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2010年7月

『デフレ教』の信者に成り果てた日本国民

2010073101 遅ればせながら、大前研一氏の最新刊『民の見えざる手』をようやく読み終えた。私の場合、複数の書物を平行して読むことが習慣化しているため、1冊の本を読み終えるのが遅くなってしまう。加えて、積ん読(つんどく)状態の本がどんどん増えており、一向に読む本が減らない。そのため最近は購入する本を厳選するように努めている。言わば、読書における“選択と集中”だ。大前氏の本は私の中では優先順位が高いので、積ん読状態にならずに済んでいる。
 大前氏の本は無駄な部分がほとんど無いことでも有名で、非常に論理的で読み易い。大前氏はIQが高いことでも有名で、かつては IQ216とも言われていた。歴史上最もIQが高かった人物はゲーテだそうだが、そのIQは210程度であったらしい。大前氏のIQが216というのが真実であれば、世界一の頭脳と言ってもいい数値だ。(ちなみにブッシュ政権下にいたライス国務長官のIQは200)
 もっとも、IQが高いからといって人間的に偉いとは限らないし、IQの高い人物が必ずしも人を見る目があるというわけでもない。実際のところ、大前氏の場合も経済情勢を見抜く眼力は超一流だというのは誰もが認めるところだが、人を見る眼力は一流とは思えない。しかし、その天才的な頭脳から導き出される明快な論理で貫かれた書籍は一読の価値はあると思う。
 
 ところで、この本の『民の見えざる手』というタイトルはなかなかナイスなネーミングだと思う。アダム・スミスが唱えた『神の見えざる手』の正体を『民』に結び付け、対抗軸として『官の見える手』という表現を用いているところなどはいかにも大前氏らしい。
 『神の見えざる手』とは、市場法則に委ねれば最適な経済状況が齎されるというものだが、市場法則を歪めているのが人間であるのなら、神の見えざる手は機能しない。向かうべき経済の方向性を決定しているものが神の手であったとしても、実際に経済を動かしているのが人間であるのなら、いくら神の手に縋ってもどうにもならない。まず、民自身がまともにならない限り、経済状況は良くならない(=神の手は機能しない)というわけである。
 
 話は変わるが、鳩山首相の辞任後、高年収者を対象に「民間から内閣に入閣させたい経営者またはビジネスパーソンは誰ですか?」というアンケートをとったところ、1位はソフトバンクの孫 正義氏で2位がユニクロの柳井 正氏、そして3位が大前研一氏であったらしい。このことからも大前氏の人気の高さが窺えるのだが、どの政党も彼を引き抜こうとは考えないようだ。各政党もタレント議員などを擁立するよりも大前氏のような実力を兼ね備えた人物を擁立した方がよっぽど得策だと思えるのだが、どうも日本政府は大前氏が直接的に政治の世界に介入することを拒んでいるように見受けられる。世界的にも評価の高い経営コンサルタントが日本国家の経営に直接的にタッチしていないというのはどう考えても不自然だと思われる。この国の為政者達は本当にこの国を良くしようという気持ちがあるのかどうか疑問に思う時があるが、おそらく海外の有識者達からもそう思われているのではないだろうか。
 
 大前氏はこの本の中で、日本企業の安値競争に警鐘を鳴らしているが、私も現在の日本のデフレは少々行き過ぎではないかと思う。牛丼チェーン店も再三の値下げ競争を強いられているが、企業努力によってコストを下げるにも限界があるということも少しは考えた方がよいのではないかと思える。現在の牛丼1杯250円という安値料金を維持したまま、仮に狂牛病騒ぎのようなものが発生すれば、全店総倒れということにも成り兼ねない。生産者も消費者も安値を追求した挙げ句、環境リスクに対応できず、結果的に牛丼が提供できなくなってしまっては元も子もないだろう。
 この際、いっそのこと、全店一律で牛丼1杯300円に固定して、価格以外の価値(味とサービス)で競争した方がよいのではないかと思うのだが、デフレ思考で頭が凝り固まった人々には何を言っても無駄かもしれない。
 あるいは、「価格を統制するのはカルテルだ」とか「価格を統制するのは社会主義だ」との反論があるかもしれないが、「美味くて人気のある商品は高くなる」という市場法則が機能していないのであれば、安値圏での価格統制は例外的に認めてもよいのではないかと思う。
 
 グローバル経済にデフレ現象は付き物であるにしても、心までがデフレ状態に陥ってしまってはいつまで経ってもデフレ状態から脱することができず、際限の無い安値競争地獄に陥ることになる。そうなると、当然の如く薄利経済となり、経済活動を通じて動くはずのお金の総量が減少し、必要以上にどこまでも景気は悪くなっていく。
 現在の日本では、商品を値切るということが当然のことのようになってしまっている。元々、暴利を貪っているような商品や、過剰な利益が出ているものを値切るのであればさほど問題はないと思われるが、初めからほとんど利益の無いものまで値切るというのは大きな問題だ。日本国民全員が値切ることを当然と考えるようになると、その分、日本の経済規模も小さくなる。個人的には得をした気分になっても、日本全体としてはマイナスになるので、結局、その得をした個人もいずれどこかで損をすることになる。
 
 よくスーパーやコンビニなどで、「自分はお客様だ」と言わんばかりに威張った態度のお客を見かけることがある。「お客様は神様です」というのは三波春夫の言葉だそうだが、それを地でいく神様気取りの傲慢な消費者がいる。
 こういった人物は、いざ自分自身が店員という立場になった場合、一体どんな態度をとるのだろうか? お客(消費者)の立場に立てばサディストになり、店員(生産者)の立場に立てば都合よくマゾヒストになるのだろうか?
 何が言いたいのかというと、“消費者という立場に立つと得をするのが当たり前”という貧しい消費者根性が経済をシュリンクさせる一因になっているということだ。お客は値切って当たり前、店員も値切られて当たり前というSMのような精神状態が更にデフレに拍車をかけているというわけである。
 気前よく値切らずにお金を支払うということを全国民が励行すれば、それだけでデフレ状態は少しは緩和されると思われるのだが、目先の利益しか頭にない人々は、そんな単純なことにも気がつかない。口では偉そうに「格差はいけない」などと宣っている人物に限って、値切ること、つまり“自分のこと”しか考えていない。国民の多くが値切ることよりも、逆にチップをはずむというような気前のよい心境になれば、自ずと景気は上向いていく。しかし、貧しい消費者根性がそれを邪魔している。
 
 お金が無いから心に余裕が無いのか、それとも心に余裕が無いからお金が残らないのか、まるで“鶏が先”か“卵が先”かと同じような問答論だが、現在の日本のデフレ現象には、少なからず、後者(心に余裕が無い)も影響していると考えられる。
 現在の日本国民からは《物は安くなるのが当たり前》という根拠の乏しい思い込みを頑に信じている姿が観て取れる。その姿はまさに『デフレ教』の信者の如くだ。
 「デフレ」というお題目に心までが囚われてしまっている状態、その状態こそが、精神的デフレ社会を齎している。物理的なデフレ現象に更に拍車をかける精神的デフレ現象が必要以上に日本に暗い影を落としている。
 『デフレ教』という国民をどこまでも貧しくする邪悪な思想に染まった洗脳をいい加減に解かなければいけない。「デフレ」「デフレ」と悲観的なお題目を語るマスコミも、いい加減に『デフレ教』の信者を増やすような真似は止めた方がよいかもしれない。
 

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『若者不幸社会』と『ライブドア事件』

2010072501 先日録画していた『朝まで生テレビ』を今日、観てみた。Gコードで録画予約したため、最後まで観ることができなかった(放送時間がズレたらしい)が、なかなか面白い内容だった。お題の方は『若者不幸社会』、パネリストの方も城 繁幸氏や東 浩紀氏、増田悦佐氏、勝間和代氏など、なかなか興味深いメンバー構成だった。
 今や民放で本音論が聞けるのは『朝まで生テレビ』ぐらいのものだが、その本音論の中にも正論とそうでないものがあるので観ていて面白い。常連のパネラーとして参加している堀 紘一氏などは、一見正論ぶった回答をしているように見える(たまには正論も述べている)が、どこか矛盾しているように思う。
 
 堀氏はベンチャー企業を育成する立場にある人物で上場企業でもあるドリームインキュベータ社の会長も務めているが、数年前はライブドアのホリエモンを批判するなど、矛盾した行動を取っていたことでも有名な人物だ。その件については、司会の田原総一朗氏からもよく冗談で突っ込まれているが、私も当時、観ていて異常な違和感を覚えたことを記憶している。
 私にとっては、当時のライブドア事件は、その事件を論じる論者が本物であるか偽物であるかのリトマス試験紙のような役割を果たした事件であり、当時、ライブドア事件を感情的に批判していたような知識人の書籍は幸か不幸か一切読まなくなった。あの程度の事件の真相(ホリエモンは冤罪だということ)が見抜けないようでは、似非知識人と判断されても仕方がないように思う。ちなみに、堀氏の書籍は元々読んでいない。読まなくなった人物の名をこの場で列挙したいところだが、本人達の名誉のために差し控えておこう。
 
 少し話が脱線してしまったが本題に入ろう。『若者不幸社会』というのは、何のことかというと、『世代間格差社会』のことであり、それが意図的にしろ意図的でないにしろ、若者世代が老年世代から一方的に搾取されているというネズミ講社会のことを意味している。
 「現代の若者は将来に希望を抱けず保守化している」という話はよく聞かれる。一度、人気が衰えかけていた公務員志望者がここ数年で急増しているということもその証左である。寄らば大樹の陰的に大企業への入社を希望する学生も多いらしいが、はっきり言って、これは時代に逆行していると思う。
 これからの時代は、本来であれば、旧態依然とした大企業の時代ではなく、新しい産業を創出していく新興企業の時代であるべきところだが、日本では有力な新興企業がなかなか出てこない。まるで若者の萎えた気力を表すかの如く、かつての起業ブームというものもどこか遠くへ飛んで行ってしまったかのようでもある。そのブームを破壊してしまったのが、先に述べたライブドア事件、より正確に言えば、ホリエモン逮捕事件だと思われる。
 
 当時のホリエモンはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いであり、良くも悪くも旧態勢力の前に颯爽と現れた若者世代の英雄的存在だった。その言動があまりにストレートであるため、世間に誤解を与える危険性を孕んでいたとはいえ、日本経済の景気を良くするという意味では、非常に重要なポジションを与えられていた人物だった。
 当時、ホリエモンは「資本主義の象徴」とも言われていたが、彼の場合、マックス・ウェーバーが言うところの資本主義の精神の体現者というよりは、合理主義の精神の体現者だった。欧米のように宗教的(または倫理的)なものが背景にある資本主義者ではなく、あくまでも合理化という意味での資本主義者だった。現代的な経済用語で言えば、生粋のリバタリアンだったと言えるかもしれない。
 
 資本主義についてあまり理解のない日本社会では、「資本主義」と聞けば、条件反射的に「市場原理主義者」だの「拝金主義者」だのと勝手に思い込んでいるふしがあるが、資本主義にもいろいろある。日本的資本主義というのは、働くことは良いことだという精神が元にあるが、欧米のそれは、必ずしもそうではない。もっと倫理的なものが背景にある。
 いずれにしても、ホリエモンは、若者世代の象徴であり、景気回復の象徴でもあった。その象徴を破壊し、日本経済に取り返しのつかない大きなダメージを与えてしまった者達の罪は重いと言わざるを得ない。いつの時代であれ、どこの国であれ、景気の腰を折るのは役人と相場が決まっているが、現代の日本の不況の一因としてライブドア事件が大きく関係していることは間違いないだろう。『若者不幸社会』を必要以上の更なる深みに嵌めてしまったのは、ホリエモンを逮捕し、その逮捕劇の真相を見抜くことのできなかった多くの日本国民自身なのである。

 ホリエモンという存在は、言わば、日本人の前に突き付けられた“踏み絵”だった。それは日本が資本主義社会の入口に立てるかどうかという最初の関門だった。しかし、この国の国民達の多くは、その踏み絵を受け入れようとはせずに、拒否反応を示した。それは、意図的にそう思い込まされたと言えなくもないが、結果的には“自由”よりも“束縛”を良しとしてしまった。この時点から、日本が社会主義に方向転換し、未曾有の不況が到来することは既に運命づけられていたと言っても過言ではないだろう。
 
 経済というのは生き物であり、その巨大な生き物の前では人間の姑息な思惑などは何の役にも立たないし、一切の騙し事も通用しない。愚かな役人が誤った経済政策を選択すれば、その反作用は情け容赦なく全国民に降り掛かることになる。人為的に経済を統制しようなどという思い上がった行動を取れば、必ず災いが齎されることは既に歴史が証明している。
 現在の『若者不幸社会』は、日本社会の制度的な疲弊と矛盾によって齎された結果ではあるが、人為的に経済を動かそうとした(=時代を逆行させようとした)者達が齎した悲劇でもあるということを忘れてはならない。
 

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『最小不幸社会』は『共貧主義社会』

2010071101 先月、日本国中でサッカー人気が加熱し、そのフィーバーぶりを観ていると、なにやら、戦争でも行われているかのような錯覚を覚えた。普段、自国の株価が上がっても喜ばず、逆に下がれば嫉妬心を満足させているような左翼ばりの国民達が、サッカー観戦となると、自国選手がゴールする姿を観て、我が事のように狂喜乱舞する。その光景を観ていると、「左翼」というよりは、むしろ「右翼」に近い国民性が感じられた。元々、日本国民は表面上は左翼を装っているように見えているが、実は潜在的に右翼的な心情も併せ持っているのではないかという気がした。どちらにしても偏った国民性であることは確かなので、あまり褒められたことではないのだが…。

 さて、では、自国の通貨においてはどうだろうか? 最近、世界基軸通貨のドルだけでなく、期待が持たれていたユーロの価値も下がり出したことから、漁父の利的に円の価値が上がり、少し円高に振れていることは周知の通りだ。この状況を観て、国民達はどう思っているのかというと、大部分の国民達は別に何とも思っていない。本来、国の信用価値を示すはずの自国通貨が上がることは喜ぶべきことだと思われるのだが、喜んでいるような人はほとんどいない。
 
 日本という国は自国の通貨(円)の価値が下がることをもって喜ぶという、ある意味で不思議な経済事情を抱えた国である。アメリカなどは、自国の通貨が上がることをもって国民は喜ぶ。では、中国はどうかというと、無論、「世界の工場」を標榜する輸出大国であるため、元安を喜ぶ。その他、タイやベトナムなど、デフレ基調経済によって国力を伸ばしている国々も、(時と場合にもよるが)自国通貨が下がった方が都合が良い(為替差益が得られる)ので、自国の通貨が下がることに対しては無頓着だ。
 日本は先進国であるにも関わらず、未だに輸出産業(製造業)が主体の国家と言われており、円高になると、その輸出産業の利益率が減少するために景気が悪くなるとの見解が大勢を占めている。一口に「輸出産業の利益率が減少する」といっても、製造する部品を逆に輸出相手国から輸入している場合や、円との相対的価値がそれほど違わない国に輸出する場合などはそれほど為替リスクは無いと思われるのだが、ここでは一般的な見解が正しいという前提で話を進めよう。
 
 世界一の金持ち国民を抱えた日本が消費国家ではなく、生産国家であることが、自国通貨の価値が上がっても喜ばない(=円安を喜ぶ)という捻れた社会構造を生み出してしまっているわけだが、これは正しい姿なのだろうか? これから経済が伸びていくブリックス(ブラジル・ロシア・インド・中国)のような国々と、経済が成熟した日本のような国が同じ土俵の上で製造業国家としての覇権を競うというのは、正しい姿と言えるのだろうか? それがもし正しい姿であるとすれば、日本は大変なハンデを背負っていることになる。中国を例にあげても、物価や人件費が一桁(10倍)も違う。通常、ボクシングなどのスポーツであれば、ウエイト(体重)に大きな差があれば、同じリング上では戦えない。それは、ハンデが有り過ぎて、戦う前から勝敗が決まっていると判断されるためだ。しかし、経済活動においては、巨大なハンデは無視されており、物価や人件費にどれだけの開きがあろうとも、同じ土俵の上で戦わなければならない。日本の製造業はこの巨大なハンデのため、なかなか利益を出すことができずに四苦八苦している。日本企業が製造工場を海外に移転し、国内で非正規雇用が常態化しているのは、このハンデを少しでも穴埋めするための苦肉の策であることは言うまでもない。もっとも日本の場合は、正社員の既得権を守るという後ろめたい事情から、経済のグローバル化というものを悪用しているズル賢い企業もあるのだが…。
 
 先程、「日本は消費国家ではない」と述べた。お金が有り余っているにも関わらず、将来的な不安から、なるべくお金を使おうとせず、お金を使う場合であっても、とにかく1円でも安い物を買おうと躍起になっている。世界一の金持ち国民が、世界一セコいのではないか?と思えるくらいに、消費や投資に後ろ向きになっている。
 どこの国でも、お金持ちが中心となって大々的に消費や投資を行ってこそ、その恩恵に与れる庶民が出てくると思われるのだが、世界に対して、その見本を全く見せていないのが日本という国の実体だ。
 『金持ちはお金を使う』というのが世界の常識だが、日本では『金持ちもお金を使わない』というのが常識となってしまっており、後ろ向きな精神的デフレ社会の見本を世界に曝け出してしまっている。そして、そんな国で「消費税を上げる」というのだから、どう転んでも景気が良くなるはずがない。
 
 民主党は参議院選挙前に「消費税を上げる」と述べてしまったことで窮地に立たされているが、消費税を上げる代わりにどうするのか?という明確な指針を述べることができなかったことも失敗だった。世間には、「消費税を上げる」と言えば無条件に反対する人々と、消費税を上げてもよいが、その代わりにどうするのか?という答えに期待している人々も大勢いる。その両者から完全に信用を失ってしまったのが、現在の民主党だと言える。
 加えて民主党は、所得税にも更なる累進課税を適用するなどと述べており、参議院選挙を前にして完全に馬脚をあらわした格好だ。運悪く(運良く?)選挙前に、増税左翼政権であることを国民に印象づけてしまった。
 
 管総理は「最小不幸社会を目指す」などと述べているが、「最小不幸社会」というのは言葉を変えれば「共産主義社会」を意味している。「共産」と聞くと、“共に発展する”という前向きなイメージを持ってしまいがちだが、この人間社会で「共産」と語れば、それはイコール「共貧」を意味していると思って間違いない。
 「最小不幸社会を目指す」というのは正確に翻訳すると、「みんなで貧乏になりましょう」と言っているのと同義語なのだ。「最小不幸社会」=「共貧主義社会」、この万古不易の隠れた経済公式だけは忘れないように肝に銘じておこう。国民に対して全く厳しいことを言わず、甘い言葉だけを囁く政治家には注意が必要だ。
 

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出版不況にみる価値観の変化

2010070401 ここ数年の出版不況の波はとどまることを知らず、先月は新潮社の週刊漫画雑誌『コミックバンチ』が休刊になるとのニュースが流れた。その後の報道では、あくまでもリニューアルのための休刊であり、廃刊ということではないらしいことが判明したが、コミックバンチの発行部数の減少が影響しているだろうことは想像に難くない。実際に発行部数は創刊当初の70万部から14万部(つまり5分の1)まで減少しているらしい。
 『コミックバンチ』と言えば、かつて一世を風靡した人気漫画『北斗の拳』の続編(番外編)である『蒼天の拳』や、同じく週刊少年ジャンプ出身の人気漫画家、北条 司の作品などが連載されていることでも有名な漫画雑誌だ。そういった大物漫画家を抱えた雑誌ですらもあっさりと休刊になってしまうのだから、現在の出版不況は決して一過性のものではないことが窺える。

 ところで出版不況の原因とは何だろうか? 一般的に考えられている理由を少し列挙してみると、

 1、少子化によって漫画雑誌を読む子供の数が減少している。
 2、不況のため、漫画雑誌を買う人間が減少している。
 3、不況のため、立ち読みで済ます人間が増えている。
 4、デジタル化やコピー技術の進歩によって、回し読みされている。
 5、紙媒体の漫画雑誌に対する興味が薄れている。

 大体、こんなところかもしれないが、個人的には「」の立ち読みが大きく影響しているのではないかと思う。読みたい漫画がその漫画雑誌の中に2、3本しかない場合、書店やコンビニなどで立ち読みする人が増えたのではないかと思う。しかし、読みたい漫画がその漫画雑誌に5本、10本となってくると、立ち読みで済ますのが逆に面倒になるので購入(=部数アップ)に繋がるのかもしれない。読みたい漫画が10本もあれば、コミックスで買うよりも雑誌で買うメリットの方が大きくなると思われるので、部数が伸びる可能性はあるだろう。
 
 かくいう私も学生の頃は少年ジャンプを毎週欠かさず購入していた人間だが、少年ジャンプが漫画雑誌の最大部数を誇っていた当時では、読んでいない学生の方が珍しかったと記憶している。学校の教室で回し読みしている人間も大勢いたぐらいだから、実際の発行部数以上の読者がいたことは間違いない。
 当時でも、続きが読みたいと思える漫画は数本しか無かったが、それでも一応、購入して1冊丸ごと読んでいた。しかし、私の場合、大人になるにつれて、徐々に読みたい漫画のみを読むというスタイルに変化していった。そして現在は漫画雑誌は買っておらず、読みたい漫画(主に青年漫画)があれば単行本(コミックス)が出てから購入するようにしている。そういう人は案外多いのではないかと思う。昔のように漫画というものがまだ希少価値のあるものであった時代は、興味もない漫画も同じように読んでいたが、漫画が氾濫するようになると、読みたい漫画のみを読むようになる。と言うより、無駄な漫画まで読んでいる時間が無いということだ。早い話、漫画においても“情報の選択”が行われているわけである。

 話が少し横道に逸れたが、かつての漫画雑誌は、売れっ子漫画家を数人抱えていれば、残りの不人気漫画家も人気漫画家の蔭に隠れて、ある程度はおいしい思いができた(と想像する)。もちろん、漫画家によって原稿料は違うだろうが、よほど人気が無い漫画でなければ連載を続けていくことが可能な時代だった(と思う)。しかし現在では、かつての人気漫画家でさえも、人気に翳りが出れば即連載打ち切りということがあるらしく、かつてのネームバリューだけでは通用しなくなっているのが現在の漫画業界であるらしい。
 
 私は昔、各漫画雑誌の読みたい漫画だけを自分でセレクトして自分だけのオリジナル漫画雑誌(言わば、オンデマンド雑誌)が買えないものだろうか?と思ったことがある。そんな漫画雑誌なら喜んで買いたいと思ったことがあるが、紙媒体として大量に印刷している漫画雑誌にそんな自由性を求めても実現は到底不可能だった。しかし、現在では、そういった夢のような漫画雑誌が発行可能なところまで来ている。漫画自体をデジタル化することができれば、オンライン雑誌として発行することは可能と言える時代になってしまった。違法コピー問題や著作権の問題から未だ実現されていないとはいえ、充分に実現可能なことだと言える。もっとも、コミックス単位では既にデジタル化がなされており、デジタル書籍として購入できるような漫画も存在しているので、わざわざ雑誌形態まで戻る必要性は無いのかもしれないが…。

 いずれにしても、漫画文化というものは時代とともに大きく様変わりしたことは間違いない。昔と今とでは、漫画を読むことにおける価値観も大きく変化してしまったということなのだろう。昔は、売れる漫画も売れない漫画も同一の雑誌に組み込まれることによって連載漫画家全員がハッピーになるという、ある意味で日本企業のサラリーマン文化そのもののような体制が罷り通っていたわけだが、日本的経営の破綻と時を同じくして、漫画界にも同様の変化の波が訪れたということなのかもしれない。
 一部の人間の才能によって全員の面倒をみるという日本固有の経済システムが立ち行かなくなったということの分かり易いモデルとして現在の漫画雑誌を観察してみると面白い。厳しい言い方になるが、売れっ子漫画家の人気にあやかって、漫画家商売や編集者商売が続けていけるほど甘い世の中ではなくなったということなのだろう。
 一部の売れっ子漫画家も充分な報酬がある時代であれば、そういった互助システムに文句を言う必要はなかったのかもしれないが、自らの報酬すら保証されない厳しい時代となれば、他人の面倒まで構っていられない。そうなると、集団としての利益よりも、個人の才能を武器に利益を上げようと考えるようになるのは必然の結果と言える。売れっ子漫画家であれば、敢えて漫画雑誌というスタイルにこだわらずに、いきなりコミックスとして出版(オンライン出版も含む)した方が儲かると思うかもしれない(立ち読みリスクが減少するため)。そういった時代になれば、ある意味で社会主義的な互恵雑誌の発行部数が減少するのは避けられない。それを避ける手段があるとすれば、全ての連載漫画を人気作品にすることぐらいだろうが、それは現状では不可能に近い相談だ。
 
 同じことは新聞にも言える。新聞を漫画雑誌のように立ち読みするようなセコい人はあまりいないとは思うが、新聞の場合、誰もが読みたい記事は大抵、ネットに無料で掲載されている。ということは、新聞業界は漫画業界以上に深刻な問題を抱えているということになる。
 漫画であれば、雑誌に連載後、コミックスとして売り出せば利益が生まれるし、映画化やゲーム化(パチンコ化)などにメディア展開されれば更に利益が生まれる。しかし、新聞の場合は、余程の人気連載記事でもない限り、書籍化するというような芸当はできない。あくまでもその日の新鮮な記事が売りなわけで、過ぎ去った記事を集めたところで、誰もそんな旧い記事を読もうとは思わない。況して、どの新聞も図ったように同じような記事を載せているような現状では、別の意味で愛想を尽かされるのも時間の問題だろう。

 現在の出版不況というものを考えると、その根底にあるのは“価値観の変化”だと言える。それはインターネット社会の到来によって齎された副産物であるのかもしれないが、日本人を取り巻く社会環境が大きく変化したということの証明でもある。
 その変化とは“大きなものは良いことだ”あるいは“長いものに巻かれることは良いことだ”とする“集団主義”が終焉し、“個人主義”が姿を現して来たことを意味している。しかし、その“個人主義”とは、決して“自分勝手な社会”という意味ではない。“集団としての価値”ではなく、“個人の才能や努力の価値”が認められる社会のことを意味している。
 現代はその価値観の変化の過渡期であるがゆえに、様々なマイナス点が噴出しているかに見えており、そのマイナス点のみを殊更大きく取り上げられているような風潮があるが、この時代の大きな波が過ぎ去った後には死屍累々の…いや、これまで陽の当たらなかった個人の才能や努力が認められるような可能性に満ちあふれた未来社会が広がっているのかもしれない。

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