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「日本的経営」という「時代の徒花」

2010051701 日本には、様々な給料制度が存在している。代表的なものに、時間給制度、日給制度、月給制度、年俸給制度、そして、これら時間で計る給料制度以外にも年齢給制度や能率給制度などがある。
 これまでの日本企業では広く一般的に、月給制度に年齢給制度を加えた年功序列制度が採用されてきた。ベースとなる学歴と年齢を基準として、入社から退社するまでの間、給料が年齢とともに年々上がり続けるという、およそ諸外国の常識では考えられない制度がほとんど誰にも疑われることなく罷り通ってきた。年々、年をとる(勤続年数を重ねる)毎に無条件で基本給が上がり、その上昇率は仕事の業績よりも学歴によって予め決定されている。社会に出てからの個人の仕事成績とはほとんど関係のない条件(学歴と年齢という条件)を満たすことだけで将来の給料額がほぼ決まってしまうという、ある意味、異常な社会だった。

 しかし、現代のように国境や思想の分断が事実上無くなり経済がグローバルしてしまうと、既に物価や人件費が他国よりも高くなってしまった日本のような先進国は国際競争の波に晒され、これまでのように高い利益率を維持することが難しくなってきた。そのため、これまで多くの日本企業が採用してきた異常な給料制度(年功序列制度)を維持することが不可能になってしまった。日本の場合、国際的な競争だけでなく、人口が年々減少するというダブルパンチに襲われ、加えて、政府の過剰なまでの規制や悪平等教育が邪魔をして、新たな産業すら生まれないというトリプルパンチを喰らったような状況だ。
 そんな状態(ノックダウン状態)でありながら、異常な給料制度をまだ続けていこうと足掻いているのが多くの日本企業(主に大企業と公務員)の姿である。

 生まれてから18歳になるまでの暗記教育によって大学受験にパスすることだけで、その後の人生が半ば決まってしまうというのは、どう考えてもおかしい。大学に入学するまでの学習期間よりも、大学を卒業して社会に出てからの学習期間(労働期間)の方がはるかに長いわけだから、そちらに評価ウエイトを徐々に移行していくというのが本来のあるべき姿であるはずだ。大体、勉強ができるからといって仕事ができるとは限らない。ある程度の知性を備えた人物の方が仕事ができる傾向にあるのは事実だろうが、従事する仕事によっては必ずしもそうとは言い切れない。
 学歴はあくまでも、ある企業に(新卒で)入社する時にのみ役に立つパスポート(採用する側が参考にする証明書)であり、決して企業を退職するまで通用する無期限パスポートではない。それが当たり前の考えではないだろうか?
 
 仕事の能率は年齢とともに上がっていくか?というと、ある時点までは確かに上がる。新卒で右も左も解らない入社したての人間よりも、実際に数年間でも仕事を行ってきた人間の方が仕事能率が高いことに疑いを入れる余地はない。しかし、その能率はどこまで上がるかというと、職種によっても異なるが、「退職するまで上がり続ける」ということだけはまず有り得ない。つまり、年齢給というものは、ある時点で天井を打って、その後は下がらなければいけないということである。もちろん、仕事には能率だけでなく、責任というものも付いてまわる。年齢とともに仕事の能率が上がらなくても、仕事の責任だけは重くなるという場合は有り得る。その責任の重さに応じて給料が上がるという場合は有り得るだろう。しかし、その場合も、必ずしも年齢は関係がない。若手社員であっても過剰な責任を背負って仕事を行っている場合もあるし、逆に大した責任を背負っていないベテラン社員だって存在している。
 
 かつての日本企業では“仕事ができる”ことよりも“世渡りが上手い”というような、どうでもいいような才能が重宝された時期がある。それは、高度な責任ある仕事が行えるようになることよりも、上司にゴマをすって出世するという処世術に長けた人間が偉くなるという、まるでゲームのような社会だった。
 しかし、熾烈な国際競争の中で鎬(しのぎ)を削っている現代の日本企業には、もはや、そんな“サラリーマンごっこ”を行っている余裕はない。社員の給料の原資となる企業の利益をゲーム感覚で分配できるようなお遊びはできなくなったということである。経済が無限に拡大し、同時に人口も右肩上がりに増え続けるという夢のような経済環境を維持できない限り、“サラリーマンごっこ”はゲームオーバーに成らざるを得ない。
 
 学歴という条件を満たした人間がいつまでも永遠の勝利者の如く振る舞えるという日本限定の人生ゲームは、もはや需要がなくなり誰もプレイできなくなってきた。しかし、未だにこのゲームを絶賛し、なおも「日本になくてはならない金字塔ゲームだ」と吹聴しているオメデタイ評論家も跋扈している。まるで日本という国自体を低迷・破壊することを目的とする狡猾な悪魔の如く、彼らは、あなたの耳元でこう囁く、「日本的経営(年功序列と終身雇用)は素晴らしい」と。その古ぼけた甘い言葉が、もしかすると悪魔の囁きではないか?という疑問を持つことが現代の日本では必要なのかもしれない。

 年功序列や終身雇用は「日本的経営」などではなく、運良く、日本という国に一時的に咲いた「時代の徒花」でしかなかったということを知らなければならない。それは日本だけにしか咲かない花ではなく、時代的環境が用意されれば、どこの国でも咲く可能性のある寿命を持った(いずれ枯れゆく)花でしかなかったのである。かつて日本にもそんな花が咲いた時期があったということを懐かしがるのは結構だが、いつまでも永遠に咲き誇るなどという誤った情報を垂れ流して人々をミスリードするべきではないのだ。永遠に続くバブルが無いのと同様に、永遠に咲き誇る花も無い。残念ながら、それが「日本的経営」の真実である。

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