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2009年8月

「格差の是正」を叫ぶ格差否定論者の不思議

2009082801 衆議院選挙時期ということもあってか、テレビのニュース番組を見ていると、毎日のように「格差」という言葉が耳に入ってくる。とにかく「格差はいけない」「格差の是正が重要だ」ということで、各政党は格差を無くす政策を追求しなければならないというムードが漂っている。

 ところで、「格差の是正」を述べている格差否定論者というのは、格差をどうやって無くそうと考えているのだろうか? まさか各人の収入を一律平等にすることが解決策だとでも思っているだろうか?
 “格差の是正”というのは、平たく言うならば、“収入の平均化”を意味しているわけだから、平均以上の収入を得ている人は、余ったお金を返却しなければならないということになる。「格差の是正を!」と言っている当人が平均以上の収入を得ているのであれば、自らも是正されるべき該当者だということに気が付いているのだろうか? 気が付いているとしても「自分は格差を生み出している側の人間だから、数百万円返却します」と叫んでいる人がいるだろうか?

 現在の民間企業のサラリーマンの平均年収は400万円程度だと言われているので、平均年収が700万円以上の大企業のサラリーマンや公務員などは、格差を是正するために300万円近く返却しなければならないことになる。
 しかしこんなことは、大企業を中心とした労働組合の発言力を弱めるか、もしくは廃止しなければ実現できないだろう。それでも格差の是正を行なうというのであれば、格差否定論者が発言すべきは、「労働組合は要らない」でなければおかしいという結論になる。

 労働組合というものは、基本的に給料のベースアップを要求する組織であり、そういった組織が大企業を中心とした高収入企業にしか存在しないのであれば、労働組合こそが格差是正の最大の敵ということになる。大企業が全て高収入企業というわけではないが、中小企業には労働組合などというものはほとんど存在しないのだから、《労働組合=大企業御用達の格差製造組織》と考えるに至っても不思議ではないだろう。
 では、そんなことを述べている格差否定論者がいるか?というと、おそらく誰もいない。「労働組合は要らない」と言っている人物がいたとしても、その人物は必ずしも格差否定論者とは限らず、むしろ、格差肯定論者の方が多いかもしれない。

 そもそも格差というものにも2種類の格差がある。それは“公平な格差”と“不公平な格差”だ。
 例えば、大企業と中小企業を比較して、大企業にしかできない高度でリスキーな責任ある仕事を行なった上で開いてしまった格差なら、それは“公平な格差”だと言えるだろう。しかし逆に、全く同じ仕事をしているにも関わらず、大企業というだけで、中小企業よりも大幅に収入が高いというのであれば、それは“不公平な格差”だ。まともに働いている人間が、ほとんど働いていない人間よりも収入が低いということであれば、それも絶対的に“不公平な格差”だ。
 
 もちろん、日本のような学歴に依存した社会では、同じ仕事をしていても学歴によって多少の収入差が開くことはあるだろう。私も昔、大卒だということで、専門学校卒の人より少し給料が多かったので、そのことで露骨に僻(ひが)まれたことがある。当時の私は、学歴のみによる収入差は間違っていると思っていたので、ただ黙っていた。同じ仕事をしているのに大卒というだけで給料が違うというのはおかしいとは常々思っていた。しかし、その制度の中で働いている私には、反論することも諭すこともできなかった。「批判するべきは、私ではなく、社会の制度の方ですよ」とは言えなかった。

 格差肯定論者(私も含む)というのは、基本的に格差は肯定する立場にあるが、条件次第では格差を否定する立場にも回ることになる。その条件というのが、“公平”か“不公平”かという違いだ。
 世に蔓延る格差否定論者達が、一体どちらの格差を是正せよと言っているのかに注意を傾ける必要がある。“不公平な格差”の是正を叫んでいるのであれば、その人物は正論者だと言えるが、“公平な格差”の是正まで叫んでいるのであれば、その人物は偽善者か詐話師ということになる。私には、現代日本の政治家やマスコミのほとんどがこのタイプに属していると思えてしまうのだが…。

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『お金と結婚と少子化』の因果関係

2009082501 麻生総理がまた『問題発言をした』ということが話題になっている。ある学生集会で、学生から少子化問題に関した質問があったらしく、以下のように答えたらしい。
 
学生「若者に結婚資金がなく、結婚の遅れが少子化につながっているのではないか?」
麻生「そりゃ金がねえなら結婚しない方がいい。うかつにそんなことはしない方がいい。

 この麻生氏の意見に対しては毎度のことながら、野党側からは批判のオンパレード、与党側からは釈明が行われたそうだ。しかし、この発言のどこが問題発言なのか、私には解らない。
 「お金が無ければ結婚しない方が良い」と言うことがなぜいけないのだろうか? この発言の後に「お金ができてから結婚した方が良い」と付け加えれば何の問題も無いと思えるのだが、言葉足らずであったことがいけなかったとでも言うのだろうか?

 確かに、現代の日本ではお金が無くても結婚はできるし、お金が無ければ結婚してはいけないという決まり事もない。どんな経済環境であれ、男女の合意の元で行う結婚は自由だし、経済的な事情で結婚を縛る規制もなければ法律もない。しかし、常識的には、ある程度のまとまったお金が無ければ、まともな結婚生活は営めないと考えるのが普通だろう。
 少しでも経済観念を有した人間であれば、結婚する前に、ある程度のお金は蓄えるものだろう。「貯金など無くても、いくらでもお金を稼げる」というようなズバ抜けた能力が有る人は別として、一般的な人であれば、今の時代、お金も無いのに結婚するなどというリスクはなるべく避けたいというのが正直なところだろう。その証拠に、「貯金の無い人や安定した収入の無い人とは結婚したくない」という女性は大勢いる。「愛があればお金なんていらない」という理想論を述べるのは個人の自由だが、大抵の人は“愛”だけでなく“現実”も見て結婚を考えるものだ。

 それに「お金が無いなら結婚しない方が良い」というのは、“比較論”であって“断定論”ではない。麻生氏は「貧乏人は結婚などするな!」と断言しているわけではなく、「結婚はお金を貯めてから行った方が良い」というごく当たり前のことを言いたかっただけだろう。これはむしろ常識的な意見であって、こんな意見に対して批判している人間の頭の方がどうかしているとも言える。

 想像するに、こういった批判は《麻生総理は麻生財閥の御曹子だから》という歪んだ先入観から生まれた邪推ではないかと思う。《お金持ちが貧乏人に対して見下した意見を言っている》という捻くれた思い込みが齎したものだとも考えられる。確かに麻生氏にはそういったところ(=庶民を見下すようなところ)が無いとは言えないが、今回の意見だけで判断するなら、特に問題視するような発言とは思えない。

 では、学生からの質問に対して、麻生氏が以下のように答えていればどうなっていただろうか?
 
(例)麻生「金なんて無くても結婚すればいい。いちいち金のことなんて考えない方がいい。

 おそらく、この場合でも、こんな批判が出ていたはずだ。「お金の心配がない麻生総理だから、そんな無責任なことが言えるのだ」「現代の深刻な若者の労働事情も考えずになんて言い草だ」と。
 つまり、余程、当たり障りのない無難な答えを用意できなければ、どちらに転んでも批判の的になっていたというわけだ。当たり障りのない無難な答えを用意するのは、口の達者な野党政治家達の十八番(オハコ)でもあるが、学生達もそんな建前を聞くために学生集会を催しているわけでもないだろう。

 無難な答えをここで言っても始まらないので、本音でこの質問に答えてみよう。
 
 まず、「若者に結婚資金が無い」というのは、全ての若者に当てはまるわけではない。《結婚するには結婚資金がいる》と思っているのであれば、その資金を貯めるように努力すれば(=働けば)いい。
 「結婚資金が無いから結婚するのが遅れて少子化につながっているのではないか?」というのも、一部の人間しか該当しないだろう。現在ただいまの資金が多かろうが少なかろうが、ほとんど関係がないと思う。重要なのは、現在の収入や貯金の額ではなく、将来的に得ることができるだろう収入の予想額の方だ。抽象的に言い換えれば、先行きに対する“希望”の有無だ。
 頭の良い若者ほど、そういった希望が見えないことに早く気がついてしまう。今の社会が何の変革もなくこのままダラダラと進めば、未来には希望が無いということに潜在的に気が付いているがために、結婚できない(正確に言えば“結婚しようと思わない”)社会になってしまっているわけだ。言わば、現代の少子化現象というのは、人間の本能が無意識的に機能した結果だとも言える。動物と同じように人間にも、未来を感じる予知能力のようなものが少なからずあり、本能的に《結婚すれば苦労する》という漠然とした不安感を抱いているためだろう。その不安感の正体を暴かないことには現在の少子化現象が止まることは無いだろう。

 要するに、“希望”というものを国民に見せることのできる政治家の出現が望まれるわけだ。政治家のちょっとした言葉尻を捉えて、政争の具に利用することしかできない政治家などは、これからの時代にお呼びではないのだ。なぜかって? そんな政治家が何万人出たところで、日本社会も日本経済も決して良くはならず、悪くなるだけだからだ。

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新投資理論「予防マスクも美人投票」

2009082001 新型インフルエンザが再度流行しているとのニュースが伝えられている。一時は収まったと思われていた向きもあるが、実際のところは、単に報道されていなかったというだけで、水面下ではインフルエンザ患者は増加していたのだろうと思う。
 マスコミが騒がなければ、(パニックだけは)沈静化していたが、またまた大々的に悲観的なニュースが流行しようとしている。機を見るに敏な投資家(投機家)達は、先回りしてインフルエンザ関連銘柄の株式を購入しているらしく、再度、関連銘柄(マスク製造メーカー)の株式が暴騰している。

 しかし、機を見るに敏な投資家(投機家)達であるならば、インフルエンザにマスクを使用しても気休めにしかならないということは理解しているはずだ。情報に敏感な彼らのことだから、マスクの効用などは既に知れ渡っているはずだ。それでもマスク関連銘柄を先回りして購入するということは、結局のところ、その情報が真実であるか偽物であるかはあまり関係が無いということなのかもしれない。

 彼らは、“インフルエンザを防ぐにはマスクが効果的だ”と思って株式を購入しているのではなく、実は、“インフルエンザが流行すれば(情報に疎い)国民はパニックに陥ってマスクを購入する”と予想して株式を購入している。つまり、情報の格差を利用してお金儲けを行っているわけだ。それが悪いことか?というと、別に悪くはない。
 「情報の格差」といっても、それは情報を仕入れるスピードが速いか遅いかというような立場を利用したインサイダー的なものではないので全く罪は無いと言える。情報に踊らされてマスクを購入してしまった人がいたとしても、それは自己責任でしかない。
 そもそもマスクを購入するだろう人々は、自分達が情報に踊らされているということなど夢想だにしておらず、「国が正しい情報を提供してくれなかった!」と憤る人も現れないだろう。仮に現れたところで、自らの恥を晒すことになるだけだから、余程の恥知らずな人でない限り黙り込むしかなくなる。

 ケインズの投資理論として「株式投資は美人投票」という有名な言葉がある。対象となる女性が本当に美人であるか不美人であるかは関係がなく、より多くの人から《美人だ》と思われた女性が優勝するという美人コンテストを株式投資に喩えたものである。
 この言葉が意味するものとは要するに、『美人コンテストに出場する女性は必ずしも美人である必要がなく、審査員も美人を見分ける眼を持っている必要はない』ということだ。多くの見る眼のない人々が集まり、「あの人が1番の美人だ」と言えば、いかに不美人であろうとその女性が優勝する。これはある意味で民主主義(この場合は衆愚政治)そのものだとも言える。

 情報の認識力というものは基本的にピラミッド型になっており、高度な情報になればなるほど、その情報を正しく認識できる人間の数は少なくなる。ゆえに、情報の真実性や多様性は無視され、最も認識されやすい情報の広範性のみが優先されることになる。たとえ、その情報が間違った情報であったとしても、最大多数が認識したものが真実と見做される。これはある意味で、「魔女狩り」の行動原理そのものだとも言える。
 「あの女性は魔女だ!」という認識をする人間が最大多数を占めてしまうと、その女性が魔女であるかどうかに関係なく『魔女』と見做され、間違った事実を基に人々は狂気に走ることになる。その狂気に気が付くのは、いつの世でも一部の人間だけであり、大抵の人々は世間の空気だけで動かされてしまう。

 「あの人が1番の美人だ」
 「あの女性は魔女だ!」
 「新型インフルエンザにはマスクが有効だ!」

 上記の言葉は、催眠術の言葉として使用されているという意味では、どれも同じようなものだと言える。もちろん、催眠術師がいるわけではないのだが、多くの人々は何の疑いもなく、これらの言葉を鵜呑みにしてしまう。
 「株式投資は美人投票」という言葉を現代のインフルエンザに置き換えると次のようになる。

 「予防マスク(インフルエンザ予防)も美人投票

 即ち、対象となるインフルエンザに対する効果の有無は関係がなく、より多くの人から《効果がある》と思われたマスクは購入される。そして、違う理由により、マスク製造株式銘柄も購入され暴騰する。これぞまさに狂気のバブル現象とも言える。
 いつの時代の人々も、自らが狂気の渦の中に居ることを認識できず、狂気の渦の中で溺れてしまう。彼らはその渦の中でこう思う、《マスクを買えば安心だ》と…。

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3野党共通公約の大いなる矛盾

2009081501 8月14日、民主党、社民党、国民新党の3野党が共通公約を発表した。
 『郵政事業の4分社化見直し』と『消費税の現行税率据え置き』がメイン政策らしく、前回衆院選の小泉政策については、「市場原理・競争至上主義の経済政策は、国民生活、地域経済を破壊し、雇用不安を増大させ、社会保障・教育のセーフティーネットを瓦解させた」と批判したらしい。
 
 今頃になって、「小泉構造改革は間違いだった」と言いたいようだが、残念ながら、その認識は間違っている。私も現在の自民党を擁護するつもりはないが、こういった野党側のデタラメぶりに比べれば、まだマシと言わざるを得ない。
 基本的に野党側の政策というのは、バラマキ肯定の社会主義政策であることに変わりはないので、極めて危険な政策だと言える。消費税も「即刻上げる」などと言えば選挙で勝てないので、取り敢えず「据え置く」と言っているだけだろう。
 
 「小泉総理が構造改革を行ったので格差が拡大した」などということを本気で言っているのだとすれば、これはもう馬鹿と言うほかない。小泉総理が構造改革を唱えていたことは事実だが、実際のところは構造改革などは行われていないからだ。小泉総理が悪いという批判が成り立つとすれば、それは、構造改革を行ったからではなく、むしろ構造改革を行うことができなかったということに対する批判でなければならない。要するに、構造改革があまりにも中途半端なものであったがために、問題が発生した(注意:格差の拡大のことではない)というだけのことなのだ。
 
 格差の拡大問題にしても、小泉総理の政策云々はほとんど関係がない。「規制緩和したから格差が拡大した」などという理屈はどう考えても辻褄が合わない。これも逆に「規制緩和できなかった(中途半端な規制緩和だった)から格差が拡大した」と言う方が正しい認識だと思う。
 国内で格差が拡大した原因は、よく言われているように、年功序列制度が崩壊し、若者世代がその序列制度の枠から外れてしまったからに他ならない。年功序列制度に守られた既得権益者達と、年功序列制度を無理矢理に維持するために利用される若者世代との格差が表面化してしまったというだけのことだ。
 格差にも2種類の格差があって、肯定するべき格差と否定するべき格差があると思われるが、年功序列制度を基にした格差というものは否定されるべき格差だろう。
 これに対し、個人の能力や努力によって生まれた格差は肯定するべきであって、なんでもかんでも格差は悪などというのは間違っている。
 
 そもそも格差が拡大したと言っても、国外に視点を置けば、今でも日本ほど格差のない国は無いと言われている。そして、多くの途上国から観れば、日本は貧乏国家ではなく、金持ち国家だと思われている。国民の現預金が1500兆円(国民1人あたり1500万円)以上もある国民がどうして貧乏なのか?というのが、海外から観た日本の姿だ。しかし、その金持ち国の政治家達は、「格差の是正を!」「平等社会の実現を!」などと絶叫しているのだから、海外の人々から観れば、空いた口が塞がらないというのが正直なところだろう。
 おかしなことに、「格差の是正を!」などと叫んでいる人々の口からは、格差の元凶である「年功序列制度」という言葉は出てこない。本当に格差の是正に興味があるのであれば、最終的に行き着く答えは「年功序列制度」であると思われるのだが、なぜか、正しい答えを直視しようとせず、「構造改革」という言葉に責任転嫁しようとする。
  
 まず「構造改革」という言葉をよく考えてみよう。その「構造」とは何を意味しているのか? これをハッキリと明確化しないことには、構造改革の何が良くて何が悪いのかが判らないはずだ。実際に多くの国民は、このことを理解していないのだろうと思う。理解していないにも関わらず、「構造改革」という言葉を聞けば条件反射的に《=小泉総理》と連想してしまってはいないだろうか? これはある意味で洗脳状態に置かれていると言えなくもないが、自己の責任と考えれば、ただ思考停止状態に陥っているに過ぎない。
 「構造改革」の「構造」とは、旧態依然とした日本の社会システム(官僚システム)のことであり、「改革」というのは無論、そのシステムを変えるということだ。
 現在言われている「官僚政治からの脱却」というのは、その1つに過ぎない。民主党やみんなの党などが言っている「官僚政治からの脱却」というのは、構造改革の中の1つに過ぎず、本当の構造改革というものは、その程度のものでは済まない。
 日本の社会システムの全てを1から改革(むしろ0から創造)することこそが、本当の構造改革であると考えれば、小泉総理が構造改革を行ったかどうかは考えるまでもないだろう。答えは無論、「できなかった」のである。つまり、構造改革が悪かったのではなく、構造改革を実現できなかったことが悪かったのである。小泉総理の能力が足りなかった(または構造改革を理解していなかった)のか、それとも邪魔する勢力が多過ぎたのか、その真相は解らない。しかし今回の共通公約を出した3野党が構造改革を行う気があるのかどうかは考えるまでもない。

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『覚せい剤使用』と『自殺未遂』の微妙な関係

2009081001 先週からテレビのニュース番組では、政治問題よりも「ノリピー」こと酒井法子の覚せい剤事件に焦点が当てられている。珍しく国民の一大感心事に成りかけていた政治問題は、この芸能ネタによって完全に霞んでしまったようだ。
 
 世間一般では、ノリピー批判も行われているようだが、多くの人はこう言っている。「ノリピーに裏切られた」「覚せい剤に手を出すなどケシカラン」と。
 
 初めにお断りしておくと、私は国民的元アイドルの芸能界ネタ(ノリピー批判)を書くつもりでこの記事を書いているのではなくて、この事件によって、ある意味で“思考停止状態”に陥っているかに見える国民的社会問題について述べている。扱うものが『覚せい剤』という反社会的なものであるので、誤解を招く恐れがあるかもしれないが、誤解を恐れずに少し述べてみたい。
 
 まず、「酒井法子は罪を犯したか?」
 
  「犯した」 より正確に言えば「法律を犯した
  
 では、「酒井法子は誰かを傷付けたか?」
 
  誰も傷付けていない。しかし、ファンや関係者の心は傷付けた。
  
 「あなたは、酒井法子の行為によって迷惑を被ったか?」
  
  「いいえ」【国民のほぼ全員
 
 つまり、酒井法子の犯した罪とは法律を守らなかったという個人的な罪であって、他人を傷付けたとか、迷惑をかけたという罪ではない。(親類や芸能関係者は迷惑を被ったが、赤の他人は迷惑を被っていない)
 「法律を破るなど倫理的にケシカラン」と憤っている人がいたとしても、その当人自身が迷惑を被ったわけではない。例えば、覚せい剤を使用したせいで万引きをしたとか、他人を殴ったとか、破廉恥行為を行ったとかいうのであれば、それは他人にも迷惑をかけることになるので万人が「ケシカラン」と言っても然るべきものだが、幸い、そこまでの罪は犯していないので、全く関係のない赤の他人が「ケシカラン」と言うのは少し感情的に成り過ぎているのではないかと思う。
 
 もちろん、放っておくと覚せい剤中毒となって他人を傷付ける可能性もあるので、覚せい剤の蔓延を取り締まる必要があることは言うまでもない。しかし、覚せい剤に手を出して真っ先に傷付く人間は誰かというと、覚せい剤に手を出した自分自身だ。覚せい剤に手を出して身を滅ぼすのは実は本人自身だということに注目しよう。
 
 覚せい剤取締法の目的は、主として2つある。1つは「個人の廃人化を防ぐ目的」、そしてもう1つが「世間一般に広まることを防ぐ目的」だ。この2段階のストッパーとして覚せい剤の使用・所持は規制されているわけだが、この2つはよく考えると似て非なるものだ。1段階目は『』の問題であり、2段階目は『』の問題という大きな違いがある。
 
 1段階目というのは、“個人の肉体を自分自身で傷付ける”という意味では、『自殺未遂』というものに似ているとも言える。
 もし、自殺というものが法律で禁止されていたとすれば、自殺未遂を図った人間は「ケシカラン」ということになるのだろう。それは法律を犯したことに対する「ケシカラン」であって、決して他人を傷付けたという意味での「ケシカラン」ではない。
 他人まで巻き添えにした自殺(自爆テロなど)は、万人が「ケシカラン」と言うべきものだが、誰にも迷惑をかけていない自殺を同じように「ケシカラン」と言うのはどうだろうか?
 無論、宗教・倫理的な意味合いで「自殺は悪だ」という別の観点から見た意見もあるだろうが、話の都合上、そういったものは省く。(ちなみに私も自殺否定論者です)

 酒井法子は確かに法を犯した。そして世間一般にもお騒がせしたことは事実であるので、擁護するつもりはさらさらないが、単に『覚せい剤』という言葉からイメージだけで批判している人には、もう少し冷静に考えてみることをオススメしたい。
 覚せい剤を使用することは確かに悪だ。しかし、その悪にも段階があるということも考えてみよう。何事についても条件反射的に決めつけるのではなく、別の見方もあるということを考えてみよう。そして、多くの国民にそういった複眼的な視点が欠けていることこそが、この国の閉塞感の主因になっているという事実にも目を向けよう。
 この記事で述べたかった結論はそういうこと(=思考停止注意報)であって、覚せい剤云々はあくまでも喩えであるので、話の本題を曲解しないように願います。

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レンタルDVD店の経済学【ゲオの株主優待制度】

2009080501 株式市場も少しは落ち着きを取り戻しつつあるようで、一時は「5000円まで落ちる」と騒がれていた日経平均株価もようやく心理的節目の10000円を越えてきたようだ。株式投資に「絶対」という言葉はないので、また再び暴落しないとは断言できないものの、最近ではリバウンド狙いで個人投資家の証券口座開設が増加しているらしく、ネット証券各社の手数料合戦も再燃してきたようだ。

 私もイートレードや楽天など、オンラインの証券口座は複数持っているが、多くの株は塩漬け状態になっている。さすがにここ数年の相場で儲けたという人はほとんどいないだろうと思う。デイトレードなどの短期売買や空売り専門の人であれば儲けた人は結構いるのかもしれないが、中長期の投資家ではほとんどいないと見て間違いないだろう。
 だから、某政党の言う「現在10%の株式譲渡益課税率を20%に上げるべきだ」とか「税率を上げないのは金持ち優遇だ」などという批判は根本的に間違っている。特に左系の政治家達は未だに「株式投資家=金持ち」と思っているフシがあるが、こんなのは誤った解釈と言うしかない。大抵の一般投資家は現在、損失を抱えているわけだから、むしろ「株式譲渡益課税は0%にするべきだ」というのが本来のあるべき姿だろう。

 話が少し横道に逸れたので元に戻そう。昨年のサブプライム問題発覚から、大部分の株式は急落したので、「恐くて株など買えない」と言う人も多いと思うが、こういった時期であるからこそ景気にあまり左右されない安定した銘柄を配当狙いで購入しておくのもよいかもしれない。私も最近は配当の無い株は買わないことにしているが、多少のリスクさえ受け入れることができれば、銀行に預けるよりははるかにマシだと思う。

 さて、本題に入ろう。配当狙いのディフェンシブ銘柄もよいと思うが、『株主優待制度』というものにも着目すると、さらに株式投資の妙味は増す。私が最近、遅ればせながら気が付いたものに、『ゲオの株主優待制度』がある。ゲオの株主優待というのは、実に大盤振舞いで、株主になる(正確には株主名簿に登録される)と、なんと新作・旧作を問わず、レンタルが1年中半額で利用できるようになる。しかもキャンペーン期間中にも適用されるので、現在行われている旧作100円キャンペーンなども株主にとっては50円キャンペーンとなる。
 さらに、半年に1回1000円ポイントと1200円の配当が出るので、1株で実質年間4400円分の配当を受け取ることができる。(2009年現在)

 現在、ゲオの株価は7万円台だが、業績から判断しても底打ち感が強く、急落後の自律反発局面にある可能性が高いと言える。2年前の株価は25万円程度だったわけだから、底値が「半値8掛け2割引※」と考えれば、株価指数的にも“下げ過ぎ”との判断が妥当だと思う。7万円で4400円の配当金があるということは、実質6%以上の高配当率ということになるので、割安感は非常に高いと言える。(ゲオを利用する人に限る)

 ※250,000÷2×0.8×0.8=80,000円

 私のような映画好きであれば、ゲオの優待は実に魅力的だ。私の場合、年間に100本程度(海外ドラマも含む)はレンタルするので、100本で30000円と考えても、その半額だから、15000円は浮くことになる。つまり、年間で4400円+15000円で2万円近くに達することになるため、投資した7万円は4年もあれば全額回収できる計算になる。貯金と思って複数株持てば、1年中現金を使わずに(ポイントと配当金で)レンタルすることも可能だ。
 もちろん、ゲオの倒産リスクも考慮しないといけないが、比較的堅調な内需株でもあるので余程のことがない限りその心配は無いだろう。

【注記】
 私は当ブログ閲覧者に無条件にゲオの株式購入を勧めているわけではありません。レンタル好きでゲオを利用している人であれば、株式を持った方が断然お得だということを述べたまでです。
 なお、ゲオ株の購入を検討される方であっても株式投資にリスクは付き物であるので、あくまでも自己責任で売買願います
 無論、私は証券会社の回し者でもなく、ゲオの社員でも関係者でもありませんので、インサイダーなどとは全く無関係です。一応、念のため。


【後日談】(2009.9.30)
 ゲオの株主優待制度を紹介したのも束の間、2ヶ月も経たないうちに、優待制度が変更(ゲオの株主は「優待改悪」と呼んでいる)されてしまったので、一応、追記しておきたいと思う。
 どう変更されたのかというと、『半年間レンタル半額の株主カード』が、『レンタル半額クーポン券10枚』に変更され、なおかつ、1000ポイントの付加も無くなることになった。(適用されるのは2009年7月以降) 優待としての魅力は激減してしまったので、私も今回の優待権利を獲得(2010年6月まで利用可能)した後で、株式を売却した。2株で2〜3万円の実利を得たものの、実に残念だ。
 ゲオにとっては現在の旧作レンタル100円キャンペーンの相次ぐ延長(固定化)と半額優待制度の両立は経済的に難しくなったのかもしれない。一時的に株価は下がるだろうが、株主にとっては、利益が増す分、株式価値は高くなる(実際に配当金は上がるらしい)ので、そのうち上昇に転じることになると思う。頃合いを観て再度、株主にはなろうと思っている。

【追記】
 2011年3月から、株主優待制度が、再度、半年間半額に変更になりました。(200円以上の商品に限るという条件付き) 旧作を100円に固定し、新作を半額にしたのは経営的にも正解だと思う。

【追記】(2012.8.10)
 2012年7月から、旧作100円レンタルも再度、半額(50円)が適用されることになりました。

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