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2009年10月

情報の賞味期限と思考停止病の蔓延

2009102901 毎年、この時期になると「インフルエンザ」という言葉を嫌でも耳にするようになる。今年は例外的に「新型」という言葉が先に定着してしまったので、その影に隠れた形になってはいるが、それでも毎年恒例の季節がやってきた。無論、「インフルエンザ・ワクチン接種」の季節である。

 一応、経過報告を述べておくと、1年前、当ブログに『インフルエンザ・ワクチンは打たないで!』という本の紹介記事を書かせてもらった。その本を読んでからの私はインフルエンザワクチンを注射していない。もちろん、ワクチン無しでもインフルエンザとは無縁の生活を送っている。わずか1000円の本で、この先、数十年間ワクチンを注射する必要が無くなったと思えば、経済的にも合理的であり、実のある読書投資になったと思っている。
 「インフルエンザワクチンは打たないで」というキーワードから、当ブログに訪問された人もこの1年間で数百人はいるだろうと思う。少なくともそのうちの数人は当ブログ経由でアマゾンで実際に本を買われたようなので、少しは私が書いた記事も世間のお役に立っている(?)のかもしれない。

 日本の大手新聞やテレビを観ていても、インフルエンザワクチンを打つことを勧める記事は見かけるが、打たないことを勧める記事は見たことも聞いたこともない。(インターネットには多数ある)
 何事にも対立するべき反対意見があると思うのだが、新聞やテレビでは完全に片方の意見に統一されてしまっている。この辺を見ても、マスコミというものがいかに閉鎖的な集団であるかが窺える。“異論は一切シャットアウト”という姿勢は、もはや報道機関としての体をなしていないと言っても過言ではないだろう。これだけ情報がオープン化された時代にこのような閉鎖的な報道姿勢を貫いていては、一般の顧客が離れていくのも止むを得ないだろうと思う。
 
 幸か不幸か、世界不況と同時に客離れが発生したので、日本のマスメディア関係者は景気が改善すれば客も戻ると考えているのかもしれないが、おそらく客が元に戻ることは無いだろう。なぜなら、客離れを起こしている最大の原因は“不況”ではないからだ。三橋氏の本にも書かれていたが、“時代のニーズに応えることができない”ということが最大の理由であるからだ。早い話、情報が生きていないのである。言い換えれば、ジャーナリズムが仮死状態に置かれているわけだ。
 「ジャーナリズム崩壊」という言葉(も本)もあるように、情報が死んでしまえば、誰もその情報には見向きもしなくなる。今までは情報の賞味期限というものが曖昧であったので運良く客数を維持することができたが、インターネットの影響で現代の一般人は情報に目敏くなり、情報の賞味期限を見分ける目を持つに至った。そんな状況下で賞味期限の切れた情報を押し売りの如く販売すればどうなるか? 誰も興味を示さなくなっていくだろうことは容易に想像できる。
 
 “賞味期限”に過剰なまで敏感(?)なマスコミであるならば、食料品ではなく、自らが取り扱っている“情報”の賞味期限にこそ着目するべきだろう。物体ではない目に見えない情報の賞味期限が問われる時代がやって来たということを知らなければならない。
 数年前、ホリエモンがニッポン放送を買収しようとした時に、テレビとインターネットの融合を説いていたことがあったが、(その実現性はともかくとしても)あの時にマスメディアは素直にホリエモンの言葉に耳を傾けるべきだったと思えるのは私だけではないと思う。

 話をインフルエンザに戻そう。現在は、小学校や中学校で学級閉鎖(休講)が増加しているとのことだが、会社そのものが閉鎖されているというような話はあまり聞かない。サラリーマンがインフルエンザで集団自宅待機などという話も聞かないし、民間よりも過保護(?)な公務員ですら役所閉鎖していないところを見ても、健常者である大人がそれほど大騒ぎするような病気とも思えない。
 ではなぜ、小・中学生がインフルエンザに感染しやすいのかと言えば、幼児や子供には未だ様々な病気に対する免疫ができていないし、病原菌に対する抵抗力も付いていないからだ。「老人にもインフルエンザ感染者が多いのではないか?」という意見もあるかもしれないが、それも、老化によって免疫力が落ちているという単純な理由で説明がつく。
 
 念のためにお断りしておくと、私は、『インフルエンザ・ワクチンは打たないで!』という本を読むことをオススメしてはいるが、「インフルエンザ・ワクチンは打つな」と言う気はない。もちろん私個人は「打たない方が良い」と判断したから打っていないわけだが、それを決めるのは、あくまでも自己判断であり自己責任だ。一応、インフルエンザも命に関わることもある病気であるので、他人に「打て」とも「打つな」とも強制することはできない。ただ、お上やマスコミが垂れ流す情報をそのまま鵜呑みにするのではなく、何が良くて何が悪いのか、または何が正しくて何が間違っているのかということを自分自身の頭で判断し、行動することだけは強くオススメする。

 しかし、その判断基準となる情報はテレビや新聞からは残念ながら得ることができない。判断するべき基準が無い(=一方的な意見しか書かれていない)のだから、どう転んでも「打つ」という判断にしかならない。「打つ」ことを前提とした情報しか入ってこないのだから、余程、疑り深い人間か、直感の優れた人間でない限り、「打つ」という判断にならざると得ないだろう。
 
 常識ある大人として大事なことは、必要以上にインフルエンザを恐れることではなくて、恐れる前に正しいインフルエンザの知識を身に付けることを考えることだ。そして、子供として大事なことは、感染することを過剰に恐れることではなく、感染しても耐えるだけの健康な身体を作ることに努めることだ。大人も子供も、他人から一方的に与えられた情報に右往左往するのではなく、冷静に物事の本質を考えて行動することこそが様々な病と付き合っていく上で最も重要なことだと思う。
 
 つまるところ、マスコミが異論を排除(シャットアウト)してきたことは、国民の思考停止病の蔓延にも一役かってきたわけだ。我々が本当に危惧すべきはインフルエンザの蔓延ではなく、むしろ思考停止病の蔓延であるのかもしれない。

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『官僚政治脱却』と『衆愚政治脱却』

2009102001 テレビの経済番組などを観ていると、世界景気は若干持ち直しつつあるというニュースが伝えられてはいるが、未だ日本国内ではあまり景気の良い話は聞こえてこない。アメリカ発の金融危機から世界経済の総需要は4割ダウンし、経済規模は一時60%程度まで減少したわけだから、単純に考えれば、4割の雇用者がいらなくなるか、あるいは、収入が4割ダウンしなければ帳尻が合わなくなったということでもある。
 もし、「4割の失業者の中に入るか」それとも「給料が4割カットになるか」のどちらかを選択しなければならないということであれば、あなたはどちらを選択するだろうか? 大抵の人はおそらく後者を選択するだろう。中には「4割も収入がダウンすれば生活できない!」と言う人もいるかもしれないが、いきなり「4割の失業者の中に入る」よりはましだと考える人は多いと思う。
 
 全体としての仕事量(パイの大きさ)が6割になっても困らない人というのは、普段から他人の1.5倍以上の仕事を行っていた人(=給料の1.5倍以上の仕事を行っていた人)に限られる。より正確に言えば、1.5倍の仕事を行っていた人であっても、1.5×60%=90%で、10%足りないということになる。つまり、普段から1.5倍の仕事量をこなしている人であっても、給料が1割ダウンしてもおかしくないような経済状況が現出したということである。
 しかし、実際のところは、150%の仕事をしているような人の仕事はそれほど減っておらず、普段から100%未満の仕事しか行っていない人の仕事が激減しているのだろうと思う。元々、給料分の仕事を行っていない人の仕事が更に減少して困っている状態、言わば、仕事量の二極化が更に進んだような状態だと言えるのではないだろうか。
 
 自分の仕事量を単純に計ることができない仕事(サービス業など)もあるので、かなり曖昧な部分もあるとはいえ、余程の利益が出ていない企業でない限り、売上や利益が減少しているのであれば、その減少率と同じだけの収入額に収斂していかなければ、企業経営は成り立たない。これは子供でも分かる理屈だ。しかし、今回の大不況で4割もの人員をカットした企業や給料を4割カットした企業があるという話はあまり(というより全く)聞かない。景気回復待ちで、取り敢えず今までの利益でなんとか食いつないでいる企業や、騙し騙しで自転車操業商いを行っている企業は意外に多いかもしれない。
 ボーナスや残業代を全額カットした会社があれば、実質的には給料を4割カットしたと言えなくもないが、そこまでする前に不幸にも『倒産』という選択をせざるを得なかった会社もあるはずだ。

 世界の経済規模が縮小した原因は、実体経済規模からかけ離れたマネー経済の膨張が、いきなり破裂して急速に萎んでしまったというバブルの崩壊現象がその基にあるが、実際のところは、その影響によって“消費が急減してしまった”という理由によるところが大きい。経済規模の縮小が原因と言うよりも、金融における信用性が収縮してしまったことによる消費の減少こそが、今回の世界不況の正体だと言える。
 要するに、多くの人々が借金をして不相応な消費を行えていたことによって世界経済は成り立っていたということであり、「現在の消費量が減少した」というよりも、「本来の実体経済の姿に戻った」というのが実際のところだろうと思う。この本来の姿に収斂した消費量を増加させるためには、結局のところ、過剰消費社会の再現(つまりバブルの再来)を待つしかないということでもある。
 
 この過剰消費社会の到来国として現在最も注目されているのが中国だと囁かれているが、本来であれば、日本がその任を背負ってもおかしくはない。少なくとも、日本経済を活性化させるだけの資産が日本にはある。日本の場合はお金が無いのではなく、ただ、そのお金が動かなくなっているだけであるので、消費(または投資)意欲さえ回復させることができれば、すぐさま景気は回復するという国際的にも非常に有り難い立場にある。しかし、全くその立場が生かされていない。

 消費が不足しているがために不況に陥っているのであれば、消費を増加させることが景気回復の至上命題であることは誰にでも解る。では、消費を増加させるためにはどうすればいいいのか? 単純に考えれば、国民の消費意欲を喚起することが1番てっとり早い方法ではある。そういう意味では、『エコカー減税』などは良い経済政策だったとも言える。
 健全な消費社会にするためには、“未来は明るい”“将来は良くなる”ということを国民が信じることのできる社会を構築するこそが重要だが、冷静に現在の日本社会を眺めてみると、残念ながらお世辞にも未来は明るいなどとは言えない。そう言うためにはクリアしなければならない問題が山積み状態だ。
 
 少子高齢化問題、年金問題、教育問題、医療・介護問題などは、基本的に「本音論」でしか解決できない問題だ。しかし、政治家は本音を語るとマスコミに足下をすくわれ、マスコミに同調した国民から総バッシングを受け、ヘタをすると政治生命を奪われてしまいかねない。そういったリスクの前には為す術がなく、結果的に本音論が語れなくなっている。
 勇気をもって正論を述べる政治家であればあるほど失脚の可能性が高くなってしまうという、独裁国家さながらの社会(早い話が衆愚政)が構築されてしまっている。この悪循環によって、いつまで経っても無意味な建前論を垂れ流すことしかできず、何1つ問題は解決できないという袋小路に嵌り込んでしまっている。

 この衆愚政という悪循環から脱け出すことこそが景気回復の近道でもある。官僚政治からの脱却よりもむしろ、衆愚政治からの脱却の方が重要かもしれない。なぜならば、衆愚政治である限りは、官僚政治からの脱却も不可能であると言わざるを得ないからだ。逆に、衆愚政治から脱却できれば、官僚政治からの脱却は無条件に成立する

 建前社会の番人たる官僚に対抗するべき手段は“本音”でしかない。その本音を武器にできないのであれば、初めから勝負は見えている。建前の世界に閉じ篭ることしかできない政治家であるならば、官僚政治からの脱却などはできるはずもない。
 衆愚政治から脱却するためには、その言葉が示すように、大衆が無知から脱却しなければならない。多くの国民が、日本経済や日本社会というものの本質を理解しなければ、決して良くなることはないだろう。「他人任せでは生活環境は良くはならない」という当たり前の話である。
 書物を購入せずとも無料で真実を知る手段はインターネットの登場で半ば達せられた。はたして国民は衆愚政治から脱却するべき環境を自ら構築することができるのだろうか…。

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新天地へと向かう企業広告メディア(組織から個人へ)

2009101501 マスメディア(新聞・テレビ)の企業広告収入が激減していることはよく知られた話で、最近のテレビCMを観ていると、数年前のCMとは大きく様変わりしていることに気付かされる。中でもパチンコメーカーのCMが異常に多くなっていることに気が付いている人は多いと思う。CMだけでなく、番組の方もクイズ番組が異常なほど増えている。広告収入が激減しているためか、製作費用が安くつくクイズ番組に、比較的ギャラが安いと思われるお笑いタレントを数多く起用して番組が製作されている。現在のお笑いタレントブームの背景には、テレビ局の懐(ふところ)事情も関係している。(注記:別にお笑いタレントが悪いというわけではないので、誤解のないように)
 
 実際に、不況の影響から経費削減のために新聞やテレビに広告を出さなくなった大手メーカーもあるらしく、そういった企業と入れ替わる形でパチンコメーカーなどのCMが多くなってしまったようだ。無論、スポンサーが変更になったのは、テレビCMの利用料金が安くなっていることと無関係ではない。

 この消費不況の最中、高い広告料金を支払ってまでテレビCMを流しても、果たしてどれだけ消費に結び付いているのかが判らないという理由もあり、企業は広告宣伝費を大幅にカットした。その結果、売上は多少減少したのかもしれないが、利益率は増加した企業もあるらしい。これは当然と言えば当然の結果だが、要するに、既にある程度のネームバリューを構築してしまった大企業にとっては、テレビCMを大々的に流そうが流すまいが、商品の販売量にはそれほど影響しなかったというわけだ。利益率がアップしたということは、以前からもテレビCMに投資しただけの資金を回収できていなかった企業が有ったということだろう。
 この辺のところは前々回の記事でご紹介した三橋貴明氏の『マスゴミ崩壊』に詳しいので、興味のある方はそちらを見ていただきたいと思う。

 さて、では企業の商品コマーシャルは今後、減少していく一方なのか?というと、そうでもないらしい。これまで新聞やテレビを利用して出されていたコマーシャルは、インターネット広告という媒体に流れている。ヤフーのトップページの右上に出ているような宣伝がそれに該当する。そして注目すべきは、今まで“料金が高過ぎる”という理由でテレビには出せなかった(または製作されなかった)コマーシャルまでもがインターネットに流れていることだ。ブロードバンド環境の急速な普及により、新規ベンチャー企業や中小企業、はては個人の広告までもが、気軽にインターネット広告として出せるようになった。これは非常に大きな変化だと言える。
 インターネット広告の場合、テレビCMとは比較にならないほど安価であり、広告を出すサイトを選択することによって、ある程度の消費年齢層を絞ることが可能になる。加えて、実際にどれだけの人が広告を見てくれたのかを正確にトレースできる場合もある。不況の影響で経費削減を余儀なくされている企業にとっては、インターネット広告はまさに渡りに船で、良いことづくめという印象を受ける。

 こういった企業広告は、ポータルサイトだけではなく、個人のブログにも利用されている。当ブログにも上段左右(2009年10月現在)に企業広告欄を設けさせてもらっている。通常のアフィリエイト広告はクリックしない限り報酬は発生しないが、このテの広告は「インプレッション広告」といって、基本的にブログが表示されるたびにカウントされることになっている。アクセス数の多い人気ブログなどは、個別にスポンサーからオファーが入ることもある。(その場合はアクセス数ではなく、1日何円という計算になる)

 話は変わって、前回の記事を投稿した翌朝、ココログのアクセス解析を確認してみると、朝から200近いアクセス数があった。何かあったのかと調べてみると、「はてなブックマーク」に記事が記載されていたことが判った。(→該当記事
 その後、外出してから帰宅後に再度確認してみると、総アクセス数が1000を超えており、最終的にその日の総アクセス数は3000を超えた(下記グラフ図参照)。

Access20091015_6

 今までは多い日でも100程度のアクセス数だったものが、いきなり30倍のアクセス数に達したわけだから、少々驚いた。私は最初の記事に日々10000PVが第1目標と書いているが、実際に(一時的とはいえ)閲覧者が数十人から数千人に変わってしまうと、記事を書く責任性も大きくなるなと実感した。この、はてなブックマーク記載以来、リピーターが増加したらしく、日々のアクセス数は今のところ以前の2倍以上に上昇している。

 話を元に戻そう。企業の広告(テレビCM)は今後、インターネットに移っていくだろうことは想像に難くない。マスメディアが既に斜陽産業になってしまったということが多くのスポンサー企業に認識されてしまえば、この流れは決定的なものとなるだろうが、もはやその流れは変えられそうにない。
 巨大な護送船(マスメディア)ではなく、個人のいかだ船(ブログ)であっても多くの人を乗せて航海できる時代がやって来た。そこで求められるべきものは、目に見える“組織の大きさ”ではなく、目に見えない“個人の信用”になる時代がやってきたということでもある。
 大きな船であっても難破する危険な時代になれば、求められるべきものは、船の大きさではなく、舵をとる個人の能力や信用度に変化する。
 同じことは企業についても言える。これから伸びる企業は図体ばかりが大きいだけの企業ではなく、様々な需要を満たすことのできる融通性を持った信用ある企業だと言えるかもしれない。

 “組織”の時代から“個人”の時代へ。現在のマスメディアの動きをつぶさに観察すれば、それが向かうべき時代の方向性だということがよく分かる。その向かうべき方向に舵を切ることができなければ、新天地に辿り着くことは難しい。
 よく考えれば当たり前の話だが、それをなかなか改めようとしないのがマスコミを含む日本社会の困ったところでもある。護送船団日本号の舵は時代が変化しても微動だにしない。その方向はただひたすら時代に逆行しているかに見える。“新天地”ではなく“氷山”へと向かうことが判っていながら改めようとしない、まさにタイタニック号の悲劇そのものと言える。
 
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ブックオフとQBハウスのビジネスモデル考

2009101001 3ヶ月程前に、行きつけの郊外型書店が閉店したという記事(→『ジリ貧の発想』に陥った書店のコスト削減策)を書いたばかりだが、先月末にまた別の郊外型書店が急に閉店してしまった。これで、会社帰りに車で立ち寄れる郊外型書店はほぼ全滅となってしまった。ここまで急に書店環境が激変してしまうと1消費者としては困ってしまうが、当の書店側はもっと困っているのだろうと思う。現在の書店を取り巻く状況を以下に列挙してみると、
 
1、不況の影響で本や雑誌を買う人が少なくなっている。
2、国民の活字離れが激しくなっている。
3、便利なネット書店(アマゾンなど)に客が流れている。
4、安価な中古書店(ブックオフなど)に客が流れている。

 この他にももっと多くの細かい事情があるのかもしれないが、もはや現在の既存書店は「先行きが不透明」というような生易しい状態ではなく、「お先が真っ暗」というような状況に近いのかもしれない。私の身の周りで実際に起こった書店の相次ぐ閉店がそのことを物語っている。今後、既存の書店は余程の抜本的な変化でも起こさない限り、経営難に陥っていくだろうことは火を見るより明らかだ。
 
 現在の書店環境の激変(既存書店の淘汰)は一体なにを意味しているのだろうか? なぜこれほどまでに急激に環境が変化してしまったのか? その答えを「不況」「人口減少」「ネット書店の台頭」というキーワードに結び付けることは簡単だが、ここでは少し視点を変えて考えてみたいと思う。旧態依然とした書店の衰退現象は避けることができないとしても、短期間で連鎖的に経営破綻するというような悲惨な結果をなぜ少しでも緩和(ソフトランディング)することができなかったのかを、「市場原理」というものを踏まえて考えてみたい。

 既存書店に対して、ブックオフなどの中古本ショップが台頭してきたことは周知の通りだが、時を同じくして理髪店にも、QBハウスなどの安価な理髪店が現れてきた。この2つのショップは、市場原理否定者からは『既存市場を荒らした価格破壊者』というイメージを持たれている。その思い込みについての反論は以前にも何度か述べた(以下の関連記事参照)が、もう1度、この2社について考えてみよう。

(関連記事)
 ブックオフは文化の破壊者か?
 ブックオフ買収における真の改善策とは?
 床屋の経済学
 理容業界の攻防(3600円 vs 1000円)
 
 実際に両社の経営者に聞いたわけではないが、ブックオフにしても、QBハウスにしても、初めから市場を破壊するために参入してきたわけではないだろう。これらの2社は、需要と供給の間に開いた大きなギャップを発見して、その隙間を埋める形で市場に参入してきたのだろうと思う。
 解り易く言えば、100円の価値しかないものが、500円で売られていれば、差引き400円の間にはビジネスチャンスが有るということだ。500円で販売されているものを300円にして利益が出るのであれば、そこには新たなビジネスが生まれる余地が有るわけだ。書店にしても、理髪店にしても、価格が固定されていた市場であるがゆえにビジネスチャンスが存在した。そのチャンスを目敏く発見し市場に参入したのが、ブックオフやQBハウスだったと言うことができると思う。
 
 そう考えると、“市場に大きな隙間が空いていた”ことが根本的な問題だったということになる。その市場原理から大きく乖離した隙間はなぜ発生したのか? ここに問題の本質が隠されている。その問題点とは、“市場を無視した価格が維持されていた”ことにある。つまり、時代にそぐわない閉鎖的な市場をいつまでも放ったらかしにしていたことが問題だったということである。
 既存の書店や理髪店が市場に発生した隙間を埋めるように自ら業態を変化させていれば、初めからブックオフやQBハウスが市場に参入することもなかったかもしれない。仮に参入したとて、いきなり料金が半額以下になって、既存店が競争力を失い経営破綻に陥るということもなかったはずだ。ある意味で規制に保護されていた既存の書店や理髪店が、市場原理(または消費者)を無視し、長い間、何の努力もしてこなかったことのツケが一気に噴出した結果が、現在の姿であるとも言えるわけだ。
 現在の既存書店の連鎖的な経営破綻や、既存理髪店が窮地に陥っている現状を生んでしまった真の原因は、市場を解放(規制緩和)したことにあるのではなく、実は“市場を統制(または市場原理を無視)していた”ことにある。そう考えた方が理に適っている。
 
 市場の隙間を埋めることによってビジネスが成り立つということは、合理化を可能にすれば利益が生まれビジネスが成り立つということであり、これは言わば、資本主義社会の基本だ。不合理な市場にはビジネスチャンスが転がっている。そのチャンスを他人より早く見つけたものが起業家になるという、ただそれだけのことである。
 時代とともに変化する需要と供給の原理を考えずに、無理矢理、高値で固定されていた市場であるなら、そこに新規ビジネスが生まれることは当たり前のことだ。そのことを「市場の破壊だ!」などと言うのであれば、その人物は資本主義者でもなければ合理主義者でもなく、ただの不合理主義者(=社会主義者)だということになる。
 
 書店がもっと早くから自ら中古本を売り出すサービスを開始していれば? アマゾンに先んじて本のネット販売を大手出版社が進めていれば? 理髪店が、もっと早くから料金の差別化を行い、市場原理に則った商売を開始していれば? そこには、今とは違った社会が生まれていたはずだ。書店や理髪店に代表される連鎖的な経営破綻というハードランディングを招いた諸悪の根源は、需要と供給の原理を無視し続けてきた社会にこそある。あまりにも閉鎖された市場であったことが災いしたとも言える。

 そしてこの構造的な問題は、実は書店や理髪店だけに収まらない。時代にそぐわないことが判っていながら、旧態依然としたシステムをいつまでも引きずり、問題の発生を先送りしていることは他にも山ほどあると思われる。と言うより、日本社会全体がそうなっていると言った方が正解かもしれない。
 産業や省益優先で、個人の生活や利便性を軽視し続けた結果、既存の規制ビジネスはハードランディングした。それは、日本が社会主義国家であったことの証明現象であるとも言える。
 しかしそれは大部分の国民にとって悲観すべきことではないかもしれない。この現象が日本型社会主義の完全消滅の序章を意味しているのであれば、既存の規制ビジネスの崩壊後に待っているものとは、輝かしい自由な社会であるのかもしれないからだ。既存書店や既存理髪店には申し訳ないが、我々はむしろ、この急激な変化を『新たな時代の黎明期』と捉え、歓迎するべきなのかもしれない。

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BOOK『マスゴミ崩壊』

2009100601 数少ない日本経済楽観論者であり、2ちゃんねるからデビューしたという特異な経歴を持つ注目の経済評論家 三橋貴明氏の最新作。「マスゴミ」というネットスラング(隠語)を本のタイトルにするところなどは、如何にもネット論者という感じだが、内容の方は非常に真っ当な正論が展開されている。私は三橋氏の本は初めて読んだのだが、なるほど、その人気の秘密がよく解った。三橋氏は中小企業診断士を職業としておられるらしいが、コンサルタント的な視点から鋭くマスコミの問題点を糾弾している。日本のマスメディアの問題点を取り扱った書物は数多いが、この本は非常に分かりやすく書かれており、万人受けする内容だと思う。
 
 日本のマスコミのデタラメさ加減は知る人ぞ知るところだが、これまでは非常に強固なベールに覆われていたために、実際にマスコミ被害にあった人にしかその問題点は見えにくくなっていた。しかし、インターネットの急速な進展により、徐々にそのベールは剥がされようとしている。

 マスコミというものは、本来であれば国家権力を監視する役割を担った存在であり、司法、行政、立法に続く「第4権力」と呼ばれている。しかし、この国のマスコミは、権力を監視するというよりも、権力におもねるという感じになってしまっている。
 と言っても、マスコミに携わっている人間がデタラメな悪人ばかりだというわけではない。日本のマスメディアとしての構造自体がデタラメであるがために、その中に入った人間もその色に染まってしまっているというのが実情だろうと思う。誰も、はじめから権力におもねるためにマスコミに入るわけではない。大抵は夢と希望を持って、真実を追求し、社会悪を糾弾するという正義の心からマスコミの世界に入るのだろうが、そこに入った者は、どういうわけか“自らが社会悪となってしまう”という危険なリスクを背負うことになる。不幸にもそのリスクに破れてしまうと、権力の走狗と成り果ててしまう。
 社会悪と化したマスコミを監視する組織自体がないために、誰にもそれを止めることができない。なまじ、『国家第4権力』などという巨大な権力が与えられているがために、その暴走は『国家(権力)』と並ぶ程に始末に負えなくなる。

 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という有名な諺があるが、日本のマスコミ社会というものは、虎穴に入ってしまえば自らが虎になってしまう。言わば、「ミイラ取りがミイラになる」というような社会になってしまっている。
 これは、ある意味で官僚の世界と同じ構図だとも言える。システム自体がデタラメなので、そこに入った人間が如何に優秀であっても無意味化してしまい、理想とは程遠い悲劇を演じることになる。
 それでも一部の優秀な人間は、大マスコミから独立して正論を述べるに至るが、その声はいつもマイノリティー(少数派)であり、マジョリティー(多数派)になることは難しい。そういった事情から、本音を捨てて建前の社会に閉じ篭ることになる。(この時点でジャーナリズム精神を失うことになる)
 この、現代マスコミ社会を覆っている悪循環を断ち切ることは不可能だと思われていたが、前世紀末に1つの希望が生まれた。それが、他ならぬIT革命(インターネット)だった。

 奇しくも冷戦の終結とともに、アメリカは戦争で利用されていた通信技術をオープンにした。その技術は秒進分歩で進化し、瞬く間に世界中に浸透した。インターネットが拡大するとどのような世界になるのかということが、時の権力者には理解できなかった。それゆえに、インターネットの拡大を取り締まるような権力者は(幸いにも)現れなかった。IT革命の行き着く先には、『真贋の分別』という開かれた社会が待っていることなど夢想だにしていなかった。
 
 21世紀が、総ての人に正しい情報を与え、誰にも邪魔されずにその情報を共有できる開かれた社会に向かって進んでいるのであれば、嘘で塗り固められた組織に未来はない。それは至極当然の帰結でもある。国家第4権力者たる日本の大マスコミであろうと、いつまでも閉ざされた社会に居座り続けていられるような時代ではないということを知るべきかもしれない。そのことは、他ならぬマスコミ人自身が1番理解しているのではないだろうか。『マスゴミ崩壊』とは実は、マスコミに携わる人間達こそが夢みた理想であるのかもしれない。

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