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『掃除』という義務教育は必要か?

2010021301 今時の小中学校の先生には、生徒に掃除を教えることの重要性を説く人がいるらしい。なんでも、海外の義務教育過程では生徒に掃除を教えないそうで、その掃除を教える習慣の根付いた日本の学校教育は素晴らしいということらしいのだが、はたして本当にそうなのだろうか?
 
 誰しも子供が掃除している姿を見ると「躾けの行き届いた利口な子供だ」と感心することは確かだろうし、掃除を全くしない子供より真面目に掃除をする子供の方が立派だというのは理解できる。これは誰も否定はしないだろう。しかし、掃除をさせるという躾けはあくまでも個別の家庭で行うものであって、必ずしも学校で教えるものではないのではないか? 素朴にそう思えるのは私だけだろうか?

 かくゆう私も小中学生の頃は真面目に学校(教室)の掃除を行っていた記憶がある。当時は、真面目に掃除を行うことが当然だと思っていたので、何の疑問も抱かなかった。しかし、21世紀にもなって毎日、掃除を行うことが授業の一環となっていることに少し疑問を抱くようになってきた。掃除も大事かもしれないが、これから否が応にも国際社会の中で生きていかなければならない子供達にはもっと他に教えなければならないことがあるのではないか?と。掃除ができることが国際社会の中を生きていくスキルにはならないということも考える必要があるのではないか?と。身も蓋もない言い方をすれば、掃除を覚えることが学生の本分ではないのではないか?ということである。
 日本だけでしか行われていない掃除の教育とは、はたして海外から観て本当に褒められるべきことなのだろうか? もし褒められるべきことであるのならば、なぜ海外の人達は日本の学校の真似をしないのだろうか?

 海外では学校の掃除を行うのは、専ら掃除をするために雇われた清掃員だが、なぜか日本だけは生徒に掃除することを教えている。と言うより、ほとんど強制的に生徒に掃除をさせており、当の生徒もそれが当たり前だと思い込まされている。私立の小中学校ではどうなっているのかは知らないが、はたして生徒に掃除を教えるという教育は現代でも必要なのだろうか? それとも「家庭では両親が忙しいだろうから掃除の躾けは学校で行います」というような暗黙の了解でもあるのだろうか?

 昔、私が通っていた私立大学ではパートで雇われた清掃員が大勢いたことを覚えている。現在の不況下では清掃員の数も減少しているのかもしれないが、授業料を全額実費で支払っている私立学校の生徒が学校(教室)の掃除を行わなければならない明確な理由は無いはずであり、これは理屈の上でも疑いようがない。「掃除するのが嫌なら学校を辞めろ」と言われる筋合いはないだろうし、勉強を教えてもらうために授業料を支払っているのだから、掃除が授業でない限りはそんなことを言われる筋合いはない。
 こんなことを書くと、ヒステリックな方から批判されそうだが、頭を冷やして冷静に考えていただくと、一応、筋は通っていることは理解していただけると思う。毎日決まって教室を掃除する(私立の)学生というのは、よく考えるとあまりに不自然な姿であるわけだ。無論、自分が教室でゴミを出したとか汚したのであれば掃除するのは当然のことだ。しかし、家庭でも大掃除時ぐらいしか行わない雑巾掛けを毎日、教室で行わせる必要があるのか?ということだ。

 では、公立の場合はどうだろうか? 公立の場合、学費等は税金で賄われている部分があるため、余分な経費(清掃員の人件費)や税金の無駄使いを減らすために生徒に掃除をさせているというのであれば、まだ納得できる。税金で学校に通わせてもらっているのであれば、その校舎の掃除を生徒がするというのは、ある意味、自然な姿であり、当然の行いとも言える。しかし、当の先生方は、どうやらそういった理由で掃除を教えているわけではないらしい。

 先に海外では生徒に掃除を教えないと書いたが、それは“学問”と“掃除”を別のものと割り切って考えているためだ。しかし、日本の教師達は、“学問”と“掃除”を別のものとは考えずに完全にセット化して考えているフシがある。要するに、『教育』というものの中に“学問”も“掃除”も入ってしまっているわけだ。海外の人達は、人間教育の全てを学校で教えるべきだとは考えておらず、学校では“学問”を教えることに専念しており、“掃除”などは家庭で教えるものだと割り切っている。しかし、日本の教師達は、“学問”ではなく『教育』を行うのが学校の目的だと言わんばかりに、何もかもを学校で教えるものだと思い込んでいるように見える。
 
 掃除を学校で教えるべきか否かは、「国によって価値観が異なる」という理由で片付けられてしまいそうな問題でもあるが、重要な問題はここから先だ。
 その問題とは、現代の日本の教師達の中には、「掃除の躾けが行われている日本の学生は優秀であり、掃除も自分でできない人間は立派な大人にはなれない」と本気で思い込んでしまっていることだ。(ここでは敢えて述べないが、実際にそんなことを発表している教師がいる)
 あなたの子供が通っている学校に、学問よりも掃除の方が大事だと思っている教師がいればどう思うだろうか? 学習よりも躾けを優先する教師をあなたはどう思うだろうか? 中には「学校で子供に躾けを教えてくれるのであれば助かる」と言う人もいるかもしれないが、本当にそれでよいのだろうか?

 これからのビジネス社会は、残念ながら掃除ができるというような資格はほとんど何の役にも立たないと思う。お茶汲みや掃除ができるだけでOLとして雇ってくれるような夢のような会社はもう存在しない。掃除ができても仕事ができなければ、情け容赦なく社会人としては“失格”の烙印を押されてしまう厳しい社会が待ち構えているのである。掃除する人が必要なのであれば、清掃員を雇えば済むことであり、ビジネスマンが掃除を担当するわけではないということだ。掃除することが良いことであるのは間違いないが、清掃員になることが目標という人でない限り、わざわざ掃除を覚えなければならない必要性はないのである。

 こう書くと、またまた批判の声が聞こえてきそうだが、掃除の教育を行えるということは、国が豊かである証拠だ。いや、豊かであった証拠だ。では現代の日本はどうか? 今現在はまだ豊かな国であると思われるが、これから先もそうである保証はどこにもない。そういう国で大事なことは、掃除のできる人間を大量に創ることではなく、本当に優秀な人間を創り出すことであるはずだ。より具体的に言えば、世界を舞台にお金を稼ぐことのできる人間を創り出すことであるはずだ。なぜかって? それは人口が減少していく社会であるからだ。
 1人が稼ぐ金額が同一であれば、人口が減少することは=税収減となるが、巨額のお金を稼ぐことができる人間が何人もいれば、人口が減少したとしても必ずしも税収が減るわけではない。「一騎当千」という言葉もあるように、本当に有能な人間が1万人でも出てくれば、1000万人に値することも有り得るわけだ。国が学校教育に力を入れる目的が国力(=税収)を増すことであるのならば、教育の目的は横並びの平等教育を行うことではなく、況して掃除を教えることでもないはずだ。今、本当に行わなければならない教育とは、個人の才能を伸ばす教育であり、世界に通用する有能の人間を輩出することでなければならないはずだ。

 繰り返すが、掃除をするのは良いことだ。しかし、「掃除ができなければ常識人として通用しない」などという寝言を言っている時代ではないのだ。掃除が自分でできないのであれば、家政婦でも雇えばなんとかなるはずだ。つまり、家政婦を雇えるほどに有能な人間になれば、掃除ができなくても困らないということだ。掃除ができる人間ではなく、家政婦が雇える人間を創ることこそが現代の日本では必要なのである。また、そうであってこそ、税収は増加し、老人が安心して暮らせる時代を迎えることが可能となるのだ。
 今の時代、そういった人(子供)に対する投資という考え方が非常に重要だと思われるのだが、この国の学校の教師達にはそういった思考が完全に欠けているように思える。掃除することが勉強すること以上に大事だと本気で思っているような時代錯誤な教師に教えられる子供達は不幸というしかない。
 
 最後に結論を述べておこう。『掃除』という義務教育は必要か? 「現代の日本には必要だとは思えない」、少なくとも私はそう思う。
 ひょっとすると、現在、増加の一途を辿っている登校拒否児童の中には、現在の義務教育体制には未来が無いということを肌で感じ取って学校に行きたくないという児童もいるのかもしれない。小中学生の段階でそれが感じ取れるのであれば、その生徒は非常に優秀な生徒であると言えるのかもしれない。
 
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教育問題」カテゴリの記事

コメント

毎度楽しく読ませて貰ってます

う~ん、今回の掃除の件は正直意見が異なります。
当方、子供をインターナショナルスクールに行かせているのですが、そこではやはり掃除はなく、業者さんが入って行っておりますが。。。
不満です。

小学生、幼稚園児には自分の教室や学校くらい掃除させんかい!っと9割くらいの父兄が思っておりやす。

精神論がほとんどですが。。。

理論立てた意見じゃなくすいません。

投稿: 毎度楽しく読ませてもらってます | 2010年2月15日 (月) 01時21分

私もいつも楽しく読ましていただいてます。
かなり勉強になります。
私も今回は少し違う意見ですね。
学校の掃除(教育)とは掃除を教えるだけでしょうか?他人と協力すること、物を使いやすいように整理すること、決められた約束事としてきちんと行動すること等、大人になっても必要なことを多く学べるのではないかと思います。

結果的に何をお伝えしたいのか、曖昧なままでした。申し訳ありません。

投稿: ありがとうございます。 | 2010年2月15日 (月) 20時27分

コメント、有り難うございます。

>小学生、幼稚園児には自分の教室や学校くらい掃除させんかい!っと9割くらいの父兄が思っておりやす。

 なるほど、実際に子供を私立スクールに通わせておられる人から観れば、“掃除”というものが無いことに不満を感じている人が多いということですか。それは意外でした。
 掃除というものをまだあまり知らないような幼稚園児や小学校低学年であれば、家庭の延長として掃除をさせることに異論はありません。 


>学校の掃除(教育)とは掃除を教えるだけでしょうか?他人と協力すること、物を使いやすいように整理すること、決められた約束事としてきちんと行動すること等、大人になっても必要なことを多く学べるのではないかと思います。

 掃除というものを通して、社会人としての礼儀作法や常識マナーを間接的に身に付けさせることが目的になっているのであれば、確かにその通りかもしれません。
 ただ、幼少時に毎日掃除教育を受けたとしても、その人物が将来的に掃除をまめに行う人物になるかどうかは千差万別です。私の知人もきちんと掃除教育(?)を受けているはずですが、部屋の中はゴミだらけで1年中掃除しないという人がいます。そういった人は、誰か(先生)が「掃除しなさい」と言わなければ(または言っても)やらないわけです。これは勉強と同じことですが、その人物が綺麗好きであれば誰が教えなくても自分から掃除を覚えるでしょうし、本来、掃除というものも勉強と同様、自分の意志で率先して行うものなのではないだろうか?という素朴な疑問が今回の記事を書く出発点になっています。もちろん、先程述べたようなズボラな人がいるために掃除の学習も必要になってくるのだと思いますが。

投稿: 管理人 | 2010年2月15日 (月) 23時21分

スノーボード日本代表・国母選手の高校時代の写真が流 出したが、謝罪会見で見た国母選手とはあまりにもかけ離れた「地味さ」に驚きの声が噴出している。。

そして今、この写真よりも更に衝撃の全 裸動画が話題に・・・

http://kkbkzhr.blogspot.com/

投稿: スノボ男子五輪代表の国母選手が素っ 裸な件 | 2010年2月18日 (木) 17時37分

こんにちは。
通りすがりの者で申し訳ありません。
私は学校で掃除することは賛成です。
日本しかやってない事がおかしいのではなく、日本でしか行われていない素晴らしいことだと思います。

私も学生時代は学校で掃除をしていました。
はっきり言って当時は嫌いでした。
現在、自分の部屋は汚いです。
「片づけ」はそこそこしますが「掃除」が苦手です。
しかし掃除をした経験はあるので空間を汚すことがどういうことかは知っています。

綺麗にすることは大変なことだとわかっている。
掃除をしてくれた人に感謝することができる。
最低限綺麗に使おうと思う気持ちがある。
その気持ちを全国民が共通意識として持っている。
私はとても素晴らしいことだと思います。

投稿: | 2011年2月12日 (土) 17時22分

掃除は必要無い??家政婦や清掃員を雇えば問題無い??将来お金持ちになって掃除をしなくていい人生を送ろう??あんたはただ掃除が嫌いなだけだろうが。最低な考え方だと思いまーす。

投稿: | 2011年4月17日 (日) 17時20分

ちょうど掃除のことについて調べていた時にヒットしたので楽しく読ませていただきました。

しかし、学校で掃除をすることの本当の意味は違うところにあるのではないかと私は思います。

学校で掃除に取り組む目的は、掃除の仕方を覚えるとか、自分達の場所をきれいにすると言うような物ではないはずです。

上記の目的でやっているのであれば、確かにやる必要はないし、他のことにエネルギーを注ぐべきです。

本当の目的は「汚れていることに気づく人」、「自分の周りの変化に気づく人」に育てるための訓練だと考えます。

日本の丁稚制度を始め、お寺での修行などまずは掃除というのが日本の教育だったはずです。

いろいろと教える前に、教わる側の人間の器(受け皿)を作っていたのではないでしょうか。

私自身も掃除はすごく嫌いですが、自分自身を高める訓練と考えると嫌いな掃除も苦ではなくなります。

訓練ですから、日々継続すると言うことはとても大切ですよね。
そういう意味でも、人が生活している限り毎日汚れは出ますので掃除というものはもっとも適した教育方法の一つだと思うんですが。

どうでしょうか。

投稿: 本当はそうじ嫌い | 2011年5月25日 (水) 17時18分

本当はそうじ嫌い様

コメント、有り難うございます。

 要するに、掃除は儒教の一環ということでですね。お寺や道場などで掃除を行わせるのは修行(精神修養)のためというのは、まさしくその通りだと思います。ただ、現代の学校は板の間で裸足で生活しているわけでもなければ、畳の上で座禅しているわけでもありませんので、毎日、雑巾がけをするという行為自体が物理的に必要ではなくなっています。だから、掃除は修行のための方便として存在しているということなんでしょうけれど、学校の先生方は果たしてそう思っているのかは疑わしいところです。
 付け加えると、掃除を学校教育に組み込んでいるということは、結局、“性悪説”が基になっているということです。上から指示せずに放っておくと遊ぶだけで掃除しなくなるのではないか?という考えがその基にあるように思います。

 当記事は思っていた以上に反響があったらしく、ヤフー知恵袋にも掲載されているようです。そこでは、私のことを「掃除嫌い」だと決め付けている人もいますが、私は掃除嫌いではありません。念のため。

投稿: 管理人 | 2011年5月25日 (水) 23時05分

えっ? 大掃除の時しか雑巾使わないんですか? 普通の家では毎日使いますよ。

投稿: ちっち | 2011年8月20日 (土) 15時26分

ちょっと必要があって「学校教育と掃除」について調べていて、ここにたどり着きました。
ご説はいちおう筋が通っていると思いますが、ちょっと日本という国の条件を無視しすぎているような気がします。
たとえば――
昨年の東日本大震災のあと、被災地の秩序正しさについて、諸外国から関心が集まりました。「暴動が起こらない」「略奪がない」「配給物にはきちんと並ぶ」‥‥。その中に「避難所が清潔」「避難している人たち自らが、自主的に清掃している」というのもありました。
そのおかげで、大災害後には多く見られる伝染病の流行なども最小限に抑えられたのだと思います。
日本という災害リスクの多い国土に生きている以上、「集団で共同体の環境をきれいにする」という訓練は、やはり学ばなければいけないことのひとつなのではないでしょうか?
そのあたりは、グローバルスタンダードにはなりようもないし、してはいけないことだと思います。

投稿: | 2012年12月26日 (水) 16時39分

 こんにちは。
通りすがりの現役教員の者です。ブログ楽しく読ませていただきました。大変勉強になりました。ありがとうございます。以下では、現場の者としての視点からいくつか申し上げさせていただきます。

 確かに、著者様のおっしゃる通りだと思います。学校現場にいる者として感じているのは、「学校」とは子供のどこまでに踏み込む機関なのか、よく分からなくなる時があります。学習面に限るのか、それとも生活面へ踏み込むのか、踏み込むとしたらその限界はどこまでなのか、子供個人の内面までか、友人関係か、家庭関係、地域関係までなのか。

 日本の学校教育についてよく聞くことに「学習指導」と「生活指導」の両立という言葉があります。もちろん学校とは学問を教える機関であることが第一の建前でありますから学習に関することを疎かにするわけにはいきません。それを軽視して生活指導に特化しはじめれば、それは家庭の延長と変わりなくなります。学校が学校ではなくなります。「学習指導が第一」であることに全くの異論はありません。

 しかし、その学習指導の効率を上げるために、「清掃活動は大変有効に機能している」と申し上げさせていただきます。

 現在の日本の公立学校では、30人前後の学級単位で学習指導が行われています。そして、その中で行われる学習効果を高めるためにまず必要なのは「人間関係の構築」と「環境整備」です。子供たちの良好な人間関係が構築され、かつ教室が綺麗な学級ほど、子供たちは前向きに学習に取り組みます。これは経験則ですが、多くの方にご賛同いただけるのではないでしょうか。

 その2つを一気に達成できる活動として「清掃」があるのではないかと、私は考えております。

 「人間関係の構築」方法としては、とにかくチームに分けて共同で何かを達成させることが一番であると思います。人と協力して何かを達成した時の充実感、それを毎日簡単に味わうことのできる活動の一つとして「清掃」があるのではないでしょうか。もちろんスポーツでも頭を使うゲームでも効果は同じですが、毎日継続して取り組めるという利点が清掃活動にはあるのではないでしょうか。もう1点の「環境整備」に対する説明は不要だと思います。

 「清掃」という共同活動を毎日継続的に続けることで、人間関係が構築されます。その中で著者様がおっしゃる「個性」も見つかるのではないでしょうか。人間の「個性」とは、特定の集団の中での個人の振る舞い方であると私は思っています。そこには個々人の知識や経験が入っていくことは当然ですが、ただ一人で学んだだけで身に付くものでは無いと考えます。他者との関わりの中で自分を発見していく過程で見えてくるものであると思います。

 「人間が掃除をする」ことには、物理的な意味や精神的な意味など、さまざまなものがあると思います。その意味も含めた上で、さらに「教育現場で掃除をさせる」ことには、以上の申し上げた側面も考慮してお考えいただければ幸いと思います。

 思い付いた事を書き散らしてしましました。お読み頂きありがとうございます。

 

投稿: | 2014年3月15日 (土) 11時23分

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