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衆愚政へと至る道と、衆愚政から脱する道

2010022401 このところの日経平均株価は、節目の10000円を挟んで拮抗しており、ボックス相場からなかなか抜け出せずにいる。景気の先行き見通しが株価に反映されているとも言えるのだろうが、ちょうど1万円というのは心理的な節目にもなっているようだ。しかし、未だに経済拡大政策を無視し続けている民主党政権下で1万円を維持し続けていることは、ある意味、日本経済の底力の現れとも言えるのかもしれない。これで与党が、社会主義政策を停止してくれれば株価にも良い影響を与えるのかもしれないが、バラマキ重視の政策にひた走る現政権を見る限りでは、あまり期待し過ぎても裏切られる可能性の方が高いと言えそうだ。

 ポピュリズム(人気取り)政治に陥った現政権は、かつての田中角栄型のバラマキ政策を遂行することしか頭にないようなので、このまま政権が続いても景気が良くなることはまず有り得ないと考えた方が良いかもしれない。田中角栄の時代であれば、バラマキを行う余力がまだあったのかもしれないが、20年間も経済停滞期が続いている現代日本においてバラマキ政治を行うなどは、とても正気とは思えない。投資としてのバラマキであればいざ知らず、なんのプラスにもならない捨て金としてのバラマキなどを行っても、一時的な対症療法にしかなり得ず、抜本的な経済立て直しには繋がらないだろうことは子供にでも解る理屈だ。と言っても、この国の多くの人々(大人の有権者)は、未だに《お金をバラまいてくれる政治家が偉い政治家だ》と本気で思っているようなので、心ある政治家であってもポピュリズムに陥らざるを得ないという状況も無視するわけにはいかないだろう。心ある政治家が如何なる正論を述べたとしても多くの人々の賛同を得ることができなければ選挙に当選することができない。そういった理想とは程遠い社会になってしまっていることこそが問題だとも言える。

 かつて、プラトンが述べたような「賢人政治家」なる人物が現代の日本社会に仮に現れたとしても、歪んだポピュリズム社会の前では、閉口せざるを得ないかもしれない。誤解を恐れずに言えば、この世の中には賢人よりも愚かな人の方が遥かに多いわけだから、多数決で政治の方向が決まるのであれば、必然的に愚かな政策を選択せざるを得ないということになる。衆愚政治とはまさにそういうことであり、現在の民主党が陥っているのもまさしく典型的な衆愚政治だ。
 この「衆愚政治からの脱却」とは、イコール「社会主義政策からの脱却」に他ならない。はっきり言ってしまうと、社会主義政策から脱却する気もない政党に現代日本の政権を担う資格は無い。それは資格が“無い”と言うよりも、景気を良くしようという発想自体が“無い”ことを意味している。早い話、現状を維持することしか頭に無いわけだ。これでは官僚の発想と全く変わらない。これで「官僚政治からの脱却」などと宣っているのだから何をか言わんやである。
 
 衆愚政に陥らないためにはどうすればよいか? これは万国共通の普遍的テーマでもある。衆愚政とは国家が生まれつき抱えた宿痾(しゅくあ)のようなものとも言えるが、人間が愚かである限りは、この国家病を避けて通る術はない。しかし、教育によってはある程度は改善できる可能性がある。
 現代日本のように他人からお金を恵んでもらうことが当たり前というような嫉妬社会の到来を招いてしまった原因も、結局のところ、戦後の悪平等教育によるところが大きいのではないかと思える。
 昔のような武士道や勤勉・勤労の精神というものが心の深い部分に刷り込まれていれば、「働かざる者、食うべからず」というような健全な思想を当然の如く共有することができるのだろうが、横並びの悪平等教育を国の教育の柱にしていたのでは、まともな精神性など身に付くはずもない。なぜなら、“悪平等教育”とは“ロボット教育”に他ならないからだ。判で押したような型に嵌まった人間の眼には、自分と違った価値観を持った人間はどのように見えるだろうか? おそらく“異質な敵”のように見えてしまう場合もあるはずだ。自分よりも優れた者に対しては嫉妬し、自分よりも劣った者は蔑むという、イジメ社会の原型なるものが悪平等教育の中に入り込んでしまっているわけだ。そんな教育を行っていながら、「イジメはいけない」などとよく言えたものだと感心してしまう。

 そういった意味において、マルクス思想に取り憑かれた左翼思想家が齎した害悪は殊の外大きいと言える。人間の精神性というものを否定した物質万能の左翼思想は、結果的に人間の成長自体をも否定することに繋がってしまう。そういう危険性を見抜くことのできなかった似非思想家達の罪は重いと言わざるを得ない。
 「平等」という一見、誰にも否定できない美しい言葉でその歪んだ思想を覆ってはいるものの、マルクス思想の根底にあるものは、被害妄想から生まれた嫉妬思想でしかない。
 マルクスの時代であれば、資本家階級というものが実際に存在していたので、まだ理解できるものの、現代の日本には同じ意味での資本家階級などはもはや存在していない。そんな時代にあって凝りもせずに、「資本家は悪!」とか「金持ちは悪!」などという妄想を振りまいていたのでは、いつまで経ってもまともな社会にはならないだろう。

 過去の亡霊にいつまでもしがみつくことは止めて、新たな一歩を踏み出すこと、それが現在の政権および日本国民に求められていることであり、日本経済を復活させる最善の近道でもある。そして、その善意で舗装されていない茨の道こそが衆愚政から脱出する唯一の道でもある。

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「年功序列制度」は「ねずみ講」か?

2010020401 現代日本の年功序列問題研究の第一人者とも言える城 繁幸氏の新書3部作の最終巻『7割は課長にさえなれません』を読み終えた。城氏の著作は全て目を通しているが、今作は『日本町』という架空の都市に登場する人物がモデル化されて描かれており、ノン・フィクションの世界を上手くフィクション化し、なかなか面白い構成になっている。いつもながら、年功序列問題の本質を素直に言及しており傾聴に値する本音論が随所にちりばめられている。

 時代の影響からか、年功序列制度の弊害を訴えている人は年々増加傾向にあるようだ。実際にその制度の中に生きている多くのサラリーマン(私も含む)にとっても決して他人事ではなく、今後の日本経済を考える上でも無視できない重要な問題でもあるため、今回は改めて年功序列問題にスポットを当てて考えてみたいと思う。

 ご存知の通り、「年功序列制度」は「年金制度」と並び「ねずみ講」と称されることがある。老年世代が若年世代から搾取するという意味では確かにその通りだと言えるかもしれない。
 「年功序列制度は ねずみ講」、これは一見誰にも覆すことのできない真実であるかに思える。しかし、中には「年功序列制度は ねずみ講ではない」という強気の異論を展開している御仁もおられる。日本経済楽観論者の1人である増田悦佐氏もその1人だ。(増田氏の著作は以前にも当ブログで紹介したことがある→該当記事
 増田氏は一風変わった鋭い正論を述べることでも有名な人物だが、年功序列制度に関しても面白い主張をされている。増田氏は著書『格差社会論はウソである』の中で以下のようなことを述べている。(注意:原文ではない)

 「かつての高度経済成長期に年功序列制度下にあった労働者達は、その当時に貰っていたはずの給料を現在貰っているだけである

 確かにこう言われてみると、その通りだと言えなくもない。かつての高度経済成長期に歩合給(能率給)として給料が支払われていれば、その当時の労働者が受け取るべき給料はもっと高くなければならなかったはずだ。歩合給にしなかった理由は後述するとして、要するにこの時代の労働者達は給料の一部を積み立てていたことになり、その差額分を現在貰っているのだと考えれば確かに合点がいくし、年功者達の言い訳としては成り立つかもしれない。
 しかし、もし増田氏のこの考えが正しいとしても、どうしても無視できない点がある。それは、「そうであるならば、現代の年功序列制度とは一体何なのか?」という疑問点だ。
 
 年功序列制度が現在も何の問題もなく機能しているのであれば、確かに増田氏の主張は全面的に正しいと言えるだろう。しかし、現代の年功序列制度は機能しているのか?と問えば、誰しもまともに機能しているとは思わないだろうし、実質は破綻していると言っても決して言い過ぎではない。(公務員の世界だけは例外だが、無理矢理維持していることに違いはない)
 “年功序列制度が機能している時代”と“年功序列制度が機能していない時代”の違いを考慮に入れた上で論じない限り、いくら論理的には正しくとも万人を納得させることはできないと思える。
 
 もし、現代の老年世代が年功序列制度を享受する権利があるとしても、その原資(過剰な高給)は過去の蓄積から支払っているわけではない。稀にそういった企業もあるかもしれないが、JALの企業年金問題を観ても、そこまで先を見据えた堅実な企業は無いと考えた方がよいかもしれない。
 老年世代が年功序列制度を享受するための蓄えが当の会社に存在していないのであれば、老年世代が年功序列制度を享受できるという保証も消えて無くなる。また、現代の若年世代が将来的に年功序列制度の恩恵にあずかれないのであれば、年功序列制度は既に破綻しているわけだから、直ぐさま別の給与体系に切り替える必要がある。しかし現実にはどうなっているかというと、破綻しかかった年功序列制度が今も維持されている。この現実を観るにつけても、年功序列制度によって若年世代が利用され犠牲になっているだろうことは否定できない。

 年功序列制度も年金制度と同じく、賦課方式(※1)であって積立方式ではない。そのことだけで、既に答えは出ていると思われる。年功序列制度が積立方式で運用されているのであれば、老年世代が年功序列制度を享受する権利があると言えるだろうが、賦課方式で運用されている場合は、必ずしも権利があるとは言えない。かつては年功序列制度も、建前上は積立制であったのかもしれないが、実質は賦課制であることに間違いはない。

(※1)必要になる財源を、そのときの現役世代が負担する仕組み
 
 さて、ここで先程の「歩合給」の話に切り替えよう。かつての高度経済成長時代にはなぜ企業は歩合給制にしなかったのか? これは様々な理由があるので一口には言えないが、1つには、“雇う側はその方が都合が良かった”という理由がある。簡単に言えば、わざわざ職能給などを考えなくても経営していけたということと、その方が(雇う側が)儲かったということである。
 当時は現代のように仕事が足りない状態ではなく、仕事が有り余っている状態で、やる気さえあれば、いくらでも仕事をすることが可能な時代だった。それこそ、1人で2人分の仕事量をこなしても、それだけの報酬(時間給)が出る時代だった。それは、現代と全く逆だと考えれば解り易いかもしれない。現代では絶対的な仕事量(パイ)が足りないので、雇う側は、固定された月給よりも、仕事をこなした分だけ支給する歩合給の方が経営リスクが低い。しかし、今まで都合よく年功序列の月給制にしていた制度を、直ぐさま歩合給制には変更できない。

 元々、歩合給制にしていれば、おそらく現代のような歪んだ年功序列問題などは起こらなかったはずで、仕事量が減少すれば、おのずと給料も減少するという世の中になっていたはずだ。(歩合給としては計算できない仕事もあるので実現するのは難しいが)
 「そんな安定性のない世の中になっては困る」と言う人がいるかもしれないが、よくよく考えれば、それが当たり前の社会なのである。仕事が増加しようが、仕事が減少しようが、給与制度は一定の法則で運用(上昇)するということ自体がそもそものの間違いなのである。その間違いが誰の目にも分かるように表面化してきたのが現代の日本の姿だ。
 元々、年功序列制度も年金制度も、数十年前からそのうち維持できなくなるだろうことは判っていたことで、そのことを隠しながら、騙し騙し過ごしているうちに、ついに21世紀を迎えてしまったというのが実際のところでもある。
 元々、“いつかは破綻することが決定していながら、ある一定期間だけは有用な制度”のことを人々はこう言うはずだ。「ねずみ講」と。年功序列制度も年金制度も例外ではない。そのどちらも見事なまでに「ねずみ講」の条件を満たしている。よって、「年功序列制度は ねずみ講」は正しい。
 
 過去の人為的判断ミスによって出来上がった現代の歪んだ日本社会では、ろくに仕事もせずに高給な人もいれば、死ぬほど仕事をしても報われない人もいる。なぜこのような歪んだ社会が出来上がったのか? それは、労働の価値や給与の増減、つまり労働市場というものを人為的に管理できると自惚れた者達が犯した失敗が原因であると言えるのかもしれない。歪んだ年功序列制度を享受している老年世代だけが悪いのではなく、歪んだ年功序列制度を創り出してしまった管理者(お役人)と、その歪んだ制度を中止することのできない窮屈な社会システムに全ての元凶があると言える。
 
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