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コーヒー豆の高騰と経済音痴の面々

2011021901 投機マネーの流入と新興国における需要の拡大によって、コーヒー豆の国際相場が急騰していることは既に周知の通りだが、先日、テレビを観ていると、司会者が次のようなことを述べていた。
 
 「デフレ不況に苦しんでいる日本にとって、コーヒーの値上がりは大きな問題だ

 おそらく、この司会者は自分が何を言っているのか全く考えていないのだろうと思われる。上記の文章を解り易く翻訳すると次のようになる。
 
 「物価が下がり続けている日本にとって、コーヒーの値上がりは大きな問題だ
 
 こう書くと、如何に矛盾したことを述べているかが分かっていただけると思う。物価が下がっていることが問題だとした上で、物価が上がっていることが問題だと述べているわけだから訳が分からない。コーヒーの値上がりよりも、むしろこの発言の方が大きな問題だとも言える。
 
 先述したことは、自分自身が発言していることが論理破綻していることに気が付いていない良い例だと言えるが、日本ではこの司会者と同レベルのエコノミストも数多い。ハッキリと言ってしまうと、「デフレ不況」などという言葉を安易に使用しているエコノミストはほとんどがそうだと思った方がよいかもしれない。
 日本が不況であるという認識自体は正しいが、デフレだから不況なのではない。需要が不足していることによる消費の減退こそが不況の正体である。その証明として、上記の文章内の「デフレ」という言葉を「消費」という言葉に置き換えてみよう。
 
 「消費不況に苦しんでいる日本にとって、コーヒーの値上がりは大きな問題だ
 
 これなら、綺麗に筋が通っている。消費が減退している時にコーヒーが値上がりすれば、更に消費が減退するという意味で大きな問題になると言うのなら、確かにその通りである。
 
 名ばかりのエコノミストが語る言葉をそのまま聞き流していると、気が付かないうちにコロッと騙されてしまうので注意が必要だ。
 例えば、よく聞かれる台詞に次のようなものがある。

 「不況の時はなるべくお金を遣わないようにしよう

 これもある意味で大きな間違いである。真のエコノミストであれば、「不況の時こそお金を遣わなければならない」と述べるはずである。なぜなら、不況から脱出するために絶対的に必要なことは“お金を遣わないこと”ではなく“お金を遣うこと”であるからだ。不況とお金の関係を単純に2行で表すと次のようになる。
 
 ○景気を良くするために必要なこと・・・お金を遣うこと
 ●景気を悪くするために必要なこと・・・お金を遣わないこと

 たったこれだけのことである。
 
 「不況下でお金を遣わないようにすれば、経済的な意味での自己防衛手段に成り得る」というのは、経済全体を俯瞰したエコノミストの意見というよりは、個人的な思考がベースとなった利己主義者の意見である。実際、不況下で個人がお金を遣わないようになれば、不況はますます悪化する。そのことは現在の日本経済を観ればよく分かるはずである。
 
 確かに不況で先行きが見えない時には誰しも財布の紐は固くなる。それはその通りなのだが、だからといって「お金を遣うな」では何の解決にもならず、事態は悪化するだけだ。
 「お金を遣うな」などと聞くと、どこか真面目な堅いイメージが浮かんでしまうため、《信用のできるエコノミストではないか》と思いがちだが、実はミクロ的な視点しか持ち合わせていない似非エコノミストと言っても過言ではないのである。
 「似非」というのは少し言い過ぎかもしれないが、マクロ経済を理解していないという意味では、紛れも無く似非であり、名ばかりの経済音痴だと言える。
 その点、ホリエモンなどは早い時期から「お金を遣え」というようなことを述べていたので、経済を肌で感じ取れる真っ当なエコノミストだと言えるかもしれない。

 「不況の時はなるべくお金を遣わないようにしよう」と似た言葉に次のような言葉がある。

 「不況の時はなるべくお金を遣わずに貯金しよう

 この言葉を聞いて、あなたはどう思うだろうか? 大抵の人は「正しい」と答えると思う。しかし、この言葉が正論となるためには“お金を預けた金融機関が、そのお金を正しく運用してくれれば”という条件が必要になる。
 個人がお金を遣わずに貯金(=お金を死蔵)したとしても、そのお金を金融機関が代わりに動かしてくれれば経済は活性化する。ただし、その場合でも、お金を必要とする需要がなければ、運用のしようがない。
 金融機関が資金を正しく運用するという必要条件と、資金の需要という前提条件が揃わない限り、不況下の経済を活性化させることはできない。要するに、新たに資金を大量に必要とするような新たな産業の勃興とその新産業への投資こそが不況から脱出するためのキーになるわけだ。

 経済というものは、思考の立脚点を“個人”に置くか“全体”に置くかの違いで、全く逆の答えが導き出される。個人として観れば、お金を遣わないことが“”であったとしても、全体として観れば、お金を遣わないことは“”になってしまうことがある。【合成の誤謬】

 一般人なら思考の立脚点を“個人”に置くのは仕方がないとしても、エコノミストと名乗る者が一般人と同じように“個人”に重きを置いていたのでは話にならない。“個人としての最小幸福”ではなく“全体としての最大幸福”を考えるのが本来のエコノミストの使命であるはずだからだ。言わば、「最大多数の最大幸福」思考である。

 現代の日本は、一国の総理大臣ともあろう者が「最小不幸社会」などという後ろ向きな言葉をスローガンに掲げているトンデモ国家だが、せめて、エコノミストは「最大幸福社会」を見据えた思考を目指すべきだろう。政治家だけでなく、経済の専門家たるエコノミストまでが経済音痴では誰を信じていいのか分からなくなってしまう。
 現在の不況の原因が解らないタイプの人間のことを「経済音痴」と呼ぶとすれば、「デフレ不況」などという言葉を多用して日本経済の状況を説明しようなどというエコノミストはまさしく経済音痴である。
 
 日本が本当にデフレ不況なのであれば、デフレを嫌うエコノミスト達はコーヒーの値段が上がれば喜ばなければならないはずだが、誰も喜んでおらず、逆に「コーヒーの値上がりは大問題だ」と述べている。「投機によって物価が上がるのは問題だ」と言うのであればまだ理解できるが、そういうわけでもなさそうだ。物価が下がろうが上がろうが問題だと言うのであれば、それは「解」のない答えを永遠に探し求めているようなものである。

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