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2009年11月

マニフェスト至上主義とジリ貧政策からの脱皮のススメ

2009112601 このところ、経済関連のニュースでは専(もっぱ)ら“日本株の低迷”問題が取り沙汰されている。世界中の株式市場が上昇に転じ、景況感が改善しつつあるとのニュースが伝えられている傍(かたわ)ら、日本の株式市場だけが独り負けしているような状況だ。
 米国初の金融危機によって最も被害の少なかったと言われる日本が最も低迷しているというのは、常識的に考えればあまりにも不自然であり不条理だとも言えるが、いつの間にか、日経平均は1万円割れ、NYダウは1万ドル越えと、立場が完全に入れ替わってしまった。

 この日本株低迷の最大の原因は、民主党への政権交代が影響しているとの見方が大勢を占めているようだ。無論、単に民主党が悪いというわけではなく、民主党の政策内容に問題があるということだろう。
 マスコミの世論調査では、民主党の支持率は未だ60%を超えているそうだが、実際のところは支持しない人の方が過半数を占めている(=支持率は50%以下)のではないかと思う。
 率直な感想を述べれば、現在の民主党は“マニフェスト至上主義”に縛られて迷走しているようにしか見えない。中でも、亀井氏の“モラトリアム法案”や“郵政国営化”などは、国家が経済に介入するという姿勢を世界中にアピールすることに繋がってしまい、日本が改革を行う気など更々ないルールの不明確な“社会主義国家”だということがバレてしまった格好だ。しかし、そのことは同時に、日本の不況の原因は実はサブプライム問題とはほとんど無関係だったことをも証明してしまったようだ。

 現在行われている政府の事業仕分けにしても“予算を節約する”という姿勢を国民にアピールしてはいるものの、どう考えても、その程度のことで予算が賄われるとは思えない。無駄を排除することは結構だが、それが根本的な予算創出の解決策にはならないということを理解した上で行っているのかは甚だ疑問ではある。
 それにこの事業仕分けについては、科学者を中心に批判の声も大きくなってきている。科学者曰く、「現在ただいま無駄に見える事業であったとしても将来的に必要なものまで削減されては堪らない」ということらしく、あまりにも短絡的に仕分けが行われていることに対する憤りを述べている。早い話が、『将来に対する投資』という発想が欠落していることが問題になっているわけだ。

 民主党の事業仕分けとは、喩えて言うなら、借金を抱えている無職の人間に対して「電気代を節約せよ」と言っているようなものかもしれない。無職の人間が借金を返済するために必要なことは“節約すること”ではなく、まず“職に就くこと”だ。職に就いた上で節約するというのが筋であって、節約さえすれば自動的に借金が返済されるというわけではない。違った喩えで言えば、売上が激減している会社において経費節減だけを訴えてみたところで、ほとんど意味が無いのと同様だ。
 もっとも、順序が逆とはいえ、「“節約すること”を実現した後に“職に就くこと”を考える」と言うのであればまだ理解できるのだが、どうも民主党の首脳陣の頭の中には“節約する”という思考だけしか無いのではないか?という疑いがある。
 ちなみにこの場合の“職に就くこと”とは、“将来に繋がる需要拡大政策(投資)を行うこと”を意味する。無論、単なる公共事業で無いことは言うまでもない。(将来的にプラスになる公共投資であれば話は別)
 加えて言うなら、職に就くことができれば、敢えて節約する必要も無くなるかもしれない。つまり、事業仕分け作業を行うこと自体が無駄になっている可能性もあるというわけだ。(事業仕分けをする必要が無いという意味ではない)

 マニフェスト至上主義の難儀なところは、必要のない無駄なマニフェストを実行することだけに留まらない。マニフェスト至上主義とは裏を返せば、“マニフェストに掲げてあること以外は何も実行しない”ということであるから、余計に性質(タチ)が悪いとも言える。なぜなら、民主党のマニフェストには『経済成長政策』が全く含まれておらず、入ってくるお金のことが完全に無視されているからだ。財源自体を増加させる手段を提示せずに、単なるバラマキと節約を行うだけであれば、ただの「ジリ貧政策」だと言われても仕方がないだろう。

 現在の民主党が行っている様々な諸政策は、“経済成長”という柱が無いがために、どこか空虚で実体を伴わない骨抜き政策になってしまっている。それはまるで、“働かなくても借金が返済できる”というような理想を追い求め、不可能な制度の構築を目指している夢想主義者の姿を見ているかのようでもある。
 「国が全ての国民の面倒をみる」などと大言を吐いたところで、そんなことはもはや不可能であることに国民は気が付いている。財源を確保する政策なしに日本経済を立て直すことはもはや不可能であることにも国民は気が付いている。しかし、財源を調達する手段が税金であるというのであれば国民は否定的だ。となれば、財源を確保する手段は、経済成長政策しか残されていない。経済成長政策を採ることによって間接的に税収を上げるしか方法が無いということだ。それは、結局のところ、無駄な規制を取っ払って民間に自由な経済環境を与えることによってしか為し得ないということでもある。
 無論、民間に任せたとしても成功するとは限らない。しかし、可能性だけは生まれる。そう、まさにその可能性自体が萎んでしまっていることこそが、日本経済が低迷してしまっている原因でもある。

 民主党には1日も早く“マニフェスト至上主義”や“ジリ貧政策”から脱皮することをオススメする。それができないということであれば、民主党政権も長くは続かないと思った方がいいだろう。民主党政権に欠落しているものとは、実は『投資の精神』でもあるのだ。つまり、“未来を見据えた視点”というべきものが欠落しているのである。
 
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イー・モバイルと中古パソコンのコラボレーション経営考

2009112101 先日、某家電量販店の中古パソコン販売コーナーに足を運んでみると、ほとんど半額から無料に近い価格でパソコンが販売されていた。よく見ると、価格が2段に表示されており、通常価格とは別にイー・モバイル加入サービス価格が書かれてあった。以前から新品パソコンに対しては、このテのサービスがあることは知っていた(『100円パソコン』というものも有る)が、いつの間にか中古パソコンにまで販路が拡大していたようだ。
 ちなみに『100円パソコン』については、以下の関連記事参照

【関連記事】「消費者心理」と「お役人心理」の乖離

 かくいう私もこの数年来、パソコンは中古(オークション)でしか買わなくなったので、もし現在、インターネットを利用していないユーザーであれば、イー・モバイルに加入することになっていたかもしれない。中古パソコンのマーケットは、オークションの方が大きいかもしれないが、ショップでなければこういったサービスは展開できない。そういう意味でも、これはなかなか良いところに目を付けたなと思う。(オークションにはショップも出品しているので、同じようなサービスを既に行なっている所もあるのかもしれないが…)

 通常の中古パソコン販売店とオークションの中古パソコンを比較すると、値段的にもオークションの中古パソコンの方が安価であり品数も豊富なので、ネットユーザーから見れば、中古パソコン販売店でパソコンを購入するメリットは“短期間の保証が付いている”程度のものだった。しかし、ここにきて中古ショップが大きくシェアを奪い返す可能性が出てきた。無論、イー・モバイルの加入数も今まで以上に伸びることは間違いないところだろう。

 現在のイー・モバイル(親会社はイー・アクセス)のアグレッシブな商売手法は、どこか、かつてのヤフー(親会社はソフトバンク)を思わせるところがある。当時、街中で無料の通信モデム(ルーター)が配られていた頃を思い出すが、あの頃の私は、「ヤフーはこんな無茶な商売をして大丈夫なのだろうか?」と訝(いぶか)っていた。しかし、時が経てば、ヤフーの果たした役割は実に大きかったことに気付かされる。世界一とも言われる日本のブロードバンド環境構築の立役者は、政府やNTTではなく、ソフトバンクイーアクセスだったことは誰もが認めるところで、もはや疑いを入れる余地はない。

 話をイー・モバイルに戻そう。イー・モバイルは親会社であるイー・アクセス同様、創業者でもある千本倖生(せんもとさちお)氏が会長を務めている。千本氏はNTT出身のエリートサラリーマンだったが、海外出張したことが転機となって独立した人物であり、京セラの稲盛和夫氏と組んでKDDIを創設したことでも有名な人物だ。日本にADSLを普及させたのは千本氏の功績と言っても過言ではないので、ブロードバンド環境の立役者は2人いたことになる。実際、千本氏は孫氏と並んで「通信業界のカリスマ経営者」と呼ばれている。「儲からない商売はしない」と豪語するだけあって、その経営スタイルは一見、冒険心に満ちているように見えながら、実は相当の堅実家であるらしい。ソフトバンクの孫氏の場合は、かなり大胆な経営スタイルを持った冒険家であるので、同じカリスマ経営者でも少しタイプが違っている。孫氏は“経営の天才”、千本氏は“経営の秀才”という趣きが強いと言えるのかもしれない。

 「イー・モバイルは4社目の携帯電話会社ではなく、日本初の携帯ブロードバンド会社」というのは千本氏の言葉だ。イー・モバイルの設立目的は、携帯電話会社として成功することではなく、世界的に観ても未だ高料金の日本の携帯電話通信費の合理化を行い、携帯端末によるブロードバンド革命を起こすことであるらしい。孫 正義と千本倖生は、ある意味で同じ目的を持った同志であるとも言えるが、良きライバルでもあるのだろう。
 
 イー・モバイルは本来であれば世界的にも大きな注目を浴びて然るべき企業だと思われるが、未だその企業価値に気が付いている日本人は少ないようだ。
 日本の通信インフラ構築は国内の景気にもダイレクトに作用する。現在のブロードバンド通信インフラの発達がなければ日本経済は本当に奈落の底に堕ちていた可能性も否定できない。少なくとも、今以上の閉塞感が日本経済を覆っていたことだけは間違いないだろう。
 規制を強化する(=景気を悪化させる)ことだけしか能の無い頭の固いお役人には、彼らのような改革者を少しは見習っていただきたいものだ。日本の通信インフラ構築の最重要人物でもある孫氏と千本氏の経営の真似事をせよとまでは言わないが、くれぐれも邪魔だけはしないように願いたい。青年起業家だけでなく、壮年実業家の邪魔までされてしまうと、日本経済の行き先は“真っ暗なトンネルの入口”になってしまいかねない。既に携帯電話業界にも、ハード(携帯本体)料金の値上げによる官製不況の荒波が押し寄せた後だが、こういった荒波(試練)を乗り越えて、もう1度、携帯電話業界…いや、モバイル業界に新しい風を吹かせてくれることを期待したい。

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ベーシックインカム制度の大前提と可能性

2009111201 このところの世界経済の先行き不透明感の影響か、はたまた現代日本に突如出現した社会主義政党の影響かは分からないが、「ベーシックインカム」という言葉がよく聞かれるようになってきた。「ベーシックインカム」とは、簡単に言えば『政府が全ての国民に対して毎月最低限の生活を送るために必要な現金を無条件で支給する制度』のことだが、現在のところ、支給される金額は5万円から8万円というラインが基本(ベーシック)と考えられているらしい。
 このベーシックインカムについては、様々な有識者が意見を述べており、ネット内でも賛同する声が多いようだ。ただ、1人につき無条件に5万円以上も支給するのは現実味に欠けるという意見も多い。1人5万円だと単純に1億人に支給すると考えても、総費用5兆円ということになるので、1年間で60兆円も必要になる。なるほど確かにこれでは現実味が無いと言わざるを得ない。少し前に麻生元総理が選挙対策(?)で定額給付金というものを実施したが、あの時の総費用が2兆円程度だったことを考えても、いかに膨大な金額かが分かる。今年の法人税収が40兆円未満だったことから考えても相当無理のある金額だと言えるだろう。

 私も基本的にはベーシックインカムには賛成の立場だが、いくつかの条件が必要だと思う。まず、ベーシックインカム制度の最大の目的は、“飢え死にするような人や、経済的な理由による自殺者を減少させる”ということでなければならない。あくまでも生活するうえでの最低限の所得を保証すること(=セーフティ・ネットを張ること)が目的であり、決して働かない(または働きたくない)人間の面倒をみるための制度であってはならない。“働けない”と“働かない”と“働きたくない”の3つをキッチリと分けて考えなければならない。この3つを同じものだと混同すると、単なる社会主義的なバラマキ制度に堕してしまうので注意が必要だ。

 【セーフティー・ネットの対象となるのは“働けない”のみ】

 この大前提を曖昧にすると、「働かざる者食うべし」というような無茶苦茶な社会が出来上がることになる。もっとも、そんな社会が出来上がった時点で国家は崩壊することになるかもしれないが…。
 
 そういった危険性も考えると、やはり5万円以上というのは少々高いのではないかと思える。最低限の保証という意味では、2〜3万円程度が妥当ではないかと思う。「2〜3万円では生活できない」という意見もあるかもしれないが、普通に生活できてしまっては困るのだ。生活できるかできないかのギリギリのラインでなければ、この制度を悪用する邪(よこしま)な人間が必ず大量に出てくる。そうならないためにも、それほどメリットの無い制度で抑えておかなければならない。中には「2万円でも充分生活ができる」と言うような人もいるかもしれないが…。

 それと、ベーシックインカムが無くても充分に生活できるような人は自主的に辞退することが望まれるが、それは公平性の観点からも無理があるし、もらった人と、もらっていない人、あるいは、もらったりもらわなかったりする人の管理が大変になる(=余計な役所が出来上がる可能性がある)ので、あくまでも国民全員を対象としなければならないだろう。となると、やはり5万円というのは無理があり、3万円でも難しいかもしれない。現在の生活保護等を全てゼロクリアしてベーシックインカムに一元化すれば、5万円以上でも可能かもしれないが、これもいろんな意味(?)で無理があるだろう。
 
 まあそれでも、取り敢えずは国民全員に一律支給すると考えよう。しかし、その場合でも、お金をどう利用するかという目標もある程度は明確化する必要があると思う。
 例えば、1、返却する 2、寄付する 3、投資する 4、消費する というような明確な選択肢を設けて、なるべく貯蓄にはまわさないということにしなければ、景気は全く良くならない。生活費として使用(消費)する分には問題ないが、全く使用しないで貯金するような人が大量に出てくると、ベーシックインカム制度による副次的な経済効果は見込めなくなってしまう。
 こう書くと、「ベーシックインカムは景気云々とは無関係でよいのではないか?」との反論があるかもしれないが、それは見当違いというものだろう。“ベーシックインカム制度による副次的な経済効果”というものは極めて重要であり、むしろ、その可能性のためのベーシックインカム制度だと言ってもいいと思う。

 「ベーシックインカム」と聞くと、単なる《所得の再分配制度》というような負のイメージを抱いてしまいがちだが、最低限の保証が為されていることによる安心感から得られるリスクテイク発想、これこそが重要だと思う。
 失敗すれば何もかもを失うかもしれないという不安感を抱えたままでは、なかなか起業する人も現れないし、ベンチャー企業も出てこない。新しい産業を創り出すリスクテイカーが出てくる環境を用意するという意味でも、ベーシックインカム制度は有効かもしれない。それに、芸術家や作家、漫画家、デザイナー、アーティストなど、定期的な収入が保証されておらず、無収入期間が長引くと商売を続けていけなくなるような仕事をしているような人には、その才能を生かす意味でもベーシックインカムは必要だろうと思う。
 ベーシックインカムがあると、企業の行き過ぎた安値受注という負の循環も少しは改善されるかもしれないので、市場原理も少しはまともに機能する可能性が出てくる。(行き過ぎた安値受注と市場原理については以下の関連記事参照)

(関連記事)スケープゴートにされた市場原理

 一見、社会主義的な臭いのする制度であっても、結果としては資本主義的な合理化社会が出来上がるのであれば、誰も(右も左も)反対するわけにもいかないだろう。そういう意味では、ベーシックインカム制度は理想的な制度となる可能性を秘めているとも言える。
 しかし、よく知られているように、この日本という国は、リスクをとる起業家やベンチャー企業に冷たいということで有名な国でもある。リスクテイカーが現れても、あまり歓迎されないという別の意味でのリスクが存在するため、本来、成功するべき起業家も育たないという負の側面がある。ホリエモンなどはその良い例で、リスクをとって成功者となっても、見えない権力と嫉妬の渦に呑み込まれてしまったことは記憶に新しい。ちなみにそのホリエモンもベーシックインカム制度は肯定しているようだが、今後の世界経済の動向次第では、ベーシックインカム制度の実現を求める声が他からも数多く出てくるかもしれない。
 
 ベーシックインカム制度を実現できれば、国民の精神的な安堵感が増すことはほぼ間違いなく、人生における経済的な絶望感を味わう人も減少し、毎年3万人ともいわれる自殺者が大幅に減少することも確実だろう。そう考えると、なにやら夢のような制度だと思われるかもしれないが、大きなリスクを抱えていることもまた事実だ。ベーシックインカム制度も、その他多くの社会保障制度と同様にリスクが伴うものであるということだけは、くれぐれも忘れてはならない。

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社内カレンダーと建前社会の関係性

2009110901 『社内カレンダー』というものがある。言わずと知れたことだが、向こう1年間の就業日程を予め定めた企業の休日カレンダーのことである。私が勤めている会社も例に漏れず、携帯用(持ち歩き用)の社内カレンダーがあり、毎年、年初に配られることになっている。
 社内カレンダーのある会社にはある共通点がある。その共通点とは何かというと、出勤日が固定されていない会社、言い換えれば「完全週休2日制ではない会社」ということができる。(注意:土曜日が出勤日となる完全週休2日制も存在するが、この場合は土曜日が全て休日となる会社に限る)
 
 完全週休2日制の会社であれば、元々、出勤日も休日も決まっているわけだから、わざわざ社内カレンダーなどを作成する必要は無くなる。中には税金対策や見栄で社内カレンダーを作成している会社もあるかもしれないが、土曜日が全て休日の企業が多くなった現代では、社内カレンダー需要というものは、減少しているのだろうと思う。

 私が勤めている会社の場合は1年間を通して土曜日は半分程度出勤日となっているが、「隔週」というわけでもない。土曜の休日は繁忙期では月1回、閑散期では月3回などに分けられており、少し変則的な(偏った)休日制になっている。とは言うものの、繁忙期平常期閑散期というものが必ずしも予定通りになるとは言えないし、実際にそうなっていない。特に最近は不況の影響もあってか、会社全体として見れば、繁忙期などというものは既に無くなってしまったのではないかとも思える。
 部署によっても仕事量が違ってくるし、個人単位で見ても仕事量にバラつきがあるので、会社全体を同じスケジュールで稼働させるのは不合理ではないか?という思いが日に日に強くなってきた。以前にも少し述べたが、ウチの得意先などは部署によって週休3日制を実施している会社もあるくらいだ。そういった事情からも、社内カレンダーの必要性というものに最近疑問を抱くようになり、この記事を書くに至った。

 想像するに、この社内カレンダーというものは、かつての高度経済成長時代にはもてはやされたのではないかと思う。かつての日本企業は土曜出勤が当たり前で「完全週休2日制」の会社などはあまり無かったわけだから、大抵の会社には社内カレンダーというものが必要だったのだろうと思う。(土曜日がフル出勤であれば社内カレンダーも不要かもしれないが…)
 (私は当事者ではないので経験論では語れないが)当時は、土曜日も出勤しなければならないほどに仕事が多くて忙しかった。そして人員も足りないという事情から完全週休2日制にはできなかったのかもしれない。しかし現在では幸か不幸か、年中忙しくて仕事に追われているような会社は減少傾向にあるのではないかと思う。少し前までは「過労死」という言葉がよく聞かれたが、この不況で過労死するほどに仕事を抱える人も幾分かは減少した(?)のではないかと思う。かくいう私も最近は「過労」を意識することは少なくなった。

 これだけ入ってくる仕事量が不安定な時代になれば、社内カレンダーのスケジュール通りに仕事が進むようなことはほとんど有り得ない。そんな決められたスケジュール通りに仕事が進められるのは公務員くらいのものだろうが、あいにく公務員は完全週休2日制であるので、基本的には社内カレンダーは必要ない。(消防署や病院勤務などの公務員であれば話は別)

 高度経済成長期の日本企業は、仕事が有り余っており、人員も不足しがちだったということで土曜日も出勤日にしていた企業が多かったわけだが、現代では多くの企業でその前提自体が崩れてしまったため、敢えて土曜日を出勤日にする必要性は感じられなくなった。そもそも土曜日に出勤しても行うべき仕事が無いのであれば、なんのために出勤するのか分からない。仕事が無いにも関わらず、「社内カレンダーで出勤日になっているから」という理由だけで無条件に出勤していたのでは、労働者にとっては時間の無駄であるし、経営者にとっても光熱費の無駄になる。
 逆に仕事が忙しい時に社内カレンダーが休日になっているという理由で出勤できないということであれば、これも労働者にとっては時間のロスになる。休日出勤となれば超過勤務手当(休日出勤手当)も支払わなければならないので経営者も損をすることになる。
 経営者側からすれば、月給を支払っているのだから仕事が有ろうと無かろうと会社に出てくるべきだという考えもあるのかもしれないが、それなら、いっそのこと、土曜日を休みにして少しだけ給料を下げてくれた方が労働者にとっては有り難いのではないかと思う。逆に忙しい時には休日出勤として不足した給料分を少しでも補えばよいのではないだろうか。少々後ろ向きな考えとはいえ、それが双方にとっての妥協策であり、最も合理的な判断だと思うのだが、現実にはそうなる気配は感じられない。おそらく、日本企業の多くは仕事量の増減に関係なく、今までのシステムを維持することを優先していくのではないかと思われる。
 
 この不況が一過性のものであるという可能性から、今まで通りの体制を維持しているという考え方もできるだろうが、なぜ臨機応変に一時的にでも制度を変えることができないのか疑問に思うこともある。仕事の忙しい時には休日出勤し、仕事の暇な時には休むという当たり前の切り替えが硬直した日本企業(の労働制度)ではなかなか行えない向きがある。これは言わば、建前社会の構図そのものとも言える。
 仕事量が絶対的に保証されていた時代には会社経営におけるリスクもほとんど無いため、予め決められた制度(社内カレンダーも含む)が何の問題もなく機能していたが、現代においては、予め決められた制度などは無意味であり、むしろ臨機応変に環境に適応していくことこそが求められる。
 
 環境が激変しても旧いシステムをそのまま使い続けることを優先する社会、それはまさしく建前社会の姿そのものである。年功序列制度にしても、年次昇給制度にしても、退職金制度にしても、全ては変化の乏しい建前社会であればこそ為し得たシステムであり、そんなシステムを守ることだけに無駄なエネルギーが費やされている。そういった融通の利かない硬直化した社会こそが、日本経済の閉塞感の正体だとも言える。
 この時代に適合しなくなったシステムを維持することだけが自己目的化してしまっている社会、それが現代の日本の姿であり、日本経済を蝕んでいる元凶であるとも言える。そして、そんな悪循環を招いてしまった原因は、平和ぼけ(=バブルぼけ)した国民の無関心と、マスコミのミスリードによるところが大きい。無論、建前社会を死守する官僚と、本音を語らない政治家にも責任の一端があることは言うまでもない。誰かが悪いと言うよりも、総ての国民に責任があり、総ての国民がこの問題に真剣に向き合わないことには解決できない問題だとも言える。
 なんでもかんでも環境のせい、他人のせいにするという風潮が蔓延っている現代日本にあっては、この問題を解決することは非常な難題であることは間違いない。

 社内カレンダーから少し話が飛躍してしまったが、結論として言えることは、現代日本にあっては、社内カレンダーのような時代の変化に対応できない“確定アイテム”は、もはや無用の長物と化しているということである。別の言い方をすれば、先読みすることができない時代にあっては、先々のスケジュールを立てても意味がないということである。建前ではなく本音で述べればそういう結論にならざるを得ない。

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PB商品から垣間見える日本経済の問題点

2009110301 先月、ディスカウントショップのドン・キホーテが、超安価(690円)なジーンズを発売したことから、PB(プライベート・ブランド)商品というものが、にわかに注目を集めている。
 衣料品の安値販売店としてはユニクロが有名だが、さすがに690円のジーンズには値段では対抗できそうにない。このような価格破壊的な商品が登場すると、通常であれば、価格で競争するか、品質で勝負するしかない。ユニクロの場合、ジーンズが主力商品というわけでもないだろうから、すぐさま危機感を持つ必要性もないだろうが、今後、フリースやジャケットなどに波及するとなると、さすがに無視するわけにもいかなくなるだろう。

 衣料品の生産国は、中国からベトナム、そしてカンボジアに移って行っているらしく、その国の物価(または人件費)に比例して製造コストも安くなっていく。PBブランド躍進の背景には“生産国の移転”というものが存在している。ここで大事なことは、メーカーは企業努力して製造コストを下げたのではなく、コストが安くつく国に工場を移して安価な労働力を利用したということだ。(それも企業努力と呼べるのかもしれないが…)
 
 前置きは短めにして本題に入ろう。先の話から何が言えるのかというと、グローバル経済下では、製造国の移転がいとも容易く可能であるということだ。メーカーは、世界的に見て人件費のべらぼうに高い日本国内に製造拠点を持つ必然性はほとんど無いということである。
 海外の製造メーカーが日本に工場を移転してきたというような話は誰も聞いたことがないと思うが、これは当たり前で、物価も人件費も税金も高い国に工場を移転するような物好きな国は無いということだ。おまけに過剰な規制まで敷かれているのだから、海外の製造メーカーから見れば、「日本は鎖国を行なっているとしか思えない」というのが本音だろうと思う。
 日本人の感性や技術でしか製造できないというものなら話は別だが、マニュアルさえあれば誰にでも製造できるものは、今後、人件費の安い国に移っていくだろうことは考えるまでもないことだろう。
 
 そんな現状にあって、あろうことか日本では「製造業の派遣禁止」を唱う政治家や、それを礼賛している人間が大勢いる。
 製造業の派遣社員の給料は安い(?)と言われているものの、人件費として見れば、中国やベトナム、カンボジアとは比べ物にならないほど高額だ。正社員ベースで見れば中国やベトナムの人件費は日本の10〜20分の1、カンボジアでは20〜30分の1と言われている。派遣社員の人件費が仮に正社員の2分の1だったとしても、全く太刀打ちできないというのは誰が見ても明らかだろう。
 ハッキリと言ってしまえば、日本の大手製造メーカーにとっては日本国内で生産を行なうメリットはほとんどないかもしれない。日本のお家事情(=過剰に保護された正社員の給料は急に下げることができないという事情)で、そのままでは経営していくことができないので、なんとか派遣社員で賄っていたというのが、実際のところだろう。

 このグローバル経済下における日本の製造業問題の重要点は、正社員を全て派遣社員と同じ待遇にしたとしても問題は解決しないということだ。それほどまでに先進国としての日本の物価(人件費)は高くなってしまったということである。
 それを逆に、派遣社員を全て正社員にするという前提で政策が組み立てられているのだから、これはもう無茶苦茶もいいところだ。こんな馬鹿げた政策を本当に実施すれば、日本を出ることを迷っていた企業も「待ってました」と言わんばかりに、製造拠点を海外に移すことになるだろう。そして海外に拠点を移すことができない小資本メーカーは市場から淘汰されるのを待つだけという悲惨なことになりかねない。当然、日本の派遣労働者の働く場所も激減することになり、結果的に、日本の製造業自体が窮地に陥ることになる。
 
 確かに日本国内の正規社員と非正規社員の待遇差(と言うより階級差)は是正すべき大きな問題と言えるだろうが、それ以前に、海外生産国と日本の物価(人件費)の違いも考慮しなければならない。
 「格差」があることが問題だと言うのであれば、海外と日本の格差も無視するわけにはいかないだろう。「海外と日本の格差は問題なくて、日本国内の格差だけが問題だ」と言うのであれば、呆れた国粋主義者と言うしかない。そんなことを本気で言っているような人がいるなら、保守を装ったただの偽善者だと思って間違いない。日本さえ良ければ世界はどうなってもよいなどと言うのでは、ただの利己主義者の御都合論だと言われても仕方がないだろう。
 
 この問題の根本的な解決策は、結局のところ、世界の労働人件費がある程度、平準化されるまで待つしかないと言うことも可能かもしれない。労働における世界の人件費格差が大きく開いてしまったことが根本的な問題であるからだ。日本の中で「格差反対!」「格差は悪!」と叫んでいる人達が、日本の外から見れば、自らも格差を生み出している張本人だということに気付いた時、一体どういう反応をするのだろうか?
 
 このまま『製造業の派遣禁止』などが行われると、日本の労働者の未来は暗いと言わざるを得ないが、それでも日本の製造業にはまだまだ頑張ってもらわなければならない。では、どうすればいいのか?
 まず、政府は企業に対して日本に留まってもらえるような政策を採るべきだろう。それは、規制を無くし、税金を下げることが大前提となる。そしてその政策こそ、海外の製造メーカーを日本に誘致するべき手段と同一のものなのだ。しかし、この国の政治家は全く逆のことを行おうとしている。
 オリンピックを招致することに失敗したのであれば、そのエネルギーを海外企業を誘致することに使うべきだ。税金を納めてくれる企業を誘致するためには、税金を下げるしか方法はない。日本の製造業を日本に留めておく方法も海外の製造メーカーを日本に誘致する方法も同じだということを知るべきだ。

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