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2008年7月

「学歴社会」と「官僚社会」の歪な共通点

 かつての日本社会では、大学に入学するためには、ある程度の学力が必要だったと思うが、現代の日本社会では、学費さえ支払うことができれば誰でも大学に入学できる時代となっている。もちろん名の通った一流大学に入学するためには、それなりの学力が必要とされるが、あまり人気のない大学などは定員割れするところもあるそうで、完全な売り手市場になっている。
 かつては大学の入試試験に合格することは、ある程度の学力があることを証明するものであったと思うが、現代では、必ずしもそうはなっていない。そのことからも、現代では大学に入学すること自体にそれほどの価値が無くなってきたと言えるかもしれない。

 大学生活を送る期間は、人生のモラトリアム期間※と言われることがある。これは日本独自の甘えた文化かもしれないが、このモラトリアム期間を過ごすということに対しては私も悪いとは思わない。人生にそういう期間があっても良いと思うからだ。
 義務教育を終了してすぐに企業に入ると、4年間のモラトリアム期間を過ごすことなく社会に出ることになる。それは立派なことでもあるのだが、4年間の自由な期間を過ごすことができないという意味では、少し勿体ないと言えるかもしれない。

※肉体的には成人しているが、社会的義務や責任を課せられない猶予の期間。また、そこにとどまっている心理状態。

 一応、お断りしておくと、私は単に大学で遊ぶことが良いと言っているのではない。いろいろと人生について考える(=つまり学習する)助走期間があった方が良いと言っているだけなので、別に大学に行かない人を見下しているわけではない。大学に行く行かないに関係なく、そういう期間があった方が良いという意味である。
 私も学生時代、大学に行かずに働いている人の方が、大学で遊んでいる大部分の人間よりは偉いと思っていた。私自身、大学生の時は完全なモラトリアム人間だったので、働いている人が妙に大人に見えたものだ。
 私の場合、本を買うためにアルバイトをしていたが、生活費を稼ぐために働いていたわけではなく、あくまでも社会勉強の一環として働いていたに過ぎなかった。しかし、その社会勉強ができる期間というものが実は大事だったのではないかと今更ながらに思うことがある。
 
 私の経験は置いておくとして、話を進めよう。現代は、大学に行く価値が低下したと述べたが、現状ではどうなっているかというと、相変わらず、大学に行く人が大半を占めている。実質的には“大卒”という価値が低下しているにも関わらず、「大学へ行く必要はない」という人は極めて少数派になる。
 これからの時代、企業サイドから見れば、一般常識に少し毛が生えた程度の大卒者など、それほど価値があるとは思われていない(理系は別かもしれない)というのが正直なところだと思う。学歴などよりも、実際の仕事をする実力の方が大事な時代であることは世界中の人達が理解しているはずだ。しかし、どうも日本だけは例外のようで、日本の学歴信仰だけは未だに根強く残っている。
 
 よくよく考えると、この“学歴”とは何なのだろうか? 人生が80年として、大学を卒業するまでの22年間(日本の場合、入学するまでの18年間と言った方が正解かもしれないが)で、どれだけ勉強したか(または暗記したか)によって、その後の数十年の人生が決まってしまうというのは、何かおかしくはないだろうか?
 そもそも人間が勉強できる期間は、学生時代だけではない。別に30歳から勉強する人がいてもいいはずだし、大学を卒業すれば、その先、勉強しなくてもいいわけではない。20歳で勉強を止めた人間より、20歳から80歳まで勉強した人間の方が、はるかに学歴は長いことになるし、知識も豊富なはずだ。
 「10代の頃は頭が柔軟で、勉強したことが最も頭に入り易いので、勉強するのは学生時代が向いている」というのは、確かにその通りだろうと思う。しかし、いくら頭が柔軟であっても、嫌々勉強するのと、好きで勉強するのとでは、呑み込み方が大きく違ってくる。10代に嫌々勉強をしている人間より、30歳を超えても、好きで勉強している人間の方が、物覚えが良いということは十分にあるはずだし、そういった自由のある柔軟な社会の方が人間として生活しやすい社会であることは疑いのないところだろう。
 
 この学歴信仰の頂点にいるのは、無論、東大法学部を卒業した官僚達だが、昨今の社会情勢を見ていると、その頂点であるはずの優秀な官僚達が、まるで諸悪の根源のように疎まれている。勉強はできるが、社会経験に乏しく、(勝手に)立案された法案は、どれも実際の庶民感覚からはかけ離れたミスマッチなものばかりで、ほとんどが余計なお世話(有り難迷惑)になってしまっている。
 本来、国の舵取り役は、実際の生きた社会経験をしている人間が行うべきであって、エリート意識だけが強いだけの世間知らず人間が行うべきものではないと思う。しかし、日本の異常なまでの学歴社会がいつまでも継続されると、いつまで経っても、官僚主導国家という悪循環からは抜け出すことはできないだろう。
 官僚が悪いと言っても、官僚達も元々悪人というわけではない。悪いのは、人間としての官僚ではなく、官僚社会の方だ。学歴もこれと同じで、学歴自体が悪いのでなはなく、学歴社会こそが問題なのだ。官僚社会も学歴社会も“学生時代に勉強ができた人間だけが報われる”という本来の理想からかけ離れた歪な社会になっていることが問題なのである。

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『八王子通り魔事件』の対処法は如何に?

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 秋葉原の通り魔事件に次いで、今度は八王子で通り魔事件が発生した。今回は2名の死傷者が出たらしいが、今回の犯人の動機も「誰でもよかった」という身勝手なもの(通り魔的発想)だったらしい。

 秋葉原での凶器はナイフだったが、今回は包丁だった。秋葉原事件では、ナイフの所持や販売が規制されたが、果たして今回はどうするつもりなのだろうか? まさか日本中で包丁の所持を禁止し、包丁を販売するのも購入するのも証明書が必要などと言い出すのではあるまいか? 秋葉原の歩行者天国に監視カメラを付けて、ホコテンを使用中止にしたのと同じように、全国の書店に監視カメラを設置し、書店での書籍販売を一時的に中止にするのだろうか?

 お断りしておくが、私は別に皮肉を述べてからかっているのではない。前回の事件の対処法は果たして正しいものだったのか?ということを問題提起した上で、もっと冷静に考えてみた方が良いのではないかということを注意、喚起しているだけだ。
 
 ナイフという一般的にはあまり利用されていない凶器が使用されれば、簡単にナイフを悪者にするが、日本中の誰もが利用している包丁が凶器に使用されると、簡単には悪者にできず何の対処法も出てこない。
 しかし、ナイフであれば対処法があり、包丁であれば対処法がないというのは、どう考えてもおかしい。ナイフも包丁も通り魔の凶器(刃物)として使用される可能性があるという意味では違いはない。むしろナイフよりも包丁が使用される方が多いかもしれない。ならば、対処法は同じになって然るべきはずだ。通り魔が包丁を使用した場合は仕方がないというような言い訳が通用するのであれば、ナイフの規制云々は場当たり的ないい加減な対処法だったということの証明にしかなっていないということだ。

 皮肉なことに、通り魔事件が短期間に続けて発生したことによって、前回の通り魔事件に対する認識や取り組み方が極めてデタラメであったことが表面化してしまったようだ。
 通り魔事件でナイフや包丁が凶器に使用されたということは、あくまでも“結果”に過ぎない。ナイフや包丁が有ったから事件が起きたのではない。決して、ナイフや包丁が犯人ではないのである。
 事件の起きた原因は凶器ではなく、本人の心の状態(思考)にある。他人を傷つけたいという凶器のような心が問題なのだ。目に見える凶器ではなく、目に見えない狂気こそが問題なのだ。通り魔事件における対処法があるとすれば、結果(凶器)ではなく原因(狂気)を直すことであるはずだ。

 なんにせよ、取り締まりばかり強化することはいい加減に止めて、通り魔が出てこないような自由な国にすることを考えた方がよいかもしれない。少なくとも、この国の窮屈さが、通り魔事件発生の原因(メカニズム)になっているかもしれないという疑問を抱くことの方が、包丁を規制することよりも重要であることは間違いないだろう。

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気象予報士とエコノミストは同レベル?

 昨日、気象庁が誤って「1分半後に震度6弱の地震が起こる」との誤報を流したことから、誤報のあった地元住民(愛知県岡崎市)が大騒ぎしたというニュースがあった。
 これはまあ、人為的なミスであるので、ある意味仕方がないと言えるが、気象庁にちなんで、少し述べておきたいことがある。それは、天気予報ニュース、その中でも特に「1週間天気予報」についてである。

 誰もが1度は思ったことがあると思うが、1週間天気予報などというものは、ほとんど当たった試しがないと言える(全日快晴なら当たる場合がある)。
 先日も「週末の2日間は大雨」という天気予報が流れていたのだが、実際には2日とも快晴だったということがあったばかりだ。これでは全く予報になっておらず、雨が降ると思いスケジュールしていたことが無駄になってしまった。(正確には、予定を入れなかった(苦笑))
 また、朝、起きた時に「晴れ」予報となっていたものが、30分後に家を出る時には「雨」予報に変化している日もあった。これは要するに、雨が降っていることが判明したので急遽、「雨」と変更したわけだ。つまり、事前予報ではなく事後報告(天気予報ではなく天気報告)になってしまっていることを意味している。
 
 そもそも、1週間先の天気がどうなるのかなど、本当に分かるものなのだろうか? 予想できるのはせいぜい3日間くらいではないのだろうかとも思ってしまう。たまにハズれるならともかく、こうもハズれてばかりだと、わざわざ1週間も先の天気を予報する必要はないのではないか?とも言いたくなる。
 
 例えば、台風の予報にしても、台風が発生する前に判るわけでもなく、台風発生後であっても台風の進路予想も速度予想もほとんどアテにならないということは誰もが経験済みだと思う。過去にこういうルートを辿ったので、今回の台風もこうなるだろうというようなシミュレーションをするのが関の山だろう。土台、人間が大自然相手に予測を行うこと自体に無理があるわけだ。
 そんな無駄なことにお金と時間を使ってまで放送する必要があるのだろうか? 1週間先の天気を知りたいという需要がそれほどあるとは思えないし、仮に需要があったとしても、予報がアテにならないのなら、ほとんど無意味だと言える。
 
 先に地震の誤報のことを書いたが、地震にしても天気と同じかもしれない。地震の場合も実質的には事前予報ではなく事後報告にしか過ぎない。地震が発生してから、何度も余震の可能性などを発表しているが、これもほとんど形式化しており、実際に役立っているとは思えない。しないよりした方が良いという気休めだけで行っているようにも見えてしまう。
 「震度○の余震の起こる可能性は○○%」などともっともらしい予測を発表しているが、本当にそんなことが判るのだろうか? 科学が(少し)進歩したとはいえ、たかが人間に大自然(地球)の動き方が的確に予想できるものなのだろうか? 「できる」と言うなら大したものだが、実際はどうなのだろうか? ある程度でも判るものなのであれば前言を撤回するが、これまでのことを鑑みれば、あまり期待できそうにないというのが正直なところだ。
 
 天気予報は競馬予想でもなければ占いでもない。そして気象予報士は賭博師でもなければ占い師でもない。
 プロを名乗る気象予報士が予報と言うからには、少なくとも80〜90%は当たらないことには話にならない。株価を予想するエコノミストであれば、確率50%でも許されるかもしれないが、気象予報士がエコノミストと同レベルでは困る。
 正確に予測することができないのであれば、1週間天気予報などは止めて、現実的な3日間天気予報にでも変更することをオススメしたい。3日間に変更してハズれてしまうと立つ瀬がなくなるのかもしれないが…。

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『ホームレス中学生』と『清貧の美学』

 昨晩、久しぶりにテレビドラマを観てみた。題名は『ホームレス中学生』。
 私も以前、『ホームレス中学生』の単行本は購入してはいたのだが、なかなか読む機会がなかった(他に読む本が山積み状態なので)ため、長い間、放置(「積ん読」とも言う)したままになっていた。それで結局、テレビドラマが先行することになってしまったわけだが、テレビドラマの感想を述べると、なかなかよくできたドラマだった。実話を元にしているせいもあるのだろうが、感情移入することができる爽やかなドラマだったと思う。今時(少子化社会)では珍しい兄弟愛をテーマにしているところも返って新鮮な感じがした。

 ここまでは、ごく一般的な感想で、ネットにおける言論を見ても、「感動した」「泣けた」という感想がほとんどだ。しかし、1つだけ気になったことがあった。それはラストのオチである。
 
 ラストまで爽やかな雰囲気のまま、精神が昇華する方向にドラマを締めてくれれば何も気にならなかったのだろうと思うが、最後の最後で、『清貧の美学』のようなものが前面に出ていることに妙な違和感を覚えた。気のせい(考え過ぎ)かもしれないが、なにやら、《清く貧しく生活することは素晴らしい》という隠されたメッセージらしきものが伝わってきた気がした。
 なぜ、そのように思われたのかというと、単行本を購入した時に少し気になったことがあったからかもしれない。それは何かというと、本の帯に某政治家が推薦していると書かれてあったからである。
 別に感動的な話を政治家が推薦したとしても一向に構わないのだが、政治家が矢面に立って推薦などをすると、変な誤解を招きかねないと思う。人間ドラマを推薦することは一向に構わないのだが、もし、『清貧の美学』なるものを推薦されているのであれば、少々問題であると思われるからだ。

 この本が大ベストセラーになったことは周知の通りで、麒麟の田村氏には作家としての印税が入り、中学生時代では考えられなかったような成功者になったと言える。これは微笑ましいことだ。その成功は幼少時における苦労の賜物と言えるかもしれない。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という有名な言葉もあるので、若いうちの苦労は報われるという意味で推薦しているなら別に構わない。しかし、このような極貧生活を経験することは素晴らしいという方向で話が進むと少し厄介なことになる。多くの国民が、「あんな苦労している人がいるのだから、私達も税金が上がった程度で文句を言ってはいけない、物価が少々値上がりした程度で文句を言ってはいけない、住む家があるだけまだましだ、食べるものがあるだけまだましだ」というような清貧の美学にとらわれてしまうと、国自体が貧しくなってしまうという危険性があるからだ。それは一言で言えば、「貧しさの平等」思想とも言える。
 「「貧しさの平等思想」がなぜいけないのか?」と言う意見もあるかもしれない。しかし「貧しさの平等」思想が広まっても、決して世の中は良くならないという意味では、「いけない」のである。
 
 この『ホームレス中学生』は映画化までされるそうだ。実際、テレビドラマが映画化されることや、映画がテレビドラマ化されることは、よくあることだが、この作品の場合は少々、趣きが異なる。実話のため、ストーリーが全く同じだということだ。
 テレビドラマで放送したものよりは、製作費を多くかけるのだろうが、キャストが変化したとしても、ストーリー的には昨晩観たものとほとんど同じものだろう。それを敢えて映画化するというのは、いかがなものかと思う。映画が先で、テレビドラマが後ならまだ理解できる(連続ドラマであれば、ストーリーを細かく分けることができるため)のだが、間髪入れずに映画化する意図がよく解らない。そこまでして、この物語を日本中に広めたいのだろうか?という感じも受けてしまう。
 確かに『ホームレス中学生』を観るために、多くの人が映画館に足を運ぶことになれば、景気刺激策になるかもしれないというプラスの面はあるが、逆に『ホームレス中学生』を観ることによって、その後、節約生活に励み、お金を使わなくなる方向に進んでしまうと、更に景気が悪くなるという可能性も否定できない。
 苦労話や成功話を世に広めることは一向に構わないが、苦労話や成功話を利用して国民を統制しようなどということは間違っても考えてもらいたくないものだ。まさかと思うが、そんな思惑が働いていないことを願う。
 
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『一億総結婚社会』の理想(恋愛)と現実(結婚)

 現代の日本は、年々結婚しない人が増加し、結婚しないことが不思議でもなんでもないという社会になっている。
 つい20年程前までの日本社会は、誰でも結婚することが当たり前で、結婚しない人は白眼視されるというような『一億総結婚社会』だった。そう考えると、わずか20年程で、社会が完全に反転してしまったとも言える。それが良いか悪いかはともかくとして、結婚というものだけを取り上げても、過去の常識が全く通用しない時代になってしまったと言える。今まで良いとされていたものが悪い…とは言えないまでも、必ずしも良いことだとは認識されなくなってしまった。

 かつての日本社会では、恋愛からそのまま一直線に結婚へ進むというのが一般的なコースだと思われていたが、現代では恋愛というものが必ずしも結婚を前提としたものにはなっていない。「恋愛と結婚は別物だ」という考えの人が多数を占めるのではないかと思われる。
 とは言うものの、もともと“恋愛”と“結婚”というものは別個の概念である。それは“理想”と“現実”と同じようなニュアンスのものだとも言える。
 恋愛は理想論が通用するが、結婚は本来、理想論だけではなく現実論も必要なものだ。本来、経済的な支えなくして結婚生活は成り立たないものであるはずだが、その常識が以前の日本では通用しなかった。誰も彼もが結婚し、無事に結婚生活が営めるということが何の疑いも持たれることなく固く信じられていた。いや、信じる信じないに関係なくそれが運良く実現されていたとも言える。しかし、時代の変化によって、その“結婚信仰”が実は非常識(?)なことだったということに多くの人々が気付いてしまった。

 こんな身も蓋もないことを書くと、どこかから批判の声が聞こえてきそうだが、あくまでもこれは現実論だ。お金が無いのに結婚して子供をもうけて、未来永劫、理想的な生活を営み続けていくことは不可能なことだということを率直に述べているだけである。
 現実を直視することができる人であれば、私の言っていることがトンデモ論でもなければ無情論でも悲観論でもないことは理解していただけると思う。

 話を続けよう。
 最近では、「就職活動」という言葉にちなんで、「結婚活動」(略して婚活)という言葉がよく使われているそうだ。結婚も就職と同じように能動的に活動しないと勝ち取ることができないということらしい。
 しかし、ここで気を付けなければいけないことがある。
 かつての日本では就職活動して企業から内定をもらい、無事に入社できればそのまま定年まで大丈夫というような風潮だったが、現代の就職活動は、入社するまでのコースは同じであっても、その先が全く違うということだ。入社することができたとしても、いつまでその企業に勤めることができるのかは分からない。社会的な影響(倒産など)や個人的な影響(解雇など)という数々の障害物が用意されており、そのままストレートに定年(ゴール)まで勤めることは不可能に近い状況になってきている。運良く定年まで勤めることができたとしても、その先、生活に困らないだけの充分な年金が無事に支給されるという保障もない。
 「公務員だけは大丈夫だろう」という人がいるかもしれないが、おそらく近い将来、公務員も受難の時代を迎えることになるだろう。(希望的観測)
 話が少し脱線したが、結婚活動も基本的にこれと同じだと思って間違いない。就職と同じように、結婚したとしても、その後、幸せなだけの生活が待っているわけではない。昔から、人間関係的(嫁・姑関係など)に躓くということは有り得ただろうが、現代では、まず経済的に躓いてしまうケースが多い。その証拠に、経済的な理由によって生活が破綻して離婚してしまうという人は大勢いる。結婚という理想だけを夢見て勢い余って結婚し、いざ結婚生活を開始してみると、理想的な生活ではなく、普通の生活さえも成り立たないことに気が付く人もいるそうだ。
 この“離婚”というものも現代では大きなリスクとなっている。かつてのような“夫婦喧嘩して離婚するかもしれない”というリスクではなく、“離婚しても恥ずかしくないという認識を持っている”というリスクである。「結婚のゲーム化」と言えばよく解るかもしれない。

 ここで少し、かつての日本社会ではなぜ結婚することが当然だったのかを考えてみよう。現代と何がどう違うのかを考えることで、答えが少しでも明確になるかもしれない。

 以前の日本では、
 1、土地に価値があり、年々、地価が上昇していた。
 2、毎年、年齢とともに給料(賞与)が上がっていた。
 3、定期預金の利子が数%付いていた。

 学生は卒業してから企業に入社することによって、社会的な信用を得ることができた。ほとんどの企業は倒産リスクが無いに等しかったために、その信用を担保として銀行から多額のお金を借りること(ローン)も出来た。そのお金で住宅(土地)を購入すれば、年々、土地の価値が上昇し、給料も年々上昇する。貯まったお金は銀行に預けることで、さらに利子が付き、どんどん資産が増えていった。この繰り返しで、住宅環境自体もどんどん変化していった(=大きく広くなっていった)。大きくなった家には家族だけで住むには勿体ない。お嫁さんが住もうと子供が数人住もうと特に問題はない。お嫁さんを働かせる必要はなく、子供が生まれても教育費用に頭を悩ます必要もない。考えなければいけないのは子供の出来、不出来だけで事足りる。それなら取り敢えず、お見合いでもしよう、結婚でもしようということになった。

 上記は半分想像ではあるが、もしこういうケースがあったとすれば、確かに結婚することに経済的な現実論を持ち込む必要性は無かったと言えるかもしれない。小難しい現実論を考えずに理想論だけで結婚を語ることができたのかもしれない。

 逆に、現代においては、そのような状況を手にしている人間は皆無に近い。

 現代の日本では、
 1、土地の価値が下がり、年々、地価が下落している。
 2、毎年、年齢とともに給料(賞与)が上がらず、下がるケースもある。
 3、定期預金の利子が雀の涙(蟻の涙?)ほどしか付かない。

 極端な例とはいえ、全ての価値が逆転している。これだけ見事に前提がひっくり返ってしまうと、現代の人間が結婚しなくなったのは、むしろ当然の帰結と言えなくもない。結婚しなくなったのではなく、結婚できなくなったと言った方がより正確かもしれないが…。

 実際のところ、昇給があまり望めそうにない経済環境下で、物価だけが上昇していくような社会となれば、子供を作ることが極めて高リスクな賭けとなる。収入が固定されたまま、子供の養育費・教育費だけは年々増加していく。子供の成長とともに生活も困窮していくのであれば、まさに悪夢とも言える。
 現在、端から観れば幸せそうに見える新婚カップルであっても、そういったリスクとは常に隣り合わせであるということも忘れてはならない。

 かつては「子は鎹(かすがい)」と言われたそうだが、そのうち、「こんな時代に子供を産むなんて狂気の沙汰だ」と言われる日が来るのかもしれない。
 こんな身も蓋もないことを書くと、また、どこかから批判の声が聞こえてきそうだが、そんな悪夢のような国にしないためにも、国ばかりに頼ろうとせず、自立する精神が非常に重要だと言える。『お役人依存体質』という心の病を治療して、国民が健全な心を取り戻さないことには、本当に『一億総非婚社会』になってしまうかもしれない。脅しのように聞こえるかもしれないが、それが現実だと思っておいた方が賢明だろう。

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「ウナギロンダリング」よりも重要な「有害物質問題」

 新手(?)の食品偽装として、中国産ウナギ問題が話題になっている。「ウナギロンダリング」という言葉は、なかなか上手いネーミングだと感心したものの、毎度のことながら、論点が少しズレているようなので、中国産ウナギ問題の本質を考えてみたいと思う。
 
 まず、今回の魚秀による中国産ウナギは何が問題なのか? 考えられる問題点を列挙すると以下のようなものだろう。
 
 1、魚秀が消費者を騙して大儲けしていた。
 2、ウナギの産地を偽装していた。
 3、ウナギには有害物質が含まれていた。
 
 「魚秀はケシカラン!」と言っている一般消費者達は上記の1〜3のどの点が最も悪質だと思っているのだろうか? 「全部だ!」と言う人がいるかもしれないが、私は3が一番大きな問題だと思う。
 
 1の消費者を騙して大儲けするというのは食品業界だけでなく、他の業界でも大なり小なり存在している。今回の場合、騙されたと言っても消費者がウナギ自体を食べずにお金だけ奪われたというような詐欺行為の被害者になったわけではない。日本産ではなかったが、ウナギを食べたことには違いはない。安い商品を高く売られたという意味では詐欺の被害者かもしれないが、それだけであるなら、ここまで大騒ぎするほどのことではない。

 「中国産のウナギを食わされたのだから、大きな問題だ!」と言う人がいるかもしれないが、実はそうとも言えない事情がある(後述)。
 重大な問題があるとすれば、ウナギに有害物質が含まれていたことだ。つまり、「毒を食わされたのだから、大きな問題だ!」と言うべきだ。
 有害物質が含まれていることを知った上で商売を行っていたのだとすれば、それは詐欺というよりも犯罪行為だと言えるからだ。
 
 ウナギは主に東アジア(特に台湾、中国、日本)を中心に生息しているが、日本では浜名湖産が有名だ。ただ、浜名湖産と言っても、実際は養殖も行われているので、初めから全てが日本産というわけではない。市場に出回っているウナギには主に次の3種類のものがある。
 
 1、純日本産のウナギ
 2、中国産だが、出荷前に浜名湖(他にもある)に入れられた日本産(?)ウナギ
 3、純中国産(または台湾産)のウナギ
 
 では、2のハーフウナギ(?)は、どれ位の期間、浜名湖に入れられていれば、日本産に化けてしまうのかというと、驚くなかれ、たった1週間らしい。(現在は原産地表示が厳しくなったので、少しはマシになったらしいが…)

 しかし、僅か1週間で日本産になってしまうというのは問題ではないだろうか? ウナギの寿命が10年以上あることを考えると、1週間というのは、人間で言えば、単なる海外旅行みたいなものだ。日本のカップルが新婚旅行でハワイに行って泳げば、ハワイの人間になってしまうというようなものだ。
 こんな摩訶不思議なことが何の疑問も持たれる(気付かれる)ことなく罷り通っている市場で、中国産を日本産だと偽っただけで、大犯罪人のような扱いで報道するというのも考えものかもしれない。繰り返しになるが、有害物質が含まれていることを黙認していたのであれば話は別だ。
 
 というわけで、今回のウナギ偽装問題で追及すべき重大な問題点は、“産地偽装(ウナギロンダリング)問題”ではなく“有害物質問題”であるべきだ。マスコミには、その辺のところを踏まえた上で、公正な報道を行ってもらいたいものだ。

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「大きな政府」と「スタグフレーション」の類似性

 最近、「小さな政府」と「大きな政府」ではどちらが良いのか?という意見をよく見かけるようになったが、この答えは考えるまでもなく決まっている。
 “誰にとって良いのか?”という前提条件次第ではその答えは違ってくるが、国民にとっては「小さな政府」、官僚(役人)にとっては「大きな政府」と考えてほぼ間違いないと言える。
 不思議なのは、自由民主と名乗る自民党にも、民主を掲げる民主党にも、「大きな政府」派がいることだ。社民党や共産党が「大きな政府」が良いと言うならともかく、なぜ自民党や民主党に「小さな政府」が悪いという人がいるのかが解らない。
 
 今や、官僚の天下り問題が全国民的な改善すべき大問題であることを疑う人はいないと思うが、「官僚の天下りを許す」というのは、=「大きな政府を創る」ことだ。「大きな政府」というのは、平たく言えば「官の無意味な増殖」を意味している。
 民主主義社会においては、可能な限り官の領域を狭めることこそが国民の利益につながる。なぜそう言えるのかを以下に説明しよう。

 仮に従業員が100人の会社があり、その会社の中に営業、事務、生産という3つの職種があった場合を考えてみよう。そのうち、営業が30人、事務が10人、生産が60人が理想的な人員配置と仮定する。
 この会社が不況の煽りを受けて、リストラを余儀無くされた場合、人員をカットしなければならない。
 さて、ここで質問。仮に3割の人員カットをしなければならないなら、あなたはどの部署の人員をカットしますか?
 
 常識的に考えれば、営業から10人、事務から5人、生産から15人位がリストラされるのが相場かもしれないが、ここでこの会社をスケールアップして、日本という巨大な会社(日本株式会社)に置き換えてみよう。
 日本株式会社の人員配置に置き換えた場合でも、理想的な人員配置は営業が30人、事務が10人、生産が60人とすると、バブル経済が崩壊して不況に突入すれば、日本株式会社もリストラしなければならない。そして実際に失われた10年において、日本株式会社は大きなリストラを行った。しかし、リストラが行われたのは、営業と生産だけで、事務はそのまま残った。言い換えると、民間企業だけがリストラを行い、役所はリストラを行わなかった。
 割合的に言うなら、営業から10人、生産から20人のリストラを行い、結果的には、営業が20人、事務が10人、生産が40人という70人体制となった。
 そして景気が少しずつ回復するたびに、新しく人員を雇うとすれば、本来であれば失われた営業と生産を増やさなければならない。しかし、どういうわけか日本株式会社では、事務も増やそうということになり、事務が20〜30人の100人体制になってしまったとすれば、果たしてどんな社会になるだろうか?
 
 事務職というのは、会社には絶対必要ではあるが、利益を生み出さない部署ということを忘れてはならない。事務職だけが際限なく増加していくような会社の行き着く先は経営破綻以外には有り得ないというリアリスティックな視点も忘れてはいけない。ここでいう事務職というのは、無論、公務員のことを指す。「大きな政府」というのは、「事務職だけが増員される会社」と考えれば解りやすいかもしれない。事務職が増え過ぎれば、利益が圧迫され、営業と生産の人達の収入も下がらざるを得なくなる。
 
 現在は、物価が上がっても収入が上がらないという悪いインフレ(スタグフレーション)が日本を襲っているかに見えるが、大きな政府になってもこれと同じようなことが起こる。官が増殖し過ぎると、コストばかりが嵩み、働けど、働けど、一向に収入が上がらなくなるという悪循環社会を迎えることになる。まさしく「大きな政府」とは「スタグフレーション」と同じ効用(?)を国民に齎すことになるのである。
 「大きな政府」×「スタグフレーション」などということになると、もはや救いようが無くなる。ここからも、現在のスタグフレーション下では、「小さな政府」を選択するしかないと言うことができる。
 
 真に国益(国民の利益)を考えている政治家であれば、迷わず「小さな政府」を選択する。では「大きな政府」を選択している政治家は国益を考えていないのか?というと、そんなことはない。彼らは、同じ国益でも“国民の利益”ではなく“国家の利益”(実質は役人達だけの利益)を優先している。つまり、「大きな政府」主義者というのは、社会主義者のことだと思えば間違いない。しかし今時、「国家あっての国民」などと言っていたのでは、いつまで経っても日本の閉塞感を拭うことはできない。思い切って「国家あっての国民」ではなく「国民あっての国家」という方向に舵取りしないことには日本が現在の不況から脱することはできないという現実を考えた方がいいかもしれない。

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