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2009年2月

『厚生労働省』vs『楽天』の意味するところ

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 以前から、楽天の三木谷氏が厚生労働省に対して、医薬品のネット販売規制の中止を訴えていたことは周知の通りだが、このところの消費者からの苦情も相まってか、先日、舛添要一厚生労働大臣が中心となって、異例の検討会(医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会)が行われた。
 この検討会では『医薬品のネット販売の是非』を改めて話し合ったそうだが、「対面販売を基本としなくては安全性は担保できない」とする厚生労働省側の意見に対して、楽天側は「ネット販売業者いじめだ!」と真っ向から対立した。

 言葉だけで受け取ると厚生労働省側の言い分(消費者保護や犯罪防止)にも一理あるように見受けられるのだが、その一理のために残りの九十九理を無視する姿勢を容認するわけにはいかない。
 別の言葉に置き換えると、「一理」というのは役人を意味し、「九十九理」というのは国民を意味している。民主主義の基本は「国民の国民による国民のための政治」であって、決して「役人の役人による役人のための政治」ではない。この度の医薬品のネット販売規制は、事前にどれだけの世論調査を行って決められたのかを考えると、厚生労働省側は明らかに説明不足の感は否めず、まさしく「役人の役人による役人のための政治」になってしまっている。

 そもそも、医薬品のネット販売がどれだけ危険を伴うかということは、お役人が決定することではなく、市場が決めることだ。本当に危険だというのであれば、一般の消費者からの苦情が殺到するはずであり、その一般の消費者がほとんど問題視していない現状を見れば、わざわざ規制などを行う必要があるとは思えない。
 以前にも経済産業省から中古家電などのリサイクル販売を禁止するという無茶苦茶な規制が発足されかけたことがあったが、今回の規制も、これとどっこいどっこいの愚策と言える。

 厚生労働省が「対面販売」にこだわるところは、どこか、タバコ販売におけるタスポ規制を思い起こさせるが、何故に「対面販売」に固執するのだろうか? 対面販売であれば絶対的に安全で、ネット販売であれば危険を伴うという理屈はどう考えてもおかしい。対面販売であれば絶対的に安全だと言うのであれば、対面販売員の身分保証を絶対的なものにしなければならない。
 勘の鋭い人ならもうお気付きのことだと思うが、実はその対面販売員の身分保証制度というものが近い内に出来上がることになっている。現在は薬剤師が常駐しなければ医薬品の販売はできないことになっているが、2006年度の薬事法の改正によって2009年度(つまり今年)からは登録販売者がいれば、医薬品を販売できるようになる。要するに、ネット販売を禁止しなければ、この(登録販売者)試験制度が成り立たなくなってしまうわけだ。

 ネット言論内では、「医薬品のネット販売規制は当然だ」という意見もあり、「楽天の三木谷社長は自らのお金儲けのためにやっている」などという嫉妬丸出しの下衆な意見も聞こえてくるが、この問題はそんな小さな問題ではない。大多数の国民の声を無視し、ほんの少数の恣意的な意見が、なんの疑問も持たれることなく勝手に決定されてしまうという、まさに独裁国家さながらの国家の暴走を食い止めることができるかどうかという非常に重大な事件だとも言える。楽天の三木谷氏は「ネット販売業者いじめ」という、いかにも大衆受けする簡単な言葉を選んで抗戦しているかに見えているが、実は大きな改革を行っているとも言えるのだ。
 楽天の三木谷氏は以前、ライブドアとの球界への新規参入で男らしくない態度(?)をとったことがあるので、それ以来は応援するのを止めていた経緯があるが、今回の勇気ある行動に対しては応援したいと思っている。

反対署名を厚労省へ「ネットで薬が買えないと困る」

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ある経済学者の華麗なる(?)転身

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 このところ、経済人の間で話題になっている出来事と言えば、経済学者の中谷 巌氏の衝撃的な転身(?)ぶりがあげられる。中谷氏は構造改革推進論者として有名で、よく経済番組のコメンテーターも務めていたので、誰もが知っている経済学者でもある。どこか上品なイメージのある中谷氏は経済学者としても人気があったようだが、最近は不人気ぶりが目立つようになったようだ。

 彼の転身を批判しているのには、主として次の2種類の人達がいる。
 1、自由主義論者
 2、社会主義者(共産主義者)及び保守主義者

 1の自由主義論者からは、「裏切られた」「がっかりした」という批判が多いようだ。中谷氏は確か経済の教科書も書いておられたと思うが、今回の転身は自ら「それらは間違いでした」と認めたようなものなので、立腹したくなる気持ちもよく解る。
 かくいう私も彼の書籍は2冊ほど持っている。昨年に古本で購入した『痛快!経済学』と『にっぽんリセット』という書籍だが、幸か不幸か未だ読んでいない(積ん読状態)。これから暇な時にでも読もうと楽しみにしていたのだが、著者自身が立場を変えてしまったとあっては、読むべきかどうか複雑な気分だ。

 一方、2の社会主義者達(保守主義者も含む)からは、「今頃気が付いたのか」という批判が多いようだ。面白いのは、2からは批判だけでなく、礼賛も多いことだ。「彼は勇気がある」「間違いを認めたことは評価できる」という意見も多い。

 しかし、マクロ経済学の入門書まで書いていたような学者が、こうも簡単に自由主義論者という立場を捨てて転身してしまったというのは、不思議と言うほかない。それほどの衝撃的な出来事が彼の身に降り掛かったのだろうか?と考えてもみたが、考えつくのは、アメリカのマネー経済の破綻くらいしか見当たらない。はたしてその程度の出来事で、自ら何十年もかかって積み上げてきたものを一切合切、反故にできるものなのだろうか?
 氏の転身ぶりは、まるで唯物論者が神秘体験をして信仰に目覚めたかのようでもある。あるいは、アメリカのマネー経済の破綻を見るにつけ、自らの中にあった信仰(神の見えざる手)が崩れ去ってしまったとでもいうのだろうか? 私には、テレビに映る彼の現在の目が、神の姿を見て真実を悟った人間のような澄んだ目には見えないのだが…。

 世俗的な視点で観れば、現在の日本のような過剰なまでの市場原理否定社会にあっては、中谷氏のような構造改革論者は世間からの風当たりも強かったのかもしれない。そういった孤立感からも四面楚歌に遭遇したような気持ちも抱いていたのかもしれない。しかしもし仮にそうだったとしても、世間の風向き加減で風見鶏のようにコロコロと意見を変えてしまうのでは、真の学者の姿とは言えないだろうし、一般人に対してもあまり良い印象を与えないことも確かだ。はたして、そこまで危険を冒してまで懺悔する必要があったのだろうか?

 中谷氏は近著『資本主義はなぜ自壊したのか』の中で「市場は完全ではなかった」と述懐しているそうだが、そんなことは当たり前のことであり、「市場は完璧だ」などと思っているのは真の自由主義論者ではない。仮に市場原理が完全なものであったとしても、そこに人間が絡むことによって不完全なものに変化する。ゆえに市場は健全に管理する必要もある。
 「管理が必要なのであれば市場は完全ではない」というのは、社会主義者の言い分であり、真の自由主義論者の意見ではない。市場は完全ではないが「国が管理するより市場に任せた方が安全」というのが、真の自由主義論者の意見だ。《市場が完璧なものでなければならない》と思い込んでいるのは、実は市場否定主義者である社会主義者の方なのだ。
 市場が完全なものでないように資本主義自体も完全なものではない。どちらも進歩途上にある不完全なものだ。不完全なものであるがゆえに、上手く育てることが必要なのであり、その可能性を活かすも殺すも人間次第、それが資本主義の姿とも言える。不完全だからといって「自壊した」「切り捨ててしまえ」と言うのでは、そこには何の進歩も発展もない。不完全だからという理由で「国が管理しなければならない」となると、まさしく社会主義者の論理展開であり、そうなると市場の可能性自体も崩壊してしまう。

 つまるところ、市場というものは人間と同じようなものだと考えれば解りやすいかもしれない。成長過程にある子供と同じようなものだと考えれば、その子供に対してどう接するか? 管理で縛るか、自由に任せるか。子供が正常な大人になるためには、必要最低限の管理(しつけ)は必要だろうが、それ以上に自由を尊重する姿勢も必要だ。完全に管理することは不可能であるし、行き過ぎた自由も危険を伴う。しかし、子供を信用するのであれば、自由を優先するだろう。それが自由主義論者の基本的な考え方だ。それは同時に人間の可能性を容認する思想でもある。

 中谷氏を観ていると、喩えて言うなら、自分の息子が不良になったので「私の息子は狂ってしまった」「息子を勘当して親子の縁を切る」と言っているような親の姿を想像してしまう。「子供は本来、性悪なので自由放任ではなく徹底的に管理しなければ、まともな大人に成長しない」と言っているようにも見える。
 「資本主義は自壊した」と言う中谷氏は実は「人間が信用できなくなってしまった」のかもしれない。もしかすると、彼の転身は、単なる性善説から性悪説への心理的な転身であったのかもしれないが、できることならば、もう1度、性善説に転身されることを期待したい。

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『飲酒会見』騒ぎと『酩酊政治』

2009021901  G7(先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議)において前代未聞の酩酊(酔っぱらい)会見を行なったことで一躍「時の人」となった中川昭一氏だが、その責任をとって財務・金融担当相を辞任した。さすがに今回の引責辞任は世間の批判から考えれば仕方のない判断だと思う。
 中川氏の場合、本当に飲酒会見だったのかどうかは未だ不明だが、誰が見ても正気ではなかったことだけは確かなので政治家としての免許取り消しはやむを得ないだろう。(正確には「財務・金融担当相」という立場を辞任するだけで政治家自体を辞めるわけではない。)

 酩酊会見にちなんで言えば、最近、飲酒運転の罰則がさらに強化されたそうで、酒気帯び運転が発覚した時点で即運転免許停止ということになったようだ。
 これまではアルコールの量によって“飲酒運転”と“酒気帯び運転”という分類がなされていたが、これが同じものになってしまった。無論、減点数などに違いはあるが、ドライバーから見れば、どちらにしても免許停止となって運転できなくなってしまうのだから大差がないと言える。この件についても特に文句を言う気はない。しかし、善悪論を除けて経済的な視点のみで観れば、あまり良い政策だとは思えない。

 このところの不況で、国民の節約思考が定着し、喫茶店のお客も激減しているらしい。これは単純に、コーヒーを喫茶店で飲まずに、節約して自宅でインスタントコーヒーを飲む人が増えたということを意味しているが、数百円のコーヒーでさえこの状況なのだから、高価なお酒類は言うに及ばないだろう。
 以前からの飲酒運転の罰則強化で、駅前の居酒屋を除いた郊外型の居酒屋兼のファミリーレストランなどは、お客が激減し業績が低迷していたことは周知の通りだが、この状況にさらに拍車がかかることは間違いないだろう。

 人々が必要なものだけにお金を使い、余分なものにお金を使わなくなることは一見、正しい姿に見えるが、実は大きな損失を伴っているということも考える必要があるかもしれない。
 “必要なものにしかお金を使わない”ということは、同時に“必要な分しかお金が入ってこない”ということを意味している。「お金は天下のまわりもの」と言われるように、使えば使った分だけ返ってくるというのが、お金のルールでもある。このルールは個人単位では当てはまらないが、社会全体として観れば正しい。
 現代が消費減退社会であるという意味でも、飲酒運転の罰則を強化するのであれば、その強化によって発生するマイナスを補う施策も同時に考える必要がある。そういった一般人ができないことを行なうのが政府の本来の役割だ。そういった気の利いた施策が全くできない(考えてもいない)のであれば、何のために政府が存在しているのか分からない。

 政府(お役人と政治家)は、飲酒運転の罰則を強化することによって消費が減退するのであれば、アルコールを飲んでも消費が減退しないような方策を考える必要がある。
 居酒屋を例にとれば、『代行運転業』というスキマ商売が民間から生まれたが、国からは何も生まれていない。ただ、罰則を強化するだけで、あとは知らんぷり。世間が不況に苦しんでも自分達の生活だけは安泰なので、なんらまともな政策も出てこない。

 代行運転というものは確かに便利なものではあるが、消費者から見れば、結局、送迎タクシー代が余分にかかるという苦肉の策であるがゆえに、全員が全員、代行運転サービスを利用するわけにはいかない。少しは消費減退に歯止めをかけることはできるとはいえ、根本的な解決策にはならない。
 『アルコールを飲んでは運転できない』という問題をクリアするためには、もっと根本的なところまで遡って解決策を考えなければいけない。例えば、往路は車で行って、復路は電車で帰るというようなことが問題なく行えるようにしなければならない。
 代行運転業というものは基本的にお客の車(マイカー)を利用するサービスだが、これを『店側が車を用意し、事前にお客の家まで車を届け、その車でお客が店まで乗ってくる』というような乗り捨てシステムに構築し直す必要性があるかもしれない。
 要するに、これまでの“マイカー”という概念を“乗り捨てカー”という概念に置き換えることができるような大幅な社会システムの変更が必要であるということだ。
 上記は、あくまでも仮定の話ではあるが、それぐらいの抜本的な改革をセットでするくらいでなければ、軽はずみな罰則強化などを行うべきではないということだ。

 実際にカードで利用する乗り捨てカーサービスというものは既に存在しているが、これも民間の1企業が主導で開始したサービスなので、はたしてどこまで世間一般に浸透するかは判らない。判らないがゆえに政府が音頭をとって新たな経済システムを構築していくべきなのだが、1政治家の酩酊会見が新聞の一面にデカデカと掲載され、経済政策よりも個人的な感情批判をすることしか頭にない現代の政治家達に何を言っても無駄かもしれない。彼らの大部分は日本や国民のことよりも、党や自分のことだけで精一杯なのだから。彼らの頭の中にあるのは、経済政策や景気対策ではなく、飲酒会見や飲酒運転を無くすことだけなのだ。彼らは自分達が思考停止していることにも気が付いていない。言わば、彼らはアルコールを飲んでいなくても酩酊している状態とも言えるのである。

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不動産業界における矛盾(構造的な不況因子)

2009020701  東証1部上場企業の日本綜合地所が経営破綻した。負債総額は今年最大の1900億円にのぼるらしい。
 日本綜合地所というと、少し前にも『内定取り消し問題』で名を馳せた企業だが、内定を取り消された53名(全内定者)の学生達は今頃どんな心境なのだろうか?

 日本綜合地所が「内定取り消しは悪だ」という世論の声に従って内定取り消しを中止していれば、これらの学生達は補償金100万円を受け取ることもなく、自動的に入社前解雇ということになっていたはずだ。
 今回の日本綜合地所の経営破綻によって、「内定取り消しは悪だ!」とヒステリックに騒いでいた連中(主にマスコミ)も少しは目が覚めたかもしれない。(日本綜合地所には失礼だが)経営破綻することが目に見えている企業に無理に入社したところで何も得るものはなく、返って失うものが多くなるだけだということに気が付いたのかもしれない。

 経営破綻することが判っていながら1人につき100万円もの補償金を支払った日本綜合地所は、「内定取り消しを行った悪徳企業」というよりは、むしろ「良心的な企業」と言えるかもしれない。
 補償金100万円が、新入社員の5ヵ月分の給料と考えれば、慰謝料としては妥当なところであり、これ以上、日本綜合地所に文句を言う学生もいないだろう。
 もし、この期に及んでまだ「文句を言い足りない」「慰謝料100万円では安い」という人がいるのであれば、それは、この時期に上場企業という理由だけで安易(?)に『不動産業』を就職先に選択した学生側の責任も考慮するべきだろう。(この時期に53人もの雇用契約を結んでしまった日本綜合地所側にも“先行きが読めなかった”という意味では少しは責任があるのかもしれないが…)

 日本の不動産業界はアメリカのサブプライムローン問題が発覚する以前から、別の意味での構造的な不況因子を抱えていた。日本で耐震偽装問題が発覚した時点から、既に不動産業界が長期不況に突入するだろうことは目に見えていたことであるからだ。サブプライムローン問題がその不況に追い討ちをかけたことは事実ではあるが、それ以前から大きな問題を抱えていたのである。
 しかしその問題は、不動産業自体にあるわけではない。耐震偽装という不正行為を行なった建設会社があったことが問題なのではなく、耐震偽装を防止するために新たに作成された法律が問題なのだ。その法律(の山)がまるで岩山の如く不動産業の前に立ちはだかっていることが問題なのである。

 予めお断りしておくと、私は耐震偽装を行った不正企業を擁護する気はさらさらない。しかし、誤解を恐れずに敢えて言わせてもらえば、耐震偽装マンションだからといって人が住めないというわけではない。あくまでも定められた震度を超える地震が発生した場合に危険だというだけであって、大きな地震が発生しない限り、普通のマンションとなんら変わらないので、「その条件でもいい」と言う人がいれば、住む人がいてもおかしくないわけだ。
 リスクが高い分、家賃なども安くなるので、「それでも構わない」と言う人は必ず存在すると思う。ちょうど、賞味期限を過ぎた食べ物であっても、腐っていなければ構わないというのと同じ理屈だ。多少の賞味期限が過ぎていても販売価格を半額にすれば有り難く購入する人が大勢いることは誰にも否定できないはずだ。

 経済的な理由などから、木造の旧家屋に住んでいるような人であれば、耐震偽装マンションの方が安全とも言えなくはないので、家賃が安ければ住んでもよいという人は大勢いるだろう。
 『被害にあった時は自己責任』という条件さえ受け入れることができれば、耐震偽装マンションをゴミ(=資産価値0)のように扱う必要もないわけだ。それに、いかに耐震設計されたマンションだとしても、震度8や9の大地震が発生すれば倒壊しないという保証はない。そんな大地震が発生した時には、誰も責任は取れないのだから、法律に定められた震度などは必ずしも『補償』を意味するものとは言えない。想定を超えた大地震が発生すれば、そんな常識は一瞬にして崩れ去ってしまうからだ。

 耐震強度が足りないマンションであろうと、賞味期限を過ぎた食べ物であろうと、市場に流通させれば購入する人間は必ず現れる。しかし「それは危険だ」という一方的な理由で、お役人が介入して規制を行うと、マンションも食べ物も市場価値0のゴミと化してしまう。そのせいで、運悪く耐震偽装マンションを購入した人は売るに売れず、全く身動きが取れなくなる。
 『消費者を保護する』という目的のために安全第一主義に走り過ぎると、結局は目的を達成できなくなってしまう。これは大いなる矛盾であり、不動産業界における構造的な不況因子も、まさにこの矛盾から発生したものだと言える。

 再度、お断りしておくと、私は不正を行った企業に責任が無いと言っているわけではない。当然のことながら、不正は不正として厳罰に処されなければならないと思う。しかし、不正を行っていなかった真面目な企業や一般の消費者にまで迷惑が及ぶような法律は行き過ぎではないか?という疑問を常々抱いている。このことは私だけでなく多くの人が内心思っていることだと思う。
 日本経済が1日も早く不況から脱するためにも、この疑問に対する答えは追求していかなければならない。

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