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2008年12月

『ペット税』よりも重要な『ペット罰則金』の導入

2008123001 自民党の動物愛護管理推進議員連盟(会長は鳩山氏)が、『ペット税』の導入に向けた議論を近く開始するらしい。
 現在、全国の自治体に引き取られるペット数は毎年37万匹を超えている(その内34万匹が殺処分されている)が、環境省は21万匹までに制限する方針を3年前から打ち出している。早い話、殺処分されるペット数を減らすことが目的だが、財政難にあえぐ自治体は、その対策費を補うために『ペット税』というものを思い付いた(?)らしい。

 ペット税の税収は以下の3点に利用されることになっている。

 1、ペットと飼い主の特定につながる鑑札や体内埋蔵型マイクロチップの普及
 2、自治体が運営する動物収容施設の収容期間を延長するための運営費
 3、マナー向上の啓発運動費用

 一見、妥当な利用例に見える。しかし、問題は税収を如何に使用するかではなく、どういう名目でペット税を徴収するかである。そして、ペット税を導入することでペットを取り巻く環境を改善することができるかどうかである。

 報道されている記事によれば、ペットを購入する際に消費税と同じように料金に上乗せという形でペット税を徴収するらしいが、はたしてペットの購入代金が少し上がるだけで、飼い主のモラルを向上させる(=ペットを捨てないようにする)ことに繋がるのだろうか?
 私はてっきり、ペットを飼う人に毎年、ペット税を支払う義務を付加するものと思っていたのだが、どうやら、そうではないらしい。

 ペットを飼うことで毎年、ペット税を支払わなければならないということであれば、安易にペットを購入することに歯止めをかけることができるので、少しはペットを飼う人間に責任を負わすことが可能になるかもしれない。しかし、“ペットを飼う”ではなく“ペットを買う”時にのみ税金を支払うだけでは、ほとんど意味がないと思える。「高い買い物をすればペットを大事にする」というような短絡的な発想から生まれた税であれば、結果がどうなるのかも大体の察しが付いてしまう。仮に、税収が活かされたとしても“ペットを取り巻く環境はさらに悪化する”という結果を齎すことになる可能性が高いと思う。

 元々、善良なモラルを持った飼い主にはペット税などというものは必要ない。最後までキチンと面倒をみることができる飼い主であれば、タダでもらったペットであっても大事に育てることができるはずだ。そういった善良な飼い主にまでペット税(買う税、飼う税の両方)の負担を強制するというのも考えものだ。
 現在は空前のペットブームであり、子供よりもペットの方が多いというような状況だ。孤独な老人などにとって、ペットは非常に重要な存在であり、まさに家族の一員と呼ぶに相応しい存在と化している。そんなペットを必要としている人達が、経済的な理由でペットを買う(飼う)ことができなくなってしまっては本末転倒もいいところだ。
 大事なことは、“ペットを飼う人を減少させること”ではなく、“ペットを捨てる人を減少させること”だ。飼う人が減少すれば捨てる人も減少するだろうが、その割合が減少しなければ改善したとは言えない。数字が減少しただけでは、モラルが向上したことにはならない。ペット税を導入することによって、結果的にモラルが向上しなければ善なる循環は生まれない=ペットを取り巻く環境も改善しない。

 しかしながら、飼い主のモラルを向上させることは、どんな方策を取ったとしても難しいと言わざるを得ない。それなら、お役人らしく毎度のように罰則を設ければいい。ペットを捨てた人間には、電化粗大ゴミを捨てた人間と同様の罰則でも設ければいいのではないだろうか? わざわざ全ての飼い主からペット税を徴収せずとも、モラルの無い飼い主から罰則金を徴収するようにした方が得策だろう。
 「捨てられたペットから飼い主を割り出すためには、ペットの体内埋蔵型マイクロチップが必要となるのでペット税は必要だ」というような意見もあるかもしれない。しかし、それは結局、モラルが無いと言っているのと同じことだ。マイクロチップを導入したとしても飼い主のモラルが向上するわけではない。モラルが向上するのではなく、罰則を恐れるようになるだけだ。つまり、ペナルティーを科すことでしかペットを取り巻く環境を改善することは難しいということだ。

 結論として言えることは、一律平等に全ての飼い主からペット税を徴収するよりも、違反行為を行った飼い主からのみペット罰則金を徴収した方がよいということだ。そのどちらにせよ、税金(または罰則金)を徴収する無駄な省庁部門が出来ることになるだろうが、それはモラルの低下した国民の責任でもあるので、甘んじて受け入れるしかないだろう。
 逆説的な結論を述べるならば、国民のモラルが向上すれば無駄な省庁もいらなくなり、日本経済も上向くことになる。国民のモラルが低下すればするほど、無駄な省庁機関が焼け太りすることになる。つまりは、モラルの向上は景気の向上を齎すということだ。

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理容業界の攻防(3600円 vs 1000円)

2008122601  1年前に当ブログで『床屋の経済学』と題して、現代の理髪店の姿を簡単にレポート(?)してみた。基本的に、これからの理容業界は自由競争の波に逆らうことはできないという結論を述べた。しかし、最近どうもその波に逆らおうとしている勢力があるようだ。

 現在は、整髪料金が3500円程度と1000円以下という3倍以上も料金設定が違う理髪店が混在している。昔からある既存の理容店は組合が設定した基本料金3600円を維持し続け、新規参入の理容店(以下、カットサロンと述べる)はQBハウスを筆頭に速くて安いことを売りに低料金を追求し続けている。

 いくらサービスが違うといっても、さすがに料金が3倍も違ってくると、不景気の煽りもあって、自然とお客は安い方に流れていくことになる。既存店はこれら新規参入店の猛威に畏怖したのか、ついにお上に泣きついたしまったようだ。
 全理連【全国理容生活衛生同業組合連合会】は、理容店や美容室に洗髪設備の設置を義務づける条例改正を提案したそうだが、どうやら2009年4月施行の見込みで可決されそうな雲行きだ。

 大部分の店舗に水道設備を設置していないQBハウスでは、カットした髪を専用ホースで吸い取る方式を採用している。しかし全理連は「吸引では、頭髪の付着物が完全には除去されず不衛生」だということで、洗髪台の設置の義務化を請願したらしい。
 しかし、もしこんな法令が施行されると、QBハウスだけでなく全国のカットサロンが新たに出店できないという大迷惑を被ることになり、安いカットサロンを利用してきた消費者も間接的に迷惑を被ることになる。(ちなみに私は既存店を利用している)

 QBハウス等のカットサロンが、昨今の食品加工会社のように衛生上で何か問題を起こしたというならまだ理解できなくもないが、今回の場合は何も問題は発生していない。別に消費者から「不衛生だ」という苦情があったわけでもない。
 大体、消費者からの苦情などはあるわけがない。なぜ? 苦情があるなら、店を変更すればいいだけだからだ。その不衛生な店に行き続けなければならない理由がないからだ。
 消費者は自らが納得した理容店やカットサロンを選ぶことができるのだから、不衛生だと思われる店が存在すれば、誰も客が寄り付かなくなり、放っておけば市場から淘汰されることになる。このことからも、わざわざお上が衛生上の問題に口出しする必要があるとは思えない。これはどう考えても『言い掛り』か『嫌がらせ』としか思えない。そもそもカットした髪が不衛生だと言うのであれば、それは本人の問題であって、カットサロンの問題ではない。

 確かに既存の理容店を観ていると、お客が激減し気の毒に思うことはある。しかし、だからといって、消費者無視の取って付けたような理由で新規参入店の締め出しを行うというのは考えものだ。
 タクシー業界では、深夜、免許を持たない安価な料金の『白タク』が蔓延り、よく警察に摘発されているそうだが、カットサロンは無免許で商売しているわけではない。ギリギリの料金でしのぎを削って商売を行なっているだけだ。その姿勢が気に入らないというお上の勝手な都合で、後付けの法律を付け足して規制(=業界からの締め出し)を行なうなどは、お門違いも甚だしいと言える。

 それでも「どうしても既存店を保護しなければならない」と言うのであれば、逆にカットサロン側にこう言えばいい、「料金を上げてくれ」と。「料金を2000〜3000円にしてくれ」と懇願すればいい。そうするとどうなるか? 消費者の足はカットサロンから既存店に向かうか? 確かに一部は向かうかもしれないが、余程、サービスアップしない限り、既存店がお客を取り戻すことは難しいだろう。そして消費者からの苦情が殺到することも間違いないだろう。

 元々、設備の乏しいカットサロンが既存店との差を埋めるために、企業努力をすることによって為し得たサービスに対抗するためには、同程度の企業努力を伴わない限り、挽回することはできないはずだ。元々、ハンディを背負ったカットサロンが、努力の上に為し得たシステムに対抗するものが、『お上の過保護な規制』では成功するはずもあるまい。
 努力しない者が努力した者に勝るような不公平な世の中を維持することだけはしてほしくないものだ。

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『無学問のススメ』を説く文部科学省

2008121601 橋下知事の「文科省はバカ」という発言が話題となっている。
 文部科学省は、次回テストでの情報管理を徹底する方針(特定のデータを提供しないこと )を表明した。
 市町村別成績データを開示した大阪府に対しての嫌がらせ(?)とも受け取れる措置をとったためか、橋下知事がキレた恰好だ。
 
 しかしなぜ、文部科学省の役人は成績データを公表することに抵抗するのだろうか? 私が思うに、どうも文部科学省は、現状の教育システムに固執するあまり、平等教育という建前社会に依存しなければ存在価値を見出せなくなっているのではないかと思う。
 
 社会学者の山田昌弘氏の『少子社会日本』という本の中に、官僚社会では、『平等』という建前だけは絶対に崩せないということを端的に表した箇所がある。
 
『私は、1994年頃から、日本では、収入の低い男性が結婚しにくいという事実を何度も指摘してきたし、単行本(『結婚の社会学』)にも書いてきた。この事実を公表しようとすると、様々なところからストップがかかった。新聞では表現を和らげるよう求められた(例えば、収入が低い→経済的に恵まれない)。自治体はこの事実を軒並み隠そうとし、削除を求めたり、有無を言わせず報告書から削除した自治体もあった。理由は、この事実を公表すると、低収入の男性はますます結婚できなくなり、差別を助長するというものであった。政府の研究会でも、多くの委員の方は理解してくれたが、ある官僚に「大学の先生はいいな、私が山田君のようなことを発言したら首が飛ぶよ」と言われたしまった。』(山田昌弘著『少子社会日本』より)

 このエピソードからは、官僚が公の場で格差を認めるような発言をすることは御法度だということが分かる。国民の税金を如何に無駄遣いしようと、ほとんど罪を問われない官僚達が、格差発言をするだけでクビになってしまうというのは、実に驚くべきことだ。まさに彼らは、『平等』という建前を信奉することによってのみ、その職務に就くことが許されている存在であると言えるのかもしれない。要するに、彼ら官僚達は、すべからく、社会(共産)主義者でもあるということができる。
 
 建前を重んじる彼ら官僚達にとって、競争原理などというものは、およそ理解し難い価値観であるのかもしれない。いや、理解し難いのではなく、理解できたとしても受け入れることができない価値観であると言った方が正解かもしれない。
 
 文部科学省の官僚達にとって困るのは、成績データを公表することではなく、実は成績データを公表することによって、人によっては学習格差があることを証明してしまうことなのかもしれない。
 少し前に、運動会で競争格差ができるのはマズいということで、生徒が手をつないで同時にゴールインするという笑い話としか思えないようなことが実際に行われていたそうだが、まさにこれと同じ理屈で、成績データを公表したくないのかもしれない。
 
 しかし、いつまでもこういった悪平等教育のままでは、確かに橋下知事の言う通り、「国民は不幸」だと思う。現在の文部科学省の教育は、福沢諭吉の『学問のススメ』とは全く逆の教育を行っていることになる。つまりは、『無学問のススメ』になる。
 これでは、日本の教育レベルが低下するのは至極当然の結果と言える。そして格差はいつまで経っても固定されたままとなる。悪平等教育を続けなければならない理由が、“国民の教育のため”ではなく“官僚の保身のため”だというのであれば、国民は不幸以外のなにものでもない。
 
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『派遣社員制度』と『年功序列制度』の関係性

 派遣社員の派遣切り(人員削減)が問題となり、大きくクローズアップされている。そのせいか、派遣社員を擁護する立場を表明する政治家も出てきつつあるようだ。
 
 この問題は少し複雑であるためか、問題の本質を見失いがちだ。この問題は、物事を片面でなく両面から観ない限り、非常に偏った意見になってしまう。
 例えば、「派遣社員は永遠に1社で雇用するべきだ」というような不可思議な意見と、「派遣社員は正社員ではないのだから、いつカットされても仕方がない」というぶっきらぼうな意見に分かれてしまう。そのどちらも短絡的な偏った意見であることは否めない。

 21世紀になってから日本経済自体が成熟期(=低成長時代)を迎えたことに気がついた多くの企業は、仕事の一部をアウトソース(=外注)するという手段を用いるようになった。このことはもはや周知の事実であり、仕事を外注することを否定するような人はいない。今時、「仕事を外注せずに社内で行え!」とか、「仕事を外注せずに正社員を増やせ!」とか言っているような人は、極めて少数派であることは間違いないだろう。
 
 企業が正社員ではなく派遣社員を意図的に雇用しているのも、まさしく上記の「アウトソース」と同じ理由による。要するに、“企業経営におけるリスク回避”という目的のために、派遣社員制度が導入されているわけだ。
 派遣社員にすることで、人件費を削減する理由があることは言うまでもないが、もう1つ重要なことは、正社員と違って「融通が利く」という理由もある。その中には、残念ながら『仕事が無い時はいつでも解雇できる』という理由も含まれている。
 
 …と言っても、話はここで終わりではない。もう少し、この問題の原点に戻って考えてみよう。
 確かに派遣社員制度は、現在の多くの企業にとっては必要不可欠な制度となっている。派遣社員制度を利用せずに、全て正社員として雇用してしまうと、仕事が減少した時には正社員を解雇せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
 ゆえに「派遣社員制度は必要だ」と言う意見は一見正しく聞こえる。しかしそれには条件がある。
 それが正しいと言えるのは、派遣社員制度というものが本当に“企業経営のリスク回避”という目的で利用されている場合だけであって、決して“正社員の地位を守るため”という理由であってはならないということだ。
 その企業における派遣社員制度の利用目的によっては、派遣社員制度の導入は、善にも悪にもなるということを見落としてはいけない。

 しかし、多くの非正規雇用否定論者(派遣切り否定論者)は、ここを見逃している。
 単に「派遣切りは悪だ!」と感情的な意見を述べるに止まっている政治家や評論家のいかに多いことか。
 派遣切りにも様々な理由によるものが存在することを考えず、派遣社員制度というものが存在している時代的背景も社会的背景(これが1番重要)も考えない。こんなのはただの『飯事(ままごと)論議』と言える。問題の本質を考えようともせずに、「派遣切りは悪だ!」などと叫んだところで、一向に問題は改善しない。むしろ悪くなるだけだ。
 
 企業内の合理化を行った上での派遣社員制度の導入は間違いではない。しかし、企業内が不合理なままで、自らの不合理さの帳尻を合わすという目的だけで派遣社員制度を導入することは間違っている。そして企業経営の悪化における前者の派遣切りは仕方のない判断と言えるが、後者の派遣切りは、結局は手前勝手な派遣切りと批判されても仕方がない。
 具体的に言うと、年功序列制度という年長者の既得権益を維持するためだけに、派遣社員制度を導入することは間違っている。なぜなら、その歪な給与体系を見直せば、さらに多くの正社員を雇用することができるからだ。同じ理由によって、派遣切りも最小限に抑えることができるはずだからだ。
 
 この問題を1企業ではなく全国的な視点に置き換えて考えれば、派遣社員問題の本質はさらにクッキリと浮かび上がる。日本全国の既得権益者達の歪な年功序列制度というものを見直せば、多くの正規雇用者が確保できるということだ。
 私は(双方共に)自由のある派遣社員制度が悪いとは思わないが、政治家が「非正規雇用や派遣社員制度が悪い」と言うのであれば、同時に年功序列制度も否定するべきだろう。派遣切りを否定するのであれば、お役所やマスコミを中心とした歪な既得権益をこそ否定せよと言いたい。それができないのであれば、その人物は物事の本質を理解していない似非論者か、あるいはただの偽善者でしかないということだ。
 
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努力した者が報われる社会のススメ

 12月10日、国家公務員に冬のボーナスが支給された。今年度の平均支給額は69万2900円ということになっているが、この数字は管理職を除いた一般行政職員のみの平均値らしいので、実際は更に高額になると思われる。
 
 国家公務員のボーナス支給額の決定は、民間準拠方式(民間のボーナス支給額を調査した上で決定される)を採用している。「職種別民間給与実態調査」及び「国家公務員給与等実態調査」を実施し、官民較差を算出した上で、できるだけ民間企業との差がないように決定されることになっている。

 今年は世間一般の景況感も勘案してか、公務員のボーナスも一応は昨年よりは減額されたようだが、内訳をみてみると僅か3400円(0.5%)の減少にとどまっている。
 公務員のボーナス支給額が“世間一般の景況感を勘案する”ことが前提であるのであれば、僅か0.5%の減少というのはどう考えてもおかしい。ハッキリ言ってケタが違っていると言える。現在の日本の景況感を鑑みれば、最低でも5%はカットしなければ国民は納得できないだろうと思う。もっとハッキリと言うと、本来であれば50%カットでも丁度よいぐらいだろう。なぜかって? なぜなら、民間企業のボーナス支給額の(先行き)平均がその程度になると思われるからだ。これほど分かり易い基準はないだろう。
 
 お断りしておくと、私は金銭の多寡を問題にしているわけではなく、別に公務員に対して嫉妬しているわけではない。それだけの高給をもらうだけの仕事をしている人であれば、何の文句もない。実際にそれだけの仕事をしている公務員もいるだろうから、そういった人達まで批判するつもりはない。
 問題は、ボーナス額の高低ではなく、ボーナス支給額を決定するべき“基準”というものがあまりにも杜撰であり、あまりにも不合理であることだ。そしてその結果として、あまりにも不条理な社会(=不公平な社会)の姿が浮き彫りになってしまっていることこそが問題なのである。
 
 民間企業では、業績如何によってボーナス支給額は大きく異なる。そして最悪の場合はボーナス0という場合も有り得る。そういったリスクを背負って真面目に働いている一般サラリーマンのボーナス支給額に比して、全くと言っていいほどリスクを背負っていない公務員のボーナス支給額が、場合によってはその一般サラリーマンの2倍にも達しているというのは、あまりにも不公平であり、到底まともな社会の姿とは思えない。はたして本当に“基準”などというものが考慮されているのか疑わしいと言わざるを得ない。
(注意:ここで述べた「リスク」とは職務上のリスクのことではなく、給料の支給リスクのこと)

 こんな不公平社会が罷り通っているのであれば、一般サラリーマンの働く意欲が萎えてしまってもなんら不思議ではない。況して、ボーナスとはほぼ無縁の契約社員などは、「やっていられるか」というのが本音だろうと思う。
 こういった社会の歪みによって、本来、正社員として雇用されるべき人間が、非正規社員として労働に携わらなければならないという不公平な結果を招いている。もちろんそれだけが原因ではないが、大きな一因であることは間違いあるまい。
 
 努力した者が報われ、努力しなかった者は報われないという単純な理屈がこの国では通用しなくなっている。本来、収入というものは、個人の努力によって差がついてくるもののはずで、そうであってこそ、人々は努力しようという気持ちにもなれるものだ。言い換えれば、そういった公平な社会であってこそ、経済は成長し発展する。つまり、経済の成長・発展というものは、実は人間自身の成長・発展と密接に関わっているということだ。国民自らが、成長することを願わなくなってしまえば、その国の経済は衰退する。これほど単純な理屈はない。
 しかしこの国の権力者達は、学生時代に成績が良かった者だけが“努力した者”だと思っているフシがあり、社会に出てからの努力をあまりにも軽視しているように見受けられる。ゆえに公務員のみが報われる社会となっているのかもしれない。
 日本丸が、氷山のある方向ではなく、努力した者が正当に評価される社会の方向へ舵取りすることを願いたいものだ。

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『内定取消』問題から見えた『失われた15年問題』

 つい最近まで、「バブル期を超える就職超売り手市場」だと騒がれていたかと思っていると、今度は一転、再度「就職氷河期」でもやってきたかのような騒ぎになっている。そのことを象徴するものが「内定取消」という言葉だ。新聞、テレビに所狭しと「内定取消」という言葉がこだましている。
 
 学生は大体、春から夏にかけて企業から「内定通知」というものをもらうことになっている。通常、学生の方から内定を辞退しない限り、半年後にはめでたく入社という運びになるのだが、その待機期間中に企業側から内定を取り消されると、就職活動の努力が水泡と化したような気分になってしまう。実際にそう感じている人も多いと思う。
 私も転職活動中、職に就いていない空白の期間を過ごしたことがあるので、内定を取り消された学生の気持ちはある程度は理解できるし、同情も禁じ得ない。しかし、このところの「内定取消は絶対悪だ!」「内定を取り消した企業を公表しろ!」とかいうマスコミの論調には辟易としている。
 
 「企業=悪」という発想しかできない政党も相変わらず、愚にもつかない批判を行っているようだ。民主党の菅氏に至っては、「企業が内定取消をできないような法整備が必要」との見解を示しているようだが、これには呆れてものも言えない。こんな馬鹿な意見が政治家から出てくるのだから、まるで『政治ごっこ』の世界だ。
 企業が内定を取り消さなければいけなくなった原因は不況にあり、その不況原因の半分以上は、実は役人の無意味な規制強化によるところが大きい。このことからも、政治家が糾弾すべきは企業(結果)ではなく、官僚(原因)の方だと言えるが、完全に原因と結果を履き違えてしまっている。

 そもそも、企業自体も自社のイメージダウンにしかならない「内定取消」などは本来行いたくないはずだ。それでも「内定取消」を実行せざるを得ない状況に追い込まれていると考えるべきだ。
 そんな経営状態の企業に余剰人員として無理に入社させてもらっても、給料カット、ボーナスカット、おまけに仕事も無いという三重苦を経験することになるのは目に見えている。最悪、入社した途端に解雇や倒産すら有り得るかもしれない。その場合のショック(または被害)は、内定取消以上に大きなものになるかもしれない。
 
 企業が内定を取消できないような法律ができてしまうと、企業はおいそれと学生に内定通知などを出すことができなくなる。いや、むしろ、内定という制度自体が無くなってしまう可能性がある。企業は、仕事の有る時にだけ採用するいう手段を選択せざるを得なくなるだろう。それこそ、学生達にとっては悪夢のような社会かもしれない。要するにそれは、仕事の有る時にだけ採用し、仕事の無い時には誰も採用しないという、まさに派遣社員の採用制度と同じものになってしまうということだ。政府は、一方では「派遣社員を正社員に」と述べておきながら、一方では、派遣社員制度を拡張していることになる。その馬鹿さ加減に気が付くべきだろう。
 
 余計なお世話(アドバイス)かもしれないが、長い眼で考えると、「あの時、内定取消になって良かった」と思える人も実際に出てくるはずだ。「人生万事塞翁が馬」という諺もある通り、何が幸いするか分からないのが人生だ。
 大体、これからの時代は、どんな優良な企業であっても、一生安泰などということは有り得ない。国や企業が自分の人生の面倒をみてくれるような有り難い時代は既に終わったと考えた方が人生にとってはプラスだと思う。内定取消程度で、大騒ぎしていられるのも今のうちだけかもしれない。上記の理由(政府の馬鹿さ加減)によって、そうなる可能性が高いと考えた方がよいかもしれない。
 
 どうやら現在の政治家達の頭の中はバブル期のまま停止しているようだ。一昔前の“企業に入社すれば人生安泰”というような時代認識を持っていなければ、こんな馬鹿な意見が出てくるはずがない。『失われた15年』とはまさに、政治家達の頭の中が15年間思考停止していたことの証明であるのかもしれない。

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消費者団体の曲解(“追求”と“追及”)

 先週、マンナンライフのこんにゃくゼリーの製造再開の報道がなされた。マンナンライフ側は再発事故防止策として、以下の3点を実施した。

 1、外袋に大きな文字で「老人と幼児は食べないでください」と表記
 2、外袋だけでなく中身の1つ1つの容器にも警告マークを追加
 3、こんにゃく粉の割合を少なくして弾力性を低下させた

 この3点を見る限り、個人的にはこれで充分な対策だと思える。元々、老人と幼児さえ無理して食べなければ事故は起こりえないのだから、消費者さえ気を付ければ事故が再発する可能性は無いに等しい。

 しかし、案の定と言うべきか、ユニカねっと(消費者主役の新行政組織実現全国会議)という消費者団体が「事故の再発の可能性が否定できない」ということで販売の見送り声明を発表したらしい。同時に、この団体は、消費者庁関連法案の即刻審議入りを求める声明も発表しているようだが、どうも胡散臭い雰囲気が漂っている。

 ユニカねっとは、「客観的なデータに基づいて安全性が担保されない限り、安易に製造・販売を行うべきではない」と述べているそうだが、これが消費者団体を名乗る組織の台詞なのか?と疑いたくなる。一体どこまで『消費者保護』というお節介を焼いたら気が済むのかと言いたくなる。消費者を保護する姿勢はご立派だが、少しは製造者や消費者の迷惑も考えてもらいたいものだ。
 こんなのはハッキリ言って、チンピラのイチャモンの類いに過ぎず、ただの“マンナンライフいじめ”にしかなっていない。『安全性を担保する』などは、どんな食料であろうと不可能なことであり、無理な相談以外の何ものでもない。この世の中に100%安全な食料などというものは有り得ない。逆に、この団体が100%安全なものだと認めた商品で事故が発生した場合は、その責任が取れるのか?とお聞きしたいものだ。

 こんな無理難題なことを言い出すと、車もバイクも、およそ事故が起こる可能性のあるもの全てが製造も販売もできないということになってしまいかねない。こんな馬鹿な論法が通用するのであれば、フグ料理などは世の中から消えて無くなることになる。例えば、料理人のミスでフグの毒にあたった人が死亡したとすれば、全国の罪のないフグ料理屋が全て廃業に追い込まれることになる。そんな無茶苦茶なことが正しいと言えるだろうか?
 あるいは、タバコについても同じことが言える。タバコを吸って病気になる可能性がある(実際にある)のならば、タバコの製造も販売もできないはずだ。

 常識的に考えれば、ダイエット目的に製造されたこんにゃくゼリーよりも、百害あって一利なしの有害なタバコの方が規制の対象になってしかるべきはずだ。タバコを吸うことに対しては個人の自己責任(事故責任?)を適用する反面、なぜ、こんにゃくゼリーには自己責任を適用せずに、国(消費者団体)が管理しようとするのか?

 タバコは置いておくとしても、お餅・おにぎり・だんご・饅頭など、喉につまりそうな食べ物など数え上げればキリがない。その全てを危険だと言って販売規制などを行っていたのでは、何も食うものが無くなってしまい、とどのつまり、食文化、延いては人間社会の否定になってしまう。

 以前にも当ブログで、こんにゃくゼリーについては述べさせてもらったが、こんにゃくゼリー自体には元々、罪は無いのだ。製造者であるマンナンライフが殺人目的でこんにゃくゼリーを製造したわけではないだろうし、消費者も自殺するつもりでこんにゃくゼリーを食べているわけではない。製造者と消費者双方のほんの僅かな油断と不注意が悲しくも痛ましい事故を発生させてしまったというだけに過ぎない。誤解を恐れずに言わせてもらえば、単なる不慮の事故でしかなかったのだ。

 消費者団体が行うべきことは、二度とこのような事故が起こらないように消費者に注意を促すことであって、商品や消費自体を無くすことではないはずだ。
 商品を買う・買わない、商品を食べる・食べないを判断するのは、あくまでも一人一人の消費者であって、消費者団体ではないはずだ。消費者団体の仕事とは、製造者と消費者の間に立って、安全な食文化を追求することであって、加害者を追及することではないはずだ。
 消費者団体の本来の仕事とは、“安全を追求する”ことであって、決して“危険を追及する”ことではないのである。

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