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『メーデー』という風化した記念日

2009050101 ゴールデンウィークのこの時期になると、毎年決まったように「メーデー」という言葉を耳にする。英語で表記すると「May Day」となるそうだが、国際的には『5月1日の労働者の日』という位置付けになるらしい。
 日本でもメーデーは“労働者の権利を主張する”という名目で開かれる組合主体の恒例行事となっているが、どうも観ていて違和感を感じてしまう。以前からもずっとその違和感を持ち続けていたのだが、現在のような世界的な不況の最中にあっては、もはや違和感を通り越して“異常感”とも言うべきものが漂っているような気がする。
 この違和感の正体が、『資本家 対 労働者』という古ぼけた闘争の構図であるということに気が付いたのは大分前のことになるが、現代ではそういった構図自体がもはや成り立っていないにも関わらず、相も変わらず労働者の権利を声高に主張している。そんなミスマッチな光景を観ても何も感じないことが私には不思議に思えてならない。

 昔のように土地を持っていなければ商売ができないというような時代であるなら、身分の違いだけで広大な土地を持っていた資本家を敵と見なし、労働奴隷として搾取されたお金の一部だけでも奪い返そうという気持ちが芽生えても仕方がないとは思うが、現代は別に土地を持っていなくても資本家(=経営者)になることが可能な時代だ。
 例えば、インターネットという環境の中で商売を行うのであれば、目に見える土地の大きさなどは関係がない。その世界にあるのは目に見えない広大無辺な仮想空間だけであり、その土地には限りがあるわけではないので、いくらでも所有することは可能だ。もちろん、その土地に人を呼び込む才能が無ければ商売は成り立たないだろうが、誰にでも分け隔てなく公平に開かれた空間が用意されている。グーグルの創設者にせよ、ソフトバンクの孫 正義氏にしても、元々、広大な土地や莫大な資産を持っていたわけではなく、その類い稀な先見性とアグレッシブな行動力によって他人よりも先に目に見えない空間を支配しただけのことであり、別に労働者から労働資本を搾取して成功者になったわけではない。そういった個人の商才を生かしリスクをとって成功した人間を「資本家」呼ばわりして批判の対象としてしまうのは、ただの嫉妬でしかないように思える。

 この目に見えない空間のことを詳細に述べた本に、大前研一氏の『新・資本論』(The Invisible Continent)という名著がある。大前氏の著作は非常な先見性に満ちていることで有名だが、その中でもこの本は出色の出来栄えと言え、まさに時代を先取りした予言書的な内容となっている。
 
 話をメーデーに戻そう。メーデー(5月1日)に先だって、4月29日にも連合メーデーというものが開かれたそうだが、代表者は締めくくりの挨拶として「第80回メーデーを契機に、日本社会の有り様に怒りを込め、正規労働者も非正規労働者も共に連帯し、勤労国民の先頭に立ってたたかおう」と述べたらしい。
 この言葉を3ブロックに分けて考えてみよう。
 
 「日本社会の有り様に怒りを込め」
 「正規労働者も非正規労働者も共に連帯し」
 「勤労国民の先頭に立ってたたかおう」

 まず初めの「日本社会の有り様に怒りを込め」という部分は極めて抽象的な言葉だ。日本の労働市場の有り様のことを述べているにしても、こんな抽象的な意見では何に対して怒りを感じているのかがよく分からない。この連合メーデーに集った36000人の参加者達も、果たして皆が同じものに対して怒りを感じていたのかは疑わしいと思う。単に政治に対して怒りを覚えていた人もいるだろうし、派遣社員のクビ切り問題に対して怒りを感じていた人もいるだろう。しかし残念ながら、そういったバラバラでまとまりのない近視眼的な怒りを個々人が持ったところで社会は良くはならないということを知る必要があると思う。
 問題は、こういったメーデーに集っている大勢の人間達が、怒りを感じるべき対象を正確に捕えていないことであり、まずは、そういったあやふやな社会こそを是正するべきだということが全く理解できていないところにある。つまり、自分達がメーデーに参加している明確な理由を理解できていないことこそが問題なのだ。
 
 次に「正規労働者も非正規労働者も共に連帯し」と続くが、よく考えるとこれもおかしいと思う。
 正規労働者と非正規労働者が共に連帯するべきだと言うのであれば、それは、現状の労働システムをそのまま維持することが前提という論理になってしまう。非正規労働者の労働条件を改善するためには、同一の仕事は同一の賃金という労働の公平性を目指す以外に問題を解決する術はない。まず、そういった公平性を実現した上での連帯でなければ何の解決にもならない。
 
 最後に「勤労国民の先頭に立ってたたかおう」とあるが、一体、誰と闘うというのだろうか? 強欲な資本家か? それとも悪どい大企業の経営者達とでも言うのだろうか? 大体、現在では、かつてはロクに働かずに所得を得ていた経営者達も、自ら汗水たらして働いている。(注意:民間企業に限る)
 現在の中小企業の経営者などは、自ら率先して働いており、厳しい不況の中、ギリギリの経営を行っている人も大勢いる。そういった会社で毎日顔を合わせて働いている社員達が、その経営者に対して「もっと給料を出せ!」と言って戦えと言うのだろうか?
 
 世の中には本当に悪どい守銭奴のような憎むべき経営者もいるのだろうが、ほとんどの経営者は、この不況で苦しい経営状態に追い込まれている。現在は、経営者という立場にありながら、労働者として働いている経営者が大勢いるわけで、そういった現実を直視すれば、もはや『資本家 対 労働者』などという古ぼけた価値観は“妄想”でしかないということに嫌でも気が付くはずだ。そんな古ぼけた価値観にいつまでもしがみついていることこそが、実はいつまで経っても労働条件が一向に改善しない最大の原因でもあるということを知るべきだろう。

 そもそも労働者というものは大きく2種類に分けられる。例えば、給料が30万円として、その給料分の仕事ができる人とできない人に大別することができる。具体的な例で言えば、60万円分の仕事をして30万円しか給料をもらえない人と、20万円分の仕事をして30万円も給料がもらえる人の2種類の労働者が存在している。
 前者が経営者に対して「もっと給料を出せ!」と言うのなら理解できるが、後者が「もっと給料を出せ!」と言うのは、どう考えてもおかしい。むしろ、経営者が「もっと働け!」と言う方が自然な状態だとも言える。

 身も蓋もない言い方かもしれないが、メーデーというものに参加している人達の中にも、こういった2種類の労働者達が混在しているということを知る必要があると思う。労働者の権利を主張するといっても、その労働者としての権利を主張するだけの条件を満たしていない労働者もいるわけだ。自らの足下も見えずに、権利を主張するだけなら、それはただの責任転嫁でしかないと思う。

 “組合が求めている労働条件の改善”と“非正規労働者達が漠然と抱いている労働条件の改善”は果たして同じものなのだろうか? もし両者の目的としているものが違ったものであれば、労働条件が良くなることは決して有り得ないと考えるべきだ。
 労働者達が、労働条件の改善を求めて組合主催のメーデーに参加していること自体が、既に自己矛盾に陥っているかもしれないという疑問に多くの労働者達が気が付かない限り、労働条件はいつまで経っても良くはならないだろう。こんなことはよく考えれば誰にでも解ることだと思うのだが、権利のみを主張する人間には、そういった当たり前のことすら見えなくなってしまうのだろうか? あるいは、それが解っていながら、1年に1回のお祭りとしてのメーデーごっこを行っているのだろうか? お祭り好きの日本人であるがゆえのメーデーごっこなら良いのだが、そうでないとしたら、日本の労働者達の未来は…(以下自粛)。

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