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2008年8月

スポーツオリンピックよりも重要な経済オリンピック

 一党独裁国家という理由からも当初、その実現すら危ぶまれていた北京オリンピックは無事(?)に終了した。しかし終了した後、間髪入れずに今度は中国経済悲観論がマスコミから出始めている。
 中国では2010年に上海万博も行われることになっている。日本も東京オリンピックから大阪万博までの間は景気が良かったそうなので、それに準(なぞら)えることができるのであれば、中国の好景気も今のところはそれほど変化はないかもしれない。

 話は変わって、私は今回の北京オリンピックはあまりテレビでは観ていなかった。オリンピックに対するマスコミの報道が如何にも時代遅れな感じがしたこともその理由の1つだ。
 先週、文部科学省に対する批判文を書いたところだが、舌の根も乾かぬうちに、また文部科学省から新たな政策(?)が発表された。
 今度は何かというと、オリンピックのメダル獲得のために、各国の選手育成方法を分析し選手を指導するというものだ。そのために12億5千万円もかけて「ナショナルコーチ制度」を新設するらしい。今回は、前回ほど厳しく批判するつもりはないのだが、どうも違和感を拭えない。先にも書いた通り、時代にそぐわないという感じがするからである。

2008082701 東京オリンピックの頃は、まだ冷戦時代だったということもあり、国 対 国というような戦争のような図式も成り立ったのかもしれないが、21世紀の現代にあって、国 対 国というのは、どこか国粋主義者のような感じが拭えない。現代のオリンピック出場選手達も、お国のために日の丸を背負ってオリンピックに臨んでいるわけでもないだろう。
 スポーツ選手として、世界で1位に成ることを目標にすることは良いことだと思うが、「日本」が1位になるというような目標を持つ必要性はあまり感じられない。個人競技だけでなく団体競技もあるとはいえ、選手達は全員、自分自身の目標のために競技しているのであって、別に国のために頑張っているわけではないだろう。
 ところが、マスコミが報道するオリンピック中継を観ていると、まるで戦争でも行っているかのような雰囲気が漂っている。個人としてのスポーツ祭典のはずが、国としてのスポーツ合戦になってしまっている。この古臭い国家社会主義的な報道に違和感を感じてしまうのは私だけではないと思う。

 オリンピック自体に景気を底上げするような力があれば、その報道に力を入れるのも頷けるのだが、実際には、ほとんど景気には影響しない。今の中国を見ればお解りのように、オリンピックを開催したことによって景気が良くなるというような報道は全く為されていない。オリンピックを開催したことによって景気が更に良くなるのであれば、中国経済楽観論が出てきても不思議ではないはずだ。
 同じように、2016年に東京でオリンピックを開催できたとしても、国の宣伝に莫大な費用がかかるだけで、ほとんど経済効果はないかもしれない。8年も先の不確定なことにエネルギーを費やしている暇があるのなら、現在ただ今の景気を改善することを考えた方が余程まともだと思える。

 現在の日本は、官製不況のために建築業界では倒産ラッシュが相次いでおり、業界関係者達からは悲鳴があがっている。こういった現在進行形の悪しき状況を放っておいて、8年先の有るかどうかも判らないオリンピックのメダル獲得数など、どうでもいいことのように思える。国がわざわざ音頭を取らなくても、オリンピック選手達は自分達の努力でメダルを獲得してくれるだろう。選手達にしても「国がメダル数を管理するなどは大きなお世話だ」というのが本音ではないかと思う。日本は中国のように、『金メダルを取れば一生安泰』というような国でもないのだから、国に大きな顔をされても選手達も迷惑だろう。

 私のように冷めた目でオリンピックを観戦していた人間は結構多いのではないかと思うが、いかんせん、未だに(マスコミに乗せられて)大騒ぎしている人間も多いと思う。4年に1回のスポーツ観戦でお祭り騒ぎすることに文句をつけるつもりはないのだが、もう少し自国の経済状況を考えた上で行動してもらいたいものだ。
 
 仮に経済オリンピックというものが開かれたとすれば、日本の場合、お家芸の製造業は未だ金メダルの地位にあるが、その他の金融や農業、情報技術では到底、メダル獲得には届かない。いや、オリンピックに参加できるのかどうかさえ疑わしい状態だ。なんせ、子供に携帯電話を持たせないなどというようなことを本気で考えているような国なのだから仕方がない。
 スポーツで金メダルを取ることよりも、むしろ、経済オリンピックに参加することの方が、今の日本には重要なことだろう。日本は経済オリンピックでは未だにスタート地点にも立っていない状態だ。と言うよりも、経済オリンピックに参加することを拒んでいる国だと言った方が正解かもしれないが…。

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若者がキレる構造と日本の社会構造

2008000001_2 最近、キレる若者(子供)が増えているとのことで、文部科学省は、その原因が“脳”にあるのではないか?という憶測のもとに、数十億円をかけて新たな脳の研究に取り組むらしい。

 さすがにこれには呆れた。正直言って「馬鹿げている」というのが率直な感想だ。

 キレる原因が脳にあるのだとすれば、なにか脳に物理的な影響を与える薬物でも摂取していない限り起こり得ない(例えばタミフルの摂取など)。
 もしそういった薬物らしきものが食物などを通して無意識に摂取されているのだとすれば、キレる現象は世界中の老若男女全てに発生するはずであり、日本の若者だけがキレるという結果にはならないはずだ。日本の若者だけが食べている食品があるというなら考えられなくもないが、そんな食物があるとはとても思えない。
 食物に原因を求めるのであれば、おそらく遺伝子レベルの問題であって、キレる若者の脳を調べるより、両親の遺伝子を調べる方がまだ理に適っていると思える。

 しかしながら、キレる原因は“脳”でも“遺伝子”でもないはずだ。キレる原因を、そんな複雑怪奇なものに求める必要性はないだろう。
 誰でも1度や2度はキレる体験をしたことがあるはずだ。例えば、仕事が山のように溜まっている場合や、自分を取り囲む悪環境が思ったように改善しないといったストレスを抱えている時などは、少なからず欲求不満状態(=半分キレた状態)になることはある。神経が高ぶっている状態や、張り詰めている状態になることは誰にでも起こり得る。キレるということは、環境におけるフラストレーションがストレスとなって突発的に爆発したようなものであって、長期間、物理的な影響を受けて起こるようなものではない。どちらかと言えば、精神的な抑圧によるものだ。

 例えば、私が本文を書いている理由も、同じようなものかもしれない。ほとんど無意味なことだと判っていながら無駄な研究に莫大な費用(=国民の税金)を費やす愚行に業を煮やして本文を書いている。つまり、この文章を書いている間は半分キレた状態にあると言っても過言ではないかもしれない。果たしてその原因は、脳にあると言えるだろうか? 言えない。その原因はストレスであり、ストレスの元になっているのは、間違った環境だ。その環境を創り出しているものの正体こそが、ストレスの元であり、キレる原因の1つだと言える。
 何が言いたいのかというと、このような馬鹿な政策を行うこと自体がストレスの原因になっているのではないかということだ。研究自体が環境を改善するために行われているというよりは、むしろ悪化させるために行われているのではないか?という疑いこそがストレスの元になっているわけだ。

 脳は単に、何が正しくて何が間違っているのかを論理的に判断する器官であって、キレる直接の原因ではない。脳にキレる原因を追求するならば、解決策は“間違いに気が付かない脳”にでもするしか方法がないということになる。これでは原因はそっちのけの本末転倒な対応策としか思えない。これが馬鹿馬鹿しくなくて一体なんだと言うのだろうか?

 大体、こんな研究を始めるのなら、国民にその是非を問うてから始めるのが筋ではないだろうか? 国民の税金によって運営される組織が、なぜ税金を納めている国民に何の断わりもなく勝手に行動し決定してしまうのだろうか?
 脳構造の研究を行って満足な結果を出すことができなかった場合、一体、誰が責任を取るというのだろうか? 毎度のように「無駄な研究でした、スミマセンでした」で済まそうと考えているのだとすれば、ただの税金(給料)泥棒とは言えないだろうか?

 仮に「“脳”を調査します」というような理由で、民間の企業が株式上場して、投資家から資金を調達すれば、赤字の垂れ流しでは済まされない。済ますことができるとすれば、それはただの詐欺でしかない。
 文部科学省の場合、税金から勝手に資金を調達することができ、しかも預った資金を返還する必要がなく利益を出す必要もない。それ以前に“資金を預っている”という認識自体も持っているかどうか疑わしい。

 公務員という存在は、国民から見れば家政婦のような存在だ。家政婦が主人になんの相談もなく勝手に仕事を増やしている様を想像してみるといい。

家政婦
 「最近、どうもお子様の精神状態が悪いようです。
  私の見たところ、脳に問題があると思われますので、
  全国の脳を扱っている病院巡りに行って来ます。」
主人
 「ああ、そう。で、その診察料金と交通費は誰が支払うのかね?」
家政婦
 「もちろん、あなたです。」

 こういうのを「余計なお世話」と言う。こんな笑い話のようなことが実際に行われているのが、今の日本の姿だ。こんな社会では、ストレスが溜まらない方がおかしい。そう思っているのは私だけではないだろう。
 結論として言えることは、脳の構造などを研究するよりも、まず日本の社会構造を研究した方がよいということだ。その方が、まともな結果を見出せるに違いない。

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現代版「風が吹けば桶屋が儲かる」

 駐車違反取り締まりが強化されたことによって、都市圏の駐車場需要が増加した。これはほんの数ヶ月前まで変化なく続いていたことだ。そしてこういった状態が続いたことによって、「駐車場経営は儲かる」という摩訶不思議な空気が日本の都市圏を覆っていた。『規制の強化』という風が吹いたことによって、新たに駐車場経営に乗り出した(目敏い)人も少なからずいたはずだ。
 しかし、最近のガソリン高によって、不必要な車の運転をする人が激減したためか、駐車場の利用が減少傾向にあるらしい。
 
 私も先日、タイムズ駐車場を利用したが、料金が2割程下がっていた。 
 駐車場経営者は《駐車料金を下げれば駐車場利用者が増える》という考えを持っているのかもしれないが、これは恐らく的外れな対処法と言えるだろう。
 そもそも一般消費者(ドライバー)達は、駐車料金が高いから駐車場を利用しないわけではない。ガソリン代が高くなったので、運転すること自体を控えているということが根本的な問題だからだ。通勤にしても、マイカーを利用せずに電車やバスを利用している人が増えているのだから、駐車場を利用する人が減るのは当然の事態であって、駐車料金を下げても、車を運転する人がそうそう増えるとは思えない。

 もともと高い駐車場料金が下がることは大いに結構なことだが、多少、料金を下げても売上は上がらないだろうことは容易に想像がつく。もし、駐車場利用者が増える場合があるとすれば、ガソリン代として上がった分を駐車場代で相殺できる場合だけだろう。走行距離にもよるが、1.5倍になったガソリン代を駐車場代で相殺しようと思えば、駐車料金を半額以下にでもしない限り、駐車場利用者が増えることはないだろう。仮に増えたとしても、値引きした分を補う(この場合は半額なので2倍の利用者が必要)だけの売上には届かないと思える。
 
 「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、「規制が出れば○○○が儲かる」というのは現代でも当てはまる。しかし「駐車規制が出れば、駐車場経営者が儲かる」という諺は、ほんの1〜2年で通じなくなってしまった。
 「原油が騰がれば、駐車場経営者は廃業する」ということにならなければよいのだが、その兆しがほんの少し見え隠れしている。駐車場として整備した土地は、駐車場としての利用価値が無くなれば、別の商売をするための土地に変わってしまう。しかし、最低限の駐車場が無ければ、駐車違反ばかりが発生し、一般消費者にとっては踏んだり蹴ったりになってしまいかねない。
 
 少し極端な意見になるかもしれないが、都市圏の駐車場などは国が無料に近い形で供給すべきものなのかもしれない。今まで散々無駄な道路を造っている暇も金もあったのに、一体なにをしてきたのか?と言いたくもなる。
 諸外国には、高速道路も無料という国がいくらでもある。高速道路に異常に高い通行料を支払わされ、駐車場の無い所に数分間、車を駐停車するだけで、罰金を支払わされる。こんな踏んだり蹴ったりの状況でも、ほとんどの人は大して文句も言わず真面目に生活している。
 お役人にとっては、日本という国はまさにパラダイスなのかもしれない。そのお役人にパラダイス改革※などはできるはずがないというのは、確かにその通りだろう。「風が吹けば桶屋が儲かる」とはお役人に対する皮肉を込めた諺なのかもしれない。「国民が困ればお役人が儲かる」、この諺だけはなかなか変わりそうになさそうだ。
 
※パラダイス改革=公務員制度改革

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スタグフレーション国家『日本』

 バブル的な様相を呈していた原油先物価格が下落に転じ、一時期、騒がれていたような深刻な不況突入感は少しは和らいだとはいえ、未だにガソリン価格は高値止まりしており、物価の方も上がったままで、この先、下がるという見通しもたっていない。
 デフレ経済がインフレを通り越し、すぐさまスタグフレーションに陥ってしまったことは非常に興味深い。インフレ経済を待望していたエコノミスト達も、この現状を観るにつけ、少しは目が覚めたのかもしれない。
 物価が下がることを目の敵にしていた人達は、《物価が上がれば景気が良くなる》という思い込みに支配され、物価が下がり続けることを「悪」だと騒いでいた。しかし、いざ物価が上がり出すと、今度は物価が上がることが「悪」だと騒いでいる。これはどういうことかと言うと、答えは極めて単純な理屈だ。

 デフレ・インフレ・スタグフレーションの関係を簡単に定義づけると以下のようになる。

 デフレ・・・・・・・・・物価が下がるが収入も下がる
 インフレ・・・・・・・・物価が上がるが収入も上がる
 スタグフレーション・・・物価が上がるが収入は下がる

 上記の定義から言えることは、デフレやインフレは一概には悪いものとは言い切れないということだ。デフレの場合は物価の下落率が収入の下落率を下回らない限り、生活水準は上がることになる。インフレの場合も同様に、物価の上昇率が収入の上昇率を上回らない限り、生活水準は上がることになる。
 しかし、スタグフレーションの場合は物価のみが上がるのだから、仮に収入が固定のままでも生活水準は下がらざるを得ない。
 不況のバロメーターというものは本来、“物価”ではなく“生活水準”で計るべきものだ。物価が上がる下がるに関係なく、生活水準が満たされているのであれば何の問題もない。つまり、物価と収入のバランスが一定していれば生活水準は維持することができるのである。物価の動向だけを見て騒いでいた人達の意見は根本的に間違っており、物価だけを見ているだけでは不況かどうかは判断できない。物価と収入のバランスが崩れることをもって不況と呼ぶのだ。この作用が逆に働けば好況と呼べることは言うまでもない。

 以上のことは、日本のワーキングプア問題にも当てはまるかもしれない。働いても働いても一向に生活水準が改善しないというワーキングプア問題の本質は、労働の質や量に対しての物の価値(物価)が釣り合っていないということができる。要するに、収入自体が低いことが問題なのではなく、物価が高過ぎることが問題なのだ。現在、年収が180万円以下の人をワーキングプアと位置づけているそうだが、その収入が低いことが問題というよりも、180万円で手に入れることのできる物が、本来の価値以上に高止まりしていることが問題なのだ。

 日本は世界的にも物価が高いことで有名な国だが、なぜ物価が高いのかというと、税金を含めた中間マージン的なものがあまりにも多く含まれ過ぎているためだ。好況時に、コスト意識を持つことなく上がってしまった物価の中には、物としての価値以外の余分な価値があまりにも付加され過ぎてしまったことによって、物価自体が本来の価値以上に高価な物になってしまっているためだ。その付加された価値の中には既得権益者達の人件費などが多く含まれていることは言うまでもない。それを維持するために、ワーキングプアと呼ばれる人達が犠牲になっている…というのは少々言い過ぎかもしれない(それ以外にも理由があるため)が、それが一因になっていることは間違いない。

 確かに、既得権益者達がその利権を手放すことによって、ワーキングプア問題は少しは改善されるだろうが、グローバル経済下におけるワーキングプア問題自体は依然として残ることになるだろう。
 日本が開かれた世界経済に素直に足を踏み入れると、ワーキングプア問題はこの程度では済まないだろう。世界中の労働者が同じ土俵の上に立てば、真っ先に地獄を見るのは日本の労働者ということになるだろう。かと言って、このまま鎖国的な経済状態を維持することも、蛇の生殺しか、茹で蛙(ゆでがえる)になることを意味している。
 政府もこのバランスを維持することに必死(?)なのかもしれないが、そのバランスを維持し続けることは極めて難しいと思う。それはデフレやインフレのバランスを保つこと以上の無理難題とも言えるだろう。そういう意味では、既に日本自体が、別の意味でのスタグフレーションに陥っていると言えるのかもしれない。

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