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2010年11月

タイムカードという『性悪説アイテム』

2010112901 シチズンHDが男性ビジネスマンを対象に行った生活アンケート調査によると、1日の勤務時間は8時間39分となり30年前の水準まで減少したらしい。その原因は「不況によって残業時間が減少した」ことであるらしい。
 
 この調査した勤務時間に「サービス残業」というものが入っているのかどうかは分からないので何とも言えないが、世の中には不況によって逆に勤務時間が伸びたという人も大勢いるのではないかと思う。
 不況の影響で人員整理(リストラ)がなされ、それまで2人で行っていたような仕事を1人でこなさなければならなくなったという人であれば、当然のことながら勤務時間が伸びてしまう。1人でできるような仕事を2人で行っていたというような場合は話は別だが、サボらずに目一杯働いていた人であれば、不況の影響で勤務時間が伸びたという人も大勢いるはずだ。
 日本全体としてのビジネスマンの勤務時間は減少したのかもしれないが、それはあくまでも平均値であって、個別に観れば、仕事が忙しくなった人と仕事が暇になった人の生活格差は拡大しているはずである。
 
 仕事を行う能率性というものには大きな個人差があり、勤務時間の長短によって一概にその人物の仕事量を計ることはできない。それゆえに勤務時間の調査というものは、マクロ的には参考になったとしても、ミクロ的に観れば、曖昧な調査になりがちである。
 その曖昧な勤務時間を計るアイテムとして『タイムカード』というものがある。サラリーマンであれば知らない人はいない定番アイテムだ。ちなみに公務員の世界には基本的にタイムカードというものは存在しないらしい。【参考文献:公務員の異常な世界】

 私もタイムカードとは長い付き合いになるが、随分と前からタイムカードというものには、ある種の疑問を抱いている。何が疑問であるのかというと、一律に全ての従業員の労働価値をタイムカードで計るということに対してである。現代のような労働自体が複雑化した社会で、能力の違う個々人の労働価値を時間だけで計るというのは、どう考えても無理があると言わざるを得ないからだ。

 企業がタイムカードを使用するのには主として2つの目的がある。1つは、従業員が時間通りに出社しているか(遅刻していないか)を調べるため。そして、もう1つが、退社時間がいつだったか(残業を何時間行ったか)を調べるためだが、現代ではタイムカードの目的自体が有効に機能していないのではないかと思う。交代制のシフト勤務のような仕事であればタイムカードの必要性も有るのかもしれないが、一般的なサラリーマン勤務であれば、特に必要だとは思えないというのが率直な感想だ。
 
 まず、1つ目の目的からいくと、朝から遅刻せずに真面目に出社してくる従業員にとってはタイムカードを押す必要性はあまり感じられない。私も毎日始業時間の30分前には会社に到着しているが、始業前に仕事を行っていたからといって早出手当が付くわけでもない。しかし、毎日30分前から仕事を行っていたとしても、ある日、1分でも遅刻すれば、遅刻扱いとなって減給となってしまうのだから、よく考えると不条理なカードである。勤務時間的には1日30分として1ヶ月間(20日間と考える)で10時間分の貯金(貯時間)があるはずなのに、1分遅れただけでマイナスとなってしまうのだから、真面目に働いている人間が馬鹿を見るカードとも言える。
 私が思うに、出社時にタイムカードを押す必要があるのは、頻繁に遅刻するような(時間の貯えが無い)人だけでいいのではないかと思う。
 
 2つ目の目的の場合も、現代ではタイムカードの退社時間通りに残業代が支給されるような会社はあまりないと思われるので、残業時間をタイムカードで運用する必要性はないような気がする。流れ作業のパートタイム勤務であれば時間通りに残業代が支給される必要があると思うが、大抵の仕事は時間で計れないものであるので、タイムカード通りに残業代を支払うようなバブリーな会社はもはやほとんど存在しないのではないかと思う。
 現代は公務員の『空残業』というものが問題となる時代(それが真っ当な時代だと言えるが)であるのだから、空残業が許されるような民間企業はそうそう無いはずだ。ウチの会社もそうだが、現代ではタイムカードとは別に『残業申請書』を提出しなければならないような会社が増えている。
 個人的には残業時間の申請制度には賛成だが、そういう制度が有る会社であれば、尚更、タイムカードを押す必要は無いのではないかと思う。
 
 以上のことから何が言えるのかと言うと、「真面目な従業員にとってタイムカードを押すメリットは無い」ということである。
 早出と残業は管理せず、遅刻と早退だけは都合よく管理するというのだから、真面目な従業員にとってはデメリットしかない。しかし、遅刻ギリギリに出社してくるような人や、定時まで働けばそれでいいというような人にとっては、労働者としての権利を要求できる切り札的なカードになっているのかもしれない。
 
 なんにせよ、現代のタイムカードとは、従業員のプラス面を計るカードではなく、マイナス面のみを計るカードに変貌してしまっているということである。つまり、不真面目な従業員にしか意味を為さない有り難迷惑な『性悪説アイテム』というのが、タイムカードの実態なのである。

 しかし考えるに、「性悪説」で国家を運営していると思われるお役所に『性悪説アイテム』であるタイムカードが存在しないというのも可笑しな話である。

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漢字の読み書きとリテラシー

2010112301 最近は、クイズ番組の影響からか、漢字検定【漢検】というものが流行っているそうで、毎年250万人もの人が受験するらしい。テレビ局が不況の影響から始めた苦肉の策(?)でもある低予算クイズ番組が引き金となり、アナログ的な漢字の読み書き試験が流行するなどとは誰も予想だにしなかったのではないかと思う。このような現象が起こるところを観ても、未だにテレビにはそれだけの影響力があるという証拠なのだろう。

 テレビを観ていても、漢検に合格できなかったタレントは、合格するまで何度も試験に挑戦するという熱の入れようだ。まるで難しい漢字を書けることが尊敬されるべき現代の物知りの条件であるかのような風潮が観て取れる。クイズ番組にレギュラー出演するために、タレントが漢字を猛勉強するということは至極当然の合理的な行動だと思えるが、果たして一般庶民がタレントと同じように漢字検定に夢中になる必要性があるのかは少々疑問である。
 もちろん、漢字は書けないよりも書けるに越したことはない。趣味としては良いことだと思えるし、何かに挑戦するために努力することは良いことである。しかし、現代のようにパソコンが世間一般に浸透したデジタル情報化社会において、難解な漢字を書けたところで実社会でどれだけ役に立つのかということは、1度、疑ってみた方がよいかもしれない。

 読書が好きな人であれば理解してもらえると思うが、本を読んでいると、文章の前後の文脈から推察して、大抵の漢字は知らず知らずに読むことができるようになる。私も学生時代から本を読んでいた影響からか、漢字の読みについてはある程度は読める方だと思う。以前、麻生前総理が読めないことで話題となった『未曾有』(みぞう)という漢字などは、経済関係の書物などを読んでいれば、「未曾有の不況」や「未曾有の事態」というような使われ方でよく出てくるので、それが読めないということは、おそらく経済書などは全く読んでいなかったのだろうと想像できる。麻生氏は「漢字が読めない総理」として有名となったが、別に特定の漢字が読めないことが問題だったのではなく、経済音痴であることがバレてしまったことが災いしたのかもしれない。
 
 話が少し横道に逸れたので元に戻そう。かつての日本社会では、文字や漢字を書くという能力は社会人としての必須能力として高く評価された。パソコンやワープロが無い時代では、文字は手書きが当たり前だったので、仕事をしていく上では、文字を速く綺麗に正確に書ける(または読める)ことが求められる。そういう時代であれば、難しい漢字が書けるということは実際に役に立つ能力だったわけである。
 しかし、現代のようなコンピューター社会になれば、文字を手書きで書くよりもキーボードから入力する人の方がどんどんと増えていく傾向にある。私もこのブログはもとより、仕事でも手書きで文字を書くということはほとんど無い。特に長文を書く場合は全てキーボード入力であり、手書きで書くのは、住所やサインやメモくらいのものかもしれない。
 そう考えると、これからの時代は、手書きで難しい漢字が書けるという能力は実質的には、それほど重要なことだとは言えなくなる。キーボードから変換すれば、大抵の漢字は入力することができる。変換時にはいくつかの選択肢(例:勤める・努める・務める)があるので、その違いが分かるだけの能力があれば事足りることになる。要は、漢字を書く能力よりも、漢字の意味を理解する能力の方が重宝されるわけだ。意味を理解するには、当然、その漢字を読めなくてはいけないので“読む”という能力は必要だが“書く”という能力は、これからの時代はあまり意味を為さなくなるのではないかと思う。これは認める認めないの問題ではなく、冷静に考えれば、そういう時代に成らざるを得ないということである。私も漢字の読み書き文化を否定するつもりはさらさら無いのだが、現実を直視すれば、そう考えざるを得ないと思う。
 
 確かに現代でも、入社試験の時などは、手書きの履歴書が必要となり、文字を書くのが下手な人は代筆で書いてもらうというようなことも未だにあるようだ。しかし、入社試験には大抵の場合、作文もセットで用意されているので、履歴書と答案用紙を見比べれば、本人の直筆か代筆かは容易に判断できる。それが合否判定に影響するのかどうかは知らないが、現代でも文字や漢字を綺麗に正確に書くという能力は、気付かれないうちに試されている場合もある。
 しかし、本当に将来を見据えた経営者であれば、筆記試験がどうかというようなことよりも、ITリテラシーに重点を置いている場合がほとんどだ。漢字を手書きで書けることよりも、コンピューターで文字を入力できる人の方が重宝される。これはビジネスの社会ではもはや当たり前のことであり、今更、手書きで漢字が書けることに拘るような経営者はほとんどいないはずだ。そんな経営者であれば、既に経営者として失格の烙印を押された後だろう。
 
 これからの時代は“難しい漢字が書ける”という能力は、生きていく上ではそれほど役に立たない雑学的な意味での特技となっていくはずだ。ゆえにクイズ番組で雑学を競うのは問題ないが、一般庶民までが難しい漢字を書く努力をする必要性はあまり感じられない。無論、雑学として学習するのは個人の勝手なので否定はしないが、そのスキルが社会に出てから役に立つことはほとんど無いという現実を受け入れる必要はあると思う。
 
 かつては算盤(そろばん)検定【珠算検定】というものも流行ったことがあるが、算盤の場合は、算盤を覚えることによって“暗算ができるようになる”という副次的な効果があった。算盤自体を使えるスキルは現代ではほとんど役に立たないが、その副次的に得たスキルは現代でも有効に機能している。では、漢字検定には、そういった副次的なメリットは有るか?というと、無いとは言えないが、漢字のクイズ番組を観て優越感に浸るか、本をスラスラ読めるようになる程度のものかもしれない。それなら、ただひたすらに漢字を覚えるよりも、楽しみながら本を読んで漢字を覚えた方が効率が良いのではないかと思う。本を読めば、漢字は読めるようになるし、社会に出てから役に立つ知識も同時に得ることができる。本を読むだけでは、漢字を書くスキルはあまり身に付かないが、先にも述べた通り、これからの時代に求められるのは、漢字を書くスキルではなく、漢字を読むスキルと理解するスキルである。そして、読書には“漢字の意味(物事の意味)を理解できるようになる”という副次的な効果がある。
 
 「ある分野の事象を理解・整理し、活用する能力」のことを現代では「リテラシー」と呼ぶが、一般庶民がそのリテラシーを得るためには、漢字の読み書きよりも、読書の方が有効だろうと思う。そういう意味では、漢字検定に費やすエネルギーを読書に当てることをオススメしたい。

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『窒息事故』と『飛び出し事故』の類似性

2010111701 当ブログでも何度か取り上げた『こんにゃくゼリー』問題の判決がようやく出たようだ。その判決とは、「遺族側の訴えを棄却」というものだった。
 どうやら、まともな判決が出たようで安心した。遺族側のやり場のない怒りや悲しみは理解できるものの、やはり、1歳児が食べるものについては、親がきちんと注意するべき(今日の新聞を読んだところでは、祖母がこんにゃくゼリーを食べさせたと書かれていた)だということだろう。
 良識ある人間であれば、こんなことは考えるまでもなく即答できる問題であり、わざわざ裁判官が絡むような事件ではない。そんな裁判で、もし「被告(マンナンライフ)側に慰謝料の支払いを命じる」などという判決になっていれば、なんでもかんでも訴えたもん勝ちの無茶苦茶な世の中になってしまうところだ。

 今回の事故は乳幼児の“窒息事故”だったわけだが、同じようなものに、幼児の“飛び出し事故”というものがある。車を運転中に車の前に突然、幼児が飛び出してきて、運悪く死亡事故に至るケースがある。この場合、どちらが悪いのかというと、法律的には車を運転していた人(運転手)が悪いということになってしまう。意図的に殺人を犯したわけではなくとも、結果的に幼児を“死亡させた”という事実をもって、致死罪が適用されることになる。
 しかし私は、常々、これはおかしいと思っている。こんなことを書くと誤解されるかもしれないが、思うところを素直に書いてみたいと思う。

 車を運転していると、動物が飛び出してきて、危うく轢きかけた(または本当に轢いてしまった)という体験をしたことがある人は多いと思う。よくドライブ中に、車に轢かれた犬や猫の死骸を見かけることがあるが、轢かれた動物も可哀想だが、実際に轢いてしまった運転手も嫌なものだろうと思う。おそらく当分の間は罪の意識に苛まれることになるだろう。動物にしてそれなのだから、人間であれば、後悔では済まされない。それは罪の呵責どころの問題ではなく、自殺すら考えるほどのとてつもないプレッシャーが襲うことだろう。

 不運にも車の前に幼児が飛び出してきたことによって殺人を犯してしまった運転手は、はたして加害者だと言えるだろうか? 私は正直思わない。それは、飛び込み自殺と同じものであると思われるからだ。もちろん、飛び出してきた幼児に自殺願望が有るわけではない。しかし、幼児を轢いてしまった運転手にも殺人願望が有ったわけではない。双方どちらにとっても不運なアクシデントに見舞われたという意味では、どちらも被害者であり、実質的な加害者はいないと考えるのが常識的な判断だろうと思う。
 しかし、法的に加害者と被害者を分けなければならないという決まり事のために、被害者でもある運転手が形式上、加害者となってしまう。脇見運転をしていたとか、赤信号を無視したとか、スピード違反だったとか、飲酒運転していたというのであれば、運転手は加害者だと言えるだろうが、何も疾しいことがない運転手が、自分から飛び出してきた幼児のために殺人者呼ばわりされたのでは、踏んだり蹴ったりであり、あまりに不条理だと思える。
 
 実感が湧かないという人のために、少しシミュレーションしてみよう。もし、あなたが車を運転していて、目の前に突然、小学生が飛び出してきたとしよう。その小学生は実は自殺することが目的だったとする。しかし、その小学生が遺書らしきものを残していなければ、飛び込み自殺だったと証明することはできない。そのため、あなたは殺人者のレッテルを貼られて刑務所に収監されることになったとすればどうだろう? それ(自らが罪人になること)を素直に認められるだろうか? 無論、人を殺してしまったという良心の呵責が止むことは無いだろう。しかし、殺人者というレッテルを貼られてしまうことを認められるだろうか? 元々、罪を犯す気も無ければ、殺人を犯す気もさらさら無い人間が、突然、横から飛び出してきた子供のために、その後の人生を棒に振ることを認めろと言われても誰も納得はできないだろう。
 
 車というものは扱い方によっては凶器と成り得るシロモノでもある。その事実をもって「どのような事故であれ運転手が悪い」という人もいるかもしれない。しかし、法的に問題となる違反行為を行っていないのであれば、不慮の事故自体を法的に裁くというのはナンセンスである。そんなことを認めてしまうと、車を運転するドライバーは皆、殺人者予備群となってしまう。

 今回のマンナンライフのこんにゃくゼリー事故にしても、マンナンライフは被害者であって加害者ではない。では加害者は誰なのか?というと、実は加害者はいないのである。被害者は存在するが、加害者はいない。それはどういうことかというと、悪質な事件ではなく“不運な事故”だった、この一言に尽きる。殺人の動機を持った加害者がいないのだから、これは当たり前のことである。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、こんにゃくゼリー事件は、その言葉を適用するべき事件(事故)だったということである。より正確に言えば、「不運を憎んで企業を憎まず」である。つまり、訴えるべき対象はマンナンライフではなく“不運”なのだ。被害者の家族には厳しい言い方かもしれないが、残念ながら、それが一般的な正しい解釈である。

 これが逆に、裁判官がマンナンライフを加害者だと判定していれば、冤罪事件の出来上がりとなるところだった。その場合、無実の人間を罰したという意味で加害者が生まれることになる。その加害者とは誰か? 無論、裁判官である。そして訴えを起こしていた被告も冤罪に加担したことになってしまうわけだ。不運な事故を契機として、危うく本当の事件が発生するところだった。
 冤罪を作ることが罪であるならば、裁判官という仕事も自らが罪人になるリスクを多分に抱えた因果な商売だと言えるが、今回は感情に流されず無事に職務を果たしたと言えそうだ。
 
(関連記事)
こんにゃくゼリー“事故”と汚染米“事件”
消費者団体の曲解(“追求”と“追及”)
『マンナンライフ事件』(“被害者”と“金の亡者”)
賞味期限偽装事件の顛末と狂気の世界
食品偽装事件から生まれた消費者無視団体

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いじめっ子を野放しにする社会の構図

2010111001 群馬県桐生市の市立小学校で起きた生徒の自殺事件は、大方の予想通り「いじめはあった」ということが判明した。前回の記事で、この事件と絡めて生徒のいじめ問題について述べたばかりだが、今回は、いじめ問題の報道のあり方について少し述べておきたいと思う。

 現在のテレビ報道などを観ていると、いじめ問題で追及されているのは、学校の代表責任者である校長になっている。いじめによる自殺が明るみに出ると、マスコミに責められ、罪人の如くフラッシュを浴びせられるのは校長先生と相場が決まっており、毎度、お馴染みの謝罪シーンをテレビで拝むことになる。

 しかし、よくよく考えると、これは少しおかしくないだろうか? 今回の事件の場合は、学校側がいじめを隠蔽しようとしたことも問題となっているので、校長が責められるのは仕方がないにしても、本来、いじめによる自殺事件が発生した場合、最も責められるべきは、校長ではなく、いじめを行っていた加害者であるはずだ。
 「未成年」だから非難されずに済むというような都合のよい理屈は本来であれば通用しないはずであり、少なくとも、他人を自殺に追い込むなどという嫌がらせを行っていた人間は、その年齢に関係なく、厳しく責められるべきである。それが本来の教育指導だと思われるのだが、現代の日本では、なぜか非難の矛先が学校に向けられる。こういう歪んだ風潮が、学校側がいじめを認めないという悪循環を作り出し、その陰に隠れた生徒によるいじめ問題はどんどんとエスカレートしていくことになる。
 
 私が思うに、先生を責めるのであれば、加害者の親の方を責める方がまだ理に適っているのではないかと思う。いじめをする生徒というのは、大抵は家庭(親)に問題があるというのはよく聞かれる話である。全員が全員そうとは言えないだろうが、親の教育(親の出来不出来)によって子供が捻くれるというのはよくあるケースである。例えば、家庭で愚痴や他人の悪口ばかり言っている親や、嫉妬心丸出しで他人を蹴落とすことを陰で礼賛しているような親の姿を観て育った子供は、そういった親に似てしまう傾向がある。よく言われるように「子供は親の背中を見て育つ」というやつで、物事の善し悪し(いじめは恥ずべきことだということ)を教えることができない精神年齢の低い子供のような親が増えていることも、いじめが増加している大きな理由となっていることは間違いないところだろう。

 以前にも、給食を早食い競争していた生徒が窒息死するという痛ましい事件があったが、その時も責められていたのは、学校側であり、生徒でも生徒の親でもなかった。
 生徒の素行問題の全てが学校や先生の管理能力に責任があるという不可思議な風潮に警鐘を鳴らすつもりで以前にも批判記事を書いたことがある【該当記事→『パンの早食い』から『ゆとり食事』へ(?)】が、これと同じ現象が、いじめ問題でも起こっている。
 
 とにかく、いじめが有ると、学校側が全て悪いというようなマスコミの論調は、どう考えてもおかしいと思う。こういう発想が出てくる背景には、生徒を“モノ”として扱っているという思想が透けて見えてくるのは私だけだろうか?
 
 子供(生徒)に問題が発生したことに対してクレームをつける親(マスコミ)の姿は、どこか、不良品を掴まされた消費者と似ているような気がする。車や電機製品であれば、自分で製造したわけではないので、不良品を掴まされた場合、製造したメーカーに責任を問う(文句を言う)のは通常の人間心理だと言えるだろう。しかし、自分の子供が不良になった場合、学校に責任を問う(文句を言う)のでは筋が通らない。本来、親が行うべき子供の教育を学校に丸投げした挙げ句、「学校の教育が悪いために、子供がいじめっ子に育ってしまった」などと言うのは筋違いもいいところである。

 自分の子供が不良となって、他人をいじめて自殺に追い込んだのであれば、誰が悪いのか? 誰に文句を言うべきなのか? その生徒を生み出したメーカーとは、学校なのか、それとも親なのか? その答えがどういうわけか「学校」になってしまっているのが現代の日本である。これはもう常識自体が間違っていると言わざるを得ないと思う。生徒を作り出したのは、学校ではなく、親の方である。つまり、クレームをつけるべきメ−カーとは、先生ではなく親の方なのだ。
 いじめ問題における悪人の序列は以下のようになると考えるべきである。
 
  いじめっ子 > いじめっ子の親 > 担任教師 > 校長先生
 
 先にも述べたが、いじめ問題が発生した場合、マスコミから責められるのは、いつも後者の2者(担任教師と校長先生)になっている。しかし本来、責められるべきは前者の2者(いじめっ子と いじめっ子の親)である。このように批判するべき対象がズレているわけだから、いじめが減少するはずもなく、いじめ問題が改善しないのは必然の結果だと言える。逆に、いじめっ子やその親を責めるというまともな社会であれば、必然的にいじめも減少していくものだと思われる。要は、未成年だという理由で犯罪者を野放しにするような社会になってしまっていることが問題なのである。
 
 「いじめっ子にも将来がある」と言う人がいるかもしれないが、いじめられて自殺した生徒の将来はどうなるのか? たとえ子供であろうと、他人の人生を奪った人間に自分の将来など語る資格はない。と言うよりも、いじめっ子の将来のためにこそ、自分の犯した罪に対して反省を迫るべきだろう。
 そもそも、いじめという行動は、単なる出来心で発生するものではない。万引きなどの軽犯罪であれば、いかに不良であったとしても、“出来心だった”ということで見逃すことがあってもよいと思うが、いじめというものは明らかな確信犯であり、決して出来心で発生するような事件ではない。そういう意味では、悪質な重犯罪である。

 今回のような問題が発生するのは、《子供の教育の全てを学校で行うべきだ》というような誤った思想がその背景にある。モンスターペアレントのようなクレーマーのような親が増えているのも『子供の教育は親が行うべきだ』という正しい思想が失われた社会であることの証明でもある。
 子供(生徒)を、車や電気製品などの“モノ”としてしか見ることができない社会が、こういった悪弊を齎していると考えれば、自ずと解決法は見つかるはずである。

 今日も文部科学省が「いじめ問題が生じた場合、隠さずに家庭・地域と連携するよう求める通知」を行ったそうだが、「隠さずに」というのは、いじめっ子の親に対してなのか、それともいじめられっ子の親に対してなのか、よく分からない。どちらにせよ、こういった対症療法的な小手先の改善策では、いじめ問題はほとんど改善しないのではないかと思われる。

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いじめによる自殺を無くす唯一の方法

2010110301 群馬の市立小学校で起きた女子生徒自殺事件で、またもや“いじめの有無”が問題となっている。担任教師は「いじめは有った」と認めているが、学校側は「いじめは無かった」と説明していたらしい。
 実際のところは、どちらが正しいのか定かではないが、おそらく、学校側が自己保身のために誤魔化していたのだろうと思われる。まさか、本当にいじめがなければ担任教師も「いじめが有った」などとは言わないだろう。そんな嘘をついても担任教師には何のメリットも無いわけだから、いじめは有ったと考えて間違いないだろう。

 教育委員会というのは、根本的に“いじめは無い方が望ましい”という前提で物事を考える事勿れ主義組織であるため、それに準じる教職員達も、同じような思考に染まっているようだ。
 《生徒達は何事も問題を起こさずに真面目に学校規則に従い、真面目に勉強する従順な子供達》というような社会主義的な理想論に染まった組織の中では、陰惨ないじめを見て見ぬ振りをし、また、そうすることが当然だというような誤った価値観がその場の空気を支配することになる。それは、建前のみが優先される正義の無い世界であり、実際にいじめに遭っている生徒からすれば「地獄」である。現代の学校組織は、真面目で優秀な人間や、特別な才能を持った人間、あるいは、少し人とは違った個性的な人間を自動的に排斥するようなシステムが出来上がってしまっている。

 ということで、今回は現代日本の「いじめ問題」にスポットライトを当ててみたいと思う。毎年3万人と言われる自殺者の中には、当然のことながら、いじめを苦に自殺する何の罪もない真面目な生徒も多く含まれている。この自殺の原因たる“いじめ”を無くす(減少させる)ためにはどうすればいいのだろうか? 実はこの問いに対する答えを用意するのは簡単である。しかし、政府や教育関係機関からその解答を聞き出すことは、おそらく不可能だろうと思われるので、この場を借りて1つの解答を述べてみたいと思う。(実現は不可能に近いが…)
 
 その前にまず、いじめが発生するメカニズムを考えることにしよう。この日本社会の中で最もいじめが多く発生する所はどこだろうか? 「学校」? 違う。では「職場」? 違う。正解は「刑務所」である。
 評論家の渡部昇一氏の書籍にも書かれていたことだが、いじめが最も顕著なのが、刑務所の中であり、その理由とはズバリ「逃げ場がない」ということである。いじめが発生する所というのは、大抵が「逃げ場がない空間」だ。その空間とは、刑務所のように必ずしも物理的な空間を意味しない。たとえ物理的な境界が無かったとしても、小中学生の認識レベルでは、精神的な境界が出来上がってしまうことがある。「逃げ場がない空間」とは、そういった目に見えない精神的な袋小路をも内包している。

 これを読んでいるあなたも経験がおありだと思うが、学校に通う小中学生(の頃)というのは、まだ世の中を知らず視野が狭いということもあって、自分が通っている学校が、社会の全てだと錯覚してしまう傾向がある。自分の通っている学校を辞めても別の学校に行くことができると考えることができたとしても、学校自体に行くことを辞めようとは普通は思わない。頭の良い生徒ほど《学校に通わないと自分の将来が無くなる》とまで考えている。それが、大抵の小中学生の認識だろうと思う。
 《自分の住む世界がそこにしかない》と思っている生徒が、その世界で除け者にされ、暴力や嫌がらせなどを受け続けると、その生徒にとって、その世界(学校)はまさに逃げ場のない「地獄」と化してしまう。いじめられる度に学校を辞めて他の学校に行くなどということは、現在の学校制度の中ではできない。私立学校であれば可能かもしれないが、親の会社の都合もあるだろうし、物理的な通学距離などの関係から、そうそう何度も学校を変えることはできない。結局、現代の義務教育制度では、小中学生はどこかの学校に通わなければ、一般的な進学や就職ができなくなってしまうという、ある種、逃げ場のない刑務所のような教育環境が整備されてしまっていると言えるわけである。それが学校でいじめが絶えない1つの大きな理由である。
 
 いじめられっ子や、個性の強過ぎる生徒にとって、現在の義務教育制度は、おそらく有り難みのない制度なのだろうと思う。特に公立の小中学校などは、『平等教育』を旨としているので、平均的な生徒を基準に考えるようなところがあり、あまりにも優れた生徒や劣った生徒は、浮いた存在となり、いじめの対象となってしまうようなところがある。『平等教育』を行っていることによって、皮肉にも人を差別する環境が出来上がってしまっているわけだ。これこそが個性を認めない日本の『平等教育』の悪しき弊害である。
 
 いじめを苦に自殺する生徒が自殺せずに済む方法とは何だろうか? 答えは至って簡単だ。そう、学校を辞めることだ。しかし、学校を辞めるということは、プライド以前に、《自分の人生を棒に振る》というような錯覚をその生徒に与えることになる。その逃げ場のない苦しみが、自殺を引き起こす原因となっているのであれば、学校を辞めたとしても、別の手段(家庭内教育や自力学習)で進学や就職ができるような社会であれば何の問題もないわけだ。学校に行っていじめられて自殺するぐらいなら、自宅で自力で勉強することなど、それほど難しいことではないだろう。大体、小中学生の授業程度なら、わざわざ学校に行かずとも自力で学習しても充分に追いつけると思う。要するに、学校に行かずとも、自分で勉強して進学できるような自由な(逃げ場のある)教育環境が用意されていれば、いじめを苦に自殺するような生徒は誰もいなくなるのである。
 
 こう言うと、「義務教育は集団生活をするところに意義がある」というような反論が返ってくるかもしれない。しかし、世の中にはどうしても集団に交わることができないタイプの人間というものも存在している。そういったタイプの人間を無理矢理に集団生活の場に馴染ませるというのも少し問題があるのかもしれない。
 公立の小中学校の場合は、勉強のできる人間もできない人間も、勉強をしたいと思っている人間も思っていない人間も、全て同じクラスの空間で同一の教育を受けることになるが、こういった全体主義的な教育にも、やはりどこか無理があるのだろうと思う。勉強したいと思っている人間と、勉強したくないと思っている人間を同じ空間で教育すると、どうしても大きな個人差が生まれてしまう。平等教育などと言っていても、やる気の有無によって個人の学力差が生まれるのは当たり前のことである。

 義務教育を否定するつもりはないが、教育というものは、本来もっと自由度の高いものであったはずである。そもそも、国民の三大義務の1つである『子供に教育を受けさせる義務』とは、必ずしも“学校に行かせる義務”という意味ではない。子供はどのような環境に置かれたとしても、“教育を受ける権利が有る”ということである。
 義務教育自体が自殺者を生んでいるというような皮肉な事実を受け入れたくないという人もいるかもしれないが、「義務教育は素晴らしい」という台詞を吐く前に、まず窮屈な教育環境が原因となり自殺した生徒の苦しみや無念をよく考えてみることをオススメする。
 本当に生徒の自殺を防止する方法は、実は単純なところに答えがある。大人の都合でそういった窮屈な教育制度を見直すことができずにいることが、何の罪もない子供の命を奪うという悲劇を作り出しているのである。

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