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2008年11月

世界不況という災いから出現した『希望』

 かつての高度経済成長期では、「公務員の給料は安い」という言葉がよく聞かれたそうだが、現在ではそういった言葉は全く聞かれなくなった。逆に最近、「公務員の給料は高過ぎる」という言葉をよく耳にするようになったと感じるのは私だけではないと思う。
 現在、公務員の平均年収は700万円を超えている。大手上場企業の平均年収が600万円程と言われているので、公務員の年収は上場企業よりも高く設定されていることになる。大部分の国民が勤務している中小の民間企業の平均年収が400万円強だということを考えると、公務員と民間企業では、ほとんど2倍近い収入差があることになる。一体なぜこれほどまでの年収差が生まれたのだろうか?
 
 高度経済成長期の日本企業は年功序列制度によって、毎年、給料が自動的に上がっていく時代だった。年齢が1つ上がると同時に給料も1万円上がるというような調子だと、年収が生涯で2倍にも3倍にも変化することになる。およそ現代の常識では考えられないようなことが、過去の日本では常識と成り得た。このため、民間企業の給料は公務員以上のペースでベースアップしていった。そのために、いつしか「公務員の給料は安い」ということになってしまったのかもしれない。
 
 高度経済成長期が終焉すると、民間企業の給料はほとんど上がらなくなった。かつて2倍にも3倍にもなった給料は、せいぜい1.5倍程度にしか上がらなくなってしまった。しかし、その水面下で公務員の給料だけはマイペースで上がっていった。公務員の世界は、一度、構築されたルール(=給料が上がること)は途中で変更できないという規律のようなものが存在するため、如何に世の中が不景気であっても、どこ吹く風の如く、給料自体も自己増殖していった。そして気が付けば、安いと言われた公務員の給料は、民間企業の2倍近くにも達していた。それがこの数十年で起こった実際の出来事であったのかもしれない。
 
 もともと公務員というものは、国民に対する奉仕者であり、国家の事務員という位置付けの職業でもある。公務員というものは、富を生み出す職業ではなくて、人の役に立つための職業だとも言える。納税というものが正常に為されてこそ存在できる極めて社会的な職業でもある。つまり、民間企業の給料が下がり、国民からの納税額が減少すると、同じように縮小せざるを得ない職業でもあるわけだ。
 このことは、国民の全てが公務員になればどうなるかを考えればよく解る。もし、国民の全てが公務員になったとすると国は滅びる。これは誰にも否定できない厳然たる事実だ。ゆえに、公務員の人員数または収入額は、民間企業の景気の善し悪し、納税額によって変化しなければならない。そういう調整ができる制度が機能していなければならない。その制度は別の言い方をすれば「社会の安定装置」とも言える。
 
 この「社会の安定装置」が正常に機能してこそ、国家の危機や衰退を最小限に抑えることが可能となるが、現代の日本では周知の通り、この安全装置が正常に機能していない。正常に機能していないだけでなく、装置自体が意思を持った怪物の如く、暴走してしまっており、誰もその暴走を止めることができないという事態に陥っている。自分達の生活の糧である民間からの税金収入額を、自分達の失態によって縮小しているという暴挙にも気が付いておらず、それでも恬(てん)として恥じずに高給を貪っている。
 その姿はまさにトマス・ホッブスが説いた「リヴァイアサン」そのものであるとも言える。絶対権力を有した国家を縛るべき憲法も機能せず、絶対権力を有した国家を批判するべきマスコミも機能していない。日本がなぜいつまでも不況から脱することができないのかというと、このリヴァイアサンの暴走を誰にも止めることができないということが大きな理由の一つでもある。そして、憲法やマスコミが正常に機能していないのは、実は国民の大部分が問題意識を持たず、泰平の微睡(まどろ)みの中で惰眠(=平和ボケ)を貪ってきたことに起因している。国が今どういう状態にあるのかということが正しく理解されていないことがその大きな原因でもある。
 
 テレビ番組などで「公務員の給料をカットしろ!」と言うだけでは、一向に問題は解決しない。なぜそうしなければならないのかを多くの国民が理解し、実際に危機感を抱くことにならなければ、いつまで経ってもこのままだろう。そういう意味で、現在の世界不況は、日本国民にとってはチャンスでもある。日本社会の真の姿を理解する大きなチャンスが訪れているということこそが、この不況下で現れた、ただ一つの希望であるのかもしれない。

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「宝くじ」という名の所得分配ゲーム

2008102601 年末ジャンボ宝くじが25日に全国一斉発売された。今年は年末ジャンボ宝くじ発売30周年記念ということで、2億円が70本、1億円が140本にプラスして、「ジャンボ30年感謝賞」(100万円)というものが7000本追加されるらしい。

 私は最近、宝くじを購入することはないのだが、多くの人は「夢を買う」「買わなければ当たらない」と言って、毎年10枚〜30枚ほど購入しているらしい。
 よく知られたことではあるが、宝くじのテラ銭は50%もあるので、宝くじを買った時点で半分はハズレ券ということになる。言い換えると、初めから空クジを半分購入しているのと同じことになる。例えば、宝くじを10枚購入した人は、実質は5枚しか買ったことにはならない。(つまり1枚600円ということになる)
 ちなみにパチンコのテラ銭は10%、競馬のテラ銭は25%程度なので、いかに宝くじのテラ銭が高いかが分かると思う。国が胴元なので誰も文句は言わないが、これが民間組織であれば詐欺だと判断されて逮捕されるかもしれない。
 
 宝くじというものが、ゼロサムゲームであることを疑う人はまずいない。多くの人から集めたお金(宝くじ購入金)を当選した少数の人数で分け合うというギャンブルであることは間違いのない事実である。そして、宝くじというものを経済的な視点で見れば、「壮大な所得分配ゲーム」であるとも言える。購入した枚数によって誰もが公平に運を手に入れることができるという点では真っ当な分配ゲームと言うことができるが、テラ銭が50%もあることによって、その公平性を台無しにしてしまっている。公平ではあるが、あまりに搾取性の強いゲームであることは否定できない事実ではある。
 
 政治家が国民から税金を集めるだけ集めて、「半分のみ国民に分配します」などと言えば、その政治家は国民から袋だたきに遭うだろうが、税金を集める手法を「宝くじ」にすることで、合法的に税金を徴収することができてしまう。騙す方も騙す方だが、騙される方も騙される方だと言える。と言っても私は別に宝くじ販売を否定しているわけではない。如何に高搾取ゲームであったとしても、双方が合意の上で売買が成立しているのであれば、それで問題はない。買いたくない人にまで無理矢理に購入させるのであれば問題だが、選択の自由があるのであれば特に問題はない。 
 しかし、ここで注目すべきことは、国民に「夢」を見せることができれば、国民の消費活動を促すことができるということだ。
 たとえ、99.9%以上ハズレることが判っていたとしても、残りのほんの僅かな希望のために、人々は挙(こぞ)ってお金を使う。これほど合理性のない買い物は無いと言えるにも関わらず、我先にと、お金を使う。
 政治家達は、この現象にこそ、目を向けるべきだろう。たとえ、日本の未来が暗いということが半ば判っていたのだとしても、かすかな“希望”を国民に与えることができれば、人々はお金を使うようになるかもしれないということを。そして、その消費率を維持することができれば、本当に景気は回復するかもしれないということを。
 たとえ嘘であっても、国民の消費活動を促すことができれば、本当に景気は回復してしまう可能がある。このことを諺で「嘘から出た実」という。しかして、その場合の嘘は、「嘘も方便」ということで許されることになる。
 
 政府は『定額給付金』という名目で全国民に2兆円をバラまくなどということを言っているが、そんなお金をバラまいたところで、そのお金を使わずに貯め込むだけでは景気は良くならない。そんな無駄なことを行っている余裕があるのなら、その2兆円で国民に夢を見せる方策でも考えた方がまだましだ。
 景気というのは、“気”のものであって、国民を“その気にさせる”ことが政治家にとっての重要な仕事だとも言える。しかし、日本の政治家達を見ていると、夢を見せるというより、悪夢か幻想を見せているようにしか見えない。その辺のところも、オバマ氏と日本の政治家達の大いなる違いであるのかもしれない。
 今後、アメリカと日本のどちらが早く景気を回復させることができるかに注目しよう。その結果次第では、日本の政治家達の体たらくぶりが証明されることになる。

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BOOK『和魂米才の発想法』

2008112201 気鋭の金融コンサルタント、木村 剛氏の著書『和魂米才の発想法』を読んでみた。木村氏は竹中プランのブレインの1人であったことでも有名だが、そのせいか、「外資の手先だ」というような誤解をされ、世間の評判はあまり良くないというイメージがある。しかし私は、木村氏を日本を代表するエコノミストの1人だと捉えており、真の経済を見抜く目を持った数少ない論者であると認識している。
 
 本書『和魂米才の発想法』は、現代の日本社会を考察する上で実に示唆に富んだ内容となっている。日本の歪な資本主義を理解するには、まさに打ってつけの書物だとも言える。
 「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、武士的精神と商才を合致させた「士魂商才」を説いた。一言で言えば「恒産なくして恒心なし」という意味だが、木村氏は、「武士的精神」を「大和魂」に置き換えて「和魂」とし、お金儲けの才能を外資に学ぶというスタンスを採っている。しかし、単に(最近とみに評判の悪い)外資に学べと言っているわけではなく、日本独自の資本主義(ニッポン・スタンダード)を構築し、現代のルールなきムラ社会を打破せよと述べている。
 
 中でも、「ムラヲサ」の考察が面白い。「共同体を守ることを使命としてきたムラヲサの裏切りで、旧き良き日本資本主義は滅びる」。
 なるほど、これは実に明解な論理だ。ムラヲサの裏切りのために、従業員の不祥事や内部告発というものが数多く出てきたこととも合致している。「ムラの文化が崩壊したがゆえに、新たなルールを構築することが急務だ」というのも、まさにその通りだと思う。

 高度経済成長期の日本社会では、その時代であるがゆえに存在が許された3種の神器(年功序列・終身雇用・企業内組合)なるものが生まれた。しかし、高度成長が維持できなくなると、3種の神器はいとも容易く崩壊し、それまで会社のために滅私奉公してきた社員の士気が一気に失われることになった。「共同体」という名の会社幻想が崩壊すると、それまで“共同体を守る”という精神で動いていた社員達の善なる循環までが崩壊した。それゆえに社員達の士気を維持し続ける新たな“何か”を構築しなければ、日本資本主義の健全なる発展はないと思われる。

 その“何か”を、かつてのように会社が用意する必要はない。むしろ、個人がルールに基づいた哲学を持つことの方が重要だろう。しかしこの国では個人が目立った行動をとると“出る杭は打たれる”ように潰されてしまう。新たなルールを提唱すべき人物が現れたとしても、集団としての既存秩序を守るためだけに無駄なエネルギーが費やされてしまう。
 しかし、現代社会で主役となりつつあるのは“会社という集団”ではなく“働き手としての個人”であるという時代認識を受け入れるべき時代が到来している。“全体の発展が個人を富ます”のではなく、“個人の発展が全体を富ますことに繋がる”という逆転の発想こそが必要だとも言える。そういった新たな価値観を認めてこそ、新たなルールも策定することができるようになる。日本社会でその“何か”を構築するためには、まず、経済観念のコペルニクス的転回こそが必要なのである。
 
 「経営者がムラヲサの役割を放棄し、自分の都合の良いところだけ米国資本主義を取り入れるのはズルい」
 木村氏の口からこのような言葉が出てくることに意外性を感じる人も多いかもしれない。しかし、その意外性を感じること自体が、この本が客観的に書かれたものであることを物語っているとも言える。この本は、現代の日本資本主義を理解する上での必読書とも言える。同時に、現代の日本経済の閉塞感の正体を見破る上でもまたとない恰好の好著と言えるだろう。

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『文民統制』よりも危険な『情報統制』

2008111601 田母神論文問題がテレビ番組(サンデープロジェクト)で取り上げられたので、観てみた。他のテレビ番組では、とにかく「軍部の独走は危険だ」とか「日本のシビリアンコントロールは大丈夫か?」というような一方的な批判ばかりなので首を傾げていたのだが、ようやくマトモな意見も聞くことができたという感想を持った。
 しかし、田母神論文に肯定的な2名(志方俊之氏と潮 匡人氏)と軍事ジャーナリストの田岡俊次氏の態度が実に対照的だった。志方氏と潮氏は冷静に意見を述べているように見えたが、田岡氏の感情剥き出しの態度はお世辞にも良いとは言えず、視聴者に対してマイナスイメージを与えてしまっているように見受けられた。

 司会の田原氏いわく「ネットの世界では田母神氏は英雄扱いになっている」と言っていた。実際にネットのアンケート調査では、田母神論文は問題無しという意見が6割を占めているそうなので、民意としては「田母神氏の意見に賛成」ということなのだろう。
 田母神氏の論文が歴史認識的に正しいか間違っているかは置いておくとして、田母神氏がマスコミに対して述べていることは確かに正論であるし、筋が通っている。
 
 シビリアンコントロールというのは、『文民統制』という意味で、“国民が軍部の独走を防ぐことができる”ことを意味している。マスコミは今回の事件で、それができていないと言いたいらしいが、全く馬鹿げている。
 大体、田母神氏は「戦争を起こせ!」と言っているわけではない。単に日本の歴史認識が誤っているという意見を論文を通して述べているだけだ。仮にその論文が正しいものだったとしても戦争の肯定にはならないし、戦争に発展するわけでもない。逆に論文の内容が間違っているのであれば、どこがどう間違っているのかを指摘すればいいだけだろう。
 ならば、マスコミの仕事は、その論文の内容自体を精査し、意見を交わすことによって、歴史的な真実を追究することにこそあるはずだが、論文の内容にはほとんど触れず、形式的な無意味な批判ばかりを繰り返しているように見える。
 
 国民の大部分が「戦争責任がない」と思っている国で、「戦争責任がある」と言う人が出てくれば非難の的になるのは仕方がないかもしれないが、国民の大部分が「戦争責任がある」と思っている国で、「戦争責任がない」と言う人が出てきても非難の的となる。これはよく考えると実に可笑しな現象と言える。要するに、「自国が悪い」と言っているわけではなくて、「自国は悪くない」と褒めているわけだ。はたして、自国を褒められて、国民から非難の嵐が吹き荒れるような国が有るものなのだろうか?
 しかし、実はそんな国が存在している。どこに? ここに。この事件によって、日本が自虐国家であることだけは証明されてしまったとも言える。
 その自虐史観というものが、歴史の真実によって齎されたものなのか、それとも歴史の歪曲によって齎されたものであるのか、そのことを追究する姿勢が、現在の日本政府には無いように感じられる。まるで「日本が悪いということにしておけば問題はない」と言わんばかりに…。
 
 国会での田母神氏の証人喚問はテレビ中継されなかったが、これも国民の知る権利を無視した、およそ民主主義国家にあるまじき情報統制以外のなにものでもなかったと言える。文民統制だと騒いでいる政府やマスコミが、実は平然と情報統制を行っている。言わば、軍部の独走ではなく、国家の独走になってしまっている。そのことこそ、国民にとっては、はるかに危険なことでもある。

 本音を述べれば、田母神氏も中山氏同様、日本のタブーに触れてしまったということなのだろう。今まで、田母神氏のような意見や中山氏のような意見は、保守系の雑誌や書籍、あるいはネットの世界でしか目にすることはなかったが、なぜかテレビという大衆の目に触れる電波に乗り出してしまった。インターネットなき社会では、大衆の世論操作はいとも容易く行われたが、現代のような開かれた情報化社会では、世論操作などを行ってもすぐにバレてしまう。そして、この本音を述べる流れは止められそうもない。これらの事件は、もはや、閉ざされた社会を国民は欲していないということの証明であるのかもしれない。

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アメリカ民主党と日本民主党の大いなる違い

 米国の大統領選挙は大方の予想通り、民主党のバラク・オバマ氏が勝利した。
 マケイン氏率いる共和党にとって、都合悪く表面化したアメリカの金融危機問題は致命的であったとも言えるが、逆にオバマ氏にとってはまさに神風とも言える出来事であったのかもしれない。あるいは、彼は時代を味方に付けることができるほどの強運の持ち主だったと言えるのかもしれない。今回のアメリカ大統領選挙を観て思われることは、オバマ氏と日本の政治家達との“違い”に尽きる。オバマ氏と日本の政治家達の違いとは一体何なのだろうか?
 
 オバマ氏が今後、アメリカ経済を立て直すことができるのかどうかは未だ未知数ではある。しかしオバマ氏は、非常に演説が上手い政治家というイメージがある。そして、自分の考えを素直にストレートに述べているようにも感じられ、非常に好感度の高い政治家と言える。そして実際に理想に燃えた純粋な目をしている。その眼差しは、日本の政治家達の眼差しとは明らかに違って見える。
 
 オバマ氏は、上を(観客を)向いて自分の考えを基に演説しているが、日本の政治家は、下を(机を)向いて演説しているように見える。日本の政治家達は、作文を読んでいるだけというイメージが強く、お世辞にも理想を語っているようには見えない。
 日本の政治家達は、『言葉狩り』や『揚げ足取り』ネタにだけは鋭く目を光らせている。このため、政治家達は理想を語る以前に、いちいち言葉を選ばなければ演説もできないという窮屈な立場に置かれている。そのせいか、当たり障りのない建前しか語れない(建前しか語る気がないのかもしれないが…)という悪循環に陥っている。
 
 そんな中で、橋下知事や、中山大臣、田母神氏といった本音を語る人間達もチラホラと出てきた。しかし、本音を語った人間は、即刻退場という言論封殺まがいのことがいとも容易く為されてしまう。田母神氏はこの日本の現状に対し、「政府見解に一言も反論できないとなると北朝鮮と同じだ」と断じた。この発言もまさしく彼の本音なのだろう。公の場でこのような発言をする人物が現れたことは非常に興味深い。
 
 私は右翼でも左翼でもないので、田母神氏を持ち上げる気もなければ批判する気もない。しかし、本音を語ろうとする姿勢は素直に評価したいと思う。誤解を恐れずに言えば、建前しか語れない政治家よりは、本音を語った田母神氏の方がはるかにまともだと思う。

(注意)ここで述べた“まとも”というのは、日本の将来を憂いているという意味での“まとも”であって、「日本が侵略国家ではない」と言うことが“まとも”と言っているわけではありません。私はその時代の生き証人ではないので、その意見が正しいか間違っているかを判断する立場にはありません。
 
 田母神氏の発言を受けて、民主党の小沢氏は自民党の責任追及に余念がないようだが、そんな批判を重ねることが国民の幸福と何の関係があるというのだろうか? 仮に自民党が謝罪したとして、日本経済に何か良い影響でもあるのだろうか?
 国民から「単に選挙に有利になるためだけの批判だ」と思われるだけであれば、民主党にとってはマイナスにしかならないと思えるが、それでも建前に固執しなければならないのだろうか? はっきり言って、今回の小沢氏の批判には、国民は辟易としていると思う。

 例えば、オバマ氏が共和党員の発言に対して、このような批判演説を繰り返していれば、アメリカ国民はどう思うだろうか? オバマ氏が演説で、一国の未来ではなく、他党の批判演説ばかりを行い、夢も理想も語ることができずにいれば、今回の選挙は一体どういう結果になっていただろうか? オバマ氏が他党の揚げ足を取ることだけに目を爛々と輝かせていればどうなっていただろうか?
 小沢氏及び日本の民主党(または全政党)にはその辺のところを、よく考えてもらいたいものだ。真に政権を奪取(または保持)したいのであれば、『同じ民主党(または政治家)でもアメリカと日本では天と地ほどの開きがあると思えるのはなぜか?』ということをもっと深く考えるべきだろう。

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『不合理主義』の崩壊と『合理主義』の台頭

2008110301 アメリカの金融危機に端を発し、世界経済が不況に突入したという意見が飛び交っている。テレビでも新聞でもネットでも「恐慌」「暴落」「破綻」などという言葉がよく使用されるようになった。そして、今回の金融危機を『資本主義の崩壊』と結び付けようとしている勢力も存在しているかに観える。
 彼らはこう言う「資本主義は崩壊したので、新たなイデオロギーが必要だ」と。しかし、その新たなイデオロギーとは何を意味しているのだろうか? まさか、共産主義や社会主義に逆戻りしようと言うつもりだろうか? もし、本当にそんなことを考えている人達がいるとすれば非常に危険なことだと思う。
 
 なぜそう言えるのか? なぜなら、今回の金融危機で破綻したものとは、実は資本主義とは言えない(正確には真の資本主義とは言えない)からだ。崩壊したのは、資本主義から派生した(行き過ぎた)金融システムだけであるからだ。
 元々、資本主義というものは、目的合理化の精神というものを内包しているものだが、現在の金融システムは、そういった合理性が完全に失われていた。そのあまりにも実体とかけ離れ過ぎた金融システムのみが崩壊したのであって、資本主義自体が崩壊したわけではないからだ。
 
 例えば、最近、『空売り規制』というものが政府から発令されたが、この空売りという行為自体をよく考えればその本質が見えてくるかもしれない。
 資本主義には「投資」という行為は付き物であるが、「空売り」という行為は投資行為ではない。空売りというものは、資本主義の範疇を逸脱した架空の取引であるとも言える。良く言えば「投機」であり、悪く言えば、単なる「博打」でしかない。
 空売りというものが信用取引の部類に入るものであることは周知の通りだが、信用取引とは簡単に言えば、現金を持っていない人間であっても株式が売買できるというシステムだ。頭金に該当する一部の証拠金を用意するだけで、株式を買うことも売ることもできる。そしてレバレッジをかけることもできるため、非常にギャンブル性の高い取引であると言える。
 この空売りというものが常態化したがゆえに、株式投資はギャンブル性の高いものに変化してしまった。本来であれば、今回のような金融危機が発生したのだとしても、空売りという売買が存在していなければ、これほどまでに株式市場が暴落することはなかっただろうと思う。現物の株式を保有している投資家だけであれば、投げ売りする投資家がいたとしてもここまで下がることはなかっただろうし、また、煽られて投げ売りする人もそれほどいなかったはずだ。株式を持っていない投機家が、架空の株式を売ってくるがゆえに、株式市場は必要以上の暴落を演じることになる。そして売りが売りを呼んで、スパイラル的に暴落してしまったというのが、今回の日本の株式市場の姿であったと言えるだろう。
 「空売り規制は、自由主義経済に反している」という意見をよく耳にするが、これほどトンチンカンな意見もない。空売りという行為は、金融システムの中から生まれたものであって、もともと資本主義の中に存在していたものではないからだ。
 
 グリーンスパン氏は、自由主義が崩壊したと誤解してか、神の見えざる手は存在しなかったと思っているように見受けられるが、実は神の見えざる手が存在していたからこそ、今回の金融バブルは破綻したわけだ。市場原理という神の見えざる手が正しく機能していたがゆえに、行き過ぎた金融バブルが弾けてしまったのだ。経済の自由化が間違っていたのではなく、資本主義の無理解こそが、破綻を招いてしまった原因と考えるべきなのだ。
 
 一口に資本主義と言っても、世界中には様々な資本主義が存在しているので、アメリカの金融システムが破綻したことだけを見て「資本主義は崩壊した」というのは間違っている。
 アメリカは合理性を欠いた資本主義であり、日本は公平性を欠いた資本主義、そして中国は道徳性を欠いた資本主義、どれも完璧な資本主義とは言えない。
 日本のバブル崩壊も、民間企業にある不合理な社会主義システムが崩壊しただけであって、決して資本主義自体が崩壊したわけではなかった。アメリカの場合は、社会主義ではなく、資本主義の本来の姿を逸脱した部分(=富を生まない金融工学システム)が崩壊した。日本は土地バブルの崩壊だったが、アメリカは金融バブルの崩壊だったという違いがあるだけに過ぎない。つまり、どちらも不合理主義(=実体を伴わないバブル)が崩壊したということを意味している。
 
 資本主義というものは、本来、借金漬けでお金にまみれるような生活をすることではなく、生産を通じて生まれた価値の範囲で消費を行うという極めて合理性の高い思想が基になっている。無論、資本主義には、お金がお金を生むという利潤の考えもある。しかし、それも、生産を通じてパイを増やしていくことが前提となるのであって、単に消費だけを行うことを基にしているわけではない。
 
 自分が儲けた価値(お金)の範囲の中で生活するというのは、一般の家庭ではごく当たり前のことであり、その当たり前のことができなくなれば、破綻するのは当然のことだ。給料20万円の人が30万円分の生活を続ければ、いずれは破綻する。同じように、働いていない人が、社会保障費として税金を使い続ければ、いずれは破綻する。その両極端こそが、資本主義から外れた部分であり、現代のアメリカと日本の姿とも言える。
 
 もし世界が目指すべき新たなイデオロギーがあるとすれば、それは真なる意味での資本主義、言葉を変えて言うなら「合理主義」だ。自らが生み出した富の範囲内で生活するという独立自尊の精神こそが目標とするべきイデオロギーであるべきだろう。
 破綻しないシステムとは、実はそんな単純な当たり前のシステムのことであって、誰もが理解できないようなややこしいシステムではないのである。そして、その単純なことが証明されてしまったのが、今回のアメリカ発の金融危機の正体とも言える。
 よって、この世界不況を機に、資本主義は進化することになる可能性がある。しかし、進化するためには、資本主義の精神を理解しなければならないという条件が付いて回ることになる。資本主義の精神とは何か? それは、合理化の精神と言い換えることも可能だ。
 おそらくこの金融危機を機に、日本の中にある不合理で不公平なシステムにもメスを入れる必要性が生じてくるだろうと思う。いや、この機会を生かすことができなければ、日本経済の先行き不透明感を拭うことはできないだろう。逆に、この機会を不合理で不公平な日本システムを変える千載一遇のチャンスだと受け止めることができれば、日本経済は息を吹き返すかもしれない。しかしそれは限りなく小さな可能性であることも否定できない事実ではある。

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