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2008年6月

サラリーマン社会は『減点主義社会』

 日本の企業社会は、横並びを良しとし、業績よりもミスに厳しい「減点主義社会」だと言われることがある。「減点主義社会」というのは、なるべくリスクを避け、平穏無事に済むのが一番という「事勿れ主義社会」とも言い換えることができるが、実はもう1つの言葉にも言い換えることができる。それは…

 私も以前に勤めていた(転職する前の)会社で、上司に次のような質問を(書面で)したことがある。

「1人の仕事量ノルマを100とするなら、200の仕事をして1つのミスをするのと、100の仕事をしてノーミスとでは、会社にとってどちらがプラスになるのか?」

 無論、この質問に対する回答は無かったが、答えは聞くまでもないだろう。
 100の仕事をする人(以下A)と、200の仕事をする人(以下B)がいたとすれば、AとBの間には仕事量に2倍の差があるわけだから、仮に1つの仕事が1万円とするなら、Aが100万円、Bが200万円の仕事をしたということになる。
 100万円でミスが無いなら100万円のままだが、200万円でミスをした場合、〈200万円−ミスした損害額(ミス×ミスの回数)〉という計算式が成り立つ。そのミスした損害額なるものが100万円以下であれば、ノルマは達成しており、単純にBの方が会社に貢献したということになる。
 ただ、人命を預かった仕事や、銀行のオンラインシステムのような絶対にミスが許されないような仕事(=量よりも質を問われる仕事)の場合は話は別で、Aの方が評価が高くなるという例外的な仕事はある。
 ここでは、そういった例外は考えないものとして話を進める。
 
 先の例では、仕事量100を基準にしており、標準的な仕事量をこなす人と、常人の2倍の仕事量をこなす人を例にあげたが、比率を少し変えて、70の仕事をする人(以下C)と140の仕事をする人(以下D)で考えてみよう。2人の仕事量ノルマが200であれば、CとDの合計仕事量は210なので、一応、ノルマはこなしていることになる。しかし、DがCの2倍の仕事をこなしているがゆえに、ノルマは達成できていることになる。この状態で、Dが1つのミスをしたとしよう。その損害額が仮に20万円であった場合、2人の合計は210−20で190万円となり、ノルマは達成されなくなる。
 
 さて、ここで質問。あなたが経営者の場合、CとDのどちらを評価しますか?
 
 常識的に考えれば、Cは70、Dはミスしても120の仕事をこなしているわけだから、量的な仕事で判断するなら、この場合でもDの方が評価されて然るべきはずだ。ノルマが達成されなかったのは、Dのせいではないからだ。Dがミスしたからノルマが達成されなかったのではなく、Cの仕事量が絶対的に少ないことがノルマを達成できなかった真の原因であるからだ。
 
 ここでもう1度、質問。あなたがDだった場合、上司から「ノルマが達成されなかったのは、お前の責任だ!」と言われて納得できますか?
 
 「できる」と言える人はご立派だと思う。
 
 ではもう1つ、質問。このミスによって、あなたの賞与査定がCよりも低かったとすればどうしますか?(もちろん、金額が少ないという意味)
 
 「自分がミスしたのだから仕方がない」と言えるだろうか? もしそう言えるのであれば、あなたは高度な倫理観を兼ね備えた大変立派な人格を持った人だと言えるだろう。 
 しかし、普通の人なら、次のように考えるだろう。
 「仕事量を半分にしてミスなく仕事すれば、文句を言われることもなく評価が上がるのであれば、真面目に仕事をしない方が得だ」と。
 それで、Dが故意に仕事量を70に減らすようになれば、CとDの合計は140となってしまい、ノルマは大幅に達成されなくなる。そうなると、Cが解雇され、Dは仕方なく100の仕事をこなすようになる。結果、会社の業績は縮小し、場合によっては経営が悪化してしまうという負の循環に陥ってしまうことになる。
 
 さて、この会社の経営が負の循環に陥った原因とは何だったのか? ミスをしたからか? 違う。ノルマを達成できなかったからか? 違う。Cの仕事が遅かったからか? 違う。答えは、Dがやる気を失ってしまったからだ。では、それはなぜか? 『減点主義』という誤った会社体制のためである。
 
 先述の「それは…」に話を戻そう。勘の鋭い人は既にお気付きだと思うが、「減点主義社会」とは、別名「共産主義社会」のことでもあるのである。
 
 上記の例からも分かる通り、個人の能力を認めない社会というのは、結果的に悪循環を生み、停滞を招くことになる。
 サッチャーが「お金持ちを貧乏にしても、貧乏人はお金持ちにはならない」と言ったことはあまりに有名だが、この「お金持ち」という言葉を「個人の能力」に置き換えることも可能かもしれない。「お金持ち(=個人の能力)を認めない社会は、全員が貧乏になる社会」というのは、まさに万古不易の名言と言えるだろう。

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『タスポ自販機』=『トロイの木馬』?

 タスポカードについて論じるのも今回で3回目となるが、1回目で述べた通り、コンビニのタバコ売上げが激増して、世間(マスコミ)では「タスポ特需」と呼ばれているそうだ。しかし、誰がネーミングしたのか知らないが、これは一般的な「特需」とは言えない。
 「特需」というのはその名の通り「特別な需要が発生する」ということであり、結果的に市場全体としてプラスになる場合のことを指す。今回のような、誰か(タバコ屋)が損をして誰か(コンビニ)が得をしただけでは、特需というよりも単なるゼロサムゲームだ。要するに、「タスポ特需」ではなく、ただの「タスポゲーム」だったわけだ。
 マスコミは格差を大きな問題とし、いつもは格差教の教祖の如く「格差!、格差!」と連呼しているわりには、タバコ業界に突如発生した格差は全く問題視しようとせず、逆に「特需だ!」と喜んでいるのだから、わけが分からない。
 
 高価なタスポ自販機を導入したことによって、売上げが激減してしまった一部のタバコ屋は、投資した資金も回収できずに廃業に追い込まれてしまったのだから、踏んだり蹴ったりのいい迷惑だろう。タバコ販売における売上げ格差を人為的に創っておいて、コンビニの売上げが激増したと喜んでいるのだから、甚だオメデタイと言うしかない。

 よく考えると、タスポ自販機というのは、現代の『トロイの木馬』※になってしまったとも言える。タバコ屋の味方と思われたタスポ自販機は、実はタバコ屋を壊滅させる危険性を秘めた『トロイの木馬』ならぬ『ジャパンの自販機』となってしまったわけだ。そのうち、そんな題名の小説か映画が出来るかもしれない。

※トロイの木馬…トロイ戦争で、ギリシャ軍がトロイ軍を欺き、攻略した故事から外見とは異なる物が送り込まれ、災いを招くたとえ。

 話は変わるが、タバコが1箱1000円になるかもしれないという話も飛び交っている。タバコを1箱1000円にすることで税収を上げ、消費税増税を回避するのが目的だそうだが、1箱1000円にすることで10兆円近い税収増が見込めるらしい。(ちなみに現在のタバコ税収は約2兆円)
 政府の試算では、3人に2人がタバコを止めると考えているらしく、その場合でも、3兆円の税収増が見込めると皮算用しているらしいが、その皮算用は“禁煙する人が減少しなければ”という条件しか考慮されておらず、“喫煙する本数が減少しなければ”という条件が入っていないので、おそらく実現不可能だろう。
 しかし、いくらインフレ傾向にあるとはいえ、物の値段がいきなり3倍になるというのはあまり現実味がないので、おそらく最高でも1.5倍程度に落ち着くのではないかと思う。(何十年もすれば本当に1000円になるかもしれないが…)
 
 健康のために、タバコの値段を上げることで禁煙者を増加させることが目的であれば、タバコの値段を上げることに賛成の人は結構多いとは思う。おそらく禁煙者はほとんど賛成だろうから、タバコの値段が今後も上がっていくことは避けられないだろう。
 日本では環境問題と健康問題を前面に出せば、大抵の法案はそのまま成立する可能性が高いため、喫煙者の抵抗は空しい抵抗に終わるかもしれない。しかし、その昔、アメリカで禁酒法という悪法が施行されたことも考える必要があるかもしれない。酒の製造・販売が禁止されたことで、酒の密造や犯罪が横行するという皮肉な結果になったことも歴史的な教訓(=反面教師)として考える必要があるかもしれない。
 
 先のタスポ問題についても言えることだが、タバコに関する法律の改正が、業者や消費者に与える影響をよく考えた上で決定されているとはとても思えない。政府もマスコミも「結果がどうなろうと知ったこっちゃない」という感じで、半ば開き直っている有り様だから心配になってしまう。罷り間違っても、禁酒法時代のような愚かな結果にならないことを願わずにはいられない。

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迷惑駐車違反を取り締まる『迷惑な駐車監視員達』

 グリーンのユニフォームに身を包んだ迷惑駐車を取り締まる『駐車監視員』が生まれて久しくなったが、先日、私が勤務している会社の営業も配達中、駐車違反に引っ掛かってしまったようだ。聞けば、5分以内に車に戻らなければ危ない(引っ掛かる可能性が高い)ということで、宅配便業者もよく引っ掛かっているのを見かけるらしい。

 まず初めにお断りしておくと、駐車監視員の主な仕事とは、『悪質な迷惑駐車を取り締まること』だ。
 
 一般車が駐車禁止区域に堂々と駐車しているというならともかく、商用車が仕事中、たった5分駐停車するだけでビクビクしながら仕事をしなければならないというのは、どう考えても納得できない。駐車違反に引っ掛かるのを避けるために、助手席に座る待機員を雇っている会社(主に大手)もあるらしいが、そんな余剰資金を用意できる会社はごく一部だろう。
 「雇うのが無理なら駐車場に停めればよい」というのが、コスト意識のない役人の常套句ではあるが、毎度毎度、駐車場料金を支払うのも馬鹿にならない。充分な利益のある仕事ばかりならともかく、ガソリン代も利益圧迫の要因になっている昨今、駐車場代まで支払っていては利益にならない(=仕事にならない)という会社も多いだろう。民間は公務員のように何でもかんでも経費で出るわけではないということをもう少し考えてもらいたいものだ。それに、駐車禁止を取り締まっているような都市部においては近隣に駐車場自体が無い場合も多い。このことは大前研一氏も言っているが、駐車違反を取り締まる前に、まず充分な駐車場を作るのが先ではないのか?と言いたくなる。
 
 大体、業者が得意先前に車を駐車することが、なぜ悪質な迷惑駐車になるのだろうか?
 “悪質”と“迷惑”ということで考えてみると、ビクビクしながら駐車している人間の心の中には、既にいらぬ罪悪感や不安感が伴っているわけだから、どう考えても悪質というのは当てはまらない。では迷惑はどうか? 近隣の住人や業者が邪魔で迷惑だと言うなら仕方がないだろう。しかし、実際に車を駐車して一番の迷惑を被るのはどこかというと、実は当の得意先(配達先)だ。なぜなら、会社の目の前に車を駐車しているからだ。「迷惑だ!」と文句を言う人がいるとすれば、その得意先であるはずだ。しかし、当の得意先は何も文句は言わない。なぜ? いちいち文句を言っていては仕事にならないからだ。迷惑であろうと何だろうと、仕事であるなら邪魔になるのは暗黙の了解事項であるからだ。車は止まっていようと仕事としては動いているからだ。迷惑駐車だと思っているのは、駐車監視員だけで、業者は誰も迷惑などとは思っていないのだ。
 その横から部外者である駐車監視員が「迷惑です」「駐車違反です」「減点です」「罰金です」「今後、注意してください」と言ってくるのだから、まるで駐車違反ごっこをしているかのようだ(しかし支払うのは本物の現金)。
 確かに交通ルールを破ったという意味では、駐車違反になるのかもしれないが、社会にはビジネスルールというものもある。彼らはビジネスルールを無視して、駐車違反を取り締まっている。彼らはビジネスルールに違反していることには気が付いていない。同時に、それが如何に迷惑なことかということにも気が付いていない。
 
 「そんなことは分かっています」と言う駐車監視員もいるかもしれない。しかし、不合理であることが分かっていながら、建前と慣習だけで、右にならえで業務を執行しているのであれば、その行動原理は役人と同じだと言える。民間委託になっても、中身は全く変わっていない。「わかっちゃいるけど止められない」という役人の行動原理に沿って駐車違反の取り締まりをされては、民間に委託している意味がないと言いたくなる。
 
 「わかっちゃいるけど駐車違反をする」ではなくて、
 「わかっちゃいるけど駐車違反取り締まりをする」では、たまらない。
 
 民間企業が不況で苦しんでいる時に、国にできることは規制を強化して息苦しい社会にすることではなく、無意味な規制を緩和・撤廃することであるはずだ。
 大事なことは、5分や10分の駐車違反を取り締まることによって利益を得ている一部の人間達を優先することではなく、5分や10分の駐車違反なら大目にみて、少しでも国民の圧迫感を無くすことであるはずだ。現在の駐車違反取り締まりを見ていると、主役は国民ではなく国になってしまっている。

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無意味な通り魔事件対策

 秋葉原連続通り魔殺傷事件に於ける被害の重要性を受けてか、全国の歩行者天国に防犯カメラを設置し、警備員を増員するとの対策案が出ている。この事件が歩行者天国で発生したという、ただそれだけの理由から、“歩行者天国=危険”という超短絡的な図式が出来上がってしまったようだ。こんな子供騙しな対策案を出し、それを実行する政府も政府だが、そのことについて問題視せずに何でも国に任せてしまう国民の方にも問題があると言えるかもしれない。通り魔事件というものが恰も、地震と同じように、地理的な要因が事件の引き金になっているとでも思っているのだろうか?
 
 確かに、風水的な関係や、環境的なその場の雰囲気が人間の精神に与える影響は無いとは言えないが、この事件の場合は、結果的に事件現場が秋葉原になってしまったというだけであって、犯人の脳裏に「秋葉原」という場所が思い浮かばなければ、違った場所で事件が起きていたはずだ。これは言うならば、地震が発生して被害が出た後で、その地域に対してのみ地震対策を徹底しているのと同じで、ほとんど意味が無いと言える。いや、地震であるなら、その地域を立ち入り禁止にすれば余震での被害を防ぐという意味では有効だろう。しかし秋葉原事件に余震が有ると思うのは論理の飛躍であり、どう考えても無理がある。
 
 また、犯人が派遣社員だったという理由から、「派遣社員制度というシステムが問題だ」というような意見も出ているようだが、これも少し考え過ぎ(と言うよりも思慮不足)だろう。大体、世の中に派遣社員と呼ばれている人達がどれだけいるか解った上でこんなことを言っているのだろうか? 派遣社員から正社員になることが全ての派遣社員にとって幸福なことであると勝手に決め付けてしまってよいのだろうか?
 
 現代は一言で言うなら多様性の時代だ。昔のように、誰も彼もが同じような境遇に身を置くことが良いことだと思う人が徐々に減少している時代だ。今の10代、20代の若者達は、現在の日本の会社社会にあまり良いイメージは持っていないと思う。いつまで経っても時代にマッチしようとせず、横並びを良しとし、能力に関係なく下の者は上の者に仕えるという封建社会のような会社体質が肌に合わなくなっているからだ。
 「それは若者の言い訳だ」「今の若者は我慢が足りない」と言ってみたところで、既に企業の封建社会システムを維持することができないのだから仕方がない。将来的にいつまで経っても報いがないような封建社会などは、その存在自体に意味がないのである。そんなねずみ講のような社会システムが嫌になって会社を辞める人が増えているという時代に、派遣社員が悪だと決め付けてしまうのは、あまりに早計だ。
 
 そもそも派遣社員というものは、必ずしも低待遇というわけではない。高い能力を必要とする派遣社員は、通常の正社員よりも高給である場合も多い。彼らは、その能力の高さゆえに、敢えて会社に入ることなく自由に仕事を行っているという側面がある。会社員では不自由だし、独立すればリスクを伴うので、中間の派遣社員を選択しているという人もいる。(会社員<派遣社員>独立)
 そういった人々にとっては派遣社員という雇用形態は便利なものであり、必ずしも悪いものとは言えない。昔のように誰も彼もが会社の一員となって職務を果たすというような融通の利かない時代ではなくなっているのだ。
 
 政府が、派遣社員制度が悪いと言うのであれば、まず、政治的に日本の社会体質を変えることが先決だろう。一番重要なことをいつまでも先延ばしにしておいて、民間の派遣社員制度を批判したところで何の解決にもならない。変えなければいけないのは、表面的なシステムではなく、内面的な思考の方だ。事件の対策もこれと同じで、表面的な対症療法(実際は対症療法にさえなっていないが…)をいくら講じたところでほとんど無意味だと言える。
 「派遣社員制度が事件の発端だ」と言っている人は、《派遣社員は人生に希望を持てない》と考えているのかもしれないが、もしそうであるなら筋違いだろう。希望の持てる社会の構築とは、“派遣社員のいない社会”を構築することではなくて“派遣社員でも希望の持てる社会”を構築することであるからだ。

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『インターネット規制法案』の裏側

 未成年者を有害サイトから守るという、有害インターネット情報規制法(有害サイト規制法)案が参院本会議で可決・成立したらしい。
 
 この法案が可決したことで、インターネットユーザーを中心に次のような意見が囁かれている。
 
 「未成年者の有害サイト規制は隠れ蓑で、実は、中国のように情報統制することが目的ではないか?」と。
 
 これは、考えられないことではないかもしれない。中国などは、携帯電話の爆発的な普及によって、かつてのように国民を情報統制できなくなったということはよく聞かれる話だ。
 ここで、「日本は中国のような全体主義国家ではないのだから、それは考え過ぎではないか?」と思う人がいるかもしれない。しかし、実際はそうとも言えない。
 最近の中国からの留学生などは、「日本人の方が中国人よりも共産主義者っぽい」という感想を持っているらしく、日本の学生と付き合うと「共産主義を伝染される」というブラックジョークまで飛び交っているそうだ。
(参考文献)『日はまた昇る』ビル・エモット著
 
 日本は建前上は資本主義国家ではあるが、その内実は、社会主義国家だということは広く知られたことであり、「知らないのは日本人だけ」というブラックジョークが世界中で囁かれていることも有名な話だ。

 日本では公の場で正論を述べると、必ずどこかから邪魔が入ると言われている。なるほど、確かに世の正論者と思える人は、テレビには全くと言っていいほど登場しない。正論と呼べるようなものは、書物を通してか、インターネットを通してしか、なかなかお目にかかれない。書物だけであれば、読書家以外には正しい情報がなかなか伝わらないために、国もそれほど躍起にはならなかったのかもしれないが、昨今のブロードバンド環境によって、次々と誤った情報が暴露されるようになってしまった。社会保険庁の年金問題等はその最たるものかもしれない。国が有耶無耶にしようと思っても、インターネットという開かれた情報空間がそれを無効にしてしまうようになってきた。自由な言論の場が、眼に見えない仮想空間で構築されつつあることに畏怖する勢力があったとしても不思議なことではないかもしれない。
 
 デジタル空間というものは、基本的に0と1という信号のみで成り立っている。しかし、それだけでなく、実は情報の中身までも真(1)と偽(0)に分けるという巨大な力を有していることに多くの人達が気が付いてきた。このことは、20世紀に生きた権力者達には、想像だにできなかったことだろうと思う。これはまさに情報を遮断され、束縛されて生きてきた人々にとっては「革命」と呼ぶに相応しい出来事であったとも言える。この無血革命によって、管理された国々というものは、必然的にオープンな社会に変化していかざるを得なくなる。
 今後、世界はより開かれた社会(オープン・ソサエティ)を目指すだろうことは間違いないだろう。しかし、開かれた社会ではなく、閉ざされた社会でしか生きていく術を持たない(閉ざされた社会の方が都合がよい)既得権益者達は自ら抵抗勢力となって、社会のオープン化を阻もうとするに違いない。
 
 『インターネット規制法案』はクローズドな社会を構築するための先鞭ではないか? その疑問が杞憂であることを祈ろう。

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『秋葉原通り魔事件』報道について一言

 日本中を震撼させた「秋葉原通り魔事件」だが、これだけの大事件となると、マスコミは大忙しといったところかもしれない。それにしても、白昼堂々、暴走トラックで人々を跳ね飛ばし、それだけでは物足りずにナイフで手当たり次第に道行く人々を切り付けるというのは、テロリストも真っ青な犯行と言える。こんな狂人が街中に急に出現すれば、逃げる間もない。まさに眼の前で爆弾が爆発したようなもので、そういう意味では、まさしく無差別テロと同一の犯行と言える。
 …と、これだけの感想なら、敢えてブログで感想を述べる必要はないと思われたが、事件後の報道に疑問を感じられたので、少し述べてみようと思う。
 
 犯人がサバイバルナイフを所持していたという理由から、政府からは「サバイバルナイフの規制を強化する」との意見が出ている。
 山奥でキャンプでもするというならともかく、わざわざ個人がサバイバルナイフなどを持ち歩く必要は無いと思われるので、この規制については私も賛成だ。ただ、その理由は、あくまでも「個人が持ち歩く必要はない」という理由であって、「事件を防止するため」という理由ではない。
 
 そもそも今回の事件は、犯人がサバイバルナイフを持っていなければ起こらなかったのか?というと、そうではないはずだ。どこの家庭にも包丁やらカッターナイフは置いてあるのだから、凶器にサバイバルナイフが使われなかったということには成り得ても、事件が起こらなかったということにはならない。犯行の動機はあくまでも犯人の内面(人間性)にあるのであって、凶器にあるわけではないからだ。まして、この事件は計画的な殺人であって、突発的に起こった事件ではない。急にキレてナイフで切り付けたという事件ではないため、ナイフの所持云々はほとんど関係がない。
 こんなことは誰でも解ることだが、政府は相も変わらず、“サバイバルナイフの規制”という対症療法を講じるつもりらしい。何も行わないよりはましだと思っているのかもしれないが、この国の政治家達は、サバイバルナイフ自体が病気のウイルスだとでも思っているのだろうか? それが伝染病の如く広がるというならともかく、結果的に凶器にサバイバルナイフが使われたというだけで、こんな対策案しか出てこないのでは、お粗末と言うしかない。
 
 こういう犯行があるとマスコミは決まって、「教育が悪い」とか「社会が悪い」とか、なんでもかんでも国に責任を求める風潮があるが、国に一体、なんの関係があるというのだろうか? 国の管理が至らなかったので、危険な人物を生み出してしまったとでも言うつもりだろうか? 人間というものを国が管理できるロボットかモルモットとでも思っているのだろうか? 1億人の中でたった1人の人間が凶行に及べば、国の責任、教育が悪い、社会が悪いでは、あまりにも短絡的過ぎるのではないだろうか?
 
 もし、事件が起こった原因があるとすれば、それは、親の教育が悪かったか、家庭環境が悪かったか、自分自身が弱かったということであって、国や社会が悪いというわけではないだろう。もちろん、現在の日本の不況には国の責任は大いに関係があるが、だからと言って、全く無関係な人間を殺傷してもいいという理由にはならない。そんなことをしても、国が良くなるわけではないからだ。
 国や社会が悪いことが犯行の原因であるのなら、犯人はテロリストと同様、国に対してキレる(喧嘩を売る)はずだ。同じ民間人に対して無差別テロを行って一体なんになるというのか? また、そんな無意味な凶行に及んでいること自体が、犯行の動機を物語っている。それは国や社会とは無関係の個人的な犯行に過ぎないということだ。マスコミの言うような国がどうこうすれば良いというような問題では有り得ない。

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『居酒屋タクシー』問題に見る論点のすり替え

 昨今の省庁バッシングの勢いのせいか、今度は財務省の「居酒屋タクシー」問題が取り沙汰されているが、どうも今回の騒ぎは少々、毛色が違うのではないか?というのが率直な感想だ。
 役人の無駄使い(金銭感覚)が問題だと言っても、今回の場合、それほど大騒ぎするような問題とも思えない。こんな小さな問題で大騒ぎしている暇があったら、もっと大きな問題がないかを調査するべきではないのかとも言いたくなる。
 
 この問題について、国土交通省は「タクシーが客に現金を提供する行為は道路運送法に違反する(割り戻し行為に接触する)」との見解を示しているようだ。
 また、こういう意見もある。「客が欲しいタクシー業者の行動も理解できなくはないが、役人相手にやるのはモラル的に問題だ」と。

 まず、国土交通省の見解だが、タクシー業者がお得意客に対して、割引券や商品を提供する行為がなぜいけないのかよく解らない。
 「割り戻し」というのは、「運賃の一部を乗客に払い戻す行為」であると規定されているらしいが、これは、よく考えると“料金の割引”と同じ行為とも言える。 
 喩えて言うならこれは、10000円支払うところを9000円にまけることは問題なくて、事前に1000円割引することは法律に違反すると言っているのと同じだ。違法性はともかくとして、どちらもお客に対するサービスとして捉えれば、さほど問題ないように思える。
 
 役人相手にやるのはモラル的に問題だというのも可笑しい。役人相手ならモラル的に問題で、一般人相手ならモラル的に問題ないと言うのであれば、立脚点が役人ではなくタクシー業者になってしまっている。仮に問題があるとすれば、そういった過剰なサービスを公人として断ることなく平然と受け入れていた役人サイドにあるのであって、タクシー業者サイドが全面的に悪いというわけではないだろう。
 問題は、タクシー業者が「霞が関の役人なら深夜の長距離タクシー代もケチることはないだろう。多少の事前投資をしたとしても回収できるはずだ」と思っていたことにある。つまり、そう思わせてしまう社会体質に問題があるのである。

 この問題を契機として、タクシー運転手からは「利用客が減った」との悲鳴が上がっており、結果的に迷惑を被ったのは、役人ではなく民間人という毎度のパターンになってしまった。
 では、当の財務省の役人達はどうだろうか? 毎晩、深夜残業するほど忙しかったのだとすれば、
 1、帰宅には深夜タクシーを利用する
 2、マイカー通勤をする
 3、役所の近所に引っ越す
 4、役所の近所のホテルに寝泊まりする
 5、残業時間を減らすため、役人を増員する
 6、残業しなくてもいいように業務効率を上げる
 7、役人を辞めて転職する
ぐらいしか方法はない。6が理想ではあるが、7と同様まず有り得ないだろうから、残るは1〜5のどれかを選択することになる。客観的に見れば、1のまま継続するのが妥当と思われるが、1がいけないというバッシングが過ぎると、選択肢は2〜5のどれかになる。そのどれを選択したとしても、国民にとってはプラスにはならない。

 2の場合・・・税金によって、役所の近所に駐車場を建設する。
 3の場合・・・税金によって、役所の近所に住居を建設する。
        (税金によって、大幅に安い家賃のマンションが建設される)
 4の場合・・・税金によって、タクシーに乗る以上のホテル料金が発生する。
 5の場合・・・税金によって、膨大な人件費が費やされる。

 (注記:上記の対策は財務省だけでなく、その他の省庁全てに適用されることになる)

 結局のところ、小さな問題で国民が騒げば騒ぐほど、逆効果になってしまう可能性が高いと言える。役所やマスコミがそういう結果になることまで意図しているとは思いたくないが、国民にとって本末転倒な結果にならないことを願う。

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タスポカードとパスポートの関係

 先月、タスポカードは矛盾に満ちたトンデモカードだということを皮肉を込めて述べた(→タスポカード(taspo)というトンデモカード)が、その後もタスポカードの普及はほとんど進んでいないらしく、先日、某テレビ局が、「タスポカードの普及はなぜ進まないのか?」と報道していた。

 まともな常識を有した人であれば、こんな疑問は出てこないだろうと思われるが、この国のマスコミ人には世間一般の常識が通用しないのだろうか? それとも、敢えて疑問を投げかけることによって、タスポカードの普及を推し進めようというマスコミ特有の下心でも働いているのだろうか?
 どちらにせよ、マスコミの「タスポカードの普及はなぜ進まないのか?」という疑問に対する解答は至って簡単だ。
 
 答え「コンビニでもタバコが買えるから」
 
 まさにこの一言に尽きる。タスポカードを本気で普及させたいのであれば、『コンビニなどの対面販売でもタスポカードの提示が必要』とすればいいだけだ。そうすれば、あっという間にタスポカードの普及率が現在の12%から90%にまで跳ね上がるだろう。これは、おそらく間違いないと思う。こんな中学生でも解るようなことをなぜ実行に移さないのかは甚だ疑問だ。そうできない理由でもあるのではないか?と疑われても仕方がないと言える。

 さて、ここで質問。あなたは、顔写真の入っていないパスポートを見たことがあるだろうか?

 「そんなものは見たことがないが、それとタスポカードがどう関係があるんだ?」と言う人がいるかもしれない。しかし実は大いに関係がある。「そんなものは見たことがない」(=無意味な証明書)という意味において、まさしく同一の関係にあると言える。
 逆説的に言えば、写真入りのタスポカードとは、写真の入っていないパスポートと同じ代物だということになる。タバコのパスポートであるから、タスポ(ート)とネーミングしたのだろうが、パスポートは機械に入れるものではなく、対面で見せるものだ。対面で見せる必要のないパスポートに一体、どんな意味があると言うのだろうか?
 
 ○飛行機に乗るための証明書がパスポート
 ●自販機でタバコを購入するための証明書がタスポカード
 
 この2つの違いをよく考えてみよう。前者の場合は、飛行機に乗る前にまず人間がパスポートをチェックする。しかし、後者の場合は、ノーチェックだ。何が言いたいのかというと、飛行機の乗降口にパスポートを認識する自販機まがいの機械が設置されていたとして、その機械がパスポートを認識できたとして一体、何の意味があるのか?ということだ。それは、乗ってくる人間をチェックするのではなく、単にパスポートが本物かどうかをチェックしているだけということになる。こんな飛行機があれば、危険というしかない。同じように、タスポカードで買われたタバコも誰に吸われるか分からないという危険性を秘めている。その危険性を秘めているという意味においても同一の関係にある。
 
 皮肉ばかりで申し訳ないが、結論として言えることは、タスポカードとは、顔写真が入っていないパスポート、つまり、未成年であろうと子供であろうと誰でもタバコが買えるパスポートであるということができる。やれやれ…

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原油高と自動車会社の知られざる関係

 レギュラーガソリンの1リットル価格がついに170円を超えてしまった。この調子でいくと、200円も超えるのではないか?という憶測情報が飛び交っているが、これはまあ誰にも解らない。解るとすれば、この原油相場を操っているプロの投機家くらいのものだろう。
 現在の異常な原油高は、投機マネーによって原油先物価格が高騰していることが主な原因なので、どの時点で暴落に転じるのかも解らない。しかし、騰がる角度が急であれば、下がる角度も急カーブになるはずで、この原油高が収束した暁には、富士山のような山型の相場チャートが出来上がっていることに気付くことになるかもしれない。
 
 私も何年か前に、大学の後輩を名乗る某先物取引会社の新入社員から「原油を買いませんか?」と猛烈に勧められたことがある。(卒業名簿を手に入れて電話してきたらしい)
 試しに一度会ってみたことがあるのだが、原油の先物を買う程の余裕はないと丁重にお断りした。あの時、話に乗っていれば、今頃は大儲けしていたと思う。(現在まで売らなければという条件付ではあるが…)

 さて、この原油高によって、「車を買い控える消費者が増加する」との意見がよく聞かれるが、これは本当だろうか? 生活に車が絶対必要という人間が、原油高という理由だけで、車を購入しなくなるのだろうか?

 結論から先に言うと、これらの意見は極論…と言うよりも、むしろ、曲論と言った方がいいと思う。消費者が控えるのは、せいぜい、遠出することを控えるか、買い物に出かける回数を減らすかというくらいのことだろうと思う。消費者は、無駄な外出(運転)は極力しないという方向に向かうと思われるので、ネットによる販売が更に加速することになるかもしれない。
 
 それと、もう1つの曲論に、原油高によって「自動車会社の売上が減少する」という意見がある。これも先程と同様、“原油高によって世界中の自動車が売れなくなる”という前提のもとに述べられているのだろうが、これもただの思い込みに過ぎない。
 原油高になれば、「車を買わなくなる」「自動車会社の景気が悪くなる」というのは極論と言うしかない。なぜ極論であるのかというと、“原油自体は存在している”“自動車に代わる交通手段が無い”という2つの理由からだ。
 「車を買わなくなる」「自動車会社の景気が悪くなる」という結果になる場合があるとすれば、それは原油の値段が高くなった時ではなく、原油が枯渇した(=無くなった)時か、または、自動車に代わる新しい交通手段が開発された時だけだろう。
 「電気自動車があるのではないか?」という意見があるかもしれないが、電気自動車を開発しているのも同じ自動車会社なのだから、自動車会社がいきなり低迷するという理由にはならない。
 
 原油高になって消費者がまず考えることは、“いかにガソリンを使わずに済むか”ということだ。いきなり車を買わなくなるのではなく、まず、燃費に目を向けるのがごく普通の消費者の姿であるはずだ。そうであるならば、燃費の良い車に買い替えようと考えるのが通常の消費者心理だろう。
 幸い(災い?)にも、日本の車検は2年に1回という短期間であるので、今後2年以内に燃費の安い車に買い替える消費者が急増する可能性が高い。つまり、車は売れなくなるのではなく、買い替え需要(特需)によって、一部の車は売れまくることになる。売れまくる車とは当然のことながら、燃費の安い日本車(特に軽自動車)になるだろうから、中長期的に観ると、日本の自動車会社にとって原油高はむしろ追い風になる可能性が高いと言える。

 実際、普通車と軽自動車では、燃費が2倍以上違うので、現在、普通車に乗っている人が軽自動車に買い替えることによって、ガソリン価格が2倍になったとしてもペイできる計算になる。
 問題は、職業上、高燃費の大型車に乗らざるを得ない人と、元から低燃費であるがゆえに軽自動車に乗っていた人だけだ。そして、原油高によって最も困るのは、消費者ではなくて、実はガソリンスタンド経営者であるということだ。車の需要は減少しなくても、ガソリン需要が減少することだけは避けられないからだ。ガソリンスタンド救済のためにも、自動車会社には、より低燃費車の開発に力を入れてもらいたいところだ。
 
 余談となるが、以上のことを考えると、円高が一服した現在、トヨタやホンダ、スズキ等の自動車株は現在が絶好の買い時と言えるかもしれない。近い将来、「あの時が絶好の買い時だった」ということに気付くことになる可能性が高い。と言っても、私は証券会社の回し者でもなければ、当ブログ閲覧者に自動車関連株の購入を勧めているわけでもないので、株式投資はくれぐれも自己責任でお願いしておきます。

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