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2008年9月

タバコ自動販売機問題から見えた教育問題

2008092901 最近、顔認識機能付きのタバコ自動販売機が増えているらしい。当初、タスポカード認証自動販売機よりも実用性があると思われていたが、思わぬところに欠点があったようだ。その欠点とは、“いかに精巧な認識機能を備えた自動販売機であっても、人間の動作までは判断できなかった”という実に皮肉なものだった。
 その欠点は、未成年の少年達が、顔をしかめて自動販売機の前に立つと、(顔のシワを認識してか)成人と判断されてしまうということで明らかになった。これは、ほとんど笑い話とも言えるが、人間の狡賢さまでは現代の機械ではまだ判別不能であったという、笑えない現実を突き付けられた格好となった。
 
 この問題を役人流に解決するなら、「自動販売機の前では無表情でいなければならない。もし怪しいポーズを取ったと判断された場合は犯罪とする」などという、その場しのぎの対症療法になるのかもしれないが、この問題を解決する方法を見つけることは、おそらく現代では不可能だろう。
 タスポカード認証自動販売機にしても、顔認識機能付き自動販売機にしても、残念ながら、現実的なタバコの未成年者喫煙防止策にはならなかったというのが実際のところだ。未成年者喫煙防止をより完全に近づけるためには、結局、自動販売機によるタバコ販売を禁止するしか方法はないということが判明してしまったと言っても言い過ぎではないだろう。
 
 では、実際に全国のタバコの自動販売機を全て取り払ってしまえばいいのか?と言うと、良い訳がない。タバコがいくら身体に悪いといっても、タバコの自動販売機が世の中から無くなってしまえばいいのか?というと、良い訳がない。そんなことをすれば(タバコ販売関連業者の)暴動に発展しかねない。

 タバコが身体に悪いといくら説得したとしても吸う人は吸う。人体にいくら悪影響があると力説したところで、実際に病気にならなければタバコは止めない、止めれないという人が大半を占めている。
 親が子供に喫煙を勧めない限り、タバコは身体に悪いということぐらいは子供でも知っている。健康に悪いだけでなく、法律でも禁じられているにも関わらず、タバコを吸う未成年者は後を絶たない。
 タバコ自体は別にドラッグ(麻薬)ではない。1度吸う習慣がついてしまうとなかなか止めれないという意味ではドラッグに似ているが、吸うことによって犯罪性が増すという代物ではないし、止めようと思えば止めることができる。(私も止めました)
 
 タバコの煙が他人に迷惑を与えているというマイナス面は否定できないとしても、タバコを吸って被害を被るのは実は吸っている本人自身だ。喫煙者というのは、それを承知した上で(自己責任で)タバコを吸っているわけだ。無論、未成年者も例外ではない。タバコとは、自分自身の健康を破壊する危険なものであるかもしれないということが解っているにも関わらず、わざわざ自動販売機の前で顔をしかめてタバコを手に入れているわけだ。そういった人間達に「買ってはいけない」「吸ってはいけない」と言うのは、国の親心からなのだろうか? しかし、国が親の役目を果たすまでもなく、実の親が子供の健康に悪いということが解っているなら、親が子供に注意すれば済むことではないのだろうか? それでも、吸う子供がいるから国が厳重に監視しなければならないというのであれば、そもそも国がタバコを販売していること自体が間違いなのではないのか?という結論に行き着いてしまう。
 
 タバコの販売というものは、よくよく考えると矛盾している点がいくつも発見されるものだ。しかし、基本は親が子供にはタバコを吸わせないという教育を行うことが重要なのであって、それで事足りるのであれば、わざわざ未成年者の喫煙を法律で禁止せずとも、おのずとそういった社会になるはずだ。
 「親が吸っているのだから、子供に吸うなとは言えない」と言うような人もいるかもしれないが、子供の喫煙を監視するのは、国でも自動販売機でもなく、本来であれば、子供の教育を行うべき親であるはずだ。国や自動販売機に子供の教育を任せようというような甘えた社会こそが、いつまで経っても未成年者の喫煙が無くならない本当の理由ではないだろうか? タバコの未成年者喫煙問題とは、法律や機械の問題ではなくて、実は単なる親の教育の問題なのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。

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「ゴネ得」国家の揚げ足取りごっこ

2008092701_2 中山国土交通相がインタビューで語った「ゴネ得」という言葉が批判の的になっているようだ。
 この報道に対して、ここぞとばかりに毎度の揚げ足取りごっこが始まったようだ。
 しかし、こんな下らないことで言い争っていて政治家が務まるのだから、日本は平和な国だ。いつから政治家の仕事は『揚げ足取り』になったのだろうか? 揚げ足取りに必死になることができるほどに仕事が暇なのであれば、さっさと政治家など引退したらどうかと言いたくなる。それとも、現代の政治家達は揚げ足取りを行うために政治家になったとでも言うつもりだろうか?
 
 この日、中山氏が語った問題発言は以下の3つだったらしい。
 
 1、「成田空港の拡張反対はゴネ得」
 2、「日本は単一民族」
 3、「教員汚職事件は、日本教職員組合(日教組)が原因」
 
 中山氏の口から、こういう言葉が出てくるということは、良いか悪いかはともかくとして、本人自身は内心そう思ってきたということの証明に他ならない。正直に内心を吐露した人間がなぜ直ぐさま批判の対象になってしまうのだろうか? そもそも批判を始めたのは中山氏の言葉を聞いた一般市民なのだろうか?
 なにやらテレビや新聞報道では「成田はゴネ得」という言葉が失言ということになっているようだが、ネット上では中山氏の発言は的を得ているという意見も多い。
 「大分の教員汚職事件は日教組が原因」発言にしても、書籍やネット上では日本の教育が堕落した原因は日教組にあるという声は多く、知識人の半常識になっている。
 このことから言えることは、中山氏は言い過ぎたのではなく、タブ−に触れてしまったということなのだろう。しかし、言いたいことを言えない政治家というのも困ったものだ。
 
 この事件から言えることは、政治家には言論の自由が許されていないということに尽きる。無論、言論の自由とは何を言ってもよいという自由ではないが、本当のことを言っても責任を追及されるのであれば、いつまで経っても政治家は建前しか語ることができないことになってしまう。はたして建前だけを語っていて、社会が良くなるのだろうか? そんな政治に意味があるのだろうか? たとえ間違ったことを述べたとしても、そのことを条件反射的に批判するのではなく、何がどう間違っていて、何がどう正しいのかをもっと深く吟味するべきではないのだろうか?
 
 条件反射的な批判とは、裏を返せば、「臭いものには蓋」的な何の進歩も生まない言論の封殺とも言い換えられる。もっと言えば、条件反射的な批判こそが、実は「ゴネ得」とも言えるかもしれない。ゴネた者勝ちというのは、何も成田だけの問題ではない。日本社会そのものが「ゴネ得」国家になってしまっている。むしろ、そのことの方が大きな問題だ。
 真に国民に知らせなければならないことでも、役人にとってタブーなことであれば一切、口にできず、言えば、四方八方から袋だたきに遭ってしまう。こんなことを繰り返していては、いつまで経っても日本社会は良い方向には向かわないだろう。悪循環の繰り返すだけの堂々巡りにはいい加減に辟易としてしまう。まさに税金の無駄遣い、ここに極まれりである。

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交通違反における違法性と犯罪性の有無

2008092401

 現在は秋の交通安全週間らしいが、少し前に私も交通違反で減点及び罰金を支払うことになってしまった。どんな違反をしたのかというと、一方通行道を逆走してしまったというよくある交通違反なのだが、距離にして20m程の短い距離だった。
 その道路は抜け道として以前にも数回通ったことがあったのだが、途中から一方通行になっていたようで、一方通行の標識があることさえ知らなかった。車が2台通行できる道幅があることもあり、交通違反しているなどとは夢にも思っていなかった。
 
 そのことを正直に2人の警官に話してみたのだが、「交通違反をしたからには違反切符を切らなければいけない」の一点張りでまるで融通が効かない。
 別に一方通行道で事故を起こしたわけでもなく、飲酒運転していたわけでもなく、スピード違反をしたわけでも、駐車違反をして誰かに迷惑をかけたわけでもない。
「今後、通らないようにします」と言っても、全く梨の礫で取り付く島もない。
 たまたま、私の後に同じように一方通行道を通りかかった車があったのだが、その車にはバックするように指示しただけで、違反切符は切っていなかった。

 警官に「処分はどうなるのか?」と尋ねると、減点2点ということで、「罰金は?」と聞いてみると、なにやら資料をパラパラめくった挙げ句、「7000円です」ということだった。わずか3秒程、20mの進入禁止道路を通っただけで7000円の罰金?
 どうも釈然としなかった私は、警官に向かってこう言った。

 「あなた達にはノルマでもあるんですか?」と。

 警官は少し間をおいて「ありません…」と応えていたが、どうも態度がぎこちない。違反したのは私の方だが、2人の警官は終始低姿勢で「申し訳ありません」を連発して帰って行ったのだった。私は思った。「申し訳ないと思う気持ちがあるのなら、なぜ見逃すことができないのか?」と。

 ここまでは半分、愚痴ではある。窮屈なだけの法律に従うのはやるせないが、法律で決まっているのだから、言い訳しても仕方がないという気持ちは私にもある。
 しかしそれは、法律に違反したから“仕方がない”ということではなく、単に運が悪かったという意味での“仕方がない”だ。
 
 法律こそは絶対だとする法律万能主義者がいるかもしれないので、そういう人達に対してここで1つ質問しよう。
 
 「あなたは、スピード違反した人間が自首してきたという話を聞いたことがありますか?」

 そんな奇特な人物はおそらくいないだろう。そして、法定制限速度を1kmもオーバーしたことがないという人もまずいないはずだ。しかし、誰も自首などしてこない。なぜか? 本人自身に悪いことをしたという自覚(罪悪感)がないからだ。法律違反と犯罪とは全くの別物であるからだ。無論、他人に危害や迷惑をかけた場合は話は別だ。しかし、直接的にも間接的にも他人に危害や迷惑をかけていない場合の法律違反には、違法性があったとしても犯罪性は無いと言えるのだ。少なくとも人々はそう認識しているがゆえに、誰も自首などはしてこないわけだ。
 あるいは信号無視にしてもそう。右からも左からも車が来ていないという安全を確認したうえでの信号無視(歩行)を「法律違反だ」と言うような人もいないし、そんなことで自首してくるような人は誰もいない。(「法律違反だ」と言うのは警官だけ)
 つまり、交通違反を行ったとしても、法律違反に該当するのは事故を起こした場合か、警官に見つかった時だけということになる(=運が悪い)。
 
(補足)実質的な犯罪にならないからといっても、法律違反を行うことを勧めているわけではありません。基本的に「法律は守るものだ」ということを前提として述べていますので誤解のないように願います。
 
 キチンと罰金も支払った(法律上の義務は果たした)ので、この場で少し警官に言わせて(権利を行使させて)いただく。
 
 とにかく警官は、「法律で決まっていることだから」「規制されていることだから」と法律万能教の信者の如く、感情のないロボットのような態度で違反者と接しているかに見える。違反者を差別してはいけないという役人特有の前例踏襲主義も理解できなくもないが、あまりにも杓子定規過ぎるのではないかと思える。
 悪意を持った交通違反者と、何の悪意も持っていない一般庶民を同じ計りにかけて裁いてしまっていることに何の違和感も感じないのか?と言いたくなる。そもそも法律とは、悪意の無い人間を裁くためにあるのではないだろう。
 
 単に法律で決まっているというだけで、有無を言わさず、情け無用に罰金を徴収するというのは、その態度だけを見れば、場所代を要求するヤクザとほとんど変わりがないように思えてしまう。警官の場合、逃げることもできないという意味では、ヤクザより性質(たち)が悪いかもしれない。
 本当に悪いことをした人間を捕まえる姿は警官らしいと思うが、一般庶民から情け容赦なく罰金を収奪する姿は警官というよりも、ただの権力の走狗にしか見えない。
 
 警官による相次ぐ犯罪等で、“正義の味方”という警察のイメージが失墜して既に久しい。その上で、真面目な庶民から罰金ばかりを徴収していては、イメージ回復どころか、更なるイメージダウンは免れないだろう。交通違反を取り締まるのも結構だが、もう少し融通の効く、町のお巡りさん的な存在になってもらえないものだろうか? そうなってこそ、国民も税金の納め甲斐があるというものだ。

(追記)
 本文中は敢えて、法律を軽んじるような表現を用いました。なぜかと言うと、法律自体は決して完璧なものとは言えないからです。その証拠に法律というものは、これまで何度も何度も書き直されてきたものです。法律というものは、科学と同じように常に発展途上にあるものであり、これが完成という最終的な形態ではありません。科学者が現代科学を最高のものだと言っても、それは現代において最高のものだというだけで、未来には全く新しい科学が生まれ、現代科学を一笑に付す日が必ず訪れることになります。誤解を恐れずに言えば、法律もある意味でこれと似たようなものだと言うことができると思います。

 そして、法律にはグレーゾーンというものが存在します。上述した例で言えば、時速60kmを超えて走行すると法律違反ということになりますが、警察が60km以上のスピードで運転している車を片っ端から捕まえてしまえば、どういう社会になるかを想像してみてください。そんな社会になれば、一国の経済状況にも悪影響を及ぼすことは火を見るより明らかです。警察もそのことが解っているがゆえに、多少のスピード違反には目を瞑っているという現実があります。つまり、法を取り締まる側にも一定のグレーゾーンが存在しているということです。60kmというのはあくまでも目安であって、絶対不変なものではないということ。制限速度以下で走行すれば事故が発生しないと言い切れないということからも、そのことは成り立つと思います。
 しかし、だからと言って、法律に違反してもよいというわけではありません。本音で語れば、そういうものだということであって、本音を実行しろ(=法律を無視しろ)と言っているわけではありませんので、誤解のなきように。

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タバコ税収試算の行方(税収増 VS 税収減)

2008092201_4  先日、厚生労働省は、タバコが1箱1000円になった場合、9年間で9兆円の税収増が見込めるとの新たな試算を公表した。これに対して、京都大学の教授は逆に1.9兆円の減収が見込まれると発表した。厚生労働省の担当者はこの教授の意見に対して、「減収は有り得ない」と反論しているそうだ。

 厚生労働省側の試算と京大教授の試算のどちらが正しいか? ハッキリと言ってしまえば、どちらも正しいとは言えない。なぜ? 細かい数字まで出しているという点で。
 タバコが1箱1000円になった場合、数千万人の喫煙者が一人一人どのような行動に出るかなどは、おそらく人間に分かるはずがないからだ。せいぜい、増収になるか減収になるかを予想するのが関の山で、細かい数値などは分かるはずがないからだ。

 では、増収になるか減収になるかだが、これはタバコの値段にもよるだろうが、1000円ということであれば、おそらく税収はそのままか、減収に転ぶことになると思う。そういう意味では、京大教授の試算の方が正しいとは思う。

 以前にも当ブログで少し指摘したことがあるが、厚生労働省側の試算には、喫煙者と禁煙者という大きな2つの分類しか入っていないと思われる。喫煙者にもいろんな喫煙者がおり、タバコが値上がりして取る行動も人によっては様々だという細かい試算が入っていないのではないか?と思われる。細かい現象を計算に入れずに、細かい数値が出てくるのだから、どういう計算をしているのか一度お聞きしたいものだ。

 タバコが値上がりして喫煙者が取る行動には、大きく分けると次の3通りがある。

 A、タバコを止める
 B、タバコを吸う本数を減らす
 C、同じようにタバコを吸い続ける

 もちろん、これ以外にも、一度、禁煙しても再度吸い始める人もいるだろうし、人によっては様々だ。ここで一番、注視しなければならないのは、Bの吸う本数の問題だ。おそらく厚生労働省の試算にはこのBの部分が抜け落ちているか、抜け落ちていないにしても、それほど重要視していないのだろうと思われる。

 タバコが値上がりしたとしても、その分、吸う本数を減らすことができれば、タバコ代は維持することができる。1箱300円で1日30本吸っていた人であれば、1000円に値上がりしたとしても、1日に吸う本数を10本程度にすればタバコ代は変わらない。禁煙することはできないという重度のニコチン中毒者でない限り、1日に吸う本数を減らすことならできるかもしれない。そういう人から得られる税収は、全く変わらない。3分の1まで減らすことができない人がいたとしても、それほど税収が伸びるとは思えない。

 タバコの値段が3倍になった場合、単純に税収もそのまま3倍になるという条件で考えた場合、Aの場合は税収は0になる。Bの場合は、上で述べた通り、本数を減らすことができれば税収はそのままか少しだけ伸びる程度。AとBだけで考えれば、減収になる可能性の方が高いかもしれない。つまり、大幅な税収増が見込める可能性は、Cに係っていることになる。

 Cが何人になるのかは判らないので、パーセンテージで考えてみよう。
 仮にAが20%、Bが30%だった場合、Cは50%ということになる。

 分かり易くするために、100人という数字で考えてみよう。現在の喫煙者が100人いるとして、1人が1円の税金を支払って税収が100円になっていると考えてみよう。
 その場合、Aが税収0、Bが税収プラスマイナス0なので30円、Cは50人×3円で150円税金を納めることになるので、税収は合計180円となる。この数値なら、税収増になる。しかしCが50%というのは、極めてあまい試算だ。

 数値を変更してみよう。大体予想されうる数値を列記してみると、

 A(30%)+B(30%)+C(40%)=150円
 A(30%)+B(40%)+C(30%)=130円
 A(40%)+B(40%)+C(20%)=100円
 A(40%)+B(50%)+C(10%)=80円

 この数値から言えることは、Cのパーセンテージは少なくとも20%以上なければ、税収は維持できないということだ。具体的に言えば、喫煙者の5人に1人が同じペースでタバコを吸い続けなければならない。
 タバコが1000円に値上がりして、喫煙者の5人に1人が本数を落とさずにそのまま吸い続けるという試算には、少々無理があるのではないかというのが率直な感想だ。況して、大幅な税収増となると、かなり厳しいということがお分かりいただけると思う。

 しかし、厚生労働省と京大教授との間には、差し引き10兆円の差があるのだから、摩訶不思議と言うしかない。一体、どんな試算をすれば、こうも差が開くのか詳細をお聞きしたいものだ。

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結果の不平等社会のススメ

 前回、収入格差について少し述べてみたが、話の都合上、“収入格差が拡大することは悪い”とする方向でミクロ的に話を進めた。しかし、私としては、マクロ的には収入格差は別にあっても構わないと思う。なぜそう思うのかを以下に具体的に述べてみよう。
 
 例えば、100人の人間がいたとして、分けるべきパイの総額が1億円だった場合を想定すると、このパイを100人で均等に分ければ1人100万円になる。

 ここで格差が発生したとして、次のような2つのケースがあった場合を考えてみよう。
 
  A、80人が1人50万円、20人が1人300万円
  B、90人が1人50万円、10人が1人550万円

2008091901

 この場合、どちらが格差額が大きいかというと、無論、Bになる。しかし、最低収入はA・Bともにいずれも1人50万円だ。さて、この場合、あなたはどちらが悪い格差社会だと思うだろうか? おそらくどちらとも言えないはずだ。
 
 例を変えてみよう。
 
 C、80人が1人20万円、20人が1人420万円
 D、90人が1人40万円、10人が1人640万円

2008091902

 この場合、格差額はCが400万円でDが600万円なのだから、Dの方が格差が大きい社会ということになる。では、あなたはCとDのどちらが悪い格差社会だと思うだろうか?
 この場合は、Cと答える人が圧倒的多数を占めるはずだ。

 日本国中、「格差」「格差」と格差病を患ったが如く騒いではいるが、人々が悪い格差社会だと判断している基準とは、“収入における格差額”ではなく、“個人の収入額”なのである。大部分の人間が生活していくに足る収入を得ることができれば、例外的に高収入な人間がいたとしても、それほど気にならないわけだ。
(注意:ここで述べた20万円というのはあくまでも例であって、必ずしも低所得に該当するというわけではありません)

 このことから言えることは、日本の格差社会問題というのは、富める者と貧しい者との収入格差にあるのではなく、貧しい者は限りなく“低所得のまま”であることが問題なのだということが解る。言わば、「低所得社会」だ。

 収入格差などというものは100倍あろうが1000倍あろうが一向に構わない。先の例で言えば、99人が40万円で、1人が残りの6040万円(=収入格差額6000万円)を稼いだとしても問題はない。要は、生活できないような低所得者の所得額が固定されてしまっているところに問題があるのである。しかし、だからといって、高額所得者の稼いだお金を無理矢理に奪って、皆で分配するというような、たかりのような考え方も間違っている。

 この解決策が有るとすれば、それは、政治家が言うような、バラマキや分配による不公平な平等政策に有るわけではない。そんなことをしてもパイの量が増えるわけではないからだ。むしろ、福沢諭吉の言った自助努力の中にこそ有るべきだ。自助努力によってパイの数を増やそうとすることこそが重要なのだ。そのためには、努力した人間が報われる社会であることが前提となる。
 しかして、現代の日本社会はどうだろうか? はたしてそんな社会になっていると言えるだろうか? 「思う」という人がどれ位いるのか分からないが、「思わない」という人の方が多いことはおそらく間違いのないところだろう。
 
 かつて福沢諭吉はこう言った。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と。しかし、その言葉の意味するところは、「人間は生まれながらに平等である」という意味ではない。むしろ、人間は生まれながらに能力の差があると述べている。その能力の差は学問を行うことによって埋めることができるということを述べている。ゆえに『学問のすすめ』を著したわけだ。
 福沢諭吉が理想とした社会とは、自助努力によって誰もが報われる社会、つまり、結果の不平等社会なのである。それは、努力した者が正当に評価され報われるという社会であるはずで、決して何の努力もしない人間が努力した人間よりも報われるというような歪な社会ではないのである。
 格差社会というものは、その前提とする社会の在り方によっては、善とも悪とも成り得る。本物の格差社会と偽物の格差社会、はたして現代の日本はどちらの格差社会と言えるだろうか…?

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「賃金格差」と「収入格差」の混同

2008091401

 先日、厚生労働省がまとめた今年度の最低時間給賃金は、703円(全国平均値)だったということで、初めて700円台を超えたというニュースがあった。都道府県別に地域間格差はあるとはいえ、概ね650円から750円程度に収まっているらしい。この値からは最低賃金における格差なるものはそれほどあるとは思えない。しかし、役所の視点で観ると、これでも格差があるということらしく、加えて、生活保護の水準とほとんど変わらないということで、更なる最低賃金の上昇を期待しているらしい。

 しかし、ここで疑問に思うのは、最低時間給なるものが、役所の命令で簡単に上げられるものなのか?ということだ。役所の発想からは、なにやら“無理矢理に賃金を上げずに労働者から搾取している悪徳な企業経営者がいる”というような考えが浮かんでくる。まるで、“労働者は資本家から不当に搾取されている”というようなマルクス的な発想がその基になっていると言わんばかりに…。

 確かに、産業革命の時代には、そういった悪徳な資本家がいたのかもしれないし、景気の良かった頃の日本にも、そういった意地の悪い経営者がいたのかもしれない。しかし、現代の日本にあっては、もはやそのような発想はほとんど無意味に近いと思える。一部、そういった経営者も残っているのかもしれないが、大抵の中小企業経営者は、なにもイタズラして賃金を上げないわけではないだろう。おそらくギリギリのところで、時給を勘案している経営者も少なくないはずだ。ヘタに時給を上げると採算が合わずに、あえなく倒産という厳しい資金繰りに喘いでいる会社も少なくはないように思える。

 そもそも「給料とは何か?」という根本的なところから考え直す必要があるのではないだろうか?
 給料とは、仕事を通じた利益から支払われるものだ。つまり、利益が出なければ、給料は支払えない。こんなことは小学生でも解ることだが、はたしてこの国の役人達は、この単純な理屈をどれだけ理解しているのか疑わしく思える時がある。(国家が赤字経営なのだから、本来、公務員はボーナスはもとより、まともな給料も出ないという考えを持っていなければならない)

 仕事には、良い仕事もあり悪い仕事もある。誤解を招くといけないので、正しく言うと、利益の大きい仕事もあれば、利益のほとんど無い仕事もある。そして、厳しい競争社会になればなるだけ、後者の比率が大きくなる。それでも仕事が無いよりはましだということで、仕方なく薄利で仕事を受注せざるを得ないという現実がある。
 そういった仕事を受注すると、当然のことながら、労働者には効率的・合理的に仕事をこなすことが要求される。もし効率的な仕事ができないのあれば、最悪の場合は解雇、そうでない場合であっても、残業代は付かず減給はやむを得ないというのが、現代の日本の中小企業の姿だ。

 そういった現実を無視して、闇雲に「最低賃金を上げろ!」と言っても、無理な場合はある。いや、むしろ無理な場合がほとんどだろう。現在、700円でギリギリ採算が取れている労働者の賃金を無理矢理に800円にしても、その労働者が素直に喜べるわけではない。700円なら雇用されるが、800円では雇用できないというようなことになってしまえば、喜ぶどころか逆に悲しむことになる。そして、この理屈は、どこの会社に行っても適用されてしまうことになるので、その労働者は失業という闇の中を延々と徘徊しなければならなくなるかもしれない。これが果たして、良い政策だと言えるだろうか?

 例えば、少しだけお小遣いの欲しい学生や主婦が、仕事があまり出来ないという理由で、経営者から「時給500円なら雇用できます」と言われた場合を考えてみよう。
 その学生や主婦は「それでも構わない」と言うかもしれない。実際にそれだけの仕事しか出来ないという場合も有り得るので、充分に考えられるケースだ。このことからも、両者の合意さえあれば、別に時給が最低賃金を下回っても問題があるとは思えない。

 しかし、ここでその学生や主婦が「最低賃金は700円と決められているので、700円以上でないと嫌です」と言った場合はどうなるだろう? 経営者は、「ああ、そうですか、それなら他の会社を当たってください」ということになるだろう。経営者側にも労働者を選択する自由があるからだ。採算の取れない労働者を採算の合わない賃金で雇用する必要はないからだ。
 結果、この学生や主婦は、どこにも雇ってもらえず、1円も稼ぐことができなかったということになってしまいかねない。
 さて、この場合、悪いのは何だったのだろう? 
 意地の悪い経営者がいたためだろうか? もちろん違う。
 仕事の出来ない学生や主婦だったからか? これも少し違う。
 では何が問題だったのか?
 答えは、“需要と供給を無視した最低賃金の取り決め”ということになる。

 結局のところ、最低賃金を無理矢理に上げてしまえば、賃金格差の解消どころか、逆に収入格差は広がってしまいかねない。雇用されている人間達の賃金格差は縮まったとしても、雇用されない人間が大量に発生してしまえば、有職者と失業者の間に更なる収入格差が生じる可能性が高い。政府が、求めているのは、賃金格差ではなく収入格差の解消ではなかったのか?
 賃金格差を解消することで、収入格差が拡大してしまうのであれば、ナンセンス極まりない。
 分かり易く言えば、月給格差を解消することで、年収格差が拡大してしまっては、無意味であり、本末転倒と言わざるを得ない。小さな視点ではなく、もっと大きな視点で物事を見ないと、なんの解決にもならないということを現代の役人達は身をもって証明しているかのようだ。やれやれ…

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「メタミドホス米」という保護目的米(?)

 中国製冷凍ギョーザからメタミドホスが検出されたというニュースが聞かれなくなったかと思っていたら、今度は、お米からメタミドホスが検出された(メタミドホス米が販売されていた)というニュースで持ち切りになっている。
 しかし、ここで注意したいのは『事故米』だということ。三笠フーズによる事故米の不正転売が大きく取り沙汰されてはいるが、なぜ事故米なるものが市場に流通してしまったのか?ということがあまり(と言うより全く)報道されていない。
 そもそも、事故米とは何なのか?というと、食用にできない輸入米(糊などの別の用途に使用される)だ。ではなぜ食用にできないお米を輸入しなければならないのか? 食用にできない(利用価値の乏しい)事故米を必要以上に輸入していたのはなぜなのか? ここにこの問題の本質が隠されている。
 
 かつて、日本米が足りなくなった時、タイ米という細長いお米が日本米に混じって売られていたことは記憶に新しい。タイ米というのは通常、ピラフなどに使用される特殊なお米だが、それが通常のお米と混ぜられて売られていた。あるいは、タイ米のみで安価に売られてもいたが、日本の消費者からは「あまり美味しくない」という感想が聞かれた。しかし、これはむしろ当然の回答だった。なぜ美味しくないのかと言えば、わざわざ美味しくないタイ米を選んで輸入していたからだ。何のために? 日本米を美味しいお米だと思い込ませるために。つまり、平たく言えば、日本の農業(日本米)を保護するためである。

2008091201

 話を事故米に戻そう。農水省がかつてのように、事故米ではなくタイ米を輸入していれば、おそらく今回のような不正問題は発生していなかったと思われる。味も形も違うタイ米を日本米と偽って販売することは不可能だからだ。不正販売を行った三笠フーズの責任は重大ではあるが、国がある一定の割合でお米を輸入しなければならないからといって、わざわざ事故米を大量に輸入していた農水省にも大いに責任があると言える。(日本米>タイ米>事故米)という図式で考えればよく解るかもしれない。安くてマズいだけのタイ米なら不正が行われても人体には害はないが、汚染されて食えない事故米が不正に利用されると有害になる。“不正は行われるものだ”とする性悪説的な役人原理を前提に考えるなら、事故米などは必要最小限の輸入量に制限しておくべきではなかったのか。

 日本の農業を保護するために、わざわざ劣悪なお米を選別して輸入する。世界的にもべらぼうに高い日本米を消費者から遠避けないようにと最悪な事故米を輸入する(=安くて美味しいお米を国内に入れない)。そのような役所の行き過ぎた農業保護(実は自己保身?)が今回の事件を招いた原因だと言えば言い過ぎだろうか?
 
 しかし、この問題を契機に、また、農水省内に新しい管理機関でも創設されるのではないかと危惧される。問題の本質を追求せずにそんな無駄な機関を創設しても、ただのイタチゴッコにしかならない。
 原因を作っている張本人だと思われる機関が、自らを省みることなく、その内部に新たな機関を創設する。これではある意味『盗人に追い銭』と言えないだろうか?
 国民達も、もういい加減に騙されるのは止めにしたらどうだろうか?

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『タイタニックの悲劇』と『日本の悲劇』

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 福田総理の電撃辞任劇を契機として、自民党がお祭り騒ぎになっている。
 改革路線を放棄したかに見えた福田総理が総理を辞任したことは、日本経済にとってプラスになるのか、それともマイナスになるのか? これは意見が分かれるところだろうが、私の答えは決まっている。その答えは「どちらとも言えない」だ。
 「そんないい加減な答えなら誰でも言えるぞ!」とお叱りを受けそうだが、この「どちらとも言えない」というのは、二者択一的に“良くなるか”“悪くなるか”という意味ではない。正しくは「質問自体が無意味」という意味だ。
 なぜそう言えるのかと言うと、日本の場合、総理大臣に国政を動かすだけの充分な力が与えられているとは思えないからだ。
 昔から小学生に「日本で一番偉い人は?」と聞けば、阿吽の呼吸で「総理大臣」という言葉が返ってくるものだが、日本の総理大臣は、そんな御大層な代物ではない。むしろただの飾りのようなものだと思った方がいいかもしれない。総理大臣がそれほど立派なものなのであれば、そう簡単に辞任などはできないはずだ。ほとんど何の政策も改革も行わず1年や2年で簡単に辞任しても何の影響もないことがそのことを如実に物語っている。つまり極言すれば、国政を動かすことのできない総理であるのなら誰がなっても大した違いはないのである。

 最近、「官僚内閣制」という言葉をよく耳にするようになったが、その言葉の通り、日本では議院(国会)ではなく、事実上、官僚が国政を牛耳っている。如何に優秀な人物が総理大臣になったとしても、国政を操ることができず、逆に官僚の操り人形と化してしまう。
 
 「構造改革」という言葉の本当の意味は、この倒錯した構造を改革することであるはずなのだが、どういうわけか日本では小泉総理によって構造改革が為されたということになってしまっている。規制緩和を行ったことが構造改革を行ったことだと曲解している人も大勢いるように見える。その最たるものが「小泉構造改革によって格差が生まれた」という曲解だ。しかし、残念ながら小泉総理が行ったことは真の構造改革ではなく『小構造改革』だった。規制緩和にしても同様、『小規制緩和』に過ぎなかった。
 格差自体は小泉総理の政策に関係なく初めから存在していた。その隠れて見えなくなっていたものが、初めて認識されるようになっただけのことである。

 政治家にできる仕事とは、限られたパイを分けるという富の再分配業務のみであって、自らお金を稼ぐ手段を持っているわけではない。お金を集めてお金を配るだけと言ってしまえば身も蓋もないが、それが現実だ。しかし、このお金を国内だけで賄おうというのが現代の日本の政治家達の姿だ。国内だけで賄えるのならそれに越したことはないだろうが、世界一物価が高く、世界一少子高齢化が進んだ国でパイの奪い合いをして一体、どうなるというのだろうか? それ以前に、お金を稼ぐ民間企業の邪魔ばかりをし、限られたパイを更に小さくしているのはどこの誰なのかと問いたい。
 現代の日本が行うべきは、世界中に有り余った遊休マネーを呼び込むことだ。ヒトもモノもカネも国内だけで賄っていくのは無理があるのだから、せめて、お金だけでも国内に入ってくるような政策を採るべきだ。それこそ、富を生み出すことができない政治家にできる唯一の価値ある仕事だとも言える。

 今日のテレビでも、これから総理大臣になろうかという人物が、「市場原理主義を否定する」「勝ち組、負け組を作らない社会を構築する」などというスローガンを掲げていた。これはもはやお笑いとしか言いようがない。少なくとも自由民主党に所属する人物の言葉とはとても思えない。「役人原理主義を貫いて、平等を目指す」と言いたいのかもしれないが、それはむしろ共産党か社民党が発言すべき言葉だ。
 現代日本の自由民主党というのは、正式には「自由民社党」と名乗った方がピッタリとくる。無論、民主党には「民社党」という名が相応しい。要するに日本には真なる意味での民主党なるものが存在していないのである。
 もちろん、自民党の中にも民主党の中にも、民のことを考えているまともな政治家はいるだろうが、党内における主義・思想が一貫しておらず、てんでバラバラのまとまりのない集団であることは否定できない。

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 日本が現在の不況を吹き飛ばすためには、既存の秩序を破ってでも、大胆な方向転換をしなければならない。氷山に向かうタイタニックの様相を呈している現代日本丸は、その舵を大きく方向転換する必要がある。しかし、その舵を握っているのが既存秩序を守ることを使命としている官僚達なのだから、どうしようもない。これぞ、まさにタイタニックの悲劇ならぬ、日本の悲劇だ。
 氷山に特攻することを止める人間がいない、そして止めることができる人間がいたとしても、その力を生かすことができないというところが日本の政治の問題点なのだ。この馬鹿な歪んだ構造を改革してこそ、真の構造改革と言えるのだが、はたしてそんなことができる人間が現れるのだろうか?

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