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2008年10月

BOOK『インフルエンザワクチンは打たないで』

2008102901 ようやく秋らしい気候になってきた。この時期の恒例の医療行事と言えば、言わずもがな、インフルエンザワクチンの予防接種(注射)であるが、今回はこれについて少し言及してみたいと思う。
 
 かくいう私も、ここ数年はインフルエンザワクチンを打っている。なぜ打っているのかと言えば、インフルエンザに感染したとしても仕事を休むわけにはいかない(代わりがいないので休めない)という気持ちがあるからだ。高熱にうなされながら会社に行くことを想像するとゾッとするので、万が一の予防のために注射を打ってきたという経緯がある。インフルエンザに感染して苦しまずに済むのであれば、ワクチン料2〜3千円は安いものだという気持ちから、自分から進んでインフルエンザワクチンを注射してきた。

 去年までの私は、よくこう言っていた。「インフルエンザワクチンを打たない人は、仕事に対する責任感が無い人だ」と。つまり、「インフルエンザに感染して仕事を休んだとしてもなんとかなる」と思っている人達だと思っていた。
 しかし、去年、インフルエンザワクチンを打った後に、医療関係の書籍を何冊か読む機会があり、現代医療に少し疑問を抱くようになった。
 
 そんなことで、今年もインフルエンザワクチンを打つべきかどうか悩んでいたのだが、まず受け身ではなく能動的に専門家の意見を参考にしてみようと思い、1冊の本を購入してみた。題名はズバリ『インフルエンザワクチンは打たないで』(母里啓子著)。ウイルスの専門家にして医学博士の書いた本であるが、この本の帯にはこう書いてある、「効きません」と。
 昨晩、少し時間があったので、秋の夜長に一気に読んでみた。読後、少なからず蒙が啓かれた思いがした。
 
 インフルエンザウイルスの歴史的な経緯とは?
 インフルエンザワクチンの製造方法とは?
 インフルエンザワクチンで防ぐことのできるインフルエンザの種類とは?
 インフルエンザワクチンを接種することによる副作用とは?
 そして、インフルエンザワクチンが効かない理由とは?
 
 こういう基本的なことを、一般の人(私も含む)はほとんど知らされていない。
 世間一般に知らされているものに、「インフルエンザウイルスには数種類があり、もしワクチンが合わなくても、症状は軽く抑えることができる」というものがある。私もこれを信じていたのだが、どうもそうではないらしいことが判った。

 この本に書いてあることが全て真実であるとすれば、インフルエンザワクチンを接種するメリットは皆無(副作用リスクを考慮すればマイナス)とも言える。ではこの本はデタラメなトンデモ本なのか?と言えば、そうは思えない。文章も非常に論理的(論旨明快)であるし整合性もある。どう疑ってみても、他人を騙そうという目的で書かれた書物とは思えない。逆に、この本に何度も登場する厚生労働省の方がはるかに怪しい。
 
 日本の医療では、お世辞にもインフォームド・コンセント(※1)が行われているとは言えない。患者は医者からの言葉をまるで神様からの御託宣の如く素直に受け入れ、自分の病気についての詳しい説明を受けようとせず、処方された薬についても、副作用などの危険性の有無を確かめようともしない。
 こう書くと、問題は医者ではなく患者の方にもあると言えるのかもしれないが、とにかく、医者と患者の間にはブラックボックス化しているものが多々あるように見受けられる。このことはインフルエンザワクチンについても当てはまる。いや、インフルエンザワクチンほど、インフォームド・コンセントが無視されているものも珍しいかもしれない。
 人々は“インフルエンザワクチンを打てば安心だ”という根拠のない思い込みだけで安易に病院の門をたたき、黙って注射を打ってもらう。これで自分だけはインフルエンザに感染せずに済む(=救われた)と安心する。しかし、その実は…
 
 ただ、薬を飲むという行為には、たとえその薬が偽物であったとしても、効果がある場合がある。「これは薬だ」を信じ込むことによって、薬でもないものが薬の役目を果たすことがある。この効果のことを、プラシーボ(またはプラセボ)効果(※2)と言う。
 インフルエンザワクチンも、仮にそれが効かないものであったとしても、注射をした本人が「絶対にインフルエンザに感染しない」と思い込むことによって、効果があるかもしれない。実際に私も去年まではそう思っていたので運良くインフルエンザに感染せずに済んでいたのかもしれない。もし、インフルエンザワクチンの予防接種を受けるメリットがあるとすれば、このプラシーボ効果を得られることだけかもしれない。

 「信じる者は救われる」「知らぬが仏」とはよく言ったものだが、インフルエンザワクチンの真実に気付いてしまった私にはもうその効果は期待できない。ではどうするか? 日々、健康に気遣い、なるべくインフルエンザに感染しないように免疫力を高める生活を送るしかなさそうだ。
 当ブログ閲覧者にも、ワクチンに依存しない健康生活をオススメします。
 
※1 インフォームド・コンセント…医療に関する十分な説明と患者の同意
※2 プラシーボ効果…薬理効果はないが、患者に心理的効果をもたらす場合があること

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『パンの早食い』から『ゆとり食事』へ(?)

2008102501

 前回、パンの早食い死亡事故について感想を述べた。基本的に今回のケースでは学校側や教師には責任が無いということを述べた。しかし、現実はどうかというと、案の定、学校側が謝罪してしまった。事故があった小学校の校長いわく「早食いを誘発する状況があった。申し訳ないことをした」ということらしい。

 おそらくこの謝罪会見を見た視聴者の大半は「えっ?なんで学校が謝るの?」と思ったに違いない。あるいはこう思ったかもしれない「毎度の建前だけの謝罪会見か…」と。謝罪する側もおそらく内心こう思っているはずだ「とにかく謝罪さえしておけば波風を立てることもない。無意味なことは解っているが、この国の教育体制ではこうするしかない」と。つまり、謝罪の目的は“世論という長い物に巻かれること”になってしまっており、決して“物事の本質を追求した上での結論”にはなっていないということだ。

 自分の子供が学校で死亡した場合、子供の両親がその責任を学校側に求める姿勢は理解できなくはないが、死亡した原因が『早食い』にあると判明したのであれば話は別だ。校長は「早食いを誘発する状況があった」と述べているが、学校や教師が早食いすることを勧めていたわけではないだろう。また、早食いをしなければならない程に給食時間が短かったわけでもないだろう。早食いすることがいけないことだというのなら、その躾けを行うべきは教師ではなく親の方だろう。そもそも小学校6年生にもなって「躾け」云々などということ自体が既におかしい。小学校6年生にもなって、そんな躾けができていなかったことに原因を求めるのであれば、それは学校の責任ではなく親の責任であることを自ら認めているのと同じことだ。

 それに、教師による生徒への体罰という名の躾けを批判してきたのは、他ならぬ保護者達ではなかったのか? 教師から子供に注意することを良しとしない教育環境を創り出したのは、一体誰だったのか?とお聞きしたいものだ。もちろん、日教組などにもその責任があるかもしれないが、モンスターペアレントという存在にもその責任があるのではないのか? どちらにせよ、責任を他に転嫁することが常態化した現代の日本の風潮にこそ問題があると言える。役人から庶民に至るまで“自ら責任を取らずに他人のせいにする”という日本全体を覆っている無責任体制こそが大きな問題だとも言える。そしてそんな誤った社会に対して警鐘を鳴らすべきマスコミが、無責任体制の一翼を担っているという滅茶苦茶な構造が出来上がってしまっている。

 例えば、飲み屋である人が周りから煽られて一気飲みを行って死亡してしまった場合、その責任は誰にあるだろうか? まともに考えれば、一気飲みを勧めた周囲の人間か、一気飲みをしてしまった本人ではないだろうか? まさか一気飲みを止めなかった飲み屋ではないだろう。酔っている人間にはアルコール中毒となって事故が発生するかもしれないと判断することができないので、一気飲みを止めなかった店側が悪いというのでは無茶苦茶だ。

 上記の“酔っている”を“躾けができていない”に置き換えてみよう。
 躾けができていない小学校6年生のパンの早食いを止めることができなかったのは、学校の責任? そんな暴論が通用するのは、本当に躾けができていない保育園児くらいのものだ。

 このまま『早食いはいけない』ということが定着してしまうと、テレビ番組の早食い競争は制作中止になるかもしれない。『ゆとり教育』ならぬ『ゆとり食事』が定着し、ますます世界の辺境国家となってしまいかねない。こんな馬鹿な建前国家をいつまでも演じていては、日本の将来は暗いと言わざるを得ない。

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『食のシンクロニシティー事件』からの教訓

2008102301 こんにゃくゼリー問題がようやく落ち着いたかと思うと、今度は給食のパンを早食いした小学生がパンをノドを詰まらせて死亡したという痛ましい事件があった。このニュースは既に皆さん、ご存知の通りだと思う。
 都合悪く(?)この新たな事件が発生したことによって、こんにゃくゼリーを擁護する意見もチラホラと出てきつつあるようだ。まるで問題提起を起こすことが目的であったかのように発生したこの事件によって、人々は少なからず冷静さを取り戻しつつあるのかもしれない。

 今回の事件で死亡したのは小学校の6年生であり、死亡した原因はパンが大きかったからではなく、パンが固かったからでもない。悪ふざけをしてパンの早食いをしたことがそもそもの原因らしい。ゆえにマスコミも“パンが悪いわけではない”ということが理解できるのか、さすがにパンを責めるような記事は書いていないようだ。しかし、責任の矛先を今度は『学校』に求めてしまっているようだ。“教師の監督不届き”というのが、事件が発生した原因だということらしい。しかし、これは全く馬鹿げていると言える。
 
 もし、「小学校6年生の早食いを監視していなかった教師が悪い」と言うのなら、「こんにゃくゼリーを食べることを監視していなかった親が悪い」と言うのと同じ理屈になってしまう。自分で判断することができる小学校6年生を監視しなければならないというのであれば、自分で判断することができない乳幼児であればなおさら監視の目が必要ということになる。このことからも、これがいかにデタラメな暴論であるかが理解できると思う。それともマスコミは「親は監視する必要はないが、教師は監視する必要がある」とでも言うのだろうか?
 
 「学校や教師が悪い」などというような意見が通るのは以下のような場合だけだ。
 
 1、物事の善し悪しを判断できない保育園児や幼稚園児の場合
 2、いじめや強制でパンを早食いさせられた場合
 3、教師が無理矢理にパンを食わせた場合
 
 考えられるのは、せいぜいこれくらいのケースだ。体育の授業でプールで溺れたとか、熱があるのに無理矢理に走らせて死亡したというのなら、教師の監督責任と言えなくもないだろうが、生徒個人が悪ふざけをして死亡してしまったのなら、それは自己責任以外の何ものでもない。死亡してしまった小学生には同情するが、どう考えても他に責任を転嫁できる事件とは思えない。
 
 今回の事件では国(野田聖子女史)はどんな判断をするのだろうか?と多くの人が注目しているようだが、こんな事件で政治家が御託宣を並べること自体が馬鹿げている。「給食はゆっくり食べましょう」「パンは小さくちぎって食べましょう」とか言うぐらいなら、小学生でも言えることだ。わざわざ政治家の御登場を願う必要などは全くない。まさか「給食ではパン食を禁止する」とは言わないだろう。
 
 こういう事件が発生した場合、小学生に限らず消費者達は誰かから指示されるまでもなく自分自身で判断できるようになるはずだ。「どんな食べ物であっても注意を怠ると命を落とす事故につながる」と。こんにゃくゼリーであろうと、お餅であろうと、パンであろうと、事故は起こるべくして起こる。誰かが注意を促したところで、ほとんど無意味に近いということに気が付くはずだ。マスコミや政治家は「そういう痛ましい事件がありました」と伝えるだけで、充分な予防策になるはずであり、それ以上に何かを求める(=規制する)必要などがあるとは思えない。
 
 そもそもマスコミや政治家は、本当に事故を防止するために騒いでいるのか?という疑問もある。穿った見方をするまでもなく、自分達の仕事(権益)を増やすためだけに騒いでいるのではないのか?と疑いたくもなる。よく言われているように『消費者庁』というような新たな省庁を創設するための理由付けのためだけに騒いでいるのではないのか?とも考えられる。そんな不謹慎なことを考えてしまいたくなるほどに、マスコミの言論や政府の対応はあまりにも常軌を逸していると言える。
 
 とにかく、偶然に起こった、この痛ましいシンクロニシティー事件(?)によって、多くの人が冷静な判断ができるようになることを願う。なぜ? これ以上、経済を停滞させないために。

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BOOK『高度経済成長は復活できる』

2008102101_2 現代の日本が不況の真っただ中にあることを疑う人はまずいない。日本が30数年前までは高度経済成長時代だったという事実はもはや、昔話になった感もある。
 日本経済は20年程前にはバブル経済を経験したものの、実体を伴わない幻の経済成長(経済膨張)だったため、一般庶民にとっては「景気が良い」というような実感は伴わなかった。つまり、日本はこの30数年間、経済が健全に成長するというような時代が存在しなかったとも言える。生まれてこのかた、“景気が良い”などという実感は持ったこともないという人も多いと思う。(よく考えると私自身も実際にサラリーマンをしていて景気が良いと実感した経験がないかもしれない)

 さて、現代の日本にあって、経済の高度成長は可能なのか? この命題に真っ向から論じた書籍を発見した。題名はズバリ『高度経済成長は復活できる』。著者は証券アナリストでもある増田悦佐氏。『国家破綻はありえない』『日本文明・世界最強の秘密 』などを書いている日本経済楽観論者の1人だ。
 
 この本では、一般的に日本の高度経済成長に終止符が打たれた事件と認識されている“石油ショック事件”とほぼ同時期に、水面下である事件が発生したために、日本の高度経済成長が終わったというスタンスをとっている。その事件とは何だったのか? それは、日本に革命家が出現したためだとしており、その革命とは、無論、社会主義革命であり、首謀者はなんと自民党の田中角栄だったという驚くべき仮説を述べている。
 
 田中角栄と言えば、『現代の今太閤』『コンピューター付きブルドーザー』『戦後最大の金権政治家』『戦後最大の名宰相』『官僚を動かすことができた唯一の民主政治家』など、実に様々な評価がなされている。良いか悪いかどちらにせよ、日本で最も巨大な影響力を持った政治家であったことだけは否定できない事実だ。
 巷に溢れている田中角栄批判本というと、大抵は金権政治批判に終始しており、あまりにも短絡的なステレオタイプ批判が多いものだが、この本は少し趣きが違う。田中角栄が革命家だったという大胆な仮説を証明するために、数々の説得力のある事例をあげて論じられている。
 
 田中角栄は自ら「反共主義者」と名乗っていたくらいなので、自分自身が日本に社会主義革命を齎した張本人だったなどとは夢にも思っていなかっただろう。そして田中角栄を応援していた人達も、まさか自分達が社会主義革命を推し進めていたことなど夢想だにしなかっただろう。しかし、弱者保護を唱った地方へのバラマキ政治の原型を創り出したことは事実であり、悪循環政治を生んでしまったことは認めざるを得ない。
 国民の幸福を願った田中角栄の目的自体は善であったのかもしれないが、結果的には日本経済のダイナミズムを失わせ、日本社会の合理化を歪めてしまったことは否定できない事実ではある。
 
 現代に視点を転じてみれば、霞が関の官僚、永田町の政治家の体たらくぶりは、目に余るものがある。国自体が不正経理を行い、平然と偽装を行い続けてきたことが、徐々に明らかになりつつある。役人自身が国民を欺き、罪を隠蔽することに躍起になっているという、どこぞの共産主義国家も真っ青な国になってしまっていることが判ってきた。多くの国民は、日本がこれほどまでにデタラメな国だったのか?と唖然としており、やり場のない怒りを蓄えつつある。
 この本は、そういったやり場のない怒りを抱えた人や、社会学的な知的好奇心を満足させたい人に是非、オススメしたい逸品だ。弱者保護論者という名の利権主義者達を容赦なく徹底的にたたき斬る(=論破する)様は実に心地が良い。

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「ぶっ壊す」発言から始まるストーリー

2008101301 こんにゃくゼリーが製造中止になったことは周知の通りだが、もう1つの事件、中山大臣の失言から始まった辞任劇も世間を賑わせた。
 この2つの事件には、大きな共通点がある。その共通点とは、“世論とは全く正反対の結果になってしまった”という共通点だ。
 既に削除されたようだが、自民党の組閣後、インターネット上で『最も期待できるのは誰か?』というようなアンケートがあった。そのアンケートで最も期待できると選任されたのは、なんと中山大臣だった。しかもこのアンケートは中山氏の失言事件後に行われたというのだから驚きだ(むしろお笑いと言った方がよいかもしれないが…)。
 中山大臣だけ、40数%と飛び抜けて高評価だったが、これは少しマズいということでアンケートは削除されてしまったらしい。与野党双方から非難を受けた中山大臣だったが、実は一般国民からは大きな支持を受けていたというのが真相のようだ。
 
 また、こんにゃくゼリーのアンケートにしても、「販売中止にするべきではない」という意見が40数%に達していた。しかし、こちらも無視され、こんにゃくゼリーは製造中止となってしまった。
 聞くところによれば、今回、こんにゃくゼリーを食べて窒息死した幼児というのは、なんと1歳半の幼児だったということで、更に驚いた。(私は3歳位と思っていた)
 1歳半の幼児が自分からこんにゃくゼリーを食べたのだろうか? もしそうでないなら、親がそのまま食べさせたのだろうか? どちらにしても、少々無理があったのではないか?というのが正直なところだ。
 
 中山大臣の「日教組をぶっ壊す」発言の方は、その後、マスコミからは、ほとんど報道がなされていないようだ。そんなことを考えつつ、この連休中に古本屋を覗いてみると、ふと目に止まった本があった。タイトルは『マンガ 日狂組の教室』。興味を引かれたので、購入し読んでみたのだが、「なるほどな…」というのが率直な感想だった。しかし、この本だけでは物足りなかったので、インターネットで日教組について調べてみると面白いことが判明した。そして、そのことからある推理が浮かんできた。
 その推理とは、「中山氏の発言は、実は自民党の民主党に対する肉を切らせて骨を断つ作戦ではなかったのだろうか?」というものだ。
 
 次の選挙戦では自民党が圧倒的不利に立たされており、もしかすると民主党が政権奪取に成功するのでは?との意見が囁かれ出していた。そんな時にタイミイグ悪く起こった中山大臣の失言事件は野党(民主党)にとってはまさに好都合で、これで自民党の敗北は決定したとの意見も聞かれるようになった。そして、逆の視点からも国民から支持を得ている中山大臣を擁護することなく否定した自民党は、もはや完全に終わったと思った人も多かった。
 しかし、もし、「日教組をぶっ壊す」発言が、中山氏のスタンドプレーではなく、自民党の作戦だったとすればどうだろう? 民主党の支持母体は、労働組合を中心とした日教組や社会保険庁だったという知られざる事実を暴露したことによって民主党のイメージを失墜させることに成功したのだとすれば? 労働組合を中心とした組織が支持母体になっているような政党であれば、望むべき改革などはできるはずがないというマイナスイメージ(というより事実)を国民に訴えることに成功したのだとすればどういう結果を招くことになるだろうか?

 しかしまあこれは単なる邪推かもしれない。現在の自民党にそこまで先を読んだ作戦が立てられると思うのは、買い被り過ぎなのかもしれない。
 しかし、重要なことは、“中山発言は国民からは支持されている”という事実だ。自民党が中山氏をどのように扱い、どのように批判しようとも、中山氏の発言は自民党にとっては逆風ではなく、追い風になっていることは確かだ。もし、「日教組をぶっ壊す」発言が、建前と本音を使い分けた自民党の作戦であったのだとすれば、「自民党をぶっ壊す」と言って大勝利した小泉総理と同じような結果を生む可能性も否定できない。
 「自民党をぶっ壊す」と「日教組をぶっ壊す」。「改革する」ではなく、「ぶっ壊す」と発言した政治家が如何なる運命を辿るのかに注目しよう。
 
 ちなみに私はノンポリ(支持する政党がない)ですので、上記文章に政治的な意図はありません。あくまでも客観的な意見です。

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甘言を弄する政治家には御注意。

2008100801_2 今朝、夢を見た。その夢は、日経平均株価が一時9000円位まで下落するのだが、その後、アッという間に11000円位まで戻すというような夢だった。
 そして、今日、自宅に帰ってみると、なんと日経平均株価が9200円まで(1000円近くも)下落していた。この有り得ないような下落ぶりには少々驚いたが、果たして今朝の夢は正夢となるのだろうか?
 
 11000円という数字は、「ミスター円」の愛称で知られる榊原英資氏が予想していた数字だ。しかし彼の場合は、確か下値の予想が11000円(10000円という説もある)ということだったので、その予想はハズレてしまったと言えるだろう。
 最近、日経平均株価が11000円を切ったということで、榊原氏はマスコミに引張り蛸のようだが、その喜びは束の間に終わってしまったようだ。11000円が9000円まで下がっては、お世辞にも予想が当たったとは言えない。それに彼の予想は、ここまでの世界的な金融危機を前提とはしていないはずで、あくまでも日本の没落を予想した数字が11000円(10000円)ということだったはずだ。
 
 さて、日経平均株価はどこまで下がるのか? これは誰にも分からない。予想すること自体が無意味と言った方がいいかもしれない。しかし、日本企業の実力から考えると、日経平均株価が1万円以下というのは、常識では考えられないような数字だ。日経平均株価が再度1万円を切るなどということを自信を持って予想していたエコノミストは皆無と言ってもいい。この数字はアメリカの金融危機に引っ張られた数字であって、本来の日本企業の実体評価額を大きく下回っているとも言える。
 とはいえ、頓珍漢な政策ばかりを繰り出し、民間企業に大迷惑をかけている日本の役人達を評価する限りにおいては、1万円割れもやむを得ないかもしれない。アメリカの金融危機も深刻な問題ではあるが、その問題が仮にクリアされたとしても、依然として日本の中の問題は残ったままだ。
 
 本日も、建築会社の新井組が民事再生法の適用申請を行った。建設業界に押し寄せている不況という名の波はとどまるところを知らず、一体この先、どこまで連鎖破綻が続くのか予想もつかない。
 よく、「企業の信用度が足りないから、銀行がお金を貸してくれない(=貸し渋り)のだ」というような意見を耳にするが、どうもピントがズレているように思う。
 銀行の貸し渋りが多くなったことは、“結果”に過ぎない。なぜ、そのような結果になったのか?ということを深く考えずして、「信用できない企業が悪い」と言うのでは筋が通らない。
 
 『耐震偽装問題』に対して過剰な建築規制を設け、そのせいで建築業界は身動きが取れなくなった。また、グレーゾーン金利を廃止したことによって、お金を借りる所さえも激減した。残った銀行は、無意味な規制のために不況に陥った建築業界に対して、「お金は貸せない」と言う。これでは、不況にならない方がおかしい。現在の日本の建築業界不況は、人為的な不況という側面の方が強い。サブプライム問題や金融危機などは、どちらかと言えば、副次的な不況原因だ。

 市場原理は万能とは言えないが、経済に対して役人が人為的に介入すると、ろくなことがない。市場原理に基づく不況は、放っておけば解決する可能性があるが、人為的に招いた不況は、その考えを改めない限り、解決する術はない。愚かな人間の傲慢な行為によって招いた不況であるのなら、その間違いを悔い改めない限り、神の見えざる手は、決して救いの手を伸べようとはしない。
 これだけの不況を迎えても、日本がこの先も役人原理主義を貫こうとするのであれば、残念ながら日本の(明るい)未来はないだろう。多くの識者はそう述べているが、政治家やマスコミ人は、「政治さえ変われば明るい未来が待っている」というような甘い誘惑に満ちた言葉を並べることしかできずにいる。
 地獄への道は善意で舗装されている。この時期、政治家の甘言には注意が必要だ。甘言を弄する政治家ではなく、苦言を呈することのできる政治家こそ、信頼するべき政治家だと言える。はたして、そんな政治家が何人いるだろうか…?

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タバコ1000円試算の盲点

2008100701 タバコが1000円になると、その後20年間で死亡者が約6万人減少するとの試算が厚生労働省から発表された。これは正確に言えば、“タバコが値上がりすれば死亡者が減少する”のではなく、“禁煙者が増加すれば死亡者が減少する”という意味である。早い話、タバコを値上げぜずとも、禁煙する人(または吸う本数を減らす人)が増えれば同じ効果があるわけだ。
 
 ここで追求するべき問題は、『タバコを如何にして止めさせることができるか』ということであり、その手段を“タバコの値上げ”だけに限定する必要性が有るのか?ということだ。タバコの値上げ以外にも禁煙者を増加させる手段があるのであれば、そちらを選択するという手もあるはずだ。そして、より重要なことは、タバコを買えないほど高価なものにすることによって、逆に何の弊害も発生しないのか?ということだ。そちらの試算は都合よく無視してしまってもいいのだろうか?

 タバコの値段を上げることによって禁煙者が増加するのであれば、逆にタバコの値段を下げると喫煙者が増加するのだろうか? 例えば、タバコを1箱100円にすれば、喫煙者は増加して死亡者も増加するのだろうか? 私が思うに、確かに死亡者は増加することになるだろうと思う。しかし、それは喫煙者が増加した結果ではなく、元々の喫煙者の吸う本数が増加しての結果だろう。
 タバコの値段が下がったからといってタバコを吸い始める人が増加すると考えるのはあまりにも短絡的発想だと思える。タバコを吸わない人は、どれだけタバコが安くなっても吸わないだろうと思う。
 では、タバコの値段が上がれば、禁煙者が増えるか?というと、確かに増えることは間違いないだろう。しかし、大抵は禁煙まではいかずに吸う本数を少なくすることになるはずだ。吸う本数が絶対的に減少するのであれば、タバコが原因で死亡する人間は減少することも間違いないだろう。
 
 ということで、タバコを値上げすれば死亡者は減る。これは確かにその通りだ。しかし、ここからが問題だ。

 よく考えると20年間で6万人ということは、1年間で3000人しかいないということになる。日本では毎年3万人以上が自殺しているらしいので、その10分の1にしか満たない。
 では、そもそも喫煙が原因で死亡している人間は毎年どれくらいいるのか? 少し古いデータになるが、ネットで調べたところ、2000年の調査では11万4000人になるらしい。
 11万4000人中3000人ということは、喫煙者の38人に1人救える計算になる。これが多いと見るか少ないと見るかは微妙なところではある。
 
 厚生労働省の試算では、
 1000円にすれば6万人減少
  700円にすれば4万4000人減少
  500円にすれば2万人減少となっている。
 
 あくまでも試算ではあるが、いずれにしても、それほど大きな効果があるとは言い難い。
 1000円であれば38人に1人
  700円であれば52人に1人
  500円であれば57人に1人が救える計算になる。
   
 この程度の効果であるのなら、わざわざ大々的な値上げを行うまでもなく、単なる禁煙運動でも事足りるのではないか?というのが率直な感想だ。繰り返しになるが、1000円にすることによって発生するマイナス要因を考えると、危険な賭けであることは否定できない。
 以前にも書いたが、税収を上げるというもう1つの目的も、果たして実現できるかどうかも疑わしい。さらに死亡者を減少させるという試算も外れてしまうと、単にタバコが大幅に値上がりしただけということになり、より殺伐とした社会になる可能性も否定できない。タバコによる肉体的な影響は緩和されたとしても、精神的には悪影響を及ぼす可能性も否定できない。
 タバコを吸う人に共通して言えることは、タバコを吸うことで一時的に精神を落ち着かせているという事情がある。タバコを吸わない人にとってタバコは百害あって一利なしだと言えるが、吸っている人にとってはタバコにはストレスを和らげるという利点もあるわけだ。しかし、タバコが高価で買えないということになると、ストレスがより溜まることになる。ストレスが病気の原因になることはよく知られたことなので、タバコが吸えないという理由から病気になる人間が出てくると、まさに本末転倒な結果となってしまう。

 結論として言えることは、タバコを値上げすることによって生じるプラス面だけでなく、マイナス面の試算をこそ、もっと入念に行うべきだということだ。もっとも、そんな複雑な試算ができればの話ではあるが…。

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こんにゃくゼリー“事故”と汚染米“事件”

2008100401 マンナンライフのヒット商品『蒟蒻畑(こんにゃくばたけ)』を食べた幼児が窒息死したことで、野田聖子消費者行政担当相はマンナンライフに対して商品を自主回収するように指示したらしい。
 ネット上では既にこの事件について、様々な意見が飛び交っている。一般消費者からの意見は、「販売中止にするべきではない」「事件が起きたのは親の責任でもある」や、「確かにノドに詰まりやすいかもしれない」「商品をもう少し小さくするべきだ」などの賛否両論が飛び交っている。しかし、マスコミを通じては、相変わらず、一方的な意見しか出ていないようだ。マスコミには、「こんにゃくゼリー」を「殺人ゼリー」に仕立てあげなければならない理由でもあるのだろうか?
 
 この事件は、罪のない幼児が死亡してしまったという意味では非常に痛ましい事故であることは確かだ。子供を不慮の事故で失った親の気持ちを考えると、こんにゃくゼリーを販売していたマンナンライフに責任を求めてしまうのは、感情的には理解できる。しかし、関係のない他人が、「マンナンライフが悪い」とか「こんにゃくゼリーは悪だ」と言うのは少し理解に苦しむ。
 
 ノドを詰まらせて窒息死するという事故は、毎年、日本中で発生している。お餅を食べて窒息死したというニュースは毎年耳にするはずだ。では、お餅を食べた幼児や老人が窒息死した場合、「お餅が悪い」「餅米を作った農家が悪い」と言うだろうか?
 「お餅とこんにゃくゼリーは別だ」と言う人がいるかもしれない。では一体何がどう違うのかを納得できるように説明できるだろうか? 誰もが納得せざるを得ない答えを用意できる人間はいないはずだ。まさか「こんにゃくゼリーを責めても、損害を被るのはマンナンライフ関係企業だけだが、お餅を責めると日本中の農家が損害を被るので責めるわけにはいかない」とでも言うのだろうか?
 これはある意味、通り魔事件におけるナイフと包丁の関係に似ている。ナイフを規制してもそれほど困らないが、包丁を規制してしまうと日本中の家庭が困ってしまうというのと同じ理屈だと言える。つまり、結局、対症療法にしかなっていないということだ。

 さて、ここで少し角度を変えた質問をしよう。
 例えば、あなたの家の近所に池があった場合、その池の周りには『子供が遊ぶと危険』というような注意書きがあるはずだ。この池で運悪く子供が溺れた死亡してしまった場合、誰が悪いと言えるだろうか?
 
 1、子供
 2、親
 3、池
 4、池の所有者
 
 上記を今回の事件に置き換えると以下のようになる。
 
 1、幼児
 2、幼児の両親
 3、こんにゃくゼリー
 4、マンナンライフ
 
 おそらくまともな神経をした人なら、3、4は選択しないはずだ。しかし、マスコミや世間では、3と4のみが悪いと言っているように見える。
 
 とは言うものの、私も「幼児や両親が悪い」とは言うつもりはない。しかし、親の注意が足りなかったことは否定できないと思う。
 こんにゃくゼリーには小さいながらも「危険」という注意書きが入っている。老人や小さな子供が食べると事故が発生する可能性があることは初めから判っていたわけだ。私も以前に食べたことがあるが、普通のゼリーよりも固く弾力性があるので、注意書きを見るまでもなく、幼児には危険であることが分かる。
 野田聖子女史は「警告表示を大きくするように」とも言ったらしいが、実際に食べたことがある人なら、わざわざ表示を大きくするまでもなく、危険であることは認識していると思う。小さな子供がいる所に“子供に危険な食べ物を置いておくことは危険だ”という認識を持っていれば、このような事故は未然に防げる可能性もある。
 
 ニュース番組で報道されていたが、実際にこんにゃくゼリーを食べて窒息死した人はこれまでにも数多くいるらしい。しかし、10歳〜60歳の間には1人もいないそうだ。
 この数字から逆に言えることは、10歳〜60歳であれば食べても問題はないということだ。わざわざ全国に出回っている商品の全てを自主回収せずとも、10歳〜60歳の人のみに限定して販売することにすれば、損害も最小限に抑えることができるはずだ。こんにゃくゼリーが致死率の高いメタミドホス入りでもない限り、こんにゃくゼリーを殺人者に結び付ける必要性は感じられない。そんなことをして、一体誰が得をするというのだろうか。
 
 テレビのコメンテーターには、「こんにゃくゼリーが悪いと言うのは正論だ」というようなトンデモ評論家がいるようだが、こういう馬鹿な詭弁評論家に騙されてはいけない。
 幼児が死亡してしまったことは確かに痛ましい。しかし、だからといって、責任の所在を民間企業にのみ追及するというのは行き過ぎだと思う。彼らは三笠フーズや農水省のような後ろめたい商売を行っていたのではなく、故意に事件を起こしたわけではない。これは“事件”ではなく“事故”なのだということを冷静に考えるべきだ。
 まかり間違っても、役所の不祥事(汚染米問題)を隠すために、民間企業の事故を殊更騒ぎ立て、スケープゴートに利用するようなことだけは避けてもらたいものだ。

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