« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

『年越し派遣村』の功罪【正社員神話の崩壊】

2009013101_2  言わずと知れたことではあるが、世の良識ある識者達の多くはマスコミの『派遣村騒ぎ』を「良し」とはしていない。こういった見せかけだけの弱者保護を唱ったところで事態は一向に好転せず、むしろ悪化する(景気も悪くなる)だけだということを多くの識者が述べている。
 しかしながら、一見、百害あって一利なしに見える『派遣村騒ぎ』にも思わぬ効用(?)があったらしい。その効用とは、『軽度の心の病(精神病)を患った人々が、派遣村騒ぎを見て復職しようとしている』というものだ。
 これは《派遣の次は正社員、その中でも休職中の正社員が解雇の対象者になる》という心理的な危機感が齎した効果であるらしい。

 彼らが復職しようと考えるようになった理由は、“派遣村の人々の姿を見たから”ではなく“不況の本質に気が付いたから”と言うべきかもしれないが、より具体的に言えば、“会社に行く”という不安感よりも“会社をクビになる”という恐怖心が大きくなってしまったということだろう。ということは、彼らは以前からそういった合理的な判断ができる精神状態にあったとも言えるわけで、本当に保護が必要な精神病患者ではなかったと言うこともできるだろう。

 今回の『派遣村騒動』によって幸か不幸か、今まで固定されたまま動かなかった【思考天秤】の左右の重さが逆転してしまったとも言える。
 その天秤の左側には“会社に行かずとも給料が支給されるという思考”、右側には“会社をクビになるという思考”が乗っていた。これまでは左側の天秤が圧倒的に重かったために、休職する理由を見つけることに羞恥心もなく、働かずに給料が支給されることにも何ら罪悪感を感じていなかった。しかし、正社員という立場も絶対的なものではないという当たり前の現実に気が付いたがために、天秤の右側が重くなってしまった。
 このことは、正社員であることが安全だという常識がもはや名実ともに成立しなくなったことを物語っている。正社員という肩書きさえあれば、会社に対してあらゆる権利を行使し、会社に保護されることを当然のことだと考えてきた人々が、もはや自分達を暖かく保護してくれるもの(会社)は存在しないということに気が付き始めた。これからは、企業に対してはテイク オンリー(奪うのみ)の姿勢ではなく、最低でもギブ アンド テイクの姿勢を持たない限り、雇用関係が成り立たないということに気が付き始めた。これは日本経済にとっては、ある意味でプラスであると言えるだろう。

 もちろん、本当に保護が必要な人には保護が必要だが、個人の努力如何によっては保護する必要がなくなる人にまで過剰な保護を与え続けることは無駄以外のなにものでもない。彼らは、《そんな不合理な社会システムがいつまでも続けられるはずがない》という至極単純な事実を発見したに過ぎない。

 現代のようなストレス社会では、精神を病んでしまう時があることは仕方がないとしても、いつまでもその状態にいることを是とし会社に依存することが当たり前となってしまっては、その会社はただの福祉企業となってしまう。
 お金が天から降ってくるものであれば、そういったボランティア企業の存在も許されるのだろうが、利益を出すことが難しくなってきた現在の企業環境下においては、そのような福祉企業は成り立たない。
 利益を追求しなくてもよい公の福祉団体は存在し得ても、利益を追求しなければならない民間の福祉企業などは本来、存在し得ない。今まで日本にそのような面倒見のよい企業が多数存在しているように見えていたのは、経済膨張期における錯覚、つまり、バブル経済が齎した陶酔的熱狂(ユーフォリア)でしかなかったのである。今回の派遣村問題で露(あらわ)になったものとは『正社員神話』の崩壊に他ならない。

Ç…ÇŸÇÒÉuÉçÉOë∫ åoçœÉuÉçÉOÇ÷

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『漢字が読めない』vs『常識がない』(揚げ足取りテストの愚)

2009012401_3  先日、民主党の石井副代表が麻生総理に対して『漢字テスト』なるものを突きつきたことで大きな騒ぎとなった。しかも麻生総理の書いたとされる論文から出題したらしく、石井氏はこの論文自体がゴーストライターによって書かれたものではないか?と問い質したらしい。
 麻生太郎首相は『漫画は読めるが(難しい)漢字が読めない総理大臣』(通称:KY総理)として既に有名(?)なので、その隙に付け込もうとしたのか、12問の漢字テストを用意したようだ。12問の揚げ足取りテストの解答は以下の通り。

 1、なかんずく
 2、いいだくだく
 3、やゆ
 4、ひっきょう
 5、しったげきれい
 6、ちゅうこうのそ
 7、やつし
 8、ちょうれいぼかい
 9、ぐろう
10、がっしょうれんこう
11、けんこんいってき
12、めんぼくやくじょ

 この12問を見た限り、確かに麻生総理が読めそうにない漢字を上手く探し出したようだ。おそらく麻生氏には半分も読めないだろうことは誰にでも想像できる。しかし、こんな漢字テストが出来る、出来ないが一体なんの評価に繋がるというのだろうか? この漢字が読めたところで=『総理認定』にはならないだろうし、読めなかったとしても=『総理失格』とはならない。ゴーストライターが書いたことが問題なのであれば、御丁寧に漢字テストまで演出する必要はない。石井氏は、総理大臣になるための資格が『漢字テストに合格すること』だとでも思っているのだろうか?

 と言っても私は別に麻生総理を擁護しているわけではない。確かに漢字が読めない総理というのは格好が悪い。
 先日も麻生邸の麻生総理の自室の風景がテレビで放送されていたが、机の上には漫画が積まれていた。しかし押し入れ(?)を開けると普通の書籍らしきものがズラッと並べられていたので、全く本を読まないということではないらしい…と言いたいところだが、通常、読書家というものは漢字の“読み”には強い。本をよく読む人なら誰でも解ると思うが、大抵の漢字なら文脈から判断して読めるようになるものだ。以前、麻生氏が読み間違ったことで問題になった漢字(未曾有、頻繁、踏襲)などは、よく使用されている漢字なので、年間20〜30冊程度の本を読んでいる人であれば、読めるようになる漢字ばかりだ。まさか、数十年間も読み方が解らないまま流し読みしていたわけでもないだろう。
 このテレビで放送されていた本は麻生氏の本であることは間違いないだろうが、おそらく(きちんとは)読んでいないのだろうと思う。あれだけの本を読んでいる人なら、痴呆症か記憶喪失にでもなっていない限り、読めないということはないはずだ。あくまでも推論だが、おそらく図星だろう。

 麻生氏が「漢字が読めない」=「読書家ではない」=「世間知らず」ということぐらいは、わざわざ漢字テストなどを行わなくても既に証明されている。民主党がわざわざ漢字テストなどを作成しても何のプラスにもならない。そんな姑息な手段を講じると逆にやぶ蛇になる可能性の方が高い。自民党の揚げ足取りを行うことで、逆に民主党の足を引っ張ることになるだけだ。早い話、ミイラ捕りがミイラになってしまうだけのことだ。(実際にそうなってしまったのかもしれないが…)

 「天に向かって唾する」という諺もあるように、相手が「天」でなく「漢字が読めない首相」であっても吐いた唾は自分に返ってくるものだ。こんなことは世間一般の常識だ。世間一般の人々から、
「そんな常識すら持ち合わせていないのか?」と思われることと、
「こんな漢字も読めないのか?」と思われることのどちらがマイナスとなるだろうか?

 『常識があって漢字が読める』という簡単なハードルさえ越えることができない人達が政治を行なっているというのは嘆かわしいと言わざるを得ない。仮にも党の副代表ともあろう者がこんな稚拙な漢字テストに現(うつつ)を抜かしているようでは尚更だ。
 『漢字が読めない』vs『常識がない』、一昔前に流行った究極の選択のようだが、はたして国民はどちらを選択することになるのだろうか?

Ç…ÇŸÇÒÉuÉçÉOë∫ åoçœÉuÉçÉOÇ÷

| | コメント (2) | トラックバック (0)

職業選択の有無は自己責任

2009012001  今朝、家を出る前に少しだけテレビ(みのもんたの朝ズバッ!)を観ていると、派遣切りされた労働者についてのニュースが流れていた。なんでも、派遣切りされた労働者達を気遣って慈善募集を行っている企業があるらしいのだが、肝心の派遣切り労働者からの応募がほとんどないというものだった。

 この件で珍しく司会のみのもんた氏と毎日新聞論説委員の与良正男氏の意見が対立していた。「甘い」と言うみの氏の意見に対して、与良氏が「甘いと言ってしまうとこの問題がそれで終わりにされてしまう」と述べていたが、はたして、どちらの言い分がまともと言えるだろうか?
 与良氏はこうも述べていた。「誰もが文化的な生活を営む権利がある」と。要するに「どのような立場にある人間であっても仕事を選ぶ権利はある」と述べているわけだが、はたして本当にそうだろうか?

 例えば、よくドラマなどで、生活費のない貧乏青年が空腹のため食堂の前で倒れ、その店の主人に食事を与えられて助けられるというようなシーンがある。その後、その店の主人は青年に対してこう言う「今後も食事を食べさせてあげるから、代わりに皿洗いをしてくれ」と。
 ドラマのシナリオでは通常、青年が御礼とお詫びの意味も込めて皿洗いの仕事を二つ返事で受け入れることになる。ここでもし青年が「皿洗いなんてやりたくない」「俺にも仕事を選ぶ権利がある」などと言ってしまえばどうなるだろうか?
 まともな神経をした人なら、「なんて恩知らずな図々しい奴だ」と思うだろう。
 しかし、どういうわけか、現実に国から『生活保護』という名の無償の援助(=食事)をもらった人間達に対してはそうは思わないらしい。

 与良氏の言う「誰もが仕事を選択する権利を有している」というのは確かにその通りだ。しかしその権利を得るためにはある条件を満たす必要がある。その条件とは何か? それは、『自ら自活できる』という条件だ。
 権利を求めるのであれば、まず義務を果たさなければならないというのは誰もが認めていることだ。例えば、税金を納めるという義務を果たした人間だけが、国民としての権利を得ることができるのと同じ理屈だ。中には税金を支払っていなくても権利を主張している人間もいるが、それらはあくまでも例外と考えるべきであり、基本は『働かざる者、食うべからず』であるべきだ。

 会社を解雇された時に、次の仕事を探す権利は誰にでもある。その権利を活かして次の仕事を探せばいいのだが、次の仕事が見つかるまでの生活費(経費)が必要になる。その経費を用意できる人間と用意できない人間の違いとは何かというと、『自活する能力』だ。
 不測の事態に陥った時に自らの力で対処できる人間であれば、権利の有無などを論じる必要がない。自活する能力があれば、同時に仕事を選択する権利も有しているわけだ。ところが、自らの責任で自活できない(=生活管理や貯蓄ができない)のであれば、次の仕事を探す余裕が無くなり、選択できる仕事の幅も自ずと縮小されてしまう。つまり、権利が無いのではなく、単に余裕(お金)が無いだけなのだ。そしてその余裕が無いのは、社会や会社の責任ではなく、自分自身の責任でもある。厳しく言ってしまえば、自分自身が自らの権利を縮小してしまっているだけのことなのだ。

 「甘いと言ってしまうとこの問題がそれで終わりにされてしまう」という意見もどこかおかしい。では逆に「甘くない」と言ってしまうとどうなるのか? 「甘くない」と言えば議論に花が咲くというのだろうか? 「甘い」か「甘くない」かを言い争った上で結論を導き出すのが本来のマスコミの姿ではないのか? 初めから「甘いと言ってはいけない」と言うのであれば、その言葉こそが問題をそれで終わりにしてしまう論法とは言えないだろうか? 「甘いと言ってはいけない」という一方的な決め付けに過ぎないのではないだろうか?

 もともと思想統一された感のあるテレビ局の司会者とコメンテーターの意見が対立するというのは珍しいケースだと言える。まさか「甘い」と言ったことで、みの氏が失言の謝罪をするなどということはないと思うが、司会者の口からうっかり本音が出たというのが今朝の番組の見所であったのかもしれない。

Ç…ÇŸÇÒÉuÉçÉOë∫ åoçœÉuÉçÉOÇ÷

| | コメント (6) | トラックバック (1)

4K不況(規制強化と信号増設の関係)

2009011601  1年前、総務省のお達しにて、携帯電話の本体価格が高くなり通話料が安くなるという料金改定がなされた。当初は「消費者保護」を唱った新料金制度の導入のはずだったが、結果として消費者の携帯電話買い替え需要が激減し、携帯電話業界にも不況の風が吹いたことは記憶に新しい。
 “通話料を下げて本体価格を上げる”をいう消費者無視の施策が採られたことにより迷惑を被ったのは消費者だけではない。携帯電話関連業者の大部分、中でも携帯電話を組み立てる作業を行なっていた労働者達の仕事も激減しただろうことは容易に想像がつく。

 今月はボーダフォン携帯からソフトバンク携帯への移行も最終調整に入ったらしく、私の周りでも先週、新しくソフトバンク携帯に切り替えた人が2人いた。(ソフトバンクから督促があったらしい)
 聞けば、携帯電話本体は5万円以上したが通話料の割引きがあったらしく、実質は1万円台で購入できたそうだ。ちなみに携帯電話本体は現金払いではなく20数回の月賦払いになるらしい。(通話料と同時に引き落とされる)
 結果的には、こういったサービス(実質的な割引)を追加しないことには携帯電話を買い替える人はほとんどいないのだろうと思う。
 現在の『本体価格5万円以上』というイメージは明らかにマイナスだと思う。5万円と言えば、今時のノートパソコンが買える値段だ。携帯電話にパソコンの買い替えサイクルを適用すればどういう結果になるのかは容易に想像がついてしまう。2年に1度パソコンを買い替えるような人はあまり見かけないのと同様、携帯電話の買い替え期間も長期化することは明々白々だった。そして実際にそうなっている。

 少し前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。
 貸金業法改正、建築基準法改正、金融商品取引法の施行によって引き起こされた3大官製不況のことを経済専門用語(?)で「3K」と呼ぶらしいが、この3Kに携帯電話業界に発生した官製不況を追加して「4K」とも呼ばれているらしい。
 そのうち、食品業界の規制強化によって「5K」となる可能性もあるが、問題はこういった深刻な現状が世間一般ではあまり知られていないことだ。世間では、アメリカ発の世界金融危機(サブプライム問題やリーマンショック)があまりにも大きな出来事であったために、日本の不況原因の全てがアメリカのせいになってしまっており、完全に「灯台下暗し」に陥ってしまっている。

 『規制』というものは解りやすく言えば『信号』と似ている。過剰な規制というものは、喩えて言うなら信号の数を増加させるようなものだと考えれば解りやすいかもしれない。
 さて、あなたが普段、通勤などに利用している道路で「交通事故が多発している」という理由から信号の数が倍になったらどうなるだろうか? 信号で停まる回数が倍に増えれば、当然のことながら、通勤時間が長くなるので、朝起きる時間が早くなり帰宅する時間も遅くなる。そのせいで余分なストレスが増えることは間違いないだろう。
 通勤における問題だけならまだしも、“時間”で商売している宅配業者や運送業者はどうなるだろうか? その場合は仕事の効率が悪くなることは避けられない。今まで通りに仕事ができなくなれば、宅配料金や運送料金が上がることも避けられない。少し前に、ガソリン代が一時的に高騰したことによって運送業が成り立たなくなったことがあったが、あれと同じような現象が発生することになる。そしてそんな窮屈な業界には誰も新規参入できなくなり、業界全体が仮死状態に陥ることになる。

 ガソリンはそのうち下落することは判っていたが、信号の数(=規制の強化)はガソリンのようにはいかない。日本には一度作られた信号(=規制)はそう簡単には廃止できないという社会構造的な大問題が存在している。非効率なことが判っていながらも、一度確立されたものは余程のことがない限り変更できないという融通の利かない構造ができあがってしまっている。この構造をシンプルに変革しないことには、一度失敗した政策であろうと、そのまま維持されることになる。4Kと呼ばれる不況の構造もまさしくそうなっているがゆえに一向に不況から抜け出すことができずにいる。

 仮に100mおきに信号が有った場合を想像してみよう。そんな道路であれば確かに交通事故は減少するだろう。しかしそんな信号だらけの不自由な道路では、あらゆる商売は成り立たなくなってしまう。現在の日本経済自体も規制のオンパレードで、あらゆる業界が息苦しくなっている。反面、規制を強化することによってお役人の(無駄な)仕事だけは増えている。如何にお役人が善意の施策を練ったところで、国民にとっては有難迷惑にしかなっていないという現実がある。彼らが行なっているのは、景気対策ではなく、実は不景気対策(つまり景気を悪くしている)にしかなっていないという現実をこそ直視せねばならない。その現実を見ずして日本経済が回復に向かうことは有り得ない。この悪夢のような現実から逃避し、不況の原因を他国に責任転嫁しているだけでは真の景気回復は有り得ないのである。

Ç…ÇŸÇÒÉuÉçÉOë∫ åoçœÉuÉçÉOÇ÷

| | コメント (2) | トラックバック (0)

危険な『年越し派遣村』への道

2009011101

 世間では「年越し派遣村」という言葉がすっかり定着した感があるが、その「年越し派遣村」に集った約500人の内の半数以上(受給希望者全員)の人に生活保護が支給されることが決定したらしい。
 この問題については、既に賛否両論が交わされているが、否定的な見解が多数を占めているようだ。と言っても、否定しているのは主にネット論者であり、マスコミの大半は相変わらず、肯定的な報道を行っている。

 先日、親戚の叔父と会う機会があり、今話題の「派遣切り」について少し話したのだが、そこでその叔父から次のような質問をされた。

 「派遣切りされたからといって、住むところもお金もないというのはおかしくないか?」と。

 私は少し考えた後、「なるほど」と膝を打った。それはそうだ。如何に派遣労働者の賃金が安い(?)とはいえ、蓄えが全くないということの方がおかしいのではないか? 正社員であれ非正規社員であれ、失業するというリスクを抱えている人間が明日の生活費も蓄えずに生活していることの方が問題ではないか? 派遣社員として働いて得た賃金を全て使用するという刹那的な生活をしてきた人間にも問題があるのではないか?
 半年、1年先の職場や生活の目処が立たないというのならまだ理解できるが、派遣切りされたからといって、明日の住む所もお金も無いというのは、自己責任でもあるのではないか?というのがその叔父の言いたかったことなのだろうが、これには私も同感だ。

 世の大企業の正社員であっても、社宅に住んでいる人もいれば、賃貸住宅に住んでいる人もいるし、持ち家に住んでいる人もいる。その正社員が会社をクビになった場合、社宅を追い出されるのは当たり前だ。賃貸に住んでいる人であれば、クビになったとしても家賃を支払う蓄えがあれば、家を追い出されることはないし、持ち家の場合もローンを支払う蓄えがあれば家を出る必要もない。
 つまり、もしもの場合の貯金をしてこなかったことが、住む所を失う原因であるということだ。食費の心配も同様に、もしもの時の貯金さえしていれば、すぐさま困ることはないわけだ。

 そもそも、一体いつから派遣社員には生活する住居がセットで供給されるようになったのだろうか? 派遣社員には住む所を提供しなければならないというような法律でもあるのだろうか? 昔の出稼ぎ労働者であれば、企業から期間限定の社宅や寮のようなものが提供されるようなことがあったと思うが、現在、問題になっている派遣労働者とは、全て出稼ぎ労働者のことなのだろうか?
 しかし仮に出稼ぎ労働者であったとしても、給料の全てを家族の元に仕送りしているわけでもないだろう。住む場所を提供されているということは、少なくとも住居費は浮いているわけだから、その分、貯金する余裕ぐらいはあったのではないのだろうか? 酒やタバコやギャンブルもせずに真面目に派遣労働者として生活している人間が、明日の生活費も無いというのはどう考えても合点がいかない。

 「年越し派遣村」に集った人間に支給される生活保護費は12万円ということだが、そのお金は元をただせば国民から集めた税金であり、国が錬金術を用いて用意したわけではない。それでも支給するというのであれば、借用書付きで支給するべきだ。新しい職場が見つかり、無事に職に就くことができれば、その生活保護費は自己の責任において返却するべきだろう。無論、返却すべき相手は国ではなく税金を支払った国民にだ。

 生活保護というものは本来、本当に働けない人間や障害を持った不自由な人に対してのみ支給すべきものであり、単に仕事が見つからない人や働く気のない人まで対象者に入れてしまうと、その恩恵を利用して生活保護費を手に入れようとする集(たか)りのような輩が大挙として出てくることは想像に難くない。国の社会保障が行き過ぎると、かつての共産主義国家のような「衰退」という名の暗雲が国家を覆うことになる。
 「弱者を保護する」という言葉は美しい。逆に「弱者を叱責する」という言葉は醜く聞こえる。
 しかし、何度も述べたが、地獄へ至る道は綺麗に舗装されている。「生活保護」という甘い言葉に付いていくと、その先にあるのは奈落でしかない。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »