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2009年6月

環境保護政策から生まれたコンビニ規制緩和

2009062401 コンビニの売れ残り弁当の対処法がクローズアップされている。
 今まで、売れ残った弁当は廃棄処分が義務付けられていたそうだが、今後はコンビニでもタイムサービス的に値段を下げて販売することができるようになるのかどうかが取り沙汰されている。
 この問題で注目すべきは、規制を行っているのが毎度の政府側ではなく、民間企業(セブンイレブン)側だということに尽きる。見方によっては、珍しくまともな政府の対応だとも受け取れるが、果たして問題の本質は何なのだろうか?

 コンビニというのは“いつでも買える”という利便性を追求したショップであって、決して“安価で買える”ということを追求したショップではなかった。
 40年程前までの日本社会では、深夜に営業している大型スーパーなどが存在しなかった。そこに『24時間スーパー』という触れ込みでコンビニエンスストアというチェーン店が続々と出現した。その利便性の高い販売システムは消費者から支持され、その後、コンビニ市場は大きく花開いた。しかし、その利便性の代償として、売られている商品は基本的に全て定価販売という暗黙の了解が無条件にセットされていた。不思議なことに「コンビニではなぜ値引き販売しないのか?」と言い出す消費者は誰もいなかった。
 よくよく考えると、これは実に不思議なことでもある。特に食品には賞味期限というものがあるわけだから、賞味期限の近付いた商品は赤字を覚悟してでも投げ売りしたいというのが販売店の本音であるはずだ。それに、いくら定価販売のコンビニであろうと、タイムサービスを期待する消費者は少なからずいたはずだ。しかし、この販売店(加盟店)の声も、消費者の声も、これまで全くといっていいほど聞こえてこなかった。まるで、コンビニ業界のタブーであるかの如くに。

 これまでは「賞味期限の過ぎた弁当は全て廃棄してください。」というコンビニ本部からのお達しが誰にも文句を言われることなく受け入れられていたわけだが、弁当を廃棄することによって損害を被るのは加盟店のみだった。
 加盟店が売れ残った弁当を廃棄したところでコンビニ本部は痛くも痒くもなかった。仮に加盟店が売れ残った弁当を安値で叩き売ったとしてもコンビニ本部に入る利益は変わらなかった。ではなぜ廃棄にこだわったのか? 答えは言うまでもないが、「廃棄しなければ仕入れ回転数が上がらない」というのが1つの大きな理由だろう。もしそうだとすれば、これは明らかに「加盟店&消費者無視」だと言えるだろう。もっとも加盟店になる契約書にそう書かれてあっただろうから、加盟店側が「騙された」と言えるようなものではないのだが…。
 
 具体的な例で言えば、仮に500円で販売されている弁当があったとして、仕入れ原価が200円であれば、その200円の損失は加盟店のみがカバーしなければならないという実に理不尽なシステムだったわけだ。加盟店側の販売努力が充分ではなかったと言えるのかもしれないが、売れ残った弁当は店長が自分で処分している(=食べている)というのはよく聞かれる話だ。
 確かにこんな理不尽なシステムでは、いずれは苦情が出るだろうことは容易に想像がつく。況して、時代はエコブームなのだから、食物を無駄に廃棄することは、国策としても黙って放置しておくわけにはいかなくなったのかもしれない。本来、「規制!」「規制!」と無駄な規制ばかりを行っている政府(今回の場合は公正取引委員会)だが、国策のために仕方なくコンビニを敵に回してでも規制緩和に動いたというところだろうか。背(コンビニ規制緩和)に腹(環境保護政策)は代えられないといったところかもしれない。
 
 今回の問題における対処法として、セブンイレブン側は早速、廃棄弁当の損失額の15%を引き受けるという折衷案(?)を提示している。先の例で言えば、200円×15%=30円の負担ということになるが、そこまでしてでもタイムサービス(値引き競争)は避けたいらしい。まあ確かにコンビニ業界で安値競争スパイラルが発生すれば、15%どころの損失では済まないだろうから、多少の損をしてでも得を取るというビジネス戦法なのだろうが、はたしてそれで丸く収まるかどうかは注視する必要がありそうだ。
 
 しかし、マスコミは今回の問題に対して、「賞味期限の切れた弁当を廃棄するのは勿体ない!」とか「無駄な食料の廃棄はケシカラン!」と息巻いているようだが、少し前にあった賞味期限偽装問題では、「賞味期限を1日でも過ぎた商品を販売するなどはケシカラン!」と言っていたのではなかったのだろうか?
 これは言い換えると、「賞味期限を1日でも過ぎたものは即刻廃棄するべきだ!」と言っていたようなものだから、今回の事件では全く逆のことを言っていることになる。以前は『賞味期限シール』をまるで唯一絶対的な神のように祭り上げていたにも関わらず、よくもまあ、舌の根も乾かぬうちに、いけしゃあしゃあとこんな台詞が出てくるものだと感心してしまう。この国のマスコミには、言いたいことを言う自由があるだけで、恥も外聞も責任も無いらしい。

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「同一労働相違賃金」の年功序列制度

2009061901 「同一労働同一賃金」という言葉がある。読んで字の如く、同じ労働であれば同じ賃金という、ごく当たり前の意味だが、最近、この言葉をネット上でよく見かけるようになった人は多いと思う。
 なぜこのようなごく当たり前のことが今頃になって囁かれ出したのかというと、答えは至って簡単で、このグローバル経済不況下にあっても日本ではこの「同一労働同一賃金」が実現されていないためだ。

 よく聞かれる有名な対比話に、“銀行の窓口女性”と“ファーストフードの女性販売員”というものがある。この両者を比べると、収入には数倍の開きがあるが、仕事内容としては実はそれほど変わらない。一方は“お金”、一方は“食料”と、扱っている商品の違いがあるとはいえ、接客する上での応対に収入差ほどの開きは感じられない。服装や接客態度、社員教育が徹底されているという意味でのサービスレベルの違いは少しはあるのかもしれないが、それでもサービスに数倍の差があるとは思えない。これは誰もが認めるところだろうと思う。しかし、銀行員と販売員には厳然とした収入差がある。このことは不況下であっても変わらない。この例の場合、完全な同一労働ではないにしても、過剰なまでの賃金格差があることは誰の目にも明らかだ。
 
 「同一労働同一賃金」が実現されていないと思われる例はもっと身近にもある。普通の企業を例にとってみても、新入社員とベテラン社員では同じ仕事を行っていても賃金に大きな開きがある。
 「そんなの年功序列の日本企業では当たり前だ」と言う人がいるかもしれないが、「同一労働同一賃金」を真に考える場合、年功序列制度というものを避けては通れないので話を続ける。
 
 例えば、ある機械組立工員が、プリンターを1台組み立てるとして、それを組み立てる工員の入社年度(または年齢)によって組立料金(=給料)が異なるというのは、どう考えてもおかしい。新入社員が組み立てれば1万円で、ベテラン社員が組み立てれば3万円などということは本来であれば有り得ない。組み立てに要する時間が3倍違うというなら話は別だが、単に経験や年齢だけで商品の値段が変わってくるというようなことは芸術品でもない限り有り得ないはずだ。
 ところが、日本の企業はこの有り得ないシステムを今まで採用してきた。いや、正確に言えば、ある時点までは採用することができた。なぜか? この例の場合で言えば、3倍の給料を支払っても充分に利益が出る構造であったからだ。そしてそれは同時に、若年社員の給料を限りなく安く設定していたということでもある。
 
 ところが、経済がグローバル化してしまうと、幸か不幸か、日本国内で新人とベテランの組立料金の違いなどを考えている場合ではなくなってしまった。新人が1万円、ベテランが3万円だったとしても、海外で組み立てれば、数千円でできるようになってしまえば、ベテランの価値などは吹っ飛んでしまう。そのベテランが誰にも真似のできない代物を組み立てるというなら話は別だが、ただ経験や年齢が上というだけでは、何の価値も無いようになってしまった。況して、利益率自体が急減してしまったので、3万円も支払えば企業は採算が取れないという事態に追い込まれてしまった。
 しかし、そんな事態に追い込まれても、このベテランは解雇もされず給料もほとんど下がらなかった。すると、どうなったか? その企業は倒産したか? いや、しなかった。ではどうなったのか? 新人を雇わず、臨時雇用員を雇い、組立料金を5000円に下げることで対応した。これが日本企業の年功序列制度維持の最終手段であり最後の砦だった。しかし、もはや、その最終手段も限界に達しつつあり、いつ何時、その砦が崩れるか分からないというところまで来ている。(中小企業の場合は既に崩れている)

 「年功序列制度」と聞くと、どこか「丁稚奉公」や「徒弟制度」というようなイメージを抱いてしまうが、実際のところは、ただの「ねずみ講制度」でしかなかった。早い話が、多くの日本企業では国内でしか通用しない「ねずみ講経営」を行ってきたというだけのことであり、その制度を日本特有の素晴らしい文化だと礼賛してきただけの話なのである。経済のグローバル化と異常な少子化によってその制度を維持することができなくなり、事実上その制度が崩壊しているにも関わらず、無理矢理に維持し続けようと足掻いた結果が、能力があっても定職に就けないというロスジェネ世代を生んでしまったわけだ。

 気が付けば、日本経済自体が「ねずみ講」システムの上に成り立っていたという悪夢のような現実が表面化し、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなってしまったというのが、現代の日本の姿でもある。ゆえに、この硬直した悪夢のような現実を断ち切る手段は自動的に導き出される。その手段とは、「年功序列制度」の廃止…というよりも、日本システムの再起動だ。総てにおいて官僚化してしまった融通の利かない日本システムの全てを1度リセットすることが、この悪夢から抜け出す最善の方法であるはずなのだが、この悪夢の中でしか生きることができない獏(夢を食う霊獣)のような抵抗勢力(=既得権益者達)が頑として立ちはだかっているため、誰にもリセットボタンが押すことができない。いや、多くの人はリセットボタンを押そうとも考えないし、リセットボタンが有ることにさえ気が付いていないかもしれない。(もちろん目に見えるボタンではないのだが…)

 まさしくこのリセットボタンこそは、日本にあるパンドラの箱だとも言える。この箱を開ければ一時的にあらゆる災いが押し寄せることになるかもしれない。しかし、ギリシャ神話のパンドラの箱と違うところが1つだけある。それは、最後の『希望』が出てくる可能性が100%であるということだ。
 「同一労働同一賃金」を突き詰めると、この日本社会の目に見えないリセットボタン【パンドラの箱】に行き着くことになる。この箱を開けるべきか、それともそのままにしておくべきか? それが、現代日本の「同一労働同一賃金」論争の本質なのである。

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有罪判決率99.8%から生まれた足利冤罪事件

2009061501

 今月、「足利事件」という言葉がテレビや新聞を賑わせた。恥ずかしながら、私もこれらのニュースを観るまで1990年に「足利事件」なるものがあったことを知らなかった。(全く記憶には残っていなかった)

 この事件を契機に、改めて『冤罪』というものが注目されている。当時のDNA検査自体が信憑性に欠け、現代から観ればほとんどデタラメに近いものだったということが今頃になって判ったとしても、無実の罪で17年間も服役させられた菅家さんの怒りは察するに余りある。「人生を返せ!」と怒鳴りたくなるのは誰しも共通の思いだろう。
 テレビのニュースでは「検察が謝罪するのは極めて異例」などと伝えられていたが、これは一体どういう意味なのだろうか? これまでの冤罪事件では検察は謝罪もなにもしてこなかったということだろうか? 間違いを犯したことに対して謝罪することがなぜ異例なのか?とお聞きしたいものだ。
 
 こういった冤罪事件が後を絶たないのはなぜかというと、世間一般では「取り調べが密室となっており、無理な取り調べが行われているからだ」という意見も多いようだ。そのために裁判員制度が必要だという意見もあるようだが、どうもピンとこない。
 確かに自白の強要というものは日常茶飯事的に行われているのかもしれないが、それを無くすだけでアッサリと冤罪というものが無くなるとは思えない。
 
 日本の有罪判決率は99.8(または99.9)%だということはよく知られた事実である。これは、容疑者が起訴された場合、1000人中、998(または999)人は有罪になることを意味している。この数字が意味するものは、“日本の検察は優秀だ”ということではなく、“日本の検察はデタラメだ”ということに他ならない。要するに、日本の検察は有罪、無罪を的確に見分けることに優れているのではなく、罪を犯していようがいまいが、“有罪にすることだけに優れている”ということを意味している。その証拠に諸外国の有罪判決率は60〜70%であり、99.8%などという数字はまともな民主主義国家では有り得ないというのが世界の常識だ。
 
 日本の官僚組織は自らの出世のために間違いを犯せない、そして間違いを認めないという特徴があるため、検察も同じ公務員であることから、起訴したからには有罪にしなければ立つ瀬がない(=出世に響く)という心理がどうしても働いてしまうのかもしれない。しかし、そんな個人的な内情で有罪になってしまった冤罪者は悲劇というしかない。この辺のところは映画『それでもボクはやってない』に詳しいので、そちらを観ていただきたいと思う。
 
 結局のところ、冤罪が後を絶たないのは役人の保身のためという、トンデモなく幼稚な理由が下地になっている。そんな下らないことで無理矢理に有罪にされ、17年間も刑務所での生活を余儀無くされたのでは、これはもう人権侵害以外のなにものでもない。
 その謝罪がマイクを通した「申し訳なく思う」だけでは、菅家さんの怒りが収まらないのも当然だろう。この事件に関わった警察および検察は全員、菅家さんの前で土下座して賠償金も支払うべきだろう。無論、賠償金は税金からではなく自腹で支払わなければ意味がない。間違いを犯していない人間が17年間も刑務所に入れられ、間違いを犯した人間が簡単な謝罪の一言で罪を免れるのであれば、それこそ、警察などいらないということになってしまう。「ごめんで済めば警察はいらない」とはよく言ったものだ。他人の罪を裁くべき人間が自分の犯した罪に甘いのでは話にならない。
 
 冤罪事件発生のメカニズムというものは、行き過ぎた取り調べだけにあるのではなく、そういった取り調べを行わざるを得なくなっているシステムにこそある。そのシステムとは司法システムというよりは、もっと広義なものだ。それは旧態依然とした日本の社会システムそのものだとも言える。現代日本の閉塞感の元凶は実は司法の世界にも浸食しているということの証明として、足利事件のような冤罪事件が浮かび上がってきたと言えるのかもしれない。

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“環境の改善”より重要な“景気の改善”

2009061301

 今週、麻生首相から「2005年に比べて15%削減」という言葉が発表された。無論、この数値は政府の無駄を15%削減するということではなく、『2020年までの温室効果ガス削減の中期目標数値』のことだ。これまでは「1990年に比べて7%削減」と言われてきたが、なぜか基準年を2005年にすることで15%までハネ上がってしまった。と言っても、この数値を1990年のままで計算すると8%削減ということになるらしいので、実質1%上乗せされたことになる。
 いきなり目標数値が2倍にもハネ上がったので、イメージ的には「なにやらスゴい目標数値が出た」と思っている人もいるようだが、麻生総理らしい単純な数値トリックと言えそうだ。
 
 温室効果ガス削減については少し前にも記事を書いたばかりだが、現在は「エコ」というものを考えずしては企業経営が成り立たなくなってきている。実質的(科学的)に温室効果ガスを削減することでどれだけの効果があるか判らないにも関わらず、有無を言わさず、企業は環境問題に取り組まなければならない風潮になりつつある。こういった、ある意味で異常とも言える不可思議社会を糾弾している人が大勢いるのは、ごく自然な姿であると思われる。しかし、誤解を恐れずに言えば、私は、たとえ嘘やデタラメであったとしても、「エコ」という幻を追うことを全て否定するつもりはない。(条件付きで認めるという意味)
 
 昨今の日本企業は不況の影響も手伝い明確な目標を持たないためか、『投資』というものを極力控えるようになってしまった。そういった投資減退社会にあっては、無理にでも企業が投資を行うような政策が必要になってくる。必要と言ってもこれは「必要悪」という意味だが、それが『エコ政策』だとも言える。
 「エコ」という目標を実現するためには、企業は投資活動を行い、消費者も消費活動を行わざるを得なくなる。たとえ「エコ」なるものが実体のない空虚なものであったとしても、その目標に向かって、眠っていた企業の『投資』と消費者の『消費』を喚起することができるのであれば、経済活動が活発化し景気が拡大することになるので、結果的には国民の生活水準は上がり幸せを享受することができるようになる。
 
 もちろん、エコ活動に取り組む過程において、マイナスとなる場合もあるだろう。無意味なエコ競争に敗れて職を失うという悲劇に見舞われる人も出てくるかもしれないし、エコ活動を逆手にとった詐欺が横行し、被害を被る人も大勢出てくるかもしれない。しかし、社会全体(マクロ的)として観れば、プラスになる可能性の方がはるかに高いだろう。ちょうどそれは、インターネットの普及(またはデジタル社会の到来)によって、それまでのアナログ的な職業が衰退してしまったことに似ていると言えるかもしれない。確かにIT化によって職を失った人はいるだろうが、それ以上に新しい職を得た人がいるのであれば、それは社会全体として観ればプラスだ。新たな産業が生まれることによって、旧い産業に従事していた人は職を失うことになるかもしれないが、その新たな産業がそれ以上の需要(人)を必要とする巨大な産業に成長するのであれば、それは認めざるを得ない変化だと言える。

 「栄枯盛衰」という言葉もあるように、新しいものが生まれた時には、旧いものは消えていくものであり、それは悲しいながらも受け入れざるを得ない人間社会の現実だ。別の言葉で言えば「諸行無常」とも言う。常に身の周りにあるものは変転していき、人間の心すらも同じ状態を維持し続けることはできない。なぜできないのかと言えば、それは「停滞」を意味するからに他ならない。
 人は進歩・成長することによって喜びを感じるのであり、「停滞」からは決して永続的に喜びを感じることはできない。旧態依然としたものが蔓延り、新しいものが何も生まれない社会というのは、人間そのものの否定を意味する。旧社会主義国家が次々と崩壊していった原因は、理想を掲げつつも、その実、“人間社会の否定を目指した”ことにある。管理されたロボット国家の建造を、理想郷だと誤解したことが原因だ。
 
 内閣府が昨日発表した2009年5月度の消費者態度指数は、前月に比べて3.3%改善したらしい。今のところ5ヶ月連続で改善しているようだが、短期的には定額給付金の影響もあり、「改善した」という発表は当面続くことになるだろう。
 ここでも重要なことは 『消費者心理』だ。消費者の心理をいかに良くするか?ということを政策のメインテーマに持ってくることこそが、景気回復の至上命題でもある。これは要するに消費をいかにして拡大させるかということでもある。
 そういう意味では、かなり強引とはいえ、『エコ』をテーマとした消費拡大策は、成功すれば景気の改善を齎すことになるはずだ。
 しかし、この政策は『嘘から出た実』的な側面が強いため、あまり無茶なことをすると、返って景気が悪化するというリスクを抱えている。『エコ』という幻を追い求めることは結構だが、具体的な数値目標を絶対化して、その数値を実現することのみを目標としてしまっては、元も子も無くなる危険性がある。
 政府が最終的な目標とするべきは、“景気の改善”(目的)であり“環境の改善”(手段)ではない。“景気の改善”を齎してこそ嘘は許される。くれぐれも手段と目的を見誤らないことを願う。

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ブックオフ買収における真の改善策とは?

2009060701 先月、大手出版社がこぞってブックオフの株式を取得するというニュースが流れた。講談社、小学館、集英社、大日本印刷など、本の流通に関わる大手企業が手を結んでの買収ということで、いろんな噂が飛び交った。その噂は大きく分けて次の2つに分かれる。

 1、本の新しい流通形態を構築することによって、
   出版不況を打破するという目的のための買収

 2、出版不況の一因と目されているブックオフを中心
   とした中古本売買の合法的な規制強化を行うため
   の買収

 マスコミは概ね、1の見解を採っているようで、新聞等では前向き(?)なニュースとして伝えられていた。しかしネットでは毎度のようにマスコミとは反対の2の意見が多く見られるようだ。

 私もよくブックオフを利用している常連客なので、この事件は他人事とは思えない。以前にもブックオフの商売方法の是非については当ブログで述べたことがある。『ブックオフは文化の破壊者か?』というタイトルで、小林よしのり氏のブックオフ批判に対する1つの反論として述べさせてもらった。

 かつては私も小林よしのり氏のファンだった頃があるので、あまり小林氏に対する批判はしたくなかったのだが、あまりにも行き過ぎた極論は看過するわけにはいかないという意味で反論させてもらった。と言っても、当ブログの世間に対しての影響力など微々たるものなので、声無き反論に近かったかもしれないが…。
 しかし当ブログを訪れた人の1割以上の人はリピーターとなってくれている(下記のリピート率グラフ表を参照)ようなので、仮に100万人の訪問者がいれば10万人の人が閲覧してくれる計算になる。そう考えると、訪問者さえ上手く増やすことができれば、少しは影響力が出てくるかもしれないし、実際に「ブックオフ」というキーワードで当ブログを訪れてくれる人も結構いるようなので、将来的には少しは期待できるかもしれないなという淡い期待を抱いている。
 
Repeat200906_4

 小林よしのり氏についての話はまた別の機会に譲るとして、本題に戻ろう。まずその前に『本』について少しだけ述べておきたい。
 本という物の価値というのは、実に相対的であり、読んだ人によっては大きく価値が違ってくるものだ。本という物理的な物を製造するという物質的な価値にそれほどの違いはないが、読む人の判断によっては、千円の本が1万円の価値を有する場合もあるし、1円の価値も無い(=読むに値しない)という場合も有り得る。また、どんなに価値があると思われる本であっても、読んだ本人にその本に書かれてある内容が理解できないのであれば、価値が無くなる場合も有り得る。つまり、本の内容としてのレベルもさることながら、読む人の認識レベルによっても本の価値というものは大きく違ってくるわけだ。
 
 そういう観点に立って書店を観てみると、現在の本の値段というものは、基本的に本の製造原価に対しての大体の値段設定がなされているだけであり、内容で値段が付けられているわけではない。その本を書くのに10年かかろうが、1ヶ月でできようが、著作者が製作に費やした経費も一切計上されておらず、新書なら新書、単行本なら単行本という感じで全て一律の値段設定がなされているだけだ。いかに売れっこの著者であったとしても、少しデザイン的な装丁にお金をかけた分だけ高くなっている程度だ。これはどういうことかというと、一言で言えば、「玉石混淆」だということができると思う。現在の出版業界には正確に本の価値を計るモノサシが無い状態だということもできる。売れる本も売れない本も全て一律の値段設定になっているということは、ある人にとっては有り難いことなのかもしれないが、よく考えると不思議なことでもある。それは、需要のあるものは高くなり、需要のないものは安くなるという市場法則を完全に無視した値段設定がなされてきたということでもある。違った視点で見れば、これは当たりハズレのあるクジみたいなものだということもできるだろう。
 
 そういった市場法則を無視した業界に颯爽と出現したのがブックオフを中心とした中古本市場だ。そこでは当たりハズレがあるとはいえ、一応、全ての本が値段分けされている。出版年度、人気本、売れっこ著者、本の状態などで本の値段が分類されている。これは消費者から観れば、新刊のように決められた値段でしか買えないという不自由さが無いという意味でも魅力的に見える。本人が価値の有ると判断している本が安価で売られていれば、買って得をした気分にもなる。また、本来、値段相応の価値が無いと思われていた本にも手が伸びるというプラス効果もある。
 
 今回の買収劇の目的が、前向きなものか後向きなものかというのは現状では判断のしようがない。ただ1つだけ確かなことは、“出版業界の現状を改善する”という目的があることだけは間違いない。これ以上の悪化を防ぐための現状維持策と考えられなくもないが、既存の大手出版企業がタッグを組んでまで行ったわけだから、今後、なにかしらの変化が起こることになるはずだ。その変化がどのようなものかによって、この買収劇が如何なるものであったのかが明らかになってくるだろう。近いうちにブックオフの店舗から100円本が200円、300円になったり、全ての本にビニールが巻かれるようなことがあれば、消費者の反感を買うことになるだろうが、逆にブックオフで新刊も販売されるようになれば、消費者から支持されるかもしれない。

 とにかく、今までの出版業界は“本の価値”というものを無視してきた。本の内容だけでなく、目に見える本の状態までも無視した値段設定を行ってきた。折れ曲がった本であろうが、蛍光灯焼けした本であろうが、全て同じ値段でしか販売できないという消費者の購買心理を無視した販売を行ってきた。現在の出版業界の低迷は、そういった社会主義的な販売体制が維持できなくなってきたということの証左だと言うこともできるだろう。つまり、著作者や消費者のことをあまり考えずに、製造販売業者(=出版業者)を中心に値段設定がなされてきたことが問題なのである。
 
 現在の出版業界の低迷を招いた原因はブックオフなどの古本販売業者が出現したことだけにあるのではなく、著作権や消費者、そして市場法則といったものを無視し続けてきた出版業界側の責任でもある。言わば自業自得だ。古本売買によっても著作者に印税のようなものが少しでも入るのであれば、漫画家などからブックオフ批判などは出てくるはずもない。そもそも、ブックオフの商売が目障りだと言うのであれば、図書館も全て閉鎖しなければ筋が通らない。古本売買ではお金が動くが、図書館ではお金は動かないわけだから、経済的な視点で観れば、ブックオフを批判するよりも図書館を批判した方が経済効果は大きいはずだ。(別に図書館の閉鎖を勧めているわけではありません。念のため)
 
 既存書店・・・販売者中心、消費者無視、経済効果高
 古本業者・・・消費者中心、著作者無視、経済効果有
 図書館・・・・消費者中心、著作者無視、経済効果無
 
 こういった矛盾を抱えたまま、出版業界が現在の状況を改善することは極めて難しいと思う。ブックオフと協力したとしても、販売の自由度が増さない限り、成功することは難しいだろう。況して、ブックオフの販売を規制する方向に傾けば、事態はさらに悪化することになるだろう。それは出版業界だけでなく、日本経済全体にも悪影響を及ぼすことになる。
 出版業界が現在の低迷から脱する手段は、出版業界に市場法則を持ち込むことが大前提であり、市場を無視した方策を採ると取り返しがつかない事態を招く可能性がある。それは市場法則ならぬ自然の法則に逆らったことによる反作用としての結果が現れるというだけのことだ。自然の法則に逆らわず、著作者や消費者のことを念頭に置いた改善策を講じるしか救われる術はないという至極当然のことでもある。改善するべきは、『販売方法』ではなく『矛盾』なのである。
 
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