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2011年1月

牛丼戦争を礼賛するデフレ悲観論者の不思議

2011012801_2 総務省から発表された2010年度の消費者物価指数(Consumer Price Index)は前年比で1%の低下だったらしく、相も変わらず「デフレから抜け出せない日本経済」という報道がなされている。

 こういった報道からは、なにやら“物価が下げ止まらないことを嘆いている”というような印象を受けてしまうのだが、果たして物価が下がることが本当にそれほど悪いことなのだろうか?
 もし物価が下がることが悪いことなのであれば、なぜ人々は10円でも安い牛丼に群れをなしてしまうのだろうか? もし物価が下がることが消費者にとって“嘆き”を意味するものであるならば、現在の果てしない牛丼戦争を観た人々は、戦争左翼の如く「牛丼戦争反対!」と言うはずである。しかし、現実にはそれとは逆の現象が起こっており、どう贔屓目に観ても消費者は牛丼戦争を観て喜んでいるようにしか見えない。

 「デフレは生産者に地獄、消費者に天国」という言葉もあるように、物価が安くなることは大部分の消費者にとっては喜ばしいことである。では生産者にとっては本当に地獄なのかというと、必ずしもそうとは言えない。なぜなら、生産者とは時に消費者でもあるからである。
 この世の中に生産だけを行っているような人間はいない。どんなに多忙な仕事を行っている人であっても、仕事をしていない時は1消費者であるわけだから、生産者が四六時中、地獄に身を置いているわけではない。休日は全ての人が消費者になることを考えれば、「デフレは生産者に地獄、消費者に天国」という言葉は少々言葉足らずだと言える。正確に言うなら「デフレは生産者である時以外は、全員に天国」の方が正しい。

 この「デフレ」という言葉には、様々な誤解や曲解があることはこれまでにも何度か述べてきたので、そちらの記事を参照していただければ、デフレ論争というものがいかに誤解に基づいて組み立てられたものか理解していただけるのではないかと思う。

【関連記事】
「デフレ脱却」というお題目
デフレとインフレの知られざる誤解
『デフレ教』の信者に成り果てた日本国民

 以前の記事を読むのは面倒臭いという人もいると思うので、念のためにデフレ論争について少しだけ記述しておきたいと思う。

 そもそも『デフレ』とは何なのかというと、一言で言えば『物価が下がり続ける』ことである。そのデフレ状態が続くことによって齎される悪循環を『デフレ・スパイラル』と呼ぶことは誰もが知っている通りである。

 では日本の物価はなぜ下落し続けているのかというと、世界経済がグローバル化したことによって、世界的な規模で“物価の平準(フラット)化”が進行中であるためだ。
 冷戦の終結によって「鉄のカーテン」という名のパンドラの匣が開かれたことによって、新興国や発展途上国の安価な労働力や物資が先進国のそれと混じり合わさり、恰もミキサーにかけられたか如く、物価が平均化(格差が解消)されつつあるためである。それが、先進国の(中でも物価の高い)日本の物価が下げ止まらない根本的な原因であり、新興国の経済が活況を呈している大きな理由でもある。
 こういった原因を知れば、現代の日本がデフレから抜け出せないのは当たり前のことであり、日夜、騒がれているデフレ論争というものが、如何に的外れな妄論であるかがよく解ると思う。

 ここでこう言う人がいるかもしれない。

 「日本がデフレから抜け出せないのであれば、お先真っ暗ではないか!?」と。

 しかし、この意見も的外れである。先にも述べた通り、多くの国民はデフレ現象を喜んでおり、嘆いてばかりはいないからだ。なぜなら、日本全体で観れば、デフレによって下がっている物価以上には給料は下がっていないからである。
 デフレとは、物の価値が下がる現象のことであると同時に、お金の価値が上がる現象のことでもある。物の価値とお金の価値は表裏一体であるが、1国単位で観れば必ずしもゼロサムにはなっておらず、日本の場合は、物の価値が下がる以上にお金の価値が上がっているため、デフレと言っても『良いデフレ』に分類される。

 「では物価は下がり続けてもいいのか?」と疑問に思う人もいるかもしれないが、もちろんそれには条件がある。その条件とは、「収入と物価のバランス次第」ということである。収入が物価以上に下がらなければ、実質上、デフレ自体はそれほど悪いものとは言えないのである。

 ただ、私は現在の牛丼戦争には少し疑問を抱いている。行き過ぎた安値競争の行き着く先には、全体的な経済発展という理想的な社会が見えてこないからだ。現代ではフリービジネスというものも話題になることが多いが、利益度外視のフリービジネス商売は、潜在需要があって始めて成り立つビジネスモデルである。
 例えば、かつてソフトバンクが行ったADSLモデムの無料バラマキは、巨大な潜在需要が存在したからこそ成功を収めることができたと言える。インターネット社会の将来像がハッキリと見えていたがゆえに、あのような思い切ったバラマキ(と言うより先行投資)が行えたわけだ。

 翻って、現在の牛丼業界に目を転じれば、そこには巨大な潜在需要が存在していると言えるだろうか? 熾烈な値下げ価格競争を制したとして、その先に未だ顕在化していない巨大な市場が広がっているだろうか? そういった新たな需要が花開く可能性が有るのであれば、安値競争自体が意味のある投資となるだろうが、そうでない場合は単なる安値での牛丼のバラマキになってしまいかねないということである。

 なにやら、現在の民主党のバラマキ政策とどこかオーバーラップしてしまいそうだが、安値競争も行き過ぎると、限り無くフリービジネスに接近することになり、利益が出ないジリ貧のバラマキ思想に陥ってしまう。これは牛丼業界だけではなく、その他多くの日本企業にも言えることである。
 
 商売とは本来、良い商品を「いかに高く売るか」が基本となるはずだが、現代の日本では、良い商品を「いかに安く売るか」になってしまっている。本来、コスト削減とは、利益率アップという目的のために行うものであると思われるが、コストと一緒に利益まで下げている(またはコスト以上に利益を下げている)のが現代の日本企業の有り様である。消費者物価指数に見るデフレ現象よりも、こういったマクロ的なジリ貧思想(人為的なデフレ現象)の蔓延の方がはるかに危険だと言える。

 少し乱暴に聞こえるかもしれないが、現代の日本経済の問題点はデフレではなく、需要と消費が足りないことである。需要と消費が足りないがために、物の値段を必要以上に下げざるを得なくなってしまっているという悪循環からの脱却こそが必要なのである。
 
 多くの経済学者は、デフレが不況を意味するものではないことに気が付いているが、長い間「デフレ脱却」という言葉が世間一般で使われてきたために、その間違いを改めようとはしない。エコノミストの世界も例外なく事勿れ主義になってしまっているということだろうか…。

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映画鑑賞料金の値下げ(「机上の空論」から「ブログ上の実論」へ)

2011012101 今週、シネコン(複合映画館)最大手のTOHOシネマズが映画の入場料金を1500円に値下げする方針を明らかにした。18歳以上が1500円、18歳以下が1000円になる予定らしく、実に18年ぶりの料金改定となる。
 そして本日、さらに条件付きで1200円まで下がるという発表があった。

 映画料金については何年か前に当ブログでも値下げ提案を記事にしたことがある(以下の関連記事参照)。当時は「映画料金の値下げなんて机上の空論だ」と言う人もいたが、今回、結果的には値下げされることになったわけだから、「机上の空論」ではなかったことが一応は証明されたことになる。ということで、改めて記事を書き進めたいと思う。
 
【関連記事】
映画鑑賞料金の現状と改善提案

 これまで映画鑑賞料金は、デフレ時代であるにも関わらず消費者の要望を掬い上げることなく20年近くも料金を下げずに据え置いてきた。そんなわけだから、価格競争に弾みがつけば一気に半額程度まで下がってもおかしくないと思う。業界のいろんな事情が有るのかもしれないが、時代的な背景と需要と供給のバランスを考えれば、1200円でもまだ少し高いと思えるのは私だけではないと思う。

 この18年の間に映画を取り巻く状況は大きく様変わりした。18年前と言えば、まだアナログのビデオテープが主流の時代で、映画ソフトも高価なイメージが強かったが、現在では安価なDVDソフトやブルーレイソフトが出回っており、安価な大画面テレビも出揃っている。その上、インターネットを経由してパソコンで映画を視聴できる環境も整っている。そんな状況の中にあって、映画館で映画を観る料金だけが変わらないというのは、あまりにも不自然だった。

 映画館自体は快適なシネコン形式となり、座席の予約等もネットで行えるようになった。IMAXシアターを筆頭にリアルな3D映画の上映にも対応するなど、物理的な意味では、映画館も随分と変化したと言える。しかし、料金だけはなぜか無視され続け、料金の値下げを話題にすること自体がタブーのようになっていた。
 そういった一種の規制文化のような空気が世間を覆っていたせいか、「映画料金の値下げなんて机上の空論だ」というような意見がさも正論であるかの如く錯覚されたわけだ。
 
 本来、モノの値段というものは、需要と供給の原理によって決定されるものであり、その市場における需要が伸び悩めば、一時的にでも値段を下げるという判断が為されるのが一般的である。消費者が求めている価格と、生産者が望んでいる価格に埋めようのない開きが発生すれば、その隙間を狙って価格破壊業者が現れることになる。QBハウスなどはその良い例であるが、映画業界には価格破壊業者ではなく、『違法コピー業者』という市場破壊業者が現れてしまったことは以前にも述べた通りである。しかし、さすがに映画館自体をコピーするわけにはいかないので、映画館商売はこれまで値下げすることなくなんとか持ちこたえてこれたのかもしれない。

 ネット上で「あなたは映画鑑賞料金がいくらであれば映画館で映画を観ますか?」というアンケートを実施すれば、おおよその妥当料金が判明すると思うが、私の答えは以前と変わらず「1000円」である。のんびりと映画を観に行く時間があまり無いとはいえ、1000円であれば月に1回程度なら無理してでも行ってみようかという気持ちになる。現在は年に2回程しか映画館には行っていないので、私の場合、1000円 まで値下げしてくれれば、映画館の売上げが3倍以上になる計算だ。(以下の計算式参照)

 1800円× 2回= 3600円
 1000円×12回=12000円

 では、1200円ならどうなのかというと、私の場合は2倍(4回)にはなるだろうと思う。しかし一般的にはそこまでは伸びないかもしれない。
 1200円という料金は、コストパフォーマンス的には非常に微妙な料金だと言える。少なからず観客数がアップすることは間違いないと思うが、1200円の場合、観客数が1.5倍以上にならないと売上は上がらないわけだから、かなり微妙ではある。(売店の売上は計上しないものとする)
 
 「価格以上に魅力のある映画であれば、料金にはそれほどこだわらない」と言う人も多いと思うが、映画というものは基本的にフタを開けてみないと分からない代物でもある。中にはお金を払うに値しない駄作もあり、観るだけで時間の無駄になったというような映画も実際に多数存在している。そんな玉石混交なモノが出回っている映画市場で重要なことは、「試しに観てみる」という発想である。そういった発想を消費者に抱かせるに足る料金というものを設定しない限り、観客数(=売上げ)が飛躍的に伸びることはない。逆に、そういった消費者心理を正確に捉えることができれば、売上げ(=観客数)が飛躍的に伸びるだろうことは容易に想像できる。

 何度も個人的な意見を言うようで恐縮だが、私の感覚では、その節目となる価格は1000円以下だろうと思う。映画鑑賞料金を1000円まで下げることができれば、全国のシネコンの興行収入は飛躍的にアップすると思う。
 キャッチコピーを『365日、映画の日』とでもすれば、映画ブームが再燃し大繁盛間違いなしだろう。映画館が繁盛すれば、映画製作会社等も潤うことになるので、映画の質も自ずと向上していくという好循環システムが生まれる。ほんの些細なことからバタフライ効果的に景気が良くなっていくことも充分に有り得る。是非、シネコン経営者の方には、試験的にでも思い切った値下げを断行していただきたいと思う。
 
 今回も「机上の空論」だと反論する人が出てくるかもしれないが、私自身は「ブログ上の実論」だと確信している。また数年後にそのことが証明されることを願って筆(指)を置きたいと思う。

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授業料(100万円)よりも高い『新卒』という肩書き

2011011601 先日、みずほフィナンシャルグループが「(一定期間が経過した)既卒者を新卒と同じ基準で採用する」と発表して話題となったばかりだが、今度は、第一生命も「(3年程度の)既卒者を新卒扱いで採用する」方針を明らかにした。
 
 こういった発表を行うことは企業のイメージアップにも繋がることから、今後も後に続く企業が出てくるだろうと思われる。しかし、就職難に喘いでいる就職浪人生達が、こういった現象を観て手放しに喜ぶのは早計であると思う。
 
 みずほFGは「一定期間」、第一生命は「3年程度」と述べている通り、これは言うなれば、就職浪人生にも入学浪人生と同様のチャンスを与えるということである。大学の入学試験でも受験に失敗した浪人生に入学のチャンスが与えられているのと同様、就職試験に失敗した就職浪人生にも就職のチャンスを与えようという措置である。しかし、残念ながら『入学試験』と『就職試験』というものは制度的には同列に扱えるような代物ではない。
 
 大学の『入学試験』の場合は、年齢の違いは考慮されず、ほぼ試験の点数のみで合否が判定されるため完全に公平な試験であると言えるが、企業の『採用試験』の場合は、ペーパー試験の結果だけで採否が決定されるわけではない。同じ新卒でも“現役の新卒”と“就職浪人した新卒”という明確な違いがあり、その違いが採用試験(面接試験)に全く影響しないという保証はどこにもないわけだから、就職浪人生が不利な状況であることに変わりはないように思える。

 企業が採用する人数を大幅に増やさない限り、新卒者と浪人生との間で熾烈な競争となることは目に見えている。誤解を恐れずに言えば、新卒で就職試験に落ちた学生が、浪人して就職試験に受かる可能性が上がるとは思えない。就職浪人生が就職できるチャンスは増えるものの、採用される可能性が高くなるわけではないということである。
 入学試験の場合であれば、浪人した人の方が学習時間が長いという意味で受験が有利になるが、就職試験の場合、目標となる職種がハッキリと決定していない限り、浪人することがメリットになることはないと考えるべきだろう。就職浪人している期間中に就職に有利な能力でも身に付ければ話は別だが、そうでない限り、就職浪人したことが有利に働く理由はないと思われる。
 
 日本の大企業が異常なまでに「新卒生」にこだわるのは今に始まったことではないが、不思議なことに「浪人生」や「留年生」というものにはあまりこだわりがないようで、あくまでも4月一日からの入社にのみこだわってきた。新卒者であっても、その新卒者の年齢差(浪人や留年によって開いた年齢差)にはあまりこだわってこなかったのが日本企業の可笑しな特徴でもある。
 そういった事情からか、就職浪人しそうな学生は敢えて卒業せずに「留年」を選択する場合もあるそうだ。1年間無職で就職浪人するくらいなら、わざと留年して学生の身分で就職活動すれば、立場的には一応、新卒者でいられるというわけだ。
 
 大学の授業料というのは、通常、受講科目数に関係なく1年間100万円程度はかかるものなので、敢えて留年を選択した学生は就職浪人化を避けるためだけに、100万円の授業料を無駄にしていることになる。アルバイトで自活している学生であれば、1年間のアルバイト代の大半を注ぎ込むことになる。
 『新卒者』という身分を維持するためだけに、本来必要のない膨大な授業料が毎年、大学に納められているわけだから、呆れるばかりの『新卒至上主義社会』だと言える。日本以上に就職難の国々はいくらでも存在するが、このような歪んだ教育社会が放置されているのは、おそらく日本だけだろうと思う。
 
 企業が「既卒者を新卒扱いにする」というのは、就職浪人生にとっては、どこか甘い言葉のように聞こえるが、よく考えれば、よその国ではこんなことは当たり前のことであり、今までそうしてこなかったことの方が不思議であるとも言える。景気の良い時には就職浪人するような人があまりいなかったことも1つの理由かもしれないが、学生時代に就職活動しなかった(または内定を獲得することができなかった)学生を無条件に採用拒否してきたという姿勢はあまり褒められたものではない。なぜならそれは、企業側が入社式や人事面での管理に都合のよい学生だけをターゲットにして採用活動を行ってきたということであり、それは同時に学生の能力というものに重きを置いてこなかったことを意味しているからだ。

 現代において“学生の潜在能力”よりも“企業の管理制度”に重点を置いて採用活動を行うなどは時代錯誤もいいところである。この厳しい大競争時代に、仕事ができることよりも、「管理が楽」というどうでもいいような理由で採用試験を行っている企業というのは不条理を通り越して、滑稽ですらある。

 こういった問題も結局のところ、年功序列制度という日本でしか通用しない摩訶不思議な制度を維持するために派生した人為的な弊害であって、決して、不況という時代が齎したものではない。融通が利かない社会と、そういった社会を改めようとしてこなかった人間から生まれた悲喜劇であり、物事の本質を考えずに建前だけで騙し騙し過ごしてきたことに対するツケがようやく回ってきたというだけのことだろう。

 みずほFGから始まり、第一生命、そして今後も様々な企業がこれに続いていくものと思われるが、この現象はある意味で、企業版の『タイガーマスク(伊達直人)現象』とも呼べるかもしれない。しかし、企業がタイガーマスクを演じたところで、多くの就職浪人生が就職できるわけではなく、ヘタをすれば、単なるリップサービス程度の効果しか無いかもしれない。
 世間で騒がれているタイガーマスク現象はおそらく一過性のものだろうと思われるが、就職市場におけるタイガーマスク現象が一過性のものであれば、単なる企業の宣伝だったという結果になってしまいかねない。
 
 硬直した日本の労働市場で「既卒者を新卒扱いで採用する」と言っただけでも少しは前進したと言えるだろうが、未だにプラスに転じたとは言い難い。もともとマイナスだったものが一歩前進しただけで、マイナス圏から脱したわけではない。
 「既卒者も新卒者も無関係に能力の有無で採用する」と言うぐらいのアグレッシブな日本企業が続々と現れない限り、日本の労働市場がプラスに転じたとは言えないし、就職浪人問題の根本的な解決策には成り得ない。

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『規制仕分け』で問われる民主党の存在価値

2011011001 これまで政府の行政刷新会議は3度(予算編成・独立行政法人事業・特別会計制度)に渡る『事業仕分け』を行ってきた。民主党が行ってきた事業仕分けについては評価している識者も一部にはいるが、大方の識者は「やらないよりやった方がまし」という程度の冷めた感想を抱くに留まっている。
 その民主党が今度は『規制仕分け』を実施すると発表している。規制仕分けの対象となるのは「環境」「医療」「農林・地域活性化」の3つの分野であるらしいが、最も注目を集めているのは一昨年大きな話題となった『薬のインターネット販売に関する規制』が含まれていることである。
 
 この規制については、私もネット上で反対署名に参加し、当ブログでも批判記事を書いた。ネット販売大手の楽天やケンコーコムも参加し、多くの反対署名が集まったものの、結果的には、医薬品のネット販売規制は実施された。
 
【関連記事】
『厚生労働省』vs『楽天』の意味するところ
医薬品販売における『所得の移転』問題
『消費者いじめ』の薬事法暫定措置

 では今回、規制仕分けを行うと発表している民主党は当時、この規制に反対していたのか?というと、実は反対はしておらず、どちらかと言えば賛成の立場だった。
 そんな民主党が今回、『薬のインターネット販売に関する規制』に反対の立場を取っているわけだから、注目されないわけがない。
 
 もし民主党の規制仕分けによって、この薬事法規制が撤廃されるようなことがあれば、おそらく民主党の支持率も少しは回復するのではないかと思う。しかし、そこまでの成果を上げることができるかは疑問の域を出ない。
 
 以前にも述べたことがあるが、『規制』とは『信号機』と同じようなものである。
 私の家の近所でも交通事故が絶えない危険な交差点があったが、最近、その交差点に信号機が設置された。あなたの自宅の近所にも「ここは交通事故が多いので信号機を設置した方がよい」と思うような交差点があると思う。そういった誰もが危険だと思っている交差点に信号機が新たに設置されることは正しい。
 しかし逆に、「こんな所に信号機は必要ないだろう」と思える交差点も有る。ほとんど人も車も通らないような交差点に信号機などを設けてもあまり意味を為さない。そんな無駄な信号機が自分の生活範囲に何カ所も有る光景を思い浮かべてみれば、それが如何に窮屈な環境であるかがよく分かると思う。
 規制もこれと同じであり、必要な規制と不必要な規制が混在している。しかし、多くの人は規制の数には信号機の数ほどの関心は無いため、規制の数が生活に与える影響というものをあまり考えようとはしない。
 
 例えば、交通事故が発生する度に、その場所に信号機を設置していけば、どんな生活が待っているだろうか? それはどこに出かけるにも信号機ばかりを気にしなければならない生活であり、信号機のせいで目的地になかなか辿り着けないという極めて不自由で窮屈な生活である。そんな信号機だらけの道路では確かに交通事故は減少するかもしれないが、その安全性と引き換えに多くの自由や快適性を犠牲にしなければならなくなる。

 ビジネス的な視点で観ても、そんな道路では宅配便も時間通りに配達ができなくなるので、宅配料金は上がり、宅配納期も遅くなる。ベタな例えで言えば、宅配ピザの配達も30分以内ではなく1時間以内となり、料金も上がるということである。多くの一般消費者にとって、それが良いことだと言えるだろうか?
 「良いことだ」と胸を張って言えるのは、その信号機を作る仕事を行っている人間だけではないだろうか? 規制もこれと同じで、無駄な規制を作って喜ぶのは、民間人ではなく、お役人だけではないのだろうか?
 
 信号機に必要な信号機と不必要な信号機があるように、規制にも必要な規制と不必要な規制がある。信号機が必要か必要でないかを判断するのが、その道路を実際に利用している一般人であるなら、規制についても、その規制が必要であるか必要でないかを判断するのは民間人であるべきだ。「規制をするべきだ」という民間人からの強い要請でもない限り、なるべく規制などは行わない方がよいということである。
 薬のインターネット販売についても、多くの消費者からの苦情でもない限り、規制を行う必要性は無かったのではないか?と思われるが、消費者の声を無視して勝手に規制が実施された感が強い。別の意味での「消費者の苦情(署名活動)」が有ったにも拘らず、これも都合よく無視されたように思われる。
 
 事業仕分けにも必要な事業と不必要な事業が有ったように、規制仕分けにも必要な規制と不必要な規制がある。そして、必要か不必要かを分ける基準はあくまでも民意に沿わなければならない。そのことを忘れてしまうと、結果的に、規制仕分けは失敗だったということになってしまうだろう。民主党が、正しく民意を掬い上げ、民意に沿う規制の分別ができればよいのだが、果たしてどうなることやら…というのが、率直な感想ではある。
 事業仕分けの場合、少額ながら削減できる金額が分かるものだったが、規制仕分けの場合は、どれだけの金額が削減できるというものではなく、どれだけ経済を効率化できるかという問題である。その規制が存在するために、どれだけ非効率な経済になっているのかということを理解しなければならないということだから、事業仕分け以上に難しい判断を要求される。
 
 しかし、今回の規制仕分けの目玉たる『薬のインターネット販売に関する規制』の成り行きによっては、「民主党はいらない」という民意が出来上がる可能性がある。
 そういう意味では、今回の『規制仕分け』は民主党にとっても非常に危険な賭けだと言えるかもしれない。

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『椅子取りゲーム』と化した就職活動

2010010601 昨今の就職難の影響からか、大学生の就職活動時期は年々早まっており、学生達は未だ卒業の見込みすら立たない時期から就職活動を行わなければならなくなっている。この異常な状況を改善するため、日本経団連は企業説明会の時期を遅らせることで対応しようとしているらしい。

 かつての大学生は4回生になってから就職活動をするのが当たり前だった。真面目に授業に出ている学生であれば、3回生の時点で既に卒業を満たす単位はほぼ修得済みであるため、時間に余裕のある4回生になってから就職活動をするのが当然であったし、それでも充分に間に合った。

 通常、企業の採用試験を受ける時には『成績証明書』と共に『卒業見込証明書』を提出するのが一般的な習わしだったが、現在の大学生は3回生の早い時期から既に就職活動を始めるのが当たり前になっている。そのような状態では大学側としても、『成績証明書』はともかく『卒業見込証明書』まで用意するわけにはいかないだろう。
 学習することが本業であるはずの学生が、就職することに焦るあまり授業そっちのけで就職活動を行っている。この現状を打開するための策が『企業説明会の時期を遅らせる』では少々心許無いと思えるのは私だけだろうか?

 元々、日本の学生の多くは勉学に励むために大学に進学しているのではなく、有利な就職をする(=就職活動を楽にする)ために大学に入学しているというのが本音だと思う。そう考えると、授業などはそっちのけで就職活動を行うのは、ある意味で合理的な行動だと言えなくもない。しかし、“授業の単位を修得すること”よりも“就職の内定を獲得すること”の方が優先されてしまうという現状は、学生としての本分を考えれば、まさに本末転倒な事態だと言える。

 このような本末転倒な事態を迎えてしまった原因は、日本の大学教育そのものにあるとも言える。
 海外の大学は基本的に「入学するのは易しく、卒業するのが難しい」と言われている。しかし、日本の場合はこの逆で、「入学するのが難しく、卒業するのは易しい」…というのは過去の話で、現在では「入学するのは易しく、卒業するのも易しい」というのが日本の一般的な大学の実態である。(一部の大学は除く)

 常識的に考えると、就職するのが難しいのであれば、就職するために勉強するという方向に気持ちを切り替えるのが本来の学生の姿であるべきだと思う。勉学を修めて卒業証書をもらうこと自体に就職するに値する価値が有るのであれば、多くの学生は真剣に授業に取り組むだろう。しかし、入学さえすれば誰もが簡単に卒業証書を手に入れることができるような社会であればどうだろうか? 結果は見ての通りである。

 大学で受講している授業を真剣に学べば就職という活路が見出せるのであれば、学生もそうするはずである。しかし、授業で学ぶことが即、就職に繋がるのは一部の技術系の大学のみであり、多くの文系大学の学生は授業に精を出したところで就職が有利になるようなことはほとんどない。昔であれば、授業の成績が良ければ面接時にも優秀な生徒だと思われて受けが良かったというようなことがあったかもしれないが、現在では『成績証明書』などはほとんど何の効果も無いように思われる。

 現代の多くの学生は、就職するために自らの能力を高めるという努力をせずに、他人よりも早く就職先を見つけることだけに努力しているように見える。『努力する』という方向性が“能力”の高い低いではなく“時間”の早い遅いに向いている。これは言うなれば、実力よりも早い者勝ち競争になってしまっているということであり、言葉を変えれば、ただの椅子取りゲームを行っているということである。
 限られた「就職」という名の椅子を奪うために、授業そっちのけ、ついでに能力もそっちのけで椅子を奪い合う。それが現代の日本の大学生達の姿だと言えば言い過ぎだろうか?
 いずれにせよ、『大学は就職するための能力を身に付ける場所』という表向きの常識(建前)が現代では見事に崩壊してしまっているわけだ。

 こういった事態を招いてしまったのは大学に入学しても勉強しない不真面目な学生だけが悪いのではない。大学に入学さえすれば、半自動的に卒業も就職もできるというような大学のレジャーランド化をそのまま放置してきた日本の教育行政にも大きな責任があると言える。

 企業側から観ても、単に椅子取りゲームで勝つ能力だけに長けた人間よりも、椅子取りゲームなどには見向きもせずに大学で就職に活かせる能力を身に付けた人間をこそ採用したいはずだ。『企業説明会の時期を遅らせる』というようなその場しのぎの対症療法では、多くの学生は浮かばれないままだろう。歪んだ教育の間違った常識自体を変えていかない限り、大学生の悲劇は今後も量産され続けるだろうことは想像に難くない。

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萎縮する日本経済と5000兆円の余剰資金

2011010201 この正月に録画した『朝まで生テレビ!』を観てみた。テーマは『萎縮する日本』ということで、現在の日本の閉塞感の原因はどこにあるのか?ということが論じられており、最終的には日本が萎縮した1番の原因は「メディア」に有るという結論が朧げながらに伝えられていた。
 
 パネラーの池田信夫氏と森永卓郎氏のやり取りには笑えたが、森永氏は「お金を大量に刷ってバラまけばインフレになる」というようなことを述べていた。
 お金を大量に刷ってバラまけばインフレになるというのは、確かにその通りなのだが、それはあくまでも一時的なものである。そして、仮にインフレになったとしても、それが良いことだとは一概には言えない。いつからか日本では《インフレ=好況》《デフレ=不況》という思い込み論が常識化してしまっており、まともなインフレ論、デフレ論はほとんど聞かれない。
 多くの経済学者やエコノミストは「デフレ」を不況と思い込んでいるフシがあり、“デフレから脱することが景気回復”だというような誤った情報を垂れ流して人々をミスリードしているように思われる。
 
 「物価が上がれば景気が良くなる」というのは、100円ショップで売られている商品が200円になったとして、それで景気が良くなったと言っているのと同じようなものである。
 あるいは牛丼が250円から500円に値上がりしたとして、あなたは景気が良くなったと思えるだろうか? おそらく誰も思えないだろう。なぜなら、そこには景気の善し悪しを決める『収入』という概念がスッポリと抜け落ちてしまっているからだ。
 景気(景況感)の善し悪しというのは、物価の高低だけで決定するのではなく、物価に対する収入の高低、つまり物価と収入のバランスで決定されるものだ。物価が2倍になっても収入がそのままであれば、景気は良くなるどころか悪くなる。逆に物価が半分になっても収入がそのままであれば、景気は良くなる。こんなことは小学生でも解る理屈である。
 
 現在の日本で問題なのは“お金が足りないこと”ではなく“お金が動いていないこと”である。何兆円というお金を刷ってバラまかなくても、1400兆円とも言われる個人の金融資産(余剰資産)が有るのだから、そのお金を動かすことができれば、わざわざバラまく必要は無いわけだ。それに、お金を刷ってバラまいても、この余剰資産に加算されるだけでは、全く経済効果は無いということである。
 
 1400兆円というのは、積んでみると、実に14000kmの高さになる。日本の国土の全長が3000kmと考えれば、日本を2往復(4列並ぶ)できるというような途方もない金額である。そんなお金が日本のどこに有るのか不思議に思えるかもしれないが、これは有るか無いか判らない埋蔵金ではなく、現実に有ることが判明している資金である。
 経営コンサルタントの大前研一氏が述べているところでは、世界には4000兆円という行き場のないホームレス・マネーが彷徨っているそうだ。これが本当であれば、合計して5000兆円以上の余剰資金が有るわけだから、そのお金の一部でも市場に引っ張ってくることができれば、尚更、お金を刷ってバラまく必要は無いということになる。
 
 繰り返すが、日本経済の問題点はお金の供給量が足りないということではない。人間の血液に喩えて言い換えると、血液は十二分に有り輸血する必要はないということである。血液が足りないことが問題なのではなく、体内に滞っている血液が動いていないことが問題なのだから、その血液が滞りなく流れるようにすることができれば景気はすぐさま回復するのである。
 しかし、お金とは、需要がなければ動かない。人々がお金を支払ってでも手に入れたいと思えるような新商品や、お金以上に人々の心を酔わせる魅力的なサービスが出てこない限り、不況下にある人々はお金を使おうとはしない。そして、そういった魅力的な商品やサービスを創造するためには、束縛のない自由な環境が必要になる。
 「アレはいけない」「コレはいけない」というような規制だらけの環境では、なかなか魅力的な商品は生まれない。具体的に言えば、「こんにゃくゼリーを1cm以下にしなければならない」というような不自由な環境では、魅力的な商品など創造できるはずがないということである。
 
 もちろん、全く規制がいらないというわけではなく、時と場合によっては必要な規制もある。自由な経済活動の支障となるようなものは規制すればいい(例えば、違法コピー商品の販売など)。
 要は、規制とは自由な経済活動を縛るための規制であってはならないということである。自由な経済活動を邪魔するものだけを規制の対象にすればいいのだが、日本ではそういった区別がほとんど為されておらず、なんでもかんでも規制の対象となってしまっているために、その部分が萎縮してしまい、血液(お金)が正常に流れなくなってしまっているのである。

 人々がお金を使わなくなっている原因は、基本的には先行きの見えない不況にあると思われるが、メディアが必要以上に不況を煽っていることも1つの大きな原因になっていると思う。景気というのはその名の通り“気”のものでもあるので、あまり悲観的なネガティブ報道ばかり行うのは逆効果になってしまうということも併せて考える必要があるかもしれない。そういう意味では、『朝まで生テレビ!』の視聴者アンケートの結果(=メディアが悪い)は正しいと言える。

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