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2009年5月

『思考停止国家』脱却のススメ

2009052901 ようやく、豚インフルエンザ騒ぎも沈静化しつつあるようだが、今回の一件で日本国民の思考停止ぶりが世界中に知れ渡ってしまったようだ。海外の知識人達は、豚インフルエンザにおける日本のパニックぶりを冷笑(嘲笑)しているらしい。ほとんど実害の無いウイルスに対して、よくもまあここまで馬鹿騒ぎができるものだと呆れ返っているという噂も耳にする。ある評論家が言うには、今回の一件で「日本はテロの標的国家になる危険性が出てきた」ということらしいのだが、なるほど、これはなかなかの慧眼だ。実際に今回の騒ぎを空港で目撃した海外の人々は「日本でまたテロ事件でも発生したのか!?」と疑ったそうなので、充分に考えられるケースだ。
 世界中のお金目当てのテロリストから観れば、こんなに簡単にパニックに陥ってくれる国があるのであれば、まさしく恰好の標的(カモ)だと思われても仕方がないかもしれない。偽の情報であろうが、不明の情報であろうが、実害を考慮しようともせずに簡単に踊らされてしまうのだから擁護のしようがない。“本人(本物)かどうかを確認せずにパニックに陥ってしまう”という意味では、まさに『振り込め詐欺国家』状態だとも言える。

 最近では、現代日本の思考停止状態を嘆いている本が続々と刊行されているが、ここでは次の3冊をご紹介したいと思う。

 『「知の衰退」からいかに脱出するか?』大前研一著
 『思考停止社会』郷原信郎著
 『会社に人生を預けるな』勝間和代著

 まず、大前氏の『「知の衰退」からいかに脱出するか?』は、日本の知の衰退ぶりを歯に衣を着せずに徹底的に掘り下げている。大前氏は本書の中で、少し前にベストセラーとなった『国家の品格』を「思考停止のすすめ」または「鎖国のすすめ」だと指摘している。
 ちなみに私は『国家の品格』は未読(正確に言うと数分間立ち読みして見切りをつけた)だが、この本が200万部も売れたというのは少し疑問に思っていた(周りにも読んだ人がいない)ので、大前氏の指摘に妙に納得してしまった。
 大前氏はこの本の中で先の『郵政選挙』についても鋭い指摘を行っている。当時、多くの国民は郵便局を“国営のまま”にするか“民営化”するかという二者択一に悩まされたが、本当は、“民営化する”か、それとも“廃止する”かという議論が起こるべきだったと述べている(大前氏の立場は無論“廃止”)。つまり、「国営という選択肢は初めから必要なかった」のだと。
 郵便局「国営 vs 民営」論ではなく、郵便局「民営 vs 廃止」論とは実に思い切った話だが、確かに言われてみれば、目からウロコの考察ではある。

 大前氏のように海外でも充分に生活していける人物は、国内の地位に固執して本音が言えずに汲々としている言論人とは実に対照的で、言いたいことをズバリ言ってくれるという痛快さがある。この本は最近の大前氏の本の中でも特にオススメできる万人向けの好著だと思う。『国家の品格』には申し訳ないが、こういう本が代わりに200万部売れた方が実際に日本のためになるだろうと思う。
 
 次に最近、サンデープロジェクトにもよく出演されている郷原氏の『思考停止社会』だが、彼自身が元検事ということもあってか、専門的な言葉が散見され、少し事務的(?)な文章なので、よく考えて読まないとウッカリ流し読みしてしまいそうになるのだが、集中して読むと、なるほど納得の目からウロコの思考啓発本(?)となっている。私が普段、ブログで指摘しているようなことを、より専門的な視点から掘り下げて述べられており、切り口も実にシャープだ。この本はまさに題名の通り「思考停止社会」の複雑な構図を明快に暴いており、ある意味で「警世の書」と呼べるかもしれない。氏の今後のご活躍に期待したいと思う。

 最後に、最近、女流経済評論家として頭角を現しつつある勝間和代氏の『会社に人生を預けるな』だが、この本は以前にヒットした『銀行にお金を預けるな』シリーズの続編に位置する。基本的には一般人向けのリスク・リテラシー啓発本になっている。
 勝間氏は政府関係の仕事も抱えているスーパーウーマンというイメージが強く、そのせいか反政府的な発言はできるだけ控えめにしているのかな?と思っていたのだが、この本ではズバリ本音を述べているように思われ、日本の終身雇用制度にもメスを入れており、堂々と「お上に人生を預けるな」と述べている。

 面白いのは、アメリカのヒーロー像というのは、スーパーマン、バットマン、スパイダーマンのように市民(個人)が主役だが、日本のヒーロー像というと、お上(遠山の金さん、水戸黄門、銭形平次、ウルトラマン、仮面ライダーなど)が主役になっていると指摘しているところだ。言われてみると確かにその通りではある。“お役人=正義の味方”という刷り込みが行われてきたのではないか?と疑われても仕方がないほどに偏っている。
 そして「寡頭制」という聞き慣れない日本の支配体制にも触れられており、多読家の勝間氏ならではの解釈で分かり易く書き連ねられている。勝間氏は大前氏と同じコンサルティング会社のマッキンゼー出身だけに、今後も合理的な視点から日本社会の問題点を指摘していってくれるのではないかと期待している。『銀行に〜』、『会社に〜』、とくれば、次は、『お上に生命を預けるな』の3部作刊行を期待したいところだ。

 以上、今回の新型インフルエンザ問題で、日本社会に別の意味での危機感を覚えた人は、是非、上記の3冊だけでも読んでいただきたいと思う。
 思考せずして正しい現実を認識することも理想を語ることもできない。思考せずして成功も発展もなく、思考せずして不況からの脱却もないということを知る上で格好の教材となるはずだ。

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『消費者いじめ』の薬事法暫定措置

2009052401 6月から施行されることになっていた『薬事法施行規則』(改正薬事法)の改正案が厚生労働省から発表された。その改正案とは、「2年間の経過措置」というもので、顧客が今までにネット販売を利用して購入していた薬に限り、2年間の通販を認めるというものらしい。早い話が、今まで購入していて問題なかったのだから、2年間位は購入し続けても何の問題もないだろうというものだ。無論、こんなのは建前であって、あまりにも世間一般からの反対意見が多かったので、渋々、暫定措置を採らざるを得なくなったというのが真相だろうと思う。
 
 しかし、販売店側に販売した薬の記録が残っていることが条件らしく、販売した記録が無ければ認められないらしい。ネット販売店であれば当然、記録は残っているのだろうが、一体、誰がそんなことを逐一調べるのだろうか? もしかして、新たに『ネット販売特別調査Gメン』でも設けるつもりだろうか?と勘ぐりたくもなる。
 
 薬というものは、販売店がメインの商品ではなく、消費者がメインの商品だ。置き薬屋は別として、通常、薬販売店が顧客に対して薬を売りつけるものではなく、顧客が病気になることで初めて需要が発生するものだ。つまり、“販売店が売りたい”よりも、“顧客が買いたい”が先にあるのである。言い換えれば、“売ってはいけない”ではなく、“買ってはいけない”というのが、今回の薬事法改正の本質なのだ。
 顧客が「買いたい」と思っても、その薬を以前にネットで購入したことがなければ、ネットでは買えない。顧客がネットでオーダー(注文)すると、販売店は「お客様は以前にそのお薬を購入しておられませんので、お売りできません」と言わなければならないことになる。これが「消費者保護」とは聞いて呆れる。
 もしそれが珍しい薬で、最短で手に入れるにはネットでしか不可能である場合はどうなるのだろう? なかなか市場に出回っていない奇病の薬を長時間ネット検索した結果、ようやく発見できたとしても、そのネット販売店では買うことができず、わざわざ足を運んで購入しに行かなければならないということであれば、それは消費者無視どころか、ただの消費者いじめではないのか? もし仮にそのことが原因で患者が重大な後遺症を残した場合や死亡してしまった場合、厚生労働省は責任を取ってくれるのだろうか?
 「我々は消費者保護に努めておりましたが、結果的に消費者を傷つけてしまいました」と公然と発表するだけの責任を自覚しているのだろうか?
 
 検討会委員の薬害被害者代表は「過去に同じ薬を売っていたことをチェックするのは難しく、これまで通り、誰でもネットで薬が買える事態になる」と批判しているそうだが、ネット販売を禁止したことで発生する危険はどうでもいいのか? そもそもこれまでにネット販売が原因となった薬害が有ったのだろうか? もしそんな事件があれば、とうの昔にネット販売規制は有無を言わさず施行されていただろう。
 
 昔から「毒を以て毒を制す」と言うが、薬というものは基本的には毒物だ。その証拠に、例えば、風邪薬であっても胃腸薬であっても、処方する量を誤れば死亡してしまうこともある。正露丸を1瓶まるごと飲んでしまえば死亡するかもしれないということは、それは充分に危険な毒物であるということだ。醤油やソースをカブ飲みした程度では死ぬことはないだろうが、薬をガブ飲みすれば死んでしまう。
 何が言いたいのかというと、結局、対面販売であろうがネット販売であろうが、薬の販売には常に危険が伴うということだ。リスクを伴わない薬販売などは無いのである。危険だという理由で禁止しなければならないというのであれば、対面販売も禁止しなければならないということになる。その結果は? 日本中で薬の販売も製造も中止され、病気を患った人間が大量に死亡して人口が激減というトンデモない事態を招くことになる。さて、そんな狂った事態を招いてしまった原因とは何だったのか? 答えは無意味な『消費者保護』ということになる。
  
 まあそれでも、一応は暫定措置が出ただけでも、この国が完全な独裁国家にまでは堕していなかったようで少し安堵した。私も僅か1票とはいえ、反対署名した甲斐があったというものだ。
 今後2年間の間に更なるネット販売の利便性と優位性、そして対面販売にこだわる無意味さを多くの人々が理解して、無意味な規制を撤廃する方向に世論が向かってくれればと思う。私もこの問題については今後も度々、ブログにて記事を書いて協力していきたいと思っている。こんな馬鹿な規制を行えば、ネット業者だけでなく、日本経済自体が停滞し、国民全員が迷惑する(=貧しくなる)ということを小出しに説明していきたいと思っている。

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お上依存国家の悲喜劇【パニック症候群】

2009052001 新型インフルエンザが猛威を振るっている(?)らしい。相変わらず、日本国中、テロリストでも入国したかのような騒ぎぶりで、大阪・兵庫では1人も感染した生徒が出ていないにも関わらず教育機関は停止(学級閉鎖)し、マスクを付けて通勤することを義務付けている企業もあるらしい。
 
 新型インフルエンザが関西の景気に悪影響を与えるのではないか?と懸念されつつも、世間一般ではマスクやインフルエンザ関連商品が飛ぶように売れ、まるでインフルエンザ特需にでも沸いているかのような雰囲気が漂っている。日経平均株価もインフルエンザ銘柄によって押し上げられる形で上昇しているという有り様で、景気に悪影響どころか、逆に良い影響すら与えているかにも見える。来月から始まる上場企業の株主総会でも参加者全員にマスクが配布されるだろうことは想像に難くない。
 
 しかし、以前にも指摘した(→豚インフルエンザとパンデミックパニック)通り、インフルエンザウイルスにマスクは無効だ。身も蓋もない言い方だが、これは科学的にも証明された事実であるので否定しようがない。
 まあ、国民の大部分がマスクを購入して景気が良くなるのであれば、黙っておいてもそれほど損害は出ない(マスク程度なら騙されて購入したとしてもたかがしれている)ので、とやかく言う気はないが、この右向け右の国民性には閉口せざるを得ない。
 とにかく、右を向くも左を向くも全てお上の発表次第。なるほど、確かに右を向いても左を向いても、自分の頭で物事を考えようとしない子供のような大人ばかりがマスクを付けて街中を徘徊しているかにも見える。
 そもそもマスクというものは、風邪をひいた本人が他人に風邪を伝染さないために気を遣って着用するものではなかったのだろうか? 企業が社員にマスク着用を指示しているのは、お客様に対する礼儀としての意味合いもあるのかもしれないが、単に風邪を伝染されたくないという意味合いでマスクを着用しろと言っているのだとすれば、効果が無いのだから、喜劇と言うしかない。

 さすがの政府も、国民の行き過ぎたパニックを危惧してか、冷静になるようにと指示を出し始めたようだが、悲しいかな、遅きに失した感がある。多くの国民の心には既にパニックウイルスに侵入し、豚インフルエンザよりも先に別の病気を患ってしまったようだ。病名は無論「パニック症候群」である。
 このパニックウイルスは豚インフルエンザ以上に感染スピードが速く、既に日本国中に蔓延してしまっている。このパニックウイルスに対しては抗体を持っている人もいる。その抗体は「思考」することによって得ることができる。元々、抗体を持っていない人であっても「自分の頭で考える」ことで体内にワクチンを作ることが可能だ。
 …と、ブラックジョークはこの辺で措いておくとして、豚インフルエンザに関しては、もういい加減に冷静になった方がいいのではないかと思う。集団感染の恐れがあるからという理由で学校を休みにしても、このままいくと日本全国の学校が学級閉鎖に追い込まれることは目に見えている。休んだ分は夏休みに振り替えるということだが、その夏休みに事態が収拾されているという保証もなく、逆に事態が悪化している可能性の方が高いかもしれない。こんな過剰な対応をいつまでも行っていると、1年中、学級閉鎖ということにも成りかねないということも考える必要があるだろう。そんなことになれば、学級閉鎖どころか、学校閉鎖(=学校崩壊)となり、全員進級できないという馬鹿な結果を招きかねない。
 
 大体、学校に行くか行かないかを、お上が勝手に決めてしまうことに対して、なぜ多くの人は疑問に思わないのだろうか? 私にはそれが不思議でならない。インフルエンザが流行っていようがいまいが、「学校に行って勉強がしたい」と言う学生は誰もいないのだろうか? 「自己責任で学校に行きます」という気概のある子供は誰もいないのだろうか? もちろん、いるだろう。「なぜ学ぶ権利自体までお上に一任しなければならないのか!」と言う気概のあるチルドレンやペアレンツが出現することを期待したい。無論、気概のあるティーチャーも歓迎だ。
 
(上記見解は、今回の新型インフルエンザが、通常の季節性インフルエンザと同等か、もしくはそれ以下の症状であるという前提から述べています。そしてそのことは既に証明されていますので、感情的なパニック反論やパニック批判はご遠慮願います。)

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「精神論」の是非と真の景気対策とは?

 大手電機9社の2009年度3月期決算が発表されたが、三菱電機を除く8社が赤字決算となったようだ。今年の2月の時点では三洋電機も損益0で一応の黒字という予想だったが、赤字に転落してしまったようだ。
 ちなみに大手9社は以下の通り。
2009051701
  日立製作所
  パナソニック
  ソニー
  東芝
  富士通
  NEC
  三菱電機
  シャープ
  三洋電機
  
 このところの不況による“消費減退”と“円高”が赤字の原因とされているが、各社は更なる人員削減と工場などの海外移転化などによって急場を凌ごうと考えているようだ。
 
 ところで、このところ、社員の士気を高めて不況に立ち向かうという日本企業お得意の「精神論」はあまり聞かれなくなった。出てくる不況対策は経費削減のリストラ策ばかりで前向き(?)な対策はどこかへ吹き飛んでしまったかのようだ。
 私は基本的に「精神論」否定論者ではないが、かつて日本企業で大流行りした「精神論」とは何だったのか? そしてそれは今後必要なものなのかについて少し考えてみたいと思う。
 
 「精神論」というものを考える場合、どうしても避けて通れない大事な点がある。それは何かというと、「需要と供給の問題」だ。かつての日本経済の成長期には旺盛な需要が存在した。いくら仕事をしても次から次へと仕事が入ってくるという巨大な需要が存在したために、その需要に応えること(つまり供給の拡大)こそが企業の大きな使命だった。
 具体的な例で言うと、100人の従業員を抱える企業に対して、150人分の仕事が常に存在したために、企業の目的は、いかに多くの仕事をこなすことができるかということだった。100人で110人、120人、130人分の仕事をこなせるようになることが第一目的に成らざるを得ない時代だった。そのために、各企業は自前の企業哲学というものを唱え、社員の士気を向上させることによって仕事の合理化に努めた。元々勤勉な国民性も手伝い、この企業精神論は大きな力を発揮した。実際に従業員達は真面目に仕事をこなし、より多くの供給を社会に返すことに成功した。その甲斐もあってか、日本製の企業哲学がもてはやされ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というような言葉も生まれ、日本は好循環に支えられた経済大国となり、黄金の時代を謳歌した。
 
 しかし、時代は変わり、現在では経済規模(=需要)自体がかつての60%にまで低下した。これは要するに100人に対して、100人分の仕事が有るか無いかというような状態になったことを意味している。こういった需要減退社会にあっては、100人の人が110人、120人、130人分の仕事をこなす理由がなくなったということを意味している。しかし、各企業は“仕事が減った”という別の理由から合理化に努めなければならなくなった。企業は「限られた需要」という名のパイを奪う競争に明け暮れた結果、必然的に仕事が無くなるという企業が生まれることになった。(もちろんこれは日本国内だけの話で済むものではないので、そうなった理由は他にもある)
 
 さて、もう一度、「精神論」に話を戻そう。例えば、100人に対して80人分の仕事しか無いような時代であれば「精神論」は必要だろうか? 答えは難しい。精神論が合理化を齎すものであるならば、それはいつの時代でも必要ではある。しかし、需要減退社会にあって精神論を追求すればするほど、企業間格差や所得格差が発生することになることもまた(皮肉な)事実だ。需要が有り余っている時代における格差は有って然るべきであり否定するべきものではないが、需要が足りない時代に発生する格差は少し問題かもしれない。
 競争(または努力)することによって格差が生まれることは仕方のないことであり、「格差は何でも悪」というような評論家は間違っている。しかし、競争(努力)することによって格差を埋めることができるという前提があってこその格差肯定であり、競争(努力)する前から既に格差が存在しており、格差を埋めることができないような社会では、話は別だ。
 
 というわけで、需要激減という大不況の最中にあって、「精神論こそが不況を打破する」とか「不況から脱することができないのは精神論が失われたからだ」と言うような意見は、現実が見えていない妄説と言えなくもない。
 では「精神論」は無用なのか?と言えば、そうではない。しかし唯一絶対的に必要なものとは言えない。では何が必要なのか?と言うと、答えは「需要」だ。需要激減という大不況の最中にあって本当に必要なものとは、「需要」と言うほかない。つまり、「新たな仕事」を創り出すことだ。(注意:公共事業のことではない)
 
 精神論経営の甲斐無く赤字経営に陥った企業が為すべきことは、際限のない安値競争に明け暮れて自分だけが生き残ろうとすることではなく、新たな需要を創り出すことにこそ、そのエネルギーを使うべきなのだ。そして政府はそういった企業の努力を支えることにこそ限られた税金を使用するべきだろう。それこそが、本当の景気対策だと言える。

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現代の「天動説」と「地動説」

 『2020年までの日本の温室効果ガス削減目標』というものがある。これは中期目標に当たるそうだが、政府の検討委員会は次の6つの案を出しているらしい。
(1990年比) 2009051201
 1、4%増
 2、1%増〜5%減
 3、7%減
 4、8〜17%減
 5、15%減
 6、25%減
 
 この6案に対して、日本経団連の御手洗冨士夫会長が「1」を支持すると発表したことで物議を醸しているようだ。京都議定書の目標数値が6%減だということから、斉藤鉄夫環境相は御手洗氏に対し「そんな甘い目標では日本の国際社会における地位を貶めることになり世界の笑い者になる」と批判したらしい。
 
 CO2削減が地球温暖化にどれくらいの影響があるのかは様々な意見が飛び交っているが、未だハッキリとしたことは判らないというのが現状であるらしい。地球温暖化説ではなく、逆に地球寒冷化説を唱える科学者もいるぐらいなので、これは言わば現代の「天動説」と「地動説」のようなものなのかもしれない。

 地動説というものは科学の進歩とともに証明されることになったが、地球温暖化や地球寒冷化というものは科学が進歩したとて証明する術がない。天動説や地動説というものは事実の証明だが、地球温暖化や地球寒冷化というものは未来における自然現象のことなので、予測はできたとしても現時点では誰にも証明することができない予言のようなものであるからだ。こういった確かな答えが無いものというのは、得てして詐欺や騙しが横行しやすい。多くの人々が理解・認識できないものが騙しに利用されるというのは歴史の常でもある。
 
 と言っても(書いても)、私はここで陰謀論の類いを述べるつもりはない。現実的な視点から、『温室効果ガス削減目標』というものを少し考えてみたいと思う。
 
 まず、御手洗氏がなぜ「1」の4%増加を選択したのか?ということを考える必要があると思う。環境先進国と言われる日本という国で、日本経団連の会長という社会的責任のある人物が「1」を支持すれば批判されることになるだろうことは誰にでも想像できると思う。それでも御手洗氏は敢えて「1」を選択した。いや、おそらく選択せざるを得なかったのではないだろうか? なぜ? 「日本経済の発展を見据えれば。」 それが答えではないだろうか?
 
 「CO2削減は善、CO2排出は悪」と述べることは簡単だが、実際に世界経済を舞台に働いている企業人から観れば、そんな発言はただの建前に過ぎないことは言うまでもない。製造業の企業がCO2の削減を至上命題にしてしまうということは、イコール売上減少、利益減少を余儀なくされることを意味している。
 「CO2を削減する」ということは、結局のところ“モノを作るエネルギーを削減する”ことと同義だ。つまり、換言すれば「モノを作るな」ということに他ならない。この不況下でモノを作るなと言われても、企業人としては困ってしまう。海外企業は誰にも文句を言われずにせっせとエネルギーを利用してモノを作っているのに、日本だけがモノを作らない方向に経営をシフトするわけにはいかない。そんなことを本気で行えば日本経済が崩壊しかねない。いくら建前であっても簡単に認めるわけにはいかないというのが御手洗氏の本音ではないかと思う。

 よく、「CO2排出は悪だ」と恥ずかしげもなく言う善人気取りの人がいるが、その言葉を突き詰めると、「人間が為す経済活動は全て悪だ」ということになってしまう。もっと極言すれば、「人間が築いた現文明は全て悪だ」さらに言えば「人間が生きていること自体が悪だ」となってしまう。こんなのはただの暴論でしかないことは誰にでも分かると思うのだが、『CO2削減教』にハマった人々には現実が見えないのかもしれない。彼らは二酸化炭素の無い理想的な世界でも夢に描いているのかもしれないが、残念ながらそんな世界には人間は住むことができない。そんな世界がもしあるとすれば、それは天国ではなく地獄だと考えるべきだろう。
 CO2削減に努めることは「善」なのかもしれないが、現実的には努力し過ぎると返って悪くなってしまうということも考える必要がある。無駄を無くすことは善いことだと思うが、生活に必要な生産自体を縮小してまでCO2を削減しても意味がないと思える。
 人間社会は、生産し消費するというシステムで成り立っており、人間はその中で生活している生き物なのだから、生産も消費もこの世から無くすことは基本的にはできないということを前提に考える(議論する)べきだろう。

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豚インフルエンザとパンデミックパニック

2009051001 このところ、テレビや新聞では豚インフルエンザの話題でもちきりとなっているが、ついに大阪の寝屋川市の高校生ら3人が感染したということで、またまた大騒ぎ(ほとんどパニック状態)になっている。これまでも感染した疑いがあるというだけで散々騒いだ挙げ句、結局、陰性だったという人が何人もいたが、はたして感染前にあのような過剰な報道をする必要があったのだろうか?
 世界的にも少し過剰報道だったという反省も見られるようだが、日本だけは例外のようだ。まるで致死率数十%の新ペスト菌患者でも入国したような騒ぎぶりだが、実際のところは通常のインフルエンザと変わらない(むしろ症状的には軽い)らしく、諸外国でも感染して死亡に至っているケースは稀で、老人や幼児、または病気で体力(抵抗力)のない人に死亡リスクがある程度だということが判っている。
 
 「老人や幼児に死亡リスクがあるなら危険ではないか!」と批判される人がいるかもしれないが、それなら通常のインフルエンザと同様だということを考える必要がある。死亡リスクのないインフルエンザなどは存在しないということも併せて考える必要がある。通常のインフルエンザでも世界中で毎年、数万人の人が亡くなっているという現状を考慮すれば、新型の豚インフルエンザが流行すれば、当然、数万人の死者が出ることは避けられないと考えるべきだろう。(別に死亡者が出ることを肯定しているわけではありません、念のため)
 問題は、感染が世界中に拡がった場合、死亡者が数万人で済むかどうかということだったわけだが、先にも述べた通り、今回の豚インフルエンザは通常のインフルエンザよりも症状は軽いということが判明している。そして、タミフルなどが効かないというわけでもない。つまり、極論すれば、通常のインフルエンザが流行っているという程度のニュースなのである。決して軽いニュースではないのだが、通常のパンデミックの範囲内の出来事であり、かつてのスペインかぜペストコレラのような危機的なものでは有り得ないことは既に判明しているのである。
 
 インフルエンザが流行すると決まったようにマスクが爆発的に売れるそうだが、今回も例に漏れず、風邪用のマスクが飛ぶように売れているらしい。マスク関連株式銘柄(シキボウなど)は暴騰しているようだ。
 しかし、実際のところは、マスクではインフルエンザウイルスを完全に防ぐことはできない。マスクと肌の隙間からウイルスが侵入するだろうことは誰にでも想像できると思うが、実はマスク自体にもウイルスを遮断することはできない。インフルエンザウイルスを本当に遮断するためには、密閉型の防毒マスク(ガスマスク)でも付けるしかない。このことは以前にも当ブログで紹介した本『インフルエンザワクチンは打たないで』にも書かれているので間違いない。(該当記事→BOOK『インフルエンザワクチンは打たないで』)
 要するに、現在、マスク姿の人をよく見かけるが、残念ながら、それらは気休めにしか過ぎないということだ。もっとも、気休めであっても信じることによって(インフルエンザワクチンと同様?)プラシーボ効果はあるかもしれないが…。
 
 しかし、このままパニックを助長するマスコミの過剰報道が続けば、ウイルスを国内に持ち込んだ学生達は国賊(またはテロリスト)扱いになってしまうかもしれない。あるいは、高価な業務用のガスマスクが飛ぶように売れ、街行く人々がハロウィンの如く、様々なガスマスクを顔面に装着している姿を見ることになるかもしれない。
 まるで笑い話のようだが、実際に笑い話にしかならないようなことが平然と行えてしまうのがこの国の哀しき特徴でもあるので、心配の種もブログのネタも尽きない。

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定額給付金の利用価値とは?

2009050601 ゴールデンウィーク中に某有名電機ショップに出かけると、次のような店内放送が流されていた。
 
 「定額給付金が出たら、○○○○○で買い物しよう」
 
 なるほど、確かに1人12000円〜20000円程度の給付金では、電機製品の購入がもっとも適しているのかもしれない。18歳までの学生であれば、音楽プレーヤー(iPod)を購入する人は結構いるのだろうと思う。本来であれば、携帯電話を買い替える人が大勢いてもおかしくないところだが、以前から何度も述べているように残念ながら今回の定額給付金では、携帯電話は購入対象品から外れてしまう。
 
 さて、実施されるまで批判の多かった定額給付金だが、ゴールデンウィーク前には既に多くの人が文句を言わずに受け取ったようだ。通常は銀行振込で受け取ることになるようなので文句を言いたくても言えないのだが、少なくとも貰った給付金は消費にまわさないことには景気は良くならないので、私も12000円は買い物券と思って使用させてもらった。
 何を購入したのかと言うと、当ブログ左欄でもご紹介しているロジクールのPC用スピーカー(Z4i)と、同じくロジクールのマウス(TM-250 トラックマン ホイール )、そして本を何冊か購入して12000円を消化した。
 
 ロジクール(スイス)というメーカーは、パソコン用のキーボードやマウスで有名だが、最近はスピーカーでも人気があるらしいので、定額給付金を利用して試しに購入してみた。実際に音を聴いてみると、明らかに昔のPCスピーカーとは一線を画しており、その音の進歩にはちょっとしたカルチャーショックを覚えてしまった。
 店頭で3万円以上するBOSEのスピーカーと聴き比べてみたのだが、値段ほどの差は感じられず、“万人受けする音”という意味では、ロジクールスピーカーに軍配が上がるかもしれない。
 パソコンのiTunesと、こういった安価で高音質のPC用スピーカーさえあれば、もはや昔の高価なオーディオセットなどは無用の長物と化してしまう(私も実際にそうなってしまった)。オーディオメーカーには死活問題かもしれないが、消費者にとっては省スペース化に繋がることもあり有り難いことなのかもしれない。
 最近はオーディオメーカーの老舗であるオンキョーもパソコンメーカーのソーテックを買収し、パソコン寄りの製品を製造しているようで、低価格化と高音質化の相乗効果で販売も好調で業績も盛り返してきているらしい。

 定額給付金に話を戻そう。ネット上ではいくつかの『定額給付金アンケート』なるものが実施されており、「定額給付金が100万円なら何に使用しますか?」というアンケート(下記参照)があったので、私もアンケートに答えてみた。しかし、現実問題としては1人100万円の定額給付金などは有り得ない(総額200兆円を超えてしまう)。今回の定額給付金2兆円でも、実際には非常な大金だ。庶民的な感覚では「2兆円」と言われてもあまりピンとこないかもしれないが、2兆円を積んでみると、距離にして20kmにもなる。(1億円で1mと考えれば、2兆円で20000mになる)
 そう考えると如何に莫大な金額かが分かる。この2兆円が全て消費にまわされることになれば、一時的には確かに景気が回復するかもしれない。しかし、あくまでもそれは一過性の対症療法に過ぎず、継続的な景気回復策では有り得ないことも確かだ。

 まあそれでも、風が吹けば桶屋が儲かる、いや、人間万事塞翁が馬という諺もあるように、小さな景況感の変化が大きな景気回復に繋がる可能性が全くないと言い切ることはできない。ただ、そういった小さな可能性を未来に繋げることができるかどうかは、人々が定額給付金というものを全て消費にまわすことができるかどうかにかかっている。全員がセコい考えを捨てて、一致して協力することができれば、金余りの日本の景気などは直ぐさま回復する可能性が高いのだが、他人の足を引っ張ることが生き甲斐というような人が大勢を占めているためか景気は悪くなる一方だ。景気を回復する手段(お金)は持っているのに、目的自体がバラバラなので、景気を回復させることができない。そういった愚かな国民性が景気回復を阻んでいるということに気が付いてくれればいいのだが、これが一番難しいことなのかもしれない…。

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『メーデー』という風化した記念日

2009050101 ゴールデンウィークのこの時期になると、毎年決まったように「メーデー」という言葉を耳にする。英語で表記すると「May Day」となるそうだが、国際的には『5月1日の労働者の日』という位置付けになるらしい。
 日本でもメーデーは“労働者の権利を主張する”という名目で開かれる組合主体の恒例行事となっているが、どうも観ていて違和感を感じてしまう。以前からもずっとその違和感を持ち続けていたのだが、現在のような世界的な不況の最中にあっては、もはや違和感を通り越して“異常感”とも言うべきものが漂っているような気がする。
 この違和感の正体が、『資本家 対 労働者』という古ぼけた闘争の構図であるということに気が付いたのは大分前のことになるが、現代ではそういった構図自体がもはや成り立っていないにも関わらず、相も変わらず労働者の権利を声高に主張している。そんなミスマッチな光景を観ても何も感じないことが私には不思議に思えてならない。

 昔のように土地を持っていなければ商売ができないというような時代であるなら、身分の違いだけで広大な土地を持っていた資本家を敵と見なし、労働奴隷として搾取されたお金の一部だけでも奪い返そうという気持ちが芽生えても仕方がないとは思うが、現代は別に土地を持っていなくても資本家(=経営者)になることが可能な時代だ。
 例えば、インターネットという環境の中で商売を行うのであれば、目に見える土地の大きさなどは関係がない。その世界にあるのは目に見えない広大無辺な仮想空間だけであり、その土地には限りがあるわけではないので、いくらでも所有することは可能だ。もちろん、その土地に人を呼び込む才能が無ければ商売は成り立たないだろうが、誰にでも分け隔てなく公平に開かれた空間が用意されている。グーグルの創設者にせよ、ソフトバンクの孫 正義氏にしても、元々、広大な土地や莫大な資産を持っていたわけではなく、その類い稀な先見性とアグレッシブな行動力によって他人よりも先に目に見えない空間を支配しただけのことであり、別に労働者から労働資本を搾取して成功者になったわけではない。そういった個人の商才を生かしリスクをとって成功した人間を「資本家」呼ばわりして批判の対象としてしまうのは、ただの嫉妬でしかないように思える。

 この目に見えない空間のことを詳細に述べた本に、大前研一氏の『新・資本論』(The Invisible Continent)という名著がある。大前氏の著作は非常な先見性に満ちていることで有名だが、その中でもこの本は出色の出来栄えと言え、まさに時代を先取りした予言書的な内容となっている。
 
 話をメーデーに戻そう。メーデー(5月1日)に先だって、4月29日にも連合メーデーというものが開かれたそうだが、代表者は締めくくりの挨拶として「第80回メーデーを契機に、日本社会の有り様に怒りを込め、正規労働者も非正規労働者も共に連帯し、勤労国民の先頭に立ってたたかおう」と述べたらしい。
 この言葉を3ブロックに分けて考えてみよう。
 
 「日本社会の有り様に怒りを込め」
 「正規労働者も非正規労働者も共に連帯し」
 「勤労国民の先頭に立ってたたかおう」

 まず初めの「日本社会の有り様に怒りを込め」という部分は極めて抽象的な言葉だ。日本の労働市場の有り様のことを述べているにしても、こんな抽象的な意見では何に対して怒りを感じているのかがよく分からない。この連合メーデーに集った36000人の参加者達も、果たして皆が同じものに対して怒りを感じていたのかは疑わしいと思う。単に政治に対して怒りを覚えていた人もいるだろうし、派遣社員のクビ切り問題に対して怒りを感じていた人もいるだろう。しかし残念ながら、そういったバラバラでまとまりのない近視眼的な怒りを個々人が持ったところで社会は良くはならないということを知る必要があると思う。
 問題は、こういったメーデーに集っている大勢の人間達が、怒りを感じるべき対象を正確に捕えていないことであり、まずは、そういったあやふやな社会こそを是正するべきだということが全く理解できていないところにある。つまり、自分達がメーデーに参加している明確な理由を理解できていないことこそが問題なのだ。
 
 次に「正規労働者も非正規労働者も共に連帯し」と続くが、よく考えるとこれもおかしいと思う。
 正規労働者と非正規労働者が共に連帯するべきだと言うのであれば、それは、現状の労働システムをそのまま維持することが前提という論理になってしまう。非正規労働者の労働条件を改善するためには、同一の仕事は同一の賃金という労働の公平性を目指す以外に問題を解決する術はない。まず、そういった公平性を実現した上での連帯でなければ何の解決にもならない。
 
 最後に「勤労国民の先頭に立ってたたかおう」とあるが、一体、誰と闘うというのだろうか? 強欲な資本家か? それとも悪どい大企業の経営者達とでも言うのだろうか? 大体、現在では、かつてはロクに働かずに所得を得ていた経営者達も、自ら汗水たらして働いている。(注意:民間企業に限る)
 現在の中小企業の経営者などは、自ら率先して働いており、厳しい不況の中、ギリギリの経営を行っている人も大勢いる。そういった会社で毎日顔を合わせて働いている社員達が、その経営者に対して「もっと給料を出せ!」と言って戦えと言うのだろうか?
 
 世の中には本当に悪どい守銭奴のような憎むべき経営者もいるのだろうが、ほとんどの経営者は、この不況で苦しい経営状態に追い込まれている。現在は、経営者という立場にありながら、労働者として働いている経営者が大勢いるわけで、そういった現実を直視すれば、もはや『資本家 対 労働者』などという古ぼけた価値観は“妄想”でしかないということに嫌でも気が付くはずだ。そんな古ぼけた価値観にいつまでもしがみついていることこそが、実はいつまで経っても労働条件が一向に改善しない最大の原因でもあるということを知るべきだろう。

 そもそも労働者というものは大きく2種類に分けられる。例えば、給料が30万円として、その給料分の仕事ができる人とできない人に大別することができる。具体的な例で言えば、60万円分の仕事をして30万円しか給料をもらえない人と、20万円分の仕事をして30万円も給料がもらえる人の2種類の労働者が存在している。
 前者が経営者に対して「もっと給料を出せ!」と言うのなら理解できるが、後者が「もっと給料を出せ!」と言うのは、どう考えてもおかしい。むしろ、経営者が「もっと働け!」と言う方が自然な状態だとも言える。

 身も蓋もない言い方かもしれないが、メーデーというものに参加している人達の中にも、こういった2種類の労働者達が混在しているということを知る必要があると思う。労働者の権利を主張するといっても、その労働者としての権利を主張するだけの条件を満たしていない労働者もいるわけだ。自らの足下も見えずに、権利を主張するだけなら、それはただの責任転嫁でしかないと思う。

 “組合が求めている労働条件の改善”と“非正規労働者達が漠然と抱いている労働条件の改善”は果たして同じものなのだろうか? もし両者の目的としているものが違ったものであれば、労働条件が良くなることは決して有り得ないと考えるべきだ。
 労働者達が、労働条件の改善を求めて組合主催のメーデーに参加していること自体が、既に自己矛盾に陥っているかもしれないという疑問に多くの労働者達が気が付かない限り、労働条件はいつまで経っても良くはならないだろう。こんなことはよく考えれば誰にでも解ることだと思うのだが、権利のみを主張する人間には、そういった当たり前のことすら見えなくなってしまうのだろうか? あるいは、それが解っていながら、1年に1回のお祭りとしてのメーデーごっこを行っているのだろうか? お祭り好きの日本人であるがゆえのメーデーごっこなら良いのだが、そうでないとしたら、日本の労働者達の未来は…(以下自粛)。

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