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2010年1月

安値競争地獄と原価割れ経済からの脱却

2010012701 最近、「デフレ・スパイラル」という言葉をよく耳にする。「デフレ・スパイラル」とは、一言で言えば『デフレによる悪循環』のことだが、デフレ現象に心理的な要因などが加わり更なるデフレを生む現象のことをいう。心理的な悪循環に陥ることによって必要以上のマイナス効果を齎すという意味では「逆バブル現象」または「負のバブル現象」であるとも言える。この実体を伴わない(=必要の無い)精神的な悪循環バブルから脱出するにはどうすればいいのだろうか?

 現在、多くの企業がデフレ・スパイラルに陥っていると思われるが、デフレ・スパイラルが進行する少し前(スタート地点)に遡って考えてみよう。
 大抵の中小企業は少し景気が悪くなると、得意先との関係強化のために1つや2つのサービス仕事を抱えることになる。サービス仕事は当然のことながら赤字受注となるが、その他の大きな仕事の利益によってその赤字分を相殺できるがゆえに受注することができる、いや、できていた。ところが、景気が悪くなる(仕事量が減少する)と、大きな仕事のいくつかは無くなってしまう。中には、運悪くサービス仕事だけが残ってしまったという会社も有るかもしれない。
 サービス仕事であることを当の得意先が認識していればまだ救いがあるが、認識していない場合は、そのサービス仕事まで値切られるかもしれない。そうなるともう目も当てられなくなる。

 当初、サービス仕事はあくまでも他の仕事が有るがゆえのサービス(無料奉仕)であったにも関わらず、結果的にそのサービス仕事だけが残ってしまえば、単なる“目の上のたんこぶ仕事”に変化してしまう。これは実に皮肉なことだと言えるが、この不景気の最中、得意先に対して「サービス仕事だけでは商売になりません」とはなかなか言えない。それを言ってしまうと、取引自体が中止になってしまうのではないか?という不安から、何も言えず、結局、赤字受注で仕事をこなすことになってしまう。
 赤字であるがゆえに利益が出ないので、社員に対する給料の原資にもならない。そうなると、給料自体を下げるしかなくなるという負のスパイラルが始まる。
 まさに「骨折り損のくたびれ儲け」を地で行くような話だが、こういった悪循環に陥っている企業は案外多いのではないかと思う。これも「デフレ・スパイラル」の悲劇である。

 上記のことから何が言えるのかというと、永続的な安値競争というものは本来、仕事が有り余っているような経済環境下でしか成り立たないということである。
 旺盛な需要のある市場で安値競争を行うと、市場法則がほぼ正常に機能し、価格は妥当なところに収斂する。しかし、絶対的な需要自体が足りない状態で際限のない安値競争などを行うと、最終的には先に述べた企業のように「原価を割り込んでしまった」という結果になってしまいかねない。
 仕事が有り余っている状態を当然のことと思い、ダイエーの薄利多売商売よろしく料金を目一杯まで下げてしまうと、いずれ大きなしっぺ返しを食らうことになる。先のことを考えず、リスクというものにあまりにも無頓着であったことが招いた悲劇とも言えるだろう。

 念のためにお断りしておくと、私はここで「市場原理」というものを否定しているわけではない。なぜなら、「原価を割り込んでしまった」というような結果になるのは“市場原理を無視して人間心理を優先した結果”であるからだ。市場原理が正しく機能しているのならば「原価割れ」などというものは本来、発生しない。市場原理が正しく機能していないがゆえに「原価割れ」が発生してしまうのである。原価割れを放置した結果、原価割れ料金がデフォルトとなってしまい、更なる安値競争地獄に陥ることになる。

 国と国の国境が無くなり経済がグローバル化すれば、国際競争としての安値競争から逃れる術はないかもしれない。しかし、国内でしか取り扱っていないようなものまで、無理矢理に安値競争を行う必要はないのではないかと思う。
 “なんでもかんでも(品質の良い物であろうとなかろうと)安くて当然”とするデフレ思考も少し考えものである。デフレ経済であったとしても“品質の良い物は高価であってもよい”というような考え方も必要ではないかと思う。安値競争というものは絶対的に良いことだとする向きもあるが、それは時と場合によるということも併せて考える必要があるのかもしれない。
 商品を値切ることが当たり前となっている社会、実はそういった社会を当然と思い込んでいる精神状態が、デフレ・スパイラルを呼び込んでいるとも言える。“値切る”という行為は一見、利益率が増して得をした気分になると思われるが、経済全体として観れば、結果的には自分に跳ね返ってくる(=収入が下がる)ことになる。
 
 デフレ経済になると全体的な物価が安くなることは避けられないが、メンタルな部分までデフレ思考に陥ってしまうと、物の価値自体が本来の価値以下になってしまう。「デフレ」は物の価値が下がる現象のことだが、それは物の品質が落ちるという意味ではない。「デフレ」の対象となるのは、品質が一定という条件下にある商品に限定されるべきであり、企業努力によって限りなく品質を高めた物にまで過剰なデフレ圧力をかけるべきではないのではないかと思う。

 しかしそういった認識を総ての国民が共有しないことには、必要の無いデフレを止めることはできない。デフレ・スパイラルを食い止めるためには、多くの国民が、人間の心理状態が経済に与える影響を考えることができるという条件が付いてまわる。デフレ・スパイラルを最小限に抑えるためには、国民の経済認識力を高めることがどうしても必要になる。しかし、お金の教育すらまともに行われていないこの国の現状を考えると、それは不可能に近い相談なのかもしれない。お金のことだけを言い争っている政治家達を観てもそのことはよく分かる。お金の教育が必要と思われる彼らに「お金の教育を行え」という方がどうかしている。
 
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正義の皮を被った公務員の茶番(無意味な国策捜査)

2010012101 このところ新聞の一面記事には毎日のように民主党の小沢問題が取り上げられている。民主党の“政策内容”について取り沙汰されるのであればまだ頷けるのだが、相も変わらず政治家個人の“金銭問題”のみがクローズアップされている。
 「小沢 vs 検察」という、まるで正義と悪の戦いでもあるかのように報道されているが、こんな無意味な茶番をいつまで繰り返すつもりなのだろうかと言いたくなる。この問題の重要なポイントは、どちらも国民の側を向いておらず、どちらも正義とは言い難いところだろう。

 私は現在の民主党も小沢氏も応援するつもりは全くないが、政治とお金というものは切っても切れないもので、政治家の金銭問題などをいちいち追及していくと、それこそ政治家の大部分を捜査及び逮捕しなければ辻褄が合わなくなるのではないかと思う。小沢氏だけでなく、大抵の政治家は“叩けば埃が出る身”だろうから、マスコミ報道に乗じて野党側が小沢氏を批判することは自分で自分の首を絞めているようなものだと思える。一般人が小沢氏を追及するのは頷けるとしても、同じ政治家が小沢氏を責めるのはどこかおかしい。(検察と裏で繋がっているのであれば話は別だが)
 それとも政治家達は『検察に目を付けられたら最後、政治家としての社会的地位が1日にして失われてしまうような社会』を切望しているのだろうか?
 マスコミでもよく「小沢氏は独裁政治家」というような意見を目にするが、“独裁”という意味では検察も同様だろう。私には「独裁政治 vs 独裁官僚」というような、一般人にとってはほとんど何の関係もない有難迷惑な茶番が日夜繰り広げられているようにしか見えない。

 小沢氏は検察と戦う姿勢を見せているが、当の民主党も以前のライブドアへの強制捜査時には検察からのリークを鵜呑みにしてホリエモン叩きをしていたのではなかったのだろうか? 当時、自民党を批判するために検察の側に立っていた民主党が今度は検察批判を行っているのだから皮肉なものである。結局、自分の置かれた立場次第でコロコロと意見を変えているだけのように思えてしまう。
 ちなみに民主党はホリエモンに偽メール騒ぎの賠償金300万円を支払い和解したらしい。講談社も闇カジノ騒ぎで400万円、立花 隆氏も200万円の賠償金を支払ったそうだが、この辺のところはマスコミではほとんど報道されておらずタブー視(=自分達に都合の悪いことは無視)されている。

 東京地検を含む検察という組織は、「日本の最高権力」「現代の特高」とまで揶揄されることがあるが、実際のところはただの国家公務員である。つまり、もし本当に公務員改革というものが行われるのだとすれば、その対象になる組織でもあるわけだ。はたしてそんな組織に中立的な捜査が行えるのだろうか? 検察は公務員改革に賛成なのか反対なのか中立なのかを是非とも聞いてみたいものだ。
 しかし、現時点で民主党にまともな公務員改革が行えるとは到底思えないので、東京地検が我が身保身のために動いたというのも少々疑問が残る。佐藤 優氏曰く「東京地検が動く時は全て国策捜査」ということらしいが、今回の場合、一体どういう国策で動いたのかは甚だ疑問ではある。“社会主義の守護神”とも言える検察が、社会主義政治を行っているとしか思えない民主党を貶める理由とは一体何なのだろうか?

 元検察官として有名な郷原信郎氏も同じようなことを述べているが、日本では“逮捕”という言葉を聞くだけで無条件に“悪人”というイメージが刷り込まれてしまう。逮捕された人間がどういう罪を犯したのか、またどの程度の罪なのか、あるいは罪を犯していなかった(=冤罪)としても、“逮捕=悪人”というイメージが出来上がってしまう。これは非常に危険なことである。
 水戸の黄門様が神様のような善人であり100%間違った判断をしないというのは、あくまでもフィクション(テレビ)の世界の話であり、現実にはそんなことは有り得ない。それと同様に、検察の判断にも当然のことながら間違いがある。“逮捕されたから”という理由だけで無条件に罪人扱いにされたのでは、冤罪で逮捕された菅家さんのような被害者を量産することに繋がってしまいかねない。罪を犯してもいない無実の人間が犯罪者として仕立て上げられてしまう。その絶望感と無念さは想像を絶するものだろうと思う。

 「10人の犯罪者を逃しても1人の無辜(無実の罪)を罰してはならない 」というのが民主主義の基本理念の1つ『疑わしきは罰せず』であるはずだが、そういった当たり前の常識すら通用しないと思われるのが現在の検察の姿でもある。
 かのウォルフレン氏も自著『人間を幸福にしない日本というシステム』の中で「検察は民主主義の敵」とまで述べている。『人間を幸福にしない日本というシステム』を維持するのが検察の姿であるというわけだが、今更ながらに鋭い考察ではある。国民の側を向いていないという意味ではまさにその通りだと思う。

 国民が不況で苦しんでいる時に、政治家と官僚の戦いなどは誰も観たいとは思わないし、本来どうでもよいことである。況して1政治家の金銭問題を是正したところで、景気が良くなる可能性は0だ。そんな無駄なことを行っている暇があれば、経済を活性化させる妙案でも考えてもらいたいところだが、もはやこの国のお役人には何を言っても無駄なようである。
 
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賞味期限偽装事件の顛末と狂気の世界

2010011701 最近、テレビで『こんにゃくゼリー』のCMをよく見かけるようになった。固形タイプではなく液状(クラッシュ)タイプのゼリー限定とはいえ、消費者にとっては喜ばしいことだと思う。
 そんなことを考えていると、先日、食品安全委員会から以下のような発表がなされた。

 「一口あたりの窒息事故頻度は、あめ類と同程度と推測する

 この場合、こんにゃくゼリーの窒息事故の頻度の程度を述べているわけだが、国の機関も結局のところ、以前の『こんにゃくゼリー』問題は事件ではなく事故だったと認めざるを得なかったということになる。あれだけマンナンライフを「殺人ゼリー製造業者」だと言わんばかりに悪者に仕立て上げていたにも関わらず、今更こんな発表をするのだから呆れてしまう。あの騒ぎは一体なんだったのか?と首を傾げたくなる。
 
 「作業班は今後、事故を減らすための提言をまとめる」とのことだが、一体どんな提言が出てくるのか非常に興味深い。事故を減らすためには『食べ物を極力小さくする』しかないように思われるが、まさかそんな小学生のような提言をするわけにもいかないだろう。
 ちなみにマンナンライフのホームページを覗いてみると、そこにはこう書かれている。
 
 「クラッシュタイプの蒟蒻畑は消費者庁より特定保健用食品の表示許可を頂きました」
 
 マンランライフ問題はさておき、この2〜3年の賞味期限偽装問題騒ぎの顛末を少し述べておきたいと思う。

 2007年頃から賞味期限偽装が社会問題となったため、多くの食品製造・加工会社は“賞味期限”を気にするあまり、それまで使用されていなかった化学薬品(合成保存料など)を使い始めたらしい。そのおかげで確かに食品は腐りにくくはなったものの、健康上、あまり身体に良いとは言えない化学物質を体内に入れなければならないという新たなリスクが生じてしまった。その中には発ガン性物質の疑いがある危険な化学物質も含まれているそうだ。果たして、こんな対応策で本当に良かったと言えるのだろうか?

 賞味期限が切れて腐った食品は目視や臭いで判断できる。もし古くなった食品を食べたとしても、せいぜいお腹を壊す(下痢)程度で収まるが、合成保存料の場合は何も分からずに有害な物質が体内に蓄積されていくことになる。その時は「お腹を壊さずに済んだ」と喜んでいたとしても、将来的にもっと酷い病気が発症する可能性があるのであれば本末転倒であり何のための健康措置か分からない。
 
 しかし今回の措置の場合、食品加工会社を責めるのは酷というものだろう。なぜなら、“賞味期限切れ”に過剰に拒否反応を起こしたのはマスコミに煽られた一般の消費者であって、食品加工会社ではないからだ。腐っている(=食べれない)、腐っていない(=食べれる)に関わらず、賞味期限シールの日付だけに敏感になり過ぎた多くの消費者にも責任がある。商品が腐っていないにも関わらず、賞味期限が少し過ぎたというだけであれだけ大きな騒ぎとなったのだから、本当に食品が腐っていた場合は企業の命取りになってしまいかねない。そのために食品加工会社は新たな合成保存料を使用するという判断をせざるを得なくなった。とすれば、多くの食品加工会社は言わば「被害者」であって、責任を追及するのは筋違いだとも言える。
 ヒステリックな消費者から「なぜ危険な化学薬品を入れるのだ!」と追及されたところで「今更そんなことを言われても知ったことではない」というのが食品加工会社の本音だろう。

 あめがノドに詰って運悪く死亡したとしても訴えを起こすような人は誰もいない。であるならば、こんにゃくゼリーの場合も同様でなければならない。それが今回の食品安全委員会からの発表の最も重要なポイントだ。こんにゃくゼリーが危険だということで販売中止にするのであれば、あめ自体も全て販売中止にしなければ筋が通らないということだ。
 「日本からあめという駄菓子自体が存在しなくなっても良いのか?」と問えば、誰しも「良くない」と答えるだろう。こんにゃくゼリーとて同じことだ。全国のあめを製造している会社が全て倒産して一体誰が幸せになるのか?ということも冷静に考えてみる必要がある。しかし、そういった当たり前の考えや意見は、パニックに陥った人々の前ではいつも掻き消されてしまう。

 “賞味期限”などというものは、気温や湿度などの保存環境によっても大きく変わってくるものであり決して絶対的な尺度ではない。そんな目安にしか過ぎないアバウトなものよりも、実際にその食品が腐っている(食べれる)のかどうかの方が大事なことだろう。
 そもそも食品は“腐らない方が良い”という価値観も一度見直す必要があるのではないだろうか? あるいは食べ物は“見た目が綺麗な方が良い”というのもどこかおかしい。“人間”と“食べ物”を同一線上で考える必要などはないと思う。
 野菜がいつまでも綺麗であるということは、=“虫も食べない”ということであり、そんな農薬漬けのような野菜が人間の身体に良いとは思えない。綺麗な女性であれば虫(?)も寄ってくるだろうが、綺麗な野菜の場合は虫も寄り付かない。ヘタな喩えではあるが、人間と野菜は全く逆なのだ。つまり、“野菜は汚い(腐る)方が良い”のである。
 “野菜は腐る方が良い”“野菜は汚い方が良い”などと言うと、「そんなはずはない!」と怒る人がいるかもしれないが、食物というものの本質を冷静に考えれば、どちらが正しいかは火を見るより明らかだろう。野菜や果物の判断基準は視覚ではなく味覚や嗅覚で行うものだというのは当たり前のことである。
 
 結局、何が言いたいのかと言うと、「食べ物にはリスクが付き物」だということだ。日本には《リスクはあってはならない》というような平和な空気が漂っているが、それは別名『ノーリスク教』とも言うべき誤った思想でもある。
 この世にノーリスクなどというものは残念ながら存在しない。この世が時間とともに変化する世界であるのならば、当然どんなものにもリスクは付いてまわるということである。思考とともに時間まで停止させて物事を考えると「ノーリスク」などという幻想を追うことになる。この世でリスクの無い世界を追求すると、行き着く先に待っているのは“狂気の世界”である。
 こんにゃくゼリーを「殺人ゼリー」として断罪するような社会が、はたしてまともな社会と言えるだろうか? こんにゃくゼリーを製造・販売した企業を「殺人企業」と罵るような社会が「狂気の世界でない」と一体、誰が言えるというのだろうか? この日本でほんの少し前に実際に起こったその光景はまさしく“狂気の世界”だったのである。そしてその狂気によって人々はより大きなリスクを背負いこむことになってしまった。まさしく狂気が招いた悲劇である。

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社会主義と民主党の腐れ縁関係

2010010901 アメリカではオバマ民主党が誕生し、日本でも鳩山民主党が誕生したことによって、最近よく聞かれるようになった言葉がある。その言葉とは「社会主義」という言葉だ。“民主”と“社会主義”という言葉は、本来であれば全く正反対の定義であるはずだが、現実ではどういうわけか、民主党と社会主義というのは切っても切れない関係にあるらしい。
 
 ところでこの「社会主義」という言葉だが、具体的にはどういう思想のことを言うのだろうか? 「社会主義」と聞いてもあまりピンとこない人も多いかもしれないので、このことについて少し述べておきたいと思う。
 
 「社会主義」の反意語とは先程も述べた通り「民主主義」であり、または「自由主義」とも呼ばれる。「社会主義」の「社会」とは平たく言えば「国家」のことを指している。「国家社会主義」という言葉もあるように、国が主体(中心)で民が脇役というのが社会主義の姿だと言える。戦時中の体制など、国を中心として国家が運営される体制のことを社会主義だと考えれば分かり易いかもしれない。
 
 少しややこしくなるが、この社会主義は大きく2つに分類される。それは、俗に“左の社会主義”と“右の社会主義”と呼ばれるものだ。早い話、“左翼”と“右翼”のことを指している。こう言うと、「えっ?」と思われる人もいるかもしれない。「打倒国家の左翼と国家崇拝の右翼は正反対の存在ではないのか?」と。
 しかし、そのどちらも「国家」を中心に据えて物事を考えているという意味では非常に似通った、言わば表裏一体の存在なのである。
 よく「保守」を名乗り、左翼を攻撃しているタイプの言論人がいるが、その構図は、必ずしも「自由主義者」vs「社会主義者」という構図ではなく、単なる「右の社会主義者」vs「左の社会主義者」という構図になっている場合がある。
 喩えて言えば、かつての「ドイツ」(国家社会主義国家)vs「ソ連」(共産主義国家)のようなもので、「自由」の立場の「アメリカ」がいない状態での戦争のようなものだとも言える。

 国を中心に物事を考えると、どうしても国民というものを一律平等に考えざるを得なくなる。個人の能力や才能などはどうしても二の次となり、個人の努力というものも正当に評価されない社会になってしまう。
 「国は平等に国民に奉仕しなければならない」という左翼思想と、「国のために個人の能力や才能を奉仕しなければならない」という右翼思想では、その思想は違えども結果的に同じような社会に行き着いてしまう。その社会とは、自助努力という人間の精神的な成長自体を否定した画一的な悪平等社会である。
 先程の「国」という言葉を「会社」に、「国民」という言葉を「社員」に置き換えてみれば、現代の日本企業の実体が、どういうものかがよく解ると思う。日本の多くの会社では未だに戦時経済から派生した社会主義体制が維持されていることに気が付くはずだ。
 
 現代のように、国と国との国境がほとんど意味をなさなくなったグローバル経済下においては、国を中心に物事を考えていたのでは、いずれ立ちいかなくなることは誰にでも解ると思う。現在、この国で行われている様々な社会主義政策(バラマキ行政)を観れば、それが如何に時代にそぐわないものかがよく解る。それは、決して民主政治などという高邁なものではなく、衆愚政治に陥っただけの社会主義政治なのである。
 
 社会主義では「国」が中心だから、「銀行」や「役所」、はては「航空会社」などが如何に非効率な経営を行っていたとしても、国民の血税を投入して潰さない。なぜなら、《国民は国の犠牲になっても止むを得ない》という思想こそが、社会主義体制の本質であるからだ。これは戦争というものを考えれば、まさにその通りであることが解る。
 「銀行」はこの20年近く、国民から借りたお金(=貯金)の利子もほとんど支払わず、経営が持ち直しても、利子を上げずにお礼の一言もない。実際のところ、ゼロ金利が長期不況を齎した1つの大きな原因とも考えられるので、一般国民は銀行の犠牲になったと言えなくもない。しかし、国民は文句を言わないどころか疑問にも思わない。そういう意味では、日本国民自身が社会主義体制というものを無条件に受け入れているという世界でも類を見ない従順な国民だと言えるのかもしれない。しかし、その従順な国民の多くは、日本を《健全な資本主義国家》だと思い込んでいるのだから、オメデタイというほかはない。
 
 “国民が犠牲となって国家が維持される社会”、それが社会主義というものの本質だと述べたが、現代の日本の場合は“国民が犠牲になっても国家が衰退する社会”になってしまっている。
 その原因は、経済の成長を阻む“社会主義”にこそある。社会主義を卒業しなければならない時代であるにも関わらず、いつまで経っても社会主義から脱皮できず、モラトリアムのような国家を維持し続けていることにこそ、その原因がある。日本が大不況から脱却し発展するために真っ先に必要な条件とは「社会主義からの脱皮」だ。その前提条件を満たさない限り、日本の更なる発展はないと言っても決して言い過ぎではないだろう。
 
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日本経済を蝕むアリジゴクの正体

2010010101

 「蟻地獄」という言葉を聞いたことがないという人はいないと思う。ウィキペディアの説明文を借りると、『さらさらした砂地にすり鉢のようなくぼみを作り、その底に住んで迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の地上を歩く小動物に大あごを使って砂を浴びせかけ、すり鉢の中心部に滑り落として…』とある。この蟻地獄を創り出しているウスバカゲロウの幼虫のことを通称「アリジゴク」と呼ぶ。
 
 さて、なぜ経済関係のブログにそのような昆虫の名が登場するのか疑問に思われた人もいるかもしれない。しかし、現在(と言うよりかなり前から)の日本社会の構造を比喩的に表現すれば、まさにこの「蟻地獄」という形容がピッタリと当て嵌まるように見える。そのことを少し具体的に説明してみよう。
 
 この「蟻地獄」という言葉は、1度その穴に落ちてしまうと、なかなか這い上がることができないという意味合いでよく使用される。一般的には、「商売に失敗した者」や「多額の借金を背負った者」、あるいは現代的に言うなら「負け組」と言われる者がこの蟻地獄に落ちた者と言えるのかもしれないが、ここでは「嫉妬心が強い者」として取り扱うことにする。数多くの嫉妬心が強い人間達が、この蟻地獄に落ちている様を想像してみよう。
 
 その蟻地獄では誰もが蟻地獄の外に這い上がろうと懸命になっている。しかし足場の悪い砂地が邪魔をしてなかなか這い上がることができない。彼らは自分が這い上がろうと必死になり、自分の上を歩いている他人の足を掴み引っ張ることでその蟻地獄から抜け出そうとするのだが、落とされた人間もまた同じように他人の足を引っ張るため、永遠に同じことの繰り返しで誰もその蟻地獄から抜け出すことができない。
 この喩え話は、他人に対する妬み根性を持っている人間はいつまで経っても貧しさから解放されないということを説いている。自分の上を歩いている人間の足を引っ張るのではなく、お互いが協力して後押しすれば、まず1人が脱出することができる。1人だけでも抜け出すことができれば、後はその人物に上から1人ずつ引っ張ってもらえば全員、蟻地獄から脱出することができるにも関わらず、嫉妬に狂った人間はそんな単純なことにも気が付かない。
 これはまさに、現代の日本社会の姿そのものであるとも言える。
 一部の成功者や起業家の足を引っ張るのではなく、持ち上げることができれば、その一部の成功者が生み出す富によって多くの人を救うことができるのだが、そのことに全く気が付かず、一部の成功者を「拝金主義者だ」などと言って蟻地獄の中に引き摺り降ろして喜んでいる(=嫉妬心を満足させている)というのが嫉妬深い人々の姿だと言える。金持ちを貧乏にすることで「格差が無くなり平等になった」と喜んでいる姿というのは実に愚かしい。「お金持ちを貧乏にしても貧乏人がお金持ちになるわけではない」というサッチャーの名言の見本のような社会が現代の日本の姿と言っても過言ではない。それは、全員が貧乏になるという狂気の社会なのである。
 
 アメリカでマイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスティーブ・ジョブズが現れると、人々は彼らを羨み、カリスマとして持ち上げた。そして彼らはその才能を遺憾なく発揮し大成功者となり、多くの国民に富の再分配を為した。それは褒めて持ち上げてくれた人々に対する報酬でもあった。彼らは意識してか意識せずしてか蟻地獄社会から抜け出す方法を本能的に実践していたということになる。ある意味で彼らは国民が一丸となって国を富ませることに成功したのである。アメリカの大富豪というのは、ほぼ例外なく慈善家でもあるという事実がそのことを物語っている。
 「国家の品格」とか「互助の精神」とか「友愛の精神」などと綺麗事を言っているわりに実際には逆のことばかり行っている日本とは大きな違いだ。

 アメリカでは成功者はその名の通り英雄となるが、日本では英雄ではなく、「格差を生み出した犯人」というような扱いになる。成功者のちょっとしたアラを見つけ出して、その悪い部分だけが針小棒大に報道される。そういった報道は《自分よりも優れた人や幸福な人が許せない》というような嫉妬心を抱いている人々に礼賛され、いつしかその成功者は“悪人”というレッテルを貼られることになる。
 
 蟻地獄に落とされた成功者達は、決して彼らに感謝の心を抱くことはないだろう。再び、自らの才能によってその蟻地獄から抜け出せたとしても、もはやその蟻地獄でもがいている人々に助けの手を差し伸べることはないだろう。そしてそのことを批判する権利はもはや誰にも無いのである。
 日本社会に蟻地獄を創り出しているのはアリジゴクという昆虫ではなく、この国の嫉妬深い国民なのだ。「格差は悪」などと叫んでいる者達が、実は日本を蟻地獄のような社会にしてしまっているだけのことなのだ。多くの貧困を生み出している元凶は、格差ではなく、自らの貧しく嫉妬深い心なのである。
 
 日本経済が現在のような蟻地獄不況から抜け出すために必要なことは、多くの国民が蟻地獄から抜け出す手段を学ぶことだ。その手段を学ぶためには、まず、今までの誤った常識《お金持ちを貧乏にすれば貧乏人はお金持ちになる》を捨てなければならない。そして【お金持ちを持ち上げれば貧乏人もお金持ちになる】という真実を受け入れることだ。
 「そんなことは受け入れられない」「他人の施しを受けるのはプライドが許さない」と言う人もいるかもしれないが、そんなことを言う気概があるのならば、他人の足を引っ張るような姑息な真似は止めて、自らが成功者になれるように努力すればいい。結局、そういった言い訳も自らが他人よりも劣っているのが許せないという妬みの心でしかないのである。

 2010年が日本経済の蟻地獄脱出元年になることを願いつつ…。

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