも時代にマッチした教育とは言えない。教師達が意識せずとも、時代に敏感な生徒は潜在的に違和感を感じているはずで、その違和感が無気力感につながってしまえば、教師達の明らかな教育ミスになる。

 さらに、「成績が他のクラスと比べて低い」と苦情を言ってくる保護者もいるらしい。
 教師も保護者もどっちもどっちだが、ここまでくると、はたして成績評価なるものが本当に必要なのか?と思ってしまう。生徒個人の本当の学力よりも、他人の判断した評価を重視しているようにしか見えない。その姿はまさに時代錯誤な封建社会教育そのものと言える。これでは、生徒に学力で競争することを否定した教育を行っているのと同じであり、そんな教育で受験に臨む学力を付けさせようというのだから、呆れてしまう。たとえ受験に成功したとしても、社会に出た時に上司の機嫌を取ることしか考えず、また上司の機嫌を取りさえすれば出世できるという勘違いをした社会人を大量に量産することになってしまう危険性がある。

 通信簿のインフレ現象とは、受験競争が激しくない時代であるがゆえの珍騒動とでも言うべきか、それとも、既に学歴が通用する時代ではなくなっているがゆえの珍騒動と言うべきだろうか…。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (2)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »