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『窒息事故』と『飛び出し事故』の類似性

2010111701 当ブログでも何度か取り上げた『こんにゃくゼリー』問題の判決がようやく出たようだ。その判決とは、「遺族側の訴えを棄却」というものだった。
 どうやら、まともな判決が出たようで安心した。遺族側のやり場のない怒りや悲しみは理解できるものの、やはり、1歳児が食べるものについては、親がきちんと注意するべき(今日の新聞を読んだところでは、祖母がこんにゃくゼリーを食べさせたと書かれていた)だということだろう。
 良識ある人間であれば、こんなことは考えるまでもなく即答できる問題であり、わざわざ裁判官が絡むような事件ではない。そんな裁判で、もし「被告(マンナンライフ)側に慰謝料の支払いを命じる」などという判決になっていれば、なんでもかんでも訴えたもん勝ちの無茶苦茶な世の中になってしまうところだ。

 今回の事故は乳幼児の“窒息事故”だったわけだが、同じようなものに、幼児の“飛び出し事故”というものがある。車を運転中に車の前に突然、幼児が飛び出してきて、運悪く死亡事故に至るケースがある。この場合、どちらが悪いのかというと、法律的には車を運転していた人(運転手)が悪いということになってしまう。意図的に殺人を犯したわけではなくとも、結果的に幼児を“死亡させた”という事実をもって、致死罪が適用されることになる。
 しかし私は、常々、これはおかしいと思っている。こんなことを書くと誤解されるかもしれないが、思うところを素直に書いてみたいと思う。

 車を運転していると、動物が飛び出してきて、危うく轢きかけた(または本当に轢いてしまった)という体験をしたことがある人は多いと思う。よくドライブ中に、車に轢かれた犬や猫の死骸を見かけることがあるが、轢かれた動物も可哀想だが、実際に轢いてしまった運転手も嫌なものだろうと思う。おそらく当分の間は罪の意識に苛まれることになるだろう。動物にしてそれなのだから、人間であれば、後悔では済まされない。それは罪の呵責どころの問題ではなく、自殺すら考えるほどのとてつもないプレッシャーが襲うことだろう。

 不運にも車の前に幼児が飛び出してきたことによって殺人を犯してしまった運転手は、はたして加害者だと言えるだろうか? 私は正直思わない。それは、飛び込み自殺と同じものであると思われるからだ。もちろん、飛び出してきた幼児に自殺願望が有るわけではない。しかし、幼児を轢いてしまった運転手にも殺人願望が有ったわけではない。双方どちらにとっても不運なアクシデントに見舞われたという意味では、どちらも被害者であり、実質的な加害者はいないと考えるのが常識的な判断だろうと思う。
 しかし、法的に加害者と被害者を分けなければならないという決まり事のために、被害者でもある運転手が形式上、加害者となってしまう。脇見運転をしていたとか、赤信号を無視したとか、スピード違反だったとか、飲酒運転していたというのであれば、運転手は加害者だと言えるだろうが、何も疾しいことがない運転手が、自分から飛び出してきた幼児のために殺人者呼ばわりされたのでは、踏んだり蹴ったりであり、あまりに不条理だと思える。
 
 実感が湧かないという人のために、少しシミュレーションしてみよう。もし、あなたが車を運転していて、目の前に突然、小学生が飛び出してきたとしよう。その小学生は実は自殺することが目的だったとする。しかし、その小学生が遺書らしきものを残していなければ、飛び込み自殺だったと証明することはできない。そのため、あなたは殺人者のレッテルを貼られて刑務所に収監されることになったとすればどうだろう? それ(自らが罪人になること)を素直に認められるだろうか? 無論、人を殺してしまったという良心の呵責が止むことは無いだろう。しかし、殺人者というレッテルを貼られてしまうことを認められるだろうか? 元々、罪を犯す気も無ければ、殺人を犯す気もさらさら無い人間が、突然、横から飛び出してきた子供のために、その後の人生を棒に振ることを認めろと言われても誰も納得はできないだろう。
 
 車というものは扱い方によっては凶器と成り得るシロモノでもある。その事実をもって「どのような事故であれ運転手が悪い」という人もいるかもしれない。しかし、法的に問題となる違反行為を行っていないのであれば、不慮の事故自体を法的に裁くというのはナンセンスである。そんなことを認めてしまうと、車を運転するドライバーは皆、殺人者予備群となってしまう。

 今回のマンナンライフのこんにゃくゼリー事故にしても、マンナンライフは被害者であって加害者ではない。では加害者は誰なのか?というと、実は加害者はいないのである。被害者は存在するが、加害者はいない。それはどういうことかというと、悪質な事件ではなく“不運な事故”だった、この一言に尽きる。殺人の動機を持った加害者がいないのだから、これは当たり前のことである。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、こんにゃくゼリー事件は、その言葉を適用するべき事件(事故)だったということである。より正確に言えば、「不運を憎んで企業を憎まず」である。つまり、訴えるべき対象はマンナンライフではなく“不運”なのだ。被害者の家族には厳しい言い方かもしれないが、残念ながら、それが一般的な正しい解釈である。

 これが逆に、裁判官がマンナンライフを加害者だと判定していれば、冤罪事件の出来上がりとなるところだった。その場合、無実の人間を罰したという意味で加害者が生まれることになる。その加害者とは誰か? 無論、裁判官である。そして訴えを起こしていた被告も冤罪に加担したことになってしまうわけだ。不運な事故を契機として、危うく本当の事件が発生するところだった。
 冤罪を作ることが罪であるならば、裁判官という仕事も自らが罪人になるリスクを多分に抱えた因果な商売だと言えるが、今回は感情に流されず無事に職務を果たしたと言えそうだ。
 
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コメント

まったく同感です。
子どももそうですが、高齢化社会への移行期であり、これからは老人の無謀な行動も事故要因となることが増えていくでしょう。
コンニャクを与えられた子どもも、自動車の前に飛び出す子どもも、どちらかと言えば自損事故を起こしているようなものだと気付きます。

投稿: クロコダイルPOP | 2010年11月18日 (木) 23時27分

クロコダイルPOP様

コメント、有り難うございます。

 こんにゃくゼリーを食べて窒息死した場合に、こんにゃくゼリーを製造した企業が悪くなるのであれば、歩行中に車にぶつかって交通事故死した場合も自動車を製造した企業が悪いということになってしまいます。しかし、車の場合“運転する”という行為が付加されるために、企業ではなく運転手が悪いということになります。となると、同じ論理で考えれば、こんにゃくゼリーを子供に食べさせた人間が悪いということになってしまいますね。危険物の扱い方を誤らない限り、自動車会社同様、マンナンライフにも罪は無いという結論に成らざるを得ないわけです。

投稿: 管理人 | 2010年11月20日 (土) 21時02分

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