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2010年5月

先祖返りするライターの悲劇

2010052601 先日、100円ライターの製造・販売禁止(規制強化)のニュースが流れていた。一体どういう理由でそんな規制が出たのか疑問に思ったが、その理由というのが、子供のイタズラ(?)を防止するためであるらしいことが書かれていた。私は知らなかったのだが、どうやら最近、子供によるライターの出火事故が増加しているのだそうだ。それで、ライターを子供には安易に着火できないような複雑な仕組みに変えなければならないということであるらしい。
 このニュースを聞いて素直に納得した人がどれだけいるのかは知らないが、私には納得できなかった。
 一応お断りしておくと、私はタバコを吸わないのでライターを持ち歩くことはなく、利用することもほとんどない。ゆえに、100円ライターの使用法が変わろうと値段が上がろうと個人的には全く差し支えない。しかし、この規制は毎度のことながら行き過ぎではないかと思われる。
 
 昔の火打石ライターやオイル式ライターは、非常に使いにくいものであったらしい。しかし現在では大人から子供まで簡単にライターが使用できるようになった。それは本来であれば喜ぶべきことであるはずだが、今回の規制は見方を変えれば、“ライターが便利になったことがいけない”というような意味合いになってしまう。子供まで簡単に火が付けられるライターは危険だということなのだろうが、少し視点がズレているように感じられるのは私だけではないだろう。

 「子供によるライターの火遊びが多いので、ライターの使用方法を難しくしてください」というような苦情が書かれた封書が消費者庁に舞い込んだのかどうかは知らないが、仮にそのような苦情が有ったとしても、なぜ多くの国民の賛同を得ることもなしに、勝手に規制が発令されてしまうのだろうか? おそらく、『ライター規制をするべきか?』というようなアンケートを実施すれば、9割以上の人は「必要ない」と答えるはずだ。消費者の意向に添った規制を行うのが消費者庁(今回の場合は経済産業省)の役目であり、それが本来の姿であるはずだ。それができないのであれば、一体誰のためのお役所なのか分からない。
 
 ライターの使用方法を難しくするということは、ライターの製造行程が増えるということであり、100円ライターは値上がりすることになるかもしれない。ライターが使い易くなって値段が上がるというならともかく、使いにくくなって値段が上がるのでは完全に市場法則を無視しており、時代に逆行しているとしか思えない。デフレ時代にあって100円ショップでは数本100円でライターが販売されているが、こういった安価なライターは店頭から姿を消し、代わりに値上がりした不便なライターが店頭に並ぶことになる。果たしてそれで消費者が喜ぶのだろうか?
  
 携帯電話を例にあげると、「ポケットやバッグに入れていて、勝手にボタンが押下されて通話状態になって困る」というような苦情なら考えられる。それと同じように、あまりにも簡単に着火されるライターであれば、「ポケットに入れていても、バッグに入れていても勝手に着火される場合があるので危険だ」というのであれば理解できる。そういう真っ当な苦情であれば聞く耳を持つべきだろう。しかし今回のライター規制の場合は少し違っている。何が違うのかというと、“偶発的事故”と“人為的事故”の違いだ。前者の場合の事故原因は“モノ”だが、後者の場合は“ヒト”である。今回の規制の場合、出火事故が発生するのは、“子供がライターを手にする環境があるから”ではなく“子供がライターを使用するから”=“ライターが有るから”という理屈になってしまっている。要するに、後者の“人為的事故”になってしまっているわけだ。
 しかし悪いのは、小さな子供がいる家庭で子供がライターを簡単に手にすることができる環境(つまり親の危険物管理)であって、便利なライターが存在することではないはずだ。

 以前のこんにゃくゼリー事故の時も同じようなことを書いた記憶があるが、ライターを悪者にしても火災事故問題が万事解決するわけではない。仮にライターが不便になったとしても、物理的な力で火が付くのであれば、完全に安全なライターになるわけでもない。それに火を付ける道具はライター以外にマッチなどもある。そのマッチで火災事故が増加した場合は、一体どうするつもりなのだろうか? まさか、「火が付きにくいマッチを製造するように」とでも言うつもりだろうか? これでは、ただの笑い話である。結局、そんな小手先の対症療法ではほとんど何の解決にもならないということだ。
 元々、ライターというもの自体が“火を付ける”という目的を持った危険物であるのだから、リスクをゼロにしようなどと考えること自体が無意味であり馬鹿げているとも言える。危険物であるということを認識した上での防止策を講じるのが常識(良識)ある大人の対応というものだろう。
 規制が大好きなお役人も、まともな思考ができる常識人であるのなら、モノばかりを悪者にするのではなく、子供の躾けや教育、または親の育児責任や危険物管理責任という根本的な原因自体を改善するという方向に舵取りしてもらいたいものだ。それができずに、どうしてもライターの安全規制を行うというのであれば、せめて“人為的事故”の防止ではなく“偶発的事故”の防止という名目に変更することをオススメする。
 
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「日本的経営」という「時代の徒花」

2010051701 日本には、様々な給料制度が存在している。代表的なものに、時間給制度、日給制度、月給制度、年俸給制度、そして、これら時間で計る給料制度以外にも年齢給制度や能率給制度などがある。
 これまでの日本企業では広く一般的に、月給制度に年齢給制度を加えた年功序列制度が採用されてきた。ベースとなる学歴と年齢を基準として、入社から退社するまでの間、給料が年齢とともに年々上がり続けるという、およそ諸外国の常識では考えられない制度がほとんど誰にも疑われることなく罷り通ってきた。年々、年をとる(勤続年数を重ねる)毎に無条件で基本給が上がり、その上昇率は仕事の業績よりも学歴によって予め決定されている。社会に出てからの個人の仕事成績とはほとんど関係のない条件(学歴と年齢という条件)を満たすことだけで将来の給料額がほぼ決まってしまうという、ある意味、異常な社会だった。

 しかし、現代のように国境や思想の分断が事実上無くなり経済がグローバルしてしまうと、既に物価や人件費が他国よりも高くなってしまった日本のような先進国は国際競争の波に晒され、これまでのように高い利益率を維持することが難しくなってきた。そのため、これまで多くの日本企業が採用してきた異常な給料制度(年功序列制度)を維持することが不可能になってしまった。日本の場合、国際的な競争だけでなく、人口が年々減少するというダブルパンチに襲われ、加えて、政府の過剰なまでの規制や悪平等教育が邪魔をして、新たな産業すら生まれないというトリプルパンチを喰らったような状況だ。
 そんな状態(ノックダウン状態)でありながら、異常な給料制度をまだ続けていこうと足掻いているのが多くの日本企業(主に大企業と公務員)の姿である。

 生まれてから18歳になるまでの暗記教育によって大学受験にパスすることだけで、その後の人生が半ば決まってしまうというのは、どう考えてもおかしい。大学に入学するまでの学習期間よりも、大学を卒業して社会に出てからの学習期間(労働期間)の方がはるかに長いわけだから、そちらに評価ウエイトを徐々に移行していくというのが本来のあるべき姿であるはずだ。大体、勉強ができるからといって仕事ができるとは限らない。ある程度の知性を備えた人物の方が仕事ができる傾向にあるのは事実だろうが、従事する仕事によっては必ずしもそうとは言い切れない。
 学歴はあくまでも、ある企業に(新卒で)入社する時にのみ役に立つパスポート(採用する側が参考にする証明書)であり、決して企業を退職するまで通用する無期限パスポートではない。それが当たり前の考えではないだろうか?
 
 仕事の能率は年齢とともに上がっていくか?というと、ある時点までは確かに上がる。新卒で右も左も解らない入社したての人間よりも、実際に数年間でも仕事を行ってきた人間の方が仕事能率が高いことに疑いを入れる余地はない。しかし、その能率はどこまで上がるかというと、職種によっても異なるが、「退職するまで上がり続ける」ということだけはまず有り得ない。つまり、年齢給というものは、ある時点で天井を打って、その後は下がらなければいけないということである。もちろん、仕事には能率だけでなく、責任というものも付いてまわる。年齢とともに仕事の能率が上がらなくても、仕事の責任だけは重くなるという場合は有り得る。その責任の重さに応じて給料が上がるという場合は有り得るだろう。しかし、その場合も、必ずしも年齢は関係がない。若手社員であっても過剰な責任を背負って仕事を行っている場合もあるし、逆に大した責任を背負っていないベテラン社員だって存在している。
 
 かつての日本企業では“仕事ができる”ことよりも“世渡りが上手い”というような、どうでもいいような才能が重宝された時期がある。それは、高度な責任ある仕事が行えるようになることよりも、上司にゴマをすって出世するという処世術に長けた人間が偉くなるという、まるでゲームのような社会だった。
 しかし、熾烈な国際競争の中で鎬(しのぎ)を削っている現代の日本企業には、もはや、そんな“サラリーマンごっこ”を行っている余裕はない。社員の給料の原資となる企業の利益をゲーム感覚で分配できるようなお遊びはできなくなったということである。経済が無限に拡大し、同時に人口も右肩上がりに増え続けるという夢のような経済環境を維持できない限り、“サラリーマンごっこ”はゲームオーバーに成らざるを得ない。
 
 学歴という条件を満たした人間がいつまでも永遠の勝利者の如く振る舞えるという日本限定の人生ゲームは、もはや需要がなくなり誰もプレイできなくなってきた。しかし、未だにこのゲームを絶賛し、なおも「日本になくてはならない金字塔ゲームだ」と吹聴しているオメデタイ評論家も跋扈している。まるで日本という国自体を低迷・破壊することを目的とする狡猾な悪魔の如く、彼らは、あなたの耳元でこう囁く、「日本的経営(年功序列と終身雇用)は素晴らしい」と。その古ぼけた甘い言葉が、もしかすると悪魔の囁きではないか?という疑問を持つことが現代の日本では必要なのかもしれない。

 年功序列や終身雇用は「日本的経営」などではなく、運良く、日本という国に一時的に咲いた「時代の徒花」でしかなかったということを知らなければならない。それは日本だけにしか咲かない花ではなく、時代的環境が用意されれば、どこの国でも咲く可能性のある寿命を持った(いずれ枯れゆく)花でしかなかったのである。かつて日本にもそんな花が咲いた時期があったということを懐かしがるのは結構だが、いつまでも永遠に咲き誇るなどという誤った情報を垂れ流して人々をミスリードするべきではないのだ。永遠に続くバブルが無いのと同様に、永遠に咲き誇る花も無い。残念ながら、それが「日本的経営」の真実である。

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“浦島太郎状態”に陥った理容業界

2010050901 先日、多忙の中、仕事帰りに散髪屋に立ち寄った。夕方だったので誰も客がいなかったため、入店後すぐに座席に案内されたが、あまり時間もなかったので、店主にこう伝えた。「今日はシャンプーは抜きでいいです」と。
 私が利用している理容店は、通常料金が3600円であることは以前にもブログに書いたと思うが、シャンプー抜きの場合は3300円になる。しかし、この日はなぜか3600円のままだった。シャンプーをしてもしなくても料金は変わらないというのはおかしな話だが、これには理由があった。例の全理連絡みの規制強化(洗髪台の無い理容店は今後、出店も営業もできなくなるという規制)のせいか、洗髪台のある理容店では必ずシャンプーをしなければならないということになってしまったらしい。つまり、シャンプー抜きの料金というのが無くなってしまったというわけだ。
 
 よく考えるとこれはおかしくないだろうか? 元々、新興の理容店に比べて料金が高過ぎるのが既存の理容店から客が離れている理由であるのだから、本来であれば、シャンプーしてもしなくても3300円にするという妥協案が出てもおかしくないところだが、逆に料金が上がってしまっている。はたして、サービスを省いて料金が上がってしまうような業界が今時、他にあるのだろうか?
 
 例えば、ガソリンスタンドでも窓拭きゴミ捨てを行っているスタンドは、セルフやセミセルフ(ガソリン入れのみ)のスタンドよりも少し料金が割高だ。しかし、自分でガソリン入れや窓拭き等をするのが面倒という理由のために、少し割高でもそのスタンドを利用しているドライバーも多いはずだ。これが、窓拭きもゴミ捨ても無くなり料金はそのままだということであれば、そのスタンドを利用するドライバーはそのうち誰もいなくなるだろう。それが、本来の市場メカニズムである。または消費者の心理メカニズムと言ってもよい。この当たり前のメカニズムが規制で護られた理容業界には通用しないらしい。
 確かに理容料金1000円というのは人件費的に考えても少し下げ過ぎではないかと思えるし、牛丼チェーン店にしても、牛丼1杯300円以下という安値競争は少し行き過ぎの感もある。2年程前に『牛丼一杯の儲けは9円』という新書があったが、その本では牛丼1杯350円の場合の儲けは9円と書かれていた。現在は原材料費を大幅にコストダウンしたのだろうが、こんな値段のみで商売を行うような価格破壊業者が次から次に出てくると、最終的に生き残った業者以外は、自分で自分の首を絞める結果になってしまいかねない。そういう意味では少しは規制なども必要と思えることもあるが、その規制も行き過ぎると、逆に消費者迷惑になってしまう。
 
 洗髪台のある理容店は、洗髪台の無い理容店よりも清潔なイメージがする。これはその通りであるが、その付加価値を世に問うた場合、その付加価値に対して消費者はどれだけの料金を支払おうと思うだろうか? そこで付いた料金こそが本来の市場メカニズム価格である。その料金は常識的に考えると、せいぜい500円〜1000円程度のものだろう。しかし現状では3600円−1000円=2600円となっている。シャンプーする設備とシャンプーするサービスだけで2600円というのはどう考えても高過ぎると思う(髭剃りやマッサージを入れてもまだ高い)。それが既存の理容店から客が逃げ出している根本的な理由だろう。
 そもそも、シャンプーするしないを決めるのはお客の方だ。たとえ切った髪の毛の払い残しがあって不潔だということでも、それの善し悪しを決めるのは、あくまでも消費者であって、理容店でも全理連でもないのである。
 シャンプーせずとも1000円なら文句はないというのが消費者心理であって、その違いだけで3600円は高過ぎるのではないか?というのが消費者の本音なのだ。それを、シャンプーせずとも3600円にするというのだから、これはもう無茶苦茶であり、完全に消費者を無視している。こんな過保護で独善的な業界が未だに存在していること自体が奇跡に近いと思える。
 
 要は、このデフレ時代に、バブル期以前の料金をそのまま維持していることが異常なのである。本来であれば、世間一般の懐(ふところ)事情というものを考慮して、その時代にあった料金というものを模索し決定するのが全理連の仕事だろう。そういった当たり前の仕事を公務員の如く行ってこなかったために、3600円という暴利を貪る業界に新興企業が入ってきたわけだ。そして気が付けば、市場メカニズムよりも3倍以上もの高料金になっていたというのが規制で護られた理容業界が直面した事件、言わば、青天の霹靂だったのである。
 それはまさに龍宮伝説にある浦島太郎物語のようなものであり、竜宮城で我が世の春を謳歌した浦島太郎が現実に戻り玉手箱を開けてしまった時には、既に700年が経過していたという話と同じようなものだ。現実では僅か20年の間に、理容料金が3600円から1000円に下がってしまっていたのである。規制で護られた業界というものは、ある意味、竜宮城で暢気に生活していたようなものなのだ。
 
 現代の浦島太郎状態に陥った業界は、理容業界だけでなく、規制で保護された全ての業界に当て嵌まる。その中には無論、多くの公務員も含まれる。国が大赤字であろうが、身内が不祥事を起こそうが、自分達だけはいつまでも高給取りでい続けていられるのも規制のおかげである。
 この国には、“規制なしでは生きていくことができない人々”と“規制を取っ払えば幸せになれる人々”が混然一体となって暮らしている。そしてその綱引きは、いつも前者が勝利者となる。なぜか? それはこの国が未だに官僚主導の計画経済体制を維持し続けているからである。早い話、前者が勝つということが予め決定(計画)されており、綱引き自体が茶番となっているわけだ。
 「官から民へ」という言葉自体も実に虚しい響きだ。官から民になったところで、民の愚かさを官が利用するだけのことである。官僚政治と衆愚政治は表裏一体であり、どちらも社会を良くすることはできない。この国に本当に必要なものは、官でも民でもなく、官民双方の上位に立つ善なる存在、あるいは法、規範という概念である。
 
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新『メーデー』のススメ

2010050301 今年のゴールデンウィークも例年通り、メーデーが開催された。私は労働組合とはご縁がないのでメーデーなどというものに参加したことはないが、もしご縁があったとしても、そんなお祭り(?)には参加しようなどとは思わないと思う。その理由は「偽善者にはなりたくないから」の一言に尽きる。
 
 昨年のメーデーでも、非正規労働者や派遣労働者についての問題が取り沙汰されたそうだが、よくよく考えると、いや、考えるまでもなく、こんなのは偽善でしかない。
 もともと労働組合というものは日本の全労働者を対象にした組織ではなく、大会社中心の正規社員を対象とした既得権益護持組織である。労働組合というものは基本的に正社員の給料をベースアップすることが目的の組織であり、残念ながら非正規労働者を護るような組織ではないのである。
 昨年、派遣切りされた派遣労働者が労働組合に対して労働条件の改善を訴えているようなシーンをテレビで観たことがあるが、こんなのはお門違いもいいところであり、全く無意味なわけだ。
 労働組合と非正規労働者というものは決して手を取り合うべき存在ではなく、本来であれば対立するべき存在である。こんなことは考える必要もない常識だと思われるのだが、どういうわけかこの国の多くの労働者にはそれが解らないらしい。

 メーデーというものが、労働組合が主体というわけではなく、本当に全労働者の祭典だということであれば、正社員と非正規労働者が混在していることも頷けなくもない。しかし、今年のメーデーでも、その両者が口を揃えて訴えていることは「賃金をアップしろ」ということであり、賃金が上がらない理由は「一握りの大企業が内部留保を増やし続け、労働者に還元しない」ことであるらしい。
 この両者が同じ理由によって賃金アップを訴えているのであれば、それは大いなる矛盾を抱えていると言わざるを得ない。
 
 大企業の内部留保論(=大企業悪玉論)というものは今に始まったことではないが、今となっては“労働者の訴え”と言うよりも“共産主義者の演説”のように聞こえてしまう。
 本当に過剰な内部留保を行い、労働者に正当な報酬を還元しない悪徳企業もあるとは思うが、多くの企業はそんな理由で給料を上げれないわけではないだろう。バブルの絶頂期であれば、「もっと給料を上げろ」と言う台詞に違和感は無かったかもしれないが、現代のような経済環境下において「もっと給料を上げろ」と言っても、なんの説得力も感じられない。今の時代で給料を上げるためには今まで以上に仕事を多く行うことが必要であり、同時に仕事の質も上げなければならない。いや、実際に多くの労働者は仕事の質も量も上げてはいるが、それでも給料は上がらない。むしろ、下がっている人の方が多いかもしれない。それは、世界経済における日本の立場的な問題が表面化した姿であり、努力したとて報われる保証は無いという厳しい労働環境が現れたということの証明でもある。
 
 そんな日本経済の優位性が損なわれた厳しい時代にあって、ほとんどなんの努力もせずに「給料を上げろ」と叫んでも虚しいだけである。そんなことを叫ぶためにメーデーなどというお祭りに参加している暇があれば、仕事の能率を上げることでも考えた方がまだましというものだ。繰り返すが、仕事の能率を上げたところで給料が上がる保証はない。それは、企業が給料を出し惜しみしているせいではなくて、世界経済における日本企業の生産性が落ちているせいだ。現代の日本は世界一物価が高く、世界一税金(間接的な税金を含む)が高いと言われている国である。如何に高い技術力を有する国とはいえ、そんな悪条件を抱えた国が成長著しい世界の新興企業とどこまでまともに競争していけるかは不明であり、現にその優位性を失いつつある日本経済の問題点が目の前に突き付けられているということである。その本質を理解せずして、「大企業は悪」などという世迷い言をいつまでも叫んでいても無駄というものだ。そのことをまず理解しない限り、労働条件改善の出発点に立つこともできないだろう。
 結局のところ、自分自身が置かれた立場を理解せずして、社会を改善することなどはできないということである。
 
 メーデーに参加すれば給料が上がるなどという夢のような時代はもはや終わった。これからは、メーデーに参加している無駄な時間を日本経済の生産性を考える日にでもした方がよいのではないかと思う。つまり、メーデーというものを“労働者が叫ぶ日”ではなく、“労働者が思考する日”に変える必要があるということである。
 もっとも、建前しか報じないテレビのニュースや新聞の記事を基にして思考しても全く無意味だ。日本の労働における本音論を基に思考しない限り、何の解決にもならない。そのためには、5月1日を『読書の日』という祝日にでもした方が良いかもしれない。
 
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