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2010年6月

消費税増税の是非(税金を上げる or 税収を上げる)

2010062901 発足後1ヶ月を待たずして、民主党の菅内閣支持率が急落したらしい。マスコミの報道では、消費税を10%に上げるというマニフェスト(?)が悪影響したと伝えられている。
 今現在、多くの識者達は消費税を上げることには(しぶしぶ)賛成しているが、一般国民からは消費税増税には「ノー」を突き付けられた格好だ。

 かくゆう私は消費税増税に賛成か?というと、実は賛成ではない。これも一部の識者が言っていることだが、消費税を上げるには条件がある。まず第1に、消費税を上げる代わりにその他の税金を下げること。民主党も法人税は下げると言ってはいるが、残りの所得税、相続税なども大幅に下げると言わない限り、素直に賛成するわけにはいかない。それともう1つは、増税する前に税金の無駄遣いをまず無くすことだ。
 こう言うと、「民主党は事業仕分けで税金の無駄を削減しているのでは?」と思う人がいるかもしれないが、あの程度の削減では、焼け石に水であり、ほとんど何の経済効果もないと言える。(景気対策として見れば、むしろ逆効果かもしれない)
 民主党の事業仕分けを喩えて言うなら、沈みゆくタイタニック号の甲板でバケツで水を汲み出しているようなものだと言えるかもしれない。なるほど、確かにその光景を端から観れば無駄を除いているように見えるのかもしれないが、それは近視眼的な視点で観た光景であって、決してマクロ的な視点から観た光景ではない。具体的に言えば、タイタニック号の乗船客の視点と、タイタニック号を外から眺めている救助員の視点の違いだ。

 小沢氏の言動を観ていても分かる通り、民主党はポピュリズム政治を第一に考えているようなところがある。民主主義の最大の欠点は、愚かな民が過半数を超えると、そのシステムが正常に機能しなくなることであるが、現在の民主党はその悪弊を逆に利用しているようにも見受けられる。あるいは、そんな魂胆は微塵もなく、自らもまた、タイタニック号の乗船客の視点しか持ち合わせていないのかもしれないが、どちらにせよ、彼等もまた救われる立場の人間でしかないということである。
 現代の日本経済の何が問題なのかということを理解していないのか、あるいは理解してはいるが、選挙さえ当選すればそれでよいと思っているのかは知らないが、そんな大学入試における学生のような気分で政治を行ってもらっては迷惑この上ない。

 政治家の仕事というのは、いかにして国の税収を増加させるかを考えることであり、どうやって税金を上げるかを考えることではない。放漫財政で税収が足りないので「消費税を上げます」では困るのだ。増税というのは、やるべきことを全てやった上での最後の手段であって、ほとんど努力もせずに国民の税金に頼るのでは何のための政府か分からない。
 単に税金を上げるだけなら、小学生にでもできる。しかし、どうすれば税収が増えるのかを考え実行することは小学生にも中学生にも高校生にも大学生にもできない。それができるのが政治家であり、それができないのであれば、政治家の存在する意味はなくなってしまう。単に税金を上げることしか出来ない政治家であるならば、その政治家をこそ仕分けしなければならないということである。

 消費税を上げれば、税収が増えるか?というと、これも実際のところは蓋を開けてみないと分からない部分がある。消費税を上げることによって、これまで以上にお金を使いたくなるというような酔狂な人はおそらく誰もいないだろう。ということは、単に消費税を上げるだけでは現在の消費不況に増々磨きがかかる可能性も否定できないということだ。
 今流行りの薄型液晶テレビであっても、消費税を10%にすると、10万円の商品が11万円になるわけだから、販売台数が低減するのは目に見えている。
 今現在、薄型液晶テレビの売れ行きが好調なのは、2割程度のエコポイントがあるためだ。10万円の液晶テレビ(40型以上)であれば、実質8万円以下で買うことができる。そういった隠れたプラス効果によって、消費者達の財布の紐が緩んでいるというのが実際のところだろう。エコポイントというのは、要するに、所得税の減税と同じようなものなのである。そう考えれば、消費税は5%であっても、所得税を間接的に下げることによって消費を喚起し、逆に消費税の増収を齎すという効果が期待できるわけだ。

 消費税というのは、あらゆる税金の中では確かに最も公平な税金ではある。無理矢理に徴収される税金ではないため、個人的に消費を控えれば支払う税金をコントロールすることはできる。しかし、個人にしてみれば節約できてプラスかもしれないが、日本全体としてみればマイナスだ。なぜかって? もちろん、消費を控えた分の税収が落ちるからだ。消費税を上げても消費活動がそのままであれば、税収は増加するが、消費活動(特に高額商品)が減退すれば、思った以上に税収は伸びない可能性がある。
 特に菅首相は自ら「最小不幸社会を目指す」と述べており、消費税にも商品によって段階を設ける可能性があるようなことを示唆している。そうなると、高額商品には高税率を適用し、食料品や日用品などには低税率を適用する可能性があるということだが、これはどう考えてもおかしい。消費税まで累進制にするというのでは筋が通らない。消費税の税収を上げるのが目的であるなら、むしろ、毎日消費する食料品や日用品にこそ、増税を徹底しなければならないはずだからだ。
 もし万が一、税収が下がってしまえば目も当てられない。税収を増加させるために、消費税を上げて、結果的に税収が落ちてしまえば、元も子もない。そういった馬鹿な結果にしないためには、リスク回避の為にも最低限、所得税は下げる必要があると思う。と言うより、所得税を下げるぐらいなら、逆に消費税を下げても、それほど違いはないように思える。いっそのこと、逆転の発想で消費税を下げれば、消費意欲が喚起され、単純に税収は増えるかもしれない。

 上記は一般論ではあるが、私の理想としては、所得税も法人税も相続税も下げれば、消費税は5%のままでも、おそらく税収は増えるのではないかと思う。加えて言うなら、社会主義的な累進課税制度を廃止(または大幅に軽減)してしまえば、税収は100%増収となるはずだ。働けば働くほどに、稼げば稼ぐほどに、税金が累進的に上がるなどという不公平税制を改めれば、働く意欲も向上し、姑息な脱税や節税も減少して税収は増加するだろう。そうなると、わざわざ消費税も上げる必要はなくなるかもしれない。
 しかし問題は、そういった思い切った政策を実行に移せる政治家がいないことと、仮にいたとしても、悪しき民主主義(衆愚政)が立ちはだかり、いかなる正義の声もかき消されてしまうことだ。
 このままいくと、消費税は上がる方向に舵が切られそうな雲行きだが、その舵取りが日本経済の命取りにならないことを願いたい。

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市場原理の曲解(適正価格と限界価格)

2010062701 よく「市場原理によって物の値段は決まる」と言われることがある。市場原理主義者と言われる人々は「市場に任せれば物の値段は最適な価格に落ち着く」と思っており、逆に市場原理否定主義者達は「市場に任せるよりも人為的に価格を決定した方がよい」と思っている。
 当ブログでも何回か述べた散髪屋の料金の場合で考えてみると、自由に競争させて最適な価格を模索すればよいと思っているのが前者であり、 一律固定料金にした方が良いと思っているのが後者だと言える。
 さて、この2者の意見はどちらが正しいのかと言えば、その答えは時と場合にもよるので断言することは難しい。ゆえにここでは、その答えではなく、なぜその答えを出すことが難しいのかを述べてみたいと思う。
 
 まず初めに言っておかなければならないことは、市場原理によって決まる価格というものは、あくまでも『適正価格』でなければならないということである。しかし、現代で市場原理を語っている多くの言論人達は、この『適正価格』のことを『限界価格』だと曲解しているフシがある。こういった人々は「市場原理」という言葉の意味をほとんど理解していないのではないかと思う。
 「市場原理」とは、需要の高い物は高くなり、需要の低い物は安くなるという原理である。より具体的に言えば、品質の高い物は高くなり、品質の悪い物は安くなるという原理である。ところが、現代の日本社会は、品質の良い物も品質の悪い物も同じように安くなければならないという、単なる低価格のみを競う安値競争社会になってしまっている。これは、市場原理に従った社会というよりは、(人間の)感情原理に従った社会だと言える。
 
 例えば、現在は牛丼価格が250円まで下がっており、消費者達はとにかく10円でも安い牛丼屋を求めているようなデフレ社会になっているが、牛丼の味は値段とともに落ちているのか?と言えば、実は落ちておらず、逆に企業努力によって味も良くなっている。本当に市場原理が機能しているのであれば、牛丼の味がアップすれば、牛丼の価値も上がらなければならない。あるいは企業努力とデフレが相殺されて、なるべく同一の価格を維持するというのが常識的な姿だ。
 お金の価値が上がり、物の価値が下がるというデフレ社会に対抗するために、多くの企業は物の価値を上げる努力をしているわけだが、これが全く無視されている状態が現代の日本社会だと言える。消費者達が安くて良い物を求めるというのは理解できるのだが、そういった感情が市場原理を無視して暴走し過ぎると、結果的に、その悪因は消費者自身に返ってくることになる。どうやって? 市場で動くお金の量が減少することによって景気が悪くなり、巡り巡って自らの収入も下がることになる。これこそがまさに「合成の誤謬」だ。
 
 もし、この牛丼1杯の原価が249円であった場合を考えてみよう。その場合、お客が1人来る度に1円の利益が店に入ることになる(話の都合上、ここでは牛丼以外の注文は考えないことにする)が、1人で1円という薄利では、お客が1000人来ても1000円の利益しか生まれない。1000円の利益では1人のアルバイト員の1時間分の給料しか払えないということだから、当然のことながら赤字経営となる。
 1円の利益というのは少々オーバーな話だったかもしれないが、ギリギリの採算が取れるところまで値段を下げていくことをもって市場原理価格だと呼ぶのは間違いだということである。それは“最適価格”ではなく“限界価格”でしかないということだ。市場原理によって決まる価格というものは、“適正な価格”であって、“ギリギリの価格”のことではないのである。もし、「ギリギリの採算さえ取れればそれで良いのだ」などと言う人がいれば、それは市場原理主義者ではなく、ただの市場原理破壊主義者である。市場原理破壊主義者というのは、市場原理否定主義者の親戚のようなものだと思って間違いない。どちらも経済音痴という意味では大差がない。
 
 現代の日本で、市場原理主義者を名乗っている多くの市場原理破壊主義者達は、牛丼の価格を目一杯まで下げることをもって良しとする。一方、多くの市場原理否定主義者達は、牛丼の価格を人為的に上げることをもって良しと考えている。
 要するに、この両者はどちらも人為的に物の値段を決めることをもって良しと考えているのである。
 とすれば、どちらが正しいか? 答えは、どちらも間違いだ。
 「それでは答えになっていない」と思った人がいるかもしれない。少し話がややこしくなるが、市場原理主義者には、更に細かい分類が存在する。細かく分類すれば次のようになる。
 
 市場原理主義者…人間心理を理解した人々
 市場原理否定主義者…市場原理を理解できない人々
 市場原理破壊主義者…市場原理を曲解した人々
 市場原理万能主義者…人間心理を無視した人々
 
 先に述べたのは破壊主義者と否定主義者のことだが、この他に、市場原理主義者と市場原理万能主義者が追加される。市場原理主義者と市場原理万能主義者の違いは、その思想の中に人間心理という考えが有るか無いかの違いだ。無論、人間心理を無視するのが市場原理万能主義者である。
 
 人間心理が経済に与える影響を考慮せずして「市場は万能だ」などと宣っている人々も実は市場原理を理解していない。
 人間感情を抜きにした本来の市場原理が機能する社会において決まる本当の市場価格というものこそが、おそらく最も最適な価格なのである。ということは、現代の日本では市場原理が正しく機能していないということである。市場原理という言葉の曲解が、日本経済を更に悪化させる悪因になっているということである。市場原理という言葉の意味を正しく理解することもまた、日本経済が不況の闇から脱するために必要なことなのである。

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『パレートの法則』に見る日本企業の未来

2010061701 『パレートの法則』という有名な経済法則がある。この法則は別名『80対20の法則』とも呼ばれることがあり、『全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出している』という説だ。分かり易く言うと、20%のものが全体の80%のものを生み出しているという説である。
 「全体の税収の80%は20%の納税者が納めている」や「会社の売上の80%は20%の従業員が生み出している」などが有名だが、ここでは後者について述べてみたいと思う。
 この労働における『パレートの法則』は大抵の企業で当て嵌まるらしいが、特に日本企業の実態を考える上では非常に有効だろうと思う。なぜなら、これまでの日本企業では一部の優秀な従業員が生み出した利益を従業員全員で平等に分け合うという分配制度が罷り通ってきたからだ。
 分かり易いように単純なモデルで説明しよう。100人の従業員がいる会社で1ヶ月間で1億円の売上があったとすると、実際のところは20人の従業員が8000万円の売上を上げているという計算になり、残りの80人の売上は2000万円ということになる。
 これを単純な計算式にしてみると、
 
 8000万円÷20人=400万円
 2000万円÷80人=25万円
 
 ということになり、1人当たりの売上額を計算すると、
 
 400万円÷25万円=16倍
 
 なんと16倍にもなるわけだが、実際のところはこうは単純にはいかない。16倍というのはあくまでも20人の平均値であり、2倍の人もいれば100倍の人もいるかもしれない。しかし、優秀な従業員とそうでない従業員では少なく見積もっても数倍の差が有るということは間違いのないところだろう。
 
 これまでの多くの日本企業では、上記例の1億円から生まれた利益を100人の従業員で平等に分け合ってきた。仮に生まれた利益が3000万円であるならば、1人当たりの月給は30万円ということになる。しかし、完全に一律平等だと、あまりに不公平なので、仕事のできる人には責任ポスト(肩書き)などを与えて、ほんの少しの個人差は設けられてきた。その“ほんの少し”というのは、せいぜい数十%程度であり、数倍以上の仕事量には到底見合わない報酬額だった。
 
 ハッキリと言ってしまえば、これまでの日本企業の悪平等な給料体制は、仕事のできない人には有り難い制度であったのかもしれないが、仕事のできる人には甚だ有難迷惑な制度であったということになる。仕事のできない人が少々、仕事をサボタージュしたところで、仕事のできる人が制度的(自動的)にそのマイナス分を補完してくれるという実に有り難い(?)制度だったわけである。
 
 ところが、21世紀に至って、事情が少し変わってきた。『パレートの法則』自体には変化が無かったが、企業の売上や利益の総量が減少してきたために問題が生じ始めた。100人で1億円の売上が、100人で5000万円の売上になり、加えて、利益も1500万円まで減少したとすればどうなるだろうか? この1500万円を100人で分ければ、1人当たり15万円となってしまうが、平等に分配するにも限度というものがある。利益が減少すればするほど、給料が下がっていくのは止むを得ないとしても、実際に他人の数倍以上の仕事をしている人間の給料まで同じように減給していくには限界がある。給料以上の仕事をしている人間が、いつまで経っても仕事量に見合う給料を手にすることができないのあれば、未来永劫、ただの働き損になってしまう。仕事のできない人間が安月給であるのは容認できても、仕事のできる人間が自分の能力とは裏腹にいつまでも安月給のままでは、いずれ仕事のやる気を失ってしまうことになる。
 しかし、日本企業の場合、それだけでは収まらない。上記のような共産(共貧)主義的な給料体制に加え、更に年功序列制度という、もはや意味不明な給料制度がドッキングされることになる。その制度が加わることによって、“仕事のできない人間にとっては有り難く、仕事のできる人間には有難迷惑な制度”に更に拍車がかかってしまうというわけだ。これはもうほとんど漫画の世界の話である。
 
 市場法則や労働市場というものを完全に無視し続け、それでもなんとかなってきた日本企業の黄金時代(?)は終焉を迎えようとしている、いや、もうとっくに終わっていると言った方が正解かもしれない。高度経済成長時代に築いた夢のような制度は、もはや全てが砂上の楼閣と化し、悉く維持することができないことが誰の目にも明らかになってきた。そのことは実社会で働いている人間であれば誰もが心の片隅で意識していることだろうと思う。そして、多くの日本企業が無意識的に利用してきた労働における『パレートの法則』もその使命を終えようとしている。
 
 『パレートの法則』自体は不変の法則かもしれないが、“8割もの従業員が給料以下の仕事量しかこなせないという制度”を維持し続けることができない時代を迎えたということである。日本企業が現在の窮地を乗り越えるためには、労働における『パレートの法則』を打ち破る必要がある。つまり、他人の傘の下で生きることを良しとする思考(または思想)を捨てなければならないということである。それは企業の従業員全員(公務員も含む)が合理化の精神、または資本主義の精神を身に付けなければ日本企業(日本社会)の明るい未来はないということを意味している。

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社会主義は恐ろしい【病編】

2010060601_2 民主党の新総理が菅 直人氏になったということで、なにやら世間が色めき立っているようだ。今日、車の中でラジオ放送を聞いていると、菅内閣の期待度が過半数の60%近くに達していると報じられていた。国民の付和雷同ぶりは相変わらずだが、近い将来、その期待はただの“ぬか喜び”になる可能性が高いと思っているのは私だけではないだろう。
 確かに菅氏の場合、「市民派の政策通」と呼ばれたこともあり、世襲制の議員ではないため、イメージ的にはどこか「民主」という言葉が似合いそうではある。しかし、これまでの菅氏の言動を見る限りでは、大衆迎合というものが民主主義だと曲解しているフシがあるように思われる。そういう意味では、菅氏も鳩山元総理と大した違いはないかもしれない。

 菅氏は以前、「株式等譲渡益課税率を20%にするべきだ」などという、的外れな批判を行っていたことがある。何が的外れなのかというと、株式投資を行っている人が「金持ち」だと決めつけてしまっていた点だ。こんなのはただの思い込みでしかないことは言うまでもない。
 オンライン証券の隆盛とホリエモンの株式分割ブームのおかげ(?)もあってか現在では一般庶民でも株式投資を行っている人が大勢いる。昔のように100万円も1000万円も余剰資金がないと株式投資が行えないというような時代ではない。そんな時代であるなら、本来であれば、証券税率は下げるべきであることは子供にでも理解できる。《株式投資=金持ちの遊興》などという共産主義者も真っ青な思い込みを持っている時点で、まともに現代社会を観る眼が無いということを証明してしまっているとも言える。そしてその発想自体が“個人の自由”や“個人の幸福”に目がいかない社会主義者とも言えるわけだ。

 そもそもバブルが崩壊して以降、大部分の株主は散々な目に遭っており、儲けている株主よりも大損している株主の方が遥かに多いというのが実体だ。そんな投資家達を強欲な守銭奴ばかりだと思い込んでいるようなら、救いようがない。バブルが崩壊して以降に株式投資を始めた人であっても、ITバブルが崩壊して以降、大部分の投資家は大損している。2006年辺りにも景気回復期待で新興企業バブルになりかけたことがあるが、これも検察の思い込み(=ライブドアを悪徳企業だと曲解した)捜査によって瓦解してしまった。目敏い投資家に限って、酷い目に遭っているというのが日本の株式投資家達の実体なのだ。
 はっきり言ってしまうと、当時のライブドア事件でホリエモンを擁護していた民主党員などは1人もいない。と言うより、他党にもそんな気骨のある政治家は1人もいなかったと思う(思っていても言えないという空気はあっただろうが…)。小沢氏にしても前原氏にしても同じく、選挙活動に乗じてホリエモン批判を行っていた。物事の本質が理解できない大部分の政治家達は当時はそれでイメージアップに繋がると思っていたのかもしれないが、実は自らの無能ぶりを証明していたことにほかならない。
 
 菅氏が社会主義者であるということはネット上でも様々なブログで紹介(?)されているが、当ブログでは、菅氏ではなく、社会主義の危険性について具体的な例を用いて紹介(?)しておこうと思う。
 
 例えば、癌(がん)という病気があるが、もし、癌の特効薬というものが発見されたとしよう。するとどうなるだろうか? 普通に考えると、その大発見に人々は狂喜乱舞すると思うだろう。「不治の病」とも「ストレス文明病」とも言われ人々に恐れられている癌という病気を完治させる特効薬が発見(または発明)されれば、それは人類にとっての福音であり、ノーベル賞どころか、世界中の人々から救世主として崇め奉られることになると思われるだろう。
 しかし、社会主義国家ではそうは上手くいかない。なんせ、社会主義というものは“個人の幸福”よりも“社会の秩序”の方が大事だという思想であるからだ。癌の特効薬などというものが発見されると、癌研究や癌治療に携わっている膨大な数の企業が一瞬にして存在価値を失ってしまい、その研究や治療に携わっている人々も一瞬にして失業者となってしまう。生粋の社会主義者であればそんなことは許さない。
 もし本当の社会主義国家で癌の特効薬が発見されると、「癌の特効薬は偽物だった」と発表され、社会の秩序(?)は維持される。そして、特権階級者達だけが癌の特効薬を極秘に使用するというような悪夢のような社会が出来上がることになる。
 逆に自由主義国家で癌の特効薬が発見されると、その特効薬を他国に販売することで巨額のお金を儲けることを考えるようになる。そうなると国自体に膨大な利益が入ってくるため、失業した医療関係者にも何らかの補助金が与えられるかもしれない。さて、どちらが人間にとって優しい社会と言えるだろうか? 答えは聞くまでもないだろう。
  
 上記はあくまでもフィクションだが、“個人の幸福”よりも“社会の秩序”を重んじるのが社会主義者の正体であるなら、起こりうる可能性のある事態だということは知っておいた方がよいかもしれない。「癌の特効薬だ」と偽り逮捕された人がこれまでにもいたと思うが、もし本当に癌の特効薬だったとしても、社会主義国家では同じ結果(逮捕)になる可能性があるということだ。
 
 誤解されると困るので念を押しておくと、ここでは“社会主義は恐ろしい”ということを述べた。“菅氏は恐ろしい”と述べたわけではないので曲解のないように。
 
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