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2009年7月

『同一労働相違賃金』と『相違労働同一賃金』の違い

2009072701 昨日、久しぶりにサンプロ(サンデープロジェクト)を観ていると、テレビ番組では珍しく「同一労働同一賃金」論議が行われていた。若者論で有名な城 繁幸氏がコメンテーターで出演していたためか、珍しくテレビで本音トークを聴くことができた。
 マスコミのテレビ番組に出演している人間が、そのマスコミの問題点を鋭く追及しているような姿はなかなか観れるものではない。
 しかし、同じくコメンテーターの財部氏も言っていたように、パネラーの政治家達の底の浅い論議には甚だ呆れてしまった。与党側はなぜかいつもよりはまともな意見を言っているように見えたが、野党側は相変わらず机上の空論を展開しているようにしか見えなかった。

 野党側はとにかく“思い込み”が激しいようで、未だに“企業悪玉論”から脱皮できずに、ひたすら派遣切りバッシングを行っているように見えた。その論理は「派遣切りは人道的ではない」とか「企業は派遣切りしないシステムを構築することもできる」というようなものだが、こんなのはただの結果論(しかも表面的)に過ぎない。
 パネラーの政治家達は「原因が…」「原因が…」と言っている割りには、言っている本人自身が全くその原因を理解できていないという有り様だった。
 もし理解した上で(多くの国民を騙そうと思って)語っていたのだとすれば、相当したたかで頭がキレる論客だと言えそうだが、実際のところはその逆だと思った方がよさそうだ。“頭がキレる”のではなく、“頭がキレている”と言った方が正しいかもしれない。
 「各党の論客」というのは、単に「口達者な論客」というだけで、少しでも社会や経済に理解のある人間からあのような床屋談議を観れば、まさしく財部氏の言うように「馬鹿馬鹿しい」の一言に尽きると思う。

 城氏の言うように、『同一労働同一賃金』を語るのだとすれば、なぜそれができないのか?という根本の問題(日本の社会構造)まで遡らないと原因が判らないと思うのだが、政治家達が述べている原因は、「企業が都合の良いように派遣社員制度を悪用している」とか「正社員と派遣社員の待遇に差が有り過ぎる」という表面的な認識のみで止まっている。少なくとも、なぜ正社員の給料は高く維持され、クビにならないのか?というところまで掘り下げないことには論議するテーマ(内容)すら定まらない。
 要するに、論議している人間の認識レベルがてんでバラバラなので意見が噛み合わず、簡単な問題の答えを出すこともできない(=時間の無駄)という状態なのだ。

 政治家達がいかに優秀な大学を卒業したエリートであったとしても、それは単なる受験エリートというだけのことであり、社会に出てから評価された本当のエリートではない。ゆえに政策論議が単なる机上の空論に陥りがちだ。
 城氏自身も東大法学部出身の受験エリートではあるが、実際に社会(富士通)に出てから学んだ経験を踏まえた上で本音を語ることのできる人間であるためか、明らかに政治家達とは大きな違いがあるように思う。無論、社会に出てから政治家になったという人もいるだろうが、建前論議に花を咲かせるようになってしまえば、社会に出た経験も無きに等しい。社会経験自体が活かされていないわけだから、そう思われても仕方がないだろう。

 『同一労働同一賃金』については以前にも当ブログで述べさせてもらったことがある(→「同一労働相違賃金」の年功序列制度が、その時は『同一労働相違賃金』について述べた。同じ仕事を行っているのに賃金に大きな差があるのはおかしいというのがその要旨だが、これとは別に『相違労働同一賃金』という問題もある。政治家達には、この2つの違い(『同一労働同一賃金』を入れれば3つ)がよく解っていないらしい。

 『相違労働同一賃金』というのは、全く違う仕事(高度な仕事とそうでない仕事)を行っている人の賃金も一緒にしなければならないという、いわば、共産主義的な考えだ。その考えは、努力した者も努力しなかった者も同一賃金にしなければならないという極めて危険な発想(早い話が嫉妬)が元にある。こういったことを言う人達は、「努力」という言葉を「能力」という言葉に置き換え、生まれながらに能力の違いがあるのはおかしいという立場に立って、曲論を、さも正論であるかのように述べる。その思想は、単に能力のある人間から富を奪い取ろうと考える邪(よこしま)な人間を数多く創り出してしまった。

 能力のある人間は、努力しても努力しただけの結果が返ってこないという社会では喪失感を感じることになり、本来生み出すはずの富も最小限に抑制されることになる。努力すれば努力するだけ(言い換えれば、能力を発揮すればするほどに)生み出した富を搾取されるのであれば、誰も努力する気を失ってしまう。
 本来、能力がある人がいかんなく能力を発揮することができる社会であれば、その生み出した富によって、経済的弱者といわれる人達も救えるかもしれない(それこそが本当の共産主義)にも関わらず、その可能性を“嫉妬”という劣情によって自ら破壊してしまっていることに気が付いていないというのが、共産主義者と言われる人達の真の姿であると言える。

 マイクロソフトのビル・ゲイツにしても、アメリカがその才能をいかんなく発揮できる自由な社会であったからこそ、その生み出した富の何割かを寄付という形で多くの人々が受けることができた。これが、自由のない嫉妬が渦巻いているような国であれば、どうなっていただろうか? ビル・ゲイツは嫉妬の対象とされ、マスコミに叩かれた挙げ句、マイクロソフトという大企業すら生まれなかったかもしれない。

 さて、その嫉妬が渦巻いている国とはどこの国のことだろうか? 日本という国が、はたしてそういう国でないと言えるだろうか?
 日本を本当に三流衰退国家にしたくなければ、『同一労働同一賃金』と『相違労働同一賃金』を決して混同してはならない。そして『同一労働相違賃金』も見直さなければならない。くれぐれも政治家達の甘い言葉には騙されないうように注意しよう。

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自民党の捨て身の戦略は功を奏するか?

2009072201 今日の新聞を見てみると、自民党、民主党ともに全面広告が掲載されていた。また互いの揚げ足取りでも行っているのか…と思って読み進むと、「えっ!?」と驚く箇所を発見した。それは自民党側の広告の方なのだが、そこには以下のような文章(民主党批判)が書かれてあった。
 
  『(民主党は)偏った教育を進める日教組が、強力な支持母体
  
 当ブログでも以前に記事として取り上げたことがある(→「ぶっ壊す」発言から始まるストーリー)が、確か、中山大臣がこれと同じようなことを言っていたはずだ。
 しかし、中山氏の発言は『失言』とされ、辞任に追い込まれたことは記憶に新しい。当時は自民党内部からも激しい批判がなされていたと記憶しているが、あれは一体なんだったのだろうか? 「日教組をぶっ壊す」と言ったことで袋だたきにあってしまった中山大臣も、この広告にはさぞかしビックリしたことだろうと思う。
 
 しかし、このところの自民党の焦り方は尋常ではない。恥を承知で、東国原知事や橋下知事にお声がけしたかと思えば、今度は、中山大臣に変わって、タブー(?)になっていた日教組批判まで行うのだから、もはや、なんでもありの様相を呈してきたようだ。
 国民からの反感を恐れて中山氏を辞任に追い込んだ当の自民党が、中山氏の発言は正しかったと認めたのだから驚きだ。今後、マスコミも黙ってはいないだろう。もし黙っているようなら、マスコミは何かに操られているということになる。
 
 「窮鼠猫を噛む」と言うが、まさしく現在の自民党は、マスコミに噛みついてでも勝利を手にしたいという心境なのかもしれない。しかし今回もまた遅きに失した感は否めない。どうせなら、当時、中山氏を擁護する立場にたって、民主党と大論争でも繰り広げていれば、風向きも変わっていたかもしれないが、今更、踵を返しても逆効果になる可能性も否定できない。おそらく当時、中山氏を支持していた多くの国民は、「言っていることがコロコロ変わり、信用できない」と思うだろう。
 
 それでも勝ちたいと言うのであれば、中山大臣を総理大臣にでもして、ついでに田母神氏も要職に就けるような戦略でも練った方が良いかもしれない。もはや、国民には建前は通用しない。本気で政権を獲りたいのであれば、本音を語ることのできる人間を前面に出すしかないと思われる。
 はたして自民党にそこまでする覚悟があるのかどうかは分からないが、捨て身の戦法でしか今度の選挙戦を勝ち抜くことはできないだろう。また、建前を捨てて本音を語れる政党でなければ、これからの政治家は務まらないだろう。
 
 ところで、現政権には残念ながら、「自由党」なるものが存在していない。
 「自民党は自由民主党ではないのか?」という意見もあるかもしれないが、私から観れば、現在の自民党は『社会民社党』と言った方が近いと思う。他の政党も以下に示すと次のようになる。
 
 自由民主党 → 社会民社党
 民主党 → 民社党
 社民党 → 労働組合党
 共産党 → 日本共貧党
 
 あくまでも私見ではあるが、この国には、『自由』や『国民』を第一に重んじる政党が存在していない(政治家個人としては存在していると思う)のではないかと思われる。まるでブラックジョークのようだが、私の本音でもある。当ブログを閲覧しておられる人の中に政治家の人がいるかもしれないので、反感を買うようなことを書くのはなるべく避けたいところだが、ブログに建前を書いても始まらないので、ご了承の程を。
 
(追記)
 先程、記事を書いて投稿後、ヤフーニュースを見てみると、なんと中山氏が出馬表明したことが明らかになったようだ。これはちょっと面白くなってきた。今後の展開に注目しよう。

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『最低賃金1000円』マニフェストの愚

2009071601 民主党が、総選挙のマニフェスト(選挙公約)として『最低賃金を1000円にする』と発表したことが話題になっている。
 いかにも民主党らしい(労働者受けするような)マニフェストだと言えるが、齎す結果を考えれば、これはトンデモない公約だとも言える。今の日本の経済状況で本当に『最低時給1000円』などを実施するとトンデモない事態を招くことは必至であり、ほとんど狂気の沙汰に近いと思える。
 実現不可能なことを理解した上で虚偽の公約を発表しているだけ(=選挙戦略)ならよい(?)のだが、もし本当に実現することを前提に考えているのだとすれば、これは極めて危険なマニフェストだと言える。なぜそう思えるのかを、以下に示そう。

 まず、現在の最低時給だが、新聞の求人広告などを見ても分かる通り、700円台というのが一般的だ。800円や900円という求人広告もよく見かけるが、実際の統計では最低時給の全国平均は700円程度であるらしい。
 これが1000円になるということは、1000÷700で約1.4倍ということになる。比率で考えれば、月給20万円の人の給料が、いきなり28万円に昇給するのと同じことになる。確かに給料がいきなり1.4倍にもなれば、労働者の気持ちとしては嬉しいだろう。しかし、仕事の質も量も不変のままで給料だけを1.4倍にできるのか?というと、これは企業側から見れば極めて難しいと言わざるを得ない。
 本来、時給を1000円支払っても充分に利益が出るのに、労働者から搾取する目的のために敢えて700円まで下げているような会社や、べらぼうに高い給料をもらっているノンワーキングリッチ的な社員が大勢おり、その給料を下げるというなら話は別だが、今の日本にそのような会社がそうそう有るとは思えない。絶対的な仕事量が減少しているのだから、逆に時給を600円、500円に下げたいというような会社もあるはずだ。

 例えば、時給800円の人が10人いて、8時間で10000個の電機部品を組み立てている会社があった場合、1人あたり1時間に125個の電機部品を組み立てていることになる。この状態で時給を1.4倍に上げるとなれば、企業側が採るべき手段は基本的に次の2通りしかない。

 A、1時間あたりの組み立て個数を増加させる。
 
 この場合、1時間で(125×1.4=)175個の製品を組み立てなければいけないということになる。1.4倍のスピードで組み立てることができる人はよいとしても、できない人は“仕事にならない”という理由で解雇になる可能性がある。
 
 しかし、Aはあくまでも1日に14000個(10000個×1.4倍)の製品を生産するだけの需要があればの話であり、1日の総仕事量が10000個しかない場合は、次のBを選択することになる。

 B、10000個を組み立てる人数だけで仕事を行う
   (1.4倍で仕事をすれば3人は不要になる)
 
 つまり、AであれBであれ、仕事が遅い人員(または余剰人員)は解雇されるということになる。
 そう考えると、民主党の最低賃金マニフェストは“弱者に優しいマニフェスト”ではなくて、“弱者に厳しいマニフェスト”であることは誰にでも解ると思う。
 
 「いや、そんなことはない、最低賃金が1000円になれば皆ハッピーになれるはずだ!」と憤る人がいるかもしれないが、そんな理屈が罷り通る社会があるとすれば、それは公務員の世界だけだろう。こんな非現実的なマニフェストの実現を本気で信じている人がいるとすれば、それは需要と供給のバランスや仕事の合理化などは考えたこともない人間ということになる。民間企業に勤めている人であれば、こんなことは考えるまでもない常識であって、今の時代、給料が無条件に1.4倍に跳ね上がるなどということはまず有り得ないと考えるべきだ。

 「では最低賃金が700円のままでハッピーになれるのか!?」と言う人がいるかもしれないが、『最低賃金』というものにあまりこだわり過ぎると本質を見失うことになる。
 最低賃金を上げるよりも、むしろ、物価を下げるというマニフェストにした方がはるかに現実味があると思う。1000円でしか買えないものを700円に下げるという逆転の発想こそが必要だろう。
 賃金が安いか高いかは決して金額の高低によって決まるものではない。賃金と物価のバランスによって決まるものだ。今まで500円でしか買えなかった商品が、100円ショップで買えるようになったことは、部分的に給料が5倍に上がったということを意味している。たとえ時給が700円であっても、その700円で買えるものが増えれば、問題はないわけだ。

 例えば、住宅や自動車、食料品、光熱費などが、現在の半額にでもなれば、月給が10万円でも月給20万円と同じ生活ができる。逆に、最低賃金を1000円に上げても、物価が今の2倍になれば、全く無意味だ。重要なことはお金の高低ではなく、お金の交換価値の高低だ。賃金の高い低いという認識は、物価の高低によって決まるという事実にこそ目を向けなければならない。国民にとっての良いマニフェストとは単に賃金を上げることではなく、生活水準を上げることなのである。
 単に最低賃金を上げたからといって手放しに喜べる労働環境が現出するわけではない。むしろ、労働環境は悪化するかもしれないという疑問をこそ考えるべきだ。労働条件というものも、思考を停止したままでは決して改善しないということも併せて考える必要があるだろう。

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『ジリ貧の発想』に陥った書店のコスト削減策

2009071201 先日、よく通っていた郊外型の書店が急に閉店してしまった。私にとっては、会社帰りに車で立ち寄れる便利な書店であったので非常に重宝していたのだが、このところの出版不況の影響もあってか、ついに店を畳んでしまったようだ。
 小さな書店はもとより、郊外型の書店まで潰れるようでは、書店を取り巻く環境は非常に深刻だとも言える。このままいくと、本当に街の書店は姿を消してしまうのではないか?という感じもする。以前から、今後生き残っていくのは、人が多く集まる駅前の書店や巨大なショッピングセンター内にあるような書店、そしてアマゾンのような巨大なインターネット書店のみになってしまうのではないか?と思ってはいたが、その不安は、急速に現実味を帯びてきたようだ。

 さて、今日も別の書店まで足を運んできたのだが、最近の書店に行って気になることが1つある。それは、店員が“万引き(立ち読み)防止専門員”のような立ち居振る舞いになっているというものだ。今日行った書店などは、レジに女性が1人いて、他に2人の男性店員がいたのだが、その2人の男性店員は、黙って突っ立ったままで、鋭い目線で店内を監視していた。客に紛れて万引きを監視している囮捜査官(通称:サクラ)などはいると聞いたことがあるが、店員が「万引きするな」「立ち読みするな」と言わんばかりにあからさまに監視していては逆に客も逃げるのではないか?と思ってしまった。
 
 “売る量を増やそう”とせずに、“万引きされる量を減らそう”という書店側の苦肉の策なのかもしれないが、これでは悪循環に陥ってしまうのではないか?と心配になる。各書店の万引きの被害額がどれくらいのものかは知らないが、こんな後ろ向きの商売を行っていたのでは、自ら売上を縮小させ、自滅していくことに繋がるのではないかと助言の1つもしたくなる。
 最近はどこの企業でもコスト削減を行ってはいるが、書店側が導き出したコスト削減案が『万引き防止によって利益確保』では先が思いやられる。
 
 新刊を万引きして古本屋やオークションで転売するような悪質な客がいることは知っているが、一般客まで犯罪者のような目で監視されたのでは、購買意欲も萎えてしまう。
 通常、本を買う時は、パラパラとページをめくって目次ぐらいは見てから買うものだと思うのだが、こんな警官のような店員がいては、本の中身を確認するどころか、本を手に取るのも憚(はばか)られてしまう。結局、買うべき本も買わずに店を後にしてしまうことになる。(実際に私はそうなってしまった)
 最近はアマゾンなどでも、立ち読み感覚でネット上で数ページは閲覧できるようになってきつつある。これなどは、ネットで購入する(購入を躊躇う)消費者の気持ちをよく掴んでおり、実際に売上アップに貢献しているはずだ。いくら有名で信用のある人物が書いた本であっても、まず目次ぐらいは確認してから買いたいというのが消費者の率直な気持ちだろう。そういった消費者心理までも完全に無視してしまっては、街の書店の唯一の利点(ネットではできない利点)までが失われることになる。
 
 仮に1日に10万円の売上があるとすれば、書店側の利益は2万円程度になる。万引きを防止することによって、利益の2万円は維持できたとしても、売上自体が減ってしまえば、その2万円も維持できなくなってしまう。確かに万引きは書店にとっては大きなマイナスかもしれないが、それを取り締まることだけが目的となってしまっては、本末転倒だと思う。あくまでも本を多く売る努力をした上での万引き防止策でなければ意味がない

 例えばネットなどで売れている本は何か?というようなアンテナを常にはって、市場調査を行っているような書店は、“努力している”ということが店内に入るだけで伝わってくる。本を多く買ってくれる多読家にターゲットを絞ろうと思えば、自らも多読家と同じような心境になる努力をすることが必要だと思う。
 本を万引きするような客に焦点を絞るのではなく、本を多く買ってくれる客を大事にするという心掛けを持つ方がはるかに重要なことだと思う。そういった書店としての当たり前の努力もせずに、万引きの防止だけを考えるようになっては、伸ばせる売上も伸ばすことができずにジリ貧になっていくだけだろう。要するに、万引き防止策というのは、ジリ貧の発想なのである。
 
 今日の男性店員の目を見ていると、どうも《自分の役目は万引き防止だ》と思い込んでいるような気がした。本を売ることが目的ではなく、万引きを防止することが目的になってしまっていることに当の本人が気が付いていないのだとすれば、残念ながらこの書店もそのうち閉店するかもしれないなという冷めた感情を抱いて店を後にしたのだった。

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スケープゴートにされた『市場原理』

2009070301 最近は週休3日制を導入している会社があるらしい。実際に私の周りにも期間限定で金曜日を定休日にしている会社が2社ほどある。その理由は、「仕事が減少しているのでそうせざるを得ない」というもので、早い話が、労働時間を短縮して帳尻を合わせるというワークシェアリング的なものらしい。
 毎日、仕事(時間)に追われている私などは、「週休3日制」などと聞くと羨ましいとも思えてしまう。しかし週休3日制になった当人にとっては、理由が理由なだけに、あまりノンビリとも構えていられないというのが本音だろうと思う。当然のことながら、給料も減給されているらしいので、尚更ではある。

 現代のようにオートメーション化が進んだ社会では、本来であれば週休3日制でも充分に生活できるようになって然るべきだとも思えるのだが、いくら世の中が便利になっても人間の働く時間は変わっていない…と言うより、労働がより過酷になっているようにも感じられる。
 仕事が効率化され、社会が便利に住み易くなれば、週休3日制や週休4日制の会社が出てきても不思議ではないはずだが、実際は逆の世の中になってしまっている。不況であるがゆえに週休3日制となり、安堵感ではなく危機感を感じなければならない。これでは何のための近代化なのか分からないとも言える。人々は近代化することによって齎されるべき果実を得ていないということになる。この辺の矛盾の解明は実に奥深く難解なためか、未だ明解な答えを用意できる社会学者は世に出ていない(と思う)。

 さて、仕事が減少したことによって齎された負の現象として、『安値競争』というものがある。現代の日本企業は、とにかく仕事を受注して売上につなげようと必死になり、採算が取れない仕事であっても、取り敢えず受注して次に繋げようと躍起になっている。本当に次に繋がればいいのだが、仮に繋がったとしても1度安値で受注してしまった仕事の料金を次から簡単に上げるわけにもいかず、結局は採算ギリギリか赤字受注で仕事をしていかなければならなくなる。安値受注(赤字受注)が災いしてあえなく経営破綻という事態を招いてしまったケースも結構あるのではないかと思う。

 よく「市場原理に任せれば最適な値段に落ち着く」と言われることがあるが、これは正しいか?というと、実は正しい。しかしそれには条件がある。その条件を現在の日本企業の安値競争が満たしているかというと、実は満たしていない。そのせいで、安値競争地獄(注意:グローバル化によるデフレとは別の意味でのデフレ地獄)に陥っているとも言える。
 では、その条件とは何かというと、それは「自然な市場法則のみに委ねる」という条件だ。現代の企業間の安値競争には、人間の心理というものが非常に大きく絡んでしまっているため、市場法則自体が正しく機能していない。ゆえに市場が歪んでしまっているように見える。その歪みを見て「市場原理は崩壊した」だの「市場は完全ではなかった」というようなトンチンカンな言説をよく見かけるが、こんなのは、「私は市場原理を理解していません」と言っているようなものだ。
 『市場原理』というものは、自然の法則のようなものであって、歪むようなことも崩壊するようなことも本来であれば有り得ない。『市場原理』とは『1+1=2』と同じように常に固定された法則でしかない。それが『1+1=1』とか『1+1=3』というような結果になってしまうのは、そこに人間の感情と行動が介在しているためだ。
 
 先の数式を具体的な言葉で表せば次のような言葉に置き換えられるかもしれない。
 
 『1+1=2』・・・市場原理
 『1+1=1』・・・ワーキングプア
 『1+1=3』・・・ノンワーキングリッチ

 例えば、どう努力しても原価が100万円かかる仕事があったとしよう。もし、市場原理が正しく機能していれば、この仕事を100万円以下で受注するような会社は現れない。それが市場原理というものだ。しかし、ここに、とにかく受注最優先で赤字覚悟の90万円で受注するような会社が現れると、市場原理が機能していないことになってしまう。
 さて、ここで質問。この場合、市場原理が機能しなくなったのは、市場原理が不完全だったせいだろうか? そしてそのことをもって、市場原理が崩壊したと言えるだろうか?
 答えは、どちらもノーであり、別に市場原理のせいでもなければ、市場原理が崩壊したわけでもない。「商売上の下心」という人間の心理が加わったことによって、市場原理が機能しなくなってしまっているだけのことだ。

 では逆の場合を考えてみよう。100万円の仕事を200万円で受注するような場合も市場原理からは大きく乖離してしまっている。こういった異常な乖離は、主に独占や談合によって齎されるものだと言えるだろう。そのような暴利を貪るような乖離が発生してしまった原因も市場原理のせいではなく、市場原理が崩壊したからでもない。この場合の原因も、人間のズルい思惑などが働いたためだ。

 つまり、市場原理を歪めてしまうのは、いつの場合も人間の心理と行動が原因になっているというわけだ。アメリカの金融危機にしても、市場原理が崩壊したのではなく、単に人間の思惑が行き過ぎたために破綻を招いてしまったというだけの話だ。市場原理が崩壊したのではなく、市場原理によって崩壊してしまったのだ。何が? 人間の生み出した“欲望”という名のバブルが。
 そう考えると、市場原理批判というものは、巧妙なスケープゴート論だと言えるのかもしれない。いや、日本ではむしろ、スケープゴートだということに気付きもしないで市場原理批判を行っているオメデタイ人達(評論家やエコノミスト)の方がはるかに多いのかもしれない。

 市場原理とは不変の法則のことであり、もし本当に市場原理が崩壊したのであれば、オークションという市場も同時に崩壊することを意味する。では現在、ヤフーなどのオークション市場は崩壊しているか?と言えば、サブプライム問題に関係なく通常通り動いている。市場原理が機能しているがゆえにオークション市場は成り立っているわけで、需要と供給のバランスが一時的に崩れることはあっても、市場原理という法則自体が崩壊するようなことは有り得ない。それは空気のように自然に存在している目に見えない法則でしかないからだ。
 世に蔓延る市場原理批判というものを、もう1度、原点に立ち戻って冷静に考えてみよう。そうすれば、それが如何に的外れな妄論であるのかが見えてくるはずだ。
 
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