有罪判決率99.8%から生まれた足利冤罪事件

今月、「足利事件」という言葉がテレビや新聞を賑わせた。恥ずかしながら、私もこれらのニュースを観るまで1990年に「足利事件」なるものがあったことを知らなかった。(全く記憶には残っていなかった)
この事件を契機に、改めて『冤罪』というものが注目されている。当時のDNA検査自体が信憑性に欠け、現代から観ればほとんどデタラメに近いものだったということが今頃になって判ったとしても、無実の罪で17年間も服役させられた菅家さんの怒りは察するに余りある。「人生を返せ!」と怒鳴りたくなるのは誰しも共通の思いだろう。
テレビのニュースでは「検察が謝罪するのは極めて異例」などと伝えられていたが、これは一体どういう意味なのだろうか? これまでの冤罪事件では検察は謝罪もなにもしてこなかったということだろうか? 間違いを犯したことに対して謝罪することがなぜ異例なのか?とお聞きしたいものだ。
こういった冤罪事件が後を絶たないのはなぜかというと、世間一般では「取り調べが密室となっており、無理な取り調べが行われているからだ」という意見も多いようだ。そのために裁判員制度が必要だという意見もあるようだが、どうもピンとこない。
確かに自白の強要というものは日常茶飯事的に行われているのかもしれないが、それを無くすだけでアッサリと冤罪というものが無くなるとは思えない。
日本の有罪判決率は99.8(または99.9)%だということはよく知られた事実である。これは、容疑者が起訴された場合、1000人中、998(または999)人は有罪になることを意味している。この数字が意味するものは、“日本の検察は優秀だ”ということではなく、“日本の検察はデタラメだ”ということに他ならない。要するに、日本の検察は有罪、無罪を的確に見分けることに優れているのではなく、罪を犯していようがいまいが、“有罪にすることだけに優れている”ということを意味している。その証拠に諸外国の有罪判決率は60〜70%であり、99.8%などという数字はまともな民主主義国家では有り得ないというのが世界の常識だ。
日本の官僚組織は自らの出世のために間違いを犯せない、そして間違いを認めないという特徴があるため、検察も同じ公務員であることから、起訴したからには有罪にしなければ立つ瀬がない(=出世に響く)という心理がどうしても働いてしまうのかもしれない。しかし、そんな個人的な内情で有罪になってしまった冤罪者は悲劇というしかない。この辺のところは映画『それでもボクはやってない』に詳しいので、そちらを観ていただきたいと思う。
結局のところ、冤罪が後を絶たないのは役人の保身のためという、トンデモなく幼稚な理由が下地になっている。そんな下らないことで無理矢理に有罪にされ、17年間も刑務所での生活を余儀無くされたのでは、これはもう人権侵害以外のなにものでもない。
その謝罪がマイクを通した「申し訳なく思う」だけでは、菅家さんの怒りが収まらないのも当然だろう。この事件に関わった警察および検察は全員、菅家さんの前で土下座して賠償金も支払うべきだろう。無論、賠償金は税金からではなく自腹で支払わなければ意味がない。間違いを犯していない人間が17年間も刑務所に入れられ、間違いを犯した人間が簡単な謝罪の一言で罪を免れるのであれば、それこそ、警察などいらないということになってしまう。「ごめんで済めば警察はいらない」とはよく言ったものだ。他人の罪を裁くべき人間が自分の犯した罪に甘いのでは話にならない。
冤罪事件発生のメカニズムというものは、行き過ぎた取り調べだけにあるのではなく、そういった取り調べを行わざるを得なくなっているシステムにこそある。そのシステムとは司法システムというよりは、もっと広義なものだ。それは旧態依然とした日本の社会システムそのものだとも言える。現代日本の閉塞感の元凶は実は司法の世界にも浸食しているということの証明として、足利事件のような冤罪事件が浮かび上がってきたと言えるのかもしれない。
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