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2010年10月

リスクを無視する司法関係者達

2010103001 昨日、以下のような興味深い裁判報道があった。

 高木証券から不動産投資ファンドを購入した大阪府内の60〜70代の男女3人が「十分なリスク説明なしに購入させられ損失を被った」として、同社に計約2億3400万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で大阪地裁は28日、同社の説明義務違反を認め、計約7900万円の支払いを命じた。【日本経済新聞より】

 高木証券の営業が実際にどのような勧誘をしたのかは定かではないが、常識的に考えれば、これは無茶苦茶な判決であると言える。訴えを起こす方も起こす方だが、判決を出す裁判官も裁判官である。
 「ファンド」と名の付くものには基本的にリスクは付き物であり、購入した債券が暴落してしまったとしても、それはあくまでも自己責任である。監禁でもされて無理矢理に買わされたとか、「100%損はしない」という契約でも結んでいない以上、責任は買った本人にあると考えるべきだ。仮に詐欺まがいの強引な勧誘であったとしても、最終的に買うか買わないかを判断する自由が本人に与えられていたのであれば、やはり買った側にも大きな責任がある。それがまともな資本主義社会の常識だ。リスクを背負うことが嫌なのであれば、初めからファンドなどを購入せずに銀行の定期預金でも選択するしかない。

 「証券会社のリスク説明が不十分だった」ということらしいが、買った本人自身は全くノーリスクで高額な運用益を得られるとでも思っていたのだろうか? もしそんな都合のよいファンドがあるなら、世間一般の人々はこぞって銀行預金を解約して、ファンドに資金を注ぎ込むようになるだろう。しかし実際にはそんなことが起こっていないということは、値下がりリスクが有るということであり、それを知らなかったというのは、あまりにも都合のよい話である。もし逆に大きく儲かっていればどうしたのだろうか? 「説明もなしに儲かったので寄付します」とでも言うのだろうか?

 3人で2億円以上も損害賠償請求しているところをみると、おそらく1人当たり1億円近い資金を注ぎ込んだのだろうと思われるが、一体どれだけの資産があれば、それだけの資金を不動産ファンドに注ぎ込めるのだろうか? それだけの余剰資金を保有している人達が、投資やファンドに全く関心が無かったというのも可笑しな話である。

 この訴えに対し、大阪地裁は原告側の過失を約3割とし、3割分である7900万円の支払いを高木証券に命じた。原告側(訴えている側)の過失が3割で、なぜ被告側(高木証券)の支払う損害賠償額が3割になるのかは意味不明だが、結局、7割はリスク説明を怠った高木証券が悪いということらしい。しかし、7割や3割という数字は、一体なにを基準に決められたのだろうか? 損害賠償請求額が1億円であれば3000万円、3億円であれば9000千万円になってしまうのだろうか? こんな数字に法的根拠があるとは到底思えない。どう考えてもこれは単なる心証判断であり、こんな感情論に傾いたいい加減な判決を出してしまうと、今後も投資で損害を被ったという訴訟が相次ぐことになる可能性も否定できない。
 そんなことになると、証券会社は、ほとんど無意味なコンプライアンス(徹底的な説明をする義務)を行わなければならなくなり、説明不要のお客にさえも、1から100まで事細かく説明しなければならなくなってしまう。それが如何に非効率なことか解らないのだろうか? そもそもそんな窮屈な社会になれば、証券会社は訴訟リスクを恐れて縮み上がり、ただでさえ投資意欲の減退した日本社会がますます投資不足となり、日本経済も疲弊していくことに繋がってしまう。

 無意味で幼稚な裁判ごっこが日夜繰り広げられると、裁判官や弁護士などの司法関係者は忙しくなるかもしれないが、日本経済は無茶苦茶になってしまう危険性がある。裁判官が市場を無視したデタラメな判決を出してしまうと、社会的な混乱が発生し、経済が破壊されてしまうかもしれないというリスクをもっと考えなければならない。
 今回の判決にしても、感情論ではなく、何がいけなかったのか?という本質をもっと追及するべきだ。それができないのであれば、なんのために裁判官が存在しているのかが分からなくなってしまう。一般人にでもできるような場当たり的な判決を出すだけなら、裁判官の威厳など無いに等しい。

 ライブドア事件の時もそうだったが、この国の司法関係者(検察や裁判官)はもっと市場経済について勉強する必要があると思う。本来、司法関係者は、一般人を超越した高度な知性を有していなければ仕事が務まらないはずだ。一般人から尊敬されるべき裁判官が、市場経済を理解せず、リスクについての認識もほとんど皆無では話にならない。
 市場やリスクに無知な共産主義者が市場経済を判定すれば、どう転んでも「市場経済は悪」という判決に成らざるを得ないわけだ。現代の司法関係者は法律以前に市場経済、いや、まず常識を学習した方がよいのではないかと言いたくもなる。

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世間知らずのお役人を大量生産するシステム

2010102201 橋下 徹知事による「公務員の育休」批判が注目を集めている。なんでも、「お役所の職員が率先して育児休暇を取得することには反対」だと述べたらしい。
 実際に、大阪府箕面市の倉田市長は2週間、広島県の湯崎知事も1ヶ月間の育児休暇を取得する予定らしく、広島県の湯崎知事は、橋下発言に対して「大きなお世話だ」と述べているそうだ。
 
 しかし、橋下知事は理由もなく単なる感情論で「育休」を批判しているわけではなく、きちんとした理由も述べている。

 「育休が取れる社会には賛成だが、首長の育休には反対
 「首長が育休を取ったからといって、世間が育休を取れる環境になるわけではない。あまりにも世間を知らなさすぎる

 上記は橋下知事の台詞だが、これはもっともな正論だと思う。こういった正論に対して「大きなお世話だ」と言える図太い神経をこそ疑うべきだと思う。
 
 橋下知事の言う通り、今時、男性が育児休暇などを取得できるような会社はごく稀である。もちろん、育児休暇を取得できないことが良いことだというわけではない。理想としては夫婦揃って育児休暇を取得できる社会の方が望ましいことは言うまでもない。しかし、育児休暇を取得せず(または結婚もぜず、子供も産まず)に必死で働いている一般のサラリーマンの現状を無視して、そのサラリーマン達の税金で飯を食っている(言葉を変えれば、サラリーマンに雇われている)公務員が率先して育児休暇を取得するというのは、本来であれば筋が通らない。
 
 湯崎氏は「育児休暇の取得を自ら実践することで男性が育休を取得しやすい環境づくりに取り組む」などと述べているそうだが、筋違いも甚だしいと言える。
 これは橋下知事も述べている通り、順序が逆さまである。公務員が育児休暇の取得を実践したところで、ほとんど全ての民間企業のサラリーマンは、そんな真似はできないからだ。高度経済成長期であればともかく、現代のような競争の厳しい労働環境下で暢気に育児休暇などを取得していれば、その人物は会社にいらなくなるか、その会社が潰れるようなことも充分に有り得る。一般的な民間企業のサラリーマンが有給休暇すらまともに取得できない時代に、有給休暇どころか育児休暇まで率先して取得するというのだから、まるで現実味のない話である。

 湯崎氏は元々は通産省の官僚であるらしいが、アッカネットワークスの創業者でもあるらしいので、生粋のお役人ではないため、民間企業人としての立場から意見を述べていたのかもしれない。しかし、もしそうだったとしても、もう少し言葉を選ぶべきだろうと思う。「大きなお世話だ」などという感情丸出しのお役人台詞は「知事」という立場的には控えるべきであったのではないかと思う。
 一方、箕面市の倉田市長の方は、東大を卒業後、郵政省、総務省、そして箕面市役所に勤務したというだけあって、生粋のお役人であるらしい。
 
 さて、本題に入ろう。今回のテーマはズバリ、『なぜ、お役人には世間知らずが多いのか?』である。
 今回の橋下知事も述べているが、この「世間知らず」という言葉はもう少し具体的に言うなら、「民間知らず」とも言い換えられる。学校を卒業後、そのままお役所に入省するような人物は、当然のことながら民間企業を知らないし、知らなくて当たり前だ。実はこの当たり前のことが大きな問題なのである。
 
 現在、国家公務員になるためには、難解な国家公務員試験や面接試験に合格する必要があるが、私はこれだけでは不十分だと思う。いや、むしろ、難解な試験などは必要なく、もっと実社会を学習するという実地訓練のようなものに変更した方が良いのではないかと思う。
 例えば、民間企業に最低でも5年から10年は勤務するというようなキャリアパス的なものに変更した方が良いと思う。なぜそう思えるのかというと、実際に民間企業に勤めない限り、経済やビジネス社会の実態、需要と供給の原理などが肌で理解できないからである。頭だけで経済原理などを理解しても、ほとんど何の役にも立たないことは、現在の官僚や政治家達がその身をもって証明してくれている。
 官僚や政治家達がトンチンカンな政策ばかり実施しているように見えるのは、彼らが無能だからではなく、世間を知らないからだとも言える。いかに頭の回転が速くとも、問題の本質自体を理解できていなければ、間違った政策ばかりが出てくるのは至極当然の帰結だ。お役人が「世間知らず」となる根本的は原因は、一言で言うなら「原価意識の欠如」である。『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という諺を用いて言い換えれば、『民間企業に入らずんば原価意識を得ず』ということである。
 
 自らが民間企業(できれば中小企業)に勤めて、サラリーマン社会の不条理というものを肌で感じとった人間こそが公務員になるべきであり、また、そういった人物でしか実の有る政策は実施できないと思う。市場原理の洗礼を受けた人間にしか、実の有る経済政策などはできないということである。お金の苦労の「く」の字も知らない政治家や、左翼運動に取り付かれたようなヒーロー気取りの政治家からは、真っ当な政策など出てくるはずがないというのは、当たり前の話である。
 
 この“当たり前”の問題を追及していくと、現在の公務員になるための資格条件が、あまりにも時代に合致していないことが見えてくる。公務員試験自体が時代とミスマッチであるために世間知らずのお役人が大量生産されていき、入省時の理想や志とは裏腹に日本経済を泥沼化していくことに貢献していくようになる。
 これは当のお役人にとっても悪夢かもしれないが、一般人にとっては地獄を意味する。“悪夢”と“地獄”の違いは、現実的に被害を被るかどうかという違いである。公務員は日本経済がダメージを受けても傷付かないが、一般人は実際に傷付くことになる。無論、これは比喩であり、経済的に(給料として)被害を被るという意味である。
 
 公務員となるべき人間は、難解なペーパーテストに合格することよりも、平凡な労働環境の中に身を置くことの方が重要であり、そういった社会が実現できれば、公務員の意識改革にも繋がり、良い事づくめのようにも思える。しかし、現代の日本は、そういった融通の利いた変革ができなくなってしまっている。なぜか? その理由も同じく、世間知らずのお役人を大量生産するシステムが維持されたままだからである。

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『有給休暇取得率増加』は消費刺激を促すか?

2010101701 先日、厚生労働省の就労条件総合調査発表が行われた。その発表によると、昨年1年間の正社員の年次有給休暇取得率は47.1%であったらしく、前年比で0.3ポイント低下したらしい。
 政府の新成長戦略には、『余暇増大によって消費刺激を促す』という目標があるらしく、2020年までには有給休暇取得率を70%まで引き上げるつもりであるらしい。
 
 日本企業の年次有給休暇日数は大体20日間程度が平均だと思う。そう考えると、有給休暇取得率が47%というのは、年間で9日間は有給休暇を取得していることになる。はたしてこの日数は少ないと言えるのだろうか?
 
 私の場合、有給休暇取得日数は年間でせいぜい2日間程度であり、場合によっては全く取得しない年もある。おまけに完全週休2日制でもないので、土曜日も半分程は出勤している。そんな人間から観れば、年間で10日間近くも有給休暇が取得できるだけでも羨ましく感じてしまう。
 無論、「羨ましい」と思うのは仕事が有るという前提で有給が取得できる場合の話で、仕事が無くて仕方なく有給を取得しているような場合は、羨ましいとは思わない。
 現在は、仕事量が減少している企業も結構あるだろうから、会社を休んでも仕事に影響しない(時間が余っている)という理由で有給休暇を取得している人も多いのではないかと思う。そう考えると、昨年よりも有給休暇の取得日数が減少しているということは、逆に仕事量が少し増加しているとも言えるわけなので、必ずしも悲観視することではないのかもしれない。
 
 普通のサラリーマンが有給休暇を取得する時というのは、慶弔や病気、そしてたまに行く旅行ぐらいのもので、単に「休みたいから」という理由ではなかなか取得することができない。元々、日本企業の有給休暇日数などは有名無実な制度であり、全て取得するために用意されたものではないことは暗黙の了解事項である。
 会社が率先して「有給休暇を取得するように」とでも言わない限り、極力、有給休暇は消化しないように努めるのが日本の一般的なサラリーマンの特徴でもある。それが良いことなのか悪いことなのかはともかくとして、有給を全て取得することは“あまり褒められたことではない”という認識が一般的だと思う。
 「有給を取得するように」などという台詞は、公務員の世界だけで通用する台詞であると思われるし、実際に公務員の世界では、有給を全て取得することが奨励されている。まるで、予算を全て使い切ることが良いことだとする役所の掟をそのまま有給休暇日数にも当て嵌めたかのような話である。
 
 有給休暇を誰にも気兼ねなくいつでも取得できるということは、その人物がいつ休暇を取得しても誰も困らないということの裏返しでもある。日本では、必要のない有給休暇を取得することは、「仕事が忙しくない」と思われることに直結するため、勤務評価を気にするサラリーマンは、やる気をアピールするためにも、無駄な有給は極力取得しない。仕事が無くても仕事の有る振りをし、無駄な会議を延々と行うのが日本企業の悪い特徴でもある。
 なんにせよ、日本のサラリーマン社会では、有給を取得することはあまり良いことだとは思われておらず、どちらかと言えば、後ろめたいことだと思われているということである。

 政府が、現在の有給休暇取得率47%(9日間)を70%(14日間)にしたとして、本当に消費刺激策になるのかは甚だ疑問ではある。単に休日が増えたからといって消費が増えると考えるのは、あまりにも短絡的(楽観的)過ぎるのではないかと思う。
 消費者が消費を増やそうと考えるのは、仕事が永続的に有るという予測が立つ場合であって、休日が増えることではない。将来的に継続的に収入が見込める場合に限り、消費を促すことができる。
 そもそも休日が増えるといっても、仕事がないために休日が増える場合もあり、仕事も休日も同時に増えるようなことは、一般的な労働社会(サラリーマン社会)では、まず有り得ない。有り余るほどの仕事を抱えている人間が、休日も増やせるかどうかを考えれば、答えは明白である。

 『仕事の忙しい人間は休日が減り、仕事の暇な人間は休日が増える』というのが、常識的な社会の姿である。その常識が通用しないのは、労働市場法則外にある公務員社会だけである。公務員の場合は、『仕事の量に関係なく休日が増える』、『仕事の量に関係なく収入が増える』ということが有り得る。そして、何よりもまず、『仕事の量に関係なく職場が永続する』ため、消費量を人為的にコントロールすることができる。
 つまり、政府が言うところの『余暇増大によって消費刺激を促す』という目標は、公務員の世界でしか達成できないということである。民間の世界でそれを達成するためには、全く手段が異なる。その手段とは、『休日数を増やす』ことではなく『仕事量を増やす』ことだ。需要を増加させない限り、真の消費景気を促すことはできないということである。
 「1に雇用、2に雇用、3に雇用」と叫んでいた菅総理にも同じことが言える。雇用を増加させるためには、まず需要(仕事量)の増加こそが必要だ。しかし、菅総理は需要のことなど全く頭になく、「雇用」という目的を手段と履き違えてしまっている。
 手段と目的が完全に逆さまになっている現政権に消費刺激を促す(=景気を良くする)ことを期待しても無駄かもしれない。

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『健康診断』から見える思考停止病患者達

2010101101 先日、ウチの会社でも毎年恒例の定期健康診断が行われた。検尿、身長、体重、レントゲン、心電図、視覚、聴覚、聴診器、血液検査が主な診断項目だが、最近ではメタボ検診なるものも追加された。
 健康診断自体を否定するつもりはないのだが、毎年、同じような検診を行っていると、どうしても疑問に思うことがある。それは、成人の健康診断になぜ身長測定が毎年必要なのか?という素朴な疑問である。小学校や中学校、高校であれば、毎年身長が伸びるだろうから、身長測定があって然るべきものだろうが、背が毎年伸びるわけではない成人の身長を毎年測る意味が一体どこにあるのだろうか? 成人であったとしても、朝起きた時と就寝前では少し身長が違うことはあるが、そんなものを測ったところで何の意味もない。
 体重測定が毎年必要というのは理解できるのだが、身長測定を毎年実施する意味が解らない。そして、身長測定が毎年有ることに対して誰も疑問を抱かないということも不思議でならない。学生時代に行ってきたことだから、大人になっても行うことが当たり前だと単純に思い込んでいるだけなのかもしれないが、よく考えれば、これほど可笑しな話もない。大の大人が、自分にとって必要なものと必要でないものとの区別がつかない…と言うよりも、完全な思考停止状態に陥っている。そんな姿を毎年の健康診断で観せられることになる。
 医者は身長測定代を請求できるので、自ら「身長測定は必要ない」などとは絶対に言わない。ゆえに、患者が正論を述べていかない限り、無意味な診断は永遠に繰り返されることになる。
 
 先に「メタボ検診」というものが開始されたと述べたが、これとて、単に腹囲(ウエスト)をメジャーで測るだけの検査である。その測ったウエストが85cm以上ならメタボと診断され、それに近い数値であれば、メタボ予備群と診断されるという極めてお粗末な検査であり、ほとんど幼児のお医者さんごっことしか思えないレベルの診断である。
 ウエストなどというものは、その人の体格によって相対的に違うものであり、一概に85cm以上が異常などというのは誰が考えてもおかしい。例えば、身長190cmの人身長150cmの人が共にウエスト85cmだった場合、双方共にメタボと診断されることになるが、こんなのは馬鹿げているというほかはない。
 身長150cmでウエストが85cmもあれば、確かに太り過ぎだと言える(これとて絶対的な尺度とは言えないが)だろうが、身長190cmの人がウエスト85cmというのは別に太り過ぎでもなんでもない。身体が大きくなるに比例してウエストも太くなるのは人体的な特徴であり常識である。
 もっと分かり易く言えば、大型犬(シェパード)と小型犬(チワワ)のウエストが同じになるはずがないということである。大型犬と小型犬のウエストの異常値を同じ値にすることが如何に馬鹿げているかは小学生にでも解るはずである。
 しかし、そういった医学的な常識自体を無視していると思われるのが、現在のメタボ検診だ。
 もし、身長測定なるものが、メタボ検診の関係で測定しなければならないということであれば、まだ理解できる。メタボかどうかを判断するための参考データとして身長も測定しなければならないというのであれば、それはその通りだ。しかし、現状では身長自体は考慮されていないのだから、身長測定は無意味だという結論にならざるを得ない。
 
 ウエスト85cmという数値は厚生労働省のお達しだと思われるが、そんな数値を基準にして全国民に適用することが無意味であることは当の医者自身も理解していると思う。しかし、医者も患者もそのことに触れようともしない。まるで洗脳されたどこかの独裁国家の国民達のように、黙ってお上に従うのみ。これが異常な光景に観えないのだとすれば、この国の国民の認識レベルは相当危険な状態だとも言えるが、おそらくほとんどの人は解っていながら、敢えて考えない自分を演じているのだろう。それとて、異常な光景であることに違いはないのだが…。
 
 平等至上主義者であるこの国のお役人達が、まさか、人間のウエストまで平等に扱わなければならないなどと考えてはいないと思うが、そんなことをつい考えたくもなるほどに、現在のメタボ検診というものは馬鹿げている。
 
 最後に私個人の意見を述べさせてもらうと、健康診断などというものは、半強制的に企業が実施するものではなく、本来であれば、自主的(個人的)に病院に行って検査してもらうものだと思う。無論、検査する項目も自分で選択できるようにするべきだ。特にレントゲン撮影などは、微量の放射線だとはいえ、人体にとって有害であることに違いはないので、行うかどうかは個人別に選択できるようにするべきである。歯科医に行っても必要以上にレントゲンを撮ろうとする歯医者がいるが、歯が痛くもないのに検診の度にレントゲンなどを撮っていては、なんのための検診なのか分からない。医者を儲けさせるために過剰なレントゲン撮影などを行わせるのは、まさに愚の骨頂である。主役はあくまでも患者(あなた)であって医者ではないということを考えてこその健康診断である。
 現在の医療関係者も一般庶民も主客が転倒していることに気が付かず、まるで考えようともしない。まさに、国民のほとんどが思考停止病を患っているとも言える。しかし、残念ながら健康診断を受診しても思考停止病は発見されるどころか、ますます蔓延する一方に見える。健康診断を受診するたびにそのことを嫌というほど認識させられる。

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『事件の裏には事件がある』

2010100601 このところ、毎日のように新聞の一面を飾っていた大阪地検の証拠改竄および犯人隠避問題だが、ある時点を境に急に風向きが変わってしまったようだ。その「ある時点」というのは無論、小沢氏への「強制起訴」が発表された時点である。その時を境に「検察」の扱いが、なぜか“捜査される側”から“捜査する側”に転じていることに気が付いた人は多いはずだ。勘の鋭い人なら既にお気付きのことだと思うが、おそらく小沢氏はスケープゴートにされたのだろうと思う。
 しかし、こうも見え透いた情報操作が行われると、結局、検察という組織は何も変わっておらず、全く反省する気もないのではないか?と疑いたくもなる。

 大体、検察の不祥事を調査する費用(検察の人件費)が税金で賄われているということ自体がおかしいと思う。検察が自分自身の捜査をする費用は、本来であれば税金ではなく、自腹で行うのが筋というものだろう。
 「そんなことは不可能だ」と言う人がいるかもしれない。その通りだ。それゆえにお役人は今回のような不祥事(犯罪)は絶対に犯してはならないのだ。そのためにこそ、国民の血税から給料が支給され、身分が保証されているわけだ。本来、あってはならない事件を起こしたのが当の検察なのだから、一切の言い訳は通用しない。まともな民主国家であれば、財産を没収されても文句を言えないということを知るべきだ。(その財産を捜査費用にするため)

 テレビを観ていても、コメンテーターがいつになく小沢批判に熱心であり、なにやら意図的なヤラセっぽい雰囲気が漂っている。テレビの電波を通じて単純な国民を洗脳しようとしているかのような下心が伝わってくるのは気のせいだろうか?
 マスコミにしてみれば、とにかく、これ以上、正義の検察様が庶民から糾弾されるのは避けなければならないということなのかもしれないが、身内の恥を隠すために、利用される人間(今回は小沢氏)は堪ったものではないだろう。
 私は、政治家としての小沢氏を擁護するつもりはさらさらないということは以前にも述べた(→正義の皮を被った公務員の茶番(無意味な国策捜査))通りだが、検察との事件に限り、小沢氏には同情している。
 
 民主主義国家におけるマスコミの本来のあるべき姿とは、国家権力の監視である。それがマスコミの重大な使命であるなら、今回の検察の証拠改竄問題は徹底的に糾弾し続け、納税者である国民の納得を得なければならないはずだ。しかし、元々、検察と仲の良い(?)マスコミは、その重大な使命を放棄し、別の事件報道に話題をすり替えようとしているように見受けられる。穿った見方をすれば、検察上層部はマスコミ各社に対して、「小沢を強制的に起訴するので、その記事を一面で報道してくれ」とお願いしたのではないか?と疑いたくもなる。もしそういう事実がないにしても、そう疑われても仕方がないくらいに、図ったようなタイミングでの強制起訴だった。「なぜ今なのか?」という疑問は拭えず、毎度のことながら、あまりのタイミングの良さに呆れてしまった。

 もし、検察とマスコミという組織がグルになって、未だ発表されていない有名人のゴシップ記事などを握っていると仮定した場合、その記事を発表するタイミングはいつが最適だろうか? 当然、自分達が問題を起こした時がベストである。国民に知られたくない情報が大々的に知れ渡ろうとする時に、そういったゴシップ記事はタイミングよく発表され、いつしか国民は本当に注目しなければならない情報を見失い、どうでもよいゴシップ情報に翻弄されることになる。

 「事件の裏には事件がある」というのは私の造語だ(と思う)が、今回の“小沢氏への強制起訴事件”の裏には“検察の証拠改竄事件”があると思われる。
 こういったことを書くと、「陰謀論」だとする反論を頂くことがあるが、検察の信用が完全に失墜した今となっては、さすがにそんな的外れな反論をする人はいないだろうと思う。

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『資本主義の精神』の理解のススメ

2010100201 先日、経済・社会学者として有名な小室直樹氏が亡くなったとの報道があり、急な知らせに経済界ではどよめきが起こった。しかし、ネットニュースで一報が報じられた時には既に死後20日以上が経過しており、その間、新聞・テレビでは全く報道されなかったことが疑問視されている。親族が敢えて情報を漏らさなかったと考えられなくもないが、小室氏ほどの著名人の葬儀が死後20日間も報道されなかったというのは、どうも引っ掛かる。

 小室直樹と言えば、博覧強記の碩学評論家として知る人ぞ知る有名人であり、何を隠そう、私も彼の1ファンであり、書棚の上段には小室本がズラッと並んでいる。彼の著書からは実にいろんなヒントを頂いた。よく、「天才と変人は紙一重」と言われることがあるが、まさしく小室氏はその言葉通りの人物であったことはよく知られている。
 小室氏はソビエト連邦の崩壊を10年前から学術的に予言していたことでも有名な人物だが、テレビ出演をキッカケとして「変人」とのレッテルを貼られてしまったために、その後は表舞台には出て来(れ)なくなり、野の立場から日本経済(特に官僚制)の問題点を鋭く指摘してきたことでも有名な人物だ。その舌鋒鋭く、歯に衣を着せないユーモアな語り口調は多くの読書人を魅了した。

 建前しか論じない日本のマスメディア界にあって、淡々と遠慮なく本音を述べてしまう小室直樹という存在は、ある意味で脅威であり危険な存在であったのかもしれない。マルクスの思想に冒された左翼系言論人が跳梁跋扈している日本の言論界にあって、小室直樹という存在は、表舞台には出て欲しくない代表格であったのかもしれない。おそらく小室氏は「変人」というレッテルを貼られていなかったとしても日本のマスメディアからは無視されていたのだろうと思う。本音を述べられては困る勢力にとっては、彼が変人であったことは、これ幸いであったのかもしれない。彼の訃報が大手新聞・テレビメディアでほとんど報道されなかったことは、奇しくも、日本のマスメディアが左翼に乗っ取られていることを証明しているかのようでもある。

 小室氏の研究テーマは多岐にわたるが、中でもマックス・ウェーバー研究が有名だ。彼のような天才でもウェーバー理論を理解するには10年を要したらしい。しかし彼がその理論を解り易く開陳してくれたおかげで、そのエッセンスは広く一般にも知られるようになった。私が思うに、小室氏の1番の功績は“資本主義の精神”というものを世間一般に理解できる形で明文化したことにあるのではないかと思う。
 一流の学者が10年間も研究しなければ理解できない理論でも、その研究成果としての数冊の書物を読むだけで、誰もがある程度のエッセンスを理解することができる。これは、実に凄いことである。10年間かかっても理解できないような難解な理論を数日間の読書である程度理解できるのであれば、それは非常な時間の節約であり、人生の密度を大きく変えることにも繋がる。読書の効用とは本来そういうものであるが、そのことを教えてくれた1人が小室直樹だったという読書人は意外に多いのではないかと思う。
 
 鷲田小彌太氏の新書『昭和の思想家67人』『日本を創った思想家たち』のどちらにも「小室直樹」という名前が入っていることからも、彼が日本の思想界および経済界に与えた影響は計り知れないものがある。それだけの功績のあった人物が日本の学会では正当に評価されないのだから、如何にこの国の学会が閉鎖的なものかが窺える。本当に評価されなければいけない学者が日の目を見ずに埋もれてしまうというのはなんとも嘆かわしい。
 おそらく彼の功績は、その他多くの歴史上の天才がそうであったように、彼の死後である今後、評価されていくのだろうと思う。
 
 現代の日本は“資本主義の精神”を理解できない左翼政党が日本経済の舵を握っており、元々、社会主義に汚染された日本に更なる社会主義の害悪を広めようとしている。そんな先行きの見えない国であるからこそ、今こそ国民は“資本主義の精神”を学ばなければならない。そのための恰好の教材を生涯をかけて残してくれたことこそが小室氏の偉業でもある。
 価値のある思想が裏に隠され、価値のほとんどない思想が表に出ているという現在の日本の悪しき状況を本来の姿に戻すことができれば、あるいは日本は長年の不況から脱するヒントを得ることができるかもしれない。

 小室氏の著書『経済学のエッセンス』にはこう書かれている。「実は経済学こそが、この不況を克服するための道しるべであるということに、エコノミストも国民も気付いていない。一億総エコノミストを実現することが、不況克服への近道だ」と。
 不況から脱出する手段とは、決してお役人に経済を任せることではなく、個人が経済を理解することが1番の近道と成り得るのだ。それが小室氏の言いたかったことなのだろうと思う。

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