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2010年8月

「1クラス35人制」というレトリック

2010082901 昨日、文部科学省から「今後6年間で公立小中学校の学級人数を現行の40人から35人に引き下げる」との計画発表があった。さらに小学校1、2年生は30人以下まで引き下げる予定らしい。
 1クラスの生徒数が40人から35人になれば1人の教師が受け持つ生徒数が減少するわけだから、当然のことながら、教師の人数は増えることになるが、その人数たるや約2万人にのぼるらしい。
 しかし、話はこれで終わらない。4年後からは新学習指導要領で学習内容が増えることから、さらに4万人の教師を追加する予定だ。先の2万人と足すと合計6万人になり、教師の人件費だけで年間4000億円も必要になってくるそうだ。
 4000億円÷60000人=約667万円。つまり、新人教師1人あたり年間667万円の人件費が必要になることを意味している。公務員教師は基本的に年功序列だから、4000億円の人件費も年々上がっていくことになる。

 随分と前から1クラス30人制という理想論はあったらしいが、現在の日本の財政状況を考えれば、こんな計画は元々不可能だと思う。と言うか、少子化の影響や公立離れで放っておいても30人クラスになるのではないかとも思える。
 
 しかし、現在の1クラス40人体制を35人にしなければならない明確な理由とは何なのだろうか? まさか冷房の付いていない教室に40人も居ると蒸し暑くて仕方がないというような理由ではないだろう。個人的にはこの理由であればまだ理解できるが、それならそれで冷房を完備すれば済む話だ。毎年4000億円もあれば、全教室に冷暖房を完備してもお釣りがくるだろう。
 
 聞いたところによると、最近の公立小中学校は担任教師だけでなく副担任教師もいるらしいので、人数的に教師が足りないというよりも逆に余っているような状態ではないかと想像する。私が小中学生だった頃は副担任などは居なかったし、1クラスの生徒数は45人程いたと思う。そう考えれば、現在の副担任がいる40人体制に無理があるとは思えない。むしろ、45人体制に戻して教師を減らすと考える方がまともな考えではないかと思う。
 それでなくても最近は少子化の影響で生徒数が激減しているのだから、教師を増員しなければならない理由など無いように思える。
 本来であれば、生徒数が減少すれば教師も減少しなければ辻褄が合わない。それを逆に教師を大幅に増員するというのだから恐れ入る。
 少子化対策として海外からの移民でも大幅に受け入れるというのであれば話は別だが、現在の日本に追加で公務員教師を増員する必要性は全く感じられない。
 
 私が思うに、教師を増員しなければならなくなってしまった理由は、実は“教師(教室も)が余っている”という理由からではないかと推測する。
 まず、最近の少子化によって、1クラス40人では教室が余ってしまうという理由があるのではないかと思う。例えば、5クラス有ったものが4クラスになってしまうと、1人の教師がいらなくなるので、1クラスの人数を少なくすることによって、帳尻を合わすという場合が考えられる。
 「教師が余っているので1クラス35人にします」と言えばいいものを、「教師が余っている」とは公には言えない(=教師を減らさなければならなくなる)ので、1クラス35人にするよう計画したが、それだけでは怪しまれるので、もっともな理由をこじ付けて便乗的に教師も増員すると言っているのだとすればどうだろう?
 もし我々一般人が知らない水面下で本当にこんなことが起こっているのだとすれば甚だ呆れた話だが、これまでの教育行政を鑑みれば、まんざら外れてもいないような気がする。
 しかし、こんなデタラメなことを認めていると、生徒数に反して教師の人数だけがどんどん増えていくことになる。1クラスの定員はどんどん少なくなっていき、終いには1クラス10人とか5人とか、マンツーマンとか言い出す可能性もある。マンツーマンというのは半分冗談だが、10人以下の少人数クラスであれば、もう塾だけで充分で、学校などいらないということになってしまう。
 
 1人の教師が受け持つ生徒数が減るということは、仕事が減少する(=楽になる)ということだから、本来であれば給料も減額しなければならない。給料が減額されるのが嫌なら、教育の付加価値を上げなければならない。それが税金で飯を食っている人間の務めであるはずだ。40人が35人になれば、生徒1人に接する時間が増えるので自然に付加価値も少しは上がるだろうが、それだけでは不十分であることは言うまでもない。塾に行かずとも学校の教育だけで受験をカバーできるというぐらいに教育の質を向上させることができるのであれば、35人制も理解できなくはないが、おそらくそこまでは期待できないだろう。

 民間の教育機関(塾)では生徒数が減少すれば、経営が厳しくなるため、ヘタをすると廃業に追い込まれてしまう。そのため、講師や教育の質を上げるなどの様々な対策が取られるが、公立の学校の場合は、教師の質を上げることなどは考えず、単に教育のシステムをいじればなんとかなってしまう。1クラスの定員を減らして、教師の人数を増やすなどはお手のものだ。結果、国民は無駄な税金を支払わされることになり、ますます国は疲弊する。「公務員栄えて国滅ぶ」とはよく言ったものだが、今回の教師増員などは、お役所の焼け太り政策とほとんど同じ構図であるとも言える。「1クラス35人制にする」などは、まさに典型的なお役人のレトリックだと言えるが、こんなレトリックに騙されるのはもういい加減にした方が良いのではないだろうか?

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書店のブックカバー節約とバタフライ効果

2010082701 最近、書店で本を買うと必ずと言っていいほど聞かれる台詞がある。それは、店員からの「ブックカバーはどうされますか?」という台詞だ。書店側にしても店員に対してコスト削減を徹底しているのかもしれないが、同時に何冊の本を買ってもこの台詞を聞くことになる。

 先日も2冊で4000円程の本を(2回)購入したにも関わらず、いずれも「ブックカバーはどうされますか?」と尋ねられた。
 新書1冊程度ではブックカバーを付けるのは勿体ないというのは理解できるのだが、単行本を数冊購入してもブックカバーを進んでサービスしないというのはどうかと思う。私の場合、現在はマイカー通勤なのでブックカバーが絶対に必要というわけではない。しかし、店員はそのことを知らないわけだから、電車通勤である場合を想定してブックカバーを付けるべきだと思う。
 アマゾンが配送料無料の大盤振る舞い(?)サービスを行っている時代にあって、ブックカバーもサービスしないというのは考えものだ。わざわざガソリン代と時間をかけて書店まで出向いて購入しているにも関わらず、その御礼(?)としてのブックカバーすら付けないという姿勢は如何なものかと思ってしまう。
 
 不況の影響で各業界が小さなコスト削減を行うと、そのコスト削減の波は様々な業界に及ぶことになる。例えば、本が売れないからという理由で、書店が経費削減のためにブックカバーを付けなくなると、ブックカバーの元になる製紙会社も影響を受け、ブックカバーを書店に販売している印刷会社なども仕事量が減少することになる。“本の売れ行きが減少している”という理由だけでなく“書店のコスト削減”という副次的な理由で様々な業界の仕事量が減少してしまうことになる。
 
 書店の小さなコスト削減でさえも巡り巡って全ての国民に影響を与えることになる。これぞ、まさしくバタフライ効果※と言えなくもないが、最終的には書店がブックカバーをケチったことによって、書店の本が売れなくなるという堂々巡りも有り得るということである。この悪循環スパイラルこそが、不況の正体である。
 逆に言うと、景気が良い時というのは、好循環スパイラルが発生しているということになる。書店は何も言わずとも勝手にブックカバーをサービスしていた時代、または、タクシーに乗っても乗車料金以外にチップを支払うという気前の良かった時代、そういった時代には好循環スパイラルが自然に発生していたわけだ。

 本来であれば、不況であるからこそお金を使わなければいけないのだが、人々は不況であるがゆえにお金を使わなくなってしまう。しかし、お金を使わなければ景気は良くならない。当たり前の話ではあるのだが、その単純な事実が解っていながら解決策を実践できないのが人間の悲しい性(さが)である。
 ゆえに政府やマスコミは「不況だから将来のためにも貯金をしましょう」というようなネガティブキャンペーンばかり行うのではなく、本来であれば「不況だからこそお金を使うようにしましょう」というポジティブなキャンペーンを行わなければならないということである。
 
※ 通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象のこと

 ところで、日本の書店業界に突如として現れたアマゾン書店は、既存書店から見ればまさに「黒船」とも呼べる存在だ。既存書店はこの巨大なオンライン書店に丸ごと呑み込まれそうな雲行きだが、はたしてこの現状を打破する策はないものだろうかと最近少し考えてみた。
 1つだけ浮かんだ案は、いくつかの書店が連合して、半径30キロ程度の地域単位で「ミニアマゾン書店」とも言えるような書店を試験的(?)に作ってみればどうかというものだった。(東京、大阪、名古屋などの都市部が中心になる)
 「それではアマゾンの真似をしただけで無意味だ」と思われる人がいるかもしれないが、その書店はアマゾンではできないサービスを行うことが可能だ。そのサービスとは「無料の即日配達」というものだ。(アマゾンでも即日配達が可能だが、距離的に不可能な場合もあり、500円の追加費用がかかる)
 半径30キロ程度であれば、電話やネットから注文すれば、その日のうちにバイク便なり宅配便で配達可能だ。要するに地域限定の日本版アマゾン書店を作ってみてはどうか?ということである。
 日本ではいろんな意味で無理があるかもしれないが、それぐらい抜本的な変化でも起こさない限り、アマゾンという巨船には対抗できそうにない。元々、消費者寄りの発想が乏しかった既存書店がアマゾンという消費者寄りの書店に対抗するためには、消費者の痒い所に手が届く商売方法を考えて実践するしかない。書店がピザのような感覚で本を販売してはならないという決まり事はないわけだから、本の宅配商売が有ってもおかしくはないだろう。
 
 既存書店がこのまま何の変化もせずに過ごしていると、あるいはミニアマゾン書店の設立もアマゾンに先を越されてしまう可能性もある。地域限定の(と言うか、全ての地域にネットワーク化された)アマゾン書店などが現れると、それこそ、日本の既存書店は全て呑み込まれてしまうことになるかもしれない。
 近い将来、日本の書店は全て『アマゾン書店』になってしまったというようなニュースが聞かれないことを願いたいものだ。

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『エコカー補助金制度』は利益の先食いか?

2010082301 現在、日本にはエコ政策なるものが2つ実施されている。言わずと知れたことだが、『エコカ−補助金制度(&エコカー減税)』と『家電のエコポイント制度』である。
 エコカー補助金の方は期限切れ前の駆け込み需要のため、既に予算限度額の5837億円に迫る勢いであることから、期限を待たずして制度打ち切りになるらしい。(エコカー減税の方は2012年3月まで継続される)
 一方、家電のエコポイント制度は今年(2010年)一杯で終了予定だが、昨今の不況を鑑みて期限を延長するかどうかの検討に入っているようだ。

 家電のエコポイント制度はひょっとすると延長する可能性があるが、早々に「延長します」などと発表してしまうと、駆け込み需要が減少する可能性があるので、ギリギリ一杯まで待ってから発表するのではないかと思われる。
 「そんなのはズルい」と言う人がいるかもしれないが、政府(各省庁)もただの慈善事業を行っているわけではないので、これは仕方がないだろう。もし、直ぐさま「延長します」などと言う政府なら、それこそ「無能政府」だと呼ばれてしまうことになってしまう。
 なぜそうなってしまうのかと言うと、国民に如何にしてお金を使ってもらうかを考えて実行することが政府の重要な役目であるからだ。目的はもちろん、税収を増加させるためと、消費景気を促すためだ。
 増税路線一辺倒の民主党の場合、そんなことは微塵も考えていないかもしれないが、国民の消費意欲を喚起させる政策を取れないのであれば、それは景気を良くすることもできないということでもあるので、=「無能政府」になってしまうわけだ。

 かくいう私も今年の春に液晶テレビを購入し、エコポイント制度を利用させてもらった。10万円程度の液晶テレビに23000円のエコポイントが付いたので、実質8万円程度で購入できたものの、その後、数ヶ月間で液晶テレビの価格が2万円程度下がったため、結果的にエコポイント制度が無効になってしまった。ちなみに、エコポイントは23000円分の図書カードを申請し、既に20000円分消費した。
 
 確かエコカー補助金制度については、この前に紹介した大前研一氏の著書『民の見えざる手』にも書かれてあったが、まず最初に行ったのがドイツだった。ドイツが大きな成功を収めたのでアメリカと日本が真似をしたそうだが、確かに日本でも車の買い替え需要が発生し、少なからず景気にも影響を与えたはずだ。
 しかし、エコカー補助金制度を「単なる利益の先食いだ」と述べるエコノミストも結構いるようだ。なるほど、確かに単純に考えると、その通りと言えなくもない。数年先に買い替える車を数年間前倒しにして購入しただけだと考えれば、そう思えたとしても不思議ではない。しかし、この意見には単純な見落としがある。その見落としについて少し説明してみようと思う。
 
 例えば、10年に1度、新車に買い換える人がいたとしよう。その人物は通常通りであれば、20年間に2回、車を買い換えることになる。車本体の価格が1台100万円であるとすれば、この人物が車本体に消費する金額は20年間で200万円ということになる。しかし、エコカー補助金制度が実施されたことによって、10年ではなく8年で車を買い換えることになったとすればどうなるだろうか?
 この場合、18年間で200万円消費することになる。もしエコカー減税なるものが10年に1回実施されれば、16年間で200万円ということも有り得る。エコカー補助金制度を利用する人が人生最後の車買い替えであれば、この限りではないが、今後も買い換える予定のある人であれば、「利益の先食い」にはならない。数十年単位の消費量で考えれば、エコカー補助金制度は非常に有効な景気政策だと言えるのである。

 景気というものは、何も自動車業界だけが動かしているわけではない。国民全体が全市場でどれだけの消費を行うかによって景気の良し悪しが決まるわけだから、来年の車の販売台数が減少することをもって「景気が悪くなる」と言うのでは、あまりに浅はかな景気の先読みだと言える。
 「自動車会社の売上が落ちるため景気に及ぼす影響は無視できない」という短絡的な意見もよく耳にするが、そもそも自動車会社の販売市場は日本だけではない。日本のエコカー補助金制度が終了したとしても、全世界の車の販売台数が揃って急減するわけではないので、余計なお世話だろう。こういった景気の悪い予測ばかり並べ立てる悲観論者の存在こそが、不景気を助長しているとも言える。
 
 家電と車以外に現在考えられるエコ政策と言えば、住宅関係ぐらいのものかもしれないが、政府は今後も消費景気を促すためにも、いろいろな策を講ずる必要がある。
 エコ政策自体が本当に「エコ」になっているのかどうかは疑問ではあるが、たとえ嘘であったとしても、景気を良くするという至上命題のためには、必要悪としてのエコ政策は今後とも必要だろう。国民の多くが「お金を使わないことには景気は良くならない」という現実を理解して、解決策(お金を余分に使うこと)を自ら実践できるのであれば話は別だが…。

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食品偽装事件から生まれた消費者無視団体

2010082101 最近、食品偽装問題が少し下火になっていたかと思っていると、今度は中国産うなぎの輸入元偽装事件が判明した。しかし今回の場合、中国産のうなぎを日本産だと偽ったわけではないようだ。
 イトーヨーカ堂が平成17年に中国から輸入したうなぎに発ガン性物質(マラカイトグリーンという抗菌剤)が混入していたことが既に公になっているため、その事実を有耶無耶にするためにイトーヨーカ堂の名前を表に出さなかったという輸入元改竄事件だった。しかし、単純な産地偽装ではないため、「ウナギロンダリング」以上に悪質かもしれない。その理由は以前(→ウナギロンダリング」よりも重要な「有害物質問題」)にも述べた通りだ。

 はっきり言うと、日本に出回っているうなぎなどは、一体どこからどこまでが日本産であるのかは不明であり、誰もが気が付かないうちに偽装に引っ掛かっている被害者だとも言える。警察が本気で捜査すれば芋づる式に偽装会社が出てくると思われるが、一部の偽装会社しか摘発できていないというのが実際のところだろうと思う。食品偽装会社を全てシラミつぶしに捜査すれば、おそらく目も当てられないような結果になるだろう。ゆえにどうしてもこういった事件は、「一罰百戒」的な意味合いの捜査になりがちだ。見せしめ捜査で本当に「一罰百戒」になればいいのだが、残念ながら、見つからないのをいいことにこれからも食品偽装は続けられていくのだろうと思う。
 
 ここで話題を少し変更しよう。雨後の筍のように出てくる食品偽装会社を糾弾するだけでは面白くないので、別の角度から食品偽装問題を考えてみよう。
 今回の事件の報道も、毎度のように「消費者無視」だとか「企業倫理」という言葉が並んでいる。そういうことを言う(書く)のも決して悪くはないのだが、果たして本当に食品偽装会社を世の中から全て無くすことを目的に報道されているのかは疑問である。
 数年前に頻繁に表沙汰になった食品偽装事件によって、食品偽装を取り締まるための組織である『消費者庁』が出来たことは記憶に新しい。しかし消費者庁が新しくできたことによって果たして本当に食品偽装は減少したのかというと、実際のところは分からない。摘発される偽装会社は少し増えたのかもしれないが、肝心の偽装自体が本当に減少しているかどうかは残念ながら分からない。それに現在の消費者庁は、食品の表示が“本物”か“偽物”かを調査するよりも、食品が“安全”か“危険”かを調査する機関に成り下がっているのではないかという疑いもある。
 
 今回の事件の加害者であるイトーヨーカ堂はどう考えても消費者無視としか思えないので擁護する気はさらさらないが、「消費者無視」ということであれば、消費者庁も負けてはいない。
 先日も「ミニカップ入りこんにゃくゼリー」のリスク評価を巡って、食品安全委員会から批判されるという出来事があったばかりだ。消費者庁は、「こんにゃくゼリーは餅やあめよりリスク要因が多く、業者に商品の改善を促す」と述べたらしいが、この意見に対し食品安全委員から「中立公正なのか疑問」との批判がなされたそうだ。
 こんなことは、食品安全委員が述べるまでもなく、小学生でも分かりきっていることである。
 その食品安全委員会は、少し前に「こんにゃくゼリーは餅に次いで、あめと同程度」と消費者庁に答申していたそうだが、これが専門機関の言い争いだというのだから呆れるばかりだ。分かり易いように、もう1度、以下に記載しよう。
 
 食品安全委員会「こんにゃくゼリーは餅に次いで、あめと同程度」
 消費者庁「こんにゃくゼリーは餅やあめよりリスク要因が多い」

 先程、「小学生」と書いたが、今時の小学生でもこんな幼稚な言い争いはしないのではないかと思う。こんなどうでもいいような言い争いを公然と行っていること自体が、既に消費者無視になっているということに、なぜ気が付かないのだろうか。なぜマスコミは彼らに対して素直に「王様は裸だ」と言えないのだろうか。
 
 一応、フォローしておくと、食品安全委員からは次のような意見も出たらしい。
 
 「都合のいい結論を出すために新たな実験を行うことにつながる」
 「消費者庁が自らリスク評価をするのは中立公正でない」

 
 これらは、まともな大人の意見だと思う。しかし、消費者庁の方はフォローのしようがない。どう擁護しようにも消費者庁は『消費者無視団体』としか思えないというのが正直なところだ。なんせ、消費者の声に素直に耳を傾けようともしないのだから、不公正な独裁機関だと思われても仕方がないように思う。消費者を保護するのではなく、消費者を無視するような機関が「消費者庁」だというのだから、ほとんど笑い話である。

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景気が悪くなることを望む左翼政党

2010081601 金融庁が平成23年末に期限を迎える証券優遇税制※を延長するよう要望しているそうだ。その理由は「急速な円高で株安が続く中、優遇税制存続は株価対策としても有効」だということらしい。金融庁にしては、珍しくまともな要望が出されたようで少し安心した。実体を伴わない金持ち批判を繰り返す左翼政党(民主党も含む)からは批判が出そうだが、今回の金融庁の発表には素直に賛成したいと思う。
 
※株式を売却した際の譲渡益課税率を本来の20%から10%に軽減している制度

 「株式投資はゼロサムゲームである」という意見をよく耳にするが、実際のところはどうなのかというと、短期的に観れば確かにその通りではある。となると、「ゼロサムゲームなら税制などどうでもよいのではないか?」という意見があるかもしれない。しかし、株式投資には景気に影響を与えるという別の側面がある。株式市場の活況は景気を左右する力を持っているということである。
 ではなぜ、株式市場の活況が景気に影響を与えるのかというと、実は心理的な要因が非常に大きい。
 例えば、パチンコを例にしても、勝つ人と負ける人が存在する。実際はパチンコ屋のテラ銭が加わるため、勝つ人よりも負ける人の方が多いことは言うまでもないが、勝った人の心理状態というものが景気に与える影響を考えてみよう。
 パチンコ好きの人であれば誰もが経験したことがあると思うが、パチンコで数万円勝った日などは、気前が良くなり、何か普段は買わないような物を買って帰ろうかという気分になる。なぜそうなるのかというと、それは汗水たらして働いて得たお金ではなく、不労所得で得たお金であるからだ。「時間も神経も(才能も?)費やして儲けたお金だ」と言う人もいるかもしれないが、正規の労働で儲けたお金でないことに違いはないので、ここでは不労所得だということにする。
 
 ここでこう言う人もいるかもしれない。「勝った人が余分にお金を使うことは理解できるが、負けた人は更にお金を使わなくなるので、全体としての消費量は変わらないのではないか?」と。
 しかし、その心配は無用だろう。勝った人をAとし、負けた人をBとして考えてみると、Bが消費量を減らすといっても、生活費自体を削るにも限界がある。せいぜい、余分なお金を使わないようにする程度だろう。ここで重要なことは、Aが余分に使うと思われる金額とBが節約するだろう金額を天秤にかけた場合、どちらの金額が大きくなるかということだ。例えば、Aが1万円余分に消費した場合、Bは1万円以上の節約ができるかというと、その可能性は極めて低いだろうことは容易に想像できる。
 仮に、パチンコ屋のテラ銭分を含めて考えたとしても、上記の結果は変わらないだろう。パチンコ屋全体として考えた場合でも、勝った人々の総消費量よりも負けた人々の総節約量が上回ることはまず有り得ない。つまり、パチンコというギャンブルを通じて、消費量は通常よりも上がると考えられるのである。
 
 株式投資の場合も基本的には同じことが言える。株式投資はパチンコのようなギャンブルではないにしても、大きく儲けた人が気前よくお金を使うだろうことは変わらない。たとえ、その後に大損して収支がトントンになることがあったとしても、既に消費してしまった分は戻らない。大抵の株式投資家(株式投機家も含む)の実体はそのようなもので、儲けた時には気前よく消費してしまうが、いずれ損をして儲けた分は吹っ飛んでしまう。結果として、消費した事実だけが残る場合がほとんどであり、ゼロサムゲームどころが、消費した分だけマイナスという人は結構多いと思う。
 では、それはいけないことだろうか? もちろん、個人的には悪いことだろうが、日本の景気全体として考えれば良いことだ。そしてより重要なことは多くの投資家達はそれ(=結果的に損をすること)を半分承知の上で株式投資を行っているということだ。パチンコと同様、勝った(儲けた)時の高揚感と刺激を得るために、株式投資を行っている投資家達も大勢いるということだ。
 
 以上のような理由で、一種の娯楽でもある株式投資に過剰な譲渡益課税などを設けることは極力控えた方がよい。なぜなら、課税率を上げれば上げるだけ、景気に悪影響を及ぼすことは間違いないからだ。早い話、パチンコ屋のテラ銭を上げた場合と同じ結果になってしまうということだ。パチンコ屋が意図的にテラ銭を上げてしまえば、客が減少することは間違いないところだ。同じ理屈で、株式譲渡益課税率を上げてしまうと、一般投資家の株式投資離れが加速し、不労所得による消費量も減少することから景気も必然的に減退することになる。

 現在のような円高で株式市場が低迷している時には、本来であれば、「株式譲渡益課税は0にする」と言うことが最も望ましい。金融庁の「10%に留める」というのは容認できても、左翼政党(民主党も含む)のように「20%に上げるべきだ」などという経済音痴の戯言には耳を傾けるべきではない。なぜならそれは、「景気を悪くするべきだ」と言っているのと同じことだからである。

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間違った学歴社会から生まれた官僚の正体

2010081401 今月、人事院は国家公務員一般職の月給とボーナスを引き下げるよう内閣と国会に勧告した。これが実施されると、国家公務員の平均年間給与は633万円程度になるらしい。ボーナスも年間3.95ヶ月分となるらしく、ボーナスが4ヶ月割れとなるのは実に47年ぶりであるらしい。

 ボーナスが4ヶ月分を切った程度で大騒ぎ(?)になるところを観ても、国家公務員というものが如何に世間ズレしているかがよく分かる。民間では、バブル景気が弾けてからは、ボーナスが4ヶ月分も支給されるような会社の方が珍しいと思うが、彼ら公務員はバブルが崩壊してからも全く不況の影響を受けずに、ボーナスが4ヶ月分以上も支給され続けてきたことになる。むしろ、そのことの方が大きな問題だと言える。
 
 現在の公務員の給料が異常に高いことは今更言うまでもないことなので敢えて追及するつもりはないが、問題は人事院の次の発言だ。
 
「民間に比べて賃金の低い30代までの若年層の月給は、士気低下や新卒者の公務員離れを避けるため引き下げない。」

 新卒者の公務員離れを防ぐとのことだが、なぜ公務員離れがいけないことなのかが私には理解できない。むしろ、公務員離れが起こった方が良いのではないかとさえ思う。国家公務員試験に合格するような有能な新卒者であれば、わざわざ公務員にならなくても、民間の企業に就職すれば良いのではないか?と思うのだが、何か間違っているだろうか?

 公務員というものは、その名が示す通り、パブリックサーベント(公僕)である。公務員というものは必要最低限の人数は必要だが、社会情勢とともに人員も調整する必要がある職種である。そして、公務員の最大の特徴は“富を生まない”ということである。公務員自らは間接的には富を生み出すことはあっても、直接的には富を生み出すことはできない。ゆえに本当に有能な人間であるのなら、富を生まない公務員仕事を選択するよりも、富を生み出す仕事を選択してもらった方が良いに決まっている。もし「お国のために国家公務員になる」と言う人がいるのなら、「お国のために民間企業に勤める」と言うべきだと思う。なぜなら、「お国のために税金で仕事をする」よりも、「お国のために税金を納める仕事をする」と言う方が理に適っているからだ。
 
 日本では学歴の高い人間ほど、公務員に憧れるという傾向がある(国家公務員と地方公務員の違いは考えないものとする)。なぜ公務員に憧れるのかを聞いてみると、おそらく返ってくる答えは「安定しているから」ということになるのだろう。しかし、『安定』を手に入れるために学生時代に必死に受験勉強(主に暗記)をするというのはおかしくないだろうか? また、安定している職業が高給というのもどこかおかしい。そして、その『安定』自体が誰かの犠牲の上に成り立っている見せかけの『安定』でしかないとすれば?

 勉強をして有能な人間になったのであれば、本来であれば、有能な人間にしかできない“高度な仕事をすること”が目標になるはずだ。しかし日本の場合は、公務員になって“楽をすること”が目標になってしまっている。これでは何のために学問をしているのか分からないとも言える。
 無論、公務員の仕事が全て楽だとは言えないし、忙しく働いている公務員もいるとは思うが、総合的に観れば、公務員仕事は楽だということに疑いの余地はないだろう。実際にお役所などでは1日に10分程度しか働いていない公務員もいる。「そんな人はいない」との反論があるかもしれないが、実際に公務員として働いていた人が言っているのだから間違いはないだろう。(参考文献『公務員の異常な世界』)
 
 有能な人間が有能な人間にしかできない高度な仕事をして高給だというのであれば誰も文句はないだろうが、有能な人間が誰でもできるような簡単な仕事をして高給だというのでは誰も素直には納得がいかないだろう。況してほとんど仕事もしていない人間が高給だというのであれば尚更だ。
 いつ失職するか分からないようなリスクの高い仕事をして高給であるのなら誰も文句は言わないだろうが、どんな不祥事(ミス)を起こしても決してクビにならない人間が高給であるのであれば誰も素直には納得できない。
 “有能な人間が高度な仕事をして高給を得る”という当たり前の労働市場法則が機能していない不条理なシステムがこの国には存在している。その間違ったシステムを維持し続けているものこそが、日本の学歴制度だ。
 
 日本の学歴制度というものは、基本的に中国の科挙の制度を見本としているがために、学生の最終的な目標が最高学府(東大法学部)に入学し、最も優秀な人間達が官僚になることになってしまっている。本来、最も優秀な人間であれば、自分で起業するなり、もっと高度な仕事を行うことで国を発展させるということを目標にすべきところが、そうはなっていない。その間違ったシステムが日本の未来に暗い影を落としていることは言うまでもない。皮肉にも現代では優秀な人間が官僚になり国を富ますどころか国を破壊することが仕事になってしまっている。そういう悪夢のような現状を打破するためには、この国の間違った認識自体を根本的に変えなければならない。
 しかし日本の官僚制度を改革することはアメリカのCIAでも不可能だと言われている。そのことからも、間違った学歴社会を打破することも不可能に近い難題だと言える。日本社会に頑として根を張り続ける官僚制度こそ、まさにホッブズの言うところの「リヴァイアサン」そのものであるのかもしれない。
 

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国会をレジャーランド化する政治家達

2010080701 先日、先の参議院選挙における民主党の反省会(?)なるものが催されたらしく、その場で菅総理は自身の消費税増税発言がマイナスに響いたと語ったらしい。
 この発言をニュースで観て、違和感を覚えたのは私だけではないだろう。
 菅総理は「参議院選挙前に消費税増税を訴えたことが失敗だった」と言いたいのだろうが、有権者はそんなことだけで民主党を支持しなかったわけではないだろう。仮に参議院選挙後に消費税増税発言を行ったとしても、結局、“消費税を上げる”という党のスタンスに違いはないわけだから、多くの有権者から支持されることはなかっただろう。
 問題は、消費税を上げること以外に税収を増加させる方策を全く示すことができなかったことにある。マイナス案で増税不安を煽るだけで、プラス案を全く提示できなかったことが民主党が支持されなかった理由だろう。それ以前に、マニフェスト詐欺も大きく響いたことは言うまでもない。バラマキの大盤振る舞いを公約しておきながら、結局は財源を確保できず、ただの口約束に過ぎなかった(結果としてはそれで良かったのだが…)ことがバレてしまったのだから、有権者が離れていくのは当然の帰結だとも言える。

 大体、増税することが景気刺激策に繋がるなどということは古今東西、聞いたことがない。増税というものは、どのような形であれ『不景気誘導策』にしか繋がらない。ゆえに増税するためには必ずセットで『景気刺激策』も発表しなければならない。
 喩えて言えば、「給料を減給します」(不景気誘導策)と「物価を下げます」(景気刺激策)をセットにしなければならないということであり、単に「給料を下げます」というジリ貧政策だけでは誰も支持するはずがないということだ。
 要は有権者達から“消費税を上げることしか能が無い政党”だと思われたことが問題なのであり、消費税増税の発表が参議院選挙の「前」であろうと「後」であろうと、ほとんど何の関係もないのだ。民主党が本来、反省すべきは、税収を増加させるための成長戦略を打ち立てることができなかったことであり、この期に及んで、消費税云々などと述べること自体がお門違いなのである。

 菅総理の反省の言から、民主党は消費税10%発言を撤回するという態度を見せており、増税を見送る姿勢をしきりにアピールしているように見えるが、国民もそれほど馬鹿ではない。明確な対案を出してこない限り、支持率が元に戻ることはないだろう。バラマキ賛成派からもバラマキ否定派からもそっぽを向かれてしまえば、得意のポピュリズム政治も意味を為さなくなる。菅総理の消費税発言は、大局を見失った自爆発言だったというのが本質であり、今さら表面上を取り繕っても何の解決にもならないということを知るべきだろう。
 ポピュリズムを悪用しようとして、逆にポピュリズムに足を掬われてしまったというのが、現在の民主党が陥っている状態だ。ヤケクソ(?)で「消費税増税」を前面に打ち出した自民党に負けじと、自らも「消費税増税」が民意だと思い込んでしまったのが運の尽きだった。まさか自民党の策略ではないだろうが、本当の民意を肌で感じ取ることができなかったことが災いしたと言える。

 しかし、相も変わらず繰り返される不毛な政治ショーには、いい加減にウンザリしてしまう。そもそも、政治家の仕事とは“景気を良くすること”であるはずだ。政治家に問われるべき責任とは、政策を実行した後、その政策が成功するか失敗するかであって、選挙の結果などは本来どうでもよいことのはずだ。選挙結果というのは、あくまでも政策を実行する権利を手に入れるためのスタートラインであって、ゴールではない。
 ゆえに、政治家が選挙で当選したからといって嬉々として喜ぶなどという態度は極力見せるべきではない。選挙活動の苦労が実って当選したのが嬉しいという気持ちは理解できるが、それは政治家個人の喜びであって国民の喜びではない。本当に喜ぶのは、政治家としての仕事の結果が出てからの話だ。つまり、政治家個人の喜びではなく、国民を幸せにしたことに対する喜びでなければならないということだ。
 政治家というのは受験生ではない。選挙に当選したのであれば、国の政策運営を任されたということを厳粛に受け止めるのが本来の政治家の姿だ。決して“選挙に当選した”=“政治家として成功した”ではないのだ。“選挙で当選して喜ぶ政治家”というのは“受験に受かって喜んでいる学生”と大して違いはないということである。学生が大学をレジャーランド化しているように、政治家までが国会をレジャーランドにしてもらっては困るのだ。

 以上のことから考えると、菅総理が「消費税発言で失敗した」と言っているのは、「受験でヤマが外れた」と言っている学生とほとんど同じメンタリティー(精神構造)だということが分かる。
 菅総理の言うところの「最小不幸社会」とは、少し穿った見方をすれば「限られた人の最小幸福社会」とも受け取れる。つまり、主役は大部分の国民ではなく、少数の政治家自身になってしまっているとも言えるわけだ。選挙に当選するだけで有頂天になっている政治家達の姿がそのことを如実に物語っているとも言える。
 大部分の国民が主役と思っているのであれば、「最大幸福社会を目指す」と言うのが筋である。「民主」を名乗る政党の党首が 「最小不幸社会を目指す」などと述べること自体が馬鹿げている。菅総理の「最小不幸社会」発言は(民主)党の精神と完全に矛盾しており、それはある意味で「消費税発言」以上の大失言なのである。
 

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