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2010年12月

中国ファンドは「ハゲタカファンド」と成り得るか?

2010123001 今週始め、2つのニュースがほぼ同時期に流れた。1つは「日本の個人投資家の株式市場離れが加速しているため証券会社の経営が軟調」とのニュース、そしてもう1つが「中国系ファンドが日本の上場企業株式を買い集めている」というニュースである。

 この2つのニュースは実に対照的なニュースだと言える。元々、株式投資に後ろ向きな日本国民は低迷する自国の株式市場から資金を引き上げつつあったが、海外の中国ファンドはその隙を狙って次々に東証一部上場企業の大株主に名を連ねているというのだから、その投資マインドの違いには驚きだ。
 現在のところ、判明しているだけでも既に85社にのぼるらしく、水面下で買い漁りが進行している企業を入れれば100社をゆうに超えているものと思われる。
 報道によると、中国の“日本企業乗っ取り”ではなく、あくまでも割安に放置されている有力日本企業への純然たる“バリュー株投資”であるということらしいが、真実のほどは判らない。中国の「日本企業乗っ取り計画」の布石でないことを願いたいところだが、そうでないという保証はどこにもない。

2010123002_2

 かつての日本もバブル時代にはアメリカのビルやら土地やらを買い漁ったという輝かしい(?)勝ち気マインドが存在したが、失われた20年の間にそんなマインドは跡形もなく姿を消し、代わりに中国が勝ち気マインドを携えて日本企業を買い漁る時代を迎えてしまったというのだから因果なものである。
 一頃、欧米系の外資ファンドは「ハゲタカ」と揶揄されたが、中国ファンドは「ハゲタカ」とは呼ばれないのだろうか?
 
 当時のアメリカは日本の輸入商品に依存せずとも経済が成り立ったが、現在の日本は中国からの輸入商品や安価な労働力に依存している部分が多いので、中国ファンドハゲタカ論やチャイナ・バッシングは起こらないかもしれない。
 では、企業の乗っ取りを防止できるかというと、これも難しいかもしれない。むしろ、日本企業が乗っ取りを恐れて自社株買いでもしようものなら、逆に中国からバッシングされる可能性さえあるのではないかと思える。悲しいかな、どちらに転んでも日本はバッシングされる立場にあるというわけだ。

 その中国ファンドが大株主に名を連ねた上場企業というのが、NEC、日立、パナソニック、東京電力など、今後、世界的に注目を集めるだろうと思われる原子力や電気エネルギー関連銘柄も含まれており、ポートフォリオ的にも満遍なく優良企業が並んでいる。仮に乗っ取りでは無かったとしても、純然たる中長期の投資先としても頷ける銘柄を選択しているとも言える。とは言え、配当利率で選択されているというわけでもなさそうだ。しかし、日立は先日、台湾の液晶メーカー鴻海(ホンハイ)と提携を発表したばかりでもある。日本と台湾の合弁企業の大株主が中国というのも考えさせられる。
 一部の日本企業は現在の円高を活用して新興国の企業買収に乗り出しているそうだが、その買収企業もろとも中国に買収されてしまえば元も子もない。親が中国、子が日本、孫が新興国という関係になってしまう。

 この中国ファンドのニュースが流れた後、株式市場でこれらの関連銘柄の株価がどう動いたのかと確認してみると、それほど大きな動きはなかったようだ。円高懸念や長期休暇前で取引自体が閑散としていたとはいえ、ほとんど動かなかった。年が明ければ何か変化が有るかもしれないが、このままどちらにも動かないとは考えにくい。まだ買い集めている最中であれば、同価格を維持したまま買い増しということも考えられるが、双方いろんな思惑が交差して、いずれ(どちらかに)動き出す可能性が高いのではないかと思う。私も今回発表された企業の1つは株主であるので、少し様子見しようかと思っている。
 
 SBI証券の北尾氏は「日本にいたら収益があがらない」と述べており、アジア市場に事業を拡大すると伝えられているが、今後も中国ファンドが日本株を買い進めることになれば、ひょっとすると日本の株式市場も再び活気を取り戻す可能性もあるかもしれない。しかし、その活気は中国経済と同様、あくまでもバブルでしかないということは認識しておいた方がよさそうである。

(注:あくまでも私見であるため、株式投資は自己責任で願います)

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こんにゃくゼリー問題の絶対的解決法

2010122601_2 先週、消費者庁が「こんにゃくゼリーの大きさを1センチ以内にする」という安全性の目安を発表したことは既に周知の通りだが、またもやネット上では批判の声が続出している。
 こんにゃくゼリー問題に関してはこれまでにも何度も述べてきたので、書いている私自身もいい加減に食傷気味になってきたが、相変わらず、この問題は迷走し続けているようなので、懲りずに問題追及してみたいと思う。

 まず、「1センチ以内にする」というような指標が出てきたということは、“幼児や老人が食べることが前提になっている”ということである。しかし、以前の記事でも述べた通り、こんにゃくゼリーを食べて死亡したのは乳幼児と高齢者だけであり、これまでに10歳以上60歳以下で死亡した人は誰もいない。(正確に言えば、8歳以上67歳以下で41歳に1人だけいる)
 
(参考サイト)国民生活センター
 
 それなら、わざわざ幼児や老人が食べることを前提に基準を設けるのではなく、いっそのこと、「こんにゃくゼリーは10歳以下、60歳以上は食べてはいけない」と決めてしまえば済むことであり、それで問題は完全に解決すると思う。
 早い話、タバコやアルコールと同じように、こんにゃくゼリーにも年齢制限を設ければいいのである。それなら、もし幼児や老人がこんにゃくゼリーを食べて事故が発生した場合にも、法律上、自己責任が適用されることになるので、現在のような訴訟問題で迷走することも無くなるだろう。
 未成年者が法律で禁じられたタバコを吸って、「身長が伸びなくなったのはタバコのせいだ!」とか「JTのせいだ!」と言っても通用しないし、法律で禁じられたアルコールを飲んで「急性アルコール中毒になったのはビールのせいだ!」とか「○○○ビールのせいだ!」と言っても通用しない。
 
 ここでこう言う人がいるかもしれない。
 「そんな法律を作ってしまえば、こんにゃくゼリーを食べたいと思っている子供や老人は食べることができないではないか!」と。
 その通り。確かにこんな法律を作ること自体が馬鹿げていると思う。しかし、そんな法律でも作らない限り、問題が解決できない社会の方がはるかに馬鹿げているということである。「毒を以て毒を制す」という諺もある通り、「無茶な法律を以て無茶な苦情を制す」しか方法が見当たらないのであれば、そのような無茶な法律の制定も止むを得ないと思う。
 
 現在、消費者庁で検討されているのは、こんにゃくゼリーの形状のみであり、窒息事故の可能性が有る乳幼児や高齢者までの全年齢者を対象とした対策を練っているがために、いつまで経ってもまともな対策が聞こえてこない。待ちに待って出てきた対応策というのが「こんにゃくゼリーの大きさを1センチ以内にする」というのだから、呆れてしまう。
 
 しかしこの問題は、こんにゃくゼリーという食品だけに限られた問題ではなく、マンナンライフという企業だけの問題でもない。食品製造メーカー全体の問題であり、もっと言えば日本国民全体に関わる問題である。
 食品を製造しているメーカーにとっては、多かれ少なかれ、食品が喉に詰まって窒息するというリスクは付き物であるため、そういった事故が起こる度に企業バッシングが起こり、訴訟問題に発展していては、安心して食品の開発ができなくなってしまう。食品を1センチにするとか、10センチ以上にしなければならないというような法律などができてしまえば、食文化自体が成り立たなくなる可能性もある。
 
 「食品の大きさを1センチにしなければならない」というような法律は、車の世界で言えば「時速30km以上スピードの出る車を製造してはいけない」と言っているのと、ほとんど同じようなものだとも言える。いくら事故のリスクがあるとはいえ、そのような無茶な法律が出来上がると、日本の経済自体が無茶苦茶になってしまう。同じように、食品製造メーカーが訴訟を恐れて、新商品のまともな開発ができなくなってしまえば、当然のことながら、日本経済にも重大なダメージを与えてしまうことになるだろう。
 加えて、食品製造メーカーに対して訴えを起こした側が勝訴するような事態になれば、さらに恐ろしい社会が出来上がることになる。現代では乳幼児に対する虐待も大きな社会問題となっているが、食品を利用して虐待することで、賠償金を得ようとする不届き者が出てくるだろうことは想像に難くない。そういった無茶苦茶な社会にしないためにも、この問題はもっと深く広く考えて解答を導き出さなければならない。こんにゃくゼリーに年齢制限を設けるのも1つの(後ろ向きな)手段ではあるが、できればもっと冷静で前向きな解決策を模索することを期待したい。

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法人税の減税で税収は落ちるか?

2010122301 民主党が法人税の税率を5%引き下げると発表してから、次のような意見をよく耳にするようになった。
 
 「法人税引き下げの財源はどうするのか?
 
 この疑問に対する仙谷氏の返答は、「財務省は必ず(財源を)掘り出してくると確信している」という意味不明なものだったが、「財源をどうするのか?」というような意見が出てくる背景には、次のような単純な思い込みがあると思われる。
 
 《税金を下げれば税収は下がる
 
 一見すると、まともな意見ではある。ただし、「小学生が考えれば」という前置詞が付けばの話である。もし、税収を上げるためには税金を上げるしか方法が無いのであれば、日本は即刻、全ての税金を上げなければならないだろうし、同時に政治家の存在価値というものも見直さなければならなくなってしまう。なぜなら、税収を上げるために税金を上げる以外の方法を考えることが政治家の大事な仕事であるからだ。
 
 税金を下げることで「財源をどうするのか?」と聞いてくること自体がナンセンスと言わざるを得ない。大事なことは“財源の確保”ではなく“税収を上げる手段”である。そして、減税という措置もその手段に成り得るという認識を全く持ち合わせていないがゆえに、このようなトンチンカンな言葉が出てくるのだろうと思う。
 と言っても、私は別に民主党を擁護しているわけではない。もともと40%だった法人税を35%に下げたところでほとんど実効価値は無いだろうし、法人税以外の税金はこぞって上げるとも発表しているわけだから、全体として見れば『増税』であることに変化はないからだ。民主党の認識もおそらく《税金を上げれば税収は上がる》ということだろうから、先の「財源をどうするのか?」と言っている人々とほとんど違いは無いとも言える。
 
 では、「税金を下げれば税収は増える」のかというと、これも絶対的に正しい意見とは言えない。下げる税率にもよるだろうし、いろんな社会的な構造の歪みや人間の心理的な要因も大きく関係してくるので、一概に「税金を下げれば税収が上がる」と言うことはできない。その社会的な構造や心理的な要因を考慮しながら景気対策を講じるのが政治家の仕事でもある。現在の民主党政権が国民に気付かれずにそのような複雑な計算を行っているのかは甚だ疑わしいと言わざるを得ないが、法人税のみを5%下げた程度で景気が良くなると本気で思い込んでいるのだとすれば、あまりにも薄っぺらな認識と言わざるを得ないと思う。
 
 現在の法人税の年間税収は10兆円にも満たない。2010年度は5兆円程度に落ち込むとも言われているので、そのうちの5%の減税額は(5兆円の8分の1で)6250億円にしかならないということである。
 その6250億円が全て消費や投資に回ったとしても、麻生元総理の行った2兆円バラマキの3分の1程度の経済効果しか生まれない。
 私は企業の内部留保に反対する立場ではないが、多くの企業が5%分の浮いた税金を投資にも回さず、従業員や株主や下請け企業にも回さず内部留保にしてしまえば、全く経済効果は無いどころか、逆に、景気は更に落ち込み、税収も更にダウンという悪夢のような結果を招きかねない。そして、その「税収の減少」という結果だけが針小棒大に報道され、法人税率は元の鞘に戻り、その他の税金は更なる増税という悪夢のスパイラルが発生する可能性も否定できない。
 
 お金というものは、滞りなく動いてこそ健全な経済が保たれる。それは、人間の血液が正常に身体中に巡っている状態と同じようなものである。血液の流れが悪くなると人間の健康も損なわれるのと同様、お金も正常に市場を巡らないと経済は悪化する。言葉を変えれば、景気が悪くなる。日本経済の中にお金の流れを止めているボトルネックのようなものが存在すれば、日本経済は不況という病気から回復することはできない。
 経済を人体に喩えるとすれば、政治家とは医者でなければならない。もっと言えば、病気を見抜く名医でなければならない。具体的に換言すると「経済オンチのヤブ医者では、景気を良くすることはできない」ということである。
 日本は幸いにも世界一と言ってもいいほどに、お金が有り余っている国であるのだから、そのお金を如何に効率よく動かすかが政治家に問われるべき資質なのである。
 
 最後に、「法人税の減税で税収は落ちるか?」
 これに対する答えは「税収は上がる可能性の方が高いが条件にもよる」。そしてその条件には「政治家の経済認識力」というものも大きく関係していると述べておきたいと思う。

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『BLOGOSファイナンス』参加のお知らせ

【閲覧者の皆様へ】

 この度、当ブログが、ライブドアが運営するブログサイト『BLOGOS』の姉妹版『BLOGOS finance』(以下のURL)に参加させていただくことになりました。

BLOGOS finance(ブロゴス ファイナンス)
http://f.blogos.livedoor.com/

 『ファイナンス(金融)』系の記事はあまり書いてきませんでしたので、少し浮いた感じに見えるかもしれませんが、オファーを頂いたライブドア(の担当者様)に報いるためにも、今まで以上に(時間の許す限り)記事の更新頻度を高めていきたいと思っております。当ブログ共々、今後とも宜しくお願い申し上げます。

【追記】
 2011年6月20日から『BLOGOS』へ移行となりました。

BLOGOS(ブロゴス)
http://blogos.com/

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高卒 = 大卒 < 専卒の時代

2010121901 最近は、大学生の就職内定率が50%以下の大学が急増しているらしく、聞いたところでは、30%台という大学もあるらしい。30%というと、単純に考えても3人に1人しか内定をもらえないということなので、“大学に行く価値”というものも少し考える必要がある時代だと言えるのかもしれない。
 そんな時代にあって、先日、「内定をもらえなかった大学生が大学卒業後に専門学校に行くケースが増えている」との報道があった。
 おそらくこれは専門的な技術力を持たない文系の大学生のことを指しているのだろうと思うが、時代的背景を考えれば当然の成り行きではないかと思える。
 
 私も一応、文系の大学を卒業しているので言えることだが、ハッキリ言って、大学で役に立った授業というのは、簿記英語ぐらいではないかと思っている。より正確に言えば、英語は受験勉強で覚えたことが役に立っているという意味であり、授業はほとんど役に立っていないと思う。現代のように定員割れで誰でも大学に入学できるような『大学全入時代』であれば、受験勉強すらせずに大学に入学している学生も大勢いるだろうから、大学に行っても何も得るものが無かったという人も結構いるのではないかと思う。

 そんな大学に行っても何も得るものが無かったというような学生を現代の企業が欲しがるか?というと、答えは至って明白で「いらない」というのが正直のところではないかと思う。もし、私が企業の人事担当者であれば、文系の大学新卒者よりも実務経験の有る転職者専門技能を有した専卒者を優先的に採用すると思う。なぜなら、仕事をしていく上で最も重要なことは、その仕事を行う実務能力が有るかどうかということであり、どこの大学を出ているとか、大卒という肩書きなどは本来、何の役にも立たないからだ。真っ当な受験勉強を行って大学に入学したということであれば、その努力は評価されるべきだと思うが、それが必ずしも仕事に活かせるというわけでもない。仕事を行っていく上で大事なことは、現在ただいまの努力であり、過去の努力ではないからだ。学生時代に如何に勉強ができた優秀な人物であったとしても、そんな過去の栄光だけで仕事ができるほど、世の中甘くはできていないのである。
 
 しかし、日本は未だに学歴を中心に考える『学歴偏重社会』であり、社会全体がそのような価値観で固定されたままであるため、無意味な学歴信仰というものは根深く残っている。そして、この時代にそぐわない形骸化した学歴信仰が存在するがゆえに、いろんなところで矛盾が生じて悲劇が量産され続けている。『大卒』という価値自体が暴落しているにも関わらず、大卒であることがより良い人生を生きるための絶対条件の如く信仰の対象になってしまっているわけだから、矛盾が生じないわけがない。
 『大卒』であることを条件に《一流企業に入社することが当たり前だ》と思うような時代錯誤な認識を持ったままであるがために、(希望通りの企業に)就職できないという悲劇を作り出してしまっているわけだ。
 このことは喩えて言うなら、大赤字に転落した上場企業の株式を買って、「なぜ株価が騰がらないのか?」と嘆いているようなものである。株式の価値が解らないということと、学歴の価値が解らないということは実によく似ている。同じく株式に喩えて言えば、現在の大企業というのは、大抵は既に天井を打った株式であると思われるので、自分の能力を最大限に活かせるという意味でも、これから伸びそうな中小企業を選択した方が良いこともある。
 しかし、多くの学生(親も?)は大企業にしか目が行かず、柔軟な時代的発想ができなくなっていることが就職難問題をより深刻化しているものと思われる。学歴社会というものが時代遅れであれば、その学歴社会を信奉する国民の認識もまた同じく時代遅れであるがために、こういった悲劇のミスマッチが起こってしまうのである。
 
 大学全入時代であるということは、常識的に考えれば『大卒』の価値は下がっているということであり、そこに疑いを入れる余地はない。その価値は“誰もが高校に行ける時代”と同じものだと言うことができるだろう。つまり、現代の『大卒』という肩書きは、実質的には少し前の『高卒』と同じものに変化してしまっているということである。(あくまでも企業側から観た価値)
 かつては、“大学に入るのが難しい”がゆえに『大卒』という肩書きが無条件で礼賛されたが、“大学に入るのは簡単”であれば、無条件に礼賛するわけにはいかない。現代で無条件に礼賛されるべき『大卒』が有るとすれば、現代でも難関な競争率を誇る超一流大学ぐらいのものだろう。
 
 就職するという目的を果たすべく、かつての高卒者は、専門知識や専門技能を身に付けるために専門学校の門をくぐった。現代の大学生もまた、大学時代に何の専門知識も専門技能も身に付けることができなかったため、専門学校を目指す。この現象自体が、『大卒」の価値が『高卒』になってしまったということの証明でもある。
 
 結局のところ、現代の大学生の就職難問題とは、実際の仕事で役に立たない知識をいくら大量に頭に詰め込んでも、何の役にも立たないという当たり前のことが表面化したというだけのことなのかもしれない。その結果である現象自体をいくら問題視しても一向に問題は解決しない。誤った学歴信仰というものを見直さない限り、残念ながらこの問題が解決することはないだろう。学歴社会から実務社会へ速やかに移行すること、それが、この問題の(実現が極めて困難な)処方箋である。
 
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慈善活動と資本主義の精神

2010121101 米国大手SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)企業であるFacebookの創業者マーク・ザッカーバーグが資産の大半を寄付することが明らかになった。
 この発表は、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなどが始めた社会貢献活動である『Giving Pledge』(誓約という意)への参加表明を行ったことを意味している。『Giving Pledge』に参加する者は、【生前または死後に自身の資産の半分以上を寄付しなければならない】という誓約を交わすことになる。
 
 日本では、《アメリカは過剰な市場原理国家であり、弱肉強食の競争社会》というような否定的なイメージを刷り込まれた人が多く見られるが、なぜ、そういった国で資産の大半を寄付するような慈善活動が行われているのだろうか? 逆に、市場原理を否定し「和を以って貴しと為す」と言われている日本では、なぜこのような社会活動が行われていないのだろうか? この一事を観て、両国におけるイメージと実態が逆さまになっていると思えるのは私だけだろうか?
(注記:本来、市場原理には善も悪もないが、ここでは話の都合上、善悪に区別している)
【関連記事】
スケープゴートにされた『市場原理』
市場原理の曲解(適正価格と限界価格)
 
 日本では、こういった慈善活動を観て「偽善だ」「売名行為だ」と言う人は多い。しかし、仮に売名行為だったとしても、何千億円、何兆円という多額の資産を寄付する人が現れる社会と、売名行為を否定し小銭を寄付する人しか現れない社会のどちらが住み良い社会と言えるのだろうか? 成功者が自主的に築いた資産を分け与える社会と、金持ちから無理矢理に資産(税金)を奪い取って平等を目指す社会のどちらがまともな社会と言えるだろうか?
 
 アメリカは資本主義が根付いた国であるが、資本主義社会とは、単にお金儲けが全てというような社会のことではない。それはあくまでも表面的な認識に過ぎない。
 本来、宗教的な倫理観が根付いた欧米では、日本以上に“(私欲を追求する)お金儲けは悪”というような罪悪感を根底に抱えている。そのため、寄付という行為自体が、一種の贖罪行為になっているという向きもある。単なるお金儲けは疾しいことだが、お金儲けを通じて他人を救うことができれば、お金儲けが絶対的な善となる。それが隣人愛を説いたイエスの教えに忠実な人々の贖罪行為に繋がるわけだ。この思想こそが、アメリカの資本主義の精神であり、アメリカが経済的に発展できた理由でもある。
 彼らにとって、お金儲けは他人を救う手段であり、そう思い込むことによって、お金を愛するという思想が自然と身に付いてしまっているわけだ。日本のようにお金儲けを憎む嫉妬深い人がいるのは、お金儲け以外に求めるべきもの(目的)が無いせいだろう。
 
 そう考えると、倫理観の乏しい日本の方こそ、お金儲けが全てになっていると言えなくもない。倫理観が有るということは、“お金以上に価値の有るものを認識している”ということを意味するからだ。なんにせよ、日本はアメリカよりも、悪い意味でお金に執着している人が多いということだけは間違いのないところだろう。
 
 アメリカと日本の違いを一言で述べると以下のようになる。
 
(アメリカ)
 隣人愛の実践が目的であるので、お金儲けは悪くない。
 =お金は善である。

 
(日本)
 目的自体が無いので、お金儲けに狂奔するしかない。
 =お金は悪である。

 
 日本の場合、ビル・ゲイツのようなスケールの大きな成功者というものが全く出てくる気配がない。いや、出てくる気配は有るが、成功者になる前に、出る杭は打たれることが当然というような足の引っ張り合い社会になっているため、多額の資産を寄付するような人が現れようがないとも言える。
 仮に「多額の資産を寄付します」というような人が現れたとしても、「偽善だ」「売名行為だ」と罵る嫉妬深い人々が邪魔をして、寄付したくてもできないという悪循環社会になってしまっている。
 善意で寄付する者が「偽善者」という扱いをされるリスクが有るのでは誰も目立った寄付などはしないというのは当たり前の理屈である。そして今度は逆に、寄付しないことが「守銭奴」として批判されるという悪循環を生むことになる。まさに精神的ジリ貧社会である。
 
 一応、擁護しておくと、日本にも『勤勉の精神』というものがある。「働くのは良いことだ」とする思想こそが、日本版の資本主義の精神だと言える。日本が経済的に(一時的にでも)発展することができた理由も、その精神が存在したからだ。それが、マックス・ウェーバーの説いた「高度な倫理観なくして経済が発展することはない(=資本主義国家は誕生しない)」という意味である。
 日本が衰退の危機に扮しているのも、勤勉の精神を忘却し、他人(お上)任せの社会主義国家に傾倒していることが大きな理由の1つだ。
 「倫理観なくして経済が継続的に発展することはない」 それが万古不易の経済原理である。働くこと、富を生むこと、お金を儲けることが経済の発展に繋がるという理屈は、よく考えれば誰にでも解るはずである。逆に、働くのは嫌だ、富を生む必要は無い、お金儲けは悪いことだというような考えが根底にあれば、そんな国が発展するはずもない。これも至極当然の理屈である。
 
 倫理観が無いという意味では、日本よりも中国の方が更に酷いだろうから、現在の中国経済の発展もどこまで継続するかは非常に疑わしいと言える。中国は“資本主義の精神なき発展というものは続かない”ということをいずれ知ることになるはずである。

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交通費無料ビジネスの台頭

2010120401 今年の11月からアマゾンが商品配送料を完全無料化したことは周知の通りで、これまでの「最低1500円以上の商品を購入しなければ送料無料にならない」というネット通販ビジネスに新たな新風を巻き起こしたことは記憶に新しい。このアマゾンの新ビジネスモデルは文字通り「送料無料ビジネス」と呼べるものだが、実は11月にはもう1つの新しいビジネスモデルが生まれている。それは、CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)、通称TSUTAYAの「TSUTAYA郵便返却」サービスというものだ。
 
 私は個人的に、アマゾンの消費者受けする最大の理由は“商品を買いに行く手間が省ける”ことにあると思っている。私自身、実際に買い物に行く手間が省けて大いに助かっているのでそう思えるのだが、毎日、朝から晩まで忙しく働いている人間にとっては、買い物に出かけることが非常に面倒…と言うより、実際に買い物に行く時間がほとんど無いため、必然的にアマゾンに頼らなければならなくなってしまう。
 「送料無料」と聞くと、ショップからの配送料が無料となるので、お得だと思いがちだが、実は「送料無料」には、消費者が買い物に行くための交通費まで無料になるという隠れたメリットがある。そして買い物に行く時間(人件費)も無料となるため、時間の無い消費者にとっては、これほど有り難いサービスは無いとも言えるわけだ。
 もちろん、買い物するショップが歩いて行けるほど近所にあるというなら話は別だが、その場合であっても、時間(人件費)がかかることに違いはない。
 
 さて、話をTSUTAYAに戻そう。私もレンタルはよく利用するので、レンタルの難点というものは以前から気になっていた。その難点とは誰もが思うであろう“返却しに行くのが面倒”というものだ。例えば、金曜日の会社帰りに新作映画のDVDをレンタルしたとしても、通常は『1泊2日』か『2泊3日』しか選択できない。わざわざ休日にレンタル店まで出かけて返却するのは誰が考えても面倒なので、レンタルする気はあるのだがレンタルできないというジレンマが存在していた。これは当のレンタルショップにとっても、お客を失っているという意味で大きな損失を齎していたはずだ。
 
 会社帰りの金曜日にDVDをレンタルしたとして、「返却したい希望日はいつですか?」という消費者アンケートをとった場合、おそらく圧倒的多数を占めるのは「来週の月曜日(同じく会社帰り)」という結果になるはずだが、そういった消費者の要望に添ったサービスがなぜかこれまで存在しなかった。たまに3泊4日レンタルというものも見かけるが、新作ではなく準新作に限定されているので、あまり実用的とは言えなかった。
 少し前には、使い捨て(48時間だけ視聴することができる)の映画DVD(通称:48DVD)がコンビニで販売されていたことがあったが、これも返却する手間が省けるとはいえ、価格的な問題がネックとなり世間一般には浸透しなかった。

 ということで、レンタル利用者の要望に応えるべく、新たに登場したのが「TSUTAYA郵便返却」サービスだ。このサービスは、全国のTSUTAYAショップでレンタルしたDVDやCDを郵便ポストに返却可能としたものだが、今まで有りそうで無かったサービス(と言うより商売)だと言える。これまでにも、「ネットで借りて自宅に届きポストへ返却」というDMM・ゲオ・TSUTAYAの三つ巴のネットレンタルサービスというものは有ったが、実際のレンタルショップでレンタルしたDVDをポストへ返却というサービスは無かった。
 
 このサービスを利用するためには、100円の利用料金が加算される。ポスト返却用のパッケージにはDVDが6本まで入るらしいので、1度に複数本レンタルする人にとっては非常に有効なサービスだと言えるだろう。そのサービスを利用するために、敢えて複数本レンタルする人も増えるのではないかと思われる。
 全国1000店舗以上もあるツタヤならではのサービスとも言えるが、個人的には非常に期待も持てるサービス(商売)だと思う。
 
 レンタル料金的にはゲオに負けていたツタヤだが、このサービスが付加されれば、多少の料金差はカバーできる可能性がある。レンタル利用における交通費というものは意外に大きなウエイトを占める。例えば、100円でレンタルしたDVDであったとしても、車でショップまで往復すれば、その距離によっては、レンタル料金の数倍の交通費がかかってしまう。そういった理由もあって、ゲオの100円レンタルは消費者(私も含む)に《複数本レンタルしなければ損だ》という合理的思考を促す契機を与えることに繋がり、大きな成功を収めた。それが意図した結果であったのか、それとも意図しなかった幸運であったのかは知らないが、消費者心理を上手く利用できたことが、商売成功の秘訣だったと言える。今回のTSUTAYAの新サービスも消費者心理を上手くとらえており、成功する可能性が非常に高いビジネスモデルだと言えるだろう。
 
 アマゾンの『送料完全無料』とTSUTAYAの『店舗返却無用』の新サービスに共通して言えることは、どちらも『(消費者の)交通費と人件費が無料になる』ということである。消費者にとって有り難いサービスであれば、流行らないわけがない。
「ネットで借りて自宅に届きポストへ返却」という言葉は、
ツタヤで借りてポストで返却」という言葉にお株を奪われることになりそうだ。

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