« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月

衆愚政へと至る道と、衆愚政から脱する道

2010022401 このところの日経平均株価は、節目の10000円を挟んで拮抗しており、ボックス相場からなかなか抜け出せずにいる。景気の先行き見通しが株価に反映されているとも言えるのだろうが、ちょうど1万円というのは心理的な節目にもなっているようだ。しかし、未だに経済拡大政策を無視し続けている民主党政権下で1万円を維持し続けていることは、ある意味、日本経済の底力の現れとも言えるのかもしれない。これで与党が、社会主義政策を停止してくれれば株価にも良い影響を与えるのかもしれないが、バラマキ重視の政策にひた走る現政権を見る限りでは、あまり期待し過ぎても裏切られる可能性の方が高いと言えそうだ。

 ポピュリズム(人気取り)政治に陥った現政権は、かつての田中角栄型のバラマキ政策を遂行することしか頭にないようなので、このまま政権が続いても景気が良くなることはまず有り得ないと考えた方が良いかもしれない。田中角栄の時代であれば、バラマキを行う余力がまだあったのかもしれないが、20年間も経済停滞期が続いている現代日本においてバラマキ政治を行うなどは、とても正気とは思えない。投資としてのバラマキであればいざ知らず、なんのプラスにもならない捨て金としてのバラマキなどを行っても、一時的な対症療法にしかなり得ず、抜本的な経済立て直しには繋がらないだろうことは子供にでも解る理屈だ。と言っても、この国の多くの人々(大人の有権者)は、未だに《お金をバラまいてくれる政治家が偉い政治家だ》と本気で思っているようなので、心ある政治家であってもポピュリズムに陥らざるを得ないという状況も無視するわけにはいかないだろう。心ある政治家が如何なる正論を述べたとしても多くの人々の賛同を得ることができなければ選挙に当選することができない。そういった理想とは程遠い社会になってしまっていることこそが問題だとも言える。

 かつて、プラトンが述べたような「賢人政治家」なる人物が現代の日本社会に仮に現れたとしても、歪んだポピュリズム社会の前では、閉口せざるを得ないかもしれない。誤解を恐れずに言えば、この世の中には賢人よりも愚かな人の方が遥かに多いわけだから、多数決で政治の方向が決まるのであれば、必然的に愚かな政策を選択せざるを得ないということになる。衆愚政治とはまさにそういうことであり、現在の民主党が陥っているのもまさしく典型的な衆愚政治だ。
 この「衆愚政治からの脱却」とは、イコール「社会主義政策からの脱却」に他ならない。はっきり言ってしまうと、社会主義政策から脱却する気もない政党に現代日本の政権を担う資格は無い。それは資格が“無い”と言うよりも、景気を良くしようという発想自体が“無い”ことを意味している。早い話、現状を維持することしか頭に無いわけだ。これでは官僚の発想と全く変わらない。これで「官僚政治からの脱却」などと宣っているのだから何をか言わんやである。
 
 衆愚政に陥らないためにはどうすればよいか? これは万国共通の普遍的テーマでもある。衆愚政とは国家が生まれつき抱えた宿痾(しゅくあ)のようなものとも言えるが、人間が愚かである限りは、この国家病を避けて通る術はない。しかし、教育によってはある程度は改善できる可能性がある。
 現代日本のように他人からお金を恵んでもらうことが当たり前というような嫉妬社会の到来を招いてしまった原因も、結局のところ、戦後の悪平等教育によるところが大きいのではないかと思える。
 昔のような武士道や勤勉・勤労の精神というものが心の深い部分に刷り込まれていれば、「働かざる者、食うべからず」というような健全な思想を当然の如く共有することができるのだろうが、横並びの悪平等教育を国の教育の柱にしていたのでは、まともな精神性など身に付くはずもない。なぜなら、“悪平等教育”とは“ロボット教育”に他ならないからだ。判で押したような型に嵌まった人間の眼には、自分と違った価値観を持った人間はどのように見えるだろうか? おそらく“異質な敵”のように見えてしまう場合もあるはずだ。自分よりも優れた者に対しては嫉妬し、自分よりも劣った者は蔑むという、イジメ社会の原型なるものが悪平等教育の中に入り込んでしまっているわけだ。そんな教育を行っていながら、「イジメはいけない」などとよく言えたものだと感心してしまう。

 そういった意味において、マルクス思想に取り憑かれた左翼思想家が齎した害悪は殊の外大きいと言える。人間の精神性というものを否定した物質万能の左翼思想は、結果的に人間の成長自体をも否定することに繋がってしまう。そういう危険性を見抜くことのできなかった似非思想家達の罪は重いと言わざるを得ない。
 「平等」という一見、誰にも否定できない美しい言葉でその歪んだ思想を覆ってはいるものの、マルクス思想の根底にあるものは、被害妄想から生まれた嫉妬思想でしかない。
 マルクスの時代であれば、資本家階級というものが実際に存在していたので、まだ理解できるものの、現代の日本には同じ意味での資本家階級などはもはや存在していない。そんな時代にあって凝りもせずに、「資本家は悪!」とか「金持ちは悪!」などという妄想を振りまいていたのでは、いつまで経ってもまともな社会にはならないだろう。

 過去の亡霊にいつまでもしがみつくことは止めて、新たな一歩を踏み出すこと、それが現在の政権および日本国民に求められていることであり、日本経済を復活させる最善の近道でもある。そして、その善意で舗装されていない茨の道こそが衆愚政から脱出する唯一の道でもある。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『掃除』という義務教育は必要か?

2010021301 今時の小中学校の先生には、生徒に掃除を教えることの重要性を説く人がいるらしい。なんでも、海外の義務教育過程では生徒に掃除を教えないそうで、その掃除を教える習慣の根付いた日本の学校教育は素晴らしいということらしいのだが、はたして本当にそうなのだろうか?
 
 誰しも子供が掃除している姿を見ると「躾けの行き届いた利口な子供だ」と感心することは確かだろうし、掃除を全くしない子供より真面目に掃除をする子供の方が立派だというのは理解できる。これは誰も否定はしないだろう。しかし、掃除をさせるという躾けはあくまでも個別の家庭で行うものであって、必ずしも学校で教えるものではないのではないか? 素朴にそう思えるのは私だけだろうか?

 かくゆう私も小中学生の頃は真面目に学校(教室)の掃除を行っていた記憶がある。当時は、真面目に掃除を行うことが当然だと思っていたので、何の疑問も抱かなかった。しかし、21世紀にもなって毎日、掃除を行うことが授業の一環となっていることに少し疑問を抱くようになってきた。掃除も大事かもしれないが、これから否が応にも国際社会の中で生きていかなければならない子供達にはもっと他に教えなければならないことがあるのではないか?と。掃除ができることが国際社会の中を生きていくスキルにはならないということも考える必要があるのではないか?と。身も蓋もない言い方をすれば、掃除を覚えることが学生の本分ではないのではないか?ということである。
 日本だけでしか行われていない掃除の教育とは、はたして海外から観て本当に褒められるべきことなのだろうか? もし褒められるべきことであるのならば、なぜ海外の人達は日本の学校の真似をしないのだろうか?

 海外では学校の掃除を行うのは、専ら掃除をするために雇われた清掃員だが、なぜか日本だけは生徒に掃除することを教えている。と言うより、ほとんど強制的に生徒に掃除をさせており、当の生徒もそれが当たり前だと思い込まされている。私立の小中学校ではどうなっているのかは知らないが、はたして生徒に掃除を教えるという教育は現代でも必要なのだろうか? それとも「家庭では両親が忙しいだろうから掃除の躾けは学校で行います」というような暗黙の了解でもあるのだろうか?

 昔、私が通っていた私立大学ではパートで雇われた清掃員が大勢いたことを覚えている。現在の不況下では清掃員の数も減少しているのかもしれないが、授業料を全額実費で支払っている私立学校の生徒が学校(教室)の掃除を行わなければならない明確な理由は無いはずであり、これは理屈の上でも疑いようがない。「掃除するのが嫌なら学校を辞めろ」と言われる筋合いはないだろうし、勉強を教えてもらうために授業料を支払っているのだから、掃除が授業でない限りはそんなことを言われる筋合いはない。
 こんなことを書くと、ヒステリックな方から批判されそうだが、頭を冷やして冷静に考えていただくと、一応、筋は通っていることは理解していただけると思う。毎日決まって教室を掃除する(私立の)学生というのは、よく考えるとあまりに不自然な姿であるわけだ。無論、自分が教室でゴミを出したとか汚したのであれば掃除するのは当然のことだ。しかし、家庭でも大掃除時ぐらいしか行わない雑巾掛けを毎日、教室で行わせる必要があるのか?ということだ。

 では、公立の場合はどうだろうか? 公立の場合、学費等は税金で賄われている部分があるため、余分な経費(清掃員の人件費)や税金の無駄使いを減らすために生徒に掃除をさせているというのであれば、まだ納得できる。税金で学校に通わせてもらっているのであれば、その校舎の掃除を生徒がするというのは、ある意味、自然な姿であり、当然の行いとも言える。しかし、当の先生方は、どうやらそういった理由で掃除を教えているわけではないらしい。

 先に海外では生徒に掃除を教えないと書いたが、それは“学問”と“掃除”を別のものと割り切って考えているためだ。しかし、日本の教師達は、“学問”と“掃除”を別のものとは考えずに完全にセット化して考えているフシがある。要するに、『教育』というものの中に“学問”も“掃除”も入ってしまっているわけだ。海外の人達は、人間教育の全てを学校で教えるべきだとは考えておらず、学校では“学問”を教えることに専念しており、“掃除”などは家庭で教えるものだと割り切っている。しかし、日本の教師達は、“学問”ではなく『教育』を行うのが学校の目的だと言わんばかりに、何もかもを学校で教えるものだと思い込んでいるように見える。
 
 掃除を学校で教えるべきか否かは、「国によって価値観が異なる」という理由で片付けられてしまいそうな問題でもあるが、重要な問題はここから先だ。
 その問題とは、現代の日本の教師達の中には、「掃除の躾けが行われている日本の学生は優秀であり、掃除も自分でできない人間は立派な大人にはなれない」と本気で思い込んでしまっていることだ。(ここでは敢えて述べないが、実際にそんなことを発表している教師がいる)
 あなたの子供が通っている学校に、学問よりも掃除の方が大事だと思っている教師がいればどう思うだろうか? 学習よりも躾けを優先する教師をあなたはどう思うだろうか? 中には「学校で子供に躾けを教えてくれるのであれば助かる」と言う人もいるかもしれないが、本当にそれでよいのだろうか?

 これからのビジネス社会は、残念ながら掃除ができるというような資格はほとんど何の役にも立たないと思う。お茶汲みや掃除ができるだけでOLとして雇ってくれるような夢のような会社はもう存在しない。掃除ができても仕事ができなければ、情け容赦なく社会人としては“失格”の烙印を押されてしまう厳しい社会が待ち構えているのである。掃除する人が必要なのであれば、清掃員を雇えば済むことであり、ビジネスマンが掃除を担当するわけではないということだ。掃除することが良いことであるのは間違いないが、清掃員になることが目標という人でない限り、わざわざ掃除を覚えなければならない必要性はないのである。

 こう書くと、またまた批判の声が聞こえてきそうだが、掃除の教育を行えるということは、国が豊かである証拠だ。いや、豊かであった証拠だ。では現代の日本はどうか? 今現在はまだ豊かな国であると思われるが、これから先もそうである保証はどこにもない。そういう国で大事なことは、掃除のできる人間を大量に創ることではなく、本当に優秀な人間を創り出すことであるはずだ。より具体的に言えば、世界を舞台にお金を稼ぐことのできる人間を創り出すことであるはずだ。なぜかって? それは人口が減少していく社会であるからだ。
 1人が稼ぐ金額が同一であれば、人口が減少することは=税収減となるが、巨額のお金を稼ぐことができる人間が何人もいれば、人口が減少したとしても必ずしも税収が減るわけではない。「一騎当千」という言葉もあるように、本当に有能な人間が1万人でも出てくれば、1000万人に値することも有り得るわけだ。国が学校教育に力を入れる目的が国力(=税収)を増すことであるのならば、教育の目的は横並びの平等教育を行うことではなく、況して掃除を教えることでもないはずだ。今、本当に行わなければならない教育とは、個人の才能を伸ばす教育であり、世界に通用する有能の人間を輩出することでなければならないはずだ。

 繰り返すが、掃除をするのは良いことだ。しかし、「掃除ができなければ常識人として通用しない」などという寝言を言っている時代ではないのだ。掃除が自分でできないのであれば、家政婦でも雇えばなんとかなるはずだ。つまり、家政婦を雇えるほどに有能な人間になれば、掃除ができなくても困らないということだ。掃除ができる人間ではなく、家政婦が雇える人間を創ることこそが現代の日本では必要なのである。また、そうであってこそ、税収は増加し、老人が安心して暮らせる時代を迎えることが可能となるのだ。
 今の時代、そういった人(子供)に対する投資という考え方が非常に重要だと思われるのだが、この国の学校の教師達にはそういった思考が完全に欠けているように思える。掃除することが勉強すること以上に大事だと本気で思っているような時代錯誤な教師に教えられる子供達は不幸というしかない。
 
 最後に結論を述べておこう。『掃除』という義務教育は必要か? 「現代の日本には必要だとは思えない」、少なくとも私はそう思う。
 ひょっとすると、現在、増加の一途を辿っている登校拒否児童の中には、現在の義務教育体制には未来が無いということを肌で感じ取って学校に行きたくないという児童もいるのかもしれない。小中学生の段階でそれが感じ取れるのであれば、その生徒は非常に優秀な生徒であると言えるのかもしれない。
 
にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (11) | トラックバック (0)

「年功序列制度」は「ねずみ講」か?

2010020401 現代日本の年功序列問題研究の第一人者とも言える城 繁幸氏の新書3部作の最終巻『7割は課長にさえなれません』を読み終えた。城氏の著作は全て目を通しているが、今作は『日本町』という架空の都市に登場する人物がモデル化されて描かれており、ノン・フィクションの世界を上手くフィクション化し、なかなか面白い構成になっている。いつもながら、年功序列問題の本質を素直に言及しており傾聴に値する本音論が随所にちりばめられている。

 時代の影響からか、年功序列制度の弊害を訴えている人は年々増加傾向にあるようだ。実際にその制度の中に生きている多くのサラリーマン(私も含む)にとっても決して他人事ではなく、今後の日本経済を考える上でも無視できない重要な問題でもあるため、今回は改めて年功序列問題にスポットを当てて考えてみたいと思う。

 ご存知の通り、「年功序列制度」は「年金制度」と並び「ねずみ講」と称されることがある。老年世代が若年世代から搾取するという意味では確かにその通りだと言えるかもしれない。
 「年功序列制度は ねずみ講」、これは一見誰にも覆すことのできない真実であるかに思える。しかし、中には「年功序列制度は ねずみ講ではない」という強気の異論を展開している御仁もおられる。日本経済楽観論者の1人である増田悦佐氏もその1人だ。(増田氏の著作は以前にも当ブログで紹介したことがある→該当記事
 増田氏は一風変わった鋭い正論を述べることでも有名な人物だが、年功序列制度に関しても面白い主張をされている。増田氏は著書『格差社会論はウソである』の中で以下のようなことを述べている。(注意:原文ではない)

 「かつての高度経済成長期に年功序列制度下にあった労働者達は、その当時に貰っていたはずの給料を現在貰っているだけである

 確かにこう言われてみると、その通りだと言えなくもない。かつての高度経済成長期に歩合給(能率給)として給料が支払われていれば、その当時の労働者が受け取るべき給料はもっと高くなければならなかったはずだ。歩合給にしなかった理由は後述するとして、要するにこの時代の労働者達は給料の一部を積み立てていたことになり、その差額分を現在貰っているのだと考えれば確かに合点がいくし、年功者達の言い訳としては成り立つかもしれない。
 しかし、もし増田氏のこの考えが正しいとしても、どうしても無視できない点がある。それは、「そうであるならば、現代の年功序列制度とは一体何なのか?」という疑問点だ。
 
 年功序列制度が現在も何の問題もなく機能しているのであれば、確かに増田氏の主張は全面的に正しいと言えるだろう。しかし、現代の年功序列制度は機能しているのか?と問えば、誰しもまともに機能しているとは思わないだろうし、実質は破綻していると言っても決して言い過ぎではない。(公務員の世界だけは例外だが、無理矢理維持していることに違いはない)
 “年功序列制度が機能している時代”と“年功序列制度が機能していない時代”の違いを考慮に入れた上で論じない限り、いくら論理的には正しくとも万人を納得させることはできないと思える。
 
 もし、現代の老年世代が年功序列制度を享受する権利があるとしても、その原資(過剰な高給)は過去の蓄積から支払っているわけではない。稀にそういった企業もあるかもしれないが、JALの企業年金問題を観ても、そこまで先を見据えた堅実な企業は無いと考えた方がよいかもしれない。
 老年世代が年功序列制度を享受するための蓄えが当の会社に存在していないのであれば、老年世代が年功序列制度を享受できるという保証も消えて無くなる。また、現代の若年世代が将来的に年功序列制度の恩恵にあずかれないのであれば、年功序列制度は既に破綻しているわけだから、直ぐさま別の給与体系に切り替える必要がある。しかし現実にはどうなっているかというと、破綻しかかった年功序列制度が今も維持されている。この現実を観るにつけても、年功序列制度によって若年世代が利用され犠牲になっているだろうことは否定できない。

 年功序列制度も年金制度と同じく、賦課方式(※1)であって積立方式ではない。そのことだけで、既に答えは出ていると思われる。年功序列制度が積立方式で運用されているのであれば、老年世代が年功序列制度を享受する権利があると言えるだろうが、賦課方式で運用されている場合は、必ずしも権利があるとは言えない。かつては年功序列制度も、建前上は積立制であったのかもしれないが、実質は賦課制であることに間違いはない。

(※1)必要になる財源を、そのときの現役世代が負担する仕組み
 
 さて、ここで先程の「歩合給」の話に切り替えよう。かつての高度経済成長時代にはなぜ企業は歩合給制にしなかったのか? これは様々な理由があるので一口には言えないが、1つには、“雇う側はその方が都合が良かった”という理由がある。簡単に言えば、わざわざ職能給などを考えなくても経営していけたということと、その方が(雇う側が)儲かったということである。
 当時は現代のように仕事が足りない状態ではなく、仕事が有り余っている状態で、やる気さえあれば、いくらでも仕事をすることが可能な時代だった。それこそ、1人で2人分の仕事量をこなしても、それだけの報酬(時間給)が出る時代だった。それは、現代と全く逆だと考えれば解り易いかもしれない。現代では絶対的な仕事量(パイ)が足りないので、雇う側は、固定された月給よりも、仕事をこなした分だけ支給する歩合給の方が経営リスクが低い。しかし、今まで都合よく年功序列の月給制にしていた制度を、直ぐさま歩合給制には変更できない。

 元々、歩合給制にしていれば、おそらく現代のような歪んだ年功序列問題などは起こらなかったはずで、仕事量が減少すれば、おのずと給料も減少するという世の中になっていたはずだ。(歩合給としては計算できない仕事もあるので実現するのは難しいが)
 「そんな安定性のない世の中になっては困る」と言う人がいるかもしれないが、よくよく考えれば、それが当たり前の社会なのである。仕事が増加しようが、仕事が減少しようが、給与制度は一定の法則で運用(上昇)するということ自体がそもそものの間違いなのである。その間違いが誰の目にも分かるように表面化してきたのが現代の日本の姿だ。
 元々、年功序列制度も年金制度も、数十年前からそのうち維持できなくなるだろうことは判っていたことで、そのことを隠しながら、騙し騙し過ごしているうちに、ついに21世紀を迎えてしまったというのが実際のところでもある。
 元々、“いつかは破綻することが決定していながら、ある一定期間だけは有用な制度”のことを人々はこう言うはずだ。「ねずみ講」と。年功序列制度も年金制度も例外ではない。そのどちらも見事なまでに「ねずみ講」の条件を満たしている。よって、「年功序列制度は ねずみ講」は正しい。
 
 過去の人為的判断ミスによって出来上がった現代の歪んだ日本社会では、ろくに仕事もせずに高給な人もいれば、死ぬほど仕事をしても報われない人もいる。なぜこのような歪んだ社会が出来上がったのか? それは、労働の価値や給与の増減、つまり労働市場というものを人為的に管理できると自惚れた者達が犯した失敗が原因であると言えるのかもしれない。歪んだ年功序列制度を享受している老年世代だけが悪いのではなく、歪んだ年功序列制度を創り出してしまった管理者(お役人)と、その歪んだ制度を中止することのできない窮屈な社会システムに全ての元凶があると言える。
 
にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (1)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »