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2009年12月

タバコ値上げ論争の収束とお役所の現実

2009122401 タバコの値上げ論争にもようやく終止符が打たれたようで、最終的にはタバコ1本当たり5円値上がりすることになったようだ。1箱300円程度だったものが400円程に値上がりすることになるが、1本5円とはいえ、未だかつてない程の大幅な値上がりであることに違いはない。しかし、私としては妥当なところに落ち着いたなと少し安心した。

 厚生労働省は当初、タバコ1箱1000円などという無茶苦茶な税収試算を発表していたが、さすがに、あまりにも現実味に欠ける試算であることに気が付いたらしい。当ブログでも以前にタバコ1箱1000円試算のデタラメぶりについて指摘させていただいた(下記関連記事参照)が、他からもいろいろと苦情があったのかもしれない。
 私の場合、タバコは吸わない(数年前から禁煙している)ので、もはや、タバコが1箱1000円になろうが10000円になろうが個人的には関係が無い。しかし、行き過ぎた馬鹿な政策や規制を行うと日本経済自体にまで大きな影響を及ぼす危険性があるため、敢えて指摘(批判)させていただいた。

【関連記事】
タバコ税収試算の行方(税収増 VS 税収減)
タバコ1000円試算の盲点

 さて、タバコ1箱が400円になると、税収が上がるのか?という問題だが、これは微妙なところではないかと思う。しかし、仮にこの機会に禁煙する人が増えるのであれば健康面ではプラスとなるので、結果オーライとなる。厚生労働省の目的は建前上は“税収アップ”ではなく“禁煙者の増加”であろうから、税収が激減しない限り一応は体裁を保つことができる。喫煙者が激増するか、税収が激減しない限り言い逃れができるわけだ。1箱1000円であれば、おそらく税収が激減することになっていただろうから、危うく窮地から脱したとも言える。まあ、税収が激減したとしても喫煙者も激減すれば、そのことを逆手にとって「健康面で成功した」というような苦しい言い訳をすることになっていたのではないかと思うが…。

 厚生労働省に限らず、お役人というのは、体裁を保つこと(=保身)が最重要課題になっているというのはよく知られた話だ。出世することがお役人の第一の目的となってしまっているのだから、これはまあ当然とも言える。とにかく、ミスをしないこと、そしてミスを認めようとしないことが彼らの特徴だと言える。
 しかし、そんな個人的な理由でコソコソしているようなタイプの人間達が、民間企業のコンプライアンスの徹底を厳しくチェックしているというのだから、甚だ呆れるしかない。市場という名のコロッセオの中で生死を賭けた闘いの中に身を置いている民間企業のサラリーマンに対して、市場の外にある温室から上から目線で文句ばかり言ってるような姿を思い浮かべてみると、それが如何に不条理なことかがよく分かる。しかも実際に闘いを行っている選手よりも司会者の方がファイトマネーが高いというのだから無茶苦茶だ。一体どこの世界にボクシング選手よりも高給の司会者がいるというのだろうか? しかし、そんな不条理が罷り通っているのが現代日本のお役所の現実なのである。

 お役所ついでに言うと、先日、3年ぶりに運転免許の更新手続きのため交通安全協会というお役所に行って来た。窓口でその旨を伝えると、開口一番「交通安全協会の会員になりますか? 入会する場合は2000円かかります。」と言われた。以下、対話形式で再現してみると、

 私 「会員になるとどう違うのですか?」
受付嬢「様々な案内資料が送付されます」
 私 「免許更新の案内は会員にならなければ送られてこないのですか?」
受付嬢「いいえ、案内ハガキは送付されます」
 私 「それなら必要ないので要りません」
受付嬢「では、警察の方で手続きしてください」

 というような感じだった。会員になると2000円も余分に費用がかかるのであれば、事前に詳しい説明をするべきではないのかと思うのだが…。たまたまその受付嬢が無愛想だったのであればそれで構わないが、実際のところはそうでもないような気がする。

 ちなみにその日はわざわざ会社を休んで運転免許の更新手続きに出かけた。普通の民間企業に勤めている人間からすれば、なぜ土曜、日曜に手続きができないのかと不便で仕方がない。忙しい師走の時期に会社で有給休暇を取得しなければ運転免許の更新も行えないというのは一体どういうことなのだろうか? これまで誰も文句を言ってこなかったのが不思議で仕方がない。
 そもそも役所内では、業務の改善会議なるものが無いのだろうか? 民間企業であれば、常に顧客のことを主眼において、どうすれば顧客に喜んでもらえる(=仕事がもらえる)かを考えて業務を改善していくものだが、お役所にはそういった話し合い自体が存在しないのだろうか? 「土日も営業した方がよいのではありませんか?」と上司に対して意見するような新入公務員は誰一人としていないのだろうかと不思議に思う時がある。もし、そういった意見を言うことが禁句(タブー)になっているような環境であるのならば、それはもはや公務員の本来の姿ではない。
 顧客である国民の利便性を全く考えないのがお役所の姿であるなら、我々は一体誰のために真面目に税金を納めているのか分からないとも言えそうだが、悲しいかな、それも現代日本のお役所の現実なのである。

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デフレとインフレの知られざる誤解

2009122001 最近、またもや「デフレ」という言葉が聞かれるようになってきた。昨年は、ガソリン等の商品価格が急騰し、「インフレ」や「スタグフレーション」という言葉が世間を賑わせていたが、ここに至ってようやく、世界は“デフレ基調”であったことが認識され始めたようだ。デフレ論で有名な長谷川慶太郎氏の言がどうやら正しかったようである。
 マスコミや御用学者達は、一部商品の一過性のバブル現象を「インフレだ!」「スタグフレーションだ!」とさんざん騒いでいたことになるが、毎度のことながら間違った情報を垂れ流していても、全く反省の色が窺えない。
 
 日本のマスコミの場合、「デフレ」という言葉が《不況》を意味するものとして取り扱われているが、これも大きな誤りだ。そのことについては以前にも述べた(該当記事→「デフレ脱却」というお題目)が、デフレには「良いデフレ」と「悪いデフレ」がある。
 グローバル経済下においては、物価が高いまま維持されてきた日本のような国は、真っ先にデフレの波に呑み込まれてしまう。これは自然現象のようなもので、完全な鎖国でもしない限り避けて通ることはできない。しかし、物価が下がるということは、大部分の国民(一般消費者)にとっては良いことであるはずだ。大きな例で言えば、マイホームやマイカーの値段が半額になれば消費者にとっては嬉しいニュースのはずであり、小さな例で言っても、300円で販売されていた文房具が100円で買えるようになれば消費者にとってはプラスのはずだ。

 デフレにおける問題点というのは、デフレによって下落した物価に対して、どれだけ収入が減少するかということだ。家や車の値段が半額になったとしても、収入が半額まで下がらなければ実質はプラスということになる。収入が物価と同じように半額になればプラスマイナス0(デフレによって価格が下がらなかった物があるとすれば、マイナス)だが、収入が半額以下になれば当然マイナスになる。
 物価の下落率よりも収入の下落率の方が小さい場合は「良いデフレ」となるが、逆に物価の下落率よりも収入の下落率の方が大きい場合は「悪いデフレ」となる。つまり、お金と商品の交換価値の比率が問題となるだけであり、デフレやインフレという現象自体に良いも悪いも無いのである。あくまでも、物価と収入の相関関係における良い悪いでしかないということだ。
 たったそれだけのことであるのだが、なぜかこの国ではこんな単純なことがまともに認識されておらず、大部分の国民は《デフレ=悪いこと》だと思い込まされている。そのためか、マスコミが「デフレ」「デフレ」と騒ぐと、国民は条件反射的にパニックに陥ってしまう。
 
 デフレとインフレは基本的に以下の4点に分けられる。

 「良いデフレ」……物価下落率 > 収入下落率
 「悪いデフレ」……物価下落率 < 収入下落率
 「良いインフレ」…物価上昇率 < 収入上昇率
 「悪いインフレ」…物価上昇率 > 収入上昇率
 
 以上が、デフレ・インフレの正しい認識になる。こんな小学生でも理解できそうな単純明快なことが、この国の似非エコノミストにかかると、トンデモなく難解な経済現象に変化してしまう。簡単なことを敢えて難しく説明することに長けているデタラメな学者がいかに多いかがよく分かる。
 
 先日の「ドバイ・ショック」にしても、ドバイ経済が破綻しているというのは1年前のニュースだったと思うのだが、同じ放送(実際に1年前の映像が流されていた)をテレビで流すと、《またドバイ・ショックが起こった!》というふうにパニックになる。ドバイ経済が破綻状態であることは既に報道されていたことであるので、政府が借金返済の繰り延べを行ったところで今更驚くようなことでもない。
 狡賢い人達はこういったジャパン・パニック(思考停止パニック)に乗じて大儲けしているのではないかと思う。「右を向け」と言えば、全員素直に右を向いてくれるのだから、「これほど楽な商売はない」というのが彼ら(?)の本音ではないかと思う。お断りしておくが、私は陰謀論の類いを述べているのではない。あくまでも現実的な話だ。

 「デフレ」という言葉が多くの国民に誤って認識されていることは間違いないところだが、これと同じようなものに「市場原理」という言葉がある。このことも以前に述べた(該当記事→スケープゴートにされた『市場原理』)が、ほとんど総ての国民が間違った認識を共有してしまっているため、まるで真実であるかのように誤った情報が独り歩きしている。
 有名なエコノミストの中にも「市場原理は崩壊した」などと宣っている人物が何人もいるが、こういった人達は「デフレ」と同じように、言葉が真に示す意味(つまり言葉の中身)を考えたことがないのか、はたまた、感情的にしか市場を観ていないのだろうと思う。
 彼らは、《デフレ=悪》と同じように《市場原理=悪》という思い込みから論理を展開しているため、その言葉も文章も全く心に響かない。こういった人々というのは、《金持ち=悪》というような何の根拠もない思い込み論を展開しているオメデタイ人々とほとんど変わらない。思い込みが強過ぎて、物事の本質が見えず、デタラメな論理を展開することによって、自分だけでなく他人をも自らの無知によって生じた闇(の思想)の中に引きずり込んでしまう。まさに彼らは、人々を惑わす「邪教の教祖」ならぬ「邪学の教祖」と成り果ててしまっているわけだ。教育や宗教など、何事にも良い悪いがあるように、経済にも良い悪いがある。経済現象のデフレにも良い悪いがあることは先に述べた通りだ。
 間違った思想を垂れ流す邪学【邪悪な経済学】の教祖にはくれぐれも御注意の程を。
 
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「大企業いじめ」と「下請けいじめ」の相関関係とは?

2009120801 先日、テレビを観ていると「大企業いじめ」という言葉が出てきた。
 「大企業の下請けいじめというのはよく耳にするが、政治家の大企業いじめというのはあまり聞かない」という人は多いかもしれない。しかし現在の日本の不況を考える上で「大企業いじめ」というものはある意味「下請けいじめ」以上に重要な問題であると思われるので、今回はこの言葉の意味について少し考えてみたいと思う。

 「下請けいじめ」というのは、大企業(とは限らない)が下請け企業に対して、必要以上に料金を値切ったり、なかなか料金を支払わないというようなことをする行為を指している。これはこれで確かに大きな問題であり、支払うお金が有るにも関わらずこういった卑怯なことを行っている大企業があるのであれば、糾弾して然るべきだろう。
 では、「大企業いじめ」とは何だろうか? 「大企業いじめ」とは簡単に言えば、「優遇されている大企業から法人税をもっと搾り取れ」というものだ。よく左系の政治家やマスコミから発せられる言葉だが、この言葉には大きな矛盾が内包されている。こういった言葉を発する人々は、企業間問題の本質も労働市場における不条理も全く理解できていないことが窺える。その理由を以下に述べよう。 

 まず、「優遇されている大企業から法人税をもっと搾り取れ」というような言葉が出てくる背景には、大企業と中小(下請け)企業の間にある様々な格差問題というものがあるのだろう。《利潤を貪っている大企業から法人税を搾り取らなければならない》というようなマルキスト的な思考(思い込み)から、そういった言葉が発せられているのではないかと思う。
 しかし、大企業と中小企業間にある問題とは、“税金をどれだけ納めているか”という問題ではなくて、大企業がその有利な立場を利用して“マージンを多く取り過ぎている”という意味での問題だ。(これも「下請けいじめ」の範疇に属するのかもしれない)
 
 大企業が法人税を多く納めたところで、その納めた税金がそのまま中小企業や一般市民に回るというわけではない。大企業が法人税を多く納めると大企業の社員の給料は下がる(=格差是正?)と思っているのかもしれないが、それは同時に下請け企業の給料も下がることを意味する。大企業と中小企業は、その待遇に大きな差があるとはいえ、基本的には一蓮托生であるということも考える必要がある。無論、大企業と下請け関係にない(競争関係にある)中小企業の場合は話は別だ。

 では逆に、(利益の出ている)大企業の法人税を引き下げると、下請け企業の収入は上がるのか?ということだが、これは分からない。もし大企業の利益率がアップした分、下請け企業に支払うお金も無条件に増えるというのであれば、大企業の法人税を引き下げる合理的な理由となるかもしれないが、実際のところは分からない。実はその“分からない”ことが問題なのである。
 法人税をどれだけ取ろうが取るまいが、大企業の下請け企業に対する姿勢が変わらないのであれば、いくら法人税を増減したところで無意味だ。(法人税を取れば取るほど、下請けいじめも酷くなる可能性が高いので、法人税はなるべく取らない方が良いかもしれない)
 
 大企業と中小企業の間には同じ仕事を行っていても、それが公平な評価に繋がらないという階級制度のようなものが存在している。そのことは同一労働同一賃金が成立していない社会であることを意味しているが、働いた分を正当に評価するという発想が元から無いのであれば、“儲けた分は全て大企業側が頂戴する”という考えになってしまう可能性があるわけだ。
 もちろん、資本主義社会では元請けである大企業がある程度のマージンを取ることは必要なので、「全くマージンを取ってはいけない」と言うのであれば、それも間違いだ。要は、大企業側が適正なマージンではなく、大幅なマージンを取っている可能性があることが問題なのだ。つまり、法人税を支払う以前(税引き前利益の分配)の問題だということだ。
 …と考えると、やはり法人税は下げる方が良いということになる。法人税として支払うべきお金を下請け企業に回すわけだから、中小(下請け)企業を擁護するのであれば、「大企業の法人税を下げろ」と言う方が筋が通ることになる。
 「下請けいじめ」で被害を被るのは下請け企業のみだが、「大企業いじめ」では双方が被害を被る。そういう意味でも、「大企業いじめ」の方が「下請けいじめ」よりも性質(たち)が悪い。「大企業いじめ」とは、実は「下請けいじめ」をも内包した「日本経済いじめ」になってしまっているとも言えるわけだ。
 
 マスコミ業界の下請けいじめというのは有名で、元請けであるテレビ局などがべらぼうなマージンを取っていることはよく知られた話だ。政治家やマスコミ(?)は、こういった市場法則からかけ離れたノン・ワーキングリッチのような特権階級的な労働者がいることを問題視するべきであり、単に大企業であるという理由だけで、魔女狩りの如く大企業いじめなどを行うべきではないのだ。
 「大企業が富めば、中小企業も富み、一般市民の懐(ふところ)も潤う」というような逆転の発想に転じた方が、社会は遥かに良くなる。そのためには、市場法則からかけ離れた歪んだ労働環境を正常な状態に戻さなければならない。そういった公平な社会にすることに努めることこそが政治家やマスコミの本来の仕事だと思うのだが、どうもこの国の政治家とマスコミは、全く正反対のことを行っているように見える。“公平な社会”ではなく“平等な社会”を創ることしか頭にないのではないか?という疑いを禁じ得ない。努力した人間も努力しない人間も、働く人間も働かない人間も皆平等などというような馬鹿げた社会の構築を本気で目指しているのではないか?と疑問に思う時がある。
 そんな社会は決して目指すべき理想的な社会ではない。そんな社会を目指すと、その先に待っているのは“他人の足を引っ張ることを良し”とする地獄のような社会でしかない。そんな夢も希望もないような社会を構築することだけは御免蒙りたいものだ。

【補足】「ノン・ワーキングリッチ」と「ノーリスク・ノン・ワーキングリッチ」
 ここで注意しなければならないことを補足しておくと、「ノン・ワーキングリッチ」と呼ばれる人にも2種類の人がいるということに注意しよう。働いているように見えない人であることは共通していたとしても、リスクを取っているか取っていないかで見方は変わってくる。リスクを取った大きな投資や事業などで成功した結果としてノン・ワーキングリッチになっているような人まで批判の対象としてはいけない。批判するべき対象は「ノーリスク・ノン・ワーキングリッチ」という、働かず、リスクも取らずにのうのうとタダ飯を食らっているような人間だけでいい。この条件を踏み越えてしまうと、ただの(嫉妬深い)共産主義者になってしまうことをお忘れなく。
 
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BOOK『2011年 新聞・テレビ消滅』

2009120201 最近、各新聞社は軒並み赤字経営に陥り、テレビの視聴率も減少の一途を辿っている。このマスメディアの凋落現象は、少子化や金融不況とはほとんど関係がないとの認識がごく一般化しつつあるようだ。そういう時代であるからこそ、マスコミの凋落ぶりを描いた(ルポした)書籍というものも数多く刊行されてきている。少し前にも『マスゴミ崩壊』(三橋貴明 著)という単行本を当ブログでも紹介させてもらったが、さらに見聞を深めるため『2011年 新聞・テレビ消滅』(佐々木俊尚 著)という新書を購入して読んでみることにした。
 今流行りの『2012』という映画ではないが、いろんな意味で2011年にマスメディアは崩壊するということが書かれた本である。

 私は、新刊書籍はネット書店ではなく、なるべく通常の書店で購入するように努めている(既存書店の応援も込めて)が、この本に限って言えば、なぜかどこにも置いていなかった。発刊されたのが今年(2009年)の7月なので運悪く品切れ状態だったのかもしれないが、大型書店を数件回っても見つからなかったため、結局、アマゾンで購入することになってしまった。佐々木俊尚氏というと結構、知名度のある著者なのでどこにでも置いているだろうと思っていたのだがアテが外れてしまった。
 しかし、書店をいくつも梯子して見つからない本が、アマゾンではあっさりと買えてしまうのだから、ネット書店の便利さを改めて実感した。この本の中にもアマゾンについて書かれてあったが、なるほど、その優位性は認めざるを得ない。

 著者の佐々木氏は、主にIT関連の書物を数多く世に出している人物で、時代の最先端を報じることを得意とし、これまでも、『ヒルズな人たち』『ライブドア資本論』『ブログ論壇の登場』や『グーグル』関連の書物などをいくつか著しており、その先見性と洞察力には定評のある人物だ。
 数年前にもライブドア事件の最中、テレビ番組のサンデープロジェクトに出演し、《ライブドアは虚業》という四面楚歌の中、「ライブドアの技術力には定評がある」という持論を述べていた気骨のあるジャーナリストでもある。

 この本の場合、マスコミの凋落原因を、感情論抜き(?)で理論的に明らかにしている。現代という時代背景をよく見据えた上で、どう転んでもマスコミの崩壊は避けることができないという予測が明解に示されている。
 社会的観点からも、現代は「大衆(マス)の時代ではなく、少衆(パーソナリティ)の時代」だと述べ、マスメディアのビジネスモデルをプラットフォーム化(コンテンツ・コンテナ・コンベア)し、現代のマスメディアが抱えている構造的な問題点を簡略的に分かり易く説明している。
 “情報の編集権”【どの記事が重大かを自ら選別して大衆に与えるという権利】という強大な利権が既にネット業者に奪われてしまっている現状と、この先、そのネット業者と手を組まなければ全く商売にならないという現実、そして仮に手を結んだとしても(マス)メディアとしての業態縮小を余儀無くなくされるという極めて悲観的な予測が述べられている。
 
 「メディア産業はゼロサムゲーム」「現在の各写真週刊誌の発行部数」「新聞記事の日用品化」「電子書籍リーダー『キンドル』のアマゾンサイドの手数料」「TBSは不動産テレビ屋」「米国のテレビドラマはハリウッド製」など、興味深い記事がいくつも書かれてあったが、中でも面白かったのは、「インターネットが唯一の全国紙」という発想だ。
 日本にはテレビチャンネルも新聞も数種類しか選択の余地がない。その数少ない数種類のテレビチャンネルや新聞が同じような内容の情報を流しているだけであるならば、わざわざ分ける必要が無いとも言える。同じような情報しか流さ(せ)ないのであれば、テレビ局も新聞社も1つに統合してしまってもほとんど問題はないのではないか?という発想だ。
 「そんなことは不可能だ!」と言う人がいるかもしれないが、それを既に可能にしているのがインターネットのポータルサイトである。

 例えば、電機メーカーの場合、各メーカーが同じ製品(冷蔵庫・洗濯機・エアコン・携帯電話・デジタルカメラ・パソコンなど)を製造していたとしても、全く同じ商品を製造しているわけではない。製造業にはメーカーとしての商品の差別化があり、各メーカーが新たな機能や付加価値を競い合って商品価値を高めていくというシステムが自然に存在している。
 もし、これらの電機メーカーが、こぞって同一(またはほとんど変わらない)商品を製造するような体制になってしまえばどうなるか? それは何を意味するか?

 (答え)電機メーカーは1つで事足りる。

 ということになるわけだ。マスメディアが消費者に対して同じような情報を提供することしかできないのであれば、全て合併して1つ(国営化?)にしてしまっても、なんら困らないとも言えるわけだ。

 「それでは独裁報道になる危険性がある」と言う人もいるかもしれない。
 その通り、同一の情報しか国民に与えることしかできないということは、その姿そのものが独裁報道でもあるわけだ。現代日本のマスコミの姿勢がどうであるかは言うまでもないだろう。
 “数社が同じ報道を行うこと”も“1社が同じ報道を行うこと”も本質的にはなんら変わらない。異論を全く報道しないという姿勢は、まさしく独裁国家の報道体制そのものであり、そこにはなんらの競争原理も働いていないわけだ。結果、情報の価値というものが一向に向上しない。そのことは、先の電機メーカーの例で考えればよく解ると思う。
 
 そんなことを考えていると、佐々木氏が言うように「マスメディアは本当に必要なのか?」と言いたくもなる。彼はこうも言っている「一回、つぶれた方が良いんじゃないの?」と。無論、それはメディアが終焉するという意味ではなく、時代に即した新たなメディアができればそれで良いのではないか?という意味だ。メディアというものは本来、ある特定の人間にしか創り出せないというものではない。

 一億総中流社会が生み出した大衆(マス)文化というものが翳りを見せ始めた現代にあって必要なメディアとは“大衆を満足させるメディア”ではなく、“個人を満足させるメディア”であっても良いわけだ。そのメディアには当然、「マス」という言葉は必要ない。テレビや新聞が消滅すると言っても全てのテレビや新聞が無くなるわけではない。マス文化としてのテレビや新聞が存在しなくなるという意味なのだろう。果たして2年後に本当にそんな社会が到来するのかは未だ分からない。しかし、残された2年の間に、時代の生き証人として“マス文明の崩壊”という現実を観ることになる可能性は高そうだ。
 
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