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2010年9月

『軍事国家中国』と『平和ボケ日本』の構図

2010092601_2 尖閣諸島沖で発生した中国漁船の衝突事件で中国側が日本に謝罪と賠償を求めていることが大きなニュースとなっている。中国人船長の釈放を決定したのがまたもや検察だったということでも話題となったが、今回は検察のことは於いておいて、日本の安全保障と中国問題について少し述べてみたいと思う。
 
 今回の中国からの謝罪と賠償要求については、さすがの弱腰政府も今のところは「拒否」しているようだが、なにやら、きな臭いムードが漂っている。当たり前の「拒否」が、まるでヤクザに恫喝された馬鹿正直者の「精一杯の抵抗」という印象を与えてしまうのは、これまでの日本の外交が謝罪外交一辺倒であったからだろう。
 とにかく、中国や北朝鮮から謝罪を要求されると無条件に応じるというのが今までの日本外交のお決まりのパターンであったため、もしかすると今回も本当に謝罪してしまうのではないか?という不安が漂っている。
 
 しかし、この問題の重要なところは、日本側が謝罪しようが謝罪しまいが、中国側にとってはノープロブレムだということだ。謝罪すれば、付け上がるスキを与えることになるし、謝罪しなくても、中国お得意の情報操作で反日国民感情に火を付けることができる。どちらに転んでも損はしないという中国側の狡猾な算段が観てとれる。
 
 平和ボケした日本の国民には現実味のない話かもしれないが、現在の中国の軍拡は著しく、本気でアメリカに代わる軍事国家を目指しているとも思われるので、ヘタをすると近隣諸国をも巻き込んだ戦争に発展する可能性も否定できない。
 今回の衝突事件が、もし中国によって恣意的に仕組まれた工作事件であったのだとすれば、現在の日本は非常に危険な状態に置かれているとも考えられるわけで、日本が外交的にどのような対応を取るのかを世界中が注視しているとも言える。
 
 私は右翼でも左翼でもないが、こと外交問題においては、左翼的な政党が国政を牛耳ることは非常な危険を伴う。現在の政権である民主党が左翼政権であることは既に(新聞とテレビを除いた)様々なメディアで報じられていることなので今更、疑いを入れる余地はないが、この期に及んでも「平和憲法を守る」などという戯言を言っているようなら、救いようがないとも言える。
 
 もし中国が戦争を開始するようなことがあれば、日本はどうするのかというと、実はどうすることもできない。既に核兵器を配備している軍事国家である中国と、「核兵器などで防衛するのは以ての外だ!」「戦争断固反対!」と叫んでいる日本が戦争などを開始すれば、どのような結果になるのかは小学生でも解ることだろう。
 そんな平和ボケした国であるがゆえに、アメリカとの安全保障条約が(皮肉にも)重要さを増してくるわけだが、左翼政党が日米安保条約を軽視した言動をとっていることは周知の通りだ。彼ら左翼政党が「売国政党」と言われるのはそういう理由からである。彼らは、国にとって善かれと思って行っていることが、実は国を破滅に導くことに繋がるという現実が見えていない似非平和主義者なのである。
 
 どうしても「アメリカに頼るのは嫌だ!」と言うのであれば、自国で自衛する手段を持つ(=軍隊を持つ)というのが世界の常識だが、「それも嫌だ!」ということで、まさにどうすることもできない宙に浮いた浮揚国家というのが現在の日本の姿だ。「戦争は反対」「他国に守ってもらうのは反対」「自国で防衛するのも反対」という何でも反対すればよいという野党のような軍事無視国家になっているのが日本の実状だとも言える。
 戦争はイケナイことだというのは当たり前で、そんなことは子供でも承知している。しかし、そういった常識が通用しない国(特に共産主義国家)があるために仕方なく自国防衛手段として軍隊や核兵器を有しているというのが各国の軍事事情だ。
 
 例えば、拳銃を所持することが許された国に入国した時に、「身の安全のために拳銃を持った方がよい」と勧められた場合、あなたはどうするだろうか? 拳銃を発砲する気がなくても、拳銃を持っているというだけで、いらぬトラブルに巻き込まれずに済むのであれば、誰もが護身用に拳銃の所持を受け入れるのではないだろうか?
 しかし、「拳銃を持つことはイケナイことなので、私には護身用の拳銃は必要ありません」と言う人がいた場合、その姿を観て、あなたはどう思うだろうか? 「立派な人だ」と思えるだろうか? そもそも、当の本人は、戦火の絶えないスラム街のような所に無防備で入っていくような勇気があるのだろうか? 言葉で強がりを言っているだけで、実際にはそんな勇気などは微塵もなく、いざとなったら逃げ出すような臆病者ではないのだろうか?
 
 「平和主義者」と名乗るような人々は、大抵が現実を無視した似非平和主義者であり、そのような非現実的な平和を求めることで、返って平和は破壊されることになる。
 本当の平和主義者であれば、日本国内で「戦争反対!」などといくら叫んでも無駄であることは理解している。「戦争反対!」などという言葉は世界を舞台に叫ばなければ意味がないのである。それができないでのあれば、ただの偽善者でしかない。
 
 今のところ、中国への謝罪は拒否している民主党だが、今回の中国問題の処理の仕方によっては、普天間問題で自滅した社民党同様、菅内閣も自滅する可能性がある。
 民主党が自滅するのは勝手だが、国が破滅するような対応だけは取らないように注視しなければならない。

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絶対的に腐敗した権力者達

2010092301 厚生労働省の村木局長事件は、検事の押収書類改竄(検察のデッチ上げ )という前代未聞の事態を迎えてしまったようだ。「前代未聞」と言っても、検察が犯罪を犯したことが前代未聞なのではなく、検察の犯罪事実が公に公開されたのが前代未聞という意味である。
 最近の検察の不評ぶりは目に余るものがあったが、ここにきてようやく、その腐敗の闇にスポットライトが当てられようとしている。まるでサスペンスドラマのような劇的な展開を迎えたこの事件には、一体どのようなラストが用意されているのだろうか?
 
 検察の横暴ぶりが社会的に注目され、衆目を集めるようになったのは、おそらくライブドア事件が契機になったのではないかと思われるが、私は最近、リクルート事件の暴露本である『リクルート事件・江副浩正の真実』を読んだ。その本を読んでいると、検察という組織の実態と、その腐敗ぶりが嫌というほど感じられ、吐き気を覚えずにはいられなかった。同時に江副氏という非常に有能な経済人を社会的に葬った検察という組織に憤りを覚えた。
 
 これまで検察という組織は、世間一般では“正義の象徴(省庁)”と崇められ、まるで水戸の黄門様のような神聖な組織だと思われてきた。いや、多くの無知な人々には未だにそう思われているフシがある。
 そういった神聖な組織が“事件をデッチ上げた”という事実が全国に報道された衝撃は計り知れないものがある。しかし、数年前に我々はこれと同じような感覚を味わったことがある。それは、忘れもしない例の社会保険庁の年金事件である。
 それまで多くの人々に絶対的に信じられてきた社会保険庁という組織は、実は幼稚園並みのデタラメ組織であることが明らかになったことは記憶に新しい。しかし、今となってはもはや、社会保険庁という組織を信じているというような酔狂な人は誰一人として存在しない。
 
 社会保険庁が歩んだ道を検察庁も歩むことになるとは流石に思いたくはないが、現在の検察組織の実態を透明化し、本来のあるべき姿に戻す必要はあるのではないかと思う。「絶対権力は絶対的に腐敗する」というアクトン卿の名言の通り、自浄作用を持たない日本の役人組織は、すべからく腐敗しているのではないかとさえ思える。その中でも“逮捕権”という絶対権力を有した検察という組織は、また特別な存在だ。
 誰からもチェックされることなく、何の責任も背負わず、ターゲットにした人物(主にお金にまつわる有名人)をゲ−ム感覚で悪人として吊るし上げるような独善組織があるとすれば、それは多くの国民にとって看過できない大きな問題だろう。本当の悪人を吊るし上げるのであれば頼もしいが、一度、逮捕した人間は善人(無罪)であろうと悪人であろうと関係なく、己の筋書き通りに有罪にしなければ気が済まないなどというような無茶苦茶な組織が、誰からも監視されることなく存在しているのだとすれば、それはまさしく悪夢の社会である。
 
 “警察官が犯罪を犯す”“教師が痴漢をする”“医者が病気を作る”“坊主が殺人を犯す”と同じように“検察官が事件を作る”のは御法度であることは言うまでもない。
 職業的に悪人にばかり接していると、知らず知らずのうちに己の心までねじ曲がってしまうものなのかもしれないが、検事が事件を創作するようになってしまえば世も末であり、それは司法の崩壊を意味する。現在の検察は司法というものが何のために存在するのかさえ見失っていると言わざるを得ない。司法というものは無辜の民のために存在するのであって、エリート検事の出世のためにあるのではない。本来、司法という絶対的な権力を手に入れる人間は絶対的な善人でなければならない。司法を司る者は絶対的な聖人でなければならない。そうでなければ、その権力は絶対的に腐敗する。
 
 絶対権力者たる検察が、第四権力であるマスコミと結託し、独善的に創り上げた虚構としての悪を断罪するなどという時代遅れの捕物帳はもういい加減に止めた方がよい時期だ。現代人の多くはそんな時代劇(フィクション)を観たいなどとは思っていないのだ。
 本当の知識人達の眼には、『検察』という組織は、もはや『裸の王様』としか映っていないという現実を受け入れなければならない。知識人でなくとも、これだけ世間で騒がれ始めれば、何かおかしいのではないか?と薄々感づいているはずだ。
 自浄能力のない旧態依然たる組織が本来の姿に生まれ変わるためには、内なる声(内部告発)ではなく、外からの声(国民の批判)に期待するしかない。そういう意味で今回の事件は、検察がチェンジするチャンスでもある。現在のような腐敗体質には嫌気がさしている真面目な検察官もいることを期待したい。
 今回のデッチ上げ事件の発覚によって、検察という組織がどう変貌を余儀無くされるかに注目しよう。先の江副氏やホリエモンなど、その変化が日本経済に与える影響も決して無視できるものではないはずだ。

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アマゾン1円販売モデルの行方

2010091801 このところ、商品の配送料を無料にして話題を集めていたアマゾンだが、またまた思い切った(?)値下げを行ったようだ。既にご存知の方も多いと思うが、アマゾンマーケットプレイスで販売されている書籍の配送料が340円から250円に値下げされた。(今のところ半年間限定での試行ということらしい)
 
 古本の配送料が340円から250円に下がるのは消費者にとっては有難いことだが、出品者にとっては悩ましいところだろうと思う。出品者達はマーケットプレイスというオンライン古本市場でこれまで築いてきた独自のビジネスモデルをまた1から組み直さなければならなくなる。例えば、マーケットプレイス名物(?)だった“1円商品”は姿を消すことになるかもしれない。(理由は後述する)
 
 私もマーケットプレイスはよく利用する。もちろん、買うオンリーなので、今回の値下げは喜ばしい。私の場合、基本的に新書などは通常の書店で買うことにしている。仮に1冊800円程度の新書がマーケットプレイスで半額で出品されていたとしても、配送料の340円が加算されることで結局、新品で購入する金額とほとんど変わらなくなる(400円+340円=760円)ためだ。
 しかし、今回のような値下げが行われると、先の例で言えば、400円+250円=650円となるので、少し考えさせられる。あくまでも半額以下で販売されていた場合の話だが、毎月数冊以上の新書を購入するような多読の人ほど、マーケットプレイスに傾斜していくのではないかと推測される。
 
 話を1円販売モデルに戻そう。アマゾンマーケットプレイスではよく1円で古本が出品されている。かつては私も、1円で販売してどうやって利益を出しているのか不思議に思っていたことがあったが、調べてみると、その謎のビジネスモデルは以下のようなものだった。
 
 (1円+340円)ー(160円+80円+100円)=1円
 
 上記計算式を項目名で表すと以下のようになる。
 
 (商品+配送料)ー(郵送料金+カテゴリー成約料金+基本成約料金)=1円
 
 これだと、確かにマイナスにはならない。本当は上記式の右側の項目には「販売手数料」(15%)というものも存在するが、1円の商品であれば販売手数料はかからない。(1円に15%を掛けても0円になるため)
 しかし、1円の利益では手間代を考えるとマイナスなので、この状態では誰も1円では出品しないだろう。ではなぜ、1円で出品している人がいるのかというと、大口業者(書店など)の場合は、基本成約料金である100円を支払わなくてもよい(その代わりに月額4900円の登録費用がかかる)という決まり事があるためだ。1ヶ月に50個以上の商品を売買する業者であれば、4900円の固定料金を支払った方がプラスになる。
 大口業者の場合、1円で出品しても101円の利益が出る販売モデルとなっているために、1円商品というものが存在しているわけだ。
 しかし、今回の値下げによって、利益率は大幅に減少することになる。配送料は90円値下げだが、出品者がアマゾンに支払うカテゴリー成約料金は逆に80円から60円に値下げされるそうなので、実質の利益は70円下がることになる。一応、数式化すると以下のようになる。

(個人の場合)
 (1円+250円)ー(160円+60円+100円)= ー69円
 
 大口業者でない場合、明らかにに赤字(69円の赤字)となるので、70円以下で出品する個人出品者はいなくなるだろう。
 
 では大口業者の場合はどうか? 以下に数式化すると、
 
 (1円+250円)ー(160円+60円+0円)= 31円
 
 大口業者の場合、配送料が250円になったとしても、まだ31円の利益が出る計算になる。さらに大口業者の場合、大量の商品を取り扱っていれば一括発送によって郵送料も若干下げることができる可能性もある。
 しかし、1冊30円程度の利益では梱包する手間や人件費を維持できなくなる可能性があるので、結果的には、1円販売モデルは消滅するか、残ったとしても激減することになるだろうと思う。それこそ、“珍しい”という意味でのアマゾン名物となる可能性がある。
 
 見せかけ上、本を1冊1円で販売できるというビジネスモデル自体が、本当に正しい販売モデルだったかと言えば、何とも言えない部分があるが、1円の商品が70円になったとしても支払う合計額が同じであるなら、誰も文句はないはずだ。
 それと、アマゾンはアフィリエイトも行っているが、1円の商品では紹介手数料を支払うことができないという難点があった。3.5%の紹介料を支払うアフィリエイトの場合、商品の値段は最低でも29円にしなければ成り立たない(29円×0.035=1.015円)わけだから、アフィリエイターにとっても今回の料金改定は納得のいくものなのだろうと思う。
 
 アマゾンマーケットプレイスの1円商品販売モデルは、販売トリックとしては成り立つビジネスモデルだったわけだが、その販売モデルが崩壊したからといって、消費者が損をするわけではない。では販売者が損をするのか?と言えば、そうでもない。元締めのアマゾン自体の売上げはおそらくアップするだろうし、出品者もこぞって値上げをすれば損はしない。大口業者と個人出品者の売上の差が開くことにはなるだろうが、その責任がアマゾンにあるわけでもない。アマゾンのシステムの隙間を埋める形で出品者達が勝手に築いた商売が成り立たなくなったとしても、それがアマゾンの責任だとは言えない。
 
 しかし、アマゾン自体もマーケットプレイスに集った個人出品者から元締め料を取っていたわけだから、アマゾン側としてもビジネスパートナーである個人出品者の動向を無視するわけにはいかないだろう。今後も増え続けることが予想されていた個人出品者がこれを機に減少に転じれば、考え直す可能性もあるだろう。
 これまで配送料の関係でマーケットプレイスで購入されていなかった商品の売上げは間違いなく伸びるだろうが、アマゾン側としては、マーケットプレイスの出品者自体が減少しても困るわけだから、配送料250円モデルは本当に期間限定で終了となる可能性も否定できない。
 同じように期間限定だったはずの牛丼1杯250円セールは未だ続いているようだが、アマゾンマーケットプレイスの配送料250円セールは果たしてどこまで続いていくのだろうか? アマゾンの新ビジネスプランは功を奏するか? その結果をブログで報告するまでの間、興味深く観察させてもらおうと思う。

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『円高=悪』というミスマッチ

2010090601 最近の円高の影響からか、世間ではまたもや「日本破綻」という悲観的な言葉が飛び交っている。世間と言うよりも巷のエコノミストの口から「破綻」という言葉がよく聞かれるようになってきた。このままでいくと2020年頃には破綻するという意見が多いようだが、はたして本当に日本は破綻してしまうのだろうか?
 しかしこの「破綻」という言葉は曲者で、日本の何が破綻するのかという前提次第では大きく違ってくる。「日本国家」が破綻するのか、「日本経済」が破綻するのか、「日本国債」が破綻するのか、「日本の金融システム」が破綻するのか、「日本の年金システム」が破綻するのか、その何を基にするかで答えは違ってくる。
 
 最近では“政府の借金”と“国民の借金”を区別する意見もよく聞かれるようになってきた。お役人やマスコミが発表する「国民1人あたりの借金額は…」というのは、実は国民の借金ではなく「国の借金」のことだと述べている評論家も多くなってきた。この意見の言い出しっぺは私の知る限りでは三橋貴明氏だったと思うが、さて、この意見は本当だろうか?
 実はこの意見も、前提を変えることによって違ってくる。政府が国民から借金しているというのは確かにその通りなのだが、その借金したお金を政府が全て無駄遣いしたというのも少しおかしい。
 直接的には政府の借金だとはいえ、その借金の中には間接的に社会福祉などに使用されたお金も多分に含まれている。借金の一部は国民自身のために使用されたお金であることも確かなので、単に「政府の借金」と決め付けるのは少しズルい解釈とも言える。正確には「国民を含んだ国家の借金」とするのが妥当なところだろうと思う。無論、そのお金を貸しているのは国民である。
 
 日本の場合、膨大な財政赤字があるとはいえ、そのお金を借りているのも貸しているのも国民(国家)自身であり国内の範囲で留まっているため、国が直ぐさま経済的に破綻するということはまず有り得ない。最悪、国家の借金を国民がチャラにすれば済むことなので、1から出直すことは理屈の上では可能だ(実質的には不可能だと思うが… )。あくまでも最悪のパターン(債務国家としての破綻)だけは避けて通る術はあるということである。

 国内ではあまり知らされていないそういった隠れた安心感があるため、ドルやユーロから離れた余剰資金(リスクマネー)が日本円買いに向かったわけだ。日本はその他の破綻国家とは違い“債権国家”であることから、破綻リスクの少ない国だと思われているわけである。破綻間近の国の通貨が大量に買われるなどということはまず有り得ない。その有り得ないことが実際に起こっているわけだから、真実は推して知るべきである。
 しかし、同時に日本は世界最後の(非効率な)社会主義国家だと思われていることも確かなので、どこまでも円が買われるということもないのではないかと思う。幸か不幸か、破綻はないが成長もしないとも思われているため、どっち付かずの不安定な経済状態が続くというのが正確な見方ではないかと思う。要するに「ローリスクノーリターン」という日本の銀行そのままの姿が現在の日本の立場だと思えばいい。
 
 また、「円高で日本企業は破綻する」という意見もよく耳にする。確かに急激な円高で一部の輸出企業の業績が悪くなるのは避けられない。しかし、資源に乏しく物価の高い日本は、幸いなことに原材料はほとんどが輸入品で賄われているため、自動的に為替のリスクヘッジも行われていることになる。そのため、円高が絶対的に悪いとは一概には言えない。それに、円高を良しとする企業や、直接的に円高の影響を受けない内需型の企業も数多くあるわけだから、『円高=悪』というような短絡的な決め付け報道をそのまま鵜呑みにしてしまわない方がよいかもしれない。
 
 そもそも自国の通貨が信用され買われている(他に信頼できる国が無いから買われているとも言えるが)のだから、本来であれば喜ぶべきことであるはずだ。それが素直に喜べないのは、日本が《製造業中心の輸出国家》だと国民自身が思い込んでいるからに他ならない。

 しかし、今後の世界情勢が円高を望むのであれば、日本は円安主導ではなく、円高主導の企業体質に変化していかなければならない。それはかつてのようにコストをギリギリまで下げるというような円高に対する対症療法的な変化ではなく、逆に円高をメリットにできる国にチェンジしていかなければならないということである。
 
 円高をメリットにする国とはどんな国だろうか? それはかつてのアメリカのような自国の通貨高を利用した消費国家だろうか? それとも金融に重きを置いた、かつてのイギリスのような金融国家だろうか?
 いずれにしても日本は先進国としての新しい国家モデルを模索しなければならない時期に来ているということだ。製造業中心の輸出国家というのは、現在の中国の姿であり、それはお世辞にも先進国の経済モデルとは言えない。よく言えば、新興国、悪く言えば、発展途上国の経済モデルなのである。日本はいい加減にモラトリアム国家から脱皮し、このミスマッチを解消することを考えなければならない時期に来ているということである。

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