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2011年2月

時間給はタイムイズマネーか?

2011022701 「タイムイズマネー」というベンジャミン・フランクリンの有名な言葉がある。日本語にすると「時は金なり」という意味であり、日本でもよく使用される言葉でもある。
 この言葉を地でいく(?)制度に『時間給制度』というものがある。1時間当たりの労働量を計る基準として、この時間給を採り入れている職種は多岐にわたるが、パートやアルバイトという労働形態は全てこの時間給によって成り立っている。そして正社員の月給制度も細分化して考えると、仕事を時間で計ろうとする考えがその基になっている。その証拠にサラリーマンの残業代や休日出勤代は月給から時給を割り出して計算されている。

 かつての高度経済成長期の日本では、仕事が有り余っているような状態で、常時、労働力が不足しているような有り難い経済情勢であったため、企業はあらゆる職種にこの時間給という制度を採り入れた。
 日本では、時間で計れる職種であろうとなかろうと、職種に関係なく規定就業時間(定時)以降に居残りすれば『残業代』というものが支給されるようになった。しかし、そういった大盤振る舞いができた背景には“定時まで行う仕事量が常時確保されている”という恵まれた時代環境が存在したということを忘れてはならない。

 定時以降に会社に残りさえすれば無条件に超過勤務手当(残業手当)が支給されるような時代では、当然のことながら、サボることによって空残業手当を手に入れようとする輩が大量に生まれた。公務員の空残業などはその良い例である。

 「タイムイズマネー」とは本来、“労働を行うことによって労働時間がお金に変化する”という合理主義的な意味であったにも拘わらず、日本の恵まれた経済環境下では、“職場に居残りさえすれば自動的にお金が手に入る”という都合のよい言葉に変化した。つまり、日本では「タイムイズマネー」という言葉が、“仕事をできるだけ時間内でこなそうという合理主義者”と、“仕事はなるべく時間外でこなそうとする不合理主義者”の双方に意味を為す言葉に変化してしまったということである。
 “お金を得る”という目的を果たすことだけを考える不合理主義者にとっては、仕事をサボることが合理的な手段(?)に成り得た時代だったというわけだ。
 
 本来、仕事量を時間で計るというのは非常に難しいことでもある。実際に、時間で計れる仕事というのはあまり無いのではないだろうか? 例えば、スーパーのレジ打ちのアルバイトにしても、1時間に来店するお客の数が一定ということは有り得ないし、お店によっても大きく違う。人気のあるショップであれば、常時、レジにお客が並んでいるだろうが、ほとんどお客の来ないようなショップであれば、1時間に数人程度しかレジを通らないということもある。しかし、大抵、レジ打ちのアルバイトの時給は一定であり、こなした仕事量ほどの差はない。1時間に100人がレジを通るショップと1時間に10人しかレジを通らないショップが、ほとんど同じ時給なのであれば、結局のところ、“仕事量は時間では計れない”ということになる。しかしそれでも時給が適用されているわけだから、考えてみれば不条理な社会である。
 
 現代のように経済が不安定で、仕事自体が高度化した社会では、仕事量を単純に時間で計るというようなことは不可能に近くなっている。産業革命以前の単純な農作業が主体だったような時代では、人間1人の仕事量を時間で計るということは、ある意味で仕方のない判断基準であったのかもしれないが、仕事が高度化すればするほど、人間1人でこなせる仕事量にも大きな差が発生する。特に知的労働においては、個人の能力差によって仕事量は数倍どころか数十倍になるようなことも十分に有り得る。

 もともと『時間給』というものは、「人間1人が行える仕事量は同一だ」とするマルクスの思想【労働価値説】が基になっている。先にも述べた通り、マルクスの時代であれば、そういう考えも成り立ったのかもしれないが、現代では、このような思想は時代遅れの妄想でしかない。例えば、あなたが勤めている会社で、「1時間当たりに行える仕事量は皆同じです」と言うような人がいるだろうか? 仮に、そのようなことを言う人がいたとして、あなたはその言葉を聞いて納得できるだろうか? おそらく、余程の酔狂な人でない限り、そんな戯言を信じれる人はいないはずである。自分の周りを素直な目で観ることができる人であれば、真面目な人間と不真面目な人間、努力している人間と努力していない人間との間には大きな仕事量の差が有ることに気が付くはずだ。流れ作業的に1人が行う仕事量が絶対的に同じというなら話は別だが、人間がロボットでない限り、仕事量が同一などということは本来有り得ないのである。
 
 仕事量を無理矢理に時間で計ることによって日本の労働市場は大きく歪んでいるものと思われるが、日本では“時間”だけでなく“年齢”で計るという更に有り得ない制度が維持されているため、その弊害は計り知れないものがある。
 
 生産を行う仕事は個人の能力差が有るために時間で仕事量を計ることはできない。しかし皮肉なことに、世の中には別の意味で時間で計れない仕事(事務仕事などの非生産部門)も多々あるため、時間給という制度自体を否定することはできない。
 しかし年齢が上がるだけで仕事量が増え続けるというようなことはまず有り得ない。有り得たとしても、それはある一定の年齢を迎えれば、逆に下がっていくものである。年齢による給料制度というものが成り立つのだとすれば、その収入カーブは右肩上がりではなく、山型になるはずである。こういった無理のある制度が維持されていることによって発生する弊害は時間給のそれの比ではない。
 
 いずれにせよ、過剰な平等思想(時間給)と過剰な儒教思想(年功序列)によって人為的に作り出された制度が日本の労働市場を歪めていることは確かであり、日本経済に与えている悪影響は計り知れない。

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コーヒー豆の高騰と経済音痴の面々

2011021901 投機マネーの流入と新興国における需要の拡大によって、コーヒー豆の国際相場が急騰していることは既に周知の通りだが、先日、テレビを観ていると、司会者が次のようなことを述べていた。
 
 「デフレ不況に苦しんでいる日本にとって、コーヒーの値上がりは大きな問題だ

 おそらく、この司会者は自分が何を言っているのか全く考えていないのだろうと思われる。上記の文章を解り易く翻訳すると次のようになる。
 
 「物価が下がり続けている日本にとって、コーヒーの値上がりは大きな問題だ
 
 こう書くと、如何に矛盾したことを述べているかが分かっていただけると思う。物価が下がっていることが問題だとした上で、物価が上がっていることが問題だと述べているわけだから訳が分からない。コーヒーの値上がりよりも、むしろこの発言の方が大きな問題だとも言える。
 
 先述したことは、自分自身が発言していることが論理破綻していることに気が付いていない良い例だと言えるが、日本ではこの司会者と同レベルのエコノミストも数多い。ハッキリと言ってしまうと、「デフレ不況」などという言葉を安易に使用しているエコノミストはほとんどがそうだと思った方がよいかもしれない。
 日本が不況であるという認識自体は正しいが、デフレだから不況なのではない。需要が不足していることによる消費の減退こそが不況の正体である。その証明として、上記の文章内の「デフレ」という言葉を「消費」という言葉に置き換えてみよう。
 
 「消費不況に苦しんでいる日本にとって、コーヒーの値上がりは大きな問題だ
 
 これなら、綺麗に筋が通っている。消費が減退している時にコーヒーが値上がりすれば、更に消費が減退するという意味で大きな問題になると言うのなら、確かにその通りである。
 
 名ばかりのエコノミストが語る言葉をそのまま聞き流していると、気が付かないうちにコロッと騙されてしまうので注意が必要だ。
 例えば、よく聞かれる台詞に次のようなものがある。

 「不況の時はなるべくお金を遣わないようにしよう

 これもある意味で大きな間違いである。真のエコノミストであれば、「不況の時こそお金を遣わなければならない」と述べるはずである。なぜなら、不況から脱出するために絶対的に必要なことは“お金を遣わないこと”ではなく“お金を遣うこと”であるからだ。不況とお金の関係を単純に2行で表すと次のようになる。
 
 ○景気を良くするために必要なこと・・・お金を遣うこと
 ●景気を悪くするために必要なこと・・・お金を遣わないこと

 たったこれだけのことである。
 
 「不況下でお金を遣わないようにすれば、経済的な意味での自己防衛手段に成り得る」というのは、経済全体を俯瞰したエコノミストの意見というよりは、個人的な思考がベースとなった利己主義者の意見である。実際、不況下で個人がお金を遣わないようになれば、不況はますます悪化する。そのことは現在の日本経済を観ればよく分かるはずである。
 
 確かに不況で先行きが見えない時には誰しも財布の紐は固くなる。それはその通りなのだが、だからといって「お金を遣うな」では何の解決にもならず、事態は悪化するだけだ。
 「お金を遣うな」などと聞くと、どこか真面目な堅いイメージが浮かんでしまうため、《信用のできるエコノミストではないか》と思いがちだが、実はミクロ的な視点しか持ち合わせていない似非エコノミストと言っても過言ではないのである。
 「似非」というのは少し言い過ぎかもしれないが、マクロ経済を理解していないという意味では、紛れも無く似非であり、名ばかりの経済音痴だと言える。
 その点、ホリエモンなどは早い時期から「お金を遣え」というようなことを述べていたので、経済を肌で感じ取れる真っ当なエコノミストだと言えるかもしれない。

 「不況の時はなるべくお金を遣わないようにしよう」と似た言葉に次のような言葉がある。

 「不況の時はなるべくお金を遣わずに貯金しよう

 この言葉を聞いて、あなたはどう思うだろうか? 大抵の人は「正しい」と答えると思う。しかし、この言葉が正論となるためには“お金を預けた金融機関が、そのお金を正しく運用してくれれば”という条件が必要になる。
 個人がお金を遣わずに貯金(=お金を死蔵)したとしても、そのお金を金融機関が代わりに動かしてくれれば経済は活性化する。ただし、その場合でも、お金を必要とする需要がなければ、運用のしようがない。
 金融機関が資金を正しく運用するという必要条件と、資金の需要という前提条件が揃わない限り、不況下の経済を活性化させることはできない。要するに、新たに資金を大量に必要とするような新たな産業の勃興とその新産業への投資こそが不況から脱出するためのキーになるわけだ。

 経済というものは、思考の立脚点を“個人”に置くか“全体”に置くかの違いで、全く逆の答えが導き出される。個人として観れば、お金を遣わないことが“”であったとしても、全体として観れば、お金を遣わないことは“”になってしまうことがある。【合成の誤謬】

 一般人なら思考の立脚点を“個人”に置くのは仕方がないとしても、エコノミストと名乗る者が一般人と同じように“個人”に重きを置いていたのでは話にならない。“個人としての最小幸福”ではなく“全体としての最大幸福”を考えるのが本来のエコノミストの使命であるはずだからだ。言わば、「最大多数の最大幸福」思考である。

 現代の日本は、一国の総理大臣ともあろう者が「最小不幸社会」などという後ろ向きな言葉をスローガンに掲げているトンデモ国家だが、せめて、エコノミストは「最大幸福社会」を見据えた思考を目指すべきだろう。政治家だけでなく、経済の専門家たるエコノミストまでが経済音痴では誰を信じていいのか分からなくなってしまう。
 現在の不況の原因が解らないタイプの人間のことを「経済音痴」と呼ぶとすれば、「デフレ不況」などという言葉を多用して日本経済の状況を説明しようなどというエコノミストはまさしく経済音痴である。
 
 日本が本当にデフレ不況なのであれば、デフレを嫌うエコノミスト達はコーヒーの値段が上がれば喜ばなければならないはずだが、誰も喜んでおらず、逆に「コーヒーの値上がりは大問題だ」と述べている。「投機によって物価が上がるのは問題だ」と言うのであればまだ理解できるが、そういうわけでもなさそうだ。物価が下がろうが上がろうが問題だと言うのであれば、それは「解」のない答えを永遠に探し求めているようなものである。

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建前社会から生まれた八百長問題

2011020901 国技である大相撲の八百長問題が大きな波紋となり、春場所も60数年ぶりに中止になるらしくマスコミでも大きく取り上げられている。

 これまで何度も八百長の噂が絶えなかった相撲界だが、ついに来たるべき時が訪れたというところだろうか。どこか検察の事件と似ているような気もするが、結局のところ、相撲もプロレスと同様、『ショービジネス』だったということが証明されたということなのだろう。
 もっとも、全てが八百長だとは思わないが、純粋な実力を競うのではなく“お客を楽しませる”とか“お金儲け”という目的を優先すれば八百長ビジネスが花開く可能性は常に存在していたということだろう。
 私は相撲には興味がないので、相撲が真剣勝負であろうとショービジネスであろうと個人的には全く困らないのだが、熱烈な相撲ファンにとっては裏切られた気持ちで一杯なのかもしれない。

 プロレスにしても相撲にしても、鍛え上げられた人間が本気で殴り合いなどを行えば、怪我人が続出し、時には死人も出るかもしれない。しかし毎度毎度、怪我人が出ていたのでは商売自体が成り立たなくなってしまう。そう考えれば、相撲もプロレスと同様、半分は見せ物としてのエンターテインメントビジネスであることはむしろ当然のことであると思われるし、そんな環境では八百長があったとしても何ら不思議ではないように思える。

 今回の八百長問題でもマスコミは「膿(うみ)を出さなければならない」とか「大相撲崩壊の危機」などと言って相撲界の改革をほのめかしてはいるが、政治と同様、その言葉自体がどこまで本気なのか疑った方がよいかもしれない。本気で膿を出すのであれば、相撲は怪我人続出の危険なスポーツになってしまい、国技館が古代ローマのコロッセオのような野蛮な闘技場と化してしまうかもしれない。力士が本気で張り手を決める度に客席に血の雨が降ることになってしまえば、もはや「国技」などとは言っていられなくなる。

 今朝のテレビで伝えられていたところによると、元々、相撲は野蛮なスポーツだと思われていたらしく、明治時代には一時、禁止されかけたこともあったらしい。当時の相撲取りはイメージアップのためにボランティアのようなことを行い、廃業の難を逃れたそうだが、現代の相撲取り達は一体どうやって失った信用を取り戻すつもりなのだろうか?

 4年前にも見習い力士へのリンチ問題(致死事件)が取り沙汰されたことがあるが、ああいった問題が起こるところを見ても、相撲界というものが厳格な徒弟社会であることは容易に想像がついてしまう。上下関係に厳格な融通の利かない閉ざされた社会であるがゆえに、あのような陰湿なリンチ問題が発生するわけだ。

 少し経済的な面も指摘しておくと、収入の面でも幕下は年収100万円以下で、別のアルバイトでもしないと生活できないような状態であるらしい。そんな経済状態であれば、別の副業(=八百長相撲)で収入を得ようと考える力士が出てくるのも、ある意味で止むを得ないのかもしれない。
 「それが実力社会だ」と言ってしまえばそれまでだが、本当に実力社会なのであれば、なぜ徒弟制度などという実力と関係のない時代遅れなシステムが頑に維持されているのかが解らない。

 相撲界で八百長が存在するのは、先に述べたような経済的な事情もあるだろうが、根本的な問題点はまた別にあるのではないかと思われる。相撲界で不祥事が相次ぐのは、力士の実力以外の価値に重きを置き、またそういったことが通用する社会であるところにこそ問題があると思える。その社会とはズバリ、建前に重きを置いた『建前社会』である。

 『建前社会』というのは、別に相撲界だけでなく、日本の官庁から大企業、はては家庭に至るまで、あらゆる所に根を張っている融通の利かない不自由な閉ざされた社会のことであり、またの名を『事勿れ主義社会』とも言う。

 物事の本質を考えようともせず、見せ掛けの体裁を取り繕うだけで済んでしまう歪んだ社会が齎す弊害は殊の外、大きい。
 例えば、かつての秋葉原無差別殺傷事件にしても、つい最近、事件の発生したホコテンの通行が解禁されたが、犯人が逮捕されているにも拘わらず、未だに《秋葉原は危険だ》と言ってパトロールを行っている。同じようなことを真似る愉快犯が出現する可能性は有るのかもしれないが、秋葉原の歩行者天国だけが危険というのはどう考えてもおかしい。危険なのは“犯罪者”であって“秋葉原”ではない。そして犯罪者が秋葉原で事件を起こさなければならない合理的な理由などはない。そんなことは誰にでも分かると思うのだが、建前のみを重んじる社会では、事件を起こした犯人(内面)だけはなく、事件が発生した場所(表面)も問題視される。しかし、こういったロジックは、犯人が捕まっていない場合であれば成り立つだろうが、犯人が逮捕されているのであれば本来は成り立たないはずである。

 心理的に犯罪現場を歩くのは恐いというのは理解できるし、犠牲者の慰霊の意味も込めて立ち入り禁止にするのも理解できる。しかし《秋葉原は危険だ》という表面的な誤った認識が罷り通ってしまう世の中というのはどこかおかしい。そのおかしい部分に目を向けずに思考を停止し、ただひたすら《秋葉原は危険だ》とするのが建前社会の姿である。

 少し話が相撲界から脱線してしまったが、今回の大相撲の八百長問題も最終的には事件の謝罪と一定期間の活動停止という体裁だけ取り繕って有耶無耶となってしまうような気がする。実際、名のある相撲取りにとっては春場所が中止になっても痛くも痒くもないらしい(固定の給料が支払われるため)。

 建前社会の象徴たる日本の年金制度や年功序列制度などのねずみ講制度と同様、今回の八百長事件も物事の本質は追求せずに「人の噂も七十五日」という諺通りに、ほとぼりが冷めればまた元通りの建前社会に戻ってしまうのかもしれない。
 「相撲を応援していたのに騙された。金輪際、相撲なんか観ないぞ!」と息巻いている人がいたとしても、半年もすればケロッと忘れてしまい、またテレビにかじり付いて八百長相撲を観戦しているのではないかと思う。
 それが建前を重んじる建前社会主義国家日本の良いところ(?)でもあり、悪いところでもあるが、建前社会を良しとしている国民が大多数を占めている限り、建前社会で勝ち越すのは相撲取りだということである。

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